大人になってわかったグリーン・ノウ

L・M・ボストンのグリーン・ノウ物語は、子どもの頃には既に出版されていた。
イギリスのファンタジーが好きだった私にとっては、評論社の趣たっぷりなすてきな挿絵の、この物語は読んでみたい作品だった。
中学に入ってから読み始めてみたのだが、私には最後まで行きつくことが出来なかった。
大好きだったナルニア国物語のように明快ではなく、またE・ファージョンのように抒情性があるわけでもない。ピアスの「トムは真夜中の庭で」のようにドラマが際立っているのでもない。
まあ、歯が立たなかったわけだ。

でも、心のどこかに「読めなかったなあ。」という挫折感めいた痛みを持ち続けていたのかもしれない。
司書の仕事につくようになって、私はその学校の蔵書にこのシリーズがなければ置くようにした。
学校にひとりでもいい、出会ってくれる子がいたらそれで幸せだと思って。

でも、相変わらず自分は読んでいなかった。

ところが神様は、私にこの本を手に取るようにやはり思っておられるのか。
今の学校でもグリーン・ノウを揃えた私に、ある日子どもが「どんな本?」と聞いてきた。
あらすじなんて言えるのだ。読んでなくても。
でも、それでは情けないよな…といよいよ思え、ついに何十年ぶりに読み始めたのだった。


それは、しみじみと心に沁みてくる物語だった。
人生の厳しさや切なさ、生きることの悲しみが、オールドノウ夫人から伝わってくる。
それでいてあたたかい気持ちになるのは、老女となった夫人が空想の翼を手放さずにしっかり持っているからだ。
少年トーリーが膨大な時間をかけて、すこしずつグリーン・ノウのお屋敷に馴染み、何百年も前にかつてそこで暮らした子どもたちと出会う過程を丁寧に描いている。(その子たちは、トーリーの遠い祖先なのである)
少しずつ、ゆっくりと読み進めないと味わえない物語で、まして読む者がその機微を感じられないと楽しめないのは当たり前のことだったのだ。

つまり、私はやっと読むにふさわしい入り口に、この年にして立ったということなのだった。

でも、出会えて(再会して)うれしかった。

それ以来、子どもたちに紹介するときは「先生は、一回挫折してずっと読めなかったんだよ。」という話からすることにしている。
そして、不思議なことにいまの学校でグリーン・ノウは、過去最高の貸出率なのである。

私は、いつも言う。
「わからなくてもあせらなくていいよ。何年かしてまた、読めばいいよ。それよりも、じっくりゆっくり読む本だよ。」と。

ただいま、2巻を読み終えたところ。
まだあると思うと、喜びがわき起こってくるんだなあ。