「塵は塵に、灰は灰に」

渋谷の山下書店が四月に閉店した。

学生の頃山下書店で、田村マリオの『社会不適合者の穴』を買って読んで、わくわくした。漫画のわくわくした記憶と、本屋の棚で本と出合った記憶はリンクしている。高校のころから、たまにではあるけれども利用していた書店が閉まるのは寂しいことだ。

 青山ブックセンターの六本木店も、来月閉まる。結構利用していた、というか立ち読みばかりだけれど、一度復活して、その後再び閉店してしまうというのは、満身創痍という感もあり、妙な感慨深さに襲われた。

 本は、本当に売れないのだなあと、分かり切ったことを実感する。本を読まなくなった、と言われて久しい。その分別のメディア、コンテンツで文章を消費する頻度は増えたのかもしれないが、そういったものは「消費される」ことを念頭において作られている為、文章ではあっても本とは性格が違うように思える。

 本は、実用書的なものではないとしたら、大げさな言い方ではあるが、作者の信念に虚妄に付き合う羽目になる。他者との対話、或いは独白を聞くというのは結構なエネルギーがいるものだ。それが作り出す側でなくて、受け手であっても。

 でも、その面倒くささが、物語の、信念の、小宇宙の、小箱の快楽というものが確かにあって、それは本という媒体に対するフェティッシュにも通じる感がある。

 本はゲームに出てくる「魔導書」のような物だ。現実世界ではただの人間が、思想にアクセスできるなんて! まるで魔法みたいだ! 今となってはスマホ、PCの魔法がみんなのお気に入りなのだろうけれど、本の持つ魔力というのはネット上の文章とは違った宝石のようなものだ。

 そういった原石、宝石が展示されている場所が書店、図書館であって、アレクサンドリア図書館やバベルの図書館のごとき酩酊を、割と簡単に現代人は味わうことが出来る。
 
 人によってはそれがPCなのかもしれないが、俺にとっての情報の展示場は、書店であり図書館だった。様々な、読み切れない本が無数にあるということは、時には俺をうんざりさせ、また、わくわくさせてくれた。

 俺の狭い家は本が山積みになっていて、時折雪崩を起こしてしまう。

 でも、これでも随分減らした。本を読む人は皆、余程のお金持ちでない限りその置き場所に困ってしまうだろう。好きなものに囲まれる生活、といえば聞こえはいいが、二度とは読まないかもしれない本に執着したまま過ごすのは難しいことに気づかされる。

 ボロボロの、愛着のある衣服を着続ける生活をしていると、ある時ふと、目が覚めてしまう。あんなに楽しませてもらったものだとしても、ずっと手元に置いておくわけにはいかない。

 だからこそ書店は、図書館は自分にとってのもう一つの書斎、書架という側面もあった。新しいものに、慣れた言葉に出会える予感。言葉を手にできる喜び。

 書店が町から消えるということは、自分の中の記憶や執着から切り離される体験に似ている。単純に、見知った街の景色が変わるということは、何らかの感慨を覚えたりするけれども、書店には沢山の本があって、それに触れた記憶がなくなった書店とも結びついているのだ。

 記憶や執着とはつまり、その人の生命に通じていて、自分でも少しびっくりしたが、十数年前から利用していた場所の閉店で、俺は喪失感に襲われていた。

 お店の代わりはある。正直、買った本より立ち読みで利用した方が多い罰当たりな(普通の?)客でしかない。それなのに哀しい。申し訳ないような諦念のような、感情を感傷を持て余している。

 俺にとって書店とはロマンチックな場所だということだ。簡単に誰かの何かのロマンスにアクセスできる場所だということだ。

 そういった自分への慰めが、インターネットでの「雑記」の「タイピング」というのは皮肉な気もするのだが、これはこれで丁度いいようにも思える。

 「塵は塵に、灰は灰に」

 生きるには多くの場合お金とロマンスが必要だ。お金は無いが、ロマンスは未だ欲しいと思う。