凡庸で緩慢な自死

抗不安剤と躁鬱の薬を飲んで寝たきり、返せない借金に怯えて、たまにどうにかして肉体労働。でも、身体も頭も言うことをきかない。仕事の予定を入れるのも怖くなって、夜も寝られなかったり三時とかに起きてしまったり

こんな惨めな事をずっと繰り返し書いている。でも、もう少し突っ込んだことを書こうと思う

 初めてなりたいと思ったのは、画家だった。でも、自分には写実的に描く才能も美大に行く金もないし、早々に諦め、普通の大学に行った。映画もアパレルもバンドも興味があった。大好きだった。若い俺には目に見える物は色んな物がキラキラしてみえた。世界には知らない物が沢山あって、沢山俺は感動して、わくわくしてたまらなかった。

 でも、俺はいじめられっ子で、恐ろしいことに幼稚園小学校中学校高校と苛められた経験がある。軽いのからそうでないのまであったが、集団行動というものがどうしても苦手で怖くて仕方が無くなってしまった。

 そんな俺でもできる創作行為、一人で出来てあまりお金もかからないこと、小説を書くこと。

 今みたいにスマホが普及していない時代に学生だった俺は、学校をさぼって時間つぶしの手段は読書だった。お金が無いから、岩波や新潮の100円で投げ売りされている世界の文豪の本を片っ端から読んだ。

「読んだ」ことと「理解する」ことには大きな隔たりがある。でも、ガキなりに小説を読むというレッスンをずっと続けていたのだと思う。

 若い頃から小説家で食べていけないのは理解していた。しかもマジで大好きなのがジャン・ジュネ川端康成ユルスナールアルベール・カミュサルトル’(小説)という数十年前に生まれた人か?というラインナップ。でも、俺は彼らの乱暴で繊細で突き放した視線で描かれる物語が大好きだった。

 ずっと、小説を書いていた。色々応募はしたけれど、結果はあまりふるうわなかった。というか、文芸誌自体を読んでいなかった。古い人らの作品の方が好きだったから。

 文学賞に応募した作品は、他の賞に応募してはいけないというきまりがあるらしい。だから、俺のnoteにアップされている作品は何年も前に落ちた(雑誌を読んでいないから、落ちたかどうかは分からないけれど、連絡が来ないと言うのはそういうことなのだろう)ものをアップしたものばかり。

 ずっと続けていて、自分では良く書けたと思っていても、誰かにそうではないと評価されたら、まあそういうことなのだ

 それでもいいと思っていた。でも、俺はもうすぐ40になる。それなのに、メンタルの病気は悪化して、おまけに年収以上の借金をかかえてしまった。

 本当に、愚かな末路だなと思う。思いっきり仕事を頑張れば、巻き返せないことはないだろう。でも、病気と薬の副作用で年々仕事が続けられなくなったし、年齢ではじかれることも多くなった。

 肉体労働も、休みは薬飲んで寝たきりになってしまって体力低下で厳しくなってきている。

 そろそろ自殺しようかと、わりと本格的に考え始めてきてきた。
前々からある思い、でもそれがどんどん強くなってきている。

 ごくまれに、褒めてくれる人もいた。少しだけ、交流もあった。俺の個人的な、「俺にとっては」面白い小説たち。

 次の構想はあるけれど、それよりも支払いの恐怖と働けないという事実でメンタルがいかれてしまった。俺も拳銃があったら大好きなゴッホ展を見た後自殺したのに。こんな中学生みたいな文章を書く位、追い詰められて、文章を書かないから精神的にも貧弱になってきてしまっている。

 生活を立て直すのは困難だ。恥ではあるが、死にたい、ということだけでもこの場所に残しておくのもまだ気晴らしになるかもしれない。

 ずっと、神様が、超越的な存在がいて欲しいなって思っていた。でも、自分は無神論者なのでそれを感じることはできなかった。でも、信仰に似た何かを求めていた。それらを小説の中で、現実にはいなさそうな傲慢で輝かしくて繊細でびくびくした人たちに託した。そして、俺以外誰にも看取られずに、ひっそりと埋葬していった。

 物語の登場人物たちに役割を与えて、埋葬する。それが俺の生きる為のリハビリテーションだった。でも、疲れた。

 借金は、俺の能力では返せないかもしれない。それにもし返せたとしても何年後だろう。その時、俺はもう、本当に駄目になっているんだと思う。

 十年近く使っている、ずっと小説を書いているパソコンも最近色んなエラーやガタがきまくっている。十年も使えば故障寸前も当然だ。

 今は、生きている。でも、数ヶ月後は、数日後は壊れてしまうかもしれない。それを買い替える金もない。薬を飲んんで過眠か寝るか、役に立たない日雇いおじさんとして怯えて吐き気をこらえながら現場に行くだけ(薬を飲むと眠気が酷いのであまり飲めない)

 こんなに悲惨な末路だなんて。ギャンブルと躁鬱と孤独で、俺は自分の人生を壊した。正確が真逆な兄にお金の相談をしたら、自業自得とか色々いわれたし、まあ、そう言われても仕方がないとも思う。

 でも、俺は美術とか小説好きだった。

 けどさ、疲れた。少し前にも似たようなことを書いていて、恥ずかしい。誰かの素晴らしい作品についてずっとひとりごとをいっていたのに、最後は緩やかな自殺についての凡庸な記録になってしまった。

 まだ、死んではいない。でも、今も涙が止まらなくて、明日の電車に飛び込みたい、けどさ、人身事故ってスゲー迷惑だよね。俺も遅刻したら時給惹かれるっておびえてた。そう言うのじゃない方法がいいな。

 好きって言葉、口に出すといいと思うからもう一度、俺、自分の小説が好きです。

great3のライブで救われるんだよ俺

やっと受かった仕事だった。でも、薬を飲みながらでは、無理だった。副作用の眠気と集中力低下。それと戦いながら、毎日速さと正確さを求められる、という煽りを受けてメンタルがやばくなっていくのを感じた。

 週五勤務で、帰宅後気づいたら寝ていて数時間経過していたというのが四回あった。目が覚めたのも一時とか三時とか、シャワーを浴びれずに出勤したこともあった。

 一応、及第点というか、そこまで悪い成績ではないにせよ、ずっと正確さと速さを求められ記録され口に出されるというのが俺の性格と合わな過ぎた。

 って、俺に向いている仕事なんてない。分ってる。俺のメンタルがやばいのと努力忍耐不足。でも、頭おかしくなるなら、辞めるしかない。

 こんな生活、大学卒業してから十数年続けていて、最近諦めと希死念慮が強くなってきた。頑張っても、先はどんどん暗く悪くなるだけ。選択肢も狭まって、無気力になって、終わるのかな。

 そんな中、無職でどうせ家で薬飲んで寝てるだけのはずだったのに、great3のライブのチケットをとっていたのだ。本当なら、一か月仕事頑張った記念で行くつもりだったのに、仕事は一か月も持たなかった。

 日本一好きなバンドのライブなのに、気力がわかない。けれど、せっかくのチケットを無駄にするわけにはいかない。色々な雑念を抑え込み、渋谷へ。

 ライブハウスの前には沢山の人が並んでいた。ライブチケットの予約は速攻でしたはずだけど、番号は182。俺は最前列が好きだし目が悪いしアキトの顔見たかったから、この番号だと厳しいなあと思った。

 でも、始まる前なのに、great3を好きな人がこんなにいるんだという当たり前の事実に、何だかわくわくしてきたのだ。今日時間を共にするが言葉を交わすことが無い人達。でも、俺の大好きなバンドを彼らも大好きなんだ。それだけで嬉しくなる。

 番号が呼ばれ、ドリンク代は払うが交換はどうでも良かった。早いですよーとスタッフが言ったペットボトルのお茶にして、急いで会場へ。すると、結構前の方に位置をとれた。もっと後ろと言うか、真ん中あたりかもと思っていたから驚きと共に、ほっとした。

 普段は色んな人と同じ空間でじっとしているのがとても苦痛だが、今日は平気だった。

 そしてライブがはじまった。

 最初の曲は 崖 だった。今回のエデン特急という題名からも分かる通り、ライブは初期の曲が多かった。で、崖を聞いていたら、すーっと高校の頃買った彼らのアルバムの感動がそのまま蘇ってきた。

 彼らは、彼らの演奏は若々しく力強かった。それにアキトの甘いボーカルが乗って、やっぱり最高のバンドだと思った。ライブハウスに全く詳しくないけれど、音響もとても良かったと思う。特に賢ちゃんのドラムが響いてぞくぞくした。

 以下、ツイッターでメモしてくれた方のセトリ。


マイクロマシーン
TAXI
玉突き
OH BABY
GOLF
モナリザ
LAST  SONG
SUMMER'S GONE
RUBY
METAL LUNHBOX
エデン特急

穴と月
STAR TOURS

アンコール
愛の関係
LITTLE Jの嘆き

もう、好きな曲だらけでどうしようかと思ったし、TAXIのサイケっぽいアレンジも最高だなーって思っていたらOH BABYまた聞けて(数か月前のコットンクラブでのリストと被るの多かったけど)すごく良かった。

 昔の恋も チョコレートでも 君が好きな物は 皆嫌いだ

 って歌って様になるのは片寄明人位では??? って感じだよ。甘くて不器用で必死でかっこ悪いのに、ほんと愛おしい。

で、大好きなGOLFが今回も聞けて気持ちよくって、コットンクラブの時よりチップチューン強めピコピコ感強かった。というか、全体的に曲が激しく力強くて、何十年もやってるバンドとは思えない攻めたスタイルがかっこよかった。

LAST  SONG
SUMMER'S GONEで、なんかすごくセンチメンタルな気分になって、初期のアキトの詞は甘くって、大好きで、少し気恥ずかしくなる位だけど、今もそれを歌いこなせるのはさすがだなあとうっとりしていたら、次に流れたのは、RUBY

前回のコットンクラブではアンコールで流れて、俺は違う回だったから聞けなかったのだ。

もしかしたらgreat3の中でも一番好きかもしれない曲が流れ出して、頭が一瞬真白になった。曲が流れたばかりなのに、「終わらないで」と思ってしまった。

 感動する、というかぼんやりしてしまった。でも、流石にさび近くで我に返る。アキトが 

 愛の回路 心から血が 流れ出して止まらない

 愛さないで 流れ出して止まらない

 って歌ってるんだ。もう、本当に幸福だった。RUBYは、大好きだったgreat3を大好きから日本で一番好きなバンドにしたきっかけの曲だった。ジョン・マッケンタイアも超好きなのだが、彼がプロデュースした、RUBYが収録されているアルバムは、本当に全日本人に聞いて欲しい位クオリティが高く甘く身を切るような痛みに満ちた最高のアルバムだ。

 
次のMETAL LUNHBOXで、元々高かったお客さんのテンションも最高潮になった。手を上げ声を上げ、会場が揺れているのを感じた。ああ、みんな彼らが大好きなんだ、大好きでここにいるんだなあと思って一人感動しながら俺も高く手を上げた。

 STAR TOURSが終わり、やっとアキトが少しずつ話し出した。以下、うろ覚えや記憶違いとかあると思うので、あくまで俺の主観とか入っていることに注意して読んで欲しい。

アキトは楽しそうだったし、たのしんでるー?って言ってた。こんなにお客さん来てくれて嬉しいって。この年になると自分のことで頑張ろうなんて気は起きないけど、喜んでくれる人がいるなら頑張ろうかなって言ってくれていた

 そんで、数年前の愛の関係のライブの時も言っていたんだけど、毎回これが最後のライブかもって思ってやっているんだって今回も言っていた。

 それだけ、ギリギリの戦いをしているんだって思う。それだけ真剣で、本人にしか分からない葛藤があるんだと思う。でも、それでもステージに立つ彼は輝かしく、カッコ良いのだ。

 アンコールは愛の関係で、曲も盛り上がりも最高! 終わった後アキトがこの歌詞良いですよねー 明日死ぬかも(言葉は違うが、確率として、誰かとは、もう会えないかもしれない的なニュアンス)しれないし、とか口にしていた。

 それはネガティブと言うよりも諸行無常な、当たり前の話をしていて、口調は軽かったが、そこに真剣さを感じた。会えないかもしれないできないかもしれない、だからこそ真剣にやる。真面目で繊細な彼らしい言葉だった。

 あと、今回会場に来ている人は色々な生活があって中には大変な人もいるかもしれないけれど、来てくれてありがとう 的な事を口にしていた

 俺じゃん。と思ったけど、アキトが俺のことを知っているわけがないの位理解している。ギリギリ、ガケ、崖っぷちにいる人も沢山。一見幸せそうな人も見るからにヤバい人もそれぞれの辛さを内に抱えて、死に向かって歩いているんだ。

 でもアキトは楽しそうに「音楽っていいですね」って笑って口にしていた。本当だよ。アキトの音楽で、生きる力を貰えている人がいるんだ。俺以外も沢山。

アンコールのラストはLITTLE Jの嘆き

甘くて切なくって、キャッチーなメロディ。50を過ぎたアキトが若々しく歌えるのに、胸が熱くなった。アキトは俺も大好きなチェット・ベイカーが大好きだって言っていて、甘くて危ういボーカルの魅力について語っていたけど、俺にとっては二人共同じだ。甘くて危うくて最高だ。

 一時間半のライブが終わり、忘れていた満足感というものに包まれていた。暗い沼の中に俺はいて抜け出せないけれど、今いる場所をフラットに見ているような気がした。

 初めて渋谷に来た時。高校生になってgreat3のアルバムを買って、片っ端から買い揃えていた時。世界は知らないものばかりで沢山欲しくって、自分も何かの手段で誰かと友達になれたり、お金がもらえる物だと思っていた。まあ、そういうのが駄目でも、どうにかなるって思っていた。

 でも、40近くなり、もう、その空元気は通用しなくなってきた。病状の悪化、落ちる面接。書き続けて投稿して、自分ではいいと思っても評価されない小説。人とのつながりも難しくなってきていた。

 そろそろかなあ、俺、傍から見たらただの怠け者だけどさ、美術とか好きなことに関しては真剣だったんだ。自分でその点については自信を持って頑張ったって言える。

だから、もういいかな。自分で死に方を選びたいな。

 そういう希死念慮と諦めが年々強くなっていて、処方箋は眠気を強くするばかりだった。新しい物、すごい物あるのはわかるよ、でも、俺が大好きな作品、昔の死んだ人の作品ばかり愛しすぎて、もう、満足してしまったんだ。

 そんな甘ったれた沼の中の俺。

 今日のライブを体験してもう少し頑張らなきゃなって思った。大好きな映画や小説とかを見ている時に、たまに自分の書きたい小説やシーンが(今見ているものとリンクした内容ではない)ばーっと頭に浮かぶことがある。

 それだけ俺が集中力が無いというか注意力散漫なのだが、今日もそれがあった。それって、俺にとってはとても最高の時間だ。好きな物に刺激を受けて自分の中の物語が動き出す。

 だからありがとうgreat3 ヤン けんちゃん アキト

 ありがとう。俺が好きな人は、傷口をひけらかさないけれど、きっと傷口を持っていてその中に死を孕んでる。そして、幸福が好きだ。

 俺は死や不安や不幸に依存しすぎて、幸福に目を向けなきゃな。そんなのだけに依存するのはかっこ悪い。

 かっこいい人がいるから、俺もかっこよくなろうって思えるよ。

 この魔法は数日で切れるかもしれない。音楽を聞いている三分間だけ聞いている処方箋みたく。でも、魔法をかけてくれる人たちのことを思うと、俺は生きなきゃって思うんだ。

夢の続きをいつまでも

夢を見た。悪くない夢だった。少年と青年が森の中を歩いている。少年はどうやら前を歩く青年と友人らしいのだが、信用ならないというか、密かに警戒心を抱いているらしかった。でも、前を歩く青年が立ち止り指さした先には花々が咲いていて、その指先の桜貝色と木漏れ日を受けた顔の晴れやかさを目にして、それはとても鮮やかな光景で少年の警戒心が溶ける、所で目が覚めた。

 指先の桜貝色はともかく、花が咲いているのを見せるのに、次の映像(描写)木漏れ日が見える(木漏れれ日が見れているなら光と葉っぱの影とかしか見られないのでは?)、というのはおかしい。まあ、夢なんだから何でもありなんだけれども、夢から覚めた俺はその映像の続きが見たい、作りたいと思ってしまったのだ

 若い頃、映画監督とかデザイナーとかモデルとかミュージシャンとかなりたい職業は色々あった。結果として小説を書き続けているのは、一人で出来るからだ。なんともめんどくさがりで消極的な理由だろうか。色んな芸術や表現が好きだけれど、俺は皆で何かをする、ということができなかった。

 とはいえ生きていくには一人きりでは成り立たない。仕事をするにも楽しむにも孤独をうめるにも、集団行動は必要だ。でも、俺はそれがとても苦手で何度も駄目にして、苦戦してどうにかしがみついての繰り返し。人間関係で苦労しない人はいないにしても、酷い有様だなあと歳をとるにつれて身体の中に澱がたまっていくのを感じていた。
 
 俺はもう、駄目なのかなって、希死念慮も強くなり、身体も精神も駄目になってきて、大切な大切な、他人から見たらゴミだらけの部屋を少しずつ整理して、売れる物は売り始め、捨てられる物は捨てた。それでもなお家には物が沢山あるけれど。

 欲しいものが無くなってしまった。というか、俺には手に入らないのだと思った。そうしたら、俺は何を目標に生きて行けばいいのだろうか。仕事は不安定でもう若くない。頑張らねばという空元気と、楽になりたい気持ちの間で揺れ、処方箋で眠り続けるとかギャンブルに逃げるとかそういう洗濯ばかりを続けていたけれど、惨めな末路だなあと我ながら他人事のように感じていた。終わりはゆっくりと近づいてきていて、まだあきらめていない諦めていないにせよ、腐りかけの精神と身体を見ないようにして生きるのか。

 なんて思いが頭に住んでいた。でも、小説を書こうと思ったら余計な雑念が消えた。ずっと書くことから逃げていた。毎日書かなきゃ書けなかったと自分を責め、構想はスマホにメモしていて、しかし形にはならない。

 というかある程度精神の余裕がないと小説は書けない。ずっと、ボロボロのまま。でもさ、この先もボロボロのままだよ、それを理由に書かないで終わるのか、やだなって思った。

 久しぶりにワードを起動した。そうしたら、見たこともないエラーが表示されて、慌てて検索すると、オフィス2013のワードに不具合が出ている、らしい。俺のパソコン十年選手だよ。色々ガタが来ているけどよく頑張ってくれた。でも、金が無いんだ。いつまで君は頑張れるのかな?

 なんて思っていたが、ワードが使えないのでは小説は書けない(書こうと思えばできるけど)。色々しらべて、どうやら修復は不可能で一度オフィスをアンインストールしてから再度インストールをしてプロダクトコードをにゅうりょくすればいける、らしい。

 でもプロダクトコード書いた紙、どこにある? それにパソコンに詳しくないのだが、なんかそのライセンス?が一度しか使えないとか書かれているんだけど……

 とりあえず部屋中を探して2013オフィスのプロダクトコードの書いてあるカードを運良く発見し、試みた。パソコンは詳しくないのでスマホでやり方を見ながら半信半疑。オフィス2013の32ビットを64ビットにしなければならないらしい。知らないよそんなこと!! 今までずっと仕えていたのに。

 俺の理解力が足りていないのか、使用できないという説明とかもサイトによって微妙に解決やらの仕方が異なる。とにかく、そのコードを入れてみるしかない。

 結果、直った。調べたら64ビットのオフィスになっている、っぽかった。

 実は数日前電源の表示が点滅するようになって、流石に電源おかしくなったら買い替えるしかないと思っていた。

 満身創痍。でもなんとかなった。

 久しぶりにワードで小説を思ったまま書き散らした。細かい設定は考えていないけれど、一応ラストは頭にあった。俺はラストさえ決められたら、そこに向けて物語を作り上げていけるので、乱雑でもとりあえずは書き進められるのだ。

 楽しかった。久しぶりに自由で我儘で傲慢な人間を書けた。愛や欲望や美しさ、俺が見えなくなったものを信じている渇望している軽んじている蔑んでいる人々。そういう人を書きたい。

 そういうのを、俺も求めて生きていきたいんだ。

 身体や頭がいかれて、おまけに借金があって若くなくても、小説を書いただけで精神が少しまともになるのを感じた。その位俺の感情の起伏は極端で沼の中で這いずり回っていた。今も

 誰かの欲望を書くには、自分の中のそれを多少なりとも引きずり出す必要があると思う。

 ああ、俺は多分人や物を憎んだり愛したり傷つけたり優しくしたりしたいんだなあできるんだなあと思った。実際は徒花でしかない物語、俺の為の他者には求められない小説だとしても、それでもそれを書いて作り上げて、埋葬できるなら、俺は自分の人生、まあ、悪くないかもって思えるんだ。

 一人で作り上げた世界を、一人で終わらせる。埋葬人生。孤独なリハビリ人生。もっと楽しくてまともなのがよかったけれど、俺にはこんな生き方楽しみかたしかできないんだろう。

 ノートパソコンの電源ランプが点滅しているのに気づいた。怖い。

でも、小説が書けるならまだ生きているって狂っていないってことだよなそうだろ?

徒花人生

新しい仕事がはじまった。覚えることがとても多いという注意を受けていたが、かなり参ってしまって、毎日辞めるかどうか考えていた。五日勤務中、帰宅後四日間も気づいたら寝落ちしていた。

 腐りきった身体と頭にはきつい。でも、今の所を辞めても行く場所は無し、支払いは待ってくれない。頑張らねば頑張らねばと思いながら踏みとどまっている。

 まあ、薬飲みながらだけど、なんとか本や映画を見られるようになってきた。でも、ずっと焦っている。何も小説が書けていない。書きたい物語はある。でも小説を書くには、精神の安定と共に自分自身の自己肯定感が大切だと思う。

 俺が作る話、それに出てくる登場人物は俺とイコールではないにせよ、傲慢、狡猾、情緒不安定、自信過剰、愛情過多、そういう人物像を「作り上げる」或いは「演じる」には自分もそれなりにテンションと気分が高ぶってないとできない。俺ってダメ人間、なんて拗ねた気持ちじゃあ作り出せない人物像はある(そういう登場人物だけが求められる物語ならそれはそれでよいけれど)

 気持ち悪い言葉だが、自分を好きになるということが制作には大切だ。俺は、持て余しているというか、よく分からない。恐ろしいことに。それに感情の波に自分自身でついていっていないのと、金欠と生活の不安から色んなやりたいことを抑えている。

 でも、やりたいこと少しずつやっていかなきゃな。最近それなりに映画を見ているが、見るだけでも少しずつ精神が回復している気がしている。映画の中の豊かな世界、かりそめの偽りの二時間以下の輝かしい幻。

 そういうの、俺も作っていきたいな。

雑記、感想

ダグラス・サーク監督『風と共に散る』また見る。石油会社の社員と道楽者の若社長は親友。若社長は美人秘書をものにする。主人公は親友のために恋心を諦める。若社長のの妹は主人公が昔から好きで、叶わぬ恋のために大きな嘘をついてしまい……

正直、ストーリーはあんまり好きではないし、登場人物が(俺にとっては)あんまり魅力的ではない人ばかりできつい。にもかかわらず感動してしまう、サークの凄さ!相変わらずの構図の美しさ。ご都合主義的メロドラマに引き込まれる。主人公のロック・ハドソンは、見た目はカッコいいけど、わりと

冴えないというか、やるときはやるけどメロドラマの主人公としては魅力に欠ける気がしないでもない。とはいえ、男前だがあんまり演技も上手くない(と思った)のが役柄にハマりまくり。若社長の迫真の破滅ッぷりとは対照的でこれはこれで良いのかも。この内容を90分台に収めてるのもすごい!

酒井抱一 誹諧と絵画の織りなす抒情』読む。大名家で生まれながら市井で生涯を終えた抱一。彼の作品と歴史を誹諧を通して紐解く一冊。抱一が傾倒していた其角について、前に少し目にしたかな位の俺にとってはかなり難解な箇所も多かった。しかし、琳派の中でも派手で煌びやかとは少し違う

立ち位置であることを丁寧に説明してくれている。出家しているのも知らなかった。墨梅図、と言う作品においては、琳派に特徴的なたらし込みではなく文人画を彷彿とさせる筆致を重ねた墨絵で表現。かつて光琳の『風神雷神図屏風』の裏に表装されていた抱一の代表作『夏秋草図屏風』について詳しく解説

華やかな金の琳派、というよりも銀の枝垂れる野性の草木というアプローチは琳派という枠でくくれない物悲しさと広大さを感じられる。不勉強でちゃんと本書を理解していない面も多いが、抱一の魅力に触れられる良書。カラーページに小さくある白蓮図、大好き過ぎる。

ジャン・ルノワール監督ジャン・ギャバン主演『フレンチ・カンカン』また見る。幸福な映画。ルノワールは人々の生々しい動きを捉えるのがとても上手いので、乱闘やダンスのシーンが本当に魅力的で目の前でショーがくり広げられているような迫力がある。多くの登場人物が恋をするのに、

結ばれずに終わる。

ラストでヒロインがギャバンに裏切られてもう出ない!

俺は客を喜ばせるのが仕事で、辞めるなら優秀な演者を失ったという意味で残念

やっぱり踊る!踊るの大好き!恋をしましょう!

の流れが映像の素晴らしさと共に、フランス映画の恋と無常さと幸福といった魅力つまっていて大好き

オクトパストラベラー2ようやくクリアした。1がとても面白かったが、一からさらにパワーアップしていて大満足。三でたら是非やりたい。最近はコンシューマゲームほとんどやらなくなったけど、こういうスーファミおじさん世代に刺さりまくるスクウェア黄金時代rpg本当に好き。

以下ネタバレ含む雑な感想 

 最初は一の方がキャラはいいなーと思っていたが、ソローネとキャスティがとても良かった。

親を知らずに殺しを教わってきたソローネ。でも組織を抜け出し「ファザー」と「マザー」を殺して自由になってみたい。という流れなのだが、ファーザーとのやりとりはとても良かった。それだけにラストは少しがっかりかも。ファンタジーだから長命の存在がいても普通だけどね。生臭い人間ドラマの中に不死に近いのが出てきたのでどうかなと思ってしまった。

 逆にキャスティは最初は謎解きにそこまで興味が無かったのだが、エイル薬師団という自分が組織していた薬師団は何? というのを導いてくれていた人物が命の恩人であり団員で、彼らを「固有コマンド」で、自らの手で(プレイヤーがそのコマンドを入力して)眠らせるというのはぐっときた。ゲーム的な演出としてすごく好きだし優れていると思う。

 ストーリーに介入しているような気分にさせてくれるし、キャスティの「眠らせる」という固有コマンドはあまり使わないのだが、ここでつかうのかーとぐっときた。そういう意味ではパルテティオのラストの買い取るも良かった。暗いストーリーが多いので、パルテティオの物語は商人奮闘記!って感じのエンタメで良かった

最初はオズバルドで初めて、最初はわくわくしたのだが、それ以降は想定内過ぎる内容で、楽しめたしキャラ的にも好きだが、強い感銘は受けなかった。

逆にテメノスは皮肉屋の石田彰ボイスかよ、と最初は小食気味だったのだが(石田彰の声も演技も好きだが、石田彰なら謎の口が上手いキャラでしょ、みたいなのをアニメに詳しくない自分でも何度か目にしてしまったので)、あるキャラの死から少しずつ彼自身も変わっていって、最後の一枚絵はお墓の前ってのも切なくて良かった。

あと、1よりかなり戦闘が簡単になっていた。1だと雑魚敵ですら少し強いのと戦うと全滅したし何度も全滅した、が、今回はニ三回全滅だけ拍子抜けした。まあ、それでもこの位が丁度いいバランスかも。

物語としては1のプリムロゼのが悲劇の復讐劇って感じで一番好きだった。でも、2は遊びやすさもストーリーもパワーアップ。感想を書きたくなるゲームなんて久しぶりだった。ゲーム、やってかないとなー。俺の好きな昔のコマンドRPGとか死にかけだけども

めっちゃ面白いゲームが終わった後の虚しさと充実感って、なんか久しぶりに味わったな。ゲームって何十時間も自分で操作するから、ゲームやりまくってると、いつしか終わりが怖くなる。でも、新しいゲームやらなきゃ、ゲームの乾きは癒されない。たぶん。

映画『トップ・ハット』見る。アステア&ロジャースのラブコメミュージカル。ストーリーに何も言うことはないけど、久しぶりに二人のダンスを見て、上手すぎて目が釘付けになる。オリンピックとか見ないのに、何故か映画の彼らのダンスは上手くて素敵で感動してしまうのだ。

不思議なのは、俺はフィギュアスケートとか舞台のダンスとか、特に興味が無いし生で見たら違うのかもしれないが、映画だと、物によってはめっちゃくちゃ感動してしまうのだ。何でだろう。編集で美味しい所だけ(シーンだけなら)数分で収めているから?(俺は集中力がとてもないので)

『作家の食卓』読む。様々な作家の好んだ料理や店等と本人の作品も紹介。コロナ・ブックスのシリーズで、写真がすごくセンスが良い。器とか小物にもこだわっている。個人的には永井荷風森茉莉のエピソードが微笑ましさと物悲しさを感じる。単に好きな作家だからか。宇野千代とか檀一雄とかは

食べることへの幸福さが伝わってくる。作家の小さなエピソードによって、色んな想像、空想がわく。物を食べるって幸福なこと。そんな当たり前なことをそうかなあ考えてしまうのは、俺が微妙な状態だからか。

朝の満員電車で心が腐っている。セロニアス・モンク聞きながらぼんやりしていたら、近くの人の腕にダリアらしきタトゥーが入っていていいなって思った。いつもどこでも花を。

研修始まったばかりで腐った脳みそに講義の中身が入らない。ここを首になって、どこにいくのか。行くところはない。 theピーズが脳ミソが邪魔だって歌ってる。正しい。正しくなくても荒々しいロックは気持ちが良い

『かわいい こわい おもしろい 長沢芦雪』また読む。わりと薄い本だけど、芦雪の魅力たっぷり紹介されていて何度読んでも楽しい一冊。彼は円山応挙の弟子で、写実的なのもかけるし、ユーモラスなのも一筆書きのスピードがあるのもデフォルメしたのも恐ろしいのも何でもかける。ここまで

芸達者というか、様々なスタイルを試みてやってのけた日本画家ってとても少なくて貴重だと思う。美術館で虎図を見てからずっと彼のファンだ。見飽きないかわいさ、迫力。45歳という若さで亡くなったそうだが、もっと生きたら彼は他にどんな物を残しただろうか。彼の作品をもっと見たいな。

メンタルグラグラで、帰宅。ルーリードの声が優しい。ヘ口インをきめているひとはみんな優しい、わけはないがルー・リードは優しい、かもしれない。まあ、声と音楽良ければそれでよし!単純な世界幸福な世界!

デレク・ジャーマン監督『エンジェリック・カンヴァセーション』また見る。映画というよりは、イメージの断片をシェイクスピアソネットの朗読とけだるく心地良い音楽で楽しむ感じ。彷徨う男、濡れる男、重なる男、タトゥーがある男を他の男が洗礼しているようなシーンが好き。休日に見るのにピッタリ

デレク・ジャーマンの映画ぼんやりみていたら、フィリップ・ガレルの映画をまた見たくなってきていて、(ニコの影響下、出演してるやつ)見なきゃ。でもさ、そういう映画とか音楽見たり聞いたりしてたら勤労意欲ゼロに近くなるの、俺だけ?元からか?。労働は悪。なんにせよ悪に惹かれる定め(は?)

 薬飲んで寝るかギャンブルという屑生活よりかは、仕事で苦しんでいる方がまだ健全なのか。世知辛い(は?)。

いつおかしくなるのか分からない、のをいつも俺は怖がっていて、それといつも作品を書けていない描けていないと自分を責め続けている。これを止めるには誰かの作品にふれる、そして作るしかない。徒花人生も40近くになるとさすがにきつい。ドライフラワーというよりも腐りかけの花。でも、それだって花は花だ。だろ?

いつまでもメロドラマの中にはいられない

九月から新しい仕事が始まる。厳しいという説明は受けているし更新は一ヵ月ごとだし、不安しかない。それに八月は20日位までひたすら薬を飲んで寝るだけという堕落した生活を送っていた。

 さいきんやっと頭が回るようになり、音楽やら映画やら本やらを消費できるようになってきたが、その分焦燥も強い。

 鬱で動けなくて時間を無駄にして、躁や不安でギャンブルに熱中して人生を駄目にする。

 この愚かな生活からどうしても抜け出せない。でも、やることをやるしかない。もう、若くはない。空元気を出してやっていくのも限界がある。やらねばならないことは山積みで途方に暮れるけれど、少しずつ片づけなければ。

サントリー美術館『虫めづる日本の人々』見る。草花を描いた絵は数あれど、俺は今まで虫に注目したことはなかった。よく見れば草木に多くの虫が描かれている、のだが古すぎる絵画を硝子越しに見ると俺の視力ではかなり分かりにくい。レンズで見ている人もチラホラいた

背景の一部と言った立場から脱してきたのは、町人文化が盛んになった江戸時代あたりからのようだ。貴族やらの季節を感じる役割、吉祥図案としてよりも、身近な存在として描かれている。あまり本展には関係ないが酒井抱一朝顔図』が良かった。垂れる蔓の構図も人工的な朝顔の青もとても良かった

サントリー美術館は広々としていて、薄暗い照明(明るい場所は明るい)等雰囲気にも気づかっていて、行くたびに気分がリフレッシュできる。

 俺は画家の生の画の力、マチエール、筆致、印刷ではつぶれてしまう色合いや筆遣い等を見に美術館に行っていると思う。だから、古すぎる画だと、状態が悪いし俺は目が悪いしあまりよく分からないのもちほら。あと、絵巻物や書の類も、書いている人の個性、作家性がよくわからないものがちらほら。なので、今回の展示は数百年前の作品よりかは、江戸あたりの作品方が楽しめる物が多かった。

 匿名性が強いというか、アカデミックな立派な画もそうだし、当時としてはきちんと描かれている作品(史料価値が高い、或いは作品の写実性やクオリティが高い)よりも、誰かの、画家の作品が見たいなあといつも思っている。

雑記。

超久しぶりにCD借りて、適当に選んだマガジンという80年代に出したアルバムがベルベットっぽくてとても良かった。調べたら俺の感想と同じくそういう評価で一部で大人気らしい。そんなのばかり、十代からずっと好き。年とって駄目になってるのに、心を揺さぶるのは同じけだるさ。哀しくて少しだけ嬉しい

 パンクニューウェイヴエレポップサイケオルタナ音響派 とかそういうの、高校の頃からずっと好き。今も好き。歳だけは取って、昔の素晴らしい曲を聞いて虚しさと心地良さが沸き上がることがある。でも、彼らの音楽は乱暴でエモーショナルで優しい。

『地獄絵』読む。地獄の紹介と、人間界においても 不浄、苦、無常により苦しみは終わらず悟りの道を歩むしかないと『往生要集』は説いているそう。一番上の天道の天人にもやがて五衰が訪れ、天道以外に転生しないことを願うしかないとか。悟りにより輪廻転生から脱せないとそれは続く、という教え

様々な国の宗教が死の恐ろしさやそこからの解放、救いを説いているのは面白いなあと思う。ちなみに、多苦悩処では男色をした者が落ち、かつて関係を持った相手が現れるが、それを見ると身体が焼かれるように熱くなり、近づいて抱きしめると灼熱の炎に包まれて死ぬ。

生き返ると相手から逃げるが、崖から落ちて猛獣に食い尽くされる。 そうです。ビーエルの題材にいいと思った俺は、衆合地獄(盗み、邪淫に墜ちた亡者が墜ちる地獄)行きかもしれません。生まれ変わりは信じてないので、現世ではなるべく楽しもうと思います。

『イラストで読む印象派の画家たち』読む。その名の通りの本で、知ってることも多いのだが、イラストや作品紹介が多くて分かりやすくて良い。モネに屋外での絵を教えたのがブーダンって知らなかった。後モネが亡くなりその黒い柩に、クレマンソーがモネに黒はダメだと花柄のカーテンかけたとか、泣ける

 若い頃は軽んじていた印象派なのに、今はその良さがすんなりと身に染みてきた。というか、ゴッホが前よりももっともっと好きになってきた。俺も彼みたいな油絵具で厚塗りしたいなあ。金の関係で無理かな。

数年ぶりにサーティワン買ったら、袋にドライアイス入れてくれた。 超テンション上がって家の花瓶に水入れてぶっ込んだら煙超出てすごいぜ! でも、床水浸しになっていて慌ててタオルでふいた。数分でブクブク弱くなった。悲しい。ずっとブクブクしてほしい。

映画『悪魔の美しさ』見る。ゲーテファウストを下敷きに、ルネ・クレール監督が映画化。老教授に悪魔が誘惑をして、それに乗って若く美しい若者になるファウスト。金を作り上げ成り上がるが……フランス映画らしきロマンス民衆の反逆純粋な魂の勝利!といった王道展開なのに見ていて飽きないのは

監督の力量に拠る所が大きいと思う。悪魔がいなくなったファウストの姿になって現れて契約を迫るという流れが自然でうまい。テンポ良く進むし、構図も堅実で見ていて安心感がある。文芸映画としても娯楽映画としても良くできているなーと一々その上手さに楽しませて貰った。

ダグラス・サーク監督『自由の旋風』また見る。ストーリーサッパリ忘れてるのに、映像の美しさで記憶が蘇る。1916年アイルランド、地下組織の独立運動が行われていた。主人公は血気盛んな若者で、奪った金を活動資金にしようとして、追われる身になる。その際独立運動の闘士と知り合いになる

彼は賭博場を経営しており、その勝ち気な娘と惹かれあい、補佐役として成り上がるが…… 実際の史実を元にしているからか、話は生臭く、ラストで主人公は脱獄には成功したが、その際に死んだということになっている。だから追っ手から逃れ、かりそめの平穏が訪れた(革命成功とかいうラストではない)

話はラストまでみると多少は突っ込み所のあるテンポの良いご都合主義的な物もあるのだが、そんなの全く気にしないでいい、美しいロケーション、衣裳、構図!勝ち気な娘が主人公に惚れたのを父に告白したら、破天荒な父のくせに反対して、それに平穏な男なんて嫌と言って笑い抱きしめ合うシーンが好き

本当にメロドラマの巨匠という名に相応しい、素晴らしい監督、映画。独立運動やらの知識が無くても最後まで見られるのは、めちゃくちゃ構図が美しいから。画面の中で人が動いているのが感動的なのだ。映画ってこういうことだって感じる。サークの映画は『悲しみは空の彼方に』位しかストーリー

として大好き!というのはないのだが、それでも見てしまう、見て感動してしまうのは、美しいから。絵画の構図のようなシーンの連続は、飽き性の俺を画面に釘付けにするのだ。

 あまりにも素晴らしい映画を見て、自分の人生のスカスカっぷりに自己嫌悪がわいた。俺は、誰にも求められず読まれない小説をあといくつかけるだろうか?(小説自体は書きたいのが二作品ほどある)

 頭や身体が駄目になってきていて、働くのも難しい(一応できるが)となると、色々と諦めねばならないとか単にやる気が出ない。お薬を飲むと、大抵躁や不安は抑えられるけれど、やる気、創作意欲や感受性がなくなる。

そうまでしていきたいのかなって、十数年何度も自問自答しつつ、日々を溶かしている。

 でも、今の俺にできることは誰かの作品を見ること。そして、何かを作ることができたら。

大丈夫。大丈夫だって言って

一応多額の借金は返済した。だからといって、巨大なマイナスがなくなっただけで状況は悪いままだった。

薬飲んで頭回らなくてだるくて、ずっとギャンブルがやりたい、逃げ道がそれしかない生活。

その上、一応六月七月はそれなりに働いていたのに、複数の日雇いなどからの仕事がぱったりとなくなり、新しい所に応募するもうまくいかず、寝て日々を溶かす。

 新しい派遣の仕事は9月から。色々と厳しい所で一か月更新。自分に務まるかは分からないけれど、やるしかない。でも、モチベーションが無い。やりたいことすきなことって何だったっけ。

そんな風に八月を腐らせていて、15日を過ぎたころ、ようやくなにかしなければと、えを描いた。中断していたアクリルでのらくがき、しかも半年ぶり。

 俺は美術が好きで、上手い人のを見まくっていたが十代で「写実的な画が描けない」という理由で画を諦めた。代わりに小説を書くようになったが、画をかくこと自体は好きだったはずなのに、しかし描くことはなかった。諦めて、そのまま十数年が過ぎた。上手い人のを見まくっているから自分の下手な画が許せない。

そんな言い訳をして描いてなかった画。半年ぶりのアクリル画

画像

半年ぶりの素人画にしては、まあいいのではないかなと思えた。勿論細部の雑さやらは酷いのだけれど、画を描く楽しみを思い出した。それに、十数回アクリル画を描いて、それ以外全く画を描いていないのに下手なりに上達しているのも感じた。

 やらなきゃな。病気に甘えているんじゃなくて、少しずつやりたいことをして行かなくっちゃ。

 俺ももうすぐ40身体も精神もガタがきている。まともな会社員も小説とかで少しの金を得ることもできなかった。その日暮らしの躁鬱病者。いつ駄目になるか分からない。もっと危機感を持ってやるべきこと、片づけて行かなくっちゃ。

 とはいえ一進一退。全てがよくなることなんてなくって、相変わらず色んな不安と戦いながら、でも、少しだけ日常を取り戻している。

 映画も半年以上ぶりに見ることができた。不安が酷くてじっとしていられない。だから90分程度のわりと楽に見られそうなのをいくつかレンタルした。

映画『処刑の島』見る。少年時代にうけた復讐の為、20年ぶりに島に戻った主人公がとる行動とは……話の筋は単純だけど、後半に詰め込みすぎな感じが。でも映像は良くて撮影宮川一夫。久しぶりに見る映像のチョイスがこれかいと思うけど、きちんと作られていて楽しく見られてよかった。

マルセル・カルネ監督ジャン・ギャバン主演『港のマリー』見る。おじさんが若い奔放な女の子に振り回されて、とか言う説明文だけど、実際はそうでもなかった。男女のよくある恋の話。なのにモノクロの船町も気の利いた台詞の応酬もとても良くて、古き良きフランス映画って感じで良かった。

小西康陽がプロデュースした、夏木マリの歌、港のマリーの元ネタだから、いつかこの映画見ようと思って早十数年笑。ようやくみたよ笑。 夏木マリの歌も最高に良くって、映画の内容とは違うけど、そこがまた良い。奔放で不幸で美しい歌の中のマリーも、映画の若いのに大人びてカワイイマリーも美しい

 モノクロの映画を見ると、何だかわくわくするのだ。映画と言えばモノクロ、とトリュフォーも言っていた。別世界の出来事のような感動。それは黒と白の単純な光と影が物語る映像だからだろうか。情報量が多い映画よりも、モノクロの映画の方が美しいと思ってしまうことがあるのはなぜだろう。

 初期のモノクロの映画は画質が悪いとか映画として洗練されていないとか、いろいろ問題がある物も多い。それでも、久しぶりにモノクロのフランス映画を見て、ああ、好きだなこういうのって思えて良かった。

大金をかけた、センスのある、ありきたりな話。

俺とは別の世界の物語。一時間半で現実へと突き放される。それでも、映画は美しい。少し虚しく切なくて、そういうのが自分は好きなんだ。

 少しずつ、何かしなければと思い、六本木のサントリー美術館に行った。そしたらまさかの休刊日!!!

 頭がくらくらしたが、覚悟を決めて六本木から歩いて恵比寿の山種美術館へ!! 貧乏人は歩くしかない。というか、歩きながらgreat3をずっと聞いていて、体力的にはへとへとだけど、それはそれで楽しかった。

 ずっと歩き続けていて、何時間もgreat3聞いてた。今更だけど、夏の曲多いなー。切なくてソウルフルな彼らの曲と夏の終わりは相性よくって、メロウ。

 彼らが九月にライブをやると知って驚き嬉しくって、それと同時にお金をどうしようかと思った。

大好きなバンドのライブを見るのに、金の心配をした自分が情けなかった。でも、働けないかもしれないし、支払いがヤバくなるかもしれない。

 色んな不安をこじらせこねくり回していたが、数か月前のコットンクラブでの彼らのライブは本当に良かった。rubyが聞けなかったのだけは残念だったが、 golfがとても切なくって片寄明人の甘い声とキーボードの電子音が合わさって夢の世界だった。比喩だけど、比喩じゃない。その位気持ちよかった。元々好きな曲だけど、さらに好きになったし、大好きな片寄明人が今も歌ってくれていたことに感謝した。

どうか、プロでもそうでなくても、何かを作っている人はやめないで。休んでしまっても仕方ない。でも、続けるのって一番難しくって素晴らしいことだ。休んで、またその楽しさを思い出して。

 山種美術館日本画に挑んだ精鋭たち』見る。明治以降、西洋画という大きな存在に対峙する作品たちの展示。速水御舟の白芙蓉のみ写真可能。実物は金の花粉が花弁を覆っていてとても繊細で美しかった。日本画はやはり実物見なきゃなーと思った。

他には前も見た上村松園の牡丹雪はやはりとても良くて、柴田是真という画家は知らなかったが、ユーモラスな蛙や波に千鳥という漆絵が良かった。中でも一番は横山大観の『波上群鶴』という小品。一対の小さな襖の作品で、小さな鶴、淡く揺らめく美しい海の青と白。それでいて地の部分の面積が一番広いというのが、広大な印象を与えていてとても良かった。

空間の使い方が本当に上手い。日本画の省略と細密さは美術館で生で見なければと思わせてくれる。輪郭線を伴わない技法は朦朧体として当時とても批判されていたらしいが、良い作品は必ず惹きつける強さも持ち合わせていると思う。

 山種美術館は何度も行っているからわりと好きな同じ作品を見たり興味が無いのもあったりとかもありつつ、行ったら必ずよかったなあって思える。

美術館って、美術ってそういうものだよなって思ったらとても素敵な事だって思えた。

 俺、まだ書きたい小説あるんだ。金にならないし時間と精神を削るからできるか分からないけれど、やらなきゃ、というかやりたい。小説を書くことだけは十数年続けてきた。美術を好きということは、素直に好きだよって言える。

 素直になれるって素敵な事だ。普段の生活は、繕ってへらへらして、薬を飲んでいるだけのしけたおっさん。でも、創作の世界なら、誰かの作品に触れている時は違う。それが錯覚でも徒花でも。大丈夫。大丈夫だって言って俺に。

これから

日々、ぐらぐらしている。日雇いしか受からない自分では、返せない位の借金返済。病気の悪化。作品も作れないし本すら読めない。

多分人生の中でも一番最低な状況で、這い上がろうとできるのか、やけになって終わらせるのか自分でも分からない。

 こういったつぶやきを繰り返すのも無様だし意味がないと思う。

 でも、何も意味がないと思うよりかは、今の感情を吐き出す方がましだと思った。

 自分語りの前に、ゴダール自死について。

 彼が自死安楽死を選んだという一報を聞いた時に、とても驚いた。あのパワフルで才気あふれるエゴイストが自死を選ぶ? どういうことなのか。
本人しか知り得ない、分からないことだけれど、知らせを聞いてからずっとそのことが引っかかっていた。

 その後、友人とされる人の丁寧で真剣なインタヴューを目にする機会があった。それによると、ゴダールは最後まで自分の力で様々な生活や創作をしようとしていたけれど、病気や年齢で身体が思い通りにはいかなくなった末の決断だったということだ。

 その誠実な記事は見返したくなくって、うろ覚えではあるがこういう内容だったはずだ。映画が大好きであんなに沢山の刺激的で挑発的でクールでキュートな作品を作ってきた人が、映画を作れない、日常生活を送れなくなったとしたら?

 自殺を選ぶのは、単純な理由ではないと思う。幾つもの要素が重なって、自分で選んでしまったり、まるでアクションゲームで穴に落ちるように消えてしまうのだ。弱っている時は判断力も鈍っているし、前向きなことを考える力もなくなっている気がする。周囲のサポートや金銭的な余裕がないとしたら。そう、昨日まで、数週間前まで普通に暮らしているように見えた人だって、世界中で静かにさっていく人たちがいる。

 ゴダールの死について。俺は彼の映画を何十本も見ていてDVDも買っていて、高校の時にたまたまレンタルで『男性・女性』を見てからずっとファンで、彼の多くを知っているなんてとても言えないけれど、でも、大好きだった。彼の作品が、彼の新作が見られると言うのは大きな喜びだった。

 彼の作品は残る。彼の作品を見返せばきっと発見が快感が喜びがある。でも、彼がいないのは悲しい。

 俺は学生の頃は虐められっ子だった。幼稚園小学校高校と苛められた経験があって、人付き合いが苦手だった。苦手というか、人の顔色を窺ってしまう癖がついていた。仲が良い友達がいたこともある。でも、性格や大きな声やでかい身長が悪目立ちするのか、大人数でいると何かの標的になることが多かった。

 小さい頃からずっと、心配ばかりしていた。もし、〇〇ならどうしよう。

 不安は消えないどころか、別の形で現実になりまた「もしも」を考えてしまう。出口は無い、できることがあるなら逃げることだけだと思った。高校は不登校で卒業日数ギリギリでどうにか卒業できた。卒業証書は遅れて取りに行って、公園で一人で火をつけて燃やした。

 こんなことしてだっせえなあ、と当時から思っていた。ライターの火をつけた卒業証書はあっという間に黒く変色して、風がカスをさらっていった。アルバムも燃やそうとしたけれど、火のつきが悪くできなくて、ゴミ箱に捨てた。

 高校の頃、アルバイトをして初めて自分の好きな物を買うことができた。それまでは自分の好きな物を言うというのがものすごく恥ずかしいことだと思っていたし、家では好きな物を買ってもらった記憶がない。愛情が無いという訳ではないが、厳しい家だったと思う。

 でも、お金があったら色々なことができた。一枚の中古CDでも洋服でも、買って自分の物にすることは大きな喜びだった。とはいえ、学校をさぼるけれど金が無いし当時はスマホもユーチューブもないし、百円で買った文庫本を読み漁っていた。今では退屈で読みたくないような新潮や岩波の文学作品を安いという理由で片っ端から読んだ。有名な作品はわりかし読んだと思う。本が友達だったし、時間と不安をうめてくれたから。

 きちんと本の内容を理解していたとは思えない。しかしその時の体験が自分の血肉になっていった。世界には様々な人がいて様々な考えをしている。それに優劣はない。こんな単純なことを理解するのに必要なのは、俺にとっては読書の経験だった。

大学に入って小さな期待があった。もしかしたら美術や文学の話ができる友達ができるかもしれない。

 その願いは一応かなったが、すぐに壊れた。

 大学の映画サークルでゴダールがートリュフォーがー勅使河原宏がーと語った時の微妙な空気を今も覚えている。飲み会で映画に関わっているという人に会った時、自分の好きな映画の話を控えめにしたら、「お前は駄目だ」と言われた。

 ある人にとっては、ゴダールはインテリぶったかっこつけ(が理解できていないのに好きなふりをする)映画らしかった。そんあことないのにね。

 そのほか、文学でも美術でも音楽でも、俺が色んなのを好きだと言う度に空気が止まった。何度もその経験を重ねる度、俺は自分の好きな物を言わなくなった。

 大学に入って、メンタルがおかしくなった。詳しいことは今は書きたくないが、色々とあってメンタルクリニックに通い躁鬱の薬を飲んで暮らすことになる。もうすぐ躁鬱歴20年だろうか。何もできなかったりハイテンションになったり、急に涙が出たり不安でたまらなくなったり無気力になったり、その繰り返し。薬はその波を和らげることはあっても、完治はない。

 それに副作用でぼんやりしたり眠くなったり色々と症状が出た。どの薬を飲んでも、効果が分からないか副作用が出た。

 薬なんて飲みたくない、でも今この瞬間の気持ちの爆発を抑えてくれるのは薬しかなかった。

 色々な人がいて、それぞれの生活がある。趣味が重なるなんて幸運なことだ。好きな物が違っても仲良しにはなれる。その人の好きな物で、自分の知らない話を聞くのが好きだ。好きという気持ちを話してもらうのは楽しい体験だ。

でも、俺はずっと友達が、芸術の話が出来る友達が欲しかった。自分でも色々な物を好きだって語りたかった。

 ずっと話が、正直な言葉を伝えあえる友達が欲しいなと思いながら生きてきた。

 そういう経験がゼロではないけれど、それはとても困難だった。というか、制作者は幸福な例を除いて大体こんなものかもしれない。他の人からは何それよく分からない、ということになる。

 だから二十過ぎからブログで一人それをかくようになっていた。二十代の頃は反応を貰うこともまれにあった。SNSで人に会うことも。小説は書き続けていた。エゴイストで貧乏な俺もパソコンはあったから。貧乏でそれなりにどうにかなるって思っていた。

 大学を卒業してからそんな生活を続けて20年近くになろうとしている。カートの年齢で自殺するのかななんて思っていたのに、もう40近いオッサンになった。

 芸術について話せる友を得ることもなく、ずっと書き続けている小説は応募しても受賞することはなく、生活は安定どころか借金が増え続け、容姿や身体も衰えた。

 自殺する為の色んな条件がそろった。でも、その前にやり残したことも、できたら返済もしたいなと思っている。

 あと、神様、俺は無神論者だけれどあなたが登場する作品や信仰、信仰を持つ人たちのことが好きで、貴方を感じられる瞬間が、錯覚でもいいから欲しかったな。
 
 意志を持って繰り返すことは、祈りに、信仰に似ている気がする。

 俺は美術が好きで、色々逃げて投げ出してきたけれど小説は書き続けていた。それなりに出来が良いと自負している物ものある。他者にとってはとるにとらないにしても、自分でそう思えると言うのは俺の努力の積み重ねであり、小さな誇りだ。

 でも、疲れてしまった。友達もお金もない。仕事には何十応募しても受からなくって、十数年日雇いやら期間限定の仕事ばかり。躁鬱でメンタルも安定せず、何か心配事があると眠れない。今日も四時間で目が覚めて怖くなってこんな感情の垂れ流しをしてしまっている。

 俺は自分の好きという感情を伝えないのに慣れて、つまらない人間になっていった。色んな好きな気持ちは、感受性は消えてはいないけれど、朧だ。それよりも借金を返済しなければならない。涙が出ないように薬を飲んで日雇いをしなければならない。薬の副作用や不安、或いは元々なのか頭がぼんやりしていて、仕事ができずに不安でおかしくならないようにしなければならないし、借金を返すために人より多く働かなかなければならない。

 もう、十分頑張ったよな? ずっと辛くて寂しくって、その割合がとても多かった。もう、楽になりたいな。

 そんな考えがよぎる時、ふとゴダールのことを思うことがある。

 まだ頑張れるんじゃないか、まだ作りたいものがあるのではないか。ゴダールに俺も辛いので自殺しましたって言えるか? 言えない。恥ずかしい。

 まあ、それでも辛いけど。痛みは人と比べることはできないけど。

 ずっと、暗闇の中で小さな光を探して生きているような人生だった。その小さな光を探したり感じたりする力が消えたのか、消えかけている。

 自分を立て直せるのは自分だけ。まあ、そうだと思う。周りのサポートがあれば、立ち直る確率は上がるだろうけれど。でも、自分の意思で戦わなければならない。ずっと、一生だ。

 これからどうなるのか自分でも分からない。ただ、こんな無様な文章でも吐き出していかねばいけないのだと思う。色々言いたいことを隠している(露悪的過ぎてかく必要はないかもしれないけれど)し、用は人も金もなく作品は認められず病気あり借金ありで、おっさんでつらいですって話。シンプルだな、無様なだな。

 でも、俺、本当に芸術が創作が好きなんだ好きだったんだ。

 だから、もう少し頑張れるかな、わからないや。