ダウト

DVDで鑑賞。
カトリック学校の校長を務めるシスターが、生徒に人気のある神父に疑念を抱く。
1964年、ブロンクスカトリック学校。校長を務めるシスター・アロイシス(メリル・ストリープ)は厳格で生徒に恐れられていた。フリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)は明るく進歩的で生徒に人気がある。フリン神父は、白人の生徒がほとんどを占める学校に入ってきたひとりの黒人少年のことをなにかと気づかっていた。シスター・アロイシスは、そんなフリン神父の振る舞いを観察しているうちに、神父に対して疑念を持つようになる。
舞台となるカトリック学校は全体に落ち着いた色調で統一されている。古びた校舎の白い壁、木製の茶色、黒板の深い緑色。シスター、神父、生徒たちの制服は黒い色。そんな中で、ふと鮮やかな色彩が目につく。光を落とした教会の内側から見上げるステンドグラス、花瓶にさされたチューリップの花、そしてフリン神父が聖書にはさんでいるピンク色の押し花。
役者の演技がこの芝居を華やかに盛り上げる。メリル・ストリープが圧巻。ストリープとホフマンが校長室でやりあう場面はまるで格闘技を見るような興奮を覚えた。また、黒人少年の母親を演じたヴィオラ・デイヴィスメリル・ストリープのやりとりも、厄介な現実の中で格闘せざるを得ない人のつらさと強さを実感させられる。ひたむきに教職に取り組む新人教員シスター・ジェイムズを演じたエイミー・アダムスもいい。人を信じることのよさを嫌味なく伝えてくれる。
シスターたちと神父たちは別扱いになっているようで、食事もシスターたちだけ、男性の神父たちだけと別の部屋で取っているのだが、この場面は男社会の中の男性と女性の落差をわかりやすく表しているようでおもしろかった。男たちは大きな肉を皿に盛り、冗談をいいげらげら笑いながら食べているのだが、シスターたちは質素な食事を静かに食べている。食事中も規則を厳格に守っている。これはシスターをたばねる校長アロイシスの人柄にもよるのだろうが、見方によっては、女だけが男社会の建前を遵守することをあたりまえに義務付けられているからのようにも見えるのだ。男は、建前と本音の使い分けを許されてるんだけど、女にはそれがない。
一般の家庭だと、家庭の中は公の場所ではないから、そこにいる女性もまた外で見せるのとはちがった態度を取ったりもするけれども、シスターたちはずっと公の場所、男の作った建前の中にいることになってしまうということなのかな。
シスター・アロイシスは、結婚していたが夫が戦死したという過去がある。そのせいか、新人教員のシスター・ジェイムズより男に対する目が辛い。
自分が疑われているらしいと気づいたフリン神父が、学校の庭でシスター・ジェイムズにその疑いを払拭しようと話しかける場面。庭にはキリスト像が立っているのだが、神父とシスター・ジェイムズがベンチに並んで話しているとき、横の壁に日光に当たったキリスト像の黒い影がずーっと映る。この人型の影がちょっと不気味な印象を与える。まるで、シスター・アロイシスには内緒のつもりかもしれないが、私はちゃんと聞いているよ、そう影が物言わず語っているように見える。
そして最後、シスター・アロイシスが、同じベンチに座っているところにシスター・ジェイムズが帰ってくる。実家に帰っていたシスター・ジェイムズにフリン神父がどうなったかを説明した後、シスター・アロイシスは自分の心情を告白する。そのとき、フリン神父とシスター・ジェイムズが話していた時と同じ位置に立っているキリスト像は、シスター・アロイシスを背後から優しく見守るように画面に映し出される。迷い苦しむ彼女を励ますかのように、両手を広げて静かに後ろに立っているのよね。
(つーか、あれ、キリスト像ですよね? ひょっとして、聖母マリアだったのか?)
シスター・ジェイムズが、シスター・アロイシスの苦しみを共感を持って受けとめる様子を見せて劇が終わるのだが、女性が世代を超えて支えあうような絵になっていて、現世への希望を感じさせる終わり方だったと思った。
さて、生徒に恐れられる厳格な校長であるシスター・アロイシスだが、そういう彼女の性格を印象づけるのが、登校時間、校舎の上階の窓から校庭に集まる生徒たちをじーっと見下ろしている場面。この場面を見て、『カッコーの巣の上で』で精神病院の婦長を演じたルイーズ・フレッチャーが、やはり病院の上階の窓から患者が病院にやってくるのをじーっと見下ろしていたのを思い出した。
カッコーの巣の上で』は1975年のアメリカ映画だが、原作は1962年に発表されている。私は原作は読んでいないので、映画の内容しか知らないのだけれど、映画では精神病院の患者はほとんど白人男性(ひとりだけ先住民が混じる)。彼らを管理しているのが婦長をはじめとする女性看護師と、あとは黒人男性の看護士なのよ。病院のトップにはもちろん白人の男がいて、看護師、看護士は病院内ではその下士官にあたる立場になるのだが、患者として管理されている白人男性は、いまの感覚でいえばひきこもりみたいなのが多いんですね。世の中にうまく適応できない、そうなったのはそれなりに理由があって、みたいな。でもさ、彼らを病院内で世話する係になっている女性や黒人からしてみれば、そんな白人男性の悩み自体がぜいたくに見えるところがあるんじゃないかな。女性や黒人はそういう悩みを持つことすら許されてないんだよ、不平言ったらキチガイ扱いされてロボトミーで口封じなんてのは、病院に限らずどこでも日常的にフツーにされてるんだよ、おめーら白人男性はそれに気がついたことあんのかよ、ちょっとそういうかんじが漂う世界なんだよね、映画『カッコーの巣の上で』は。婦長があんなにこわくなっちゃうのにだってそれなりに理由あってのことなんだぞ、と。でも、そこらへんはあんま描けてない。映画の中の婦長・ルイーズ・フレッチャーは、ステレオタイプナチスの将校を思わせる役造りをされていて、『ダウト』のシスター・アロイシスに比べると、完全な悪役にされていましたね。
あの怖い役を演じたルイーズ・フレッチャーもうまかった。でも、1975年は、まだ女性、とくに仕事をしている女性に対しての見方が、いまほどは深化していなかったのかもしれないな。まあ一般には『カッコーの巣の上で』はジャック・ニコルソン出世作ということになるでしょうけれどもね。
『ダウト』観て、そんなことも思い出しました。