ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

公人の疑惑報道のルール

 「現実の悪意の法理」と呼ぶ、ということを知りました。米国では、公人に対するマスメディアの報道が名誉棄損にあたるかどうかが争われた場合、一般の人の場合よりもマスメディア側の挙証責任のハードルが低くなる、と聞いていましたが、その考え方のことです。日経、朝日、読売の新聞3社の連合サイト「新S(あらたにす)」に「新聞案内人」というコーナーがあります。弁護士の田中早苗さんが寄稿した「『検察リーク』は存在するのか」と題する論考の中で紹介されています。
 ※「検察リーク」は存在するのか(2010年1月28日)
 http://allatanys.jp/B001/UGC020004720100127COK00474.html
 ウイキペディアでは「現実的悪意」という項目があり、定義は次のように記述されています。

 現実の悪意の法理とは、公人が表現行為(典型的にはマスメディアによる報道)の対象である場合、行為者が、その表現にかかる事実が真実に反し虚偽であることを知りながらその行為に及んだこと、又は、虚偽であるか否かを無謀にも無視して表現行為に踏み切ったことを原告が立証しない限り、当該表現行為について私法上の名誉毀損の成立を認めない、とするものである。

 ※ウイキペディア「現実的悪意」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E7%9A%84%E6%82%AA%E6%84%8F

 田中さんの論考そのものは、民主党小沢一郎幹事長の資金管理団体陸山会」の土地売買をめぐり、小沢氏の元秘書の石川知裕衆院議員ら3人が政治資金規正法違反容疑で東京地検特捜部に逮捕された事件をめぐって、マスメディアの報道に対して「検察リーク」との批判が上がっていることを取り上げたものです。
 田中さんは「検察の言うがまま、思惑通りに報道しているとは考えがたい」としつつ「読者の中には、検察リークに踊らされている新聞という認識は根強い」と指摘し、その原因として検察と新聞双方への不信を挙げています。新聞への不信については、読者は小沢氏とカネをめぐる問題を多面的、大局的に掘り下げた記事を求めているのに、紙面では検察の動き、中でも政治資金規正法をどう適用としているのかばかりが大きく取り上げられている、その読者の期待と実際の紙面とのギャップに根差しているとしています。そして、なぜ多面的、大局的な報道がないのか、に関連して「政治家とカネを巡る報道は、捜査当局が強制捜査に移るまでは『疑惑報道』とならざるを得ない。しかし本来、国会議員の疑惑に関してはどんどん報道されるべきである」として、米国の「現実の悪意の法理」を紹介しつつ、日本には公人報道に特別なルールがなく、国会議員や自治体首長による名誉棄損訴訟で裁判所も高額の賠償命令を出すようになってきたこと、新聞社も紛争のリスクを避けて逮捕以降の事柄を中心として報道する傾向になることを指摘しています。

 新聞の仕事に携わる1人として真摯に受け止めたい指摘ですが、日本に公人報道の特別なルールがないのはその通りで、米国のような社会的ルールはもっと知られていいと思います。そんなことをわたしが考えるようになったのは、もう5年前になりますが、NHKの番組改変をめぐり、自民党政治家の圧力があったと報じた朝日新聞の記事の信ぴょう性が争われた問題がきっかけでした。
 2005年1月の記事をめぐって朝日新聞社とNHKの間で激しい応酬があり、記事で名指しされた安倍晋三氏や中川昭一氏も「報道被害を受けた」と言わんばかりに朝日新聞を批判しました。朝日新聞社はその年の9月末、第三者機関に委嘱していた審議の結果、第三者機関が「真実と信じた相当の理由はあるにせよ、取材が十分であったとは言えない」との結論に至ったことを公表しました。このニュースに接してわたしは、公権力を行使する立場にいる公人に関する限り、中でも選挙を経て国民から直接の負託を受けた政治家に対しては、疑惑を報じる際には一般人の私的行為よりもハードルを下げるような合意が社会にできないか、ということを強く思いました。その一つの例として、米国では「現実の悪意の法理」があるというわけです。
 05年9月の朝日新聞社の発表の内容は、今も同社のサイトで読むことができます。
 ※朝日新聞社インフォメーション「信頼される報道のために」
 http://www.asahi.com/shimbun/index3.html
 この朝日新聞社の発表に対して、当時、運営していた旧ブログ「ニュース・ワーカー」に以下のエントリーを書きました。今も考えは基本的に変わっていません。とりわけ、朝日とNHK以外のほかのマスメディアが何をなすべきだったかについては、朝日たたきに腐心するメディアがあったことが今も残念でなりません。
 ※「朝日『NHK報道』委員会の結論」(2005年10月1日)=リンク切れあり
 http://newsworker.exblog.jp/2806099
 日本では、政治家の疑惑報道について民事訴訟になった場合、一般の人と違いはありません。記事に公共性があるか、もっぱら公益を図ることが目的か、記事の内容は真実か、真実と信じるに足る相当の理由があるかの各点が判断されます。近年、報道による名誉棄損に対して裁判所が命じる賠償額は高額化しており、これは政治家であれスポーツ選手や芸能人であれ変わりません。提訴段階で高額の請求があることだけでも、取材・報道の萎縮を招くおそれも指摘されています。公権力を行使する立場の政治家などに限っては、米国のような公人の疑惑報道のルールができないかと思います。これは新聞や放送、出版・雑誌などマスメディアに限った話ではありません。その議論が社会的な広がりを持つためには、まずマスメディアの報道の質が問われるのでしょう。

 「検察リーク」の問題についてわたしの考えを少しだけ述べれば、論じる人によって「検察リーク」のイメージや定義付けが異なっていると感じています。記者クラブの存在のありようや、記者会見と非公式の夜回り取材との関係など、背景にある取材事情への認識の差異もあります。「検察リークを構造的に支えているのが記者クラブである」というように、記者クラブ批判と一体化した批判もあります。
 新聞各紙の紙面には社会部長や論説委員の反論も掲載されています。しかし、個々の取材の裏側の事情を明らかにすることができない以上、反論は抽象的な一般論にならざるをえません。もともと批判も個々のケースを分析した具体的なものではなく、根拠は要するに記事に「検察と容疑者しか知らないはずの話」が「関係者」のクレジットで出ているという抽象的なものです。批判と反論と、議論はかみ合っていないとの印象を持っています。情報源はできるだけ開示するのが原則なのか、秘匿が原則なのかが新聞メディアの内側で整理されていない、という問題もあります。秘匿は情報源の保護のために必要な場合に限定すべきでしょう。
 新聞の仕事に身を置く一人として、批判には真摯かつ謙虚でありたいと考えています。しかし、政権党である民主党の中から報道に対する批判が公然と起きていることは軽視できません。記者の情報源を調べて暴くようなことは、報道に対する政治圧力そのものです。それぐらいのことは、かつて毎日新聞西山太吉記者から資料提供を受け国会質問に立った横路孝弘議員が所属する民主党の議員なら、容易に理解できると思うのですが。