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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

橋下氏の憲法観を報じる意味〜「集団的自衛権の行使容認」発言の報道

 新党「日本維新の会」代表で大阪市長橋下徹氏は13日、報道陣とのやり取りで、集団的自衛権の行使を容認する考えを表明しました。日本政府は現在、日本には集団的自衛権はあるが憲法9条によって行使は禁じられているとの見解を取っています。橋下氏は「基本的に行使を認めるべきだ。権利があれば行使できるのは当たり前だ」「国連憲章でも認められている。権利があるのに行使できないなんて、完全な役人答弁だ」と述べたと報じられています。
 ※47news=共同通信「橋下氏、集団的自衛権行使を容認 『権利あれば当たり前』」2012年9月13日
 http://www.47news.jp/CN/201209/CN2012091301001517.html
 戦争放棄と戦力不保持を規定する憲法9条をめぐる議論の中でも、この集団的自衛権をめぐる問題はしばしば大きなニュースになってきました。次期衆院選で大量の候補者を擁立し、議席過半数を狙うと公言している橋下氏と彼の新党を報じるに際して、わたしは今回の発言はマスメディアがそろって大きく扱ってもいいのではないかと思ったのですが、新聞各紙の扱いは分かれました。この発言に限った各紙の記事と見出しは以下の通りです。※全国紙は大阪本社発行の最終版

▽9月14日付朝刊=橋下氏が集団的自衛権の行使容認
【朝日】
1面「集団的自衛権『行使認めるべきだ』」「維新・橋下氏が言及」見出し3段・42行
社会面トップ「橋下流『防衛論』を読む」「集団的自衛権容認、専門家は」「国防意識の明確化に利点」「憲法解釈の歴史に無理解」/発言要旨/集団的自衛権(とはもの)/維新八策の関係部分抜粋
【毎日】
1面「集団的自衛権行使 容認」「橋下氏、靖国参拝意向も」見出し4段・67行
【読売】
4面(政治面)「集団的自衛権『行使は当然』」「橋下氏が表明」見出し1段・13行
【日経】
4面(政治面)「集団的自衛権『行使は当然』」「橋下氏が容認姿勢」見出し1段・15行
【産経】
4面(政治面)「橋下氏『行使は当然』 集団的自衛権」「靖国神社参拝も明言」見出し3段・56行
――――――――――――――
【京都】
3面(総合面)「橋下氏が行使容認」「集団的自衛権で立場明言」見出し3段・58行
【神戸】
2面(政治面)「集団的自衛権 橋下氏が容認」「『行使は当たり前』」見出し1段・28行
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 全国紙で比べる限り、朝日、毎日が1面で報じる一方で、社論として9条改憲を指向している読売、産経、日経はそろって4面の掲載でした。新聞の作り手の側から言えば、1面はもっとも重要と考えたいくつかのニュースを、ニュースバリューの順番通りに並べたページです。相対的な比較として、4面に掲載した新聞と1面に掲載した新聞では、同じニュースでも作り手のニュースバリューの判断には差異があると言えます。
 集団的自衛権の行使については、現在進んでいる自民党の総裁選でも5候補は全員容認論です。橋下氏と新党の考えは、集団的自衛権の問題に関する限り、特に自民党との間では大きな差異はない、と言えるかもしれません。そうならば、必ずしも1面に収容して大きな見出しを取る必要はない、との判断もありうるのだと思います。
 ただわたし自身は、二つの意味で橋下氏の発言は大きなニュースであり、丁寧に伝えられて然るべきものだと考えています。
 一つは、集団的自衛権それ自体が持つ意味の重さです。「集団的自衛権」の定義は、例えばウイキペディアでは「他の国家が武力攻撃を受けた場合に、直接に攻撃を受けていない第三国がこれを援助し、攻撃に対して共同で防衛を行う国際法上の権利」と記されています(2012年9月15日午前現在)。報道に際しても似たような表現で紹介されることが多いのですが、専門家を除けば難解さは否めないのではないかと思います。実際に行使された例として、どのようなケースがあったのか、あるいは日本が行使した場合はどんな事態が想定されるのか、具体例を示せば、その意味の重さも分かりやすくなるのではないでしょうか。
 現在の日本で、仮に集団的自衛権の行使が解禁された場合に現実的に想定できるのは、米国の戦争に日本の軍事組織も参加することだろうと思います。イラク戦争で英国などの軍隊が開戦時から占めた位置に日本の軍事組織も加わるイメージです。イラク戦争当時の小泉純一郎首相は即座に米国の戦争を支持しましたが、それでもさすがに、戦後の復興支援が旗印になるまでは、自衛隊イラクに行くことはありませんでした。もう少し以前の例では、ベトナム戦争に派兵した韓国と日本の違いを考えてみてもいいと思います。他国の例では、NATO軍による旧ユーゴスラビア空爆があります。日本では、サッカーJリーグでユーゴスラビア出身のストイコビッチ選手がNATO軍の空爆に抗議したニュースを覚えている方も多いと思います。
 集団的自衛権の行使が認められるということには大きな意味があります。文字通り、国のありようが変わってしまうでしょう。相当な民意の支持(たとえ「ふわっとした」ものであっても)を受け、国のありようを変えると豪語している橋下氏が、そうした大きな政治テーマに踏み込んで発言したことは、やはり大きなニュースとして報じられて然るべきだと思います。
 大きなニュースと考える二つ目の理由は、この発言から橋下氏の憲法観もうかがい知ることができるからです。
 橋下氏と維新の会は憲法改正を掲げています。当初は首相公選制や参議院の廃止などの主張で、わたしは9条改憲に触れない新たな改憲勢力なのかと受け止めていました。しかし、橋下氏はことし2月、9条についても「他人が困っている時に、自分が嫌なことはやりませんよという価値観だ」などと言及しました。現在、維新の会は、憲法9条国民投票で方向性を決めるとしていますが、集団的自衛権の行使をめぐる橋下氏の発言を重ねあわせれば、橋下氏の憲法観、とりわけ9条についての考え方はさらに明確になってくると思います。
 なぜ橋下氏の憲法観が報じられなければならないのかについて、わたしの考えは過去のエントリーに書きました。少し長くなりますが再掲します。

 日本国憲法について、少し私見を書くことになりますが、9条はなぜ日本国憲法の9番目の条文なのか、わたしは理由があると考えています。条文を読めばすぐに分かることなのですが、1〜8条は、いずれも天皇制の規定です。天皇制に続いて規定されている国民の諸権利の、その筆頭に位置しているのが9条です。そのことは、この憲法が国民に諸々の権利を保障することと、日本国が戦争を放棄し、陸海空軍その他の戦力を保持しないこととが、相互に担保し合っている関係にあると、私は読み解いています。例えば私自身が身を置いているマスメディアの活動は、憲法21条の表現の自由なしには成り立ちません。そして、戦争を容認する社会では表現の自由がどうなるか、戦前戦中の日本社会を見れば明らかです。戦争放棄と戦力不保持は、表現の自由とも表裏の関係にあると理解しています。同じように、個人の尊重も幸福追求権も、法の下の平等も思想及び良心の自由も、信教の自由も労働基本権も、みな戦争放棄と戦力不保持と分かちがたく結びついている、と受け止めています。他国にはそうではない憲法もあるのでしょうが、日本国憲法はそういう憲法です。この憲法は、日本とアジア諸国におびただしい犠牲を強いて、日本の敗戦で67年前に終結した戦争を経て制定されたことを忘れるべきではないだろうと思います。

 この憲法はそうやって国民の諸権利を保障する一方で、終わりに近い99条で「憲法尊重擁護の義務」を簡潔な表現で定めています。全文は「天皇又は摂政及び国務大臣国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」です。この「公務員」には当然、知事も市長も含まれているでしょう。この規定は文字通りの「尊重、擁護」にとどまらず、仮に憲法を改正する際にも、無制限に変えてしまうことを許さない根拠として読み取ることも可能だと思います。憲法「改正」の名目で、まったく新しい憲法を制定するかのような、現憲法の理念を否定するような改憲は許されないとする解釈です。かつて憲法の研究者に教示をいただきました(もちろん、異論もあるでしょうし、学説上の定説というわけでもないでしょう)。

 そういう日本国憲法ですので、高い支持を背景に国政進出を図ることを公言している橋下氏がどのような憲法観を持っているのかは、改憲、護憲の立場にかかわらず、社会の人々に当然知られるべき情報です。橋下氏と大阪維新の会の諸策にはもろもろの賛否がありますが、橋下氏が憲法尊重、擁護の義務を果たしているかの観点からも、橋下氏の憲法観は重要な情報です。社会の人々が、その橋下氏の憲法観を是と受け止めるにせよ非とするにせよ、国と社会の成り立ちの根幹にかかわる情報として、知っていなければならないことの一つです。とりわけ有権者の選挙権の行使の際には必要です。マスメディアは進んで取材し報じるべきだと思います。

※参考過去エントリー「なぜ橋下氏の憲法観を報じなければならないか」2012年3月3日
 http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20120303/1330782132

 14日付朝刊各紙の報道に戻れば、朝日新聞が社会面で専門家3人の話を紹介していることに、多様な価値観、多角的な視点・視座の提供という意味で目を引かれました。特に憲法が専門の高見勝利上智法科大学院教授が、橋下氏が「権利があるのに行使できないのは理解できない」と述べていることに疑問を投げかけ「国際法で認められた権利でも、憲法で歯止めをかけることはできる。それを理解できないという発言こそ、憲法論として理解できない」と指摘している点は、憲法とは何か、を考える上でも示唆に富んでいると思います。