Hatena::ブログ(Diary)

発声練習

2015-08-28

[] 質問は手を動かして考える

書いていただいた内容からすると自分への評価や目標としていることが非常に高い&効率・優雅さを求める傾向があるように見えるので、手を動かしてアウトプットだすことが重要なのではないかと。

next49さん

毎回研究活動でつらくなる度,next49さんの記事を参考に奮起させていただいております.私は現在国立大学工学部の大学院に所属し,修士一年として研究活動に励んでいる者です.上述された相談とその解答を拝見させていただきましたが解決の糸口につながるような解答を相談者の皆様ほとんどがいただけていたようで,私も先生の助力を頂きたいと思い相談した次第です.

以下,相談内容です.

私は現在修士一年として研究室で研究活動に励んでいるのですが,研究が思うように進まず毎日虚しい思いで生活しております.私の他にも修士一年の学生は数人いるのですが,みんな自分の研究の課題がはっきり見えていて努力の結果がちゃんと形として現れていてそれが研究室内で認められているようです.

一方,僕の研究は昨年から始まった新規の研究でこれまで研究室内で行われていなかったことに取り組むようなものになっています.現在の進捗は予定よりも大幅に遅れており,同期の研究と比較しても自分の場合悩んでいる時間が大半でほとんど結果が出せておらず劣等感と自分の情けなさに失望するばかりです.

そんな日々が昨年から,ずっと続いており最近では大学院の再受験による環境の鞍替えも考えるようになりました.(自分の学歴への劣等感もまだ捨てきれていないので.)

本当はもっと情熱的に愚直に研究に励みたかったのですが,わからないことが多すぎて,わからないことが何なのか分からず,その助言を先生に求めるわけにもいかず(求め方もわからず),研究の進捗がストップしている状態です.

最近ではB4の学生もゼミで研究の進捗を発表し始めていますが,先輩方の研究を引き継いだ彼らの進捗と自分の進捗を比較しても圧倒的に前者のほうが優れているように見えて,修士として恥ずかしく自分の無能さに失望してしまっています.

名も知れないような無名国立大に通ってはいますが,学部の席次はトップクラスでしたしTOEICなども800近くのスコアを保持しているので勉強面では多少自信がありました.しかし研究では全く成果を上げることができず,積み上げてきた自信を徐々に消失してしまっています.

現在のこの憂鬱とした気持ちを吹き飛ばすには「研究が進むこと」が必要だと思うのですが,そのためには何が最も効果的でしょうか?

who whatさんのコメント

おことわり

who whatさん、ならびに、名もなき猫さんの分野や実際の状況がわからないので、どういう助言をしたら役に立てるかわかりません。なので、私の半径5mで見たことのある「論文書きたいのですがどうすればよいですか」と質問してきた学生を念頭において、いくつか書いてみたいと思います。すべての話が自分に当てはまると考えず、役に立ちそうなことをつまみ食いで利用してください。

そもそも研究と勉強の違いがわかっていない

「論文書きたいのですがどうすればよいですか」と尋ねてくる学生への返事は基本的に「そもそも論文に何を書きたいの?」でした。論文は報告書の一種であり、人類全体やある分野の専門家コミュニティーにとって、新しいことで、かつ、独創的で、かつ、興味深いことを報告するために書く物です。ですから、ある分野の専門家コミュニティーにとって、新しいことで、かつ、独創的で、かつ、興味深いことが手元になければ論文を書くことはできません。

ある分野の専門家コミュニティーにとって、新しいことで、かつ、独創的で、かつ、興味深いことを見つけ出す活動が研究です。誰かが明らかにしたある分野の専門家コミュニティーにとって、新しいことで、かつ、独創的で、かつ、興味深いことを学ぶのが勉強です。勉強は研究の基盤となりますが、勉強をいくらしても研究にはなりません。何百という文献を読み込み、理解したとしても、それをベースにある分野の専門家コミュニティーにとって、新しいことで、かつ、独創的で、かつ、興味深いことを生み出さないならば、その人は賢者であっても、研究者ではないです。

問題(問い)がないならば研究は始まらない

私は工学系計算機科学の出身&在職中なので、研究の基本スタイルはなにがしかの問題を解決するというスタイルをとります(自然科学であれば何かしらわかっていなかったことをわかるようにするのが目的でしょうし、人文学ならば既存の資料の新しい解釈が目的となることもあるでしょう)。

ある事柄に関して、現状が十分であるならば何も変更する必要はありません。ですから、研究する余地はありません。ある観点において、現状が理想的でないからこそ、現状と理想のギャップを問題と考え、現状を理想へと近づけることを解決法として提案し、実際に実現することになるわけです。

「論文書きたいのですがどうすればよいですか」と尋ねてくる学生のほとんどは、この質問を発している段階で研究を通して解決する問題を把握していませんでした。問題がないならば研究を始めることができません。

誰が、どういう状況において、何について、どう困っているのでしょう?そして、その困っていることを緩和(ちょっとでも良くすること)、あるいは、解決することで、人類全体、あるいは、ある社会において、あるいは、ある分野の専門家コミュニティーにおいて、どれぐらい多くの人がうれしいと思うでしょうか?これをはっきりと答えられるならば、研究を通して解決したい問題というものを把握していると言えます。なお、「誰が=俺が」「どれぐらい多くの人が=俺が」というのでも新規性と独自性を満たせばOKな分野もあります(たとえば数学や自然科学)。

目的がなければ研究の進捗などあり得ない

問題がはっきりと把握できたならば、続いては目的、すなわち、その問題を緩和・解決した状態を明確にしなければいけません。もちろん、完全な解決まで果てしない道のりの問題もあります(たとえば、人工知能の実現とか)。それでも、目的をはっきりさせなければいけません。目的とはサッカーやバスケットボールでいうゴールです。ゴールが決まっていないのにドリブルを駆使して進んでも、何の意味もありません。ゴールがあるからこそ、ドリブルで「進む」という概念が登場してきます。

「研究が進みません」という学生の多くが、そもそも解決すべき問題を把握しておらず、かつ、目的を明確に説明できない状態でした。

料理のとき、あなたは野菜を切っているとします。野菜を切り終わったら料理は終わりでしょうか?もし、作っている料理が生野菜のサラダならば、90%以上料理は終わっています。でも、カレーライスだったら?夏野菜のグラタンだったら?野菜を切り終わるというのは下ごしらえの範疇であり、料理の本番はこれからとなるでしょう。

何かのデータがでている。何か良さげな結果が得られているというのは、研究が進んでいることになりません。目的の達成に対して、そのデータや結果がどういう意味を持つのかが説明できたとき、初めて、研究が進んでいるのか、進んでいないのかを言うことができます。

「研究が進みません」というとき、今、取り組んでいることが目的の達成においてどういう位置づけの作業か説明できるでしょうか?もし、説明できないならば、そもそも、研究が進んでいるのか進んでいないのかを言うことはできません。まずは、目的をはっきりと定めるべきです。

なお、目的は問題に応じて変わります。目的を小さく(達成の難易度を低く)したならば、当然、解決できる問題の範囲も小さくなります。問題を大きくすれば、目的も大きくなります(達成の難易度が高くなります)。どのくらいの目的ならば、ある分野の専門家コミュニティーにとって、新しいことで、かつ、独創的で、かつ、興味深いことになるのかというのは、実は学生にとって判断するのが難しい部分です。指導教員に相談するのがもっともよいことですが、何らかの理由により、指導教員が相談にのってくれないならば、投稿予定の雑誌や国際会議の論文を十数編読み、相場観を理解する必要があります。

テーマを自分で決めるというのは簡単ではない

who whatさんと名もなき猫さんはお二人とも先生もやっていないテーマを研究テーマに選ばれています。他の継続テーマや先生が把握しているテーマの下で研究を行っている学生に比べて、研究の進みが遅いのは至極当然です。というのは、テーマを決めること自体が簡単ではないからです。私の認識では、研究がうまくいくかどうかの6割ぐらいはテーマ設定に依ります。スポーツで例えるならば、お二人は競技する種目自体を自分たちで検討するところからスタート、他の学生は種目が決まり、大会の会場も決まり、試合日程も決まったうえで、試合に向けて練習を開始するところからスタートぐらいの差です。他の学生と同じような速度で研究が進むと考えるのがそもそも間違いです。

他の学生との比較ではなく、目的に対してどれだけ進んだのか(問題を解決する方向に向けて、自分にとって新しい知見が得られているかどうか)で考えましょう。


アウトプットが無いならば研究を行っていると言ってはいけない

ブーメランのように自分に刺さってつらいのですが、「研究が進みません」という学生の多くは頭の中だけで何かを進めており、それを第三者が確認できる何かにしていませんでした。「〜をした」と言うときには、必ず「〜をした」結果を第三者が確認できる状態にしていなければいけません。

ここでいうアウトプットとは論文のようなまとまったものだけでなく、箇条書き、数式、文、図、表など多くのものを含みます。指導教員や先輩への相談事や質問もアウトプットの一つです。

効率よく研究をしたいと思っている学生は、手戻りを嫌ってアウトプットをしないため(わかってから、完成してからアウトプットしようとする)、アウトプットの作成過程を通して理解が深めることができず、結局、効率の悪い進め方になっていることがあります。「理解するためのアウトプット」があるということを認識するのが重要です。というか、良い研究者はフットワーク軽く、アウトプットする傾向があると思います。

夏休みに入ってから行った自分の研究活動を振り返り、アウトプットを数えあげてください。図は何枚描きましたか?表はいくつ作りましたか?メモは何篇ありますか?数式はいくつ立ててみましたか?質問は記録していますか?困ったことは言語化していますか?もし、アウトプットができていないならばとりあえず現時点までの話をアウトプットしましょう。アウトプットができているならば、整理し、それを持って先輩や指導教員に目的とアウトプットの関係を説明しに行きましょう。

分割し、統治せよ

「何をしてよいのかわからない」という学生の多くは、研究の目的を部分問題に分割し、その部分問題をひとつひとつ解決していくということができていませんでした。複雑な問題を複雑なまま処理しようとしていたのです。複雑な問題を複雑なまま処理してはいけません。

この元の問題を部分問題に分けて対応するというのは、ソフトウェア開発では「分割統治」と言われる手法・考え方として知られています。

部分問題に分けるのが難しい場合でも「まず、最初の第一歩は何か?」ということから考えるというのも一つの手です。

対象となる問題の制限を厳しくして、小さな問題として解いてみるというのも良い手です。コメント欄でRamさんが書いている以下の部分はまさにこの例です。

。会社の規模にもよると思いますが、入社後3年程度までの新入社員ならいざ知らず、社内で誰にでもできるような仕事をいつまでもやってるばかりではお話にならないので、与えられた仕事を実現するために、ネット等も使用して簡単に概要をつかみ、必要な本や論文の目星をつけ、自分で調べて勉強をし、許可を取って試作などをしていく、というような流れが私の日常となっています。(もちろん先輩にこまめな「報連相」をしてはいますが、先輩もやった事の無い事案が多いので特に大したこと言ってきません。)

また、Ramさんの素晴らしい点は先輩にこまめな「報連相」をしているという点です。仮に先輩が何も言ってこない(助言が得られない)としても、他人に自分のやっていることを理解出来るように説明するという行為は、自分が何をやっているのかを深く理解するために役に立ちます。

手段を目的から決めよ、また、 サンクコストを許容せよ

研究はすべて問題(問い)からスタートするのですが、うまくテーマを決められない(こちらの提示したテーマを受け入れない)学生は手段/技術を先に決めて、その手段/技術に合う研究テーマを探そうとします。その上、その手段/技術というのは吟味して決められたのではなく、自分がこれまで勉強してきて比較的良く知っているからという理由程度で選んでいることが多かったです。

研究テーマを手段/技術から決めていないでしょうか?取り組もうとしている問題を解決するための道具として、今の手段/技術は適切でしょうか?もし、適切でないならば、これまでの学習に費やした金銭的・時間的コストはとても惜しいですが、一度、捨てて適切な手段/技術を選び直すのが良いと思います。

おわりに

私は修士研究は指導教員が提示したテーマの下で研究を完遂できる(目的をある程度達成できる)ことができれば十分だと考えています。博士研究からは指導教員と相談の上、研究方向を決め、その方向の下でテーマを自分で考え、研究を遂行できることが求められると考えています。

who whatさんと名もなき猫さんのコメントを拝見するかぎり、お二人とも修士研究で解決すべき問題を定義できておらず、目的もはっきりと定めることができていないのではないかと思います(お二人ともサーベイの段階と読めました)。まずは、問題と目的をはっきりさせるのが重要だと思います。

もし、自分では問題を把握できていると思っている場合でも、質問テンプレートの「研究の基礎を固める場合」の質問を自問自答し、質問への解答を文の形で書きだしてみてください。そして、その問題を部分問題に分割してみてください。あるいは、問題の条件を緩和あるいは厳しくし、より易しい問題に変換してみてください。その上で変換した問題に対して「研究の基礎を固める場合」の質問を自問自答し、質問への解答を文の形で書きだしてみてください。そのうえで、研究室の仲間を捕まえて、質問と回答を読んでもらってください。その人が質問と回答を読んで、元々の問題を理解できるならば、問題を把握しているといってよいと思います。

関連

[] 昼の逃げ場所づくり

18歳以下の自殺者数を過去約40年間の日別でみると、9月1日がもっとも多く、ついで4月上旬となっており、学校の長期休業明け直後に自殺が増える傾向がある。このような時期に着目し、子どもの変化の把握や見守りの強化、相談や講演などの対策を集中的に行うことが効果的であるという。

10代前半の自殺は、遺書や自殺サイトへの書込みなど原因や動機のための判断資料を残していない場合が多く、自殺の予兆を周囲に悟らせずに自殺に至ってしまう傾向がある。そのため、子ども自らが周囲に悩みを打ち明けやすい環境を作っていくことが重要だとしている。

という前提の下以下のような呼びかけがあった。

上のツイートを受けて、そういう子が図書館にいても何もせずに見守って欲しいという主旨のエントリー。

一方で、上のツイートが多くの人に賞賛されていることを受けて見守る覚悟があるのかを問うエントリー

誰にでもどんな状況にもあてはまる万能な解決法はないから当然いろいろな見方がある。私としては上のエントリーで提案されているシステムをアレンジして、無責任に見守ったら良いのではないかと考える。

「ぼくのかんがえるさいきょうの」支援体制の枠組みとして、図書館が学校側に「今日はこちらで責任をもってお預かりします」と連絡を入れる以外考えられません。今まで突発的にイレギュラーを受け入れてきたからなあなあで済んでいたのですが、こうやってインターネットの世界に「広報」してしまった以上、責任を持って子供を預からなければいけないのです。別に指導をするとか何か言うとかそういうのだけが責任ではなく、「危険が及ばないように管理、監視する」というのも大事です。そういったシステムも連携もなくただ「おいで」とだけ言うのは、公共施設と言う意味では非常に正しいのですが「子供を預かる」という立場になると大変無責任だと思うのです。

泡沫サティスファクション:ネットで賞賛された図書館ツイートについての雑感より)

こういう風な見守り方はどうだろう。

  • 自治体内(小学校や中学校、高校の学区内)の図書館(あるいは児童や生徒がふらりと入って、長時間いても追い出されない施設)と学校、警察、児童福祉関連部署の担当者が含まれるSNSやメーリングリストを用意する
  • 自治体内(小学校や中学校、高校の学区内)の図書館(あるいは児童や生徒がふらりと入って、長時間いても追い出されない施設)は、平日に児童、生徒がいることを把握したら、存在報告を所定の場所(メーリングリストとか)に報告する。ただし、その児童や生徒には干渉しない。図書館員の役割は定期的な存在報告(午前、午後に各1回ぐらい)と他の大人が干渉していないかのてそれとない確認ぐらい。
  • 学校は無届で学校にきていない児童・生徒がいた場合に、メーリングリストの存在報告をチェックする
  • 基本的には特定を行わない。欠席が数日間に渡っている場合は先生が確認にいっても良いと思う(逃げ場所の提供だけでは解決できない恐れがあるため)。
  • 警察にはその区内のパトロールの範囲に図書館を含めてもらう。でも、干渉はしない

上記のシステムだと、そういう児童・生徒を狙って悪い人が動いた場合や、図書館の外での事故、事件には対応できない。図書館にいる児童・生徒を確認できないので学校からすると行方不明の未成年を放っておいていることになる。もし、取り返しのつかないことが起こったときには、それぞれの大人が果たすことのできるベストを尽くしていないので責任は問われてしまう。一方で、責任を万全にとるために、図書館が児童・生徒に干渉し、彼らが図書館の外へ移動したならば、より危険な場所に彼らは移動するので、現状よりも悪くなってしまう。もちろん、大人は責任を果たしているので問題はなくなるけど。

夜の逃げ場所が作り辛いので、せめて昼の逃げ場所ぐらい用意しておいても良いのではないか。夜の逃げ場所についての提案は以下のエントリーがある。

関連過去エントリー

2015-08-26

[] リンク:妊娠のしやすさグラフ

グラフが元のグラフと違っているというのも重要だけどそもそも「妊娠のしやすさ」というのをどう測ったのかについて新聞で裏とりしないのは何故?メディアリテラシーの事例と使うのに良いと思う。

文部科学省が高校生向けに作製した保健教育の副教材で、妊娠のしやすさと年齢の関係を示すグラフについて、加齢による妊娠しやすさの低下が、引用元として明記された論文よりも急激に落ち込む、誤った数値で掲載していたことが25日分かった。既に全国の高校への送付が始まっており、同省は訂正した別紙を送付するなどして対応する方針。

毎日新聞:文科省:妊娠副教材で誤った数値掲載より)

文部科学省が7年ぶりに改訂した高校生向けの「保健教育」の副教材で、妊娠のしやすさと年齢の関係を示す折れ線グラフを掲載する際に、根拠となる論文の数値を誤って引用していたことがわかった。

改訂版は約130万部が印刷され、8月上旬から全国の高校への配布が始まっており、同省は各校に誤りを通知するとともに、訂正した別紙を送付することなどを検討している。

副教材は、「健康な生活を送るために」(A4判、45ページ)。改訂版では妊娠や出産に関する記述を従来の2ページから4ページに倍増。このグラフは、「医学的に、女性にとって妊娠に適した時期は20代であり、30代から徐々に妊娠する力が下がり始め、一般に、40歳を過ぎると妊娠は難しくなります」という説明文とともに、今回新たに加えられた。

グラフでは、妊娠しやすい時期のピークが22歳で、その後は下降しているが、根拠にしたという米国の大学の研究者の論文(1998年発表)では、22〜25歳はほぼ横ばいになっていた。文科省によると、グラフは改訂にあたって、内閣府から提供を受けたといい、内閣府の担当者は「内閣府で論文のグラフをもとに作り直した際、数値を誤った」としている。副教材の配布開始後、インターネット上で誤りを指摘する書き込みが相次ぎ、発覚したという。

読売新聞:「妊娠しやすさ」グラフに誤り…保健体育副教材

全国の高校1年生に2学期から配られる保健体育向けの副読本で、「女性の妊娠のしやすさと年齢」のグラフに表示ミスがあったことがわかった。根拠となる論文のグラフと異なっていた。文部科学省は正誤表を教育委員会や学校に配る。

副読本は「健康な生活を送るために」(A4判45ページ)で、改訂に合わせて文科省と内閣府が作成。副読本として初めて男女の不妊問題を記載した。

表示ミスがあったのは、妊娠・出産に関する項目で「医学的に、女性にとって妊娠に適した時期は20代であり、30代から徐々に妊娠する力が下がり始め、一般に、40歳を過ぎると妊娠は難しくなります」という文章につけられた折れ線グラフ。妊娠のしやすさを示す数値が22歳をピークに25歳まで緩やかに下がり、25〜30歳はさらに大きく下がる。だが、根拠とした米国の学者の論文のグラフは、22〜25歳がほぼ横ばいで、25〜30歳の下がり方も副読本より緩やかだった。

21日の公表後、インターネットに間違いを指摘する書き込みがあって発覚した。内閣府によると、副読本作成に関わった産婦人科医から提供された論文のグラフを内閣府側が見やすく加工する際に、元の数値からずれたという。担当者は「確認が不十分だった」としている。(畑山敦子)

朝日新聞:妊娠しやすさグラフに誤り 高校副読本、正誤表を配布へ

このグラフの出典に関して調べてくれているエントリー

このグラフは何のグラフなのかの説明

じゃあ、妊娠のしやすさや出産のしやすさなどに加齢の影響がないかというとあるよという説明

関連過去エントリー

追記(2015年9月2日)

遅いし、ソースが明らかじゃないけど毎日新聞Good Job!

文部科学省が作製した高校生向け保健教育の副教材で、女性の妊娠のしやすさの年齢による変化を示すグラフ(図<1>)に誤りがあった問題で、差し替え後のグラフ(図<2>)でも、加齢によって低下する性交頻度の影響を除いていないため、女性の肉体的な妊娠しやすさとは大きく異なるグラフとなっていることが1日分かった。

〜中略〜

図<1><2>はもともと、避妊をしていない既婚女性が、月経周期の1カ月で妊娠する確率を年齢別に示したもの。性交の頻度や異常のない卵子が排卵される確率、精子の運動能力、着床確率など女性だけでなく男性も含めたさまざまな要因が含まれ、女性の肉体的な妊娠しやすさを表すことにはならない。

〜後略〜

毎日新聞:文科省:「女性の妊娠しやすさ」グラフ、訂正後まだ不適切 高校生向け教材より)

2015-08-20

[] マニアがジャンルを殺す。ではどうすれば?

2011年の冷泉さんの記事

では、このまま専門家や音楽ファンからは「下手」とか「許せない」などとボロクソを言われる一方で、「現象」は続くという対立構図が続いてもいいのでしょうか?

 私はこの妙な対立の背後には深刻な問題があるように思うのです。それは、結局のところ専門家や音楽ファンは「フジ子・ヘミングの演奏に感動している人」をバカにしているという問題です。例えば、ヘミング女史の演奏を聞いて初めてショパンの魅力を知った人に対して、「ノクターンだけでなく、マズルカやバラードも聞いてみれば?」とか「エチュードは全部で12曲のものが2セットあって、有名なものをバラバラに聞くのもいいけど、続けて聞くと全体の構成がカッコ良いんですよ」というようなアドバイスならまだ分かります。

 ですが、「アノ人の演奏はダメ。例えばショパンなら、ポリーニとか、ピレシュとか、ブレハッチを聞きなさい」という言い方では、折角ヘミング女史の演奏を聞いて「初めてピアノの音楽で感動した」人に対して、その感動の体験を否定してしまうことになります。それは、その人の人格を否定していると言っても構わないでしょう。そのように人を見下した姿勢がその世界の「敷居を高くしている」ということに反省がなくては、「フジ子現象」をクラシック音楽愛好家の裾野の拡大に結びつけることはできないと思います。

プリンストン発 日本/アメリカ 新時代:「フジ子・ヘミング現象」の何が問題なのか? より)