発声練習

2011-02-20

[] 日本の教育システムに関する今の私の考え

まとめ

  • サービス産業が最大の雇用
  • 飯の種は、新しいサービスを始めるか、機械化が難しいことをサービスとするのかのどちらか。この基盤となるのは、知識と技術。
  • 高校までに教えられることは、全サービス産業で共通の事柄だけ。高校と企業、高校と社会のギャップを埋める教育機関が必要
  • 以下の4つの目的の教育機関が必要
    1. 高校と企業の間のギャップを埋める知識・技術を教育する機関
    2. 高校と社会の間のギャップを埋める知識・技術を教育する機関
    3. 高校までに学び損ねた知識・技術を教育する機関
    4. 科学や技術自体の発展を主たる目的とする学術機関
  • 高校と社会のギャップを埋めること、高校までに学び損ねたことを再教育することが良い社会の維持にとって必要不可欠。でも、今の高等教育の主題は高校と企業のギャップを埋めることと科学や技術自体の発展させることの二つのみ。

はじめに

この週末に社会における大学の位置づけに関するエントリーをいくつか見かけたので、現時点での自分の考えをまとめてみる。

どのような社会が自分にとって過ごしやすいのか?

教育は社会の構成員を育成するためにある。なので、自分にとってどんな教育システムが望ましいかは、自分にとってどんな社会が望ましいかから考えるべき。

で、自分にとってどんな社会が良いかと考えてみると全てを列挙することは難しいが

  1. 再挑戦が可能である
    • 常に勝ち続ける、成功し続けるというのは自分にとって厳しいように思う。よって、一度失敗したとしても再挑戦が可能であることが望ましい。
  1. 理屈が通じる
    • 人間なので常に理性を優先するのは不可能だけど、自分や他人が感情に支配されたとしても、最終的には理屈で何とか事が収まる仕組みになっているのが好ましい。
  1. 公平である
    • 理屈が通じることと被っているけれども、自分の力ではどうしようも無いことで不当に不利な立場に立ちたくない。だから、公平性が担保されていることが好ましい。

今の社会とのギャップは何があるか?

私の乏しい知識から受ける今の社会と理想の社会とのギャップは以下の二つ。

  1. 再挑戦しにくい
  2. 理屈が通じない

公平性は、結構担保されているように思う。いろいろと理由はあるとは思うけれども、再挑戦しにくいことと理屈が通じないことは、その原因が共通していると思う。再挑戦がしづらいのは、出資者(投資者)側がリスク評価を嫌がるため。リスク評価を嫌がるので、前例主義やゼロリスク主義となり、失敗の発生を必要悪と割り切れないのだと思う。理屈が通じないのは、多くの人が理屈を前提に意見調整を行う技法の訓練を受けていないため。単一民族・一つの文化幻想の下で意見調整を行う行為自体が良しとされていないのだと思う。この二つの理由をひっくるめると、結局は知識・技術の軽視が根本にあると思う。

産業構造の変化

Twitterでどなたかがおっしゃっていたが「人間社会がここ100年ほどで激烈に変わったのに、人間というハードウェアは数万年間ほとんど変化していない」とのこと。身長や体重が増えたり、寿命が延びたりしたのを除き、私たちは基本的には数万年変わっていない。

コンピューターが生まれて50年ぐらいだと思うけれども、今やコンピュータが仕事を奪うという時代にまでなっている。また、機械化と知識の集積が進み、農林水産業が中心の第一次産業、工場での製品作成が中心の第二次産業から、サービス業が中心の第三次産業へと産業構造はシフトしている。このシフトは、第一次産業や第二次産業においては人間の数は必要とされていないということを意味する。

だから、第一次産業や第二次産業への尊敬の念を新たにしても、第一次産業や第二次産業は人を多く雇うことはできない。また、海外からの輸入(特に中国インドからの安い工業製品の輸入)を抑えたとしても、機械化を止めないかぎり、第一次産業や第二次産業で人を多く雇うことはできない。

私は経済学の素人だけど、Togetter:大学教育に効果はあるのか?に登場する、初等教育への投資は生産性向上に直結するが、高等教育に対する投資は生産性と関係しないという話は、基本的には第一次産業から第二次産業へと世界がシフトしていったときを切り取った話であると思う。

飯を食うだけの日銭を働いて稼ぐという黄金律が崩れない限り、若人の未来は第三次産業しかない。そして、第一次産業は今後世襲になっていくと思う(必要とされる人員数は少なく増えない、むしろ減っていくので親から子へ引き継ぐぐらいの雇用能力しかもてない)。

サービスは工業製品以上に多種少数の原則が重視される。そして、自分が提供するサービスが工業製品と同じように機械化の憂き目に会わないためには、機械化できないほど難しいものを提供するか、機械化されそうになるたびに別のサービスを編み出すかのどちらかしかない。

機械化が難しいことをサービスとして提供する or 新しいサービスを生み出す能力の基盤となるのは知識と技術だと思う。みんなが同じ知識を持っているならば、同じサービスしか生み出せない。技術が足りなければ、機械化が難しいことをサービスとして提供できない。

高校までに教わることと企業が求めることのギャップ

サービス業が主たる雇用先であるならば、実際に飯の種になる知識や技術というのは、サービスの内容ごとに異なるはず。なので、進学率98%の事実上の義務教育期間である小学校〜高校までで飯の種になる知識や技術を教えるのはムリ。小学校〜高校までは、全てのサービス業で共通基盤となる知識や技術を教えた方が良いとなるのは自然な発想。

じゃあ、個々のサービスにおいて必要とされる知識や技術と高校までに習った知識や技術のギャップをどこで埋めるべきか?古くは丁稚奉公や弟子入りなどを行っていたわけだから、雇用する企業がそのギャップを埋めるのが自然な流れ。でも、教わる方も無給で弱い立場で働くのは嫌だし、教える方もそんな財政的・人材的余裕はない。なので、同じサービスにおいて共通する知識を一括して教える学校が求められて、その役割が専門学校や大学に割り当てられている。

従来は学校教育の外で成り立っていた話を共通化し、学校で教えようとしていることの典型的な例が以下の話だと思う。

高校までに教わることと社会が求めることのギャップ

ある個人が認識する社会の単位がどんどんと大きくなっているため、社会は個人が理解するに複雑になってきている。農村共同体・狩猟共同体→都市→国家→全世界と社会の枠が広がるため、社会の構成員も増え、価値判断基準や考慮すべき事柄がどんどんと増えている。その結果として、社会の構成員としての私たちが社会を幸せに保つためには、一人一人がたくさんの「〜リテラシー」を身につけなければならない。

でも、そんなのムリ。人類が扱っている知識の量は飛躍的に増えたけれども、ハードウェアとしての人類は数万年間変化がない。学習の仕方だって、百年前から劇的に変わっているわけではない。私たちが興味を持って覚えていられることは限られている。なので、**リテラシーは誰にも頼れないときに必要になるにも書いたとおり、ある一定数の人数のうち、一定の割合で「〜リテラシー」を持っている人がバランスよく配置され、3ホップぐらいでそのリテラシー所有者につながれる状態がベターだと思う。

ところが、今の高校までに教えられていることだけでは、社会に適正な数の「〜リテラシー持ち」を供給できていない。たとえば、経済学、工学、教育学法学、医学などは高校までのカリキュラムにほとんど登場しない分野だ。

選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのか良い経済学 悪い経済学では、経済学の基本的な知識は、我々の直観に反するため、私たちは自分達にとって不利な経済政策を支持することが多いと述べられている(特に前者の本では詳しく説明されている)。

このような、私たちが高校までに習った知識や半径5mの常識や自分の直観によって判断すると間違ってしまうような専門的な事柄はたくさんある。その分野における一般常識を学ぶだけで回避できるようなミスや惨事もたくさんある。

高校までに習わないような知識、でも、社会の構成員の一定数には身につけておいて欲しい知識を誰かが学ばなければならないし、どこかで教えなければならない。社会を維持するためのコストとしての教育をどこかで行わなければならない。

今の教育システムにおいてその要望を満たしているのは大学あるいは大学院しかない。専門学校や高専は就職に特化しすぎている。

再教育はどこが担うべきか

今までの話は小学校〜高校そして社会人への道筋において、全員がきっちり学習する前提での話であるが、でも、人間はひとりひとり学習の仕方が違うし、育ってきた環境によって学習へのモチベーションは大きく異なる。結果として、各課程において学ぶべきことを学ばず、次の課程に進んだ人が発生する。あるいは、そもそも高校や高校以後の教育機関へいけなかった人もいる。そういう人たちが学べる場所が必要となる。

以下の話は、典型的に高校までに学習しなかった人たちを再教育する話である。

企業が求める知識・技術レベル、社会が求める知識・技術レベルと今の自分の知識・技術レベルにギャップがあるかぎり、それを埋めたいと本人やその関係者が思うのは自然の話である。よって、ギャップを埋めるのを手伝ってくれる教育機関がその人たちに求められるのは、何もおかしな話ではない。

上の話で批判的な意見がでているのは以下が理由だと思う。

  1. 大学は高校までに学ぶ知識を身につけた人がいくべき場所であるという大前提があること
  2. 私立大学であっても、助成金として税金が投入されているということ
  3. 大学生の価値を下げる実例となっていること

でも、現状では、このような再教育を行う場として大学しか用意されていない(定時制高校も、メインは高校を卒業していない人が対象であり、高校を卒業した人を受け入れるとは聞いたことはない)。

高校までの教育はどうあるべきか

これからの主産業がサービス業であるため、サービス業共通の知識・技術が習得できるようにカリキュラムの変更をして欲しい。現状でもこれを目指しているわけだけど、サービス業でより重要になる言語技術、法学の基礎(刑事裁判民事裁判の違いくらいはわかるようになるべき)、経済の基礎(市場の重要性)、プログラミングの基礎(ゴミを入れたらゴミが出るの理屈がわかるように)を教えたほうが良いと思う。

高校以後の教育はどうあるべきか

性格として以下の役割を果たす教育機関が必要だと思う。

  1. 高校と企業の間のギャップを埋める知識・技術を教育する機関
  2. 高校と社会の間のギャップを埋める知識・技術を教育する機関
  3. 高校までに学び損ねた知識・技術を教育する機関
  4. 科学や技術自体の発展を主たる目的とする学術機関

よくある「大学とは」という議論では、4番目を大学とし、1番目を職業訓練校や専門学校と呼んだりしているけど、個人的には呼び方なんてどうでもよい。

どの大学も1〜4のすべての役割をある程度の割合で果たしている。割合の差が研究大学〜教育大学、ほとんど専門学校、ほとんど高校までの性質の差となっていると思う。

大学の数が少なくても良いと言う人たちのほとんどは1と4の役割しかみていないように思う。今の日本で社会が要求しているのは明らかに2と3。企業が新卒としてジェネラリストを求める傾向が高いので、本来ならば2の役割をきっちりと果たせるはずなのだけど、2の重要性を多くの人が感じていないので適当になってしまっている。年間数万人の経済学部卒が輩出されているのに、デフレを容認したり、自由貿易を敵視したり、国同士が企業同士のように競争している(比較優位が理解できていない)というのは、本来ならばおかしい。毎年、工学部卒が数万人いるのにゼロリスクや完璧なシステムを求めるなんてへんてこ。工学の基本はトレードオフだろ?

高校までに学ぶべきことを学べない人がいるのは、留年制度をきっちりと適用していないからだという話もあるけど、教育×破壊的イノベーション 教育現場を抜本的に変革するやばい経済学のどちらかに、厳密に留年させるのとなあなあで進級を許すのを比べるとと留年させることによってネガティブな影響がでるという話があったように記憶している。

また、再挑戦ができる社会ということも考えると、高校までに学ぶべきことを学びなおす場というのはあるべきだと思うので、その役割を果たす教育機関もあったほうがよい。一番良いのは、短期大学という仕組みをそれにあてるのがベストだと思う。まあ、短期大学の卒業生は嫌がると思うけど。再教育を担いたい大学は、名目上学内組織に短期大学(カレッジ)を用意し、再教育レベルの学生をそこに入学させ、高校卒業レベルの知識・技術が身につき次第、大学に編入させれば良い。

どうして、上のように考えるかというと、今の大学における再教育は、未成年を対象としているので十分でないため。

おわりに

長く、論点が散漫になったけど、自分の考えはっきりしたと思う。高校と社会のギャップを埋めることを目的とする教育、また、高校までに学ぶべきことを再教育する教育について、誰がその経費を払うのかについては、考えがまとまっていない。

関連リンク

追記:他の方のエントリー

appareyawaladappareyawalad 2011/02/22 13:57 なかなか興味深い見解と思います。



1、高校と企業の間のギャップを埋める知識・技術を教育する機関
2、高校と社会の間のギャップを埋める知識・技術を教育する機関
3、高校までに学び損ねた知識・技術を教育する機関
4、科学や技術自体の発展を主たる目的とする学術機関



取り組みとして、別途の機関を設けることも選択肢であるのは、当然と思います。雇用創出の機会など、新たな効果も期待できます。

一方で、既存機関・施設・システムを活用できるとしたら、というのも改革の選択肢として一考の価値ありかとも思い当たります。
1〜3については、下記のようにも思います。

----------------

★1については、
高校以外の教育機関でも、双方の合意や、法整備の下、一定の条件を満たすことで、インターシップ制度を広く積極導入することが考えられます。
国内企業に限らず、協定等により可能であれば、海外企業、海外官公庁などにも、幅を持つべきと思います。

★2については、
地域社会で年度単位の活動に関わることが選択肢として考えられます。
無縁社会の対抗として、地域コミュニティ(サークル、市民・文化活動、町内会など)の充実が取り上げられることが増えており、
また昨今、世界の動向を見ても、学力のボトムアップに限らず、民意の成熟と政治への反映が、共通テーマであることを考えると、地域主権(地域・個別ニーズの理解など)と地方自治体・中央政府(全体としてのマネージメント)の円滑な連携が必要であることも理由として挙げられると思います。
ボランティアでの介護や、NPO活動など、既存機関の仕組みに一定期間関わることで、「社会」への理解・問題意識が深まり、現実の視点に基づいて学校での勉学に取り組めることが期待できます。

★3については、
他で指摘あるとおり、既に入門レベルを養成する期間は、存在しています。
例えば、“もし”、大学に入ってから関心を持った分野を深めるため、小学校、中学校、高校、その他機関での授業や補講を受講できるとしたら、ある意味「やり直せる」ともいえます。
1,2とも関連しますが、もし高校の授業に、大学生や社会人、政治家などが混ざって勉学に取り組んでいれば、10代の高校生にはある意味、社会を垣間見るチャンスとなるかもしれず、向学への刺激ともなるかもしれません。
逆に、条件が整えば、海外であるように、弱年齢でも上位教育を受けれる機会があってもいいかもしれません。

----------------


<余談>


上述とは別に、グローバルな感覚を養うため、一定期間での異文化や海外経験も重要です。

例えば、特定の国に対して暴力的見解を述べる人がいますが、
そこに親しい関係の人たちがたくさんいるとしたら、容易に爆撃や戦争などとの発想になるでしょうか。
他国の犠牲の上に、自国のみが繁栄する政策・言論を強調する人たちは少なくなるのではとも期待できます。


他者の痛みを想像できない、現実離れした象牙の塔にこもらないためにも、学校教育と実社会とのコネクション、関係性は重要と思います。


このテーマを意識して個人レベルで取り組んでいることもあります。

大学を卒業して10年程経ちますが、
専門以外の新しい学問分野への興味関心を刺激してくれた教授とは、今でも機会あるごとに連絡を取り、
その教授を縁に、希望する現役学生も参加しての懇親会を持っています。
当然、飲み会を意図している訳ではなく、参加当事者の向上心刺激を願ってです。

赴任外交官や、芸術家、テレビ・ラジオなどの出演者や、一般企業の社会人、留学生、海外からの短期旅行者など、制限なく参加してもらうため、学生にとっても毎度、何かしらの勉学と生活・進路に繋がる刺激があるようです。
状況によっては、社会で活躍する人を連れて、こちらから大学の授業に参加させてもらうこともありました。
学生と一緒に、海外を代表する芸術家一行の東京見物をお世話する機会もありました。

これらは、社会との関連を意識した勉学を裏支えする意味でも、学生に対して、個人レベルでできる取り組みと考えています。

1授業を縁に、10年もの間、縦に横に人間関係が広がって、何かしらの刺激の場となっていることは、貴重なことと捉えていまいす。
社会問題とは、さまざまな次元・角度から、多くの人が取り組むことで、変化・効果が望めるのだと思います。

大学で教授との交流を通して得たことの1つは、
学問とは、人間関係が大前提であり、そこに叡智の蓄積も築かれる(cultivated)、ということ。
他者の痛みを想像できない人間が語る学問は、破壊・破滅を招く恐れがある(uncultivated)、ということ。

next49next49 2011/02/23 22:48 appareyawaladさん

ご意見ありがとうございます。

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