身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

悪の教典  感想

  • 今年は日本映画が例年より不作だった。同一時間が別視点でリフレインしてゆく青春映画の秀作『桐島、部活やめるってよ』が夏に公開されて、二転三転のサスペンスと皮肉が効いたロマンス・コメディの快作『鍵泥棒のメソッド』が秋に公開されて。あと、仇討をめぐる日常感覚のゆがみが面白い現代劇『その夜の侍』がまもなく(11/17)公開される(鍵泥棒から復讐者へ、堺雅人の俳優としての振り幅は素晴らしい)。パッと見、それくらいか。主だった国内賞の候補になりそうな『終の信託』や『北のカナリアたち』はりっぱな映画だと思うが、『終の…』の不倫に苦しむ女医役に草刈民代はないだろう。『北の…』のラストには泣かされたけど、良くも悪くも映画自体が吉永小百合色に染まっている。あっ、忘れてた、それなら北野武の『アウトレイジ ビヨンド』のほうがずっと推せる。これ、前作の『アウトレイジ』より数等出来がいい。悪人たちが色っぽい(とくに金子信雄ばりの神山繁!)というのが、お茶の間向けじゃない映画のふところの深さ。蓮実聖司なら、グッド→グレート→エクセレント→マグニフィセントな映画はすべからく、男女を問わず悪人に色気があると言うだろう。
  • 悪の教典』の悪人、というか自分が悪であるという意識すらない「グッドガイ」蓮実を演じる伊藤英明も色っぽかった。正直いうと、売れてからはほとんど興味の外にあった俳優さんだが、定型に陥りやすいサイコパスを演じてなおかつチャーミング、ブレヒトの音楽劇『三文オペラ』のメッキ・メッサーに通じるような「悪の華」があるのは、ただの二枚目俳優じゃない、さすがだなって見直した。メッキ・メッサーの主題歌ともいえる「マック・ザ・ナイフモリタート)」が、上機嫌だと鼻唄に出てくるほど蓮実のお気に入りの曲で、いくつかの局面でそれがアレンジされて映画を洒脱に活気づけている。すべての大人が、そして、そのさなかにいるティーンエイジャーの多くも、思春期に対して愛着と嫌悪を相反してもっているはず。「愛着」の側に振れると、問題解決能力において担任クラスの生徒たちのみならず、同僚教師にも信頼の厚い前半の蓮実、通称ハスミンが出来上がる。単細胞に熱血というんじゃない。知性と行動力の両輪を併せもち、生徒がなんでも相談できる気さくさを醸す。山田孝之の体育教師に弱みを握られてクラスの美彌が性的にいたぶられてる危難も、彼女をそれ以上傷つけない知略であっさり解決する。怯えを隠した生徒には、頭をクシャクシャ撫でる励ましのスキンシップ。
  • それが恐るべきシリアルキラーの「演技」というわけでもない。蓮実自身も、ことさらに演じているという意識がない(少なくとも映画ではそうだった)のが面白いところ。むしろ、ひとつの人格のオモテ面といったほうがよく、愛着から「嫌悪」の側へと増幅的に振り切れると、オモテの貌をも制御下に置いた、蓮実の無意識により近い裏のペルソナが立ち現れる。ケイタイを使った愉快犯的な集団カンニングにしろ、鬱屈した無能感を潜ませた不敵な全能感とでもいえばいいか、もっとぼんやりと何しでかすかわからない怖さにしろ、アンファンテリブル(恐るべき子供)たちはある意味怪物を宿しているのに、モンスターペアレンツは彼らを愛玩動物みたいに擁護し、教師は事なかれ主義よろしく腰が据わらない。結局、狂った学院をまっとうにコントロールできるのは俺だけ、と教師側の怪物・蓮実は考えたに違いない。嫌われ者の嗅覚で蓮実の来歴を裏リサーチする物理教師・釣井を列車の吊革で自殺偽装(引き画がいい)して以降、彼の粛清行為はじりじりと戦慄的にエスカレートしてゆく。同時に、そこにピカレスクなゾクゾク感も混入する。ピカレスクとは、読者や観客が普段抑圧している部分に訴えかけ、ダークヒーローの冒険に悦楽(抑圧の解放)をもたらすフィクション形式だ。それが、この映画が観客をエンターテインする作法(毒含みのもてなし方)なのだから、そこんところをとりあえず受け入れることが、評価の第一条件となる。道徳的基準を持ちだしてそれを受け入れないなら、ハナから観る価値がない。
  • 記憶に残ったディテールを幾つか、順不同で。首謀者的反抗児・圭介(染谷将太)を粘着テープでぐるぐる巻きにして、蓮実が仕掛ける折檻法。自分が危機的状況なのに、怜花(二階堂ふみ、くしくも『ヒミズ』コンビ)が蓮実に投げかける「圭介、生きてるよね」の言葉。アーチェリー部の翔と逢う約束を果たすため、窓から荒縄を垂らして決死の脱出を図るさとみ(松岡茉優)。着地に失敗し、足を挫いてもなお校庭の彼に駆け寄ろうとする跛行運動。発射された矢と弾の空中戦。圭介をふくめて仲良しトリオだった怜花と雄一郎の、防火用シュートを使った血染めの脱出プレイと、映画ならではのトリック演出。生徒役のなかでは、蓮実に窮地を助けられてベタ惚れとなる美彌(水野絵梨奈)が、光沢のある高級毛布をベッドの上ではだけた、しどけないうつ伏せの姿態など、もっとも起伏に富んだ役どころだった。制服のままパンツを脱がされ屋上から逆さ落としされる、半ばギャグっぽくもあるショック・シーンを含めて、おいしい役。パンツは犯人偽装のための証拠品なのだが、頭が地面に突き刺さってお尻が露わになる図を一瞬思い浮かべた。けれど、ポイントは眼(求愛者の眼から猫みたいな捕獲者の眼への変貌)にあった。ぼかして書くほかないが、試写室最前列で観ていた同級生役の女子たちが感激の面持ちで「最後、絵梨だったね」と笑いあっていた。
  • ヨーロッパにもファンの多い実力派・三池崇史監督の生徒たちへの演出は、学院内の態度と最小限の台詞でひとりひとりのキャラクターを押しだし、心理よりも差し迫った行為、情動を乗せた肉体の動きとアクションをギリギリのレベルで彼ら、彼女らに要求する。おそらく人物関係の緊密さを求める原作(貴志祐介著)ファンには不満もあろうが、限られた上映時間の映画としては断然正解だと思う。うーむ、やるなぁと思ったのは、生徒たちが泊まり込んで準備する文化祭前夜、チーチッチ、チーチッチと蓮実が散弾銃を構えて集団殺戮にのぞむ、ひとりひとりの死に際の落とし前のつけ方だ。最近のハリウッド大作だと大仕掛けですべてが木端微塵、なかなかひとりひとりの死に対して映画的な責任の取り方をしてくれない。体の吹っ飛び方、落下の仕方。断末魔の形相、投げ出されたナマ足。若さをまとった生(エロスの発露)が、次から次へ即物的に死(タナトスの帰結)へ転換してゆく倒錯性!
  • 思春期に対して、かぎりない愛着とかぎりない嫌悪をともどもに抱くひとりとして、この映画はすこぶる刺激的だった。題材に対して逃げを打たず、はっしと組み合っている。故・深作欣二監督の『バトル・ロワイヤル』より上位に『悪の教典』を置いてみたい。蓮実がぬけぬけと放つ最後の台詞と、軽々とした仕草にも唸るものがあるのだが、これ以上は書けない。代わりに、鮮やかなオープニングのシークェンスを記しておく。将来を考えて息子を隔離すべきかどうか、父と母が差し迫った風情で語りあう。凶器をもった「恐るべき子供」、おそらくは未来の蓮実が闇に足音を潜ませ、こっちにやってくる。秘めやかに開く両親の背後の扉。画面は不吉な予兆を湛えた空となり、死神みたいなカラスが二羽横切ってゆく……。【11月10日公開】

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