『帝国の慰安婦』朴裕河

帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い

帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い

『帝国の慰安婦』(朴裕河)読了。うーん。なかなか複雑な気持ち。細かく見ていくと、そこまで言ってしまっていいのかなあ、というところがなきにしもあらずだけれど、まあ、大筋は、賛同できる、と思った。

すごーくシンプルにまとめると、つまり、「もう、強者(国家・豊かな者・男・大人)が、弱者(個人・貧しい者・女・子ども)を、戦争(暴力からナショナリズムの高揚まで)に利用するのは、やめてくれ」ということだった。

韓国では、「泣き叫ぶ両親から、日本軍人が、無理矢理少女たちを強奪していく」というストーリーが流布しているそうだけれど、朴氏の分析によると、実際の従軍慰安婦たちから、嘆く両親の姿を聞き取ることはまれ、とのこと。たいがいは、教育のような社会資本や、家庭・共同体のようなセーフティーネットから漏れた貧しい女性たちが、売春業者(女衒や遊郭の抱え主)に誘われたりだまされたりして集められ、日本語の取得と皇国教育を施され、故郷から(これまた無理矢理)連れてこられた男たちの、性欲のみならずノスタルジーを「慰安」するために、戦場に送り込まれたのだろう、という。したがって、そこには残酷な性労働のみならず、ともに戦う、という「同志」感情もあっただろう、という。
(韓国で問題になっているのはこの「同志感情」の部分らしい。基本的に、元慰安婦は「抗日の戦士」でなければならないから。でも、それは、彼女たちの記憶を改ざんすることだ、そして、「そう思っていたのは、あなたのせいじゃない」といって、抱きしめるのが、我々の本来のやるべきことだろう、というのが朴氏の主張だ)。

つまり、「慰安婦」は、「国家の拡張のために個人が駒にされる」という「帝国主義」と、「女性の人権が無視される」という「家父長制」の産物である。具体的には、植民地の宗主国である日本が、非植民地である朝鮮を、そして男たちが、貧しい女を、利用する、という「システム」であり、しかも、それは、植民地を持つ全ての国の、男たちが作り上げ、利用した「システム」であった。のみならず、現在も、多くの「豊か」な国家・大人・男たちが、行っていることだ。
もう、戦争(日韓のいがみあいも含む)から、慰安婦たちを解放して、今なお、世界中の紛争地でとらわれている慰安婦たちを救出しよう。朴氏が主張しているのは、そういうこと、なんだろうと思う。

じつはこの間、アマルティア・センの「人間の安全保障」を読んだところ。そこでも、貧しい女の人たちは、身体や命を守るために、最終的に身体や命を売ることになる、ということ、それを食い止めるにはまず教育、そしてセーフティネットの構築、と書いてあった。
慰安婦問題は現在進行形ということでしょうか。

そして朴氏は、もうひとつ大事なことを言っていて、それは、「人間は、みんな、ファジー(曖昧・多様・多面的)でフラジャイル(弱く・もろく・流されやすい)な存在だ」ってことなんですよね。それをまるごと認めて、赦しあわないから、日本は「美しい日本」とか言うし、韓国は「抗日・親日」で割れちゃう。日本人もいろいろなら、韓国人もいろいろ。そして、一人の人間の中にも、いろんな側面がある。それを認め合って、赦しあって、手を携えて、世界から人権侵害を無くそうよ、と訴えている、と読んだ。

慰安婦支援者の人たちの考え方には、慰安婦支援者の人たちにも言い分があるだろう、という気がした。とくにヘイトスピーチをはじめとする嫌韓運動について、慰安婦支援者の人たちの態度に責任を帰しているのだけれど、日本人の実感としては、あれは、日本の病理だなあという気がする。たしかに、アジア女性基金が韓国では受け入れられなかったと聞いたとき、あれ、なんでだろう、と私も思った。でも、韓国には韓国でなにか言い分があるんだろう、他のやり方のほうがよかったんじゃないか、とは思えど、嫌韓にはならなかった。
たぶん、慰安婦問題が解決したとしても、彼らはなにか理由をみつけて、嫌韓運動をしただろう。むしろ、朴先生のいう「植民地意識」が彼らの意識の根っこに残っているせいであったり、あるいはこの日本社会自体が、彼らを別のところで排除しつづけてきた結果として、彼らのうっぷんが噴出した、ということなんじゃないかな。

いずれにせよ、韓国と日本が手を携えて、人権侵害に立ち向かえる日がくることを祈らずには居られない。