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2018-03-19

線香花火のような人生 村山「儚さと空しさと満たされなさと」

  • 村山達也「儚さと空しさと満たされなさと 人生の意味と死の関係についてのごく部分的な考察」『東北哲学会年報』No. 28、2012年、1–13ページ。

 人生の意味について、儚さという観点から考察した論文を読む。人生が儚く、空しいとは、どういう心情なのだろうか。なにか喜びや充実感を日々感じても、いつか死ぬのだから、喜びは儚い。そんな喜びを多く積み上げられたとしても、人生は儚いと感じてしまう。ここで儚いとは、愛おしかったり素晴らしかったりするものを享受はできるものの、それを味わい尽くすには十分な時間が与えられておらず残念だと思われることを指す。だとすると人生が儚いとは、いろいろな喜びがあっても、やがて死によって生が断ち切られてしまう以上、どう生きたとしても喜びを味わいつくすことはできず、最終的に完全な満足は得られないという心情をあらわしている。このように全体としての充足がないならば、部分の充足に意味はないと感じてしまうのは、私たちが人生をひとつの劇や楽曲のようにとらえることから来ている。これは理解できる考え方ではあるが、錯覚であると著者は考えている。「人生が完全な作品にはならないとしても、それでも人生を喜ばしく生きることはできるのである」(13ページ)。

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2018-03-12

会計検査院の権限の意味 瀬畑『公文書問題』

 会計検査院の果たすべき役割を、特定秘密の問題と関連づけて論じた論考を読む。会計検査院内閣から独立の組織であり、日本国憲法によって国の決算を「すべて」「毎年」検査するものとされている(第90条第1項)。この規定は戦前の反省を踏まえたものだ。1889年に制定された会計検査院法では、会計検査院が検査できない領域が定められた。たとえば軍の機密費である。その後、軍関係の予算の検査はさらに困難になっていった。出兵に必要な物品の調達にかかる費用については、検査が必要ないとされたり、軍事機密の閲覧をたとえ許されたとしても、そこで得た情報を報告書で使うことはできないといった決まりがつくられた。さらに戦争にあたっては、細目なしで予算を軍に与え、戦後に会計を閉めてから検査するという仕組みができた。これらの制度があったからこそ、軍は検査院や議会の検査を経ずに、多くの予算を獲得し、自由に使用することができた。会計検査院の機能不全が、いわゆる軍部の暴走の一因だった。この反省を踏まえ、戦後は会計検査院が例外なく決算を毎年検査するという規定がつくられたわけである。

 とはいえ、会計検査院が厳密な検査を行えない領域が、現在でもあるという。たとえば内閣官房機密費外務省機密費警察庁機密費である。このような領域のひとつに特定秘密を組みこむことを内閣官房は探った。実際、特定秘密保護法の条文上は、決算の証拠書類に特定秘密が含まれていた場合、書類を会計検査院に提出しないことが許される書き方になっている。しかしこれは憲法の規定に反するのではないか。毎日新聞報道など、紆余曲折を経て、最終的には書類の提供を拒むことは実務上は考えられないという回答が首相から引き出された。

 著者の主張は2点ある。第一に、条文が憲法と整合しないのは法律の不備なのだから改正すべきである。第二に、そのような不備を明るみにだし、それを補うような答弁を政府から引き出すにあたっては、報道の役割が極めて大きいということである(この件では、毎日新聞がその役割を果たした)。

2018-02-13

価値から生の意味へ 渡辺「歴史科学(歴史学)の方法論」

 19世紀後半に盛んにとりあげられた価値の哲学と、ハイデガー哲学との研究を探る論考である。新カント派のヴィンデルバントリッカートが学問の種類を2つに分けたのは、よく知られている。一つは科学の領域である。事実にもとづいて普遍的に成りたつ法則を発見する。これにたいして歴史の領域はあくまで個別的な出来事を扱うので、法則化になじまず、一見すると学問といえないように見える。これにたいしてヴィンデルバントリッカートはこう答えた。なるほど歴史学は一回きりの出来事を扱う。しかしその出来事を意味を解釈する点を忘れてはならない。この解釈は価値にもとづいて行われる。この価値は普遍性をもつ。そのため歴史学も普遍を扱う学問なのだと。

 歴史を学問とみなすための考察は、ラスクに引き継がれた。彼はこれを論理的に行おうとする。この論理的なやり方の要点は、素材と形式という質料形相論の枠組みで、歴史学を理解しようとする点にあるようだ。素材は個々の経験である。それに意味を与えるような価値が、形式として理解される。

 ここから私の理解が及ばなくなるのだが、どうもこの意味の領域の話がジンメルから来ているようだ。個々の出来事が普遍的な価値に関係しているということは、出来事がもつ意味として現れてくる。こういう(モノとしてあるという意味での)実在でもなく、(空想も含むという意味での)主観でもないような、客観性をもつ理念の領域というものを、ジンメルは「第三領域」と読んでいた。このジンメルの理解がリッカートとラスクには引き継がれていたという。

 最後に、以上の議論ハイデガーの関係が触れられる。ハイデガーは、ヴィンデルバントリッカートと同じく、自然科学歴史学をともに学問とみなしながら、区別していた。またこの区別に関する考察が、論理学的な性質をもつと考える点で、ラスクの考え方を引き継いでいる。最後に存在の意味という視点は、ラスクの意味についての議論を介して、ジンメルの第三領域につながっている。これらの問題意識を引き継ぎながら、そこに時間という要素をつけ加えたのが、ハイデガー独自性であり学問的な野心であった。

2017-12-24

意味ある人生を求めて 村山「人生の意味の分析哲学

 分析哲学の領域で、人生の意味の問題がどう扱われているかを明晰にまとめてくれている。まったく知らない分野(そんな分野ばかりなんだけど)への案内として、大いに勉強になった。流れとしては、まず「どんな道徳にしたがって生きるべきか」を問うような倫理学は、それだけだとただ道徳的に生きる人間だけに価値を認めることになってしまうけれど、私たちが価値や意味ある人生というときには、道徳以外にもいろいろな基準があるだろうという問題提起からはじまる(スーザン・ウルフの論文)。そこから、ではどういうときに私たちは人生の価値を認めるのだろうか、とか、その価値は人生の全体にたいして認定されるのか、それとも部分にたいしてかという問いがあらわれてくる。また、私たちが人生に意味を認定するのはいいとして、その時認定されているものは私たちの主観的思い込みなのか、それとも私たちから独立した存在として認められるのか、などといった問いも立てることができる。最後に、有意義だと思って打ち込んでいる活動に、ふとしたときにバカバカしさを感じてしまうことがある(「なんでこんなことに必死になっているのだろう?」のように)が、どうしてこんなことを感じてしまうのかも分析されなければならないという。

関連文献

コウモリであるとはどのようなことか

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徳倫理学基本論文集

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2017-12-05

改革を刷り上げること 加藤「ルターの宗教改革

 宗教改革といえば何が思い浮かぶだろうか。いろいろな可能性があるだろうが、その一つにマルティン・ルターローマ・カトリックの教えに反旗を翻したという事実は間違いなく含まれるはずだ。長きにわたって西洋で維持され、そのため硬直もしていた教義に、ルターが新たな教えをもって立ち上がった。その核心はなんだったのか?たとえば信仰義認とはなにか?こう話を進めると、いきおい議論は精緻に編み上げられた神学教義同士の対抗に集中する。

 しかし対抗は別様にも語れるはずだ。ルターは新たな教えを抱いていただけではない。新たなメディアと手をたずさえていた。印刷機である。ルターと印刷機の関係に着目することで、改革の別の側面が見えてくる。そう、宗教改革とは膨大な紙の束を吐き出しほかならなかった。

 加藤はルターがいかに新たなメディアを使いこなしていたかを指摘する。短いパンフレットに、メッセージを簡潔にしるし、俗語で発信する。仕事の質の高い出版業者に、ヴィッテンベルクに支店を出させる。著名な画家に木版画を作成させる。18年から19年に出した「45の著作は、291もの版を重ねるのだ」(20ページ)。じつに「ヴィッテンベルクでビールを飲んでいる間に、みことばが人々のあいだで働いた」(27ページ)と彼に言わしめるほど、メッセージは人口に膾炙した。

 だが吐き出されたとほうもない紙の束は、彼がビールを飲む間に、制御不可能な仕方で働きはじめていた。それは人々を扇動した。暴力をもって改革をなしとげようという機運が高まった。これをおさえこまねばならない。ルターはどこに手をつけるべきか熟知していた。印刷機だ。手はじめに論敵の出版物の禁止を実現する。やつに紙の束を吐き出せるわけにはいかない。そして新たなメッセージを発信する。暴力的な蜂起に加担する者は、「誰でも刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい」(34ページ)。

 この残酷なメッセージは、敵対者たちを歓喜させた。ついに反逆者が残虐な本性をあらわした。ここでカトリックはなにをしたか。やはり印刷機に手をのばした。ルターのメッセージをあえて印刷し、その酷薄さを喧伝するのだ。

 古代人は明敏にも、神のひとりに「噂」を数えた。じつに宗教改革は噂を味方につけようとする抗争であった。だが神を人間が制御できるはずもない。つねに「噂は諸邦の民をいくとおりもの話でみたした」(『アエネーイス』4歌189行)。こうして、ルターについてもいくとおりもの話が生みだされた。その顛末を、加藤の論考は描きだしている。