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2016-08-30

初期ベネケの構想 Beiser, Genesis of Neo-Kantianism, ch. 3

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

  • Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), 150–160.

 ベネケの最初の著作 Erkenntnißlehre (1820) にはすでに彼の認識論の基本的な構想があらわれている。彼の目標はカントのプロジェクトの完成であった。そのために彼は認識論の基礎である、判断の理論にとりくむ。判断をするとき、精神には常に二種類の活動がある。主語によってあらわされる活動と、述語によってあらわされる活動だ。両者が一致する、ないし後者が前者に含まれるとき、判断は真となる。この意味で[どの意味でだ?]、すべての判断は分析的である。数学でもそうである。よってベネケは、数学が空間と時間をアプリオリなものとして要請するというカントの見解を否定する。

 だが主語と述語の一致からなる真なる判断だからといって、それが現実世界で成り立っている保証はない。保証は経験から獲得せねばならない。ここでふたつ難問が生じる。第一に、経験からは決して普遍的な判断は得られない。完全な帰納は不可能だからだ。第二に、私たちは表象についての知識がほんとうに外界と対応する客観的なものかを判定する術がない。

 最初の著作で前提とされていた心理学についての理解が、次の著作 Erfahrungsseelenlehre (1820) では説明される。心理学はすべての学問の基礎となる。認識論を学問にできるのは心理学だけだ。なぜなら心理学は経験的だからだ。また知識を理解するためには、心を理解せねばならない。知識は心がつくりだすものだからだ。さらに知識の対象を同定したり名指したりするために使う名称も心の活動の産物なのだから、やはり知識全般の理解に心理学は欠かせない。

 この経験主義はカントの失敗を克服するために必須である。カント知識は経験に由来するといいながら、ア・プリオリ普遍的な命題をえようとした。矛盾を解消するためには、認識論を経験に依拠させるしかない。この点でベネケはフリースとヘルバルトにならっていた。

 経験的な心理学は観察と帰納にもとづく。ただし方法論上の洗練された議論はなく、ベネケはたかだか内観(introspection)を念頭においていただけのようだ。心理学によって、さまざまな精神の活動は、基本的な活動の組み合わせに還元されていく。これら基本的な活動の束が個々の人間の精神となる。ベネケはこの活動を能力と呼ぶのを拒否しなかった。この点で能力心理学を完全に否定したヘルバルトとは異なっていた。人間の概念や言語や理解は、外界からの刺激が起こすさまざまな活動の組み合わせと、組み合わせの反復から生じる。人間が知識をえるさいにとくに重要なのは、感覚刺激からくる知覚活動と、知覚を組み合わせる活動(とくに因果関係として組み合わせる活動)だ。以上の構想ではすべての知識は経験に由来するので、ア・プリオリ知識は存在しない。主観と客観の区別も原理的にはない。

 すると普遍的な命題はえられないのではないか。ベネケは肯定に傾いているようにみえるものの、はっきりと明言しない。むしろ数学の例をあげて普遍的命題の可能性を探る。私たちはひとつの三角形の作図から、すべての三角形の内角の和が180度と理解する。おなじように他の分野でも普遍的な命題をえられないだろうか。だがこの議論をベネケは深めていない。

 Erfahrungsseelenlehre の半分は美学倫理学にあてられる。美学は感情を扱う。感情は刺激と精神の活動のあいだの割合から生じる。三種類あり、喜び、崇高さ、美しさである。これらの感情が倫理を基礎づける。ある行動の道徳性は、それが崇高さを引きおこすか、美しさを引きおこすかによって判断される。倫理美学に還元する点でベネケはカントに背いた。彼に言わせればカントの実践理性はオカルト質だ。またカントが定める絶対的な倫理上の規則な個々の状況を考慮しない不合理なものだ。むしろ感情に依拠した道徳こそが、公正で正確な判断をもたらす。

 以上が初期のベネケの基本構想である。

2016-08-15

思惟属性における個体 Della Rocca, Representation and the Mind-Body Problem in Spinoza

Representation and the Mind-Body Problem in Spinoza

Representation and the Mind-Body Problem in Spinoza

  • Michael Della Rocca, Representation and the Mind-Body Problem in Spinoza (New York: Oxford University Press, 1996), 28–38.

 スピノザが思惟属性での個体をどう理解していたかを考察する箇所を読む。『エチカ』での個体の定義は、延長属性での個体についてのものである。思惟属性での個体をどう理解すべきかは明確には書かれていない。そこで延長属性での定義から、思惟属性での定義を推測せねばならない。

 延長属性での個体とは、その構成諸物体が、それらが共有している運動と静止の割合を保存しようとする傾向性もつような物体のことである。これを並行論の前提から思惟属性にあてはめると次のようになる。思惟属性での個体とは、それを構成する諸観念が、それらが共有しているなんらかの特徴を保存しよとする傾向性もつような精神のことである。この特徴とはなにか。それはコナートゥスの定義から「我々の身体の存在の肯定」(3p10d)だと推測される。よって思惟属性のもとでの個体とは、「それを構成する諸観念が、それらの総体がもつ身体の存在の肯定という性質を保存しよとする傾向性もつような、精神のことである」となる。この結論はあいまいである。しかしこれはスピノザ議論そのものに説明が欠けているところからくる。運動と静止の割合や身体の存在の肯定というような鍵となる概念について、彼は十分な説明を与えていないからだ。

2016-07-26

科学主義と、通底する立場の存在 金山武谷三男論 科学主義の淵源」

昭和後期の科学思想史

昭和後期の科学思想史

 力作である。武谷三男は著述家としてのその長い経歴のなかで、じつにさまざまな問題について発言してきた。その膨大な著作群を読みとくことで、いくつもの論点共通してささえている彼の根本的な考え方をあきらかにしている。その考え方とは、「科学主義」である。武谷によれば、人間はがんばって自然のあり方をあきらかにしていけるし、またそうしてきた。ここでの人間というのは、あらゆる制約から自由に、客観的に自然を探求する者を指す。制約とは資本や政治の論理といった「非科学的」な要因である。これは裏をかえせば、経済的・社会的・政治的な要因は科学にとって本質的ではないということである。ここから、武谷には科学を社会的に構成される営みとしてとらえる視点が欠けることになる。また社会的要因への着目の弱さは、科学的に真なる認識を倫理的に善ととらえる短絡を招く。ここからさらに、真なる認識を獲得せんとする科学者のあるべき姿は、ほとんど定義的に善きものとなる。要するに、武谷の著述には科学を批判的に考察する回路がない。以上が、彼の認識論、技術論、原子力に関する立論、そして人権概念の使い方の検討から説得的にしめされる。

 科学主義の検討から外れるのが第9節である。ここで著者は武谷が当時の社会主義国家をどう評価したかを検証し、次のように結論する。武谷は現存する社会主義にある問題は、周囲の資本主義勢力妨害によるところが大きいと考えていた。この考えは、彼の科学主義と同型である。なぜなら現存の科学によって生じている問題は、非科学的な要因による妨害によると彼は考えていたからである。

 たしかに同型である。ではこの同型性はどう解釈されるべきか。ひとつの見方は、この同型性は偶然の産物とするものだ。現存する社会主義ある問題を資本主義側の干渉に帰責することはある時点まで多くの論者によって行われていた(のではないだろうか?)。武谷もこの見方をとった。それがたまたま彼が科学にたいしてとっていた見解と同型のものであったのだ。

 別の解釈もでき、著者はこちらをとっているように思われる。それは上記の同型性には関係があるとするものである。「科学論・技術論で通底していた彼の認識論的・実践論的立場が、そのまま[社会主義をめぐる]国際情勢をみる上でも持ちこまれている」(41ページ)。

 これはいい加減に読むならば、武谷の科学主義の観点が、その国際情勢論に持ちこまれたと読める。しかし科学の本質について認識と、社会主義の現状認識は別の話であり、前者が後者に直接影響するとは考えにくい。そのようにはおそらく著者も考えていない。なぜならここでは、「科学論・技術論で通底していた彼の認識論的・実践論的立場」と書かれているからである。おそらく著者は次のように主張している。武谷の科学主義の背後には、それをささえるより一般的な理路がある。この理路をたどって国際情勢を論じると、先述の社会主義評価になる。

 もしこの読みが正しいなら、ではその一般的な理路とはなにかが問われるだろう。それはおそらく「なんらかの内的一貫性をそなえた機構は、外部からの妨げがないかぎり、その本来のあり方を達成し、その達成は善である」のようなものとなる。

 この私の解釈が正しいかはわからない。しかし私には、もし上記の同型性のあいだに関係があると主張するならば、科学主義と国際情勢判断をともに支えるこのような非常に一般的な前提の存在を想定せずにはいられない。さらにいえばこのような前提を想定するより、同型性を偶然の産物として説明したほうがよいのではないかと思えてくる。

 本論文は思想史の論文のひとつのモデルとなりうる。大量の史料を読み通したうえで、そこにある一貫した論理をとりだすという手法がみごとに実践されているからだ。くわえて論述の質もきわめて高い。議論の運びは流れるように進む。個々の文章表現にも工夫がなされており読み手を楽しませる。それでいて凝り方が嫌味を感じさせるところまでいかない抑制がある。良質な研究の見本として分野を問わず多くの人にすすめたい。

2016-07-10

誰がモーセ五書を書いたか Malcolm, "Hobbes, Ezra, and the Bible," #1

Aspects Of Hobbes

Aspects Of Hobbes

  • Noel Malcolm, "Hobbes, Ezra, and the Bible: The History of a Subversive Idea," in Malcolm, Aspects of Hobbes (Oxford: Oxford University Press, 2002), 383–431.

 『リヴァイアサン』や『神学・政治論』になぜあれほど過激な聖書解釈が現れることになったのか。その文脈を復元する重要論文である。論旨を正確におさえておかなくてはならない。まず最初の2節の内容をまとめる(383–398ページ)

 モーセ五書を書いたのはモーセではない。エズラである。この考えは17世紀の後半から、18世紀のヴォルテールにいたるまで、聖書の権威を否定しようとするラディカルな知識人にくりかえし利用された。この危険な説の源泉として名指しされたのは非神聖なる三位一体とも呼ぶべき著者たちであった。すなわち、スピノザ、ラ・ペイエール、ホッブズである(リチャード・シモンの名を加えてもよい)。だが3人のうちで誰が最初にこの説を唱えはじめたかを確定するのは容易ではない。スピノザはおそらく、中世ユダヤ教の文献の吟味から、モーセ五書の真正性の否定(以下モーセ五書を書いたのはモーセではない、という説をこのように呼ぶ)を引きだした(ただしその後にラ・ペイエールとホッブズを参照した可能性は高い)。ホッブズはラ・ペイエールの著作について耳にし、そこから真正性の否定の議論をつくったのかもしれない。しかし彼が独自にこの結論に到達した可能性もある。ラ・ペイエールが真正性の否定の議論をどこから学んだかは不明である。このように結論ははっきりしない。だがこのはっきりしなさこそが重要なのだ。1648年から1656年の短期間のうちに、3人の著者が同種の結論に達した。この事態は、3人のあいだでの単線的な影響関係を想定するよりも、むしろ3人がそのような結論を引きだすことを可能にする共通の状況が存在したということを示唆しないだろうか。モーセ五書の真正性の否定につながるような一連の考えが、3人の全員に利用可能だったということではないだろうか。じつに、そのような考えは利用可能であった(続く)。

2016-06-08

カント派のはじまりのはじまり Beiser, Genesis of Neo-Kantianism, ch. 1, #1

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

  • Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), 23–46.

 新カント派の歴史を扱う書物から、フリースをとりあげた章を読む。今回は前半部である。

 ヤコブフリードリヒフリース(1773–1843)の名前が新カント派の歴史のなかで言及されることは近年まれである。しかし彼こそは、ヘルバルトとならんで新カント派の創設者であった。フリースは誰よりもはやくカントへの回帰を提唱していた。その立場から非常にするどく思弁的観念論批判していた。彼はどの観念論者よりもカントに忠実であった。彼の影響は死後も続いた。死の直後には、 Ernst Friedrich Apelt のもと、イェナにフリース学派が誕生した。さらに1903年にはゲッティンゲンで Leonard Nelson の指揮下に新フリース学派が生みだされた。フリースが新カント派の歴史で果たした役割は三つである。第一に彼はカントへの心理学的なアプローチの創始者であった。また新カント派のなかで科学的アプローチを重視する最初の人物であった。第三にカントの超越論的観念論人類学的に解釈することを主導した。この章では『新理性批判 Neue Kritik der Vernunft』(1807年)にいたるまでのフリースの活動を概観する。

カントの発見

 フリースは1792年から95年までニースキーのモラヴィア兄弟団のセミナリーで教育を受けた。フリースはまずラインホルトの『根元哲学』に導かれてカントに取りくんだ。そこでラインホルトの方法とカントの方法のあいだの大きな齟齬に気がついたというのである。ただしここでフリースが読んだのはカントの「懸賞論文」と『プロレゴメナ』であった。そこでは分析方法が使われており、それはたしかにラインホルトの総合的方法とは異なるものであった。もしフリース批判期のカントに最初に出会っていたら彼の反応は異なっていたかもしれない。そこでは総合的方法が用いられているからである。いずれにせよ、ここにフリースの目標がたてられた。批判哲学の元来の方法である分析的方法をラインホルトや、観念論者に抗して復興させようというのだ。さらにこの分析的方法は、経験科学としての心理学にもとづくべきものとされる。私たちの日常経験の観察から、そこで用いられている能力を分析し(区分し)、それを通じてカント批判書で展開する能力論を経験的に基礎づけるのである。これはいわば、批判哲学に「懸賞論文」の分析的方法を適用する試みであった。

心理学正当化

 1796年にライプツィヒで、フリースはいくつかの重要な草稿を作成している。そこでまずフリースは、認識とは心の状態なのだから、これは心理学によって経験的に探求されねばならないと宣言する。しかしだからといって彼が経験の条件であるような、超越論哲学の第一諸原理と、経験的に得られる知識を混同したわけではない。むしろ彼はこの二つを鋭く分けた。第一諸原理は経験的知識によって論理的に正当化はされない。しかし経験的知識は第一原理の発見に必要だという。ここからフリースは、超越論哲学の原理を、経験からでなく、直観される原理からひきだそうとするラインホルトやフィヒテの方法を批判した。心理学という経験科学によって、超越論の原理を見つけるという手法は、G.E. Schulzeによるカントとラインホルト批判に応えて考えだされたものと思われる。しかしそうすると超越論の原理は結局証明できないのだろうか。フリースは、心理学は原理を論理的に証明はできないものの、その原理がなければ人間は感覚したり思考したりできないはずだというかたちで、その必要性をしめす事はできると考えていた。この考えが後年発展させられる。

初期の心理学プログラム

 フリースは自らの研究を予備研究(propadeutic)と呼んでいた。それはさまざまな認識の種類を発見し、それがなにに由来し、それがいかなる能力に属し、またそれらが互いにいかなる関係に立つかを確定する。この予備研究は、彼のいう「普遍的で経験的な心理学」の準備をなす。それはすべての人間に観察され、また内的経験の観察によって明らかになるような、心で働く一般的な法則をあきらかにしようとするものである(内的経験の究明に専念するので、心身問題は問わない)。このような経験科学がどうして超越論の原理を提供できるかというと、そもそもカントの超越論哲学心理学的な基礎をもつからである。超越論の原理が経験の条件であり、経験が人間を離れてはないならば、その原理は人間の能力のうちに基礎をもたねばならない。[37–38ページは理解が行き届かないので割愛]

イェナでの出会い

 1797年にフリースはイェナに移る。そこでフィヒテの講義を受けて失望する。新カント派の歴史にとって重要なのは、同地でフリースがカール・クリスティアン・エルハルド・シュミッドにであったことである。彼は最初期のカント主義者であり、ラインホルトやフィヒテ批判者であった。カント心理学的に解釈していく点で、シュミッドとフリースの目標は一致していた。そのため彼らは手を取りあい、フリースはシュミッドの雑誌に寄稿することになる。またイェナでフリースは、Alexander Nicholaus Scherer に師事し、化学を学ぶ。そこで彼はカントに反して、化学のうちに数学的法則を発見しようとしたのだった。

医学への進出

 いろんな経緯があり、フリースは1803年に医学についての論文を出版する。彼によれば、科学における説明パラダイムは、事象の物理的な説明であり、これは数学説明にほかならない。このパラダイムにのっとる生理学を構築することはまだほとんどできていない。しかしフリースはそれは原理的には可能だと考えていた。この点で、彼はカントと異なる。カントは有機体については機械論的な説明を与えることはできないとしばしば言明していた。とはいえ現状では、医学はより実践的でなければならない。数学説明を与えようとするのではなく、観察に基づき治療に必要な知見を蓄積すればよい。大切なのは、哲学的・数学的レベルの説明と、経験的なレベルの説明を混同しないことである。まさにこの混同をおかしているのがシェリングであった。彼は自らの一般理論を具体的な患者に適用している。しかしそれは危険である。実際、シェリングにはこれにより恋人の娘を死に至らしめたという疑惑があった。よりすぐれた生理学ジョン・ブラウンのものである。観察にもとづいたものだからである。フリースの理解によれば、ブラウンの理論の中核にあるのは、興奮性(Erregbarkeit)の概念である。興奮性とは身体のある部位が、どの程度外部からの刺激をうけ、またその刺激に対してどの程度反応するかを指す。身体の各器官はそれぞれの興奮性をもち、その総体として人間がある。そのため個々の人間にはそれぞれ適切な刺激の量がある。よって刺激が少なすぎたり多すぎたりすると病気になる。医学論文にあらわれたシェリングとの対立はより本格化していくことになる。

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