告発の切実さによって消されたもの:「『丸山眞男』をひっぱたきたい」を読んで

 各所で話題になっている「『丸山眞男』をひっぱたきたい」を読みました。

  • 赤木智弘、「『丸山眞男』をひっぱたきたい:31歳フリーター。希望は、戦争。」、『論座』、140号、2007年、53-59頁。

 私が思うに、この論考で赤木氏が主張しているのは、以下の引用文に現れている一点に尽きます。

 私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の要求だろう(58頁)。

 赤木氏の認識に従えば、日本の経済成長が著しかった時代に生まれた世代は、安定した職を得て、現在(比較的)豊かな生活を享受しています。それに対して、バブル崩壊以後に生まれた赤木氏の世代は不況下で就職はありませんでした。そして、バブル崩壊後10年以上が経った現在でもフリーターでいることを強いられ、経済的にも社会的にも自立することができないでいます。「それなのに、社会は我々に何も救いの手を差し出さない(58頁)」。

 このような〔=経済成長世代とポストバブル世代とのあいだにある〕不平等が、また繰り返されようとしている。この繰り返しを断ち切るために必要なことは、現状のみを見るのではなく、過去に遡って、ポストバブル世代に押し付けられた不利益を是正することだろう。近視眼的で情緒的なだけの弱者救済策は、経済成長世代とポストバブル世代間の格差を押し広げるだけである(56-57頁)。

 ここから分かるように、赤木氏の議論は、自分の現状に対する不満に加えて、その自分の現状をもたらしたものは、自分が生まれた世代にあるという認識に支えられています。

 つまり、自分が現在困窮しているのは自分の責任ではない。自分はたまたまそのような世代に生まれてしまっただけだ。一方、現在豊かな生活を享受している年長世代は、優秀であったからという理由で現在の地位にあるのではない。年長世代が現在のような生活をすることができるのは、たまたま経済成長著しい時代に生まれたからに過ぎない。したがって、自分だって年長世代に生まれたならば、現状よりはるかによい生活をできていたはずなのだ。自分が選ぶことができない世代によって、これほどの格差が存在してしまう不公平を許容する社会は許しがたい。このような問題意識です。

 要するに、赤木氏の論考の根底にあるのは、自分が置かれている貧困状態に対する不満と、そのような貧困状態を生み出している不公正さを許容する社会に対する怒りです。この不満と怒りが赤木氏の論考のすべてであると言ってよいと思います。戦争が希望であるとか丸山眞男の横っ面がどうだとかいう話は、(少なくとも私には)この不満と怒りを表現するためのやり方の問題に過ぎないように感じられました。

 赤木氏の論考は、その議論を支える論理の正しさはともかくとして、彼が抱いている不満と怒りが明確な形で表現されているという点では胸を打つものがありました。本論考が現代社会の問題を告発した象徴的な文章として読まれているのも当然のことだと思います。

 ただ私は、経済成長世代とポストバブル世代を、いくら議論のためとはいえ、赤木氏ほど二分法的に論じることに違和感を覚えざるをえませんでした。経済成長世代に生まれながら、現在赤木氏が感じているような不公平感を感じざるを得なかった人たちが少なからず存在したのではないでしょうか。赤木氏が世代の違いによって感じている不公平感を、たとえば性別の違いによって感じていた人はいなかったのでしょうか。恵まれているように見える経済成長世代を生み出すために、犠牲になってしまった尊厳もまた存在するはずなのです。

 ここで問題なのは、年長世代に存在したはずの問題をあえて無視してまで、自分の世代と年長世代とのあいだの対比を強調することこそが、赤木氏の議論にある種の切実さをあたえているという点です。というのも、赤木氏が感じている不公平感の度合いは、経済成長世代とポストバブル世代とのあいだに存在する落差が激しければ激しいほど鮮明になるからです。したがって、社会が抱える問題を告発するという機能に限定してこの文章の書かれ方を判断するならば、赤木氏が行っているような単純化にも意義があることは認めざるをえません。

 しかし、赤木氏の告発した問題を、是正が必要な他の問題との関連において考えなければならないという段階にまで議論が進むと、赤木氏の告発に力を与えていた二分法は、一転して弱点に変わるように思えます。なぜならそこでは、他の問題をあえて無視してまで自分たちが直面している問題の是正を主張することは、それ自体一つの不公平な差別として問題視される可能性があるからです。

 だから、赤木氏による告発がいかに切実であろうとも、というか切実であるからこそ、その切実さを与えている議論から読み手は距離を取る必要があるように私には思えるのです。赤木氏の議論に共振すること自体が、別の悲惨さや不公平さを覆い隠すことにつながりはしないかと問い返すことが大切なのではないでしょうか。

 このような私の議論は、社会に見捨てられたという実感を現実に持っている人の前では何の意味も持たないと思います。苦しんでいる人に対して、あなたの抱えている問題は数多くの問題のうちの一つに過ぎません、と宣告したところでその苦しみはどこにも行くことはできないからです。ただ、苦しんでいる人が、自分と同じ苦しみを持たない人との対話の回路を閉ざした場合に、その苦しみはどこへ行くのか。そんな漠然とした不安からこの記事を書きました。

 煮え切らない記事ですが、とりあえずここまで。

 なお、赤木氏の論考をめぐるネット上での議論は、inumashさんによる次の記事からたどることができます。