科学的機器の歴史

  • "Focus: The History of Scientific Instruments," Isis 102 (2011): 689–729.
    • Liba Taub, “Introduction: Reengaging with Instruments.”
    • Jim Bennett, “Early Modern Mathematical Instruments.”
    • Simon Schaffer, “Easily Cracked: Scientific Instruments in States of Disrepair.”
    • Ken Arnold and Thomas Söderqvist, “Medical Instruments in Museums: Immediate Impressions and Historical Meanings.”

 このIsisのフォーカスは科学機器を扱うもので、ここ20年ほどの科学史のヒストリグラフィーを踏まえてなされています。伝統的な科学上の観念(アイデア)の歴史をたどる歴史記述から、科学活動の実践やその物質的基盤を問うような方面へ関心の中心が移って来ました。それにともなって科学機器への関心も高まります。本特集はそのような流れに棹差しながら、さらにより一層実践という側面に軸足を移したものになっています。というのも執筆者の大半が日常的に博物館で機器に触れている学芸員だからです。このような人々が機器を論じることでどのような新たな視角がひらけるでしょうか。

 BennettとSchafferの論文は、文書資料を読んでいるだけでは気がつきにくい機器やその利用局面に焦点を当てています。Bennettは学芸員としての経験を生かして、初期近代に製作されていた科学機器の多くは、望遠鏡、顕微鏡、空気ポンプという科学的発見を可能にしたものというよりも、四分儀やアストロラーブという数学的(算術的)機器であったと論じています。これらの機器は新たな自然現象(たとえば真空)をつくりだして科学的発見を促すというよりも、様々な計測活動に必要で、しかもそれを様々な場所で行うことができるような携帯性をもっていました。これらの機器は博物館での数の多さからすれば圧倒的に目に付くものですけど、それらの製作者の方は職人層であり、歴史上目につくことは多くありません。シェイピンがかつてinvisible techniciansと呼んだのも納得できます。このような見えにくかった職人層が17世紀終わりからイギリスを中心に科学の中心舞台に現れるようになるという現象は、隠岐さやかさんが『科学アカデミーと「有用な科学」』で論じている、18世紀中頃からの科学の(限定された)公衆参加の実現と、アカデミーへの行政技能官の流入現象とパラレルに捉えられるのかもしれません。

 Schafferの論文は、博物館にある機器の多くに残された仕様の痕跡という点に着目して議論を組み立てています。機器が最初に開発された過程と異なり、通常そのメンテナンスの側面というのはさほど注目されることはありません。しかし実際に機器に向きあう生活の中ではこのメンテナンスに多大な時間と人員が割かれています。この不幸にも動かない機器に出会ったときには、それがどういうミスで起こっているのか。そのミスはどのようなものであったのか。それは研究開発の組織編成からくるものなのか、技術的な問題なのか。これらを問うことが歴史家には求められます。

 両論文に共通する特徴として、これら見逃されていた機器やその見逃されていた局面に注目することが、欧州が拡張政策を支えていた科学の役割を明らかにすることに貢献するという含意している点があります。貿易、軍事、国家による人口や資源の管理といった教義の科学活動を大きく超えた国家の諸活動のなかで、機器は製作され輸送され調整され測定するための道具となっていたと言えます。これは機器への着目が、グローバルな(侵略を伴う)諸地域の交流を探るという今盛んに行われている研究動向の接合可能なことを意味しています。

 もう一つ最後の医療機器についての論文は、もっとモノ自身に着目した議論の立て方になっています。もちろんモノだけで機器が機能するわけではありません。そこにはヒトが常に介在します。しかし鋭利であったり、無骨であったりする医療機器が示すのは、刺すとか砕くとかいう非常に原初的な破壊のイメージと強く結びつきます。したがってそのような機器は通常何の説明もなく、ただその刺すとか砕くとかいう連想を喚起するような仕方で展示されるだけで、人がそれを目の前にしたときに感じる感情を呼び起こしてくれます。もちろん歴史研究としてはこれが本当に普遍的な感情なのかということが問題となります。ある特定の事物を目の当たりにしたときに人が感じることというのは、時代によっても地域によって個人によっても差があるので、一概に医療機器から現代の私やあなたが感じる感情を歴史的過去に投影するわけにはいきません。歴史研究の場合むしろこの差を明らかにすることが面白いとされる場合が多いのではないでしょうか。それでも歯医者がドリルを取り出したときに感じるような恐怖と同種の恐怖を過去の人が医療機器を診療の場で見たときに感じたことは想像にかたくないですし、その感情を歴史記述に組み込むことは模索されるべきでしょう。