アリストテレス主義粒子論とその展開

  • Christoph Lüthy, “An Aristotelian Watchdog as Avant-garde Physicist: Julius Caesar Scaliger,” Monist 84: 542–61.

 スカリゲルの自然哲学を大きな歴史的見通しのうちに位置づけようとする重要な論文を読み直しました。アリストテレスはその著作中で原子論を激しく攻撃しています。たとえば『生成消滅論』第1巻10勝では複数の事物が混じり合って新しい事物が生まれる混合現象が原子の集合によっては説明できないとされます。しかしアリストテレス著作集のなかに一箇所だけ、やたらと原子論的に思える箇所があります。それが『気象論』第4巻です。ここでアリストテレスは粒子が物質にある小さな穴に入ることでいろいろな反応が起こるという説明をたびたび行います。これは原子論的な立論に近すぎるため、近代に入ってからはしばしばこの巻はアリストテレスの真作ではないとされてきました(イェーガー)。

 この『気象論』4巻が大きな注目をあつめたのがルネサンス期の北イタリアの大学でした。そこではその真作性こそ疑われなかったものの、それが特異な性格を有していることは鋭く認識されていました。ポンポナッツィにいたっては同巻への注釈のなかで「アリストテレスデモクリトス化」したとまで言っています。

 しかしアリストテレス主義者たちは『気象論』4巻と『生成消滅論』の原子論批判をどう両立させたのでしょう。ここで混合の問題が自然の最小者(minima naturalia)の問題と関連づけられはじめていたことが意味を持ちます。これら二つの問題は元々は関係ありませんでした。しかしアリストテレスが混合は個体よりも細かく分かれやすい液体にたいしてよく起こると論じており、それをガレノスが引き継いでいたことから、両問題がセットで考えられるようになります。しかし(元素のような)最小者の論理と質料形相論に基づく混合論をどう両立させるべきかについての考察は中世では袋小路に陥り、そのためいったんこの問題についての議論は下火になっていました。しかしそれが15世紀の終わりから16世紀にかけて再燃します。しかもその時には、アリストテレスにたいして一定程度まで粒子論的な議論を帰してもよいのではないかと考えられるようになっていました。実際パドヴァの学者であるアキッリニやポンポナッツィやニフォは混合物中で最小者が並列されているという学説を唱えていました。ここにアリストテレス主義粒子論の伝統が成立します。

 この伝統を引き継いだのがスカリゲルでした。彼は『演習』のある箇所ではアリストテレスにしたがって原子論では混合を説明できないという『生成消滅論』の議論にしたがっています。しかし別の箇所では『気象論』第4巻、というよりパドヴァの伝統にしたがって、最小者が連続的に並列しているのが混合であるという定義を持ち出すようになりました。もちろん、ここでの最小者というのは原子ではありません。原子は互いに隣接することはできても連続的になることはできないからです(contiguousにはなれてもcontinuousにはなれない)。しかしスカリゲルの他の箇所での議論は彼がこの最小者をあたかも独立した粒子であるかのように考えていることを強く推測させました。実際17世紀の原子論者たちは、最小者を持ち出すスカリゲルの混合理論を根拠にして、彼が原子論を支持していたのだと主張するようになります。

 スカリゲルの学説はルネサンスのイタリアにてギリシア人注釈家の著作が再発見され、それがアリストテレス主義者をして『気象論』のようなそれまで注目されてこなかった著作への関心が高まることがなければありませんでした。また『気象論』への関心は哲学と医学が密接に結びついた北イタリアの大学制度がなければありえなかったと言えます。この意味ではスカリゲルの議論は強く北イタリアの伝統に負っています。しかしそれと同時に彼は後の時代の人々からは新たな理論を、時には原子論すら唱えていた人物としてみなされました。

 より広く射程をとると次のように言えます。近年の研究は17世紀の新しい物質理論の多くが一様な物質の運動にすべての自然現象を還元する厳密な機械論ではなく、諸粒子(ないしはその集合)に形や大きさ以外の一定のより高次な特質を認める立場に立っていたことを明らかにしています。この点で、アリストテレスの伝統由来の最小者の理論が、『気象論』への着目によって原子論に接近していたことは、のちの機械論には回収できない新たな物質理論が成立する上で不可欠な役割を果たしました(最小者はそれぞれ特定の声質を持つ)。このステップをイタリアから北へと伝えたのがスカリゲルだったのです。