名から名+姓への移行と家族 池上俊一『儀礼と象徴の中世』第2章

儀礼と象徴の中世 (ヨーロッパの中世 8)

儀礼と象徴の中世 (ヨーロッパの中世 8)

 名しか持っていなかったはずの中世人がいつのまにか姓を持つようになっていることを不思議に思いつつ、そのことの歴史的経緯や意味を調べたことはありませんでした。まさにその問題を家に焦点を当てながら扱った記述に目を通しました。名から名+姓への移行は、1300年前後に大規模に起こりました。使われる名が少なくなり識別が困難となると同時に、家父長を中心とする男系の家の団結が高まり、加えて自治を行うようになった都市が市民の個別的把握を行う必要に迫られていました。こうして名+姓への移行が起こります(実際には地域ごとに、たとえばイタリアとフランスごとにもう少し複雑な事情があったのだけれど。またたとえば初期の単独男性名というのは父親やその他家系の男性の名を襲名する一族名・家族名でした。後の名+姓の名と単純に同一視してはなりません)。

 名というのは洗礼の時に代父・代母によって与えられるものでした。しかしその名が一生使われ続けることは少なく、多くの人が気軽に自分の意志や他人からのアドバイスにより名前を変えていました。1219年のピストイアでは洗礼名を長じてからも保持していたのは3%程度でした。名は家系上の祖先とのつながりをあらわすもので、そのため14, 15世紀のトスカーナ貴族たちは亡くなった祖先を再生させるために子供に祖先の名前をつけるということを行っていました。

 人間関係の霊的次元を重んじた教会は代親と代子のあいだ、そして子を介して代親と実親とのあいだには霊的関係が結ばれると説きました。彼らは実際に擬制的家族関係を構築し、相互扶助を行いました(現世の常で、その際に様々な打算がはたらくこともしばしばでした)。より完璧な霊的家族は修道院において成り立つと考えられました。13世紀以降は現実の妻・母であることをやめた女性が霊的な妻・母として転生し、夫としてのキリストをむかえて霊的家族としての共同体を組織することも行われました。通常の俗人のあいだでは核家族化が進行する中世後期に、理性の家族の範型としてのヨセフ、マリア、イエスの聖家族へのあこがれが見られるようになります。

 家系の観念が強化されると家系図作りが行われます。王権の衰退により領主権力が自立すると、領主たちは自らの権利(「名誉」であるとされた)を正当化するために昔にまで遡る家系の高貴さを主張するようになります。この家系探求の運動は北西フランスから広まりはじめ15世紀のイタリアのトスカーナの商人層のあいだで頂点を迎えました。

 家の頂点に立つ父のイメージが政治利用されることはしばしばで、メディチ家の家長はまさにフィレンツェの有力貴族たちの家長であり、祖国の父として君臨しました。ドイツでも都市貴族が集合的父として集合的子としての市民を監視・養育するという家父長的統治システムが構築されます。この家父長モラルがもっとも強大な政治権力と結びついたのが絶対王政期のフランスでした。

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