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オシテオサレテ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-08-02

不信がもたらす統一性 ハートリブサークルの活動 Yamamoto, “Reformation and the Distrust"

 著者の才気がいかんなく発揮されたすばらしい論文を読みました。これはモデルとすべき作品の一つとしてすぐに取り出せる場所に置いておかねばなりません。

 いわゆるハートリブサークルに集った人々は、人類が堕落により失った知識を復活させるために学問を進展させねばならないと考えていました。しかしこの確信から生み出された活動は多岐にわたり、サークルを何らかの統一的な単位として記述することを困難にしています。しかしサークルの活動の多様性はある一つの問題への対処の帰結として生まれたものでした。それは自分たちの活動が、初期スチュアート朝期のプロジェクターたちのものと同一視されてはならないというものでした。プロジェクターというのは公共の利益をうたいながら、実際には私的利益を獲得するために独占的な権益を得ていた人々を非難するさいにしばしば用いられていた言葉です。公共の利益のために知の改革を訴えるハートリブサークルをどうしたらプロジェクターと区別することができるか。

 一つの方策は発明の対価として独占的な特許を得るなどして、他の人々の経済活動の自由を制限する、ということをしないというものでした。もちろんどこまで発明者が権利を主張すれば、それが不当な制限に当たるかということについて、サークル内でも意見の相違はありました。しかし彼らは総じて実用的な知識は公共の利用に提供されるべきという点で同意しており、この達成の基準として自らの活動がプロジェクターとそれとは異なると判断できるかいなかというものを採用していました。またつくれもしない発明を喧伝して資金を得ようとしているという批判を回避するために、発明に関する知識を記したパンフレットを出版して、知を公のものにするということも行われました。

 サークルの外から発明を持ち込んでくるものたちにはどう対処すべきでしょうか。学問の進歩のためにサークルが出した提案の初期のヴァージョンには、発明家にたいして対価を払うべきという文言は見られません。有用な知識の共有の理念が唱えられています。それに対して第2版では発明家に対価を与えることと、知を共有して学問を進展させることを両立させることにサークルのメンバーが腐心している様を見てとることができます。

 実際、利益を得ようとする発明家への態度はサークルのメンバーによりそれぞれでした。対価を求める者は失われた知の復活への最大の障害物だとして嫌悪感を隠さない者がいる一方で、なにが有用であるかの判断は最終的には人間ではなく神の摂理に任せねばならないとして、人知による選別の限界を説く者もありました。同時にサークルの面々もまた世俗的利益を得たいという欲望から無縁ではありませんでした。こうしてたとえばハートリブは疑わしい発明家にもまずは興味を示しましたし、たとえ一度見放した者からであってもそのものに何か有用な知識を神が与えたかもしれないと考えて、多方面からの情報収集を続けました。一方発明家の方では、サークルの宗教的な動機に訴えるかたちで、自分の発明が神への奉仕となるということを強調して売り込みをかける者がいました。反対に、サークルが掲げる知の公共化の理念に共鳴するのではなく、むしろ政府に接近してそこで経歴をつもうとする者も現れました。

 以上のようなサークルメンバーの活動や、その協力者たちの活動は到底一枚岩ではありません。しかしその多様性プロジェクターに対する不信と、その不信を乗り越えて知の改革を行わねばならないという確信に基づいていたものでした。これによりハートリブサークルの諸々の側面につき、統一的な像を描くことのできる土台が提供されたことになります。のみならずサークルがプロジェクターと真の知の改革者という二分法を採用していたことは、宗教改革後の論争や内乱期のイングランドで頻用されていた二分法論法(光/闇、神的/反キリストなど)を分析する視角が、経済史的・技術史的問題に適用できることを示しています。また実験により知識を得ることへの抵抗がアリストテレス主義(スコラ学)から来ていたという科学史・技術史研究の知見に、スチュワートプロジェクターに向けられていた不信から脱しようとしていたハートリブサークルという発見を加えることで、知の生産と政治的文脈をより強く統合することができるように思えます。

 最後にこの論文からは「不信」というカテゴリーを初期近代の知の生産を分析する際の有用なツールとして用いる可能性がひらかれます。シェイピンとシェイファーの研究からは、知の正統性の問題は誰を信頼するべきかという問題に他ならなかったことが分かります。この論文からは誰を信じるべきかという問題は、信頼すべき者はどのような基準を満たしているかということよりも、むしろ誰が不信に値すべきか、誰と同一視されてはいけないかというスティグマ(ゴフマン)によって構成されていたのではないかと考えを進めることができます。