魔女狩りの出現とその規模、特性 スカール、カロウ『魔女狩り』#1

魔女狩り (ヨーロッパ史入門)

魔女狩り (ヨーロッパ史入門)

  • ジェフリ・スカール、ジョン・カロウ『魔女狩り』小泉徹訳、岩波書店、2004年、1–57ページ。

 魔女狩りの入門書から最初の2章を読みました。魔術師なり妖術師なりがいて、彼らがはかり知れない力を用いることで家畜を殺したり悪天候を招いたりという悪事(ラテン語ではmaleficium)を行うという考え方は多くの文化圏で見られます。この広く共有された観念を、正典とその周辺の諸文書を典拠に構築された悪魔学が侵食していったことに魔女迫害の起源の一つは求められます。異端を全面的に抑圧するという方針が固まった中世盛期以降、異端者というのは教会の敵である悪魔にそそのかされ、悪魔崇拝を行っているものとして告発されました。裁きを請け負ったのは異端審問制度です。悪魔との契約が異端審問所の裁判権に入るという考えが、14世紀に受け入れられるようになると、村で悪事を行っていた人物(つまり伝統的な魔術観の枠組みでそれまで理解されていた人物)が、悪魔との契約者という悪魔学の理論的枠組みで理解され裁かれるようになりました。こうして1428年にスイスのヴァレ州で、悪魔に支配された魔女という魔女像に基づく裁判が行われ、その数年後にはフランスのアルプス地方で行われた裁判で、魔女と異端との関係が強調されました。「悪魔を崇拝し、人肉を喰らい、悪事をなす魔女という恐ろしい姿が、いまや完全に提示されたのである」(29ページ)。以後、魔女に関する理論的論考が大量に書かれ、印刷技術によって拡散されました。

 魔女として処刑された人物の数は、1428年から1728年のあいだのヨーロッパ全体で、最大限4万人であったというところで指導的研究者の一致を見ています(ただしこの数には魔女の疑いをかけられてリンチにあった人物の数は含まれていません)。魔女像は1428年に現れているものの、迫害、それも大規模で連鎖的な処刑が行われたピークは、1590年代、1630年前後、1660年代であったと思われます。「魔女迫害という考え方の根は中世にあったが、その現象自体は、中世のものではなく、近世のものであった」(36ページ)。魔女迫害はドイツの多くの地域で大規模に起こり、とりわけ小さな領邦では持続的に発生しました。フランスではロレーヌをのぞけばドイツほど魔女裁判の被告数は多くありませんでした。特徴としては告発の多くが女子修道院が悪魔にとりつかれているという形を取ったことです。異端審問の中心地域であったイタリアとスペインでは、裁判所が理論的枠組の整備をすすめ、対処すべき問題の優先順位の決定に経験を積んでいたため、逆に魔女裁判の数は少なく告発も1550年以降はあまり起きませんでした。ロシアでも魔女恐慌は起こりませんでした。イングランドの魔女迫害は悪魔との契約よりも、悪事の内容に関心が集中するという傾向性がありました。また告発の内容で一番ありふれていたのは、「使い魔」を飼っているというものでした。犬、猫、鼠、ヒキガエルといった小動物の形をした小鬼や悪魔のことです。イングランドでは処刑された数は300から500人程度であったと思われるのに対して、それよりはるかに人口の少ないスコットランドでは1000から1600人程度が処刑されています。

 どうして魔術を使うのが主に女であると学識者が考えるようになったのかはまだよくわかっていません(女性が知力にも徳性にも劣り、情欲にとらわれているといった考え方が広範に見られる時代では不思議なことではありませんが)。しかしとにかく裁判の被告の8割程度は女性でした(ただし地域偏差がある)。主として中年、あるいは高齢の女性であり、未亡人、ないしは独身女性が頻繁に現れます。告発される人の属する社会階層はかなり下部(ただし最底辺ではない)であることが多く、加えて泥棒、追いはぎ、姦通者、同性愛者といった道徳的落伍者とされていた人々がいました。しかしひとたび魔女恐慌がおこると、拷問によって無理やり共犯者が生み出されるということが連鎖的に起こることで、誰が魔女であり誰が魔女でないのかもはや誰にも分らない状況が出現しました。南西ドイツのある街で有罪判決が吹き荒れるのを目の当たりにした人は、この調子でいけばもうすぐ街から人はいなくなるだろうと書いているほどです。