中世思想の形成と発展 マローン「中世哲学の文脈」

中世の哲学―ケンブリッジ・コンパニオン

中世の哲学―ケンブリッジ・コンパニオン

 中世哲学の展開をそれが置かれていた歴史的状況と突き合わせながら解説する論考です。極めて高い水準で書かれています。一般史家が思想史に入るにはうってつけですし、何なら思想史についてはこれだけ読んで、あとは必要に迫られたら読むというのもよいと思います。

 中世哲学はキリスト教ギリシア・ローマの古典的思想が融合するところから生まれました。パウロやテルトゥリアヌスはキリスト教信仰と哲学とのあいだの断絶を強調しました。しかしパウロとてアテナイで宣教する際にはキリスト教の教えとストア哲学とのあいだの一致を説いていましたし(アレオパゴス)、時代が進むにつれて当時実践されていた哲学とキリスト教との一致はますます顕著になりはじめていました。コンスタンティヌスによるキリスト教の公認はこの一致融合をさらに加速させ、キリスト教ギリシア哲学化させることになります。アウグスティヌスキリスト者として哲学の道を進むことで信仰を理解することができると唱えました。西ローマが滅んで以降も哲学の伝統は残り、西側ではボエティウスの神学問題に哲学的分析を施す論考が生まれます。東側では古代末期の哲学が持つ来世的性格が神秘主義的なキリスト教理論へと結実しました(偽ディオニュシオス)。

 6世紀後半以降、西側では学校がなくなり教育の基盤が崩壊し、教育の中心は(家庭と)修道院に移ります。修道院では祈りと修道院長への服従が重視され、思弁的・抽象的な思考は尊ばれませんでした。アイルランドのベーダ、カロリング・ルネサンス(とりわけエウリゲナ)という例外があったものの、今日哲学と呼ばれているような活動が再始動するには11世紀を待たねばなりません。

 生産力の増強と封建制の確立、それにともなう領主権の強化にともない、10世紀以降社会が停滞期から活動期へと以降します。そのなかで最高の学識をもつ修道士たちが論理学に目を向け始めます。ベック修道院のランフランクスはパウロ書簡の論理構造を分析しました。同じくベック修道院長をつとめたことがあるアンセルムスは「信じていることの理解を求める者」と自己を定義し(『プロスロギオン』)、論理学をもちいて信仰に関わる主題を探求しました。論理によって研ぎ澄まされた理性的道具により信仰、世界を理解しようという機運は恐るべき聡明さを持つアベラールを生み出しました。彼のような人物たちは、神は被造物を人間に理解可能なように創造したはずであると考え、そこに規則性を求め始めます。この規則性を指す「自然」という言葉が多用されるようになりました(「自然」の発見)。彼らの探究の基礎にはプラトンの『ティマイオス』や当時新たに翻訳されはじめていたギリシアイスラーム世界のテキストがあります。このような教義への態度の変化への反対ももちろんあったものの(クレルヴォーのベルナルドゥス)、新たなタイプの学識者のまわりには司教座聖堂学校という新たな制度が形成されはじめ、そこで包括的なカリキュラムと教育方法が整備されていきます。

 以上のような理性の使用の爆発的流行は社会一般の合理化と深く関わっていました。王権と教皇権の伸長にともなって裁判制度が整備されていました。それに必要な資金を獲得するために課税制度を構築され、それを支えるための原初的な官僚制度が生まれていました。また民衆レベルでの独自の信仰の高まりを抑えるために、教会上層部は社会統制を強めます(ムーア『迫害社会の形成』)。特に新たに設立された托鉢修道会は、教育と異端審問の両面で中核的役割を担うようになりました。中世哲学の背後にある社会的文脈とは「秩序を欠き反抗をことにするような世界の中で、統制と秩序を課そうとする努力のための戦略に満ち溢れたものだったのである」(46ページ)。

 このような社会からの多様なニーズに応える教育が大学という新たに生まれた制度のうちでなされるようになります。そこでの教育の中心を占めたのはアリストテレスでした。主題について論理に基づいた確かな知識(エピステーメー)を築き上げようという努力が継続的・集団的になされるようになります。この努力はしばしば神学方面にも拡張され、ここにおいて13世紀に中世哲学中最も優れた思弁が生み出されました(アルベルトゥス、アクィナス、ボナヴェントゥラ、スコトゥス)。同時に信仰の助けなしに理性のみで確かな真理に到達することができるという考えが生じ(ダキアボエティウスら)、これが神学者サイドからの反発も招くことになります。13世紀末にはラインラントでは理性的探究により教会とは独立に啓示にいたることができるという神秘主義的哲学が勃興しました(エックハルトら)。この考えを最も深く受け止めたのは「ペギン」と呼ばれることになる女性の平信徒からなる共同体でした。

 14世紀の哲学の意義はまだ議論の渦中にあります。そこでは論理学的分析が先鋭化し(オッカム)、その道具でもって量というカテゴリーを分析する者たちが現れました(オックスフォード計算家たち)。教皇権が揺らぐにともない教皇権と世俗権のそれぞれに擁護者が現れ、新たな政治思想の構築がなされます。やがてスコラ学自体の衰退が見られるようになります。論理学とそれにもとづく討論という教育方法が弱まり、イングランドでは神学の地位が低下し法学が最高度の学問領域とみなされるようになりました。イタリアでは反スコラ学を標榜する人文主義が生まれていました。