戦国日本からイベリア半島をみる 折井「「アニマ」(霊魂)論の日本到着」

  • 折井善果「「アニマ」(霊魂)論の日本到着 キリシタン時代という触媒のなかへ」ヒロ・ヒライ、小澤実編『知のミクロコスモス 中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』中央公論新社、2014年、332–361ページ。

 戦国の日本にキリスト教が伝来していたことはよく知られている。ザビエルが九州にたどり着いて以後、宣教師たちは精力的に布教活動を行った。一時は有力大名の一部が改宗するなどして、国内の信者数は数十万の規模にたっした。しかし1600年代にはいると禁教令が発せられ、キリスト教信仰は禁じられる。残った信徒はカクレキリシタンとして、その信仰を保持する。

 このような比較的広く知られた事実にたいして、宣教師たちが信仰だけでなく、西洋の学知をも日本にもたらそうとしていたことは、一般的な歴史記述ではあまり強調されていない。だが彼らの意気込みは相当なものであった。当時の西洋の大学で教えられたアリストテレスにもとづく哲学を、日本で設立した学校で教えていたのである。その教育のために作成された教科書の記述は、一種異様な印象を現代の私たちにあたえる。「ほるますゝたんしある」「おんたあで」「ゑすぺしゑ」といったラテン語や世俗語を音写した単語が乱れ飛ぶ。しかもそれが当時の日本語と併存して、この時代にしかみられない特異な文章を生みだすことになった。たとえば次のようなものだ。

いんてれきと此ゑすぺしゑいんてりじいべるを求得る次第をいふに、先最初にハ、色声香味等の外の境界より現来する写しを眼耳等の五ツの門戸より頭中に受とる也。(345ページ)

 考えてみれば、アリストテレスほどキリスト教ととりあわせが悪い哲学者はいない。世界にはじまりがある?―ありえない。神が世界に介入する?―それはお伽噺だ。このような考えを抱いていたギリシアの哲学者の教説が、キリスト教の宣教師の手によって、2000年後の日本にもたらされていたのだ。じつに歴史は想像のうえを行く。

 とはいえこのような門外漢の感嘆は折井善果「「アニマ」(霊魂)論の日本到着」が相手にするところではない。むしろ著者の議論は以上の前提をすべて押さえたところからはじまる。西洋の学知が日本に伝わったという。その西洋の学知とはなにか?スコラ学のアリストテレス哲学が伝来したというとき、歴史家はしばしばその参照先としてトマス・アクィナスを呼びだしていないだろうか。だが宣教師たちも、彼らがもたらした教材の多くも、16世紀のイベリア半島から来たものだ。そこでのスコラ学はアクィナスのスコラ学と同一ではない。すでにルネサンスが起こり、プラトン主義が復興していた。宗教改革への対抗のなかで、カトリックは説教を改革しようとしていた。そのような状況のうちでアリストテレスにもとづく哲学もそのあり方を変化させていたはずだ。さらにそれが日本にもたらされたときにいかなる改変をこうむったかを、ラテン語スペイン語と、日本語文献を対照させて明らかにせねばならない。改変が日本での布教におけるいかなる要請のもとになされたかが説明されればなお説得力をもつ歴史記述となるだろう。

 以上の問題意識からどのような結論が導かれるかは論考を読んでもらうしかない。ここでは私がとくに興味深いと感じた点を一つだけ紹介しよう。海老澤有道や平岡隆二の研究により、宣教師たちが日本人に布教するにあたって、神の存在を自然現象から出発して証明するという技法を重視していたことがあきらかになっている。きわめて調和がとれた規則的な自然のあり方は、それをデザインした知的存在がいると仮定せねば説明できないという論証だ。この種の議論が重宝された原因として次の二点があげられる。一つは日本人は理性にもとづく議論を好むという宣教師たちが伝える証言である。もう一つはキリスト教徒でない人々への神の存在証明としては、そのような人々であっても慣れ親しんでいるであろう自然から出発するものがもっとも説得力があると考えられたというものだ。

 だが著者は主張する。自然現象からの神の存在証明は、すでに16世紀後半のスペインにおいて重宝されていた。ルイス・デ・グラナダの『使徒信条入門』の導入は自然の観察による神の存在証明に割かれている。自然がいかに調和がとれており、それがいかに唯一の神の存在を指し示しているかが卓越した修辞のもと世俗語で語られているのだ。この『使徒信条入門』が日本語に訳されることになる(『ひですの経』)。

 となると自然からの神の存在証明の重視を、日本人の性質と非キリスト教徒への布教という二側面から説明しきってよいのかという疑問がわくのは避けられない。同じ論法が同時代のスペインでの説教のうちでも重宝されていたからだ。むしろ宣教師たちは、学のない人々にまず神の存在を実感させるには、自然から話を立ちあげるのが効果的だと知っていたのではないか。その本国での説教実践を彼らは日本に持ちこんだのではないか。さらに同じ実践が日本でもスペインでも効果的であったとすれば、その事実は当時の日本とスペインの民衆のあり方について、なにかを教えてくれるかもしれない。これらはすべて私の想像である。いずれにせよ、ここにおいて中世以来の説教の伝統(赤江論文の主題だ)、初期近代における説教技術の改革、および俗語文学の台頭、そして日本における状況(ここはまったく分節できなくてすいません)のすべてを考慮にいれた歴史記述が求められているのはたしかである。このような指摘を通じ、著者は西洋の知の歴史を探求する者と、日本のそれを研究する者とのより密接な対話を呼びかけているように思われる。