パリ科学アカデミーのなかの錬金術 Principe, "End of Alchemy?"

Chemical Knowledge in the Early Modern World (Osiris, Second Series)

Chemical Knowledge in the Early Modern World (Osiris, Second Series)

  • Lawrence M. Principe, "The End of Alchemy?: The Repudiation and Persistence of Chrysopoeia at the Académie Royale des Sciences in the Eighteenth Century," Osiris 29 (2014): 96–116.

 98年のボイル研究(Aspiring Adept)に続き、いま一度新しい史料をひっさげ化学史の歴史記述に変更を加えようとする著者の第一歩を刻む論考である。

 近年の科学史研究で、卑金属の貴金属への変成(transmutation)を目指す錬金術の営みが、単なる迷信として片づけられることはない。金属変成の術(chrysopoeia)を見過ごしては、自然探求の伝統を理解できないことは広く認められるにいたっている。だがそうなると問題となるのは、金属変成の術がどこの時点で、いかにして正当な自然探求の営みとみなされなくなったのかということである。答えの一つは、1722年にフランス科学アカデミーの会員であるエティエンヌ=フランソワ・ジョフロワが「賢者の石に関する偽りについて」という論考を読みあげた時点に求められる。だが本当にこれが分水嶺なのか。

 ジョフロワは前任者のヴィルヘルム・ホンブルグの教え子としてその化学研究をはじめた。ホンブルグは変成を起こすための実験に取りくんでいた。1704年には水銀を金に変えることに成功したととする論考をアカデミーの紀要に発表している。ホンブルグのもとジョフロワも、伝統的な錬金術実験を行っていた。ここから17世紀の終わりから18世紀のはじめにかけて、科学アカデミーの内部でも金属変成の探求が行われていたことがわかる。

 この探求はアカデミーの方針と緊張関係にあった。すでにコルベールはアカデミーで予言占星術と、賢者の石の研究を禁じていた。これらの主題の探求は政治的に危険な帰結を引き起こしかねないからである。だが禁止にもかかわらず、たとえばDuclosのような人物はアカデミーの実験室で金属変成の研究を行っていた。Duclosが死去すると、彼が死の直前に賢者の石の探求を否定したとする文書が発表された。この文書をほんとうにDuclosに帰すことができるかは疑わしいものの、これはアカデミーが彼の金属変成の仕事に居心地の悪さをおぼえていたことをしめしている。実際彼の生前に、アカデミーは錬金術の知見を多く含んだ彼の著作の刊行を禁じていた。

 その後もアカデミーは金属変成の研究を禁じていたようだ。1692年にアカデミーを訪れた人物は、アカデミーが変成の研究を禁じるのは「王が自分のお金が金造りによって生みだされていると考えられたくないからだ」と報告している。変成はその主張の妥当性のためというより、そこにひそむ政治的な危険性のために禁止されていた。アカデミーの終身書記となったフォントネルは、化学をアカデミーにふさわしい学問にしつらえるために、それを変成の営みから可能な限り切り離そうとしていた。ホンブルグの追悼演説では、歴史的事実を歪めてまで彼を錬金術から切断しようとしている。こうしてアカデミーには、そこから変質の研究を排除しようとする庇護者やスポークスマン(コルベールやフォントネル)と、変成の研究を続ける化学者(Duclos、ホンボルグ、ジョフロワ)が共存することになった。

 ジョフロワの論文は1722年に読みあげられ、24年に出版された(実はこの論考には元ネタがあり、それをたどっていくと彼の用いる議論が変成の探求を正当化するため真正の探求を誤った詐術から区別しようとする試みから引きだされていることがわかる)。たしかにジョフロワは錬金術の伝統のうちにある詐術を批判たものの、彼の論考をよく読むならば、変成が不可能だとはどこでも論じていないことがわかる。しかしフォントネルはこの論考を基礎に、強力な反錬金術キャンペーンをはることになった。以降、アカデミーによって変成関係の論考が出版されることはなくなった。

 だがアカデミーの会員たちは本当に変成の探求を放棄したのか。これを確かめるには表にでてこない個人の文書に当たらねばならない。そのような史料は大半が失われてしまった。だが一つ貴重な史料群が残されている。アカデミーの化学者であるJean Hellot(1685-1766)が残した膨大なノートだ。そこでHellotは過去のアカデミー会員が残した文書(当時はまだ残存していた)から抜き書きをするのみならず、同時代人と口頭で話した内容もまたメモとして残している。これらのノートが1960年代以降見つかった(論考の著者自身も2010年に新たに3冊のノートを発見している)。この数千ページにおよぶ史料から、これまでみえてこなかったアカデミーの化学者たちの活動実態がみえてくる。詳しい議論は論考本体に譲るとして、Hellotのノートが明らかにするのは、アカデミーの化学者たちが引き続き金属変成を行うための実験を実際に行っていたということである。たとえばジョフロワは論考を読みあげた1722年以降も、変成のための実験を行っている。他にもDanty d'Isnard (1663–1743), Charles François de Cisternay Dufay (1698–1739)がアカデミーの会員でありながら錬金術実験を行っていた。またGuillaume-François Rouelle (1703–70)が変質の可能性を信じていたことはディドロの証言から知られている。Rouelleの講義を書き留めたノートによると、彼はシュタールの原理をつかって変成現象を説明しようとしていた。

 Rouelleの死後、70年以降にアカデミーで変成がいかに扱われていたかは現時点では分からない。わかるのは70年にいたるまで、変成の探求がアカデミーの化学者たちによって実際に行われていたということである。これにより、これまでの歴史記述のギャップが埋められる。これまでのように1720年代に変成の伝統の終焉をおいてしまうと、それがどうして1770年代と80年代のドイツで復興するが説明がつかないのだ。70年代まで変成の試みがなされていたとするならこの時間ギャップはなくなる。ただしフランスとドイツのつながりについてはこれから特定されねばならない。

 化学アカデミーは変成の営みにたしかに好意的ではなかった。コルベールらは政治的配慮から、フォントネルはアカデミーの名声のために金属変成を追放しようとした。薬剤研究からアカデミーに参画した会員らは、化学者を攻撃するために変成を批判した。これは変成の探求が広く疑わしい目でみられていたという背景を勘案するなら不思議なことではない。だがこのような反発のなかにありながら、アカデミーの化学者たちは1666年の設立から、すくなくとも1770年にいたるまで変成の探求を続けた。ジョフロワの1722(24)年の論考は、探求の終焉を告げるのではない。それは賢者の石が表舞台から姿を消し、地下に潜る地点を指ししめしているのである。Hellotのノートは、この潜行した営みに光を当てるのである。