知性の区別と位格の区別 Schegk, De plastica seminis facultate, bk. 3, #3

  • Jacob Schegk, De plastica seminis facultate libri tres (Strasbourg: Bernard Jobin, 1580), sigs. G6r–G7r.

 シェキウスによれば、アヴェロエスがもちだす光・目と能動知性・人間霊魂の類比はなりたたない。なぜなら事物を視認可能にする光は、それ自体なにかを見る必要はないのにたいして、事物を理解可能にするものは、それ自体で事物を認識していなければならないからである。実際、もし感覚によって個物を知覚するのでなければ、いかにして可能的に認識可能なものから現実態として認識可能なものを生みだせるだろうか。この条件を、アヴェロエスの想定する能動知性は満たせない。なぜならそれは霊魂から実体として分離しているので、感覚や表象を経由して事物を知覚することができないからである。

したがって能動知性、あるいは作出知性(intellectus efficiens)は人間霊魂の本質の一部でなければならない。またそれは感覚的霊魂の能力と本質的に複合したものでなくてはならない。その複合のうちに受動知性、すなわち思惟されたものがある。受動知性はみずからのうちに、感覚の助けをうけて能動知性がつくりだす思惟されたエイドスを受けとるのである。(Quamobrem necesse est ut agens, seu efficiens intellectus, sit pars essentiae humanae animae, et ut compositum quiddam sit essentialiter cum facultate anima sentientis, qua compositione constituatur etiam intellectus patibilis, seu τὰ νοητὰ, recipiens in se, adminiculo sensuum effecta per agentem intellectum τὰ νοητὰ εἴδη) sigs. G6r–v

 もちろん一般論としてはなにかをつくりだすものと、つくりだされたものを受けとるものは区別されなばならない。だがシェキウスによれば、霊魂を備えた事物にあっては、能動的役割を果たす要素と、受動的役割を果たす要素を実体として分離することはできない。これらが本質的に分離するのは霊魂を有さない事物においてである。

 この点をシェキウスは、栄養摂取や感覚の例を使って説明する。栄養摂取にせよ、感覚にせよ霊魂だけでは達成できない。器官としての身体が不可欠である。これと同じように精神もまた思惟のためには、感覚的霊魂と複合体を形成する受動知性を必要とする。よって能動知性と受動知性は本質的には区別できない。それらは本質の観点からして一つの知性を形成する。

 だが同時に能動知性と受動知性はrealiterには区別されねばならない。受動知性は本質的に能動知性に依存しているがゆえに、能動知性抜きでは存在しえないのにたいして、能動知性は受動知性なしでも存在しうる。ここから両者がrealiterには区別されていることがわかる。

 本質的には同一のものが、realiterにあるいはformaliterに区別されるという点について、シェキウスはすでに Genebrandus(Gilbert Génébrard のことか?)への反駁として書いた著作のなかで論じたという。これは1566年に出版された 『反三位一体論者論駁 Contra antitrinitarios』を指しているのかもしれない(あるいは楠川「近世スコラと宗教改革」115-117ページで論じられている論考かもしれない)。シェキウスによると Genebrandus は神の位格が相互に本質的に区別される形で生みだされていると論じている。それはまるでテラが子供アブラハムを生んだのと同じしかたで、神である父とその子キリストが区別されているというようなものである。こう考えるとこれらの位格はそれぞれ独自の本質をもつことになり、互いに相反する性質をもちあうことになる。このような考え方をもつ Genebrand は異端的な背教者である。

 つまるところ、シェキウスにとっては能動知性と受動知性を互いにまったく異なるものとする論者(これにアヴェロエスが入るようだ)と同じくらい、それらの知性をrealiterに同一だと考える論者も間違っている。この後者の立場にたつのが、ユリウス・カエサル・スカリゲルである。そこでシェキウスは続いてこの人物の批判へと向かう。