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2006-08-31

[]不自由であることより、自由であることの枷を/よしながふみやおい論2

     

はじめに

前回私は、やおいに描かれる「究極の愛」は往々にして依存的・非対等的であると指摘し、その一方で、自立的あるいは等身大のセルフイメージを投影できる女性像を描いているということも指摘しました。今から書くことをちょっとだけでも注意して読んで欲しいのですが、これから書くこと内容によって、おそらく私は結局なくてもいいような混乱を引き起こすかもしれません。というかたぶんそうです…。

ただ、やおいを含めたサブカルチャーを、社会や主体に引きつけて考え発言することは、それ以上に余計な問題を惹起してしまうだけなのでしょうか。だからそんなことは置いておいて、表現論やメディア論に特化して論じるべき?いや、そうじゃない。私はそうは思いません。余計な問題を引き起こすのならなおさら、漫画論をお互いの思想を押しつけあう場所として捉えるのではなく、それを包括した、新たなステップに立つために、作者や読者、そして社会の問題として論じるべきではないでしょうか。もちろん、漫画を表現論として論じることは、全く違う次元において、非常に重要なことです。ただ少なくとも私は、自分の発言が政治的な意味を帯びることを恐れたくない。

そのことを頭の隅にでも入れていただいて、これから私が書くことを読んでいただきたいと思っています。ではまた、相当長いのでお茶でも飲みながらお読みください。たぶん吹き出すようなことは書かない…つもりです。


恋愛という罠、そして解放

やおいが発生する以前の少女漫画の基本的なモチーフは、自分のことをドジでブスで駄目だと思っている女の子が、憧れの男の子に「そんな君が好きだ」と言われて安心すること、つまり「他者からの自己肯定」にありました。70年代半ばから一大ジャンルとなって、そして消えていった「乙女ちっく漫画」とは、その主題を完璧に描いたものです。現在の少女漫画の主流もまぁ、その当時とあまり変わっていませんけど。

少女漫画の主人公たち―少女たちは皆、この世にただひとりの相手と愛し合って結婚することを、至上の目的とし、相手をそのように愛すべきだと思っています。そしてその愛が深ければ深いほど、自分も相手から深く愛され、二人はひとつになることが出来ると信じています。

少女漫画評論家、藤本由香里は『私の居場所はどこにあるの?―少女マンガが映す心のかたち』のなかで、そのような「オンリー・ユー・フォーエバー」つまり恋愛幻想は、決して少女たちを幸福には導かないだろうと看破しました。そのような恋愛は確かに美しいけれど、愛とは結局自分たち女性が、男性のために犠牲になることを強いるだけです。愛の、その本質が非対等的なものである限り、彼女たちは恋愛によって幸せにはなれないのです。そして藤本はその恋愛幻想を、「罠」と呼び、そこからの解放こそが、唯一女性が幸福を手に入れる道であると解き明かしました。

乙女ちっく漫画は、他でもない彼女たち自身が、その罠に気づいたときに急速に衰えました。そして80年代以降、欲望を肯定し自分らしく生きていく女性たちが、少女漫画のなかで数多く描かれるようになったのです。柴門ふみ東京ラブストーリー』で、家庭的でおとなしい、まるでかつての「乙女ちっく漫画」の主人公のようなさとみは、読者から「ぶりっこ」と嫌われ、一方で自分の欲望をはっきりと示す赤名リカが読者の共感を得ていたという事実は、少なくとも女性たちが受身でいることから脱却して、積極的に生きる姿勢を選ぼうとしていた現実を反映していたからだと思います。


恋愛という幻想、そして断念

一方宮台真司大塚英志の文庫本『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代―たそがれ時にみつけたもの (ちくま文庫)』の解説のなかで、以下のように書いています。彼は自分が熱心な「乙女ちっく漫画」の読者であった過去を例にとって、いつまでも変わらない男性たちと、その男性達を置いて変わっていく女性たちを対比させてこう言います。

ニヒリスティックになった私は、受動的に流されるように女の子たちと適当に寝ながら、それでも彼女達のことがよく分からないでいた。私は相変わらず少女マンガやファンタジーが好きなままで、何というか「そういう部分」はぜんぜん変わらずに大人になったのに、目の前にいる現実の女の子はどうもそうではないらしく、とても「そういう話」ができるような雰囲気ではなかった。(中略)実際にまわりを見まわしてみると、私と同世代のライターのなかには、「昔サブカルチャー少年で、今も変わらずサブカルチャー少年」という輩が、もちろん私自身を含めてそれこそ腐るほどいる。それに比べると、「昔サブカルチャー少女で、いまも変わらずサブカルチャー少女」というのは、どういうわけかあまりいなくて、たとえいたとしても、相当に屈折した子だったりする。だから、私と同じように職業柄女性に接する機会が多い大塚氏が、同世代の「変わらない男たち」に対して、「いい加減に成熟したら?」と言いたくなる気持ちも、分からないではないのだ。

男の子たちは何も諦めないで、「そのまんま」大人になれるのに、女の子たちは「本当にたくさん断念して」大人になる。それはいったい、なぜなのだろう?

ここで彼が言う「彼女達が“断念”したもの」と、藤本が“罠”と呼んでいたものは同じものだと私は思います。それは「乙女ちっく漫画」が求めていた、「たったひとりの相手との、永遠の恋愛」に他なりません。女性である藤本は、それを罠と捉え、その幻想が共有されなくなったことを解放と呼んでいますが、男性である宮台にとって、それは女性たちによる幻想の断念、諦観なのです。

ここで私はひとつの疑問にたどり着きます。私たちはその幻想から、きっぱりと解放されたのだろうか。宮台の言うようにそれが“断念”だったとするならば、その「幻想」は一体どこに消えたのだろうか。


かくてやおいは誕生す―フェミニズムの抑圧下に、やおいは生まれた

たぶん私たちは、知りすぎるほど知りすぎているのです。愛とは非対等的であり、それを信じている限り幸福は訪れないだろうということを。結局はひとりで、幸福を手にしなければならないことを。そして実際にフェミニズムは女性の独立を説き、男女の平等を説きました。

しかしその事実を目の当りにしたとしても、それでも捨てきれない「究極の愛」という幻想は、女性にとって最も遠い、そしてそれゆえ強力なファンタジー―「やおい」−に受け継がれたのではないでしょうか。つまり、男と女は平等であらねばならない、というフェミニズムの抑圧下に、「やおい」というファンタジーは生まれたのです。

やおいの源流は、70年代に少女マンガ24年組による少年愛作品──『日出処の天子』、『ポーの一族』、『風と木の詩』──などとされていますが、私は「ただひとつの恋愛と、幸福な家庭」という幻想を描いた「乙女ちっく漫画」にこそ、「やおい精神」の源流があると思います。なぜならその後「母性」との対立を描いた24年組とは対照的に、やおいは「母性」を肯定してしまうから。やおいに描かれる「究極の愛」とは結局、自分を完全に肯定してくれる(はずの)母親の愛、母子関係の延長にしか過ぎないからです。(「少年愛」と「やおい」の違いについては、自分でも説明不足だと思っています。しかし、そこを詳しく説明していると恐ろしく長くなってしまうので、また別の機会にじっくりと論じたいと思います。)

フェミニズムには、「母性」に対し二つの側面があります。ひとつはその「母性」を、女性の身体性として肯定する側面。もうひとつはその「母性」を、女性を家庭に縛りつける「幻想」として否定する側面。「母性幻想」とは、このようなフェミニズムによる問いから生まれたものです。そしてその「母性」を肯定してしまう「やおい」とは、「恋愛」と「家庭」を志向した「乙女ちっく漫画」の後継者としてふさわしい。事実、まるで「乙女ちっく漫画」と入れ違うように、やおいは誕生しました。

内面化されたフェミニズムが、「恋愛幻想」を排除したとき、両者のパワーバランスが明らかになる恋愛を描くことは、非常に困難なことになります。ここで前回私が提示した「自立的なセルフイメージと、永遠の愛という幻想」という言葉を思い出してください。やおいとは、その本来両立しないふたつの欲望を、齟齬なく成り立たせることの出来る(おそらく唯一の)メディアなのです。

そしてフェミニズム的な批判が、どうもやおいの本質に届かないのは、それはやおいがフェミニズムの抑圧の産物だからです。「やおいは男性支配を再生産しているのか?」って、フェミニズム的観点からみたらそれはそうでしょう。男尊女卑的な社会の抑圧がフェミニズムを生み出したなら、フェミニズムの抑圧によって誕生したやおいとそれは、かたちとしては類似してしまうから。

やおいを、ホモフォビックな表現として捉える論−溝口彰子「ホモフォビックなホモ、愛ゆえのレイプ、そしてクィアレズビアン」(『クィア・ジャパンVol.2』掲載)−がありますが、たぶんやおいはホモフォビックというかよりか、究極的にモノガミックだから、「男が好き」というゲイ・アイデンティティーが邪魔なのだと思います…。もちろんそれが、女性としてのセルフイメージの保持のためだけの産物なのだとしたら、やおいはホモフォビア以外の何ものでもないのですが。

自立的な自己像を守りながら、男性の同性愛を描くことで恋愛幻想を満たすやおいという表現。それは、なんて都合のよくて優しい、そしてなんて残酷な表現なのでしょうか。やおいが「天動説」から「地動説」になって、そしてどんどんやおいとしての個性を失っていくとしても、私は、やおいはなくなるどころかむしろもっと広がっていくと考えています。フェミニズムが、ではなく、「近代」が、人間の個人としての自立を尊ぶのなら、そうなってくことで引き起こされる孤独感は、別の何かに解消されるしかないと思っているから。やおいを病気だというなら、それは「近代」が引き起こした病に他ならないと思います。


男女逆転時代劇『大奥』

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

よしながが今、やおいというファンタジーから脱却し、女性としてのリアルな葛藤を『愛すべき娘たち』で描き、そして『大奥』で、他ならぬ男女の関係を問い直そうとしていることは、彼女の大きな成長であると思っています。

『大奥』は、架空の江戸時代、男だけが感染する伝染病が流行った後、男女の人工比が非常に不均衡になった日本を描いています。仕事は女性が行い、家も女性が継ぐようになり、一方で体が弱くなり、数も少ない男性は、他の家に嫁ぐか女性たちに囲われる生活をしています。そして将軍も男性ではなく女性であり、そして大奥に集められたのも、容姿端麗な男性ばかりです。そこに奉公に出た下級武士の男性から、大奥の頂点に君臨する将軍、そして男女の役割が逆転した「大奥」の、はじまりに視点がシフトし、物語は進んでいきます。

そこに描かれる男女関係とは、ただ規範的な男女関係が逆転しただけのなのでしょうか。男性は女性に依存し、女性は男性を支配するだけなのでしょうか。それともそのような転倒した形でしか成り立たない、ありえない「愛の対等」がそこにはあるのだとしたら。


不自由であることより、自由であることの枷を

フォローとして、つーかカン違いすんなよとして言いたいのは、私はフェミ二ズムの抑圧下にやおいやボーイズラブが生まれたからといって、やおいを否定するわけでも、ましてやフェミ二ズムを否定するわけではありません。そこんとこ非モテ男子とフェミの人よろしく。内田樹センセイが「エビちゃん的クライシス」で、最近の学生がフェミニズムのこと知らないのってそれってやばいんじゃないの?フェミニストさん?と嫌味を言っていましたが、それが彼女達が女であることにそれほど屈託を感じず今まで生きてこられた結果なら、フェミニズムが誇っていいことだと思います。

私は男に生まれたかったけど、なんで女に生まれたんだろうと思ってたけど、もうここまで来たらどっちに生まれても大して変わらない、こっから先は自分自身の問題だなと素直に思えるようになってきました。それは先人たちが、男性社会のなかで必死で男女平等を説いて社会の意識を変え、法律を整備してきてくれたおかげです。感謝しています。(という、決して自分がバックラッシャーでないことの必死のアピール)

ただ、こうも思うのです。あぁ、私たちは、こんなに遠くにまで来てしまったのか、と。恋愛が結婚を保障し、そして「幸せな家庭」を保障すると信じることの出来た時代から、そしてその「幻想」を生きることが出来た「現実」があった時代から、こんなにまで遠くはなれてしまったのだ、と。

しかし時計の針は、決して戻すことはできません。



私達がすべきことは、もはや生きることができない「幻想」に戻ることでも、「現実」に絶望して生きることでもありません。あなたと、あなたの恋人、パートナー、家族、友人その他との関係のなかで、新たに「現実」と「幻想」の姿を問い直すことだ。そして「現実」と「幻想」のせめぎあいのなかに、今を生きるだけの強さと、未来への可能性を見つけ出すことだ。

なぜならば私たちは、不自由であることより、自由であることの枷を選んだのだから。

   

    

kiya2014kiya2014 2006/08/31 22:59 >私達がすべきことは、もはや生きることができない「幻想」に戻ることでも、
>「現実」に絶望して生きることでもありません。あなたと、あなたの恋人、
>パートナー、家族、友人その他との関係のなかで、新たに「現実」と「幻想」の
>姿を問い直すことだ。そして「現実」と「幻想」のせめぎあいのなかに、
>今を生きるだけの強さと、未来への可能性を見つけ出すことだ。

なかなか教科書的なおまとめでございますが、こういう優等生の回答と巷で流行の「自己責任論」や「下流社会論」や「ニート発達障害説」等はいかなる点において異なり得るのでしょうか。私は不安です。

nin7nnanin7nna 2006/08/31 23:23 当然ですが、そのような現実があり、そこで立ち行かない人がいるのならば、問題に対し社会が対策や救済を行うことは必要だと思います。社会の責務です。
ただ、どこまでが社会の問題で、そしてどこまでを自分の問題として引き受けられるのか、一度つっ込んで考えたほうがいい、と思うだけです。
もちろん私も不安ですよ。そして出来るかというと、自分みたいなくそったれな人間には出来ない確立のほうが、高い。

メリーベル・萌メリーベル・萌 2006/09/02 00:12 『出天』や『風樹』と、『ポー』を一緒にしないでくれ。あれは、美少年2人が主人公なだけで、別に少年愛ではない。つか、少女まんがでは珍しい「妹萌え」モノでは? ちなみに望都さんは、かなり初期からフェミニストとして(自称はしていなかったと思うが、その発言を見るにつけきちんと自覚があったと思う)かなりきちんと社会へ向けて発言をしてきている作家さんでもありますが。お涼様は、作中にウーマンヘイトがちらついていて、あきまへん。

nin7nnanin7nna 2006/09/02 00:55 ごめんなさい、そこは詳しく書かなきゃいけないとは思っているんです…。山岸涼子はミソジニー的なんですか?また考えがまとまったら書きますので、よろしかったら読んでみてください。
ただここで問題にしているのは、萩尾望都と山岸涼子、竹下恵子との差異じゃなくて、彼女たちの作品とは全く異質な「やおい」のことなんです。そこはご理解ください。

としあきとしあき 2006/09/02 04:29 面白い論でした。ヘテロ男性ですがよしなが作品を読みたくなりました。
引用部分は「今も変わらずサブカルチャー少女」ですよね?

sawasawa 2006/09/02 05:05 よしながふみ作品の考察から、ひととびにヤオイとフェミニズムの関連を論じるのは冒頭にもおっしゃっていましたが、やはり無謀だと思いました。
よしながふみ作品の考察だけを挙げれば読みやすいのですが、そこから突然少女マンガとヤオイ、フェミニズムの関係がかいつまんで書かれたため全体的に散漫な文章になってしまっているように感じます。

はわわはわわ 2006/09/02 10:38 ふと思ったのですが、女性にとってのヤオイがそのようなかつての「古き良き」少女漫画の跡を継ぐものなら、それを読んだ男性たちが作り上げたものが「ラブコメ」であり、今の美少女ゲームや萌えであるのかもしれません。
今の男性向け萌え漫画には基本的に男性が登場しません。というよりも、ヤオイにおける女性的な扱いになっています。
あずまんが大王http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4840214670 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%8C%E5%A4%A7%E7%8E%8Bや、苺ましまろhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4840222924 http://www.tbs.co.jp/ichigomashimaro/
むろん例外もたくさんあるし、ギャルゲーなんかでは当然主人公は男性ですが、それも画面には出てこない。
男性は男性向け萌えメディアではいつも脇役ですし、時にそれを毛嫌いする人もいますが、今はこの手が主流です。
何かしら共通点があるのかもしれませんよ。フェミニズムについてはまあいろいろ言いたい部分もなくはありませんが、最近その手の本でいいのがあるのでこれを読んでみてはいかがですか。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4902465094/ref=ase_seijotcp-22/503-6320284-8228705

よく出来ているそうです。

はわわはわわ 2006/09/02 10:43 あとこれもhttp://macska.org/article/152

山下山下 2006/09/03 02:59 うむむむう。
近代が尊ぶ『個人としての自立』が本当に実現すれば、『それによって引き起こされる孤独感』も克服されるはずです(個人で完全に自立してるんだから)。つまりやおいの役目も消滅するのでしょうか。
男女が社会的・技術的な進歩によって経済力や家事や生殖等々の面でほぼ等価の存在になったら、フェミニズムの『抑圧』はなくなってしまうと思うのですが(だってそれはもう実現したのです)、その時やおいは役割を失うのでしょうか。
やおいは(少なくとも今の流れの中では)『消えるのが望ましい』ものなのでしょうか。
また、やおいを生んだのがフェミニズム(男女平等)や近代なら、それらを生んだ人権思想・民主主義(自由・平等・同胞愛)とやおいの関係を見なければ根源的考察にならない気もしますが。
どうですかね。

nin7nnanin7nna 2006/09/04 00:39 ↑のみなさん意見ありがとうございます。コメント遅くなりました。
>としあき さん
引用部分の誤字はやばいっすよね…。ご指摘ありがとうございます。訂正しました。

nin7nnanin7nna 2006/09/04 00:42 >sawaさん
さすがに「ムチャシヤガッテ…」と思います自分でも。「よしながふみとやおい論」じゃなくて「よしながふみのやおい論」、あるいは「よしながふみ論」だろうと、書きながら何度も思いました。


問題は2つあると思います。ひとつは、一作家でしかないよしながふみを、やおい論へと拡大解釈してしまったこと。あくまでもやおいジャンルの一例として挙げるだけであって、彼女の描いた表現は、やはり固有の作家性として捉えるべきなんでしょう。しかし、時としてすばらしい作品は時代のメルクマールになる。そう思ったことと、あと私はよしながさんの作品が本当に好きで、好きで好きで買いあさるだけじゃなくてどうこの愛を表現したらいいのか…と思い余って、ブログに書いちゃった…というのが正直なところです。もうこんなこと書いたらファンレターなんて申し訳なくて出せやしない…。でもよしながさん自身が拘泥し続けたであろうやおいを、よしながさんの作品を通して語りたかった、私にとってそれが最たる目的でした。



次に、私はやおいの歴史についてなんの説明を加えていないこと。いわゆる今の10、20代の「動物化」した(と言われている)やおい愛好者たちについては語っていないし、ジュネやきゃぷつばなど、やおいの発生に直接関わった媒体についても語っていません。こんなに粗雑なやおい論は他にあるまいて。よしながさんが同人作家として活躍していたのは90年代初めだったので、彼女の作品を中心にして語った私のやおい論は、それと同様にたぶん“古い”。やおいの現状については、なんら有効性を孕んでいないのかもしれません。でもそんなに簡単に「動物化」できるのかなぁ…という疑問だけはずっと心の中にありました。


私が問題だと思ったのはこのくらいでしょうか。文章が散漫なのは、私の文章能力が壊滅的にないからです。向上したいなぁ…

nin7nnanin7nna 2006/09/04 00:43 >はわわ さん
百合萌えのことですよね。男性たちのホモソーシャル(体育会系、マチズムでもいいですけど)な絆が現在有効に機能しなくなっているから、「傷つける性」としての自分を無化してくれるフィクションが、「欲望のリアリティ」の保障になったりするのかなぁと思います。男性版やおいですね。


>フェミニズムについてはまあいろいろ言いたい部分もなくはありませんが
それ!ぜひ!お願いします。ていうかオブラートに包んでもよかった「フェミニズム」という言葉を出したのは、他でもないフェミニズム側から反論・意見が欲しかったからです。私はフェミニズム的な問題提起をほとんど知らないからこそ、フェミニズムはやおいに対してどのようなアプローチを取るのか知りたいと思っていました。それで、そういう私の問いは、十分にフェミニズム的なのかなぁと書いてる今気づきました。


『バックラッシュ』、著者たちのやり取りを含めすごい話題を呼んでますねぇ。天邪鬼なのでまだ読んでいないです…。

nin7nnanin7nna 2006/09/04 00:45 >山下 さん
私は「個としての独立」は不可能だと思っていますので、やおいにかわる新たな表現、幻想維持装置が生み出されない限り当然やおいはなくならないと思っています。男女が等価の存在になったとしても、「男尊女卑」「女尊男卑」などのバイアスを取っ払っても、まず本質的な意味で、「対等」などありえない。たとえば、この世が男性だけ(あるいは女性だけ)でも、ヒエラルキーは必ず発生するでしょう。


だからって無理ならバックラッシュしようぜ?!って意味じゃ断じてないです。そういう意味じゃない…


>また、やおいを生んだのがフェミニズム(男女平等)や近代なら、それらを生んだ人権思想・民主主義(自由・平等・同胞愛)とやおいの関係を見なければ根源的考察にならない気もしますが。

まず近代という大きな時代の区切りがあり、そしてそれを支える思想―人権思想、民主主義など(フェミニズムも含む)があり、それらが引き起こした文化的現象のひとつとして、「やおい」があると思っています。やおいの根源的考察をするのなら、ぜひそうするべきでしょうね。

山下山下 2006/09/04 20:41 なによこの半端な文字化け…ほんと勘弁してくれウィルコム
以下訂正。

では『個人としての自立』は不可能、だとしましょう。ならばそれを尊ぶ近代の価値観は実はウソだ、ということになりませんか。つまり『それによって引き起こされる孤独感』はいずれ必然的に消えるはずです。
そのときやおいの役目はまだあるのですか。
そして、確かになにかしらのヒエラルキー自体が完全になくなるとはぼくも思いませんが、少なくとも『男であることと女であることの間のヒエラルキー』に限定していえば(このままなら)どんどん無くなっていくのではないですか。それともその男女ヒエラルキーを否定するフェミニズムもまたウソなのですか。どちらにせよ、やはり『フェミニズムの抑圧』は限りなく無くなってゆくのでは?
その時にやおいの役割はまだあるのでしょうか。それとも『男であること−女であること』と関係ない、例えば『富んでいる−貧しい』『能力がある−能力がない』のヒエラルキー(『対等でなさ』)に対してもやおいは関連するのですか。もちろんする、というなら、なぜ『フェミニズムの抑圧』『男女ヒエラルキー』だけをやおいに特に関連付けて論じねばならないか判らなくなってしまいますが。
如何。

というわけでこの上のコメントは消して頂ければ幸いです…す すいません…

nin7nnanin7nna 2006/09/07 16:30 山下さんは、つまりポストモダンについて言及している、と理解した上での発言なので、もし違っていたら申し訳ないですが…

「近代」を遅延させ、そこに留まり続けようとする限り、思想なり運動なりをし続けなければならない。そしてその運動を続けるためには、「そうではない現実」がなければなりません。ここらへん保身のためににごにょごにょしたいのですが、はっきり言ってフェミニズムもそうです。フェミニズム運動を続けるためには、「そうではない現実」を探して「十分にジェンダーフリーでない」と、ラディカルに発言し続けなければ、ならない。その際、現実がどうなのかはあまり問題ではありません。たとえ男女平等な社会が現実にあったとしてもです。「バックラッシュ」とはそういうフェミニズムに対する批判なんですよね?その辺よく分かりません、勉強不足…

つまり、「近代」が十分に達成されたことによって、それを支える近代的思想が捨てられるのではなく、そうではない新しいパラダイムが近代的思想の代わりに立ち上がってきたときに、「近代」は終焉を迎え、近代的思想も役割を終える、と思っています。
だとするならば、男女平等が達成されたことによって、フェミニズムもその抑圧によって生まれたやおいも役割を終えるのではなく、むしろそのフェミニズムが骸形化することによって、やおいは存在意義を失うのではないか。

何度も言うように、たぶんやおいという表現は消えないでしょう。(形式だけは残るのがポストモダンだから)。sawaさんのコメントにも書きましたが、私のやおい観ははっきり言って古いです。以前のヤオラーは少年誌のキャラをやおい視しているのを決しておおっぴらにしなかったのに、今の腐女子はどうもそういう認識はないみたい、という指摘があるのですが、やおいという表現に対し何の拘泥も持たない腐女子がこのまま増え続けていけば、その内実を問われないままに、表現が表現としてだけ残る日が来る。あまり役割とか〜すべきという言葉は使いたくありませんが、山下さんの言葉を借りるならば、(もしかしてとっくに来てんのかもしれないですが)そのとき『やおいの役割は消える』、やおいは終わるのでしょう。



>『男であること−女であること』と関係ない、例えば『富んでいる−貧しい』『能力がある−能力がない』のヒエラルキー(『対等でなさ』)

はあんまり関係ないですね…。確かに、やおいとフェミニズムを関連付けるのか、よく分からなくなっちゃいますね。
誤解させてしまうような例えをしてしまいました。自分の語りが、すごく異性愛中心的だったのでそのような言葉を挟んだのですが、フェミニズムが結局二項対立的なものなら、やおいの語りくちもそうならざるを得ませんよね。確かに御指摘通りです。うーん…ここらへん私もどう語っていいのか葛藤があります…

同意です。同意です。 2007/01/21 20:16 私は、フェミニズムとは端的に言って、男女の問題というより、アメリカと日本の関係性のことだと思っています・・・黒船によって日本を強姦したのがアメリカ文化で、そのアメリカ文化こそが、我々日本人が求めてやまない「男性性=王子様」なのです。
面白い話をどこかで読みましたが、古代日本においては言=事、つまり両者は同じもので、「言挙げする」ことと「事挙げする」ことは同意だと。つまり何かを言語化することと戦争は同一のことで、それほど日本人の習性から遠いものはないと。
・・・だからフェミニズムというもの自体がある意味語義矛盾なのです。何故なら「事挙げしない」ことを「言挙げ」した途端、それは「事」になってしまうのですから。
回りくどい言い方になりましたが、しかしこうなったらどこへ行ってももはや「逃げる」しかないと上野千鶴子氏は仰っています。しかし、今地球上で「アメリカ」なるものから逃げられるでしょうか?逃げられません。それどころか我々は、子供に「英語を義務教育で教える」というところまで、アメリカ性=こと挙げ=男性性、を身体化してしまったのです。
これと対決できるのは、もはや個々人しかありません。その意味で、仰っておられることは誠に正しいと思います。
なんだか「やおい」とは直接関係ない文脈になってしまいましたが、要するにやおい=王子様願望(そして=アメリカ崇拝)VSフェミニズム、という点で同意するものです。では。

jljl 2007/02/14 12:07 しね

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