Lesson#259; Caution! Do Not Enter!

朝食にヨーグルトパフェ(バニラアイス+フルーツヨーグルト+チョコレートクッキー+アーモンドヌガー・オン・クッキー+ドライフルーツ)とココア。アメリカナイズを突っ切ってスペースジェネレーションな食事は健康とは程遠いようでいて幻想的。
地下鉄の一日乗車券を買ってカウンセリングを受けに六本松へ。今日は初めてペプシの空き缶から作られた帽子をかぶって外に出た。いつものようにスケートボードに乗っていった。天神の車道が空いていてボードで移動するのが楽しい。
カウンセリングは帽子の話から入ったのでファッションについての会話が続く。世界中のコレクションのショーを写真や映像で追っていることについて。紡績業界のアティチュードについて。就活ルックについて。
フェアトレードについても話す。自己の消費活動について真剣に考えすぎていることは、ぼくの生活全般に敷衍出来る。つまり難しく考えすぎて自身を解放できていない、ということなのだろうか?
カウンセラーの先生にはおしゃれだと言われた。悪い気はしない。むしろうれしい。
帰りに六本松のブックオフへ。あまりいいものは見つけられず。天神へ行きTSUTAYAの中古コーナーへ。アンチ・ポップ・コンソーティアムのファーストを見つけた。買うかどうか保留してとりあえず昼食を取りに家へ帰る。
昼食後神経内科へ行くためまた天神へ。午後からは雨らしいので、帽子とスケートボードは置いていく。替わりにおととい買ったユニクロのダウンパーカーがオレンジ色で、HEROの時にキムタクが着ていたダウンのように見えて、一瞬で興ざめしたので違う色に交換してもらうためにもっていく。あと傘も。
先に病院にいって診察券&保険証を提出。「時間掛かりそうですか?」と窓口のお姉さんに聞き小一時間は待ちそうだったのでその間にユニクロへ行ってダウンを交換してもらうことに。黄色のやつにしてもらった。運気上がりそう。風水的に。
ちょこっとだけ中古CDショップを覘いて病院に戻る。置いてあったマンガ本を一冊読むくらいの時間のあと診療。なぜか今日の先生はなんちゃって気功師な服装ではなく西洋的にきっぱりとした服装。タイ、ベスト、革靴。薬の量を調整してもらい、今後言いたいことはまず書くように勧められる。
薬局でホットペッパーを見たら、きっかけレッスンのページにスノウボードの初心者講習が。手ぶらでOKとあるので、行ってみたい。
結局TSUTAYAに行ってアンチ・ポップ・コンソーティアムの1stを購入。その後赤坂の中古CDショップで二枚CDを購入。こっちは600円とか300円で二枚組みだったから。ロニ・サイズとゴールディ。
とりあえずヒップホップとダンスミュージックを勉強しなおします。

トラジック・エピローグ

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サターンズ・リターン

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Lesson#256;リーン・エアー(何も無いそこに寄りかかって)。

ただ言わないだけである。
暗黙の了解とはそう言うものだろうか?
僕のタナトスとはスケートボードに乗ること。
自殺を避けるためには、この身を危険にさらす必要があるから。

一生かかっても理解し得ない。
それは人が個人として別たれている以上、しようの無いこと。
故に多くの苦痛がある。
しかしそれが権利と義務の合わせ鏡のようにあるからこそ、お互いの存在が理解できる。

こんな孤独に僕たちを作った神様が憎い。
神への罵倒がどれほど罪深いことか、よく知っている。
それでも彼にFuckと言いたいのだ。
こんなに孤独に苛まれると。

僕らはカテゴライズ、ネーミングと言ったことを行うとき、各々の差異について着目する。
と、同時にそれが存在しなければ行えない。

なぜこんな言葉が出てくるのかわからないが、
きっと僕の両親は僕のことを殺したいと思っている。
と、ふと浮かんできた。

波に揺られているカニの死骸を見ながら考える。
このカニの一生とはどれほどの長さがあったのだろうか?
一年だろうか、一ヶ月だろうか。
と言うか、どこからどこまでが彼の一生だったのだろう。
小さな、小さな生物になるほど生と死の境があいまいになってくる。
存在と生死が同一なことのように。
何を持って死とするのかは科学が進んだからこそ、よくわからなくなってきた。
意思が無くなったら?
世界に影響を及ぼすことが無くなったら?
今日見たカニ、その身体が水中で朽ちていく瞬間、それは確実に世界の形を変えつつある。
もしかしたら生きていた期間以上に長くそれに時を必要とするかも知れない。

なぜ痛みを感じながらも続けていかなければならないのだろうか?

Lesson#255;半分水没した僕の人生。

どうして僕は惑うのだろう?
この何の苦痛も無い生活の中で。
自分の作り出した、幻影のような、実際には在りもしない悩みにしっぺ返しを喰らう。

食べ過ぎると太る。と言ったようなことが、ほかの事でも起こるのだろうか?
テレビを見過ぎると近視になる。何もかもが近場での出来事のように思えてくる。
本を読み過ぎると頭でっかちになる。すべてが頭の中だけで終わってしまう。
ネットサーフィンをし過ぎるとなんでも知っているような気になる。
買い物をし過ぎると物が増える。物のありがたみがわからなくなる。
安いものばかり輸入し過ぎると国内の産業が空洞化する。
悲し過ぎると心が病んでくる。
人が増え過ぎると窮屈になる。
ダウンロードし過ぎるとハードディスクがいっぱいでPCの動きが鈍くなる。
好き過ぎるとその人しか見えなくなる。
人に気を遣い過ぎると自分のことが後回しになる。
流行り過ぎると飽きられる。
働き過ぎると過労死する。
不安になり過ぎて何も出来なくなる。
将来を悲観し過ぎて、子供を殺めてしまう。
使い過ぎてなくなってしまうのは何も消耗品に限ったことじゃない。


Lesson#254;歌、唄、詩、ウタ、うた。

明け方、ベッドの中でもぞもぞしながら考えたが、やっぱりあったほうがいいんじゃないか?(結果はカウンセラーとのドライブと彼の不在、僕の得た悟りについての半時の会話)。



夢精なんていう、無様なことにならないための惰性的な自慰行為。



美味い不味いは二の次だー♪腹が膨れりゃそれで良い♪



観覧車に乗ったり、自転車二人乗りしたり、公園で温かい物を飲みながらぼけーとしたり。



彼女にはマリンスポーツが似合いそうだ。
ウェットスーツなんかを着てするような。
夏の海ではない、ちょっと沈んだ海での。



命の重さに差など無いのだ、と言うのと同じように、グローバル経済がもたらす悲劇を知るためにヴィクトリア湖について僕が調べる情報の1バイトと、肥満した青年が一切の経済的な支払いをせずに下腹を掻きながら読む漫画の一ページを表す1バイトでは、差など無いのだろうか?

Lesson#253;TIM,TIM,TIM,TIM,TIM,TIM, ……..

汚いものを見るような目。と言うのは、うむ、よろしくない。
十代の娘が父親に対してなどは、不尊極まりない。
父の下着を汚物のように扱い、別に洗濯する。言語道断。
しかしである。
汚いものを汚いものとしてみることがなぜいけないのか?
そこに美しさがあるならばよろしい、納得いたしましょう。
美しさが人それぞれであっても、美しさが外面ではなく内面に存在していたとしても、受け付けないもの、端的にって汚らしいものが存在します。
悲しいことに、文化的な限界であろう、人間の。
Tシャツ一枚のみで隠されたでっぷりとしたおなか。
40年代物の一物を一日包んでいた男性用下着(ブリーフ)。
外見だけで、表面的な理解だけで判断している。
そう言われてしまっても致し方ないが、どうしても美を見出せない。
これらを思わず抱きしめたり、頬擦りしたくなることが無いのは僕の愛がまだまだ利己的なだけだろうか?

Lesson#252;The Devil is in the Details.

人は多くのときをすごした分だけ、時間の大切さを知り、より多くの時間を求めるのだろうか。

変なトラックバックが付いていますが、何でしょうか、こういったものを見るにつけ、消費と生産について考えさせられます(マジかどうかと問われれば、もうものすごいガチ、それこそガチガチ。その反面、全編にわたる不条理ギャグの嵐です)。僕たちは安易に消費や生産という言葉を使いますがそれが何を対象とするのかについては無自覚です。景気を良くするには消費を刺激するべきだ、などと政治の場面では語られることが多いですがそこで消費されているのは金銭であります。
しかしここで指し示される経済的な権利の行使は消費でしかないのでしょうか?
上質なコーヒーのもたらす芳香は、一冊の本がもたらす金言の数々は、一本の映画の流させる涙は、一枚のCDが満たすヘッドフォンの中の空間は決して価値の無いものではないでしょう。これらに、広く一般の人々にとって同様の効果が得られない、と言う限定性が見られるだけで価値が貨幣から別の形に移行したに過ぎない、と表現することが少し奇異に思われることこそが拝金主義である、と思います、字義通り。そう言うならば香りに、言葉に、映像に、音に価値を見出し、それを追い求めることが拝香主義、拝言主義、拝映像主義、拝音主義であると言えますが、ぜんぶひっくるめてこれらがフェティシズムでありやはりある種の宗教性を負ってしまうのはしようの無いことでしょう。
消費しないことが、経済的権利の行使の抑制・遅延でありストイシズムを標榜する行為なのか、守銭奴と言われる拝金主義の行き着く先なのかわかりませんし、それはおのおのの心の持ちようであります。
確かにどのような形態の価値へとも変容する可能性を有した金銭の魅力たるや相当なものであり、強烈な万能感を私たちにもたらします―コントロール可能であるが故に火炎への信仰心は近年皆無ですし、試験管から生み出される生命の前に母性の聖性は弱度が強調されてしまいます。ですがこの万能感は幼児性があまりに強く、短絡的で、非常に危険な一面を持っています。この信仰の先には―過度の信仰はどれもそうであろうかとは思うのですが―悲劇が待ち構えています。

地下鉄の広告で、消費者金融と多重債務整理を促す司法書士事務所が隣り合うのは、ナンセンスギャグです。

Lesson#251;ありったけの狂気の物語。

気が付けば消費を促されていると言う現実に、Googleにキーワードを入力して検索するたびに直面させられる。
それはたいてい僕が調べようとしているものが、経済的な価値を持つ商品であることを強調する。
トップの現れるサイトはショッピングサイトであり、そこには\の後に数字が続く。
僕はいったい何を知りたかったのだろうか?

愛とは交換の補完である。
あらゆる交換によって満たされる僕らの世界の、不均衡を是正する、不等価を等価とする、そう言った効能が愛にはある。

美学は経済学、政治学、確率論の前では無力だ、あまりにも。
それは愛が数字の前にその効用を失ったと言えなくも無いだろう。
それは僕らが美学をあまり顧みなかったからではないか?
ある学説や宗教が力を有するかどうかは、時勢によるところが大きい。
言い換えるならば、どれだけの人間が信じているか?と言うことが事実なのである。

ありきたりの狂気の物語 (新潮文庫)

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