追伸、@ats様

お返事を頂いたので返信いたします。


GMは新しい技術で,GMによって生み出された作物の影響はよく分かっていないので気をつけるべき,という意見は心情的にはよく分かる。ただ,世の中に出回っている品種は,かなりのペースで品種改良されている。つまり,我々は常に未知の遺伝子を持つ作物を摂取しているわけである。この種の遺伝子や作物が引き起こす影響について,GMと同様に警鐘を鳴らす人をほとんど見かけないのは何でだろう。

これは両方共に警笛を鳴らすべき問題だと思います。人体への安全性についても問題ですが、新たな生物種が生態系に放たれてしまう「外来種問題」があるからです。密室での実験なら問題ないのですが、いったん生態系に混入してしまった外来種を取り除くのは極めて困難です。マングースやアライグマのような大型の動物ですら取り除けないのですから、植物となるともはや絶望的です。

人体への安全性についても、検証期間があまりにも短いと思います。発がん性や子孫への影響は十分に追跡されているでしょうか。


「自然のものの方が安全だよ」っていう主張についてはこう言っておく。自然は,人間という特定の種のみに利するようなことは決してしない。自然は全ての種に平等に無慈悲である。20代のころ日本中の川をカヤックで下って,さんざん死ぬような思いをして,僕はそう考えるようになった。

カヤックが危険なのは人間が水棲動物でないからだと思いますが・・・。

横にそれましたが、自然が無慈悲だということには同意します。ただ、人はこれまでの歴史においてどのように無慈悲な自然に対処すべきかという知識を蓄積しており、毒性を持った食物を避ける、食物をちゃんと調理してから食べるなどの対処で危険を避けています。また、街を形成することで外敵という無慈悲な存在からも身を守っています。自然の無慈悲に直接さらされているわけではありません。

経済性以外の理由で、新たなリスクを盛り込む必要性はあるのでしょうか?


世界の人口が70億を突破し,このままのペースでは21世紀半ばには100億を超えようとしてる。人口増加がこのまま進めば,食料が足りなくなることが懸念されている。100億の人間を抱える世界では,今以上に高耐性,高収量な作物が求められるだろう。特定の機能に特化した品種改良が可能な遺伝子組み換え技術がないと,この状況に対応できないのではないかと僕は思っている。

飢える人が出れば戦争や紛争が起こることは歴史が証明している。GMを受け入れるかどうかは,僕たちの子供や子孫が暮らす世界の平和に関係している,と考えるのは大げさだろうか?

GM肯定派の人がこのような議論を持ち出しますが、GMで食糧危機が乗り越えられるというのは誤った考え方だと思います。例え収穫量が10%増えたところで、人口の増加が止まらなければそれは焼け石に水です。食糧難の原因は、人口増加や政治的な問題であって、GMという打出の小槌で何とかできると考えるのは誤りでしょう。GMは対処療法としては一時的に有効かも知れませんが、原因を取り除くことはできません。問題を先延ばしにするだけです。人類はどうやって人口増加に歯止めをかけるのかということについて、もっと真剣に考えるべきなのです。

GMがもたらすのは食料問題の解決ではなく、一部の企業への利益だけでしょう。そしてその後には食の安全性と外来種の問題がついてまわります。問題とメリットを天秤にかけると、GMを使わないほうが良いと思いますがいかがでしょうか。

組換え作物反対派の主張する危険性に対する間違った批判に対する反論

組換え作物反対派の主張する危険性に対する間違った批判を見かけたので反論しておく。


1)遺伝子はあらゆる生物に含まれており、
他の生物を食べている以上、遺伝子を食べることは必然です。
今までも、ずっと食べてきて問題ないのですから、ナンセンスな意見です。

遺伝子を全て同列に扱うことがどれだけ危険だろう。遺伝子というのは2重螺旋構造で、DNAでは4種類の塩基が組み合わさって情報が格納されているというのは確かに共通だ。しかし、重要なのは遺伝子はその情報次第で性質が様々に変化するという点である。食べても(経口摂取しても)平気な遺伝子とそうでない遺伝子がある。そもそも遺伝子が全て同じ性質であれば、遺伝子の意味がないではないか。

プログラムに置き換えてみると次のように例えているに等しい。

プログラムはあらゆるコンピュータ上で実行されており、
コンピュータを使う以上、プログラムを実行することは必然です。
今までも、ずっと実行してきて問題ないのですから、ナンセンスな意見です。

この主張がコンピュータに深刻なダメージをもたらすウィルスを実行していい根拠にならないことは自明であろう。


2)3)上記のように、性質のよく調べられた遺伝子を使っています。
危険性があるような遺伝子(人間に効果のある毒を作る遺伝子など)は、そもそも使いません。
また、組換え作物も調べた上で、危険性の認められたものは開発中止になります。

危険性がないということを完全に調べ上げるのは不可能である。コンピュータに例えると、「このプログラムにはバグがない」と言っているに等しい。いや、むしろ生物のほうが複雑であるので、危険性がないことを証明するのは不可能だ。何をもって安全であるかということの定義も難しい。例えばほとんどの人には無害であっても、0.01パーセントの人にアレルギーが生じるかも知れない。世界中の人々を対象に調査をしたのか?人間だけでなく動植物は?微生物は?

そもそも、よく知られた遺伝子といえども、現在の科学ではその働きを完全に解明したわけではない。普段は何もしない遺伝子が、環境などの変化によって突如としてスイッチが入って動き出すということが多々ある。よく知られた遺伝子でもコンテキストによって働きが変わる危険性を孕んでいる。

従って、「よく調べられたから安全」という主張は受け入れがたい。


「可能性」を言えば、交配育種でも突然変異育種でも同じくらいあります。
むしろ、変化した遺伝子の数が多い分、
それらのものの方が危険性は高くなることは十分考えられます。
さらに、交配育種でも突然変異育種は安全性の確認すら、行われていません。

この点については半分同意。

交配育種はあくまでも自然の中でも行われる交配に基づいた手法であり、その遺伝子はもともとその植物の中に存在していたものである。交配育種はむしろ変化した遺伝子の数が絞り込まれると考えられる。

突然変異育種については同意する。だが、突然変異育種がOKだから遺伝子組み換え作物がOKという意見には同調できない。ここは両方共NGという選択肢を選びたい。


4)作物というのは、人間が手間暇かけないと育たない、弱い植物です。
自然界に種子が逃げたとして、雑草にまず負けてしまいます。
また、花粉が雑草と交配して、例えば雑草が除草剤に強くなったとしましょう。
しかし、特定の除草剤に強いだけであり、あらゆる除草剤に強いわけではありません。
また、雑草にコストと時間をかけて除草剤を撒くという行為が
それほど頻繁にあるわけではありません。
ですので、もともとの数が少ないわけですので、自然界の競争に負け、駆逐されるでしょう。

これは完全に誤った情報である。

例えば遺伝子組み換え菜種が繁殖しているというのは有名な話である。この例で挙がっているのは除草剤に耐性のある菜種であるが、なんとも逞しく生態系へ広がっているではないか。

この引用部分で危険だと考えられる意見は、自然界というカオスを考えるにあたり、強弱という二元的な概念を導入しているところである。○○に弱いから生き残れないという極度に単純化したモデルでは、自然界の動きは予測できない。むしろその種にあったニッチを見つけ出して生き残ったり、菜種の例のように既存の種と交配することで遺伝子が広がるという危険性もある。

自然界における種の広がりという観点では、これは構図的には外来種の問題と非常に似ている。いや、本来存在しない種が生態系に放たれて広がるという意味では、外来種問題そのものと言っていいかも知れない。

実は、筆者が遺伝子組み換え作物に批判的なのは、福岡伸一氏の著書「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」に感化されたという理由が大きい。生物の本質はダイナミックな動作そのもの(≒動的平衡)であり、遺伝子の働きはその動きの中のひとつのピースに過ぎない。遺伝子だけで生物の生長や特徴をコントロールできると思ったら大間違いである。

また、遺伝子組み換え作物には倫理的な問題が残っていると思う。安全性や生態系へのダメージなど様々なリスクを孕んだ遺伝子組み換え作物を、特定の企業の利益追求のために認めても良いのか?目先の経済性のために社会はリスクを犯すべきなのか?生態系のダメージはもとに戻すことができない。ひとつ間違えれば取り返しのつかない事態になる恐れがある。遺伝子組み換え作物がないことで人類が滅亡するわけではないので、慎重になりすぎるぐらいのほうがいいのではないかと思う。

Re: 東京都青少年条例を考えるヒント5 「肌の露出は誘いの合図?」

規制賛成派の人のブログでおかしな主張があったので突っ込んでおく。規制賛成派・・・だよね?という感じのが。


http://mediaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-785b.html

話の概要は「肌を露出させると男はOKのサインと思いがちだけど、実は女からすると全然そんなことないよ」という有り触れたものなのだが、それが東京都青少年条例についてどのようなヒントになるというのだろうか。そもそも、このエントリで主張されていることは、立場を変えると規制反対派の擁護になってしまう。

ツッコミ1

私が大学生の男女を対象に実施したアンケート調査によれば、露出が高い服を「OKサイン」と考える男子は21%に上る。ところが、自分の露出にそのような意味を込める女子は4%に過ぎない。

まず、4%というのはかなり大きな数字ではないだろうか。一部にそのような人が居るのだから、露出が高い服を「OKサイン」と考える(そのように考えて行動し、間違っていなかったことが証明された)男性が居てもおかしくはない。

今回の規制は「有害図書」を読んだ男性は犯罪を犯すという思い込みによって決定されたものだが、果たして有害図書を読んだ結果犯行に及んだ性犯罪者は、性犯罪者全体の中でどのぐらいの割合を占めるのだろうか?上記のアンケートでは男女差で5:1程度であったが、

有害図書を読んだ影響で犯罪に走った性犯罪 : 有害図書の影響とは無関係な性犯罪者

という比率は、恐らくそんなもんじゃ済まないぐらい開きがある。如何に思い込みが危険であるかとうことをわざわざ教えてくれているのだろうか。

ツッコミ2

女性がどのような服を着るかは「好み」による部分も大きい。脚線美が自慢ならミニスカートを履きたくもなるが、必ずしも挑発しているわけではない。露出した肌を「見せびらかす」ことと、実際に「触らせる」ことには、雲泥の差があるためだ。

犯罪が描かれた作品を「鑑賞する」ことと、実際に「犯罪をおかす」ことには、雲泥の差があるよね???

作家の立場から見ると「鑑賞する」というところを「表現する」と読み替えて差し支えない。一体鑑賞や表現の何が悪いのかが分からない。

ツッコミ3

だが、このような心理は男性向けメディアにはわかりにくいと見える。痴漢の被害に遭った女性を、「露出する服を着ていたのが悪い」と逆に責める風潮すらある。勝手な誤解が、女子から服装の自由を奪う。

有害と指定された図書を読んでも実際に犯罪には走らない心理は当たり前なのだが理解されていないように見受けられる。勝手な誤解が、作家から表現の自由を奪う。

競争にもまれて強くなろう。

Inspired by 競争にもまれても強くならない。 島国大和のド畜生

元記事には山ほど突っ込むべきところはあるけれども、ここはひとつ手短に。

 競争にさらされる事で強くなる等と盲信して、ハムスターの縄張りに、キングギドラの上陸を許す奴は、楽天的というレベルでは無い。利敵行為だ。

このたとえはひどい。そもそも前提からして間違っている。ハムスターの縄張りにはたとえ許されたってキングギドラは来ない。そもそも規模が違いすぎて食えないでしょ。100円、200円単位のビジネス=ハムスターだとして、億単位の資本を持っている輩が今更そんなビジネスをするだろうか?

そもそも、ハムスターだってそこですでに生存競争をしている。競争のない世界をハムスターに例えるのは間違っている。

おそらく元エントリ主が言いたかったのは「外敵が居ない方が業界が繁栄する」という旨のことだとは思うのだが、これは短期的には確かに正しいだろう。実際、生物も外敵が居ない環境なら増える増える。しかし、淘汰が働かない場合、そこに「規模の成長」はあっても進化や発展はない。長期的にはその点が問題になる。

もちろん、自国の産業が未熟で保護が必要な場合には保護・支援するべきだろう。だが、そういった保護は期限付きにするべきであり、最終的には産業は自立しなければならない。自立が出来ない産業はそもそも必要ない。(国の風土と合ってないのだろう。)不要な保護が残っていると、規模だけが大きいあまえた企業が跋扈することになってしまう。そういった企業は政治と癒着し、進化せず、国を疲弊させることになるだろう。

 そもそもgoogleamazonとガチバトルして勝てる企業体力のある会社なんかあるのか?

この問いには、「そもそも日本でGoogleAmazonと勝負する必要はない。勝手にやらせておいてOK。」だと答えたい。問自体がナンセンス。日本にすべてがそろっている必要はない。得意分野に注力して、しっかり外貨を稼げばいいのだ。GoogleAmazonのサービスは、単にありがたく利用させて頂くだけでOKなのだ。そもそも、両社とも日本法人があるし、日本で雇用を創出してくれていることを忘れてはならない。雇用の面でも利用させていただけばいいのである。

 競争にさらされて強くなる以前に、死ぬわ。勝負にならない。手合い違いにござる。

企業が競争で敗れても、人が実際に死ぬわけじゃないから問題はない。人材が足りないところへ人が流動すればいいだけである。借金を背負ったら破産宣告すればいいだけである。「失敗=死」という日本の風潮がいちばんイケナイんじゃあないだろうか。

戦力比も考えず、いきなりガチ勝負すれば、国際競争力がつくとか、バカじゃないのか?

日本には資源がない。最終的に、食っていくためには海外から資源を調達しなければならず、そのためには海外へモノやサービスを売らなければならない。つまり、日本という国は根本的に海外との競争から目をそらすことが出来ないという宿命を背負っているのである。ビジネスにおいて敗戦国にならないようにするには国際競争力が必要。実際、電気メーカーや自動車メーカーなどは国際競争力がある。TOYOTAはしっかりガチバトルしているじゃないか。

国際競争力をつけるために市場を開放する動きは別に悪いことじゃない。そもそも、海外の企業にとって日本という市場は、規制がなくなっても様々な障壁が存在する。例えば言語。日本語ほど特殊な言語は他に存在しない。日本の商習慣もかなり特殊で、海外のビジネスマンがいきなり日本へやってきても、たいていうまく行かないことが多い。

あと、ガラパゴスについては、産業を保護してきた側面もあるけど、成長の芽をつんできた側面があるのを忘れてはいけないと思う。例えばガラケー。海外と同じ規格にしていれば、日本のメーカーはもっと海外向けの携帯端末を開発することができただろう。

元エントリの「戦略が必要」という主張には同意するけれども、市場開放=バカというのはいささか考えが足りない。特に長期的な視点が抜けている。あと、保護という利権を享受した輩どもは、なかなかそれを手放そうとしないという点についても考えたほうが良いだろう。後々遺恨を残すような政策は賢いとは言えないので、保護というのはできるだけしない方がいいのである。



元エントリを読んでまっさきに頭に浮かんだのは外来種問題。ビジネスと違って、生物は海や地形といった障壁によって、物理的に隔離されている。その障壁を人間が破り、外来種を持ち込むことがどれだけ危険な行為であるかは、元エントリ主はきっと理解しているに違いない。ブコメにも賛同する意見が多く見られたけど、そういう人たちはきっと外来種問題を理解していると信じたい。バス釣り反対。

そもそも夫婦別姓が好かれないわけ - オレオレ流

id:T-3don 氏の
そもそも夫婦別姓が好かれないわけ - みつどん曇天日記
に触発されて書いてみる。

一応、俺の立場を明確にしておくと、正直夫婦別姓というものには違和感を覚える。

ぶっちゃけ、好いた同士がいっしょになるとき、今の制度の中でも法的に「別姓」を名乗ることは可能だ。結婚しなければいい。ただ一緒に住んで、結婚届けを提出しなければいいのである。そうすれば別姓を名乗ることに何の躊躇もない。結婚届を提出しないと、税制上様々な控除が受けられなかったりするのが問題だと言うのなら、そんなものは全て撤廃してしまえばいい。そうなると結婚届を提出して「法的に」結婚することの意味はあまりなくなってしまうかも知れないが、だったら結婚なんて制度は撤廃してしまえばいいのである。同姓にしたい人は性を変更すればいいのだ。子供がどちらの性を名乗るかは親同士が相談して決めればいい。

そもそもだけど、結婚(一夫一婦制)は文化や風習が醸成してきた制度であると思う。そんなのは文化や風習の域にとどめて、法的な側面とは切り離してしまったほうがすっきりするのではないか。夫婦になろうと思ったら、法律ではなく文化的に風習的にちぎりを交わせばいいのだ。単に結婚式をすればいい。お互いの気持ちの方が、紙切れなんかよりずっと大事ではないか。変な紙切れなんかで拘束しないほうが、夫婦の絆は強くなるんじゃあないか。

結婚すると夫婦の財産は共通になって、すると離婚時に財産分与が問題になったりするのだけど、そもそもそんなものはナンセンスである。夫婦の財産は分けたままにしておけばいい。そうすれば財産分与の問題は発生しない。妻が主婦をするというのであれば夫が生活費を出すことになるが、夫の収入から夫婦がどれだけ貯蓄に回すかは、夫婦で相談して決めればいいのである。

子供の養育についてであるが、この点については今まで通り、両親にその義務を負わせるべきだろう。別居するなら養育費は払う。ただし、この点については、父親が子供を育てることになったら母親は養育費を払うという義務を追加して頂きたい。現状の「父親だけが養育費を払う」という制度はフェアでないからだ。現在は「養育費の全額を父親が払う」という前提で養育費が試算されているが、本来は夫婦で折半するべきなのだから、相場はだいたい今の半分ぐらいになるべきである。父親が払うときも今の半分。母親が払うときも今の半分。それでようやく平等だと言える。

結婚という法律上の制度がなくなると、夫婦は別れやすくなるかも知れない。しかし、簡単に別れられてしまうからこそ、その絆を強めようという努力を日々怠ってはいけない、相手をもっと大切にしようという気持ちに繋がるんじゃないか。今の日本の病巣は、夫婦お互いに我慢を強いる結婚制度にあるように思う。そんな制度なんか無くしてしまって、男も女ももっともっと自由に生きられるようにすればいい。

ぐだぐだ書いたけど、夫婦別姓なんてチマチマしたことを議論するなんて不毛で仕方がないと思うんだ。

ペットが嫌いです。

少し個人的な思想をカミングアウトすると、俺は「ペットを飼う」という行為が嫌いだ。犬や猫そのものが嫌いなわけではない。ペットを飼うという行為が嫌いなのである。

ペットはまさに愛玩用の奴隷である。一緒に居るときは確かに可愛がられている側面もあるが、大抵は人間様の都合でずっと家に閉じ込められたり、鎖に繋がれたり、旅行の時にはホテルに預けられたり、挙げ句の果てには去勢までされてしまう。なんと可愛そうなことではないか。しかしペットを飼う人達は口を揃えたように言う。

「ペットではない。彼(彼女)は私の家族です。彼(彼女)は私たちと一緒に居て幸せなんです。」

と。

これは本当に勝手な主張だと思う。彼(彼女)らには選択肢がないのだ。自由を奪われて幸せなことがあるものか!

もし、あなたが本当にペットが幸せだと信じているならば、私はあなたに言いたい。

「私のペットになってください。」

と。

「衣食住は面倒を見るが自由はありません。一緒にいるときは可愛がりましょう。ただし私が留守中はずっと鎖に繋がれていて下さい。あと、増えると厄介なので去勢しましょう。しかし大丈夫、あなたはゼッタイに幸せですから。なんたって家族なんですよ。」

ペットを飼うというのは人間のエゴを満たす行為だ。強者である人間が、弱者である動物を虐げるという構図である。だからって何が悪い?別にペットを飼わなくたって、人間は他の動物を虐げている。山林を切り開いては動物のすみかを奪い、家畜として飼育して殺して食べている。だからペットとして飼って彼(彼女)らの自由を虐げてもいいじゃないか。

そう、悪くはない。別にペットを飼うという行為は悪い行為ではない。それは強者の権利なのだから。ただ、俺がその行為を好きになれないだけである。

価値観と思いやり。

Inspired by 今日の「おまい自分が何言ってるかわかってんのか」リスト・きっこ編

さいきん炎上していた(?)きっこ氏の発言およびそれに対する反応には、そこはかとないすれ違いを感じて仕方がない。そのすれ違いの原因は何か?炎上した原因は何か?ということを考え、ようやくすれ違いの構造を理解するに至った。個人的には、やはりきっこ氏の主張は間違っていると思うので、今日は何がいけないかについて論じてみようと思う。

まずは問題となった発言の引用。

その1

宮崎県の口蹄疫で牛や豚が殺処分されてる問題だけど、もともと人間が食べるために牛や豚を育て、肉の美味しくなる時期に屠殺場で殺し続けてきたことは何とも思ってない人たちが、「涙ながらに牛を殺した」とか「豚を殺した」という詭弁はやめて欲しい。

その2

殺される側の牛や豚にしてみたら、十分に太らされてから殺されようが、病気に感染して若いうちに殺されようが五十歩百歩。あたしが牛や豚なら、病気に感染して若いうちに殺されるほうが、人間に対して「ザマーミロ!」って思うよ。

個人的に、きっこ氏の「殺される側の牛や豚にしてみたら、十分に太らされてから殺されようが、病気に感染して若いうちに殺されようが五十歩百歩。」という点については、俺は120%賛同する。殺される動物にしてみれば、結果=殺されるという観点では同じである。動物の死をどのようにとらえるかは、まさにその人の主観だ。牛からしてみれば「人間に美味しく食べて貰いたい」などとは微塵も思っていないだろう。少なくとも動物である以上、家畜にも「死にたくない」という本能はある。どのような死に方であれ結果は死=無念なのである。

ただし、それと同様に

あたしが牛や豚なら、病気に感染して若いうちに殺されるほうが、人間に対して「ザマーミロ!」って思うよ。

という風な感情を牛や豚が抱くこともあり得ない。牛や豚はそのような感情は持ち合わせておらず、「ザマーミロ!」などという感情は人間が勝手にその対象に当てはめているだけに過ぎないのである。

人間は勝手な生き物であり、たびたびこのような思い込みをしてしまう。動物を擬人化して、「同じどうぶつだから自分と同じように考えているに違いない」と。動物の種が異なれば身体の構造も違うし、習性や食性も異なるので、動物と人間が同じ感情を持つことはない。この点について、「すイエんサー!」で衝撃的な一コマがあったので紹介しよう。


参照URL: http://ameblo.jp/fullscratch/entry-10304915723.html

?猫はなんで甘え上手なの〜??

(snip)

(答え)
人間は猫がどう思ってるかとは関係なく猫を
みただけで甘えてくるに違いないと思い込む生き物。
・・・思い込み。という ( ̄□ ̄;)アァ〜

ktkr。猫好きの人にとっては身も蓋もない回答だろう。こんなことを言われると怒り出す人もいるかも知れない。しかし、ねこが甘えてくると思うのは、人間の思い込みなのである。

話が逸れたので本題に戻ろう。以下は、きっこ氏に対する@abiuduki 氏の反応である。

人に食べて貰う為に屠殺するのと病気の為に殺処分することの違いがわかりませんか。 RT @kikko_no_blog いったいどこが侮辱なのですか?今まで数え切れないほどの牛や豚を殺してきた人たちが、こんな時だけ殺すことを「かわいそう」だなんて、こんな詭弁は前代未聞ではありませんか

「人に食べて貰う為に屠殺するのと病気の為に殺処分することの違い」は例えばこんなシナリオだろう。

屠殺するというのは自分の感情を殺さなければいけない大変な仕事だと思う。「人が食べるから」と思えばこそ、その大変な仕事を全うすることができる。なのに今回はただ単に殺して埋めなければいけない。だから良心の呵責に耐えられない。

違いはある。大いにある。

おそらくきっこ氏は違いが分かっていない。というか分かろうとしていない。この問いに対するきっこ氏の回答はこうだ。

@abiuduki 人間の側から見ればお金の違いがありますが、人間の都合で殺される動物の側から見たら同じことです。

確かに家畜にとっては結果=死は同じかもしれない。しかし、家畜を死に至らしめる人間の感情は、大いに違う。その点に目を向けずして円滑な対話はあり得ない。

家畜を殺す人間の感情なんてどうでもいい?というなら、それは身勝手な主張である。感情は大事だ。そもそもきっこ氏が、

「涙ながらに牛を殺した」とか「豚を殺した」という詭弁はやめて欲しい。

と思うのはきっこ氏の感情ではないのか。他者の感情を無視して自分の感情を押しつけるのは身勝手というものではないか。

きっこ氏にはもうひとつ不可思議な主張がある。

私は「自分の手で殺せる生き物」しか食べないことにしています。釣った魚は自分で殺せるから食べます。でも猫や犬を殺せないように牛や豚や鶏も殺せないので食べません。「命を食べる」ということは「命を奪う」という現場にまで自分が責任を持つことだと思っています。

魚はOKで猫や犬、牛、豚、ニワトリがNGなのはなぜか?魚には知能がないとでもいいたいのだろうか?尊い魚の命を奪って平気なのは何故か?きっこ氏は「自分の手で殺せるか否か」というモノサシで区別していると主張しているが、それは主観ではないのか?魚がOKで家畜がNGということに対する客観性はない。客観性がないにも関わらず、他者が肉を食べたり、家畜を殺したりすることについてとやかくいうのは、筋違いというものである。魚を食っておきながら、肉を食う人達を批判する資格はない。

それに魚だって大切に育てられる。養殖で。従って、

@Akatanka わずかでも「情」というものを持ち合わせていたなら、大切に育てた命を殺して現金に換えるなどという残酷な生業などできるはずがないからです。

というのは養殖業者にも言うべきだろう。

このような自分勝手な理論を、現場で畜産に関わっている人にぶちまければ炎上して当然であると言える。自分がこう思うから・・・だから他者の存在や価値観を否定する。それは、人々がうまくやっていく上で、絶対に避けるべき行為であろう。

最後に少し余談であるが、俺は肉を食う。自分の手を汚さずに殺され、切り身になった肉を買ってきて食する。息子も肉が大好きである。生命を尊び、有り難く頂戴している。肉を安価に提供してくれる畜産業者の人には感謝している。なのでこのようないわれのない批判にめげることなく頑張って頂きたい。殺処分についても、他の多くの家畜の命を守る大切な行為であるから、誇りを持って臨んで頂きたいと思う。口蹄疫の拡大が収まることを願うばかりである。