研究科を終了後、さらに学校に残って作曲と指揮法を学びながら、お茶の水にある東京音楽学校分教場で講師に就きました。また音楽の文化活動サークルで知り合った才媛の吉田隆子さんといっしょに活動するようになりまいsた。
「これからの日本の音楽を素晴らしいものにしていくために、従来の、悪しき古いものを打ち破っていきたい」
と、彼女は常々話し、なかでも、若い音楽家を育てることに、大きな意義を見出していた。
そこで、わたしたちは、それまで所属していた音楽家集団「コンセール・ビジュー」を脱退し、吉田さんとわたしが中心になって、新たに「楽団創生」を結成して、活動を始めた。
メンバーは二十人あまり。西洋の旧弊な形式主義にのみ偏りがちな日本の音楽界の現状に批判の目を向け、日本の伝統の上に立つ進歩的な音楽を創造していこう――、という同志たちで、演奏活動と評論活動を同時に展開していった。
(『一音百態』p111より)