ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

秋山邦晴とCIE図書館

 秋山邦晴の年譜には、早稲田の学生だった1950年ごろから、「日比谷にあったCIE(アメリカ情報教育局)でレコード・コンサートを開き、構成・解説をして当時のアメリカの音楽やメシアンなどのヨーロッパ現代音楽を紹介」とあります。このCIEとは、1945年から52年にかけての占領期に、GHQの中にあった民間情報教育局(Civil Information and Education Section)のことです。CIEはインフォーメーション・センターと称する図書館を全国23か所に開設し、東京では日比谷にあった日東紅茶の喫茶室を接収、改装して図書館とし、サービスを行いました。蔵書はほとんどアメリカの出版物で、図書や雑誌のほか、レコード、映画フィルム、写真などもありました。当時は外国の情報が少なかったので、まずは学者や医者、そして一般の人々が多い時で週に1万人も訪れたそうです。いわゆる閲覧、貸出サービスの他に、日比谷では次のような文化活動も行われました。

文化活動:アメリカを紹介する講演会、レコード・コンサートは人気プログラムで、第九交響曲のコンサートを1950年8月26日に開催した時は、1,363人という大量の聴衆を集め、9月に再度開催した時も、825人の聴衆が集まった。特に日本ではまだ普及していなかったLP(Long-Playing Record)レコードのコンサートは大人気だった。SP(Short-Playing)レコードの貸出はしていたが、LPは貸出されなかった。
出典:今まど子ほか『現代日本の図書館構想:戦後改革とその展開』(勉誠出版、2013、p103)

 このレコード・コンサートは、後に写真家として活躍するアーネスト・サトウ(1927-1990)が企画・解説して毎週開かれたもので、秋山ら後の実験工房のメンバーは頻繁に通っていました。そのうちに秋山は博識をかわれてサトウの助手を務め、サトウの不在時は解説も担当したそうです。実験工房の作曲家鈴木博義は、次のように述べています。

 進駐軍放送といわれたFENの午後の音楽番組、いまは日比谷三井ビルが建ってしまっているところにあったアメリカCIEの、図書館の手入れの行き届いた中庭で行われていたレコード・コンサート、その図書館の2階にあった主としてアメリカの作曲家の楽譜、それに、後に本郷に店をかまえるようになったが、当時は西荻窪の駅にほど近く、小さな小さな店構えで楽譜の輸入取次をしていたアカデミア図書、この三つが、わずかに海外へ開かれた窓であった。
(出典:CD『実験工房の音楽』ライナーノート FOCD3417)

 立花隆武満徹・音楽創造への道』(文芸春秋、2016)には次のようにありました。同時期にやっていた現代音楽研究会にも詳しく触れています。

 最初は秋山邦晴である。先の引用にあったように、秋山が湯浅とともに、「二つのレント」を聞いて楽屋に武満をたずねたのは、秋山が早稲田大学フランス文学科に在学中のことである。秋山はつとに現代音楽に興味を持ち、当時、あまり聞く機会のなかった現代音楽を聞くために、他大学の学生たちに呼びかけて現代音楽研究会という組織を作り、慶応の教室を借りて、音楽家に頼んで、現代音楽を演奏してもらうという会をずっとつづけていた。この会に慶応から参加していたのが、湯浅譲二である。
 秋山にはこのような組織やイベントをオーガナイズして牽引していく独特の能力があり、それが実験工房の活動においてもいかんなく発揮されることになる。
(秋山)「とにかく現代音楽を聞きたい一心ではじめたことなんです。最盛期は百何十人の会員が集まって一、二ヵ月に一度は例会をやっていろんな現代音楽を生で聞きました。そのうち、大学の教室だけじゃなくて、読売ホールを借りて、『ピアノソナタの夕べ』なんてのを開いたり、N響を使って諸井さんのシンフォニーをやったり、ヴァージル・トムソンをやったりということまでしました。当時現代音楽を聞くチャンスというと、この他、進駐軍のラジオ放送を聞くのと、日比谷のCIE図書館(後のアメリカ文化センター)で毎週火曜と木曜にやっていたレコードコンサートぐらいしかなかったんです。このレコードコンサートには欠かさず行っていました。武満たちのグループもそれにはよく来てたので、実は、口をきいたことはなかったけれど、なんとなく顔は知っていたんです。あそこは、アメリカの雑誌や本やレコードや楽譜が沢山あるので、いろんな人がきてたんです。植草甚一さんなんかしょっちゅうきてましたね。音楽家では、作曲の間宮芳生とか、ピアノの園田高弘なんかもよくきていました」
 レコードコンサートは百人くらい入る部屋で、夕方六時から二時間くらい、解説付きで行われた。毎回熱心に通ううちに、秋山は主催者のCIEスタッフと親しくなり、プログラム作りや、レコードを進駐軍の放送局に借りにいったりする手伝いをするようになり、ついには、その該博な知識をかわれて、コンサート会場で曲の解説をするまでになってしまった。この時代、秋山ほど熱心にありとあらゆる現代音楽を聞きまくった人も珍しく、いつの間にか、その畑の専門家になってしまったのである。そして五二年になると、まだ大学に在学中の身だというのに、「レコード音楽」「シンフォニー」二誌の編集をまかされるようになり、そのまま大学を中退して評論活動に身を投じるようになるのである。(p107-108)

 実験工房の作曲家である湯浅譲二と福島和夫は次のように語っています。福島の姉、福島秀子は画家で、このころ福島家には多くの作曲家・美術家が集い、芸術のジャンルを越えた実験工房の萌芽が育まれたのでした。

湯浅:CIEライブラリーはやっと終戦後、アメリカの現代芸術の情報が入ってきた唯一の場所ですから。音楽も美術も。そこのレコードコンサートにでも行かなければアメリカの現代音楽を聴くことはできなかった。すでにアメリカにはLP盤がありましたからレコードコンサートを通じてずいぶん聴きましたし、それと、そこの図書館には現代音楽の楽譜も多少あったんです。楽譜や雑誌、本は自由に見ることができたんです。アーロン・コープランドの曲を写したこともありました。実験工房以前のことですけどね。
福島:レコードコンサートではアメリカの現代音楽の駐留軍放送用最新録音を、アーネスト・サトウの構成と解説付きで毎週木曜の夕方に開催されていました。しかもその録音盤には管弦楽総譜も付いていて、総譜を読みながら聴く常連も出てきた。園田さんや秋山、湯浅、私がそうです。結局、いろいろな情報を共有するために「誰かと会いたい、会って話をしたい」という気持ちが強かった。それが自然と皆が集まった動機じゃないですかね。
出典:西澤晴美ほか編『実験工房展:戦後芸術を切り拓く』読売新聞社、2013、p259)

 立花隆武満徹・音楽創造への道』では、実験工房の精神的支柱であった瀧口修造と作曲家武満徹について、次のように書いています。

 武満と瀧口が知り合ったのは、一九五〇年の秋、武満が十九歳から二十歳になったかならないかの頃である。(中略)当時は、日本に文化情報メディアがろくになく、武満だけでなく、日本人のほとんどが同時代の世界の文化の動向をよく知らなかったのである。
 しかし瀧口は、当時日米通信社という外国情報の通信社の文化欄担当者で、欧米の新聞雑誌から拾った文化情報を日本のメディアに流すという仕事をしていたため、驚くほどあらゆるジャンルの文化の最新の動向にくわしかった。音楽についても、音を耳で聞いて知っているわけではなかったが、活字を通して最新の情報に通じていた。武満は「瀧口修造と音楽」の中で、はじめて瀧口と会ったときのことを次のように書いている。
「その時、瀧口さんの口から、ピエール・ブーレーズの名を、はじめて、耳にしたのだった。無論、当時の私は、ブーレーズなど知ろうはずもない。秋山邦晴等が解説して行っていた、日比谷、アメリカ情報教育局(CIE)でのレコード・コンサートで、メシアンを聴いて魂げた頃のことである。
(p116)

【参考】

  • 日米通信社:戦時中に毎日新聞社代表取締役編集総長であった高田元三郎が、GHQ公職追放で辞職後、社員20人足らずで発足させた会社で、当初有楽町に事務所があった。同社が1946年7月1日に創刊した週刊新聞『日米ウィークリイ』は、アメリカのUP通信社供給の情報をもとに米国の政治、社会、経済、文化、科学、野球などを扱う多様な紙面。瀧口修造は妻の友人の紹介で1946年3月に入社し、5月に参与となり、文化関係の翻訳記事を担当した。同紙は1950年8月31日終刊。(『実験工房展:戦後芸術を切り拓く』(読売新聞社、2013、p213より編集)