こちらはニセ受験生です

2015-04-06 挫折の完成〜田中ユタカと少年

[]挫折の完成〜田中ユタカと少年 07:19

キュンティアは初めての女として、その両目でみじめな私を捕らえた*1


プロペルティウス第1巻1番1行



オイディプース王の出生の秘密は、それが明らかになるや彼を再起不能にまで追い込んだ。だが、この事実はまさしく彼が神話時代の英雄であることを証明するものだ。紀元前5世紀、オイディプース王がアテーナイの舞台上で己の目を貫いた瞬間、彼の名は悲劇詩人ソフォクレースとともに永遠に残ることが決定された。

とはいえ、出生の秘密はなにも偉大な英雄にだけ許されているわけではない。テレビをつければ、2時間サスペンスあたりで毎日のようにごくたわいなくそれが明かされているのを、私たちは見ることができるはずだ。

このようなことは、古典古代からすでにあった。ギリシア新喜劇やローマ喜劇において、「遊女の置屋にいる娘が実は良家の生まれであると分かり、めでたく主人公と結ばれる」といった展開は一つの定型である。ここで出生の秘密は、ご都合主義のための便利グッズにまで矮小化されている。

かくして、高名な英雄がこの世界にとって何者であるかを証明するはずの出生の秘密は、あっという間に喜劇のもつ無名性の闇の中に放り込まれてしまう。もっともそれは、私に言わせれば、人類の精神の健康さの表れである。



ある編集者「なぜ少年マンガの主人公の少年は『英雄の息子』で『天才』なのか?少年が読むものだから。子どもが読むものだからです。子どもは誰もが『英雄の息子』で『天才』だからです」


https://twitter.com/tanakayutak/status/50224305879003136

そんなわけで、漫画家田中ユタカによる上掲のツイートを見たときに私が最初に思い出したのは、むしろ「英雄の息子」ではない少年マンガの主人公であった。

衛藤ヒロユキ魔法陣グルグル』第14巻(ガンガンコミックス、2001)144−5ページ/新装版第7巻(ガンガンコミックスONLINE、2014)308−9ページで、「勇者」としての自分は何者なのかを問われた主人公のニケは言う。

「いよいよ問われているのかも知れない/おれがなぜ勇者なのか」

「ちょっとジミナ村に帰って出生の秘密を調べてくる!」

「勇者といえば出生の秘密だろう/じつは王族の血をひいていたとか」

ところがすぐに父が「(彼自身も特別な能力を持った人間ではないという)設定を無視して」テレパシーで語りかけてくる。

バド「ニケッ今こそおまえに言っておきたいことがある/おまえはカンペキにタダのフツーの人間だ!!/いわば“凡人”ッ!!」

ニケ「設定を無視していきなりテレパシーを送ってくんなよ!!/しかもがっかりするようなことを!!」

魔法陣グルグル』はRPGパロディが世界観の基本になっている作品であるし、その掲載誌である『少年ガンガン』も『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』シリーズの成功をうけて創刊されたものである。出生の秘密をもつ英雄の叙事詩であるRPGに対して、はじめからそれを裏切ることを運命づけられていた少年マンガと言って良いのかもしれない。『少年ガンガン』は「少年マンガ」という枠におさまるというよりは、むしろ「エニックス系」、「ガンガン系」と呼ばれる独自のジャンルを形成することにもなった。



さて、こんな私の捻くれた連想にはもちろんお構いなく、田中ユタカ少年マンガへの思いを続けてツイートする。

昨日の「子どもは誰もが『英雄の息子』」は、少年マンガにおける幼児性の肯定に対する批判への反論、という文脈の中で編集者から伝えれた言葉でした。 「現実」を描くと言いながら、挫折や無力感を描くことは本当に正しいのか、それは子どもの読者にとって‘本当に’「現実」なのか?


https://twitter.com/tanakayutak/status/50489546885963776

「男の子はみんな『英雄の息子』だし、女の子はみんな『お姫さま』です。クラスの中のどんな冴えない子だってです。一人ぼっちの子だってです。『お前なんかダメだ』って言葉なら世の中からいくらでも浴びせられます。マンガまでそっちの側についてどうするんです」(※セリフメモ、田中ユタカ創作)


https://twitter.com/tanakayutak/status/50490137829838849

今回の大震災で、世界がもろい壊れ物で、親も自分も為すすべなく痛めつけられてしまうことがあるのだと体験した子どもたちに、私たちはどんな物語やヒーローやヒロインを差し出すことが出来るか?


https://twitter.com/tanakayutak/status/50490314070310912

さらにその約2年後にも改めて、

少年マンガキーワードは「くやしさ」です。主人公は「くやしさ」を動機として、何者かになることを求めます。無力、弱さ、未熟、未熟ゆえの過ち。自分の「幼さ」がくやしい。そんな経験が少年を旅立たせます”思わず「中二ゴコロ」を熱くさせる作品 http://bit.ly/nC5GYl


https://twitter.com/tanakayutak/status/324897803988000768

から始まる連続ツイートが行われており、これらは田中ユタカ少年マンガにかける情熱の大きさを物語っていると言えるだろう。


しかし(そろそろもう読者もうずうずしている頃だと思うが)ここに大きな問題がある。

田中ユタカ少年マンガ家ではない。

いちおう青年マンガ家と呼んでも差し支えはなかろうが、彼を「永遠の初体験作家」として有名にしたのは圧倒的に成年、ないし準成年コミックエロ漫画なのである。

だから、田中ユタカ作品の主人公は「英雄の息子」ではない。そして、その主人公は世界にとって何者かであることもできていない。


たとえば、一説には日本でもっとも売れたエロ漫画であるとも言われる(ほんとかよ)『初夜 ヴァージン・ナイト』(バンブーコミックス、1997/竹書房漫画文庫、2003)所収の「春・解禁」では、

「オレはこの春からめでたく/この街でひとりで浪人生活をおくるハメになった」


(文庫版100−101ページ)

初夜―ヴァージン・ナイト (竹書房漫画文庫―ドキドキシリーズ)

初夜―ヴァージン・ナイト (竹書房漫画文庫―ドキドキシリーズ)

その続編単行本である『初夜2 ヴァージン・ナイト2』(バンブーコミックス、2001)所収の「夏物語。」では、

「都会を卒業したと言えばごまかしはつくのかな…/いる場所もやることもなくて一年持たなかった/ふるさとの街も家もあきれるほどやさしくボクを迎えてくれた/無期限の夏休み」


(9ページ)

初夜(ヴァージン・ナイト) 2 (バンブー・コミックス)

初夜(ヴァージン・ナイト) 2 (バンブー・コミックス)

さらに、『愛しのかな』第1巻(バンブーコミックス、2006)では、

「詳しいことははぶくが(言いたくない)/仕事と住む所をいっぺんに失くしてしまったのだ/ボクは途方にくれた/そしてホームレスになる直前になんとかありついたのが……/幽霊の出るアパート…か…」


(9ページ)

愛しのかな 1 (バンブー・コミックス DOKI SELECT)

愛しのかな 1 (バンブー・コミックス DOKI SELECT)

という主人公の男たちのモノローグが、それぞれの冒頭近くに配置されている。

ここで田中ユタカの作品の主人公は、はっきりと「英雄の息子」であることに挫折している。もちろんその「くやしさ」を動機として、彼が改めて世界にとって何者かになろうとするのなら、その物語は立派な少年マンガだろう。だが、そうはならない。主人公は、(世界にとってでなく)一人の少女にとって自分が何者かでありたいと願う。このことによって、田中ユタカの作品は成年コミック、いや、むしろジュブナイルポルノ*2としてのエロ漫画となるのである。



思えば、『魔法陣グルグル』の主人公ニケが「勇者」なんぞをやっているのも、(彼が「英雄の息子」であるからではなく)要はパートナーである魔法使いの少女ククリがせっつくからなのであった。*3

だが、ニケは物語の冒頭、第1巻第1章において「ノンビリ暮らしたい」という理由で「勇者」になることを拒否するような少年であるから良いのだ。そうでない多くの「英雄の息子」たちにしてみれば、世界にとって何者かであることを断念し、ただ誰か一人にとっての何者かでありたいと願わねばならぬことは、自身が英雄でありえないということの苦々しい証明になってしまうはずだ。

少年にとって、失恋することが挫折なのではない。恋に落ちることそれ自体が、すでに挫折なのである。



だから、『初夜 ヴァージン・ナイト』所収の「2回目」冒頭でヒロインと初めて結ばれ、

「我が恋は成就せり!!」


(文庫版145ページ)

というモノローグを心の内で叫ぶ主人公に対して声をかけるならば、私はこう言おう。

なんのことはない、君のもとへ甘やかに訪れたのは苦い挫折の完成にすぎぬ。ただ、この挫折はオイディプース王にとっての出生の秘密のように君を再起不能にまで追い込んだりはしないから、安心しなさい。それが、つまるところ、私たち鉄の種族の人間の気楽さってやつなのだ。*4

*1:「みじめな私を捕らえた」はラテン語原文miserum me cepitからの直訳、という名の殆ど誤訳である。なぜなら詩人がここで言っているのは「みじめだった私を捕らえた」ということではなく、「私を捕らえて、結果としてみじめにした」あるいは「捕らえられた私はみじめである」ということだからだ。だが、この文章のエピグラフとして引用するために、あえて曖昧な形で訳しておいた。

*2:これはふつうエロラノベを指す用語だが。

*3:ついでに言えば、このククリはちゃんと「出生の秘密」を抱えたヒロインである。そして、彼女こそが『ヤングガンガン』連載の『すもももももも』、『BAMBOO BLADE』、『咲』といった作品で「少年」を代行するヒロインたちにとってのイヴであるように、私には思える。

*4:この小文を書くにあたって、http://togetter.com/li/115004およびhttp://togetter.com/li/490179の2つのTwitterまとめページを参考にした。

2015-02-28 就職活動について

[]就職活動について 20:46

たとえ奴隷になっても、寓話ぐらいはかけるだろうではないか。

イソップは奴隷だった。*1


ムーサよ、農夫の仕事と日について、神々の系譜について

星座と気象について、毒とそれをもつ生き物について

そしてまた漁夫と狩人のなすべきことについて歌った女神*2

今こそ職を求める学生たちのために語ってください。


さて、就職活動について書くのはとても憂鬱なことです。

「現在の難儀もいつの日かよい思い出になる」*3では済みません。

というのも一方で就職した者はキルケー社畜へ変えられたと

他方で進学した者はウーティスのせいで未来が見えないと

それぞれ愚痴をこぼし合い、傷をなめ合うばかりだからです。

「戦いに負けた人間であるという点で

僕等はお互いを軽蔑しきっていた/それでも

戦いに負けた人間であるという点で

僕等はちょっぴりお互いを哀れんでいた」*4

そんな第二の敗戦後の荒地でも、かわらず労働を愛するために

意識高い系というヒロポンをキメてハイになる輩には

ダメ。ゼッタイ。」とでも注意しておけばいいでしょう。

でも早く一人前にならなきゃいけないよ、という倫理的脅迫には

あんがい皆がコロッと参ってしまうかもしれません。

けれど慌てて大人になろうとすれば、必ずひずみが生じるもの。

――それは「経験則?」「一般論だよ」*5

なかなか成仏しない新卒一括採用というイニシエーション

どうしても受けるためにあなたの人生までお布施してはなりません。


業界研究、企業研究にギリシア語ラテン語は不要です。

ほんのすこしの日本語をおぼえただけで、本を読み説明会に行き

OB訪問をし「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」*6と思えます。

それから就活情報サイトがあなたに伝言を耳打ちするでしょう:

「当社で私と共にいつか冥王星の彼方にまで飛んでゆくことを願って」。*7

しかし人買いからの言葉を真に受けるのは愚か者のすること:

「船乗りは風について、農夫は雄牛について語る。

兵士は傷を、牧人は羊を数える。」*8あなたに向いている仕事が

そこにあるとは限りません。公務員、大学職員、文化芸術や

教育学術に関連する独立行政法人は検討しましたか?

平地で頭打ちになったサラブレッド障害競走に転向し

いけ垣や竹柵を見事に飛越して先頭で駆け抜ける――

ちょうどそのようにあなたは採用試験という山を容易く登り、

頂上で才能を月見草のように花開かせるかもしれません。*9

それから教職は早くから選択肢にいれておきましょう。

というのも、教職のための科目は卒業単位にもなるからです。

特に国際コミュニケーション日本国憲法駒場での

教養学部前期課程のうちに履修することを強く勧めます。


いよいよ選考活動が解禁されようとする春にもなれば

エントリーシートに面接にと不安の芽は摘みとれぬほど。

しかしどちらも基本は自己PRと志望理由と考えていいでしょう。

自己PRは近代小説:学生時代に頑張ったことという事件が

主人公である私の内面を良い方に変化させたと物語るのです。

ああ、鉄の種族の悲しさよ!アキッレウスは統一された内面を

持つように見えなくとも、誰よりも有能な英雄であったのに。

そしてこの教養小説的成長でできるようになったことを

貴社でなら活かせそうだからと言えば、それが志望理由です。

やりたいことより、できること:やりたいことを言うのなら

私は区役所で黒髪アホ毛眼鏡文系女子の同期と恋に落ちたい。*10

だが「偉大なことにおいては欲したというだけでも十分だ」*11

評価され得るのは頑張って実際できたし、今後もできることです。

ここで注意すべきなのは、就活のために今を頑張らないこと:

つまり任意の日nがその次の日n+1のためにだけあるような

数学的帰納法で人生をニヒルと証明してしまわないこと。

もし「その日を摘め」*12刹那主義者の詩句でしかなかったら

木の下のプローセルピナの王国に埋めて貰っても構わないよ。*13


首尾良く内定を得ることが出来たなら、あなたは幸運な人です。

人という人との出会いへの感謝を言いつのらなくても良いので

フォルトゥーナの前髪をつかみ損ねた人がいることを忘れずに。

より多くの会社の内定を得ても、より偉くなるわけではありませんし

「名は多くの場所にあることができようが、体はそうでない。」*14

内定を断るのは気が重いものですが、礼を失さないように。

とはいえ、いい人でいるだけではどんどん苦しくなってしまいます。

シノーペー出身の哲学者ディオゲネースは航海中に海賊に捕まって

奴隷として売りに出されると、後の買い主を指さしてこう言いました:

「そいつに私を売ってくれ。その男は主人を必要としている。」*15

こうして自分の飼い主を自分で決めたあの珍しい犬のように

私たちも私たちの人生に対して主人でありたいものです。

もちろん「人は、誰も生きない、

このように生きたかったというふうには。

どう生きようと、このように生きた。

誰だろうと、そうとしか言えないのだ。」*16とは知っていても

あなたが航海に乗り出す人生が稔りなきものでなく

無事イタケーにたどり着くものでありますように:BON VOYAGE!


いったい誰がこの教訓詩、あるいはひょっとすると

風刺詩を書いたのだとあなたは尋ねるかもしれませんが

その質問に私はふだん、教訓詩や風刺詩からクピードーが

脚を一本盗んだあとの韻律*17を読んでいる者だと答えておきましょう。



この作品は、2013年12月の前期課程生向け学部ガイダンスにおける研究室紹介冊子のために(深夜のテンションで)書かれたが、(さすがに自重して)実際の掲載を見送ったものである。

*1谷川雁東大文学部社会学科の学徒出陣壮行会で述べたとされる言葉。松本健一谷川雁革命伝説』河出書房新社 1997 p40。

*2ヘーシオドス『仕事と日』『神統記』アラートス『星辰譜』ニーカンドロス『有毒生物誌』『毒物誌』オッピアーノス『漁夫訓』『猟師訓』から。

*3ホメーロスオデュッセイア』第12巻212行の松平千秋訳。岩波文庫上巻 1994 p320。次とその次の行の「キルケー」「ウーティス」も同作から。

*4黒田三郎「死のなかに」より。

*5コアマガジン漫画ばんがいち2011年5月号所収の佐伯「春の温度」より。前行も同作中の「慌てて大人になろうとするとロクなこと無いよ」から。

*6田村隆一「帰途」より。前行も同作中の「日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで」から。

*7四元康祐ディーラーズ・ハイ」より。現代詩文庫版『四元康祐詩集思潮社 2005 p13。

*8:プロペルティウス第2巻1番43-4行。

*9太宰治富嶽百景」から。

*10高津カリノサーバント×サービススクウェア・エニックス から。

*11:プロペルティウス第2巻10番6行。

*12ホラーティウス『カルミナ』第1巻11番8行。次行の「プローセルピナの王国」も第2巻13番21行から。

*13カヅホキルミーベイベー芳文社 第5巻p41「もし感動しなかったら木の下に埋めて貰っても構わないよ」から。

*14:エウリーピデース『ヘレネー』588行。

*15ディオゲネース・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第6巻74節より。

*16長田弘「机のまえの時間」より。

*17オウィディウス『恋の歌(アモーレース)』第1巻3-4行「クピードーが笑って一本の脚を盗んだのだと人は言う」から。

2014-12-31 わがヘレネー讃

[]わがヘレネー讃 16:58

私はこの論を一方ではヘレネーへの賞讃として、他方では私の手慰みとして書きたいと思ったのである。

ゴルギアース『ヘレネー讃』より)


LiddellとScottの希英大辞典(ちなみに、このLiddellはあのアリスの父である。)で、Ζωνη(ゾーネー=女性の帯)を引いてみよう。2つ目に載っている用例(ホメーロスオデュッセイアより)は、以下の通りである。

λυσε δε παρθενιην ζ. unloosed her maiden girdle, of the bridegroom, Od.11.245

「帯をほどく」という言葉は、ここではそれ以上の意味を持たされている。そして、およそ創作というものは一般に、言語や物体、状況が指し示すこうした余剰によって成り立っていると言ってよい。


さて、よく知られているように、わが国の成年向けコミック(の主流)は80年代に「エロ劇画」から「ロリコン漫画」へと移行したとされる。そしてそれは、「劇画」の直接性よりも、漫画という記号が間接的に指し示す余剰のほうに賭けたということだと解釈して、大筋では間違いないだろう。だが、私たちはしばしば、私たち自身がどこから来たのかを忘れてしまう。

まだ漫画ばんがいちコンビニ誌だったころ、PINKちゃんねるばんがいちスレに、誌風の似ていた『COMICポプリクラブ』について「中途半端にエロすぎて抜けない」云々という書き込みがあったのを覚えている。「ロリコン漫画」を引き継いだ「美少女コミック」の間接性の極北ともいえる両誌であるが、私はずっと『ばんがいち』びいきである。というのも、『ポプリクラブ』の掲載作はしばしば一方で性描写の直接性に安易に頼って(「中途半端にエロすぎて」)しまい、他方で指し示すものの内部での戯れに集中するあまり、それによって間接的に指し示される余剰を見失ってしまうという印象があったからだ。



そんな私が今年ポプリ作家からお気に入りをみつけたことは、なにより自分自身にとって驚きであった。だが、9月に出たこの作者の初単行本を読んで、私はその実力を再確認せざるを得なかったのである。


あゆま紗由『純愛まにあっく』マックス(ポプリコミックス)、2014

純愛まにあっく (ポプリコミックス)

純愛まにあっく (ポプリコミックス)


収録作から1篇を挙げるとすれば、なんといっても「校則違反リボン」だ。(なお、単行本描き下ろしの「純愛リボン」はその後日談である。)春の服装検査で風紀委員のセンパイに「かわいいけど没収」と校則違反のリボンをほどかれたヒロインが、「またセンパイにほどかれたい」と上から下まで校則違反のリボンをつけてセンパイに絡んでくる、というだけのストーリーではある。だが2回戦まである十分に長い濡れ場のあと、「じゃあこのまま違反物没収ということで」とリボンが外される最後の1ページがこの短編をして傑作たらしめている場面なのだ。すでにやることやっている男女が、わざわざあらためて「リボンをほどく」間接性のただ中に身を置くということ。それは、あたかも梶井基次郎檸檬で、画本を積み上げた「奇怪な幻想的な城」の「城壁の頂きに」檸檬が据え付けられ、「カーンと冴えかえってい」るのを見るかのごとき快感を与えてくれる。

「校則違反リボン」の見せてくれる夢は間接性の勝利であり、そして私たちのエロ漫画の勝利なのである、とまで言い切ってしまおう。しかも、この勝利のために用いられるエネルギー古代ギリシアホメーロスの昔から、いやおそらくは言語の誕生から人類史の地下に脈々と受け継がれてきたものなのだ。私たちはただそのエネルギーの新しい通り道を埋設しているにすぎない。「ぼくら美少女オタク」が「ポストモダン的」であるか否かについて論じる趣味は今の私にはないが、少なくとも私たちが過度に現代的であると主張するような卑屈かつ傲慢アイデンティティは、そろそろ放棄されるべきである。



ある作品を読んでその素晴らしさに床を転げ回り、素晴らしさの理由を自分の言葉で説明せずにはいてもたってもいられず、しかし言葉はしょせん言葉でしかないために作品そのものの説明は不可能で、仕方なく「社会」とか「世界」とか苦し紛れに口走ってみる……そのようにして発された言説としての「社会」や「世界」以外を私たちは信じるべきでない。はじめから「社会」や「世界」を論じるために作品を利用する「批評家」は、一方で作品を酷使と搾取の対象とし、他方で読者をペテンにかけることによって肥え太るブラック企業経営者なのだから。

それにも関わらず、私はこの節で「社会」を論じ、次の節で「世界」を論じるだろう。先に断っておかねばならないが、この節で行われようとしているのは私的な思い入れに基づく作品の誤読である。だから、まず私のまったく個人的な体験から「批評」が語りだされなければならない。


内々けやき『彼女、恋して、セックス』ワニマガジン(WANI MAGAZINE COMICS SPECIAL)、2014


この単行本の収録作の1つ「変身相異」冒頭、先生についての「ピアノのお稽古」をやめたヒロインの少女の「ピアノなんて別に この先の人生に 必要じゃないものね/私 指が短いもの 難しい曲だって 弾けないし/ピアノの演奏者に なるわけじゃあ ないもの」という心の中の声を読んで、私はこれとほとんど同じ言葉を聞いたことがある、と思った。

それは私が就職するか大学院に進んで研究者を目指すか決まっていなかったころ、当時付き合っていた女性が大学院進学に反対して言ったセリフであった。曰く、私もピアノをずっと習っているがそれで食っていこうなんて思ったこともない。それでも彼女は「ピアノのお稽古」を続けていたのではあるが。

もちろん、私が間違っていた(そして今でも間違っている)のである。私のやっている文学なんてのはしょせん「お稽古ごと」でしかないし、また「お稽古ごと」にとどめておくべきなのだ。しかしそれならばなぜ私たちは「この先の人生に 必要じゃない」「お稽古ごと」に精を出すのだろうか。


「変身相異」ではその後、地味でまじめだった少女が悪い男に引っかかり、見た目も派手に変わって家族と衝突し、男の仲間に集団で嬲られ堕とされるという、典型的な中流家庭子女の転落が描かれる。それはもちろん、ヒロインにとっての個人的な事件である。だが、ピアノという中流の象徴、いや中流の(文化への理解などという高級なものではもちろんない)見栄の象徴を、「この先の人生に 必要じゃない」という理由で見切ってしまった少女の末路を見て、私はそれを個人的な事件として片付けたくない誘惑にかられてしまう。

中流らしい見栄を失い、「この先の人生に 必要」かどうかでしか物事を判断できないほどに余裕を失った社会、まずは食える手段かどうかが真剣に問題にされてしまう国、それが今の日本の姿ではないのか。


私の家にもご多分に漏れずピアノがある。母方の祖母が大昔に買ったもののようだが、長らく弾く者はおらず、私が買ったまま読めないでいる研究書を積む物置台と化している。あの遅々として読みすすめられぬ研究書の山は、私の人生の末路を指し示しているに違いないのだが、しかしそんなことはもはや私自身にとってどうでもよくなってきている。この国の経済的地盤はますます沈下し、社会はばらばらに分裂しながらごわごわと縮こまっているのだ。

「変身相異」のラストシーンで、ピアノの先生と久しぶりにすれ違ったヒロインであるが、先生は変わり果てた彼女に気づかない。「私は 車のガラスに 映った私を見て/先生が私とは 気付かなかったんだと 悟ったら/力が抜けて その場で 泣いちゃって/暫く動け なかったんだ」。太平洋に映った自分自身の変わり果てた姿は、いつ私たちを決定的に打ちのめすのだろうか。



善なる神はなぜ優しい世界を作らなかったのか、神が世界を作ったのだとしたら、なぜそこに悪いもの達が存在するのか。この問いに答えようとする「神義論」はキリスト教世界において重要な主題となってきたそうである。

一方で、エロ漫画というのはもちろん都合の良いファンタジーでなければならないから、優しい世界を描くならばそこに悪をまぎれ込ませてはならない、ように思える。だが、乗りこえられるべき困難の存在しないラブコメというのは、それこそギリシア新喜劇の時代から想像することさえできないのだ。では、その困難は誰がうみだしているのか。

作品により程度の多少こそあれ、エロ漫画も神義論的ディレンマに曝されていることを私たちは理解しておく必要がある。


けろりん『幸福荘の優しい恋人』エンジェル出版(エンジェルコミックス)、2014

この単行本では、「幸福荘」という小さなアパートに関わる男女が幸福に結ばれていく優しい世界が、一冊全体を構成する9つの連作で描かれていく。しかしそこは流石けろりん先生、一筋縄ではいかせてくれない。作中でよりにもよって「幸代」という名前の30代女性だけが、DV夫に悩まされ、最後まで幸せになれずアパートを去って行く。

幸代がヒロインをつとめる短篇「さよなら幸代さん」には、しかし幸福を蝕む悪の姿は登場しない。文字通りの「姿」は。というのも、主人公の男のいる階下の部屋からは、DV夫の怒鳴り声が聞こえてくるだけだからである。この部屋で主人公と関係をもった幸代さんは、階上の夫の声が哀れっぽい懇願調に変わるのを耳にして、また自分の部屋に戻ってしまう。


悪の姿を描かないことは批判、というより軽侮の対象となりうるだろう。この作品に対して、というよりジャンル全体に対して、しょせんエロ漫画は都合の良いファンタジー、優しい世界を攪乱するほどの悪と向き合うことはできないのだ、という具合に。

確かにこの作家は男性読者にとって許容可能なラインをきっちり計算し、その範囲内での「都合の悪いオンナ」を演出できる手練れである。そのことは認める。だが少し待って欲しい。そもそも私たちの現実の世界でも、悪の姿はそんなにはっきりと自身の目でとらえられるものであっただろうか。

妄想により悪の姿を描き出し、うやうやしく悪魔の神棚に祭ってしまうような人々が右にも左にも枚挙に暇ないほど存在し、逆説的にそのこと自体が悪のとらえにくさを示してしまっている。それが私たちの生きているこの世界の底意地の悪さではなかったか。


「さよなら幸代さん」では、DV夫のもの以外にもう1つ別の声がずっと聞こえている。それはテレビの音声なのであるが、しかし画面(これだって映像に過ぎないのだが)は1、2度しか描かれない。音声の語る内容も、「年末年始 深夜映画特集は ホラー&ゾンビ スペシャル!!/人喰いシリーズ 一挙放送!!/恐怖のキル毛布 『バトルキラー ブランケット』」だの、「ベストヒットUMA スペシャルDVDZ級名作映画 百選になります♪」「人気のUMAから とびきりレアな ものまで…/いかがですか? あの懐かしの UMAがいちどう 勢ぞろい!」だのといった、怪しげなもの、見えるはずなのに見つからないものが目立つ。さらにこの単行本全体に心霊のモティーフが頻出し、最後にはアパートに憑いて男女をくっつけていた霊の声が実際に登場するのだが、やはり姿は描かれない。それと会話する霊能者の少女も「見えてるわけじゃあない」と言い切っている。

この作品では、中心にいて世界を操っているものも、周辺的な世界のディティールも、共に目に見えないものとして意識されているのだ。そしてそれは都合の良いファンタジーでもなんでもなく、私たちが生きている現実の世界そのもののあり方でもある。


いや実は、エロ漫画の「都合の良さ」はここから一歩進んだところにちゃんとあるのだ。

さっきから私は、この作品において世界の悪は、あるいは世界のあり方そのものは、目に見えないと繰り返し述べている。だが、その主張は本当は嘘だ。DV夫の怒鳴り声を背景に、不幸を、その原因としての悪の存在を、私たち読者の目に見えるものとして紙上に提示してくれているものがある。

他ならぬ、ヒロイン・幸代さんの肉体だ。

ほんらいは目に見えないセカイのあり方それ自身が、目に見えるものとして女の(そしてひょっとすると男の)カラダに受肉する。それがエロ漫画で日々起きている奇蹟である。だからエロ漫画を読むことは、この奇蹟をかりそめにでも信じるということに他ならない。

少なくとも私にとっては。



今年出た単行本からは他に


山崎かずまポルノスターより愛をこめてっ』コアマガジンメガストアコミックス)、2014

新堂エル『純愛イレギュラーズ』ティーアイネットMUJIN COMICS)、2014

純愛イレギュラーズ (MUJIN COMICS)

純愛イレギュラーズ (MUJIN COMICS)

を挙げなければなるまいと思うが、これらについてはTwitterで連続ツイートをしたので、それをここに並べておくだけでお茶を濁そうと思う。





それでは皆さま、良いお年を。

2013-12-31 あきらめと、文体と、それから…

[]あきらめと、文体と、それから… 19:11

園田ダートは荒い

わたしは

すべての他人が

違う顔を持つことを

すこし、恐れる


(藤本哲明「砂」最終連、『現代詩手帖』第55巻3号<2012年3月号>/思潮社、222ページ)



「あきらめ」という言葉で園田競馬場に立つ砂煙を思い出すのは、上に引いた詩が新人作品欄に載ったとき、選者(平田俊子)の評が「藤本さんは一度詩をあきらめたのではないか。獲得した詩の書き方を捨てたことがあるのではないか。そういう人が再び立ち上がったときの静かな気迫。それを藤本さんの作品に感じます」(218ページ)というものであったからで、「谷川君はアルチュウル・ランボオみたいだ。いまに詩すら馬鹿げてるといって書かなくなるよ、きっと」*1からの「私のなかにあった『瞬間の王』は死んだ」「人々は今日かぎり詩人ではなくなったひとりの男を忘れることができる」*2にもそろそろ飽きてきた僕はさっそく“一度あきらめたことがある人”を気取りだしたのですが、しかしそもそも僕はまだ捨てられるほどのものを何も獲得していないし、おまけに砂煙を思い出そうにも園田へ行ったことが実は一度もないのでありました。




内容なんてものは存在しないか、あったとしてもそれに意味を見出せるようなものではなくて、我々に与えられているのはただ文体だけである、というクリアな認識、あるいは諦念を持つのは容易なことではないのです。おまけにそんなことを言っている奴はなかなか銭をふんだくれないという現世的な理由もあるもんですから、僕の「発表」というのは、あたかも砂色の文体からぴかぴかの内容を掘り出すことができるかのように語る山師のそれだったのですが、しかし学位論文だの奨学金だの留学だのを語りながら、一方で同じ大学で開発された自動作曲システム「Orpheus」のコード進行「あきらめ」が脳裏をよぎるのも、また事実でありました。“♪カトゥッルスが年代記燃やしつつウォルシウス馬鹿にした”*3




11月20日に「2014年度以降の障害競走については、2場開催時や主要オープン競走を除き、原則として第3場での編成を基本とし、同日に2競走編成する場合は同一場で編成することといたします」というJRAからの発表があり、ジャンプレースはまた一歩廃止に近づいたのでありますが、そのすぐ後の30日には「イルミネーションジャンプステークス」で最終障害の飛越に失敗して転倒、競争中止したマジェスティバイオ(11年中山大障害、12年中山グランドジャンプ優勝)が右前浅屈腱断裂で予後不良となってしまいました。思えば今年は4月27日にマーベラスカイザー(12年中山大障害優勝)も放牧先で腸捻転のために急死しており、フルゲートなだけで内実はスカスカな「第136回中山大障害」のメンバーをパドック最前列で眺めながら、この世界にもう二度とスターは現れないのではないかというあきらめの気持ちが僕の胸の内に広がっていました。出走馬の中でJ・GIを勝ったことのあるのは、6枠11番メルシーエイタイム(11歳)と同12番スプリングゲント(13歳)だけだったのです。

そして発走。直後、メルシーエイタイムが最初の障害で転倒して競争中止。左第2趾関節脱臼という生死に関わる大怪我*4を負ったにも関わらず、放馬してスタンド前の障害を飛越する姿を僕はこの目で見ました。結局メルシーエイタイムは、通常なら予後不良安楽死というところを、手術して生存の可能性に賭けてみることに。手術は成功し、今のところ経過良好のようです。あきらめないでくれてよかった。

それから、最後のダートコースを横切るあたりで一頭、砂煙を舞わせながら後続をぐっと引き離し、今回圧勝したアポロマーベリック、君は生き延びろ。あの日からそれが君にとっての義務となったのだから。






テレビ朝日が初の年間ゴールデンタイム年間視聴率首位を達成したようですが、そんな中でも年末恒例の特番『ビートたけしの禁断のスクープ大暴露!!超常現象[秘]Xファイル*5の下らなさはいつも通りでした。番組冒頭からいきなり「宇宙人に予約ができる男」宇宙名「武良ラムゥ」さんが登場し、UFOのエンジン音なんだという「きゅんきゅんきゅんきゅん」「ゆんゆんゆんゆん」等の擬音を空に向かって唱えながらUFOを呼ぶ始末。見届け人としてテレビ朝日屋上で立ち会ったいつものニラサワさんも、「彼のその無邪気さに私も最初とまどってしまった」*6と書いていらっしゃるくらいです。

それでもなんとUFOらしきものが出るのですが、これが肉眼で見えるか見えないかの小さな小さな光点(群)なのです。出演者一同が屋上に移動して、みんなで例のエンジン音を唱えます。



なんだこりゃ。

けれどそんな状態でも、武良さんは嬉しそうだったのです。


「おーッ!!たくさんいるな… 全部で8機も飛んでるぞ!!」と、だれもが驚きました。


武良さんは、感激して涙を浮かべています。

私もついつい喜んでしまいました。*7

大竹まこと「良かったね?」「今まで色んな迫害を受けてたんだよね?」「みんなに、家族とかにね、怒られて大変だったんだよね?」*8


しかし武良さんも武良さんですが、一方でUFOをめぐる情報操作やらなにやらの大きな物語をぶちながら、他方であんな小さな光の点を空から見つけようとして目を一生懸命こらす韮澤さんも韮澤さんだと思います。

そして、すでに髪もだいぶ白くなっている2人の男が、やたら窮屈な文体と陰鬱な内容を背負ってしまったUFO神話の総体からはいったん離れ、観念的なのぞみやあきらめは一度捨てて、ただ屋上で砂埃のような粒々の到来を待っている、そのエストラゴンとウラジミールの背中には、なにか感じるところがあったのでした。



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*1:『谷川雁詩集』(思潮社<現代詩文庫>/1968)所収、安西均「むかしの痣」119ページより、岡部隆介の言葉として。

*2:『谷川雁詩集』(国文社/1960)の「あとがき」より、最初と最後の一文。

*3:カトゥッルス第36番を参照のこと。

*4:今年の阪神ジャンプステークス競争中止し、予後不良となったドングラシアスの故障は右第2指関節脱臼でした。

*5:「[秘]」の正しい表記は「○」の中に「秘」。

*6韮澤潤一郎ブログ「ニラサワ研究室」:「テレ朝上空にUFO出現! 立会報告」http://nirasawa.seesaa.net/article/383315303.htmlより。

*7:同上

*8:番組内の発言を文字起こし。

2013-11-07 11月6日「久しぶりに投稿メールが…」ほか

[]11月6日「久しぶりに投稿メールが…」ほかへの自註 22:28

文化放送ナイターオフ期間の新番組として始まった『オトナカレッジ』(火〜金曜、20時〜22時)、砂山アナ=K太郎さんがメインパーソナリティをつとめていらっしゃいますが、昨夜の放送で僕の投稿メールが読まれました。

というわけで、このブログのプロフィールにある「一度でも採用された番組」へもこっそり追加しておきました。


で、この前の月曜(文化の日振替休日)は、毎年どうしても予定が合わなかった文化放送のイベント「浜祭」にはじめて行ってきました。

メイン会場は増上寺でして、ここで公開生放送(一部は収録)が行われておりました。

浜松町の本社ビルのところには中継車が展示されていたりして、僕も記念撮影。


ただ、一番長いこと居座っていたのは、K太郎さんが司会をしていた東京タワーのふもとでのアイドルイベントでした。

「ずっと」を2回入れてしまっているのはご愛嬌ということで…。

ステージの上のアイドルグループと、ステージの目の前に固まっているそのファンの皆さんとの間には強すぎる“絆”があって、後ろのほうで見ている僕(たち)はとてもじゃないけど入りこめないのでした。

「いつも□□な☆☆、○○××です」とかいうメンバーの自己紹介は、すでにそんなの重々承知であることをお互いに前提とした単なる儀礼的行為であって、その言語の質は「自治会公認取消粉砕!11.4全学斗争に起て!」みたいなのとさして変わらないのであります。

そんな過激派的な情況なので、K太郎さんによる「(握手会への参加条件である)CDの購入は3枚までとなっております」という、一昔前なら耳を疑ってしまったであろうアナウンスも、まあしょうがないねという感じ。

やがて日が落ちてくると寒くなってまいりまして、最後の小野恵令奈さんの番組の公録にゲストで三上枝織さんが出てきたあたりで、そろそろ消え去りたい気分に。

まあでも結局最後までいましたけどね。


浜祭全体のフィナーレは、また増上寺

ここで『レコメン!』の新旧パーソナリティが並んだのは特筆すべきことでしょう。

レコメン!』としては、現パーソナリティオテンキのりさんの出身地である鴨川の名産・びわようかん(のりさんと加納アナのテキトーな写真シール付き)を売ったのですが、10代リスナー向けの番組でようかんを売って、しかも値段が1000円もするとなったら、以下のようになるのは残念でもないし当然。

階級の実態を無視した極左冒険主義を根底から自己批判し、強固な聴取者戦線を構築しなければならない!

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