こちらはニセ受験生です

2014-12-31 わがヘレネー讃

[]わがヘレネー讃 16:58

私はこの論を一方ではヘレネーへの賞讃として、他方では私の手慰みとして書きたいと思ったのである。

ゴルギアース『ヘレネー讃』より)


LiddellとScottの希英大辞典(ちなみに、このLiddellはあのアリスの父である。)で、Ζωνη(ゾーネー=女性の帯)を引いてみよう。2つ目に載っている用例(ホメーロスオデュッセイアより)は、以下の通りである。

λυσε δε παρθενιην ζ. unloosed her maiden girdle, of the bridegroom, Od.11.245

「帯をほどく」という言葉は、ここではそれ以上の意味を持たされている。そして、およそ創作というものは一般に、言語や物体、状況が指し示すこうした余剰によって成り立っていると言ってよい。


さて、よく知られているように、わが国の成年向けコミック(の主流)は80年代に「エロ劇画」から「ロリコン漫画」へと移行したとされる。そしてそれは、「劇画」の直接性よりも、漫画という記号が間接的に指し示す余剰のほうに賭けたということだと解釈して、大筋では間違いないだろう。だが、私たちはしばしば、私たち自身がどこから来たのかを忘れてしまう。

まだ漫画ばんがいちコンビニ誌だったころ、PINKちゃんねるばんがいちスレに、誌風の似ていた『COMICポプリクラブ』について「中途半端にエロすぎて抜けない」云々という書き込みがあったのを覚えている。「ロリコン漫画」を引き継いだ「美少女コミック」の間接性の極北ともいえる両誌であるが、私はずっと『ばんがいち』びいきである。というのも、『ポプリクラブ』の掲載作はしばしば一方で性描写の直接性に安易に頼って(「中途半端にエロすぎて」)しまい、他方で指し示すものの内部での戯れに集中するあまり、それによって間接的に指し示される余剰を見失ってしまうという印象があったからだ。



そんな私が今年ポプリ作家からお気に入りをみつけたことは、なにより自分自身にとって驚きであった。だが、9月に出たこの作者の初単行本を読んで、私はその実力を再確認せざるを得なかったのである。


あゆま紗由『純愛まにあっく』マックス(ポプリコミックス)、2014

純愛まにあっく (ポプリコミックス)

純愛まにあっく (ポプリコミックス)


収録作から1篇を挙げるとすれば、なんといっても「校則違反リボン」だ。(なお、単行本描き下ろしの「純愛リボン」はその後日談である。)春の服装検査で風紀委員のセンパイに「かわいいけど没収」と校則違反のリボンをほどかれたヒロインが、「またセンパイにほどかれたい」と上から下まで校則違反のリボンをつけてセンパイに絡んでくる、というだけのストーリーではある。だが2回戦まである十分に長い濡れ場のあと、「じゃあこのまま違反物没収ということで」とリボンが外される最後の1ページがこの短編をして傑作たらしめている場面なのだ。すでにやることやっている男女が、わざわざあらためて「リボンをほどく」間接性のただ中に身を置くということ。それは、あたかも梶井基次郎檸檬で、画本を積み上げた「奇怪な幻想的な城」の「城壁の頂きに」檸檬が据え付けられ、「カーンと冴えかえってい」るのを見るかのごとき快感を与えてくれる。

「校則違反リボン」の見せてくれる夢は間接性の勝利であり、そして私たちのエロ漫画の勝利なのである、とまで言い切ってしまおう。しかも、この勝利のために用いられるエネルギー古代ギリシアホメーロスの昔から、いやおそらくは言語の誕生から人類史の地下に脈々と受け継がれてきたものなのだ。私たちはただそのエネルギーの新しい通り道を埋設しているにすぎない。「ぼくら美少女オタク」が「ポストモダン的」であるか否かについて論じる趣味は今の私にはないが、少なくとも私たちが過度に現代的であると主張するような卑屈かつ傲慢アイデンティティは、そろそろ放棄されるべきである。



ある作品を読んでその素晴らしさに床を転げ回り、素晴らしさの理由を自分の言葉で説明せずにはいてもたってもいられず、しかし言葉はしょせん言葉でしかないために作品そのものの説明は不可能で、仕方なく「社会」とか「世界」とか苦し紛れに口走ってみる……そのようにして発された言説としての「社会」や「世界」以外を私たちは信じるべきでない。はじめから「社会」や「世界」を論じるために作品を利用する「批評家」は、一方で作品を酷使と搾取の対象とし、他方で読者をペテンにかけることによって肥え太るブラック企業経営者なのだから。

それにも関わらず、私はこの節で「社会」を論じ、次の節で「世界」を論じるだろう。先に断っておかねばならないが、この節で行われようとしているのは私的な思い入れに基づく作品の誤読である。だから、まず私のまったく個人的な体験から「批評」が語りだされなければならない。


内々けやき『彼女、恋して、セックス』ワニマガジン(WANI MAGAZINE COMICS SPECIAL)、2014


この単行本の収録作の1つ「変身相異」冒頭、先生についての「ピアノのお稽古」をやめたヒロインの少女の「ピアノなんて別に この先の人生に 必要じゃないものね/私 指が短いもの 難しい曲だって 弾けないし/ピアノの演奏者に なるわけじゃあ ないもの」という心の中の声を読んで、私はこれとほとんど同じ言葉を聞いたことがある、と思った。

それは私が就職するか大学院に進んで研究者を目指すか決まっていなかったころ、当時付き合っていた女性が大学院進学に反対して言ったセリフであった。曰く、私もピアノをずっと習っているがそれで食っていこうなんて思ったこともない。それでも彼女は「ピアノのお稽古」を続けていたのではあるが。

もちろん、私が間違っていた(そして今でも間違っている)のである。私のやっている文学なんてのはしょせん「お稽古ごと」でしかないし、また「お稽古ごと」にとどめておくべきなのだ。しかしそれならばなぜ私たちは「この先の人生に 必要じゃない」「お稽古ごと」に精を出すのだろうか。


「変身相異」ではその後、地味でまじめだった少女が悪い男に引っかかり、見た目も派手に変わって家族と衝突し、男の仲間に集団で嬲られ堕とされるという、典型的な中流家庭子女の転落が描かれる。それはもちろん、ヒロインにとっての個人的な事件である。だが、ピアノという中流の象徴、いや中流の(文化への理解などという高級なものではもちろんない)見栄の象徴を、「この先の人生に 必要じゃない」という理由で見切ってしまった少女の末路を見て、私はそれを個人的な事件として片付けたくない誘惑にかられてしまう。

中流らしい見栄を失い、「この先の人生に 必要」かどうかでしか物事を判断できないほどに余裕を失った社会、まずは食える手段かどうかが真剣に問題にされてしまう国、それが今の日本の姿ではないのか。


私の家にもご多分に漏れずピアノがある。母方の祖母が大昔に買ったもののようだが、長らく弾く者はおらず、私が買ったまま読めないでいる研究書を積む物置台と化している。あの遅々として読みすすめられぬ研究書の山は、私の人生の末路を指し示しているに違いないのだが、しかしそんなことはもはや私自身にとってどうでもよくなってきている。この国の経済的地盤はますます沈下し、社会はばらばらに分裂しながらごわごわと縮こまっているのだ。

「変身相異」のラストシーンで、ピアノの先生と久しぶりにすれ違ったヒロインであるが、先生は変わり果てた彼女に気づかない。「私は 車のガラスに 映った私を見て/先生が私とは 気付かなかったんだと 悟ったら/力が抜けて その場で 泣いちゃって/暫く動け なかったんだ」。太平洋に映った自分自身の変わり果てた姿は、いつ私たちを決定的に打ちのめすのだろうか。



善なる神はなぜ優しい世界を作らなかったのか、神が世界を作ったのだとしたら、なぜそこに悪いもの達が存在するのか。この問いに答えようとする「神義論」はキリスト教世界において重要な主題となってきたそうである。

一方で、エロ漫画というのはもちろん都合の良いファンタジーでなければならないから、優しい世界を描くならばそこに悪をまぎれ込ませてはならない、ように思える。だが、乗りこえられるべき困難の存在しないラブコメというのは、それこそギリシア新喜劇の時代から想像することさえできないのだ。では、その困難は誰がうみだしているのか。

作品により程度の多少こそあれ、エロ漫画も神義論的ディレンマに曝されていることを私たちは理解しておく必要がある。


けろりん『幸福荘の優しい恋人』エンジェル出版(エンジェルコミックス)、2014

この単行本では、「幸福荘」という小さなアパートに関わる男女が幸福に結ばれていく優しい世界が、一冊全体を構成する9つの連作で描かれていく。しかしそこは流石けろりん先生、一筋縄ではいかせてくれない。作中でよりにもよって「幸代」という名前の30代女性だけが、DV夫に悩まされ、最後まで幸せになれずアパートを去って行く。

幸代がヒロインをつとめる短篇「さよなら幸代さん」には、しかし幸福を蝕む悪の姿は登場しない。文字通りの「姿」は。というのも、主人公の男のいる階下の部屋からは、DV夫の怒鳴り声が聞こえてくるだけだからである。この部屋で主人公と関係をもった幸代さんは、階上の夫の声が哀れっぽい懇願調に変わるのを耳にして、また自分の部屋に戻ってしまう。


悪の姿を描かないことは批判、というより軽侮の対象となりうるだろう。この作品に対して、というよりジャンル全体に対して、しょせんエロ漫画は都合の良いファンタジー、優しい世界を攪乱するほどの悪と向き合うことはできないのだ、という具合に。

確かにこの作家は男性読者にとって許容可能なラインをきっちり計算し、その範囲内での「都合の悪いオンナ」を演出できる手練れである。そのことは認める。だが少し待って欲しい。そもそも私たちの現実の世界でも、悪の姿はそんなにはっきりと自身の目でとらえられるものであっただろうか。

妄想により悪の姿を描き出し、うやうやしく悪魔の神棚に祭ってしまうような人々が右にも左にも枚挙に暇ないほど存在し、逆説的にそのこと自体が悪のとらえにくさを示してしまっている。それが私たちの生きているこの世界の底意地の悪さではなかったか。


「さよなら幸代さん」では、DV夫のもの以外にもう1つ別の声がずっと聞こえている。それはテレビの音声なのであるが、しかし画面(これだって映像に過ぎないのだが)は1、2度しか描かれない。音声の語る内容も、「年末年始 深夜映画特集は ホラー&ゾンビ スペシャル!!/人喰いシリーズ 一挙放送!!/恐怖のキル毛布 『バトルキラー ブランケット』」だの、「ベストヒットUMA スペシャルDVDZ級名作映画 百選になります♪」「人気のUMAから とびきりレアな ものまで…/いかがですか? あの懐かしの UMAがいちどう 勢ぞろい!」だのといった、怪しげなもの、見えるはずなのに見つからないものが目立つ。さらにこの単行本全体に心霊のモティーフが頻出し、最後にはアパートに憑いて男女をくっつけていた霊の声が実際に登場するのだが、やはり姿は描かれない。それと会話する霊能者の少女も「見えてるわけじゃあない」と言い切っている。

この作品では、中心にいて世界を操っているものも、周辺的な世界のディティールも、共に目に見えないものとして意識されているのだ。そしてそれは都合の良いファンタジーでもなんでもなく、私たちが生きている現実の世界そのもののあり方でもある。


いや実は、エロ漫画の「都合の良さ」はここから一歩進んだところにちゃんとあるのだ。

さっきから私は、この作品において世界の悪は、あるいは世界のあり方そのものは、目に見えないと繰り返し述べている。だが、その主張は本当は嘘だ。DV夫の怒鳴り声を背景に、不幸を、その原因としての悪の存在を、私たち読者の目に見えるものとして紙上に提示してくれているものがある。

他ならぬ、ヒロイン・幸代さんの肉体だ。

ほんらいは目に見えないセカイのあり方それ自身が、目に見えるものとして女の(そしてひょっとすると男の)カラダに受肉する。それがエロ漫画で日々起きている奇蹟である。だからエロ漫画を読むことは、この奇蹟をかりそめにでも信じるということに他ならない。

少なくとも私にとっては。



今年出た単行本からは他に


山崎かずまポルノスターより愛をこめてっ』コアマガジンメガストアコミックス)、2014

新堂エル『純愛イレギュラーズ』ティーアイネットMUJIN COMICS)、2014

純愛イレギュラーズ (MUJIN COMICS)

純愛イレギュラーズ (MUJIN COMICS)

を挙げなければなるまいと思うが、これらについてはTwitterで連続ツイートをしたので、それをここに並べておくだけでお茶を濁そうと思う。





それでは皆さま、良いお年を。