粗雑な論理(スペース・マガジン9月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。このところ原発がらみのものを書いていることが多いが、実は同誌は「反原発」の色彩が濃い記事が多いので、それとのバランスも考えて、あえて「反原発」に水を差すようなことを書いている面もある。なお、7月中旬にこのブログに書いた記事とかなり共通点があることをお断りしておきたい。


      
       [愚想管見] 粗雑な論理         西中眞二郎

 この夏の電力不安は、どうにか乗り越えられそうだ。他方、脱原発の声も高い。ところで、報道によれば、7月16日の「さようなら脱原発十万人集会」で、音楽家坂本龍一さんが、「たかが電気のためになんで命を危険にさらさないといけないのでしょうか。子どもを守りましょう。国土を守りましょう。」と挨拶したという。似たような表現は時折耳にするが、極めて粗雑な論理だと思う。
 前段に限って言えば、問題は2点あると思う。まず、「たかが電気のため」という点である。電力供給が不足した場合、「冷房を少し我慢すれば」という程度の軽い影響では済まない。大停電が起これば人命に影響する場合も出て来るだろう。また、たとえそこまで行かないとしても、供給不安自体が、社会的にも不安要因になるし、性急に原子力を放棄することになれば、電気料金が上がることは間違いない。「原子力発電のコストは必ずしも低くない」という見解もあるが、原子力発電は設備コストは高いが、運転コストは低い。もしいま直ちに原子力発電をやめるとなれば、高いコストのかかった設備を眠らせ、安い運転コストのメリットを放棄することになり、最もコスト高になる選択となる。そのコスト増大がすべて電気料金に転嫁されるとは限らないが、どこかでだれかが負担しなければならないことは自明であり、国民経済的には極めて大きな損失となる。
 「電気料金が少しくらい上っても我慢できる」と考える人もいるだろうが、製造業をはじめとする産業はそうは行かない。そうでなくても産業の空洞化が大きな問題になっている現在、「電気料金が大幅に上がり、しかも供給不安がある」ということになれば、我が国製造業の多くは立ち行かなくなり、企業の倒産や海外移転に拍車を掛けることになる公算が大きい。そのことは、我が国における雇用機会の減少に直結するし、就職難や失業、更には地域の疲弊にも繋がって来る。我が国の国力や国際的地位も大きく低下するだろう。
 もう一つの論点は、「命を危険にさらす」という点である。原発事故の影響を決して軽視するわけではないが、「命を危険にさらす」という表現は余りにも短絡的、断定的に過ぎるのではないか。2万人に近い人命が失われた今回の大震災との対比で言えば、今回の原発事故の影響は、「命の危険」とはかなり距離のある話である。
 それでも「脱原発」すべきだという見解は当然あり得るだろう。原子力というものは扱いにくいものであり、「嫌いだ」という感覚が間違っているとは思わない。しかし、その場合でも、少なくとも以上のような視点を十分踏まえた上で判断すべきものだと思う。また、「子ども」、「国土」という視点は、誰しも否定できない「錦の御旗」ではあるが、これらの視点は「脱原発」のみが独占できるものではなく、「脱原発」が将来の「子ども」たちの職場を奪い、地域の疲弊を通して「国土」の荒廃を招く可能性があるということも視野の中に入れた、総合的な判断が必要なのだと思う。(スペース・マガジン9月号所収)