批評だとかレビューだとか星取表だとか

音楽配信メモ クリエイターは「批評されること」そのものを問題にしているのではない
http://naoya.g.hatena.ne.jp/naoya/20060323/1143099465
このへんを読んでいて、論旨とは別のことが気になったので書いてみるよ。


学生の頃、先輩に「お前は教養がない」と罵倒されて、それまで観ることのなかったタルコフスキーやらブレッソンの映画を観にいくようになった。
どうやら、それらの監督の作品は、世間では高く評価されているらしい。そういう作品を評価できないと、またしても先輩に俺の感性の低さを指摘されるかもしれない。
そんな緊張感(ってほどでもないけど)があった。
だけど、映画館で僕を襲ったのは、感動の嵐ではなく、激しい睡魔だった(話がそれるが、映画を観ながら眠るのってすごく気持ちがいい。映画の内容が自然に夢へとつながっていく感覚)。ありゃりゃ。俺って駄目なのかな? 心配になって、俺は眠くなると、座席から腰を浮かせて、つまり映画館の座席の上で空気椅子状態を保ち、睡魔と闘ったのだった。
結果、映画館を出た後に残ったのは、映画の内容の記憶ではなくて、単なる疲労だった。


一方で、自分が好きだと思うジャンル(ホラー、コメディ)は、自主的に(当たり前だ)観まくっていた。


その結果、気づかないうちに、自分の感性の幅が広がっていた。
これには正直びっくりした。
いい? たとえば、ブレッソンの映画、びたいち記憶に残ってないのよ。ロバが出てたなぁ、ぐらい。全然楽しくなかった。感動もしなかった。時間の無駄だったんじゃないかとすら思った。
だけど、ある日、『少女ムシェット』を再見した。すごい面白かった。わくわくした。なんじゃこれ!と興奮した。
ちょうどその頃、(確か三百人劇場で)リヴェットの特集があった。なんか小難しいんじゃねえかな、と心配したが、無茶苦茶面白かった。その当時、『北の橋』は俺にとって、ベストに近い作品だった。あ、でも、その後、フランスに行ったとき、向こうの映画ファンにそのことを伝えたら、「はぁ?」という顔をされたなぁ。


もしも。もしも、だけど。自分が好きだと思うジャンルの映画だけを観続けていたら……。それはそれで、オッケーだったと思う。その分野のエキスパートになれたかも。うん、それはそれで幸福だ。
でも、俺は、自分が興味を持てなかったジャンルの映画を、苦痛とともに観まくったことを、幸福な思い出として大事にしている。その苦痛は、確実に俺の世界を広げた。
そしていま、当時俺に苦痛を与えた作品を、俺は素敵な作品として楽しんで鑑賞することができる。


安易にレビューしたくなる欲望をあおるのは、確かにネットのシステム上、仕方のないことなのだろう。
でもさ。と思うんだ。
いまこの瞬間、ある作品が俺の時間を奪い、そのことで「損をした」と憤ることがあるかもしれないけれど、それは俺が自前の感性だけで判断したということでしかなくて、長い目で見たら、その作品は俺の感性を変えるチャンスを俺に与えてくれているのかもしれない。
それとも、いまこの時点での、自分の感性を世間にひけらかすほうが、大事なのかな?


amazonのレビューで評判の高い作品だけをチョイスするのと、10枚買うCDのうちの一枚はジャケ買いをしてみる、という冒険と、どっちがいいかって言ったら、俺は後者だと思う。
あらゆる作品との出会いは、自分の現在の感性を確認するためではなくて、明日の自分の感性を見つけることだと思う。そのためには、その時点で「無駄」だと思われるような行動だってしなくちゃなんない。


あのね。映画でも、音楽でも、小説でも、なんでも。
楽しむのって、実はしんどいことなんだと思うんだ。
だってさ、映画も、音楽も、小説も、そういうのがなくたって、人間は生存していけるもん。
スポーツをしたあとの、疲労に似ているかな。あれを、人は愛せる。それを愛せなくて、純粋に「健康のため」にスポーツをすることなんて、できるかな?


批評は、作者のためにするんじゃない。
批評は、自分の感性を広げるための、「あがき」のようなものだと、俺は思う。
つまり……価値評価ではない。価値評価は、自分の現在の感性の中での、相対的な位置づけでしかない。
批評を、ネットで(印刷媒体でも)発表するというのは、そういう「あがき」を他人の目にさらすってことで、それはすっごいしんどい。
で、そのしんどさを誰もが手に入れられるっていうのは、素晴らしいことだと思う。