いくら忙しいからって……

4月は、2本しか映画を観ていない! そんなおりに届いた小包にはソクーロフの『太陽』やら話題の『ホステル』やらが入っていて、ああ、DVDを観る暇もない。


4月最後に駆け込むようにバウスシアターで観たのは、『ニュー・ワールド』。この映画を観終わったあと、俺はしばらく吉祥寺のアーケードを、ポカホンタスごっこをしながら歩いていた。それはつまり、傍目からは一人で阿波踊りを踊っているみたいだってことだ。手のひらを耳のわきのあたりでひらひらさせて「ぴょん!」って跳ねたり(あれは鹿なのだろうか?)、人とすれ違うときに両手で額を隠すようにしてから開いて挨拶したり、片手を影絵の狐のようにして頭上で「パカッ」と開いて太陽を表現したり(俺、あれは鳥だと思ってしまった)、目の前で両手を波打たせて相手から「水?」という言葉を引き出したり……ようするに、ポカホンタスの「手」の動きが世界のすべてを表現している、そんな映画だった。手は水に触れ、空に触れ、異性や異世界の住人に触れ、その感覚が手の持ち主に変化をもたらす。と、いうことを、映画は主張しない。ただ、発見した(だけだと思う)。たとえばポカホンタスとスミスが抱き合う場面、近づく二人の顔から、キャメラはパンダウンして彼女の手がスミスの腰に触れるのを映す。っていうのを意識的にやっている。これが、ジョンとのときは逆。手から顔へ行く。最後、英国の庭園で、スミスとポカホンタスが再会し、そのあとに彼女がジョンのもとに戻るとき。彼女の手が男性の手をとらえ、その男性の顔をしばらく映さない。無論、演出として「一体彼女はどっちの男を選んだのか?」というサスペンスを生み出そうとしていたのかもしれない。だけど、この映画をずっと観てきた観客は、いまさらそんなサスペンスを期待するだろうか? 「このあとどうなるんだろう?」という興味ではなくて、ただただポカホンタスの手の動きに魅せられていただけなんじゃない?
父親にスミスとの関係をとがめられたあとの場面、もどかしい官能の感情を、ポカホンタスはどういうふうに伝えたか?
赤い果実の濃厚な汁で、スミスの裸の胸に手形をつけたよね。


と、まあ、俺がそんなふうにしか『ニュー・ワールド』をおぼえていないのは、俺がそういうふうにしか観ていなかったというだけのことで、パンダウン云々のあたりは俺の願望が記憶を捻じ曲げたのかもしれない。
だけど一体、あの大きな画面の中で起きているすべてのことを観ることなんて、できるのかしら?と自己正当化したところで、寝る。うそ。まだ酒を飲む。