クンデラ『笑いと忘却の書』

ミラン・クンデラを読む①」
『笑いと忘却の書』

 20世紀チェコの小説家クンデラのこの小説には、哀感ある笑いがある。クンデラはこの小説のなかで、物事の秩序のなかに与えられていた場所を突然奪われると「笑い」を引き起こすという。そう思われていたことが違って見えると、ずっと軽く自由にさせ、いかめしい真面目さから解放させるという。悪魔の笑いは物事の不条理を意味し、天使の笑いは物事がきちんと整序され賢明に善良に意味されている笑いという。どうみてもクンデラの笑いは悪魔も笑いであり、「滑稽な笑いは、壊滅にひとしい」という。1968年チェコソ連戦車が侵攻し、大学助教授の職を失い、79年この小説でチェコ市民権を剥奪され、フランスに亡命した作家の、変奏形式の短編小説の笑い論は、イタリア作家エーコの『薔薇の名前』の笑い論と匹敵すると思う。
 この小説のもうひとつのテーマは「忘却」である。「失われた手紙」では、一枚の写真も持ち出せず亡命し夫に死なれた未亡人が、忘却していく夫とやり取りした手紙を故国から取り戻そうとする。要注意人物が秘密警察に尾行されながら、党員である元恋人を訪ね、かつての恋文を返してもらおうとして失敗する。クンデラの「忘却」は、カフカの小説におけるプラハの街のように、名前も時間も記憶を持たないところにある。
党の政策変更で、バルコニーで演説する大統領に帽子を貸した股肱の側近が、追放粛清され、歴史からすべて消されてしまうチェコの「忘却の歴史」の繰り返しが、次第に記憶を失っていく認知症らしき父と多重に描き出されてくる。人間にとって忘却は解放なのか、壊滅なのかをクンデラの小説は何回も変奏を繰り返しながら描いていく。(集英社、西永良成訳)