濱田恂子『入門近代日本思想史』

濱田恂子『入門 近代日本思想史』

  入門となっているように、明治の福沢諭吉から、大正の西田幾多郎を経て、平成の鷲田清一まで50人ほどの思想の流れを記述したもので、教科書的に思えるかもしれないが、思索は深い。濱田氏の現代における「痩せ細る哲学」への危機感がにじみ出ている労作である。当然に西田哲学とその西田派の哲学に熱が入っている。だが、私は第二次世界大戦以後の思想に興味を覚えた。田邊元の懺悔道の哲学、和辻哲郎の日本文化史研究、下村寅太郎、三宅剛一、古在由重、南原繁などの思想が取り上げられている。
  特に1970年代以降の思想史は面白い。「理性から感性に」という表題がつけられているが、もっと広く視野が繰り広げられている。まず比較哲学の試みとして、川田熊太郎、中村元井筒俊彦の思想が述べられている。井筒の『意識と本質』を紹介し、東洋哲学と西洋哲学の比較を超えて、「ーーーの意識」でなく、無対象的、非志向的意識、つまり無意識による「本質」脱落、言語脱落の、普遍者が瞬間的に自己を感覚化する井筒思想を産み出していくことが、指摘されている。
  濱田氏は伝統的な理性を信奉する哲学に大森荘蔵思想を挙げているが、「存在は知覚なり」を否定し「私」を抹殺した上に物心一如の世界に「私」が復元する大森哲学は、意外に井筒思想に近いのではないか。「理性の挫折―身体化の方向」は示唆に富む。坂部恵の理性の不安から「ふれる」哲学の相互嵌入は、感性と肉体と想像力の復権であり、廣松渉の共同主観と心身一元論とともに身体化の哲学である。
  濱田氏はさらに身体化と科学哲学として、坂本百大、坂本賢三を取り上げ、身体化の哲学として市川浩中村雄二郎、湯浅泰雄の思想を論じているが面白い。何故20世紀末の日本思想に身体論思想が顕著になり、生命哲学が論じられてきているかは重要である。臓器移植、生殖技術、クローン技術、再生細胞など生命科学の発達で「人間」とは何かが、原初に戻り再び問われ始めたのかもしれない。(ちくま学芸文庫)