池上裕子『織田信長』

池上祐子『織田信長

  戦国時代の研究で知られる日本史学者の織田信長の評伝であり、多くの文献資料を基にした力作である。織田信長に関しては、多くの本が書かれている。一長一短があり、全体が見えなかったが、池上氏は信長に肉薄し、等身大の信長像を提示しようとしている。池上氏に則り、その信長像を考えたい。
  信長は戦争の才能があり、支配領域を拡大するため侵略戦を仕掛け、その機動戦や攻城戦で全国の三分の一を配下に収めた。だが、各地の大名、家臣、国人、一向一揆など地域国家は懸命に抵抗した。池上氏は信長は「残虐な殺戮に走って鬱憤を散ずるという戦争の仕方をした」という。私は、支配領域拡大の「帝国主義的戦争」だったと思う。
  信長は軍事指揮権を自分一人に集中した独裁権力だった。自らに絶対服従する強い主従関係の絆しか信用せず、尾張の譜代と一族一門を登用し、直接的命令で成り立つ。だから譜代以外の荒木村重明智光秀は疎外されていく。信長は、鎌倉幕府以来の奉行人制や評定衆のような統治機構を作ろうとしなかった。池上氏は本能寺の変の原因を「外様」の粛清の不安感と反乱のなかに位置付けようとしている。
  池上氏の指摘で重要なのは、信長の発給文書から、信長は百姓や村と正面から向き合おうとしていない点の指摘である。信長には農政、民政がなく、知行高に応じて軍役の人数を定めるという戦国大名から徳川大名制の発想がないと池上氏はいう。私は信長は「重商主義」重視だったと思う。関所撤廃と道路整備による物流の掌握、楽市、選銭令、伊勢湾から太平洋海運や瀬戸内海海運、日本海水運、毛利水軍にたいして「大船」建造、鉄砲鍛冶など「死の商人」を抱える堺など都市の商人の支配。その先には中国貿易、南蛮貿易が視野にはいっていたのではないか。
  信長が日本の天皇や公家、将軍を利用したが、自らはそうした日本の体制に重きを置かなかったとも思える。関白も征夷大将軍もうけなかった。安土城の多層ある天守閣は、中国絵画で障壁が描かれ、唐物ブランドを好み、フロイスなどキリスト教宣教師を好んだ。中国的皇帝を目指したと思えないが、西欧の「絶対君主」「法王」のような「重商主義」帝国を考えていたとも、私には思える。その歪められた方向が、秀吉の貿易より武力による朝鮮侵略=中国戦争に向かったのではなかろうか。この本は様々な歴史像を示唆させてくれる。(吉川弘文館