香月孝史『「アイドル」の読み方』

香月孝史『「アイドル」の読み方』

  アイドル戦国時代といわれる。ご当地アイドルも盛んで、姫路市には黒田官兵衛ゆかりのご当地アイドルが生まれた。AKB48の五番目の集団「チーム8」は都道府県から一人ずつ選出し日本各地に行く「会いに行くアイドル」として4月に発足した。だが、「アイドル」という言葉はつかみにくい言葉であり、80年代と比べると意味も変貌してきている。香月氏は、アイドルのわかりにくさの構造を解き明かそうとした。
  香月氏はまずこれまでのアイドルの意味を問う。第一は才能を崇拝するカリスマ的偶像・スターとしてのアイドルである。第二は、1971年「スター誕生」以来強まっていく、「実力」ある存在としてのアイドルでなく、かわいさ、若さ、親しみやすさという「魅力」をもったアイドルの意味である。まさにメディアスターである。第三は香月氏がいう歌と踊りのパフォーマンスを行う芸能ジャンルのアイドルである。
  この第三のアイドルは、テレビだけでなく、「現場」という劇場、ライブハウス、CDショップ、ショッピイングモールで公演するし、グループ性、地方性などが強く、SNSなどソーシャルメディアを使い、ファンとの双方向性コミュニケーションを重視すると香月氏はいう。AKB48や、ももクロZや、でんば組などをあげている。能年玲奈さえ「アイドル女優」と呼ばれる。
  21世紀になってのアイドルは、アイドル本人のパーソナリティがコンテンツとなり、ドキュメンタリー性を持つ「パーソナリティの消費」を特徴にしていると香月氏は主張している。これまでの「操り人形」ではなく、アイドルの自意識の自発性による「自己表現」が重視されてくる。香月氏はアイドルの自由度が高まったと見る。
  さらに双方向性は、動画共有サービスを介したライブ生中継、アイドルの日常風景の配信などによって強められ、「表」と「裏」の狭間までコミュニケートするファンには「当事者性」がもたらされる。総選挙や握手会もその一環だろう。香月氏は「人格を承認するコミュニケーション」というが、少々理想化していると私にはおもえるのだが。
  現代アイドルは当人の主体性を、コンテンツにしているという香月氏の見方は鋭いと思う。アイドル、ファン、運営者、楽曲提供者の欲求を投じ会う集団的「饗宴の場」というのも肯ける。いまやアイドルはマスメディアにえらばれることも、卓越したスキルも、侵し難いカリスマ性も必要ない。アイドル自身のパーソナリティの享受を中心にそなえた、コミュニケーションの往還なのである。
    私が面白かったのは、AKB48の峰岸みなみ事件における「恋愛禁止」を、ファンの「疑似恋愛論」(中森明夫氏)や「巫女性」(小林よしのり氏)でなく、ファンのアイドルの「人格への愛着」への視点から、香月氏が解こうとしている点だった。だが、生身の身体に対する「可愛さ」という性的魅力は、必ずアイドルにはつきまとうのではないかと思う。(青弓社