クリスティ『そして誰もいなくなった』西村京太郎『殺しの双曲線』

 アガサ・クリスティそして誰もいなくなった
西村京太郎『殺しの双曲線』

      ミステリーの古典。クリスティ作品は1939年、西村作品は1979年作品である。勿論携帯もスマホもない時代の、孤島と雪の山荘の「密室」ものである。私は、西村作品はクリスティのパロディと思って読んだが、いま「ポストモダン小説」なのではないかと思う。
      「ポストモダン小説」とは、マクヘイル氏によれば、モダニズムが私とは何者かなどの認識論に支配されているのに対し、ポストは存在論に支配されているという。どの世界でなにがなされ、複数の私のうち、どの私がそれをなすかを描くという。
      偶然性と不確定性を含み、メタナラティブへの不信、倫理的ジレンマは未解決であり、ポストモダンの建築家チャールズ・ジェンクスがいう「ダブル・コーディング」をもつ。西村作品は、クリスティ作品と「ダブル」になっている。
      クリスティの犯人が、モダンの自我を自己認識し、パラノに殺人を行使するが、そこには未見の犯罪に対する「正義」と「裁き」という近代的罪と罰の倫理が働く。物語の論理的一筋にたいし、西村作品は、物語が二組の双生児で多重化し、複線の物語が交差していく構造である。
 だが西村作品ではミステリーの禁じ手である双生児を使うと、冒頭から明かした上、さらに二組の双生児を組み合わせ、「ダブル」の犯人に仕立て上げ、自我像はダブルにより曖昧になる。倫理的にも曖昧性がある。
      動機にしても、クリスティには近代の「大きな物語」が背後にあるが、西村作品の動機は大量殺人の割には、あまりにも「小さな物語」なのだ。殺人というゲームへの「戯れ」が濃い。
      私は秋葉原事件の犯人の動機が、あまりにも小さいのに驚いたが、西村作品はその先駆けかもしれないと思った。二組の双生児が、警察を欺く「戯れ」的な犯罪をユーモア的に描くが、クリスティにはない手法である。クリスティにも、童謡の歌詞に則って、10個の泥人形が殺人で一つ一つ消されていくという戯れはあるが、西村氏の比ではない。
      クリスティ作品では、近代小説らしく犯人の認識論が告白される。だが西村作品は非政治的であるうえ、犯人もあやふやで証拠もなく、最後は偶然性も入っており、不確定のまま終わる。
      警察は、日本的「情」による自白にかけるが未解決になるだろう。西村氏は社会派推理小説でもないし、本格密室でもない。そのゲーム的な戯れは、トラベルミステリーとして、後期にはますます強くなる。
      先般おきた新幹線放火殺人事件は、テロでなく列車密室と、小さな物語のミステリーを、私に思い起こさせた。(『そして誰もいなくなった』ハヤカワ文庫、青木久恵訳、『殺しの双曲線』講談社文庫)