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1:昭和天皇は戦争回避とユダヤ人難民救護を希望し原爆開発中止を厳命した。

2017-09-23

♬:27─7─ルーズベルトの隔離演説。ドイツ軍事顧問団は、中立国アメリカを日中戦争に引き込む為に長期戦を蒋介石に提言した。1937年10月〜No.128〜No.129No.130@     

重光葵―上海事変から国連加盟まで (中公新書)

重光葵―上海事変から国連加盟まで (中公新書)

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 軍部は、対ソ戦の為に中国との戦争に反対した。

 軍国日本は短期決戦で早期和平を望んだ。

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 中支那派遣軍司令官は松井石根大将(A級戦犯)は、日本軍の苦戦原因がナチス・ドイツやアメリカからの軍事支援である事を知るや、外国勢力による中国軍への物資供給を遮断するべく、東京の軍中央に対して「宣戦布告」の意見具申を行った。

 宣戦布告し、日本海軍が中国の各港湾を封鎖してアメリカやナチス・ドイツからの武器弾薬などの軍需物資の揚陸を阻止すれば、抗日中国軍は交戦できなくなって降伏すると分析していた。

 日本は、資源がない為に石油やくず鉄を止められれば戦争継続は苦しいが、兵器自前生産の原則から代用物資で生産して補充が出来た。

 中国は、独自の兵器廠を持たず、戦略物資に御全般を外国企業に依存していた為に、宣戦布告をすると戦争が出来なくなってしまう。

 宣戦布告は、日本軍に困難をもたらすが、それ以上に中国軍には絶望しかなく、日中戦争を早期に終結するにはそれしかなかった。

 参謀本部の一部は、宣戦布告するとアメリカから石油やくず鉄などが輸入できなくなるとして反対した。

 近衛首相は、戦線拡大すれば中国は降伏するという尾崎秀実らブレーンの意見に従って、早期戦争終結としての宣戦布告要請を放置した。

 宣戦布告の権利は、軍人ではなく政治家が持っていた。

 政治家を操っていたのは、隠れマルクス主義者である革新官僚や転向右翼であった。

 政治家が本気で戦争を止めようとしたら、宣戦布告をすればよかったのである。

 日本国民は、軍部に騙されたのではなく、無責任な政治家に裏切られたからである。

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 エレノア・ルーズベルトは、上海を訪れ、フランス租界のビルの屋上でパーティーを開き日中戦争を観戦し楽しんでいた所を、中国空軍のアメリカ製爆撃機による誤爆を受けた。

 誤爆で命の危険に晒されたエレノアは激怒し、日本軍が中国に侵攻した事が原因であるとして軍国日本を激しく非難する書簡を送った。

 欧米列強の死の商人達は、軍国日本と武器を売ったファシスト中国が戦う事を歓迎していた。

 白人達は戦争に巻き込まれない事を確信していたので、劣等種族の日本人と中国人の戦争を観戦する事は娯楽であった。

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 10月 徳王は、日本軍の軍事支援を得て蒙古連盟自治政府を樹立した。

 ローマ教皇ピウス11世「支那事変は侵略戦争ではなく、共産党を防ぐ戦いだから、カトリック教会及び信者は日本に協力すべきだ」

 バチカンは、反宗教無神論の共産主義を血に飢えた悪魔と認定し、対決姿勢を明らかにして軍国日本やナチス・ドイツとの関係を密にした。

 10月4日 参謀本部第一部長に就任した下村定少将は、甚大なる犠牲者を出している第二次上海事変を勝利に導く為に、新たに第10軍(三個師団一支隊)を編成し、杭州湾に上陸させ敵の側面を突き退路を断つ作戦の立案を命じた。

 上海攻防戦は、旅順要塞攻略戦以来、日本が経験した事のない攻防戦となった。

 日本独自の武器を持った日本軍将兵と、ドイツ陸軍の軍事技術とドイツ軍式教練で鍛えられドイツ軍装備を施された中国将兵との戦いであった。

 少数兵力の日本軍は伝統的白兵戦を採用して突撃を繰り返し、大兵力の中国軍はトーチカや陣地に籠もって要塞戦を採用して迎え撃った。

 松本重治「上海の戦いは日独戦争である」

 ルーズベルトは、侵略国である軍国日本とナチス・ドイツを世界から隔離して封じ込めるとの演説を行った。

 「宣戦布告も、その警告も、あるいは正当な理由もなく、婦女子を含む一般市民が空中からの爆撃によって容赦なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。この様な好戦的傾向がしだいに他国に蔓延するおそれがある。彼らは平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」

 人種差別的に日本人を劣等民族として毛嫌いしていた。

 「日本人の頭蓋骨は、我々白人に比べて2000年発達が遅れている。四つの島に閉じ込めて、農業だけやらせればいい。南洋諸島の女を送り込み、やがては日本人という人種を交配によって根絶やしにすればいい」

 こうした対日観は、現代に於いても生きている。

 10月5日 欧米諸国の報道機関(多くがユダヤ系)は、日本軍爆撃機が南京、上海、漢口、広州などの主要都市を無差別爆撃し、民間人に多くの死傷者が出ているとの、中国側の発表をそのまま全世界に伝えて反日感情を助長した。

 中国側は、日本を国際社会で孤立させ追い詰める為に情報工作を行い、被害を誇張して流し続けた。

 ルーズベルトは、シカゴで「隔離」演説を行ない、日本などの侵略者に対する検疫を組織化するよう訴えた。だが、戦争による武力的解決には反対すると明言した。

 「ファシスト国家の日本とナチス・ドイツは、国際秩序を破壊しようとする侵略国家であり、健全な社会から隔離すべきだ」と。

 アメリカは、反日的立場を鮮明にしながら、イギリスと協力して抗日中国を支援する為の体制作りを本格化させた。

 10月6日 国際連盟総会は、日本の侵略を非難して、軍国日本の軍事行動は国際紛争を平和的に解決を謳う不戦条約違反であるという報告書を採択した。

 第一条「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」

 第二条「相互間に起こる事あるべき一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因の如何を問わず、平和的手段に依るの外これが処理又は解決を求めざる事を約す」

 国際世論は、日本を加害者として非難したが、中国は被害者であるとして不問とした。

 インド及びオーストラリアは、日本製品ボイコットを行った。タイなどの東南アジア各地では、日本の侵略に抗議する反日行進が頻発していた。

 ソ連のスパイであるリヒャルト・ゾルゲは、J・P・モルガン商社と関係のある反日的太平洋問題調査会(事務局長はロックフェラー)から活動資金を得ていた。

 反日朝鮮人は、9月に南京で韓国光復団体連合体を結成し、キリスト教会と抗日中国軍から支援を受け、全アジアの民衆に武装蜂起を呼びかけた。

 日本軍内の朝鮮人兵士を武器弾薬を持って大量に脱走させ、時には命令を無視させ暴動を起こさせた。

 10月7日 ニュージーランドは、日本の侵略戦争を非難して、日本向けの屑鉄輸出を禁止した。

 英連邦諸国は、本国イギリスの中国経済及び軍事支援に協力して、侵略戦争を続ける軍国日本を経済的に追い詰めつつあった。

 10月14日 バチカンは、反共産主義の立場から日本を支持した。

 日本のカトリック教会の多くが日本の大陸政策を支持したが、一部のプロテスタント教会は日本の侵略戦争を非難した。

 10月15日 ノイラート外相は、ドイツ外務省の見解として、ベルリンの駐独中国大使に「ドイツ軍事顧問団を引き揚げさせない」と確約した。

 10月18日 ヒトラーの私的外交顧問リッペントロップは、度重なる日本側の抗議を受け、カイテル国防軍官房長官に対中武器輸出を禁止すると伝えた。

 カイテルは、ヒトラーの中止命令でない以上、対中軍事支援停止を拒否した。

 10月20日 日本軍は、敗走する中国軍が毒ガス兵器を使用し、多くの日本軍兵士が被害を受けたと発表した。

 ゲーリング元帥は、カイテルの説明を受け、リッペントロップに密かに武器の取引を継続させると伝えた。

 ドイツ軍は、あくまでも、軍国日本と戦うファシスト中国を軍事支援する事を決定した。

 カイテル「ドイツは前払いの外国為替を受け取っているだろうし、注文は工場に出されてしまっているから武器禁輸は実行できないだろう」

 10月23日 陸軍は、航空戦力を強化する為に東京陸軍航空学校新設を告示した。

 10月25日 支那派遣軍は、夥しい犠牲を出し、非武装地帯に築かれたドイツ式呉淞・龍華防衛陣地の要である大場鎮を占領した。

 だが。上海を完全に救出するには、さらに南下して蘇州河を渡り、南岸陣地を占領する必要があった。

 中国軍は、日本軍の前面にある蘇州陣地と側面の南翔陣地からを激しく攻撃して、日本軍の進撃を停めた。

 上陸以来の激戦で、日本軍は2万5,000人以上の戦死傷者を出し、全ての将兵は疲労困憊し、弾薬は不足した。

 だが。疲弊した日本軍の目の前には、さらに堅固なドイツ式防御陣地であるヒンデンブルク・ラインと最新鋭のドイツ軍装備を持った中国軍の大軍が控えていた。

 上海の日本人居留民達は、依然として死地から抜け出しおらず、日本軍が敗走したら虐殺される恐れがあった。

 日本軍は、無防備な日本人居留民達を守る為には侵略を続けるしかなかった。

 日本軍を内陸奥地まで誘い込むのが、中国軍とドイツ軍の基本戦略であった。

 10月27日 軍国日本は、イギリス、アメリカ、フランス、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアに対して日中交渉のため第三国の好意的斡旋を受諾する用意のある事を表明した。

 日中紛争を終結させるべく和平斡旋を、諸外国に懇願した。

 ブリュッセル九ヵ国会議。軍国日本は、「自衛的行動である」との主張が認められない事が分かっていた為に出席を拒否した。

 中国に関係する主要諸国は、日本の中国侵略を食い止めるべく話し合う為に集まった。

 参加国で、日本が主張する「自衛的軍事行動」「日本人居留民保護」を支持して弁護する国はなく、「侵略的軍事行動」「野心的領土拡大」と非難していた。

 日本は、世界的に孤立していた。

 会議の参加国は、中国軍を助け、日本軍を殲滅する為に、ソ連軍の直接的軍事介入を希望していた。

 ソ連は、ファシスト中国と軍国日本を戦争させて共倒れを狙っていたのであって、参戦する意思はなかった。

 スターリンは、漁夫の利として、中国と日本を共産主義化する為に日本人共産主義者を煽っていた。

 中国側は、友好国ナチス・ドイツの出席を求めたが、ヒトラーは欠席を決めた。

 ドイツ国防軍は、ドイツ軍式教練と軍装備を施した中国軍が日本軍に敗北する事は、ドイツ軍の名誉と威信と信用の為にも許すわけには行かなかった。

 中国は、ファシスト陣営と共産主義陣営とも友好関係にあった。

 日本軍は、中国軍を介してナチス・ドイツと戦っていた。


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もし、日本という国がなかったら

もし、日本という国がなかったら

2017-09-22

♬:27─6─国際世論は、ファシスト中国の対日批判を支持し、宣戦布告に匹敵する対日経済制裁宣言を要請した。1937年9月〜No.126〜No.127@                

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 9月 南京で、右派の韓国独立党、朝鮮革命党、韓国国民党の三党が韓国光復団体連合体(光復陣線=光線)を結成し、民族の独立の為に中国情報局C・C団の指揮下に入り語学を利用して日本人に変装して工作員を日本に派遣した。

 反日派朝鮮人テロリストは、抗日派中国人同様に、和やかに日本人に近づき信用させていた。

 反天皇の日本人マルクス主義者は、軍国日本を崩壊させる為に彼等を支援した。

 左派の金若山(キムヤクサン)は、12月に朝鮮民族戦線連盟(民線)を組織して独自に活動した。

 両派は、中国側から資金援助を受けながら、日本軍内の朝鮮人兵士を大量に脱出させたり、時には反乱を起こさせた。

 反日派朝鮮人は、日本から朝鮮を独立させる為に、勇猛果敢に日本軍と戦っていた。

 親日派朝鮮人は、大元帥・昭和天皇に忠誠を誓い軍国日本を守る為に戦い、戦場の到る所で戦死していた。

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 グルー大使は、広田外相に面会して、諸外国の外交官と南京市民に被害者が出る恐れがあるとして日本軍航空機の爆撃計画に激しく抗議した。

 広田首相は、「爆撃計画に関しては、南京の外国外交団施設や非戦闘員の被害を避ける為、最善の努力を払う」と答えた。

 グルーは、日本が主張する日本人居留民保護目的の自衛行動を認めず、中国での戦いは領土拡大目的の侵略行為であるとの、これまで通りアメリカ見解を伝えた。そして、アメリカはおろか諸外国は、日本への反感を日に日に高めていると忠告した。

 アメリカ世論は、侵略を続ける軍国日本へのさらなる制裁を要請した。

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 9月1日 軍令部第一部長近藤信竹少将は、参謀本部第一部長石原完爾少将に陸軍部隊の増派を督促した。

 参謀本部第一部第二課長河辺虎四郎大佐は、不拡大派であったが、増派に賛成した。

 それ以上に、石原部長が不拡大方針に固執して増派を拒否続けた為に、被害が増加した。

 9月2日 日本政府は、宣戦布告して本格的戦争とする事を避け、領土的野心がない事を世界に示す為に「支那事変」と命名した。

 蒋介石も、アメリカやナチス・ドイツなどから戦略物資を得る為に宣戦を行わなかった。

 ルーズベルトは、中国と軍国日本にアメリカ国民の安全確保を要請せず、いきなり中国に滞在する自国民に対して日本軍の攻撃を避ける為に退去勧告を出した。

 アメリカは、軍国日本ではなく抗日中国の側に立つ事を臭わせた。

 9月4日 アメリカの海員組合などは、侵略戦争を行う日本への軍需物資輸送を拒否した。

 9月5日 近衛首相は、「支那事変は長期戦も辞せず」と厳命した。

 参謀本部第一部第三課員西村敏雄少将は、上海視察から帰国して、拡大派の第三課長武藤章大佐(A級戦犯)に上陸部隊の惨状を布告し、増援の意見具申をした。

 9月6日 軍令部総長は、消極的な陸軍を動かすべく、昭和天皇に「上海の陸上戦闘は遅々として進まず陸軍兵力の増強が必要である」と上奉した。

 昭和天皇は、参謀総長を召し出して、上海への増派の必要性を問い質した。

 石原第一部長は、陸軍の総意が増派と決まった以上、一人で反対する事ができず同意するしかなかった。だが、中国との本格的な戦争に引きずり込まれるのを避けるべく、増派兵力を内地三個師団と台湾守備隊等にとどめた。

 昭和天皇は、漸次投入に不満を漏らしたが、軍部が決定した事である為に裁定した。

 上海発信ニューヨーク・タイムズ紙特電。「中国軍は、この爆弾は日本軍機から投下されたものである、と宣伝する事によって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方(8月15日、22日)とも中国がイタリアから購入したイタリア製のものである事が判明している、この判明した事実について、アメリカとイギリスの現地の海軍調査官の意見は一致している。そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製である事を認めている。これは決定的な証拠であるように思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからそのような軍需物資を購入した事は一度もない、と証言しているから」

 9月8日 中国軍の拠点・宝山城を激戦の末に攻略した日本軍に、真性コレラが発生し、多くの将兵が戦闘不能となった。

 中国は、不衛生で水が悪かった為に、コレラやペストや赤痢などの病原体が存在していた。

 日本軍は、多大なる犠牲を払って公大飛行場を占領した。

 日本海軍航空隊は、中国空軍を圧倒して制空権を奪い、苦戦する地上部隊を支援した。

 9月6日 ニューヨーク・タイムス紙(香港発特電)「中国軍は、この爆弾は日本軍機から投下されたものである、と宣伝する事によって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方とも中国がイタリアから購入したイタリア製のものである事が判明している、この判明した事実について、アメリカとイギリスの現地の海軍調査官の意見は一致している。そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製である事を認めている。これは決定的な証拠である様に思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからその様な軍需物資を購入した事は一度もない、と証言しているから」

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 9月12日 国際連盟は、中国政府の提訴を受けて日本軍の侵略行為の審議に入ったが、当初から日本の「自衛権」を認めていなかった。

 9月13日 蒋介石は、国際的反日世論を味方にして、国際連盟に日本の侵略を提訴した。

 9月14日 台湾守備隊が川沙口に上陸した。22日には第101師団が、27日には第9師団が、10月1日には第13師団が上海に上陸して中国軍を攻めたが、ドイツ軍事顧問団の指導された中国軍と鉄壁な防壁に苦戦を強いられて被害を出した。

 日本軍は、ドイツ軍事顧問団に鍛えられた中国軍を甘く見た為に漸次派兵という愚策を行い犠牲を出した。

 日本の北支那方面軍は、ソ連軍を意識しながら河北作戦を発動して、侵略戦争を拡大した。

 国民政府は、ソ連に対して日本と戦う為にソ連軍空軍作戦部隊の派遣を要請した。

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 三好捷三『上海敵前上陸』「こうしてビリから呉淞(ウースン)の岸壁にはいあがった私の目を射た風景は、まさに地獄であった。修羅の巷(ちまた)もこんなにひどくないであろうと思われるほど残酷なものであった。岸壁上一面が見わたすかぎり死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。まるで市場に積まれたマグロのように、数千の兵隊の屍が雑然ところがっている。それと同時にヘドのでそうないやな死臭が私の鼻をついた。

 これは10日前に敵前上陸した名古屋第3師団の将兵の変わりはてた姿であった」

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 9月15日 岐阜県垂井町。浄土真宗大谷派明泉寺。14代住職、竹中彰元師は、出征兵士を見送る為に駅に向かう在郷軍人会の村人等に、命の尊厳を説く仏教者の使命として、人を殺す戦争は罪悪で戦争を美化して煽る事の愚かさを語った。

 中国戦線での日本軍の勝利と快進撃に昂揚していた軍国主義の庶民達は、天皇の為・国の為に命を捧げる事は尊い事であると信念から、竹中師の「戦争は罪悪」発言に激怒して罵声を浴びせたが、暴力はふるわなかった。

 「戦争は罪悪であると同時に、人類に対する悪であるから止めたがよい。北支の方も中支の方も、今占領している部分だけで止めた方がよい。決して国家として戦争は得るものではない。非常に損ばかりである。……戦争はその意味から止めた方が国家として賢明であると考える」

 内務省警保局は、竹中師が宗教的信念から戦争を批判しても、伝統的民族宗教に於ける天皇の神聖を否定し天皇制度の廃止を主張する共産主義者や一部のキリスト教徒及び仏教徒ではないので、要注意人物として監視した。そして、その発言を『特高外事月報』に記録した。

 ごく平凡な無学に近い片田舎の百姓達は、難しい話が分からないだけに頑固で変人のご住職の有り難い話として拝聴したが、反社会的発言として御上に訴え出る事はしなかった。

 権力や権威に弱い村人は、突然、徴兵の赤紙が来たら嫌々ながらも、御上の命令として軍隊に入隊し、殺すか殺されるかの戦場に立って殺し合った。

 出征兵士を出した家族は、戦争の不条理を感じながらも、若者が生きて無事に帰ってくれる事を祈った。 

 軍隊に入隊するのが嫌な者は、自分で自分の指を切断して身障者になって徴兵免除を得るか、その勇気もない者は家族を捨て家を飛び出して行方をくらました。

 軍部は、不足した兵員を補う為に別の誰かを軍隊に放り込んで戦場に送り出した。

 竹中師の反戦的発言は続いた。

 10月10日の前住職年忌法要。「自分は侵略の様に考える。徒に彼我の命を奪い莫大な予算を費い人馬の命を奪う事は大乗的な立場から見ても宜しくない。戦争は最大の罪悪だ。……もう此処らで戦争は止めたがよかろう」

 竹中師の発言を聞き付けた僧侶達は、10月21日に行われた別の村の法要で発言の撤回を求めた。

 竹中師は信念を曲げず、「戦争は罪悪である」発言撤回要求を撥ね付けた。

 「言論は自由だから憲兵や特高課から来ようが何ともない、自分の言った事については少しも恐れはせぬ」(裁判資料)

 僧侶2人は、役場に竹中師を密告した。

 地元警察は、10月26日に竹中師を逮捕し、陸軍刑法第99条(造言飛語罪)で起訴した。

 名古屋控訴院(高裁)は、翌38年4月27日に、禁錮4ヶ月、執行猶予3年の刑を言い渡した。

 これが、軍国日本の反戦平和言論封止と宗教弾圧であった。

 教団本部は、戦争協力という教団方針に従い、38年11月に「不殺生」の教えを説いていた竹中師に対し布教使の資格を剥奪する等の処分を下した。

 竹中師は、家族が45年8月15日まで村人から「非国民」としてイジメられても、頑固に「戦争は罪悪である」という信仰に基ずく信念を修正したり撤回しなかった。

 世界到る所、何れの国に於いても、政治権力に迎合して戦争を美化して、戦争を正当化する宗教家は尽きる事はない。

 軍国日本でも、ナチス・ドイツでも、アメリカ、イギリス、フランスでも、そうした宗教家が存在する。

 戦争協力の宗教家が存在しなかったのは、宗教を大弾圧し宗教家を大虐殺した中国やソ連などの共産主義国のみである。

 東京大空襲などの無差別絨毯爆撃にせよ、広島・長崎への原爆投下にせよ、アメリカ軍の従軍神父・牧師は出撃する兵士に神のご加護を祈った。

 歴史的事実として、宗教と戦争は切り離せない関係にある。

 特に。中国の歴史に於いて、絶対神の普遍宗教は儒教の中華帝国を滅ぼす「邪悪な革命思想」であった。

 竹中師の処分が取り消され名誉が回復されたのは、2007年9月であった。

 07年10月19日 本山宗務総長「竹中師の志願に耳を傾ける事なく、非戦を唱え教えに生きんとした僧侶に対し、処分を下した事自体が、宗派が犯した大きな過ち」

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 9月16日 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン誌「支那軍が、上海で戦闘を無理強いした事に疑う余地はない」

 上海に居た中立的報道に徹していた欧米の特派員の多くは、中国側の発表は嘘で、戦争を起こそうとしていたのは日本軍ではなく中国軍と知っていたし、そうした記事を発信していたが、世界には伝えられなかった。

 9月19日(〜25日) 日本海軍機は、南京を連日空爆した。

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 9月21日 国際連盟は、中国側の提訴を受け入れて日中紛争諮問委員会を開いた。

 反日的国際世論は、中国を支持して軍国日本を非難した。

 9月23日 飯沼守上海派遣軍総参謀長日誌「地上にはドイツ軍人指導有り、乍浦より蘇州に至る防衛線はドイツ教官の指導による」

 9月24日 華北方面軍は、保定城を占領した。日本軍戦死傷者は、約5,400人。

 9月25日 八路軍は、平型関で日本軍を撃退した。

 9月27日 石原完爾少将は、責任を取って辞職した。

 9月28日 連盟総会は、日本軍による中国各都市への空爆は戦時国際法に違反する暴挙であると決議した。

 そして。日本の攻撃的自衛権を否定し、日本非難の決議を全会一致で可決した。

 イギリス、フランス、ファシスト・イタリア、ナチス・ドイツなどは、抗日中国軍に大量の武器弾薬を湯水の如く送り続けた。

 アメリカは、日本に対して、くず鉄などの戦争継続に必要な戦略物資の輸出を制限もしくは禁止した。

 アメリカの反ファシスト市民団体は、全米で中国を支援する反日運動を開始した。

 軍国日本は、国際連盟や欧米諸国や国際資本の反発を恐れて、中国に対して宣戦布告をしなかった。

 国際正義と国際平和の為に、天皇制ファシスト国家日本は、凶悪で狂暴な道徳なき犯罪国家であらねばならなかった。

 タイ華僑は、米などの食糧の不買運動を行うと共に、日本船の荷役を拒否し、船積みするのを実力で妨害し、日本へ船積みする商品を集積している倉庫を襲撃して放火した。

 中国政府から派遣された工作員の指導を受けて抗日監察隊を組織し、日本製品を扱っている華僑へのテロを行い、タイで商談を行っている日本商社駐在員への暴行事件を頻発させた。

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 9月末 第3師団の戦死傷者は、4,669名で内戦死者は1,080人であった。

 第11師団の戦死傷者は、5,549人で内戦死者は3,980人であった。

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 9月下旬 ドイツ軍とイギリス軍の情報機関は、中国を日本軍の侵略から守る為の協定案を作成した。

 ドイツ軍は、陸軍力を強化する為にイギリスの資本と技術の支援を得ようとしていた。

 イギリスは、ドイツ軍が海軍力を付けて海洋に進出してくる事に警戒し、むしろドイツ軍を抗日戦に参加する事を期待した。

 ケントは、イギリスとの協定案をまとめてベルリンに送った。

 1,ドイツは、海軍力の増強を先送りし、陸軍の増強に持てる力を集中する。

 イギリスは、ドイツの陸軍兵器研究を支援する。

 2,ドイツは、中国陸軍を引き続き支援する。

 イギリスは、中国海軍を支援する。

 3,両国は共同して、日本軍が満州を除く中国本土から撤退させ、日本が満州と朝鮮の優先権を持つという条件で中国と日本の紛争を調停する。

 4,日本と中国が共同でソ連の南下を食い止める条件を引き受けるなら、協力する。

 ヒトラーは、北欧系アングロ・サクソン族のイギリスを敵に回さない為に協定案に乗り気で、親中反日として、ソ連に対抗し中国を救う為にはイギリスを引き込んだ方が最善であるとして同意した。

 イギリス宥和政策の一環として、イギリスとの間で、軍艦保有量をイギリス海軍の3分1に留めるという海軍協定を無心でいた。

 イギリスは、その見返りとしてドイツ陸軍の再建を黙認していた。

 だが。個人的にイギリス嫌いのヨアヒム・リッベントロップ外相は、イギリスとの共同歩調に猛反対し、ヤンケの協定案に猛反対した。

 リッベントロップ外相は、むしろ軍国日本と関係を強めるべきだと考えていた。











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2017-09-21

♣:99─1─日米の戦争の傷跡における相互理解・許し・和解。戦後75年。「真珠湾攻撃」の地で原爆展検討。 〜No.568No.569No.570    ⓰   ♼  

旧題名、「ホロコーストに関して、天皇とA級戦犯に幇助罪が成立するのか?」第3代目

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 日本は、アメリカやイギリスなどと和解できるが、中国共産党政府や韓国・北朝鮮そそしてロシアとは和解できない。

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 2017年9月21日17:04 産経WEST「原爆資料館、真珠湾で原爆展を検討 戦後75年、日米相互理解へ手助け

 米ハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館

 広島市の原爆資料館は21日、日米開戦の舞台となったハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館で、戦後75年に合わせ、平成32年度に原爆展を開催する方向で検討していると発表した。米本土では過去に開かれたことがあるが、実現すれば同記念館では初めてとなる。

 米国ではいまだ原爆投下の正当性を認める考えが根強く、退役軍人にとって「聖地」とも言える同記念館での開催は、日米の相互理解を深める手助けとなりそうだ。昨年12月には、オバマ前米大統領と共に安倍晋三首相が訪問した。

 資料館によると、志賀賢治館長が今月中旬にアリゾナ記念館を訪れ、原爆で亡くなった人の遺品の展示や被爆者による証言の開催を持ち掛けた。同記念館からは前向きな回答があり、今後、開催の時期や展示方法を協議する。

 アリゾナ記念館は、旧日本軍による真珠湾攻撃で沈んだ米戦艦「アリゾナ」の上に建てられた。13年から、広島で被爆し12歳で亡くなった佐々木禎子さんが闘病中に作った折り鶴も展示されている。」

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 9月21日20:17 産経WEST「「真珠湾攻撃」の地で原爆展検討 戦後75年、広島の原爆資料館 

 米ハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館

 広島市の原爆資料館は21日、日米開戦の舞台となった米ハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館で、戦後75年となる平成32年にあわせ、初の原爆展開催を検討していると発表した。米国では依然、原爆投下の正当性を主張する意見も根強い。退役軍人らの「聖地」ともいえる記念館で開催が実現すれば、日米の和解を一層深めると期待される。

 原爆資料館の志賀賢治館長が今月上中旬、平和をテーマとする米国各地の博物館などを訪れた際、原爆展開催を打診。アリゾナ記念館では学芸担当チーフらと面会し、「歴史的事実と向き合う必要性」との認識で一致したとしている。

 原爆資料館によると、原爆展では、被爆者の遺品を含む被爆資料約20点と、原爆投下後の広島の惨禍を伝える写真ポスターなど約30点の展示を想定。具体的な開催期間など詳細については今後、協議していく。

 アリゾナ記念館は、旧日本軍の真珠湾攻撃で沈んだ米戦艦アリゾナの真上に建てられており、昨年12月には安倍晋三首相がオバマ前米大統領とともに訪れた。

 志賀館長は「安倍首相とオバマ氏のアリゾナ記念館訪問で相互の理解が一段と深まったと思う。原爆展の開催でその流れが加速されれば」と話している。

 原爆資料館はアリゾナ記念館以外にも31、32の両年、米国が第二次世界大戦時に進めた原爆設計・製造計画「マンハッタン計画」などを展示テーマとするロスアラモス歴史博物館(ニューメキシコ州)を含む米国内3施設で原爆展を検討している。」




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2017-09-20

♬:27─5─ソ連の極秘命令を受けた中国共産党と日本共産党。第二次上海事変。中ソ不可侵条約調印。日本軍部の軍医部。1937年8月〜No.124〜No.125@           

日中戦争−戦争を望んだ中国 望まなかった日本

日中戦争−戦争を望んだ中国 望まなかった日本

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗

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 ソ連と中国共産党は、ファシスト中国軍と日本軍を戦争させる為に、ファシスト中国軍内の工作員将軍を利用して日本海軍陸戦隊に先制攻撃を仕掛けた。

 軍国日本は、対ソ戦・対共産主義の為に中国との戦争を望まず、満州から中国全土への戦線拡大を避ける努力をして居た。

 全ては、中国共産党の陰謀であった。 

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 ドイツ人は、教養無き野蛮な日本人を文明人にする為に、近代知識、最新科学、最先端技術などを授けて導いたという思いがあった。

 第一次世界大戦で、日本がドイツ帝国を攻撃した事を恩知らずとして憎んでいた。

 ドイツ軍軍人は、日本軍に敵意を持ち、復讐心に燃えていた。

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 中国人民は、日本軍の侵略から祖国を守る為に勇敢に戦った。

 国際社会は、軍国日本の帝国主義的侵略戦争を犯罪行為であるとして厳しく非難した。

 日本の軍国主義は、ヒトラーのナチズムやイタリアのファシズムと同意語とされた。

 昭和天皇は、ヒトラーやムッソリーニに同様に、血に飢えた戦争犯罪者とされた。

 国際世論は、戦争犯罪者・昭和天皇の処刑を望んだ。

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 上海租界の外国の駐屯部隊、アメリカ軍、2,800人。イギリス軍、2,600人、フランス軍2,000人、イタリア軍800人、その他。

 日本海軍は、上海に取り残された日本人居留民を保護し無事に帰国させるべく第三艦隊を派遣した。

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 日本軍の侵略する先の、日章旗と旭日旗が翻っている下に保護すべき日本人居留民がいた。

 日本人居留民の命は、日本軍の侵略が成功するかどうかにかかっていた。

 日本陸軍は、通州事件の様な虐殺事件を恐れて、山東半島・青島の日本人居留民を引き上げを開始し、内陸の北京などにいる日本人居留民を安全な天津租界に移動させ始めた。

 残留を希望する日本人居留民の安全を図る為に、防衛拠点作りを急いだ。

 中国共産党は、日本軍の行動を侵略戦争の始まりと喧伝し、各地の学生を動員して抗日暴動を盛り上げた。

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 ソ連は、ファシスト・国民党に抗日戦を支援する為の大規模な軍事支援を約束した。

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 日本陸軍は、戦闘能力の為に戦傷病者治療の充実の一環として、看護兵を衛生兵に、磨工兵(医療機器の整備兵)・補助看護兵を補助衛生兵とそれぞれ名称を変更した。

 衛生兵は、前線の隊付衛生兵と後方の病院付衛生兵に区分されていた。

 病院付衛生兵は、徴兵検査の時点であらかじめ決められ、検査に合格すると陸軍病院の教育隊に入隊して基礎医学と医療器具の教育を受けた。

 兵役検査では、適性や入隊前の職業などを参考にしてどの兵科に配属するかを割り振りしていた。

 隊付衛生兵は、各兵科の現役兵から命令で補充され、野戦における応急処置などの医療・衛生教育を受けた。

 医学・衛生などの専門知識や応急処置の技術を習得できない者は、戦闘要員として戦場に送られた。

 後方任務に就く者には、高度な専門的知識を学ぶだけの学力が求められた。

 部隊を巡って、兵士一人一人の観察し、何時いかなる時でも戦闘が始まっても戦えるように日頃から健康状態に気を遣った。

 中国大陸は劣悪な衛生状態の為に、赤痢菌や蛔虫やインフルエンザなどの疫病知識が欠かせなかった。

 従軍看護婦がいなければ、傷病兵が使用した衣服や毛布を沸騰消毒したり洗濯、動けない傷病兵の食事や下の世話もした。

 戦闘が始まるや、部隊の後方で仮包帯所を開設して負傷兵を収容して手当を行った。

 収容が不可能なほどの激戦では、戦闘救護班を編成して弾丸飛び交う中を、呼ばれた所に駆けつけて負傷兵の応急処置を施した。

 兵士にとって衛生兵は「地獄に仏」の様な存在で、日頃から「衛生兵殿」として敬意を払っていた。

 負傷兵を野戦病院に運ぶのは、担架中隊や車輌中隊の役目であった。

 戦闘が激化して新たに部隊編成されると衛生兵不足になった為に、階級が上がるのが他の兵科に比べて早かった。

 日本軍は、日本的「家」思想から、徴兵した者で、家の跡取り・長男は安全な本部要員・補給部隊・医療班などの後方任務に回し、次男や三男を戦闘要員として最も危険な最前線に送った。

 その意味で、日本軍内には差別があった。

 陸軍軍医部は、戦闘領域を北は千島列島・樺太・満州から南は東南アジア全域と広範囲に想定し、極寒の凍傷から熱帯のマラリア・デング熱にいたる幅広い医学知識を必要とした。

 海軍軍医部は、水上艦艇の船舶医学以外に潜水艦の潜水医学、航空機の航空医学、派遣された陸戦隊の陸上医学など、他の医療機関の支援・協力をあてにできないという閉鎖空間での高度な専門知識が要求されていた。

 他国の軍隊で、これほどの過酷で激務を強要された軍医部はない。

 日本軍部は、限られた少数兵力の為に、徴兵した兵士を一銭五厘の消耗品とは考えず、戦闘継続の為に防疫と健兵対策に力を入れていた。 

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 日本陸軍は、事変不拡大方針を堅持し中国との戦争を回避する為に、上海に避難してきた日本人居留民約3万人を本国に引き揚げさせるように恫喝した。

 石原莞爾「上海の在留邦人が危険なら、在留邦人は全員引揚げたらよいっ!損害は1億円でも、2億円でも、補填してやればよいっ!戦争するより安くつくっ!」

 日本外務省は、日本人居留民の引き揚げを実施しなかった。

 日本海軍も、引き揚げには賛同しなかった。 

 日中戦争拡大の責任は、陸軍ではなく、責任回避をした外務省と海軍にあった。

 国家の責任として、海外に住む同胞を現地で保護せず強制的に帰国させ、強制帰国を拒否する同胞を棄民として見捨てていれば、戦争にはならなかった。

 国家が国民を武力で守ろうとした事が、戦争の原因であった。

 国家に戦争を起こさない唯一の方法は、国民が国家を頼らずあてにせず依存せず、自己責任と自己判断で行動し、協力者や仲間を持たず自分一人で自分と家族を数千数万人の敵から戦って守り切る事である。

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 8月 日本政府は、現地保護ではなく全員帰国を決定し、青島の日本人居留民約1万7,000人に対して、中国軍と反日派中国人による被害から保護する為に本国への引き上げを命じた。

 青島市長は、日本資産約4億円の安全保管を公約した。

 ドイツのクルト・ヤンケは、ドイツの工業生産に必要なタングステンなどの稀少金属を中国から安定的に輸入するには、日本から中国を守る必要がある為に、ドイツ軍幹部数人ともにイギリス軍情報部幹部と極秘に協議した。

 ファシスト中国は、世界トップクラスのチェコ製機関銃を正式採用した。

 日本軍は、チェコ機銃に苦しめられた。

 第二次上海事変。上海の日本海軍陸戦隊約2,200人は軽装備で、ナチス・ドイツの支援を受けた精鋭の中国中央軍70万人以上と、非戦闘員に変装した中国共産党軍ゲリラ4万人以上の攻撃から、武器を持たない無防備な日本人居留民3万人以上を守っていた。

 上海に停泊している第三艦隊(旗艦・出雲)が、中国側への抑止力となっていた。

 軍艦・出雲は、日本人居留民にとって守護神であったが、中国人にとっては悪魔であった。

 中国軍は、国際法を無視して陣地に第三国の国旗を立てて外国権益を巻き込み、一般人を装って市内で放火や略奪や殺人行為を行った。

 揚子江流域の諸都市には、中国人を友人と信じ込んだ3万人以上の日本人居留民が取り残されていた。

 揚子江沿岸にいた犯罪者集団に近い旧軍閥の中国軍50万人以上は、150万人以上の戦争難民を上海租界に追い込みながら、上海に迫った。

 戦時国際法を無視して、一般人に変装した数万人の中国兵を上海に送り込んだ。

 中国共産党は、日本を戦争に追い込む為に、中国人を暴徒に仕立てて日本軍の後方で震え上がっている無防備な日本人居留民を襲撃した。

 反日派朝鮮人は、租界内のキリスト教会を拠点として抗日派中国人に協力して、テロ活動を行っていた。反日派朝鮮人テロリストのほぼ全員が、洗礼を受けた、敬虔なキリスト教徒であった。

 軍国日本は、四面楚歌の中にいて味方はなく、一人で孤軍奮闘していた。

 ソ連は、日本軍主力を満州から遠ざける為に、中国軍内の同調者に命じて日本軍に先制攻撃させた。

 ソ連軍は、中国共産党軍と抗日中国軍に国際義勇軍と武器弾薬を提供していた

 共産主義者は、日本軍以上に謀略戦に長けていた。

 蒋介石は、面子を守る為に、ドイツ軍指導による重装備を施した最精鋭の中央軍主力数十万人を上海戦に投入した。

 日本軍部は、不拡大を望む政府の優柔不断から、3万人を、さらに戦況不利となって20万人を増派した。当時の日本軍の総兵力は約50万人であり、国内には僅かな予備兵力しか存在しなかった。

 国内の日本人共産主義者は、反天皇活動を始めた。

 朝鮮の各キリスト教会も、反戦平和運動を密かに始め、信者に信仰を守る為に靖国神社への参拝を禁止した。

 反日派朝鮮人テロリストは、キリスト教会を利用していた。

 日本は、バチカンへの遠慮から、キリスト教会の反天皇的活動を取り締まる事には慎重であった。

 一部の仏教徒も、中国人を殺す戦争に反対した。

 アメリカは、中立国であった。

 ルーズベルトは、日本軍の攻撃を計画的侵略と確信し、中立法から中国を除外すると宣言した。

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 バチカンは、共産主義勢力に対抗する為に、カトリック信者の靖国神社参拝を許可していた。

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 8月早々。蒋介石は最高作戦会議を開き、12日に揚子江を封鎖して日本の軍艦と商船を拿捕し武装解除する事を決め、同時に空軍に対して上海周辺の飛行場に展開して出撃準備するように命じた。

 何が何でも日本を戦争に追い込む為に、挑発するように指示を与え、場合によっては日本人に危害を加える事も容認した。

 中国軍は、日本軍の侵略に備えて準備に取り掛かっていた。

 上海市内や共同租界内の日本人居住区に生活していた中国人は、保安隊や憲兵隊が対日戦の為に土嚢を積み始めたのを見て、アメリカ人やイギリス人の住む共同租界に逃げ出した。

 上海の日本人居留民団(約3万人)は、戦闘の危険がある為に、婦女子を日本か共同租界に避難させる事を決め、揚子江上流から避難してくる日本人居留民をも上海に上陸させず日本に引き揚げさせる事とした。

 上海には、日本人租界は存在しない。

 南京や漢口などの上流から日本人居留民難民(3万人以上)を乗せた船舶が上海に入港したが、日本に向かう事ができる大型船は日本に向かい、遠洋航行ができない小型船は日本人居留民避難民を上陸させた。

 中国奥地で、日本人居留民が如何なる危険な状態にあるか想像も付かなかった。

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 日本政府と軍部は、国家の責任として、戦争をしてでも日本人居留民を助けるべきか、戦争を避ける為に日本人居留民を見捨てるか。

 二者択一。それ以外の選択肢は、なかった。

 話し合いによる問題解決は、不可能であった。

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 軍国日本の中国侵略は、時間の問題であった。

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 ドイツ人クルト・ケントは、数人のドイツ軍幹部と共にイギリス軍諜報部大佐と極秘に意見交換をした。

 ケントは、タングステンなどのレア・メタルを手に入れる為にドイツ軍事顧問団を中国に派遣していたが、思いの外に日本軍の猛攻で中国軍が苦戦を強いられる恐れがあるとして、早期に日本との休戦を仲介する必要を感じ、日本への外圧を強める為にイギリスと手を組む事にした。

 イギリスは、日本軍が上海や広東に南下してくる事を警戒していた。

 ドイツ軍は、イギリスを日中戦争に巻き込もうとしていた。

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 豊田喜一郎は、クルマ作りへの憧れから、父・佐吉の自動織機の特許権を売ってトヨタ自動車工業を設立して、自動車開発に情熱を傾けた。

 「資源のないこの国が生き残るには、技術しかない。自分達の車が、日本の将来を支えていく」

 トヨタは、「産業報国」思想から独自技術による物作りに拘った。

 西洋礼賛主義者は、日本の稚拙な技術は西洋の高度な技術には絶対に勝てないとの悲観論から、トヨタの無謀な挑戦を馬鹿にして嘲笑った。

 航空産業に於いても同様に、日本の生産技術力と開発能力を無能に近いほどに否定していた。

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 松井石根軍司令官は、戦時国際法違反を行うと昭和天皇の名誉と日本の体面を毀損し国益に悪影響が及ぶとして、元外交官で法律博士の斉藤良衛を帯同し事あるごとに協議していた。

 だが、生きるか死ぬかの戦場では恐怖心や異常な昂奮状態から暴走するに日本兵士が少なからずいた事は事実であった。

 殺されるかも知れないという恐怖心と異常昂奮から、言葉が分からない中国人を、女子供に関係なく敵と認識して殺した事が戦争犯罪とされた。

 危機に際しては大声を出さず騒がず一目散に逃げ出す日本人にとって、自暴自棄的に半狂乱となって叫き散し暴れながら走り回る中国人が理解できないどころか、何時襲ってくるか分からない暴徒にすぎなかった。

 日本人は濡れた薪の如く暴徒化しないが、中国人は瞬間湯沸かし器的に暴徒化しやすかった。

 日本軍兵士は、中国人の冷静さを失った暴動的行動に命の危険を感じ、その恐怖心が一般人殺害に暴走した。

 その戦場における異常心理は、戦争犯罪とされた。

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 陸戦条規(1907年)は、占領目標・攻撃対象とする都市及び地域に敵地上部隊が存在し抵抗が予想されている時、一定の目標を定めた無差別砲撃を適法と認めた。

 だが、敵地上部隊が存在しない無防備都市及び地域への攻撃及び砲撃は、人道上の面から禁止されていた。

 海軍砲撃条約(1907年)でも、上陸地点における無防備地帯や軍事施設のある敵都市への艦砲射撃を認め、民間施設と一般市民の被害はやむを得ない事と認めていた。

戦闘が無人の荒野ではなく人が住む地域で行われる以上、非軍事的民間施設が攻撃され、罪のない一般市民が戦闘に巻き込まれて犠牲になる事はやむを得ず、戦争において「付随的損害(コラテラル・ダメージ)」は避けられないとされていた。

 空戦法規(1923年 草案)は、陸戦条規及び海軍砲撃条約同様に、軍事目標主義で、特定の軍事目標に対する空爆でその周囲での民間施設の破戒と一般市民の犠牲はやむを得ないと認めていた。

 敵の攻撃から軍事施設を守る為に一般市民を人の盾として利用する事は認めず、空爆されて死傷者が多数出ても戦争犯罪に問われないとした。

 敵陸上部隊のいない無防備都市への空爆や軍事目標が識別できない為に都市全体を破壊する空爆等は、人道上禁止された。

 もし。敵が戦時国際法を遵守せず違法行為を行う時、その行為を止める目的で反撃する「戦時復仇」を正当防衛として認めていた。

 報復として、無差別爆撃をされたら同等の被害がでる無差別爆撃が認められていた。

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 軍国日本は、ナチス・ドイツ、アメリカ、イギリスなど中国寄りの第三国の厳しい監視下にあり、戦時国際法に違反すれば経済制裁の口実にされる危険性があった為に慎重に行動していた。

 日本軍は、攻撃する諸都市に反日的外国人ジャーナリストや親中国的外国人宣教師が多数の入り込んでいた為に、彼らを傷付ければ反日国際世論を煽る恐れがある為に、中国軍、軍事施設、飛行場などを細心の注意を払いながら精密に攻撃していた。

 外国人特派員達は、日本軍から攻撃されない事を知っていただけに、自由に戦場を走り回って日本に不利になる情報を集めていた。

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 8月1日 重慶の日本人居留民は、中国人による反日暴動が激しくなり、命の危険を感じた為に漢口への引き上げを決めた。

 揚子江流域の各都市の日本人居留民も、命の危険から自主的に引き上げを開始した。

 8月5日 蒋介石は、日本との戦争が近い為に、南京市の官吏に家族を避難させる様に通達したが、市民は放置した。

 正統派儒教は、一般市民を教養ある人間とは認めてはいなかった。

 朝日新聞(8月7日付)「南京特電5日発 全面的開戦近づく。官吏の家族は南京から避難するように」

 華北の中国軍は、約1万人の日本人居留民が住んでいる天津日本租界を砲撃した。

 天津の日本軍守備隊は、攻撃許可がない為に砲撃に絶えた。

 中国軍は、戦争を勃発させる目的で、威嚇砲撃ではなく挑発攻撃を行っていた。

 日本政府は、中国との全面戦争を避ける為の話し合いによる平和的な和平交渉を模索し、自衛行為であっても武器の使用を禁止していた。

 軍部の強硬派は、対中作戦計画に従って自衛行為として増派準備を始めた。

 戦後。この行為が日本の侵略に当たるとして告発された。

 栄維木」盧溝橋のずっと以前から日本が対中国作戦計画を練っていて、支那事変を引き起こす戦争準備をしていた」

 国際世論は、盧溝橋事件から始まった日中戦争は大陸侵略を狙った軍国日本の自作自演の陰謀と認めた。

 軍国日本の味方は、何処にもいない。

 8月6日 漢口租界を守っていた海軍陸戦隊漢口分遺隊300人は、中国軍の攻撃に備えて土嚢を積んで防衛陣を布いた。

 重慶各地から避難してきた日本人居留民は、漢口に入らず上海に向かい、引き上げを希望する日本人居留民の避難は完了した。

 8月7日 漢口租界の日本人居留民も、上海に向かって避難した。防衛に当たっていた陸戦隊も翌8日に撤退した。

 南京でも。総領事館や日本軍は、第一回南京事件の苦い経験から、日本人居留民を中国人暴徒から守る為に引き上げを開始した。

 各地の中国人暴徒は、日本人が去った商店や住居を襲って、全ての家具を奪い合い、流血事件を起こして無法化した。

 中国警察当局は、暴徒を鎮圧して治安を回復する行動を取らない所か、日本側との約束を反故にして、むしろ暴動を煽り暴徒に混じって強奪を行った。

 中国は、儒教的人治社会として、近代的法律は存在しない。

 8月9日 上海防衛隊司令官の張治中は、逃げだし始めた日本側を弱気と踏んで、蒋介石に対して日本軍への即時攻撃許可を求めた。

 蒋介石は、まだ開戦の時ではないとして、攻撃を許可しなかった。

 中国軍は、日本軍への攻撃命令をイライラしながら待っていた。

 スターリンは、日本軍を華北から華中に移動させる為に、隠れ共産主義者である張治中に日本軍を攻撃する様に示唆した。

 共産主義者の謀略は、後に証拠を残さない様に巧妙に行われた。

 中国軍の保安隊や憲兵隊は、市内各所に土嚢を積んで戦闘準備を隠す事なく進め、民間服に着替えた便衣隊を日本人居住区に送り込んだ。

 日本の憲兵隊は、避難する中国人は素通りさせたが、入ってこようとする中国人に警戒した。

 夕方 日本船籍の船は、日本人居留民を避難させるべく乗船させて出港した。

 チチハル作戦(〜10月17日)。関東軍参謀長東條英機中将は、兵団を率いて内蒙古の張家口に進撃して国民党軍を撃破したが、補給が上手く行かず餓死者を出した。

 大同に入城するや、副官に世界的遺産である雲崗石窟の保護を命じた。

 日本軍は、各地にある文化遺産を守りながら戦っていた。

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 大山事件。

 日本は、戦争を避けるべく、和平交渉を上海で行う為に準備を進めていた。

 海軍陸戦隊の大山勇夫海軍中尉は、斉藤一等水兵が運転する車で市内を視察中に惨殺された。

 大山勇夫中尉は、中国側を刺激しないために拳銃を所持しなかった。

 斉藤要蔵一等水兵も、拳銃をホルスターに仕舞って取り出す暇がなかった。

 中国軍側は、「大山中尉が支那兵の制止を振り切り、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」と発表した。

 大山中尉殺害事件は、中国共産党スパイである張治中が、仕組んだ謀略であった。

 日本政府は、上海市長や六ヵ国からなる停戦協定共同委員会に抗議し中国側の謝罪を求めたが、停戦交渉を優先する為に穏便に処理する事を伝えた。

 日本海軍は、日本人居留民保護目的で佐世保から増派したが、中国側との不測の事態を避ける為に兵舎から出る事を禁止した。

 中国側は、対日戦を決定していた為に、謝罪をしないどころか挑発行動をエスカレートさせた。

 日本人居住区には、依然として数千人の日本人居留民が残っていた。

 海軍陸戦隊は、通州虐殺事件の再演を恐れて一人でも多く逃がすべく脱出路を探した。

 中国軍は、民間人を抱えて防戦する日本軍は殲滅させやすいとして、日本人居留民の避難を妨害するべく通行人の検問を強化した。

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 8月10日 米内光政海相は、上海守備を担当するメンツから、現地の海軍陸戦隊だけでは日本人居留民の生命と財産を守り切れないとして、救援の派兵を主張した。

 日本海軍は、体面として、撤退ではなく積極攻勢を主張した。

 中国侵略を主張したのは、海軍であった。

 参謀本部作戦部長石原完爾、多田駿、杉山元ら不拡大派は、陸軍の総意として、出兵して中国軍と本格的な戦争状態に突入する事は、伝統的対ソ戦略から猛反対した。

 対中強硬派の武藤章、田中新一らは、中国に対する一撃を加えるべきであるとして派兵に賛成した。

 陸軍は、対ソ防衛を優先するか中国侵略を優先するかで分裂していた。

 石原は、蒋介石の挑発に乗って日本軍を投入すれば、戦線が中国全土に拡大されて収拾がつかなくなる。むしろ、中国の日本人居留民全員を本国へ引き揚げ、中国で失った財産を国で補填した方が、戦争するよりも安上がりである訴えた。

 陸軍内部の強硬派は、中国人暴徒による日本人居留民への度重なる残虐行為に対する懲罰を兼ねて、抗日中国に一撃を加えるべきであるとして派兵に賛成した。

 財政当局は、軍部主戦派の説明を信用して、引き揚げ者の経済的損失を補填するよりも戦争に勝利した方が実入りが良いとして認めた。

 つまり。不況下で苦しんでいる国民が、戦争を恐れて逃げ帰った卑怯者である引き揚げ者の経済的被害を税金で支払う事に、果たして同意するかが不安であったのである。

 真偽は定かではないが。ロシアの日本大使館付き武官を勤めた事のある米内光政は、共産主義に関係なく、日露友好を望んでいたといわれている。

 海軍は居留民保護の為に迅速に行動したが、陸軍は戦火の拡大を恐れて行動が鈍かった。

 国民世論も、抗日中国軍に包囲され、いつ攻めら、中国人によって虐殺されるかわからなない無防備な同胞の救助を求めた。

 スターリンは、満州における日本軍の増強を阻止する為に、日本国内の協力者に上海派兵を強行するように示唆した。

 8月11日 海軍軍令部は、上海の日本人居留民を守る為に、宣戦布告に等しい強硬な要求をファシスト中国側に突き付けた。

 上海の海軍陸戦隊は、攻撃してきたら反撃するとして、挑発するようにあからさまな戦闘準備を始めた。

 海軍軍令部長の伏見宮博恭は、強硬論者として、戦闘止むなしとして上海への増派を命じた。

 日本海軍は、上海問題で非は中国側にあって日本側にはないとして、第1回南京事件や漢口暴行強姦事件等の苦い経験から戦争を避ける為に惨めに逃げ帰るきはなかった。

 軍国日本の悲劇は、自分の苦い経験を学んだが、過去の歴史を教訓としなかった。

 上海に、呉と佐世保から増援部隊が到着して、日本人居留民を守る上海陸戦隊は4,000人となった。入港した軍艦数隻も、第三艦隊の指揮下に入った。

 中国軍は、先制攻撃する為に4万人以上を上海陸戦隊の前に展開させ、さらに数万人の増援部隊を停戦協定を無視して上海北駅に送り続けた。

 アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの駐中大使は、上海不戦区域化を提案した。

 8月12日 第三艦隊は、午後5時50分に軍令部に「陸軍派兵を要請する」電報を打ち、午後7時に日本人居住区に止まっている日本人居留民に共同租界へ移るように命じた。

 午後8時40分 軍令部は、「動員が下命されても到着まで二週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大しないように」との返電を送った。

 夜 四相会議は、「上海並びにその北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護する」を主任務として2個師団(約3万人)の急派を決定した。

 消極的な陸軍は、中国人による通州事件の再発を恐れて、積極的な海軍に押し切られた。

 8月13日午前9時 閣議で、上海派兵が決定された。

 陸軍は、戦線拡大を避けるべく、日本人居留民を救出する為に約3万人のみを急派した。

 昭和天皇は、大元帥として派兵を裁可した以上は勝つ事を望んだ。そして漸次出兵ではなく、短期決戦を目的として大兵力を投入すべではないかと、積極的侵攻作戦を示唆する意見を漏らした。この積極策発言が、天皇の戦争責任に当たると認定された。

 昭和皇は、軍部に軟禁されていたわけでもないし脅迫を受けた操り人形でもなく、立憲君主としての責任を果たす為に自分の意思で行動していた。

 すべての戦争は、統帥権を持つ昭和天皇が決断した事である。

 そして、昭和天皇は戦争責任から逃げる事なくすべての責任を引き受ける事を表明した。

 午前10時30分 中国保安隊は日本人居住区への攻撃を開始したが、無勢の上海陸戦隊は応戦を控えた。

 午後4時54分  戦闘は、中国軍の攻撃で始まった。

 中国軍(2,000人以上)は、八字橋から攻撃を開始し、大挙して日本陣地への侵入を図った。

 八字橋守備の上海陸戦隊(約200人)は、通州虐殺の再演を防ぐ為に応戦した。

 別の中国軍(2,000人以上)も、別方向から八字橋への攻撃を開始した。

 午後5時 上海陸戦隊本部は、日本人居留民を保護する為に「全軍戦闘配置につけ」と命令を下した。

 だが。大軍の中国軍に対して、日本軍は劣勢であった。

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 南京上海防衛隊司令官張治中は、日本軍より先に、「日本の軍艦が上海を砲撃し、日本軍が中国人を攻撃している」との記者発表した。

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 日本軍の中国侵略によって、日中戦争が始まった。

 国際社会は、軍国日本の侵略戦争を非難した。

 日本の悲劇の始まりである。

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 中国軍の攻撃で、第二次上海事変が勃発した。

 ナチス・ドイツは、中国からレアーメタルであるタングステンを輸入する見返りとして、抗日軍の軍備拡張に協力し、対日戦に備えて上海周囲に2万以上の近代的トーチか構築に技術供与していた。

 日本海軍上海陸戦隊(約4,000人)は、軽装備のまま、ナチス・ドイツの軍事支援を受けた重装備の中国軍(3万人以上)の攻撃を受けた。

 ドイツの軍需産業は、大量の武器弾薬を抗日中国軍に売却していた。

 東京裁判は、日本軍の侵略で日中戦争が始まったと断定した。

 スターリンの目論見は、成功した。

 ドイツ軍事顧問団は、ヒトラーの許可を得て、蒋介石に対して被害を拡大させない為に日本軍の増派が来る前に撤兵する様に勧告した。蒋介石は、自分の面子を優先して、最精鋭部隊を投入した。

 中国政府外交部は、中国軍は領土と主権を守る為に侵略軍である日本軍を攻撃するが、その責任は日本が負うべきだと表明した。

 中国軍は、日本租界攻略の為にさらなる部隊を集結させた。

 8月14日 蒋介石は、上海の張治中司令に、日本軍が発砲してきた以上は正当防衛として攻撃を命じた。

   ・   ・   ・   

 公式の世界戦史は、日本軍の先生攻撃で戦争が始まり、中国軍は日本軍の侵略に対する防衛戦であったとしている。

 日本軍の侵略は永遠に許される事のない戦争犯罪というのが、国際法による世界常識である。

 国連や国際的司法機関も、アメリカやイギリスやロシアはもちろんドイツやイタリアやスイスまでも、当然の事として「日本=悪」を認めている。

 日本の軍国主義は、完全否定されている。

 日本には、弁明が許されていない。

   ・   ・   ・   

 午前10時頃 クレア・シェンノートが指揮する中国空軍のアメリカ製ノースロップ軽爆撃機21機と戦闘機コルセアは、地上軍と呼応じて、黄浦江に停泊している日本軍艦や上海租界への無差別爆撃を始めた。

 アメリカ陸軍は、ルーズベルトの許可を得て、現役軍人パイロットを退役したと偽って中国軍に参加さ、日本軍を攻撃させた。

 アメリカ軍需産業は、爆撃機や戦闘機など多くの攻撃機を抗日中国軍に売却していた。

 午後4時半には、アメリカ製爆撃機数十機が、租界を無差別爆撃し、第三艦隊旗艦巡洋艦「出雲」とアメリカ極東艦隊旗艦オーガスタに至近弾が落ちた。

 巡洋艦「出雲」は、応射して3機を撃墜し、2機にも被害を与えた。

 上海の繁華街である南京路にあるキャセイ・ホテルとパレス・ホテルと歓楽街の娯楽場「大世界」が、中国軍機の照準ミスから相次ぎ爆撃された。

 欧米の報道機関は、中国に同情的な記事を本国に送り、外国人を含む1,000人以上の死傷者を出した責任は日本側にあると伝えた。

 中国軍側は、日本軍の攻撃に対する自衛行為であると記者発表し、責任を日本側に転嫁して非難した。

 ユダヤ系の報道機関は、中国側の公式発表を取り上げて反日報道をおこなっいた。

 夕方 陸軍は、予想よりも早い戦闘開始に慌てて、第三師団と第十一師団に動員命令を発した。

 盧溝橋事件などで旧軍閥系中国軍と戦った経験から、二個師団を増派すれば中国軍を撃退できると高を括っていた。

 8月15日 日本政府は、「これまで不拡大を方針としてきたが、居留民の生命財産が危殆に陥るに及び、反省を促すため断固たる措置を取らざるを得なくなった」との声明を発表した。

 陸軍は、日本人居留民を救う為に上海派遣軍を編成し、松井石根大将(A級戦犯)を軍司令官に任命した。

 「上海派遣軍司令官は、海軍と協力して上海付近の敵を掃討し、上海ならびにその北方要線を占領し帝国臣民を保護すべし」

 海軍は、軍艦を兵員輸送に使う事には不服であったが、日本人居留民保護の為に軍艦を提供した。

 蒋介石は、陸海軍総司令に就任して、中国に総動員令を下命した。

 夕方 日本人居留民の婦女子1,500人が、陸戦隊に守られながら中国軍の警戒網を逃れ、反日派中国人暴徒の襲撃を避けながら船に乗って日本に向かった。

 中国海軍は、日本海軍に比べて劣勢にあった為に戦闘に参加せず、日本人居留民避難民を乗せた船を攻撃せず見逃した。

 日本人居留民避難民の船は、日本海軍に守られながら21日まで出航し続けた。

   ・   ・   ・   

 8月16日 蒋介石は、日本批判の国際世論を見極めてから、ようやく全軍に総攻撃命令を出した。

 ヒトラーは、対中武器輸出について、ブロンベルク国防相とノイラート外相と協議した。

 「基本的には日本との協力関係を維持するが、この日中戦争では中立を保たなければならない。しかし中国向け輸出は、中国が外国為替ないし原料で支払い、しかもうまくカモフラージュ出来る限り継続する」

 ゲーリング「ドイツは中国からタングステンを買っている、その交換で飛行機を売っている」

 8月17日 中国軍は、日本人居住区の侵入する為に、大軍を以て陸戦隊の防衛陣地に猛攻を繰り返していた。

 陸戦隊は、劣勢で何度も危機に陥りそうになったが、通州事件を避ける為に、玉砕を覚悟して白兵戦で食い止めた。

 居住区に残った日本人居留民の、男子は陸戦隊と協力して戦い、女性は炊き出しをし負傷者の手当をした。

 中国軍の攻撃で、日本人居留民にも多数犠牲者が出た。

 戦前の日本人は、現代の日本人と違って自己犠牲で死を恐れずに戦った。

 兵力の少ない陸戦隊は、反撃せず、ひたすら陣地を守り続けた。

 中国軍は、中立の共同租界に侵入して、陸戦隊の防衛陣地を側面から攻撃した。

 中国人住民は、中国軍の後方で弾薬や食糧の運搬を行っていた。

 フランス租界や共同租界は戦争の影響を受けず、アメリカ人やイギリス人らはビルの上から酒を飲みながら観戦していた。

 諸外国の報道機関は、日本軍と戦う中国人市民を侵略から母国を救おうとする勇敢な英雄と報道した。

 8月18日・19日 軍令部は、陸軍部隊が到着するまで防衛陣を維持させる為に、約2,400人を増援として上海に送った。

 上海陸戦隊の兵力は約6,300人となったが、中国軍比べれば約10分の1で依然として劣勢であった。

 日本軍兵士は、中国軍より劣って武器しかなかったが、降伏はもちろん、撤退も考えず、全滅覚悟で日本人居留民を守る為に多々且つ手板。

 張治中は、日本軍との全面戦争に消極的な蒋介石の命令を無視して、戦闘を拡大する為に攻勢に出る様に全軍に命じた。

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 戦死した日本軍兵士は、靖国神社に軍神として祀られた。

 現代日本では。中国や韓国・北朝鮮そして一部の日本人が、靖国神社を参拝する事は侵略戦争を美化し軍国主義の復活につながるとして猛反対している。

 キリスト教界や一部の仏教界も、靖国神社を否定し、参拝に反対している。

 バチカン以外で、靖国神社参拝を支持している宗教団体は少ない。

 トレヴェニアン「8月12日に中国側は日本総領事館と商社の電話線を切断した。その翌日、13日金曜日に、中国軍第88師団が北停車場に到達して、租界から外に通じる道路を全て遮断した。それは、ごく少数の日本軍と自分達の間の緩衝用にできるだけ多くの一般市民を閉じ込めておくのが狙いであった。

 8月14日にアメリカ製ノースロップ機に乗った中国軍パイロットが上海を盲爆した。高性能爆弾の一弾がパレス・ホテルの屋根を貫いた。別の一弾がカフェ・ホテルの表の路上で爆発した。729名が死に、861名が負傷した。31分後に別の中国機が女性や子供の避難所になっていた大世界娯楽センターを爆撃した。1,012名が死に、1,007名が負傷した。

 ……外国の介入を誘い出すつもりで、中国軍は、日本軍の砲撃による人命や建物の損害に輪をかけてるように、連日空軍による〈誤爆〉を繰り返した。

 さらに、彼等は、道路の遮断を続行して緩衝の目的で数万人の市民を閉じ込めていた……それも自国民を」(冒険小説『シブミ』)

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 8月20日(〜25日) 洛川会議。 陝西省洛川で中国共産党政治局拡大会議が開催され、抗日救国十大綱領が採択された。

 共産党の勢力を拡大させる為に、日中戦争を最大限に利用する事。八路軍と新四軍は、国民党政府から多くの軍費と武器弾薬を獲得するべきである。

 毛沢東は、党と軍の幹部に対して極秘命令を口頭で伝えた。

 「中日の戦いは、我が党の発展にとって格好の機会だ。我が軍の兵力の内、70%は我が党の発展の為に使い、20%は(国民党との)妥協の為に使い、残りの10%だけを抗日戦争の為に使う」

 毛沢東は、中国共産党が勝利する為の戦略は、日本軍と国民党軍を全面戦争で疲弊させ、中国共産党軍は戦闘に参加せず勢力を拡大して「漁夫の利」を得る事であると。

 つまり。中国共産党は、抗日戦争の主役にならず脇役に徹し、第一線で大きな戦いに参加してはならない、と。

 都市部の陣地戦は国民党政府の正規軍に任せ、味方は遊撃部隊として農村などの地方で宣撫活動に専念する。

 各指揮官は、抗日戦の英雄になる為に前線に立ち、同志を激戦地に投入して犠牲にしてはならない。

 中国空軍は、アメリカ陸軍航空部隊義勇軍の協力を得て、日本人の上に無差別爆撃をした。

 8月21日 A級戦犯・松井軍司令官は、戦場での心構えとして、艦上で全軍に敵の殲滅を命じたが、同時に無辜の民には仁慈を尽くす様に訓示した。中国通の松井石根は、中国の伝統的戦法である「三光作戦」を厳禁とすると厳命した。

 中ソ不可侵条約調印。ソ連は、中国への武器供給を本格化させた。

 ソ連は、武器購入代金として2億5,000万ドルを融通し、約300人の軍事顧問団を派遣した。

 ソ連軍正規兵数千人は、国際義勇兵として抗日軍に参加させた。

 その後も、中国の要請に従って増派を続けた。

 スターリンが、蒋介石と中ソ不可侵条約を締結した目的は、日本軍を中国における泥沼の戦い引きずり込む事であった。

 ワシリー・チュイコフ中将は、スターリンの密命を受けて蒋介石の最高軍事顧問として重慶に赴任した。

 スターリン「貴官の任務は、同志チュイコフ、中国での我が陣営の任務は、日本の侵略者の手を固く縛り付ける事だ。日本の侵略者の手を固く縛り付けた場合のみ、ドイツの侵略者が我が国を攻撃した際、我々は二正面戦争を避ける事が出来る」

 ソ連政府は、日本本土空爆の為に航続距離の長い大型爆撃機100機以上の商談を始めた。

 中国在住の諸外国の報道機関は、日本軍の残虐な侵略行為を非難する報道を一斉に流し、祖国を守ろうとして中国軍と中国人民の英雄的行為を称えた。

 スターリンは、ヨーロッパ重視の基本戦略から対日参戦には慎重に断ったが、9月に極東ソ連軍の一部を外モンゴルに入れて日本軍を威嚇した。

 中国軍は、ソ連の軍事介入を誘う為に全兵力の3分の1以上の73個師団を上海攻防戦に投入し、ソ連軍が満州や華北に侵攻して日本軍を撃破して総攻撃を開始する時に備えて新たに50個師団を編成した。

 中国沿岸が日本海軍により封鎖されるや、大量の武器弾薬を新彊省の国境から運び、ソ連兵の義勇軍を航空機と共に抗日中国軍に供給した。

 8月22日 中国軍爆撃機は、共同租界内のシンシアーデパートとウィン・オンデパートを誤爆して被害を与えた。

 爆撃された建物に駆けつけた中国人群衆は、犠牲者を救出する為に集まったのではなく、瓦礫の中に埋もれた商品の山を奪い合う為に群がったのである。

 アメリカとイギリスの現地の軍事調査官が調査した結果、使用された爆弾はイタリア製と判明した。

 中国の宣伝広報局は、日本軍の爆撃であったと発表した。

 外国の新聞は、中国側の厳しい検閲を受けた上で、日本軍の侵略と日本軍兵士の悪逆な犯行と報じた。

 日本海軍機は、連日、台湾・長崎などの海軍航空隊の飛行場から出撃し渡洋爆撃していた。だが、爆撃機の護衛に当たっていた戦闘機は燃料の残量から長くは上海上空に留まれず不利であった。

 日本海軍は、上海派遣軍に共同租界東端にある公大飛行場の確保を求めた。

 山東半島に向かっていた第14師団は、青島の全日本人居留民が日本に帰国した為に、上海に向かった。

 蒋介石は、中国共産党紅軍を国民党軍第八路軍に編入した。

 8月23日午前2時45分 松井石根大将の率いる上海派遣軍(約4万人)は、に上海郊外の呉淞(ウーソン)に上陸した。

 蒋介石「緒戦の一週目、全力で上海の敵軍を消滅する事ができなかった」

 中国軍は、上海の日本居住区から上陸した日本軍への攻撃に主力を振り向けた。

 だが。日本軍が上陸した沿岸は、ドイツ軍事顧問団の指導で難攻不落の防衛陣地が建設されていた。

 日本軍は、旅順要塞攻防戦以上の、地獄の陣地攻防戦に突入した。

 8月25日 日本海軍は、アメリカなどの中立国からの中国軍への武器や軍需品の輸送を遮断する為に中国沿岸を封鎖した。

 アメリカの武器商人は、日本軍の監視網を避けらがら武器弾薬を抗日中国軍に輸送した。

 中国軍の武器弾薬は、イギリス・アメリカ・ドイツ・ソ連・イタリア・スイスなどから補充されていたと言われている。

 日本軍に甚大な被害を与えたのは、ドイツ製兵器であった。

 アメリカやイギリスのユダヤ系国際資本は、戦争ではなく単なる武力紛争である以上、日本軍の封鎖は国際法に違反するとして抗議した。

 8月27日 ニューヨーク・ジャーナル紙上海特派員の香港発電「上海の国際租界及びフランス特権区域に居住する無力な一般市民を、中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐ為に、武力手段または他の抑止策をとる事について、何らかの国際的な合意が必要であるという事は、上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフ達の一致した見解となっている」

 「中国の検閲官は、発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。そして場合によっては、外電のニュースそのものを変えて仕舞いさえもした。その目的は、現地の外国人達があたかも心の中で、この爆弾は恐らく日本軍の飛行機から投下されたものかもしれない、と疑っているかの様に見せかける為だったのである。だが、しかし、これらは明らかに真実ではない」

 8月30日 軍令部第三課福留繁大佐は、参謀本部第三課武藤章大佐に、日本人居住区に猛攻を加えている中国軍を撃退する為に増派を要請した。

 中国軍機は、上海港近くでアメリカ客船を誤爆した。

 ニューヨーク・ジャーナル紙「日本軍は敵の挑発にも関わらず、最大限に抑制した態度をとった」

 蒋介石は、国際連盟に対して、日本の軍事行動は不戦条約と9ヵ国条約に違反していると告発し、適切な制裁を講じるように提訴した。 

 8月31日 上海派遣軍は、参謀本部に、中国軍陣地の抵抗で甚大な被害を受け犠牲者が増えた為に、中国軍の重層な防衛陣を撃破するには最小限五個師団の増援が必要であると要請した。

 第三艦隊も、軍令部に対して、日本人居留民は依然として安全が確保されていないとしてさらなる増派を要請した。

 ニューヨーク・タイムズ紙「中国が一方的に攻撃

 上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである」







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日中戦争は中国の侵略で始まった

日中戦争は中国の侵略で始まった

日中戦争の「不都合な真実」 (PHP文庫)

日中戦争の「不都合な真実」 (PHP文庫)

ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神

ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神

日中戦争の真実 (幻冬舎ルネッサンス新書)

日中戦争の真実 (幻冬舎ルネッサンス新書)

2017-09-19

♬:27─4─中国共産党の抗日反ファシズム戦争勝利70年周年記念式典に出席する、ロシア・韓国両国大統領、国連事務総長、国際機関幹部ら。侵略とは。〜No.122No.123@        

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗

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 天安門には、日本にとって昔からの敵が笑顔で並んでいた。

 日本は、彼ら反日派諸国と援軍がない孤独な自衛戦争をしていた。

   ・   ・   ・   

 ヒトラー、ナチス・ドイツ、ドイツ国防軍、保守派、ドイツ金融資本及び軍需企業は、全て反日親中派であった。

 ファシスト中国(中国国民党)政府は、ヒトラーと軍事的協力関係を結び、ドイツ国防軍から軍事顧問団を受け入れ、ドイツから強力な武器を輸入していた。

 この時、中国はファシストであり、枢軸国の一員であった。

 軍国日本は、ファシスト・枢軸国の敵として、ヒトラーと手を組んだ中国と戦争をしていた。

 ヒトラーは、対ソ戦略から、日本軍に惨敗した中国の不甲斐なさに幻滅し、ファシスト中国を見限って軍国日本と手を結んだ。

 軍国日本は、ナチス・ドイツの中国への軍事支援を遮断する為に日独伊三国同盟を結んだ。

 「敵の味方を自分の味方にする」という戦略であった。

 その証拠に、軍国日本は、ナチス・ドイツのユダヤ人難民の引き渡しや対ソ支援ルートの遮断及びインド洋作戦の完遂等の要求を全て無視した。

 その為、日本軍が保護した上海のユダヤ人難民数万人はホロコーストされずに助かった。

 ロンメルのアフリカ軍団は、日本海軍の裏切りにより、アフリカ戦線でモントゴメリーのイギリス・エジプト連合軍に大敗北して全滅した。

 ソ連に侵攻したドイツ軍はソ連軍の大反撃で敗北し、東部戦線は崩壊した。

 そして、ベルリンはソ連軍に占領され、ヒトラーは自殺し、ナチス・ドイツは崩壊した。

   ・   ・   ・   

 ユダヤ人難民を助けた昭和天皇やA級戦犯の東条英機と松岡洋右らは、ヒトラーを嫌い、ナチス・ドイツを信用していなかった。

 国家戦略として、嫌いな相手とも手を結ぶのが国家の指導者の責務であった。

   ・   ・   ・   

 中国共産党も中国国民党(ファシスト中国)も、国際的ファシスト勢力と一度も戦ってはいない。

   ・   ・   ・   

 ユダヤ系の国際金融資本や国際報道機関は、反天皇反日派で親中派である。

   ・   ・   ・   

 戦争の原因を作ったのは、ロシア共産党のレーニンと共産主義者であり、その手先が中国共産党と日本共産党であった。

   ・   ・   ・   

 2014年12月31日 産経ニュース「「戦勝70年記念の成功を」中露首脳が新年あいさつ電報

 中国国営新華社通信によると、習近平国家主席とロシアのプーチン大統領は31日、新年あいさつの電報を交わした。習氏はプーチン氏に対し、2015年は「特に第2次大戦勝利70周年の記念活動を共同で成功させたい」と表明した。

 プーチン氏は15年も世界や地域の問題で習氏と協力していく考えを示した。記念活動の共同開催には触れなかった。(共同)

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 2015年1月24日 産経ニュース「中国、9月に戦後70年の軍事パレード 外国首脳を初招待

 【北京=矢板明夫】中国の習近平指導部は、今年9月3日前後に行われる反ファシズム戦争勝利70周年の記念式典に合わせ、外国首脳を招待して北京で盛大な軍事パレードを実施する方針を決めた。中国公安省の傅政華次官(北京市公安局長兼務)が明らかにした。

 北京市関係者によると、傅次官は22日夜、北京市人民代表大会(市議会に相当)の関連会議に出席した際、「今年中に北京で行われる反ファシズム戦争勝利70周年の軍事パレードの警備はわれわれにとって最も重要な仕事だ」と語った。その上で「今年の軍事パレードには外国の首脳を初めて招待した」とも語った。

 傅次官は外国首脳の名前を明らかにしていないが、ロシアのプーチン大統領や韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領らが含まれる可能性がある。

 中国では10年に1度、大規模な軍事パレードを行うのが通例で、建国10周年など節目の年の10月1日の国慶節(建国記念日)に実施する。前回は胡錦濤時代の2009年(建国60周年)に行われ、前例踏襲なら次回は19年になる。

 4年も前倒しする背景について共産党関係者は、「習政権は対日戦争勝利70周年の記念日をとても重要視している。同時に、党内の権力闘争が白熱化しており、習近平国家主席は軍事パレードを通じて自身の権威を高めようとする狙いがある」と語った。

 今年の軍事パレードでは、中国人民解放軍の最新兵器が披露される可能性もある。」

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 2月18日 産経ニュース【歴史戦】「中露首脳が戦勝式典で相互訪問 南北の領土問題で「対日」共闘加速? 

 【北京=川越一】中国の習近平国家主席とロシアのプーチン大統領が、戦後70年に合わせて今年、中露両国で開催される記念式典にそれぞれ出席する。ロシア側に続き、中国側も18日までに相互訪問を公の場で表明した。尖閣諸島(沖縄県石垣市)と北方領土をめぐって日本と対する両国が、歴史認識で対日共闘を加速させることが懸念される。

 中国の程国平外務次官は17日、北京市内でロシアのデニソフ駐中国大使と記者会見を開き、今年の中露協力の重点項目などについて説明した。

 戦後70年の今年、ロシアは対ドイツ戦勝記念日の5月9日に式典を開く。ロシアはここ数年、この日に軍事パレードを行っている。中国も9月3日の「抗日戦争勝利記念日」に北京で記念行事を開催し、軍事パレードを行う見通しだ。

 中国の華僑向け通信社、中国新聞社などによると、程氏は式典を「最も重要な祝賀および記念活動」と位置づけ、両首脳が相互に相手国を訪問し、式典に出席することを認めた。

 程氏は「歴史を銘記し、革命に殉じた烈士を追想し、平和を重視し、未来を切り開くことが式典の目的だ」と主張した。また、「一連の活動は特定の国家に焦点を合わせたものではない。現在の日本を対象にしていないし、現在の中日関係は直接関係していない」と述べた。

 しかし、戦後65年に当たる5年前、当時の胡錦濤国家主席とメドベージェフ大統領は「中露は第二次大戦の歴史の歪曲(わいきょく)を断固非難する」との文言を含む共同声明を発表した。

 その後、中国は尖閣諸島や歴史認識をめぐって対日圧力を強め、メドベージェフ氏もソ連・ロシアの指導者として初めて北方領土を訪問した。対日戦で共闘したとの歴史認識を、中国は尖閣諸島、ロシアは北方領土の領有権主張につなげる構図が鮮明になった。

 記者会見で程氏は、「中露は国際社会とともに第二次大戦の歴史の歪曲、否定、改竄(かいざん)を絶対に認めない」と、5年前の共同声明と同じ立場を強調した。

 中露が自分たちの利益のために、再び対日歴史観で手を組む可能性は否定できない。」

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 3月4日 産経ニュース「中国の戦勝70年軍事パレードで抗日戦争当時再現も 中国政協委員、新華社に明かす

 【北京=川越一】中国国営新華社通信によると、中国の国政助言機関、人民政治協商会議(政協)委員で、中国海軍情報化専門家委員会の尹卓主任は4日までに、中国が今年北京で実施する軍事パレードについて、「一部の特殊行進部隊が登場する可能性が高い」と明らかにした。「老兵行進部隊、または旧式の軍服を着用した行進部隊」になるとしており、「抗日戦争」当時の様子が再現される可能性がある。

 中国外務省は2日、「反ファシスト戦争勝利70年の記念行事として、軍事パレードを年内に北京で実施する」と正式に発表した。時期については言及しなかったが、尹氏は「抗日戦争勝利記念日の閲兵は人心を凝集し、歴史の教訓を記憶に留めるという意義がある」と述べ、パレードは9月3日に行われ、抗日戦争に焦点が当てられる可能性があることを示唆した。

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 3月28日 産経ニュース「今年は「反ファシズム戦争と抗日戦勝利から70年」 中国、習近平氏が演説 アジア構想で

 「博鰲アジアフォーラム」年次総会で演説する中国の習近平国家主席=28日、中国海南省(共同)

 中国の習近平国家主席は28日、当地での「ボアオアジアフォーラム」年次総会で基調演説し、中国の主導する国際金融機関、アジアインフラ開発投資銀行(AIIB)を軸としたアジアのインフラ開発構想について、各国・地域の参加を呼びかけた。同時に、今年が「反ファシズム戦争と抗日戦争勝利から70年だ」と述べるなど、中国主導の構想から距離を置く日本を牽制する姿勢も示した。(ボアオ 山本秀也)」

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 4月2日 産経ニュース「7日に中露外相会談 中国の王毅外相が訪露

 ロシア外務省のルカシェビッチ情報局長は2日、中国の王毅外相が6〜8日の日程でロシアを訪問し、7日にラブロフ外相と会談すると発表した。タス通信が伝えた。

 両国で今年実施する第2次大戦の戦勝70年記念式典などでの首脳対話に向けた準備を行う。(共同)」

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 4月7日 産経ニュース「習主席のモスクワ訪問は5月8日「戦勝」式典出席 露外相

 「博鰲アジアフォーラム」年次総会で、アジアインフラ投資銀行の設立について演説する中国の習近平国家主席=3月28日、中国海南省博鰲(共同)

 ロシアのラブロフ外相は7日、モスクワを訪問した中国の王毅外相と会談し、共同記者会見で同国の習近平国家主席が5月8日にモスクワを訪問し、翌9日の対独戦勝記念式典に出席すると明らかにした。

 式典には北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)第1書記ら、20カ国以上の首脳が出席する予定。(モスクワ 黒川信雄)」

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 靖国神社の祭神とは、女子供の日本人居留民を中国軍の虐殺から守る為に戦って戦死した日本兵であった。

 如何なる理由があっても、中国で、中国人と戦った日本軍兵士は戦争犯罪者とされた。

 故に、靖国神社は戦争神社として非難され、日本人居留民を助けるべく戦死した日本軍兵士は戦争犯罪者とされた。

 当然。靖国神社の公式参拝は激しく非難されている。

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 4月7日 産経ニュース「【中国ネットウオッチ】

 「日本は靖国参拝するのになぜ中国軍が盧溝橋でパレードしてはダメなのか」「東京でやれ」戦後70年軍事パレード会場めぐり中国ネット過激化

 3月18日、ロシアとの国境地帯である中国黒竜江省黒河市で、ナイフを持って訓練する中国人民解放軍の兵士ら(AP)

 中国が戦後70年に合わせ、9月に予定している軍事パレードが、北京郊外の「盧溝橋」で行われるとの“期待”が中国の一部ネットユーザーの間で高まっている。中国国防省は否定的な見解を示したが、実施場所が正式発表されるまで、盧溝橋でのパレードを求める声は残りそうだ。

 発端は3月中旬の報道だったようだ。

 米通信社ブルームバーグは3月13日、軍事パレードの計画に携わる2人の関係者の話として、パレードが天安門広場ではなく、北京郊外の盧溝橋に隣接する広場で実施される見通しだと報じた。盧溝橋はいうまでもなく、日中戦争の発端となった1937年7月7日の盧溝橋事件の舞台となった場所だ。

 ブルームバーグのこの記事は、香港の英字紙、サウスチャイナ・モーニング・ポスト(電子版)が中国語版を掲載し、中国のネット上でも広がった。

 「すばらしい選択だ!」 「本当に盧溝橋でパレードをするなら、習おじさん(習近平国家主席)に『いいね』したい。長年の抗議をついに行動に移すのだから」

 同紙の中国版ツイッター「ウェイボ」の公式アカウントには、記事を読者の好意的な反応が書き込まれた。

 一方、記事が盧溝橋でのパレードについて、「パレード自体が中日関係の緊張を招く恐れがあるのに、盧溝橋で実施すれば、両国関係はさらに損なわれる」 「日本との関係改善をまったく考えていないことを表している」(米大学研究者のコメント)と否定的に論じたことから、同紙に批判の矛先が向いた。

 「サウスチャイナ・モーニング・ポストは日本の新聞か」

 「両国関係を損なう?貴紙は誰の立場に立ってものを言っているのだ」

 「日本では靖国神社に参拝していいのに、どうしてわれわれが盧溝橋で軍事パレードをしてはいけないんだ」

 こうして一部でパレードの実施地点に注目が集まっていたのだが、中国国防省の耿雁生報道官は3月26日の記者会見で、「軍事パレードはこれまですべて天安門広場で実施してきた。目下のところ、今回のパレードを他の場所で行うとの情報には接していない」と述べ、盧溝橋での開催を否定した。

 盧溝橋周辺には、大規模パレードに十分なスペースが確保できないとされ、この点からも実現性は高くなさそうだが、それでも中国のネット民はあきらめていない。

 国防省報道官の記者会見の内容を伝えたウェイボ上の報道に対しても、なお盧溝橋での実施を求める声のほか、「南京でパレードしろ」「釣魚島(尖閣諸島)でやれ」といった意見も登場。悪のりの極めつけとして「東京でパレードしろ」といった書き込みもあった。」

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 中国共産党軍兵士とロシア人兵士は、血に餓えた殺人鬼のように、日本人の女性を強姦して惨殺し、子供を虫けらのように虐殺し、老人を戦車でひき殺した。

 天安門事件やプラハの春のように、無抵抗な市民を虐殺した。

 中国軍兵士やロシア人兵士に対して、武器を置き無抵抗の姿勢を見せても助かるとは限らなかった。

 「銃を取って戦わない者には生きる資格がない」と言うのが、大陸の掟であった。

 非暴力無抵抗など、大陸では意味もなく通用しなかった。

 生きたければ、武器を取って戦うのが流儀であった。

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 国際世論は、軍国日本の国益と自国民の保護を目的とした「報復権」と「自衛権」と「正当防衛」を否定し、中国人による虐殺を甘受すべきだと軍国日本に外圧を加えた。

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 此れは。国の名誉と民族の栄誉さらには天皇の尊厳を、反日的な他国から仕掛けられた歴史戦から守る為の論戦である。

 勝つ為には、起きた歴史的事実を間違いなく明らかにするのが鉄則であるが、相手に対する礼節や尊厳を維持しながら、分析や解釈は自由である。

 分別なき非難中傷や悪意をもって貶める様な言説は、絶対に避けるべきである。

 起きた事件は、被害の大きさや犠牲者の数は異なるにせよ紛れもなき事実である。

 解釈や分析は、個々それぞれに違っていて当たり前である。

 全く同一の解釈や分析は、あり得ない。

 第二回南京事件はあったし、通州事件もあった。

 時間的にいって、第二回南京事件よりも通州事件の方が先である。

 発生時の状況は、第二回南京事件は激戦後の大混乱時に起きたが、通州事件は戦場から遠く離れたわりかし治安が保たれた平時に起きた。

 後は、どう分析し解釈するかである。

 国際問題となったのは、通州事件ではなく、第二回南京事件である。

 軍国日本は、被害者ではなく、加害者の立場に立たされている。

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 侵略国とは戦争に負けた国の事であり、侵略とは敗戦国が行った武力行使の事である。

 ゆえに。日本は、侵略戦争を行った戦争犯罪国家であり、戦闘で倒した敵国兵及び不幸に戦闘に巻き込んで殺害した一般市民の死は犯罪とされた。

 侵略国家の侵略は、一切の弁明が許されていない。

 侵略戦争に於いて、如何なる理由も問答無用で却下されている。

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 戦争犯罪国家日本は、中国大陸における如何なる言い訳も認められてはいない。

 どんな証拠や証言も、歴史的価値はないとされている。

 日本は悪であり、日本人は有罪である、と。

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 中国共産党に唆された、ファシスト中国による日本人居留民猟奇的虐殺事件。

 中国共産党を軍事支援したのは、ソ連であった。

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 日本軍部は、日本の軍隊として、国外で同胞を敵から守る為に戦い、敵は全て殺した。

 軍国日本には、助かる術も、逃れる術もなかった。

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 1937年7月 通州は、親日政権である冀東防共自治政府の首都であった。

 自治政府の首班は、日本人の妻を持つ殷汝耕であった。

 通州には、日本人居留民約400人が生活し、邦人保護目的で日本軍守備隊が駐屯していた。

 他の地域に比べて治安がよく保たれていた為に、外国の報道員やキリスト教関係者も多く住み、自由に行動していた。

 反日派のアメリカ人宣教師や報道員達は、軍国日本を非難・糾弾するネタを、中国各地で絶えず捜していた。

 軍国日本は、国際報道機関や反天皇反日派キリスト教会の厳しい監視に晒されていた。

 中国共産党は、日本軍とファシスト国民党軍を戦争に引きずり込むべく数多くの工作員を潜入させ、反日破壊工作を活発に行っていた。

 日本軍守備隊は、南苑方面の作戦の参加する命を受けた為に、日本人居留民保護を冀東防共自治政府に依頼し、110人の兵を残して出動した。

 殷汝耕は、冀東保安隊に日本人居留民の保護を命じた。

 中国共産党は、日中戦争をを始める為に、反日派の冀東保安隊幹部に武装蜂起を命じた。

 7月29日午前3時 蜂起した冀東保安隊約1,000人は、親日派の殷汝耕を拉致し、通州市内の日本人居留民を襲撃した。

 冀東保安隊は、警戒に当たっていた日本軍守備隊に安全を保障すると嘘を吐いて武器を取り上げようとした。

 日本軍守備隊は、日本人居留民を守る為にて抵抗して30人が戦死した。

 日本人居留民を守って戦死した兵士は、靖国神社に祭神として祀られた。

 冀東保安隊と中国共産党工作員は、軍国日本を激怒して暴発させる為に日本人居留民を嬲り殺しにした。

 近所の中国人達は、昨日まで親しく付き合っていた間柄であったが一瞬にして暴徒と化して、住人が居なくなった日本人住宅や商店を襲撃して持ち出せるモノは全て持ち去った、

 日本人が如何に中国人と友人の様に付き合っていても、中国人はその気はなかった。

 中国人は、人として心底信じあって付き合おうとする日本人とは違い、自分の一人の利益や打算のみで付き合うい、日本人を本気で理解しようとは決して思わない。

 日本人の中国への配慮や中国人への思いやりは無駄な事であり、利益のみと割り切り、人として深く付き合わない方が良い。

 日本軍守備隊は、急報を受けて通州に帰営した時には、冀東保安部隊は遁走し、虐殺現場には目を反らしたくなる様な無惨な死体が散乱していた。

 日本政府と軍部は、現地からの報告を受け、日中戦争を避ける為に協議していただけに余りの凄惨さに愕然とした。

 血気盛んな日本軍人達は、中国への怒りから即時戦闘を意見具申した。

 日本外務省は、好戦派をなだめる為に、強う口調で抗議の公式声明を出した。

 日本人民間人‥208人。死亡者114人。生存者 94人。

 日本国籍朝鮮人‥213人。死亡者111人。生存者102人。

 8月4日 東京日日新聞「比類なき鬼畜行為」

 読売新聞「虐殺、掠奪、破壊、鬼畜の乱舞 無残累々たる死屍」

 読売新聞夕刊「崩れ落ちた仁丹の広告塔の下に2、3歳の子供の右手が飴玉を握ったまま落ちている。ハッとして目をそむければ、そこには母らしい婦人の全裸の惨殺したいが横たわっているではないか!……

 池畔に上げられた死体の中には鼻に針金を通されているものがある。……

 男の鼻には鈎の様に曲げられた11番線の針金が無の形相をして死んでいる……」

 日本の全ての新聞は、一斉に通州日本人居留民虐殺事件を報道した。

 日本人軍国主義者や国粋主義者達は、罪もない女子供さえ容赦なく虐殺して恥じないファシスト中国に対する激怒から、敵討ちの懲罰攻撃を強く要求した。

 フレデリック・V・ウィリアムズ(アメリカ人ジャーナリスト)「それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして、一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣の様な中国兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男達と共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどい事には手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見した時には、ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった。……何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」

 「私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供達が住んでいたが、共産主義者によって殺された。20名はほんの子供の様な少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人の様に遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした」(『中国の戦争宣伝の内幕』)

   ・   ・   ・   

 東京裁判において。日本側弁護団は、通州日本人居留民虐殺事件の証拠を提出し、日本人居留民救出にあたった証人を出廷させて証言させた。

 ウェップ裁判長は、軍国日本を戦争犯罪で有罪にする為に、軍国日本の正当防衛を裏付ける証拠は全て却下し、証言は口述書として受理したが闇に封印した。

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 極東国際軍事裁判における証言(極東国際軍事裁判速記録より)

 萱嶋高 元陸軍中将の証言

 「城内は実に凄惨なもので、至るところ無残な日本居留民の死体が横たわっておりまして、殆ど全部の死体には首に縄がつけられてありました。頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は、殆ど見るに堪えませんでした。その記録は今日ありません。従つて私は私の目撃したことを主として、記憶を辿り、左に陳述します。然しそれは余りにも残酷でありましたので、私は一生忘れることの出来ない印象となつて頭に残つて居ります。旭軒とかいう飲食店を見ました。そこには40歳から17〜18歳までの女7、8人は、

皆強姦され射殺されておりました。そのうち4、5名は陰部を銃剣で突刺されていました。 ……

 家の内は家具、布団、衣類等、何物もなく掠奪されていました。その他の日本人の家屋は殆ど右同様の情態でありました。錦水楼という旅館は凄惨でありました。同所は危険を感じた在通州日本人が、集まった場所でありましたものの如く、大量虐殺を受けております。女主人や女中は数珠繋ぎにされ、手足を縛られたまま強姦され遂に斬首されたという事でした。」

   ・   ・   ・  

 桂鎮雄陸軍少佐の証言

 「錦水楼の門に至るや、変わり果てた家の姿を見て驚くとともに、死体より発する臭気に思わず嫌な気持になりました。

 ……

 次に帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり、或いはうつぶし或いは上向いて死んでおり、ここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようでありました。私は一年前に行った事のあるカフェーにへ行きました。扉を開けて中へ入りましたが、部屋は散乱しておらず、これは何でもなかったかと思いつつ進んだ時、一つのボックスの中に素っ裸の女の死体がありました。これは縄で絞殺されておりました。カフェーの裏に日本人の家があり、そこに二人の親子が惨殺されておりました。子供は手の指を揃えて切断されておりました。南城門の近くに日本人の商店があり、そこの主人らしき者が引っ張り出されて殺された死体が路上に放置されていました。これは腹部の骨が露出し、内臓が散乱しておりました。」

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 桜井文雄 元陸軍少佐の証言

 「まず、守備隊の東門を出ますと、殆ど数軒間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっているのを目撃し、一同悲憤の極みに達しました。敵兵は見当りませんでしたので、夜半迄、専ら生存者の収容に擔りました。「日本人は居ないか」と連呼しながら各戸毎に調査してまいりますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が彼所此所の塵、埃箱の中や、壕の内、塀の蔭等から、続々這い出してきました。某飲食店内には一家ことごとく皆、首と両手を切断惨殺されているのを目撃しました。婦人という婦人は、14、5歳以上は悉く強姦されて居りまして、見るに忍びませんでした。旭軒という飲食店に入りますと、そこに居りました7、8名の女は全部裸体にされ、強姦射(刺)殺されておりまして、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂を埋めてある者、腹部を縦に断ち割ってある者等、全く見るに堪えませんでした。

東門の近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、それに八番鉄線を通し(貫通)一家6名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。池の水は血で赤く染つて居たのを目撃しました。」

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 目撃談「日本人の男性の頭の皮を剥いで目玉を抉り取り、今度は青竜刀で日本人のお腹を切り裂いた。そのお腹の中から腸を引き出し幾つかにも切って、これはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと言っている」

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 7月30日 保安隊は、急変を聞きつけた日本軍救援部隊が通州に迫るや、中国軍内に逃げ込んで姿を消した。

 日本の新聞や雑誌は、中国軍兵士の惨殺行為を詳しく報道した。

 中国側は、責任は日本軍側にあるとして非難した。

 国際世論は、中国側の主張を調査せず鵜呑みにして信用した。

 「日本人女性5名は、一晩中強姦された。翌日、裸のまま鼻や喉を針金で突き通されてつながれ、空き地に引き出され、陰部に銃剣を突き立てられ、もがき苦しみながら惨殺された」

 中国人は、病的な人間不信と偏狂的な人種差別ゆえに、敵と決めつけた相手に対して女子供でも容赦なく惨殺した。

 日本人子供は、手足の指を全て切り落とし、顔に針金を貫き、惨殺した母親に縛り付けて殺害した。

 フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ「古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」

 「犯され殺された者の多くは子供であった。この不幸な夥しい日本人の犠牲者達は暴行が始まって24時間以内に死んでいったのだ。中国人達は焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼等の『助けてくれ』との叫びを聞こえなくさせた。目玉をえぐり出し、自分の拷問者を見られなくした」

 「世界はこれらの非道行為を知らない。もし他の国でこういう事が起きれば、おのニュースは世界中に広まって、その恐ろしさに縮み上がるだろう。そして殺された人々の国は直ちに行動を起こすだろう。しかし、日本人は宣伝が下手である」(『中国の戦争宣伝の内幕』)

 日本国民は、通州事件における同胞の惨たらしい虐殺を知るや、「暴支膺懲」を叫び、軍事的な制裁を求めた。

 日本国内にある諸外国の報道機関は、事実を知りながら関心を示さず、むしろ日本側に原因があると考えていた。

 現地の日本軍は、同胞に加えられた世にもおぞましい猟奇的な虐殺事件を知るや、中国軍への憎悪から復讐を希望した。

 軍部中央は、政府の不拡大方針に従って報復攻撃を禁止した。

 政府と外務省は、昭和天皇の「平和への希望」に従って、日本人居留民が幾人犠牲になっても戦争を避ける為の和平工作を優先した。

 現地軍は、政府や軍部中央の命令を遵守していては日本人居留民の安全が守れないとして、命令を無視して独自の判断で暴走し始めた。

 これが、戦争犯罪とされた日本軍の侵略戦争である。

 無抵抗で虐殺された日本人は、国民保護の義務を放棄した国家と軍部によって見捨てられた。

 日本は、平和を切望し、「復讐・報復の連鎖」を断ち切る為に、身を守る為の武器を一切持たない自国民を中国人暴徒・殺人者・犯罪者の群れの中に見捨てた。

 日本人は、国家から平和の為に棄民とされたのである。

 後の東京裁判は、日本が正当防衛を主張する第一次南京事件や済南事件や通州事件といった中国側の虐殺事件を却下し、日本軍の人道に対する犯罪とされた第二次南京事件のみを採用した。

 現代の左翼・左派のマルクス主義者やキリスト教徒も、事件のあらましを全て知った上で、日本が受けた虐殺事件は侵略された中国人民の怒りであるとして正当化した。そして、歴史の闇の葬ろうとしている。

 中国の戦争では、伝統的に三光作戦のような集団的虐殺が常識となっていた。

 日本の情報機関は、「局地的解決を避け、日中の全面的衝突に導かねばならない」という、コミンテルンの中国共産党への指令書を入手した。

 国際的共産主義者は、真実を隠蔽し、事実を歪曲し、日本軍の犯罪行為を捏造して宣伝活動を活発化させ、巧みに国際世論を反日に誘導した。

 宣伝下手な日本は、有効な対応策を講じる事ができず、反日世論を傍観するだけであった。

   ・   ・   ・   

 日本の民族主義に燃えた新聞は、中国人による日本人への犯罪行為を包み隠さず、ありのままを全て報道していた。

 昔の日本人は、中国と戦争になろうとも、中国人に悲惨な遭っている同胞を救いたいとの一心であった。

 それが、軍国主義者日本人による中国侵略の真実の姿である。

 現代日本人は、戦争を避ける為に、同胞が半殺しの目にあっても見捨てた。

 軍国主義者日本人と平和主義者日本人とは、同胞愛や祖国愛や愛国心が異なる。

   ・   ・   ・   

 1938年 ハロルド・ティンパーリは、中国国民党の顧問として1万ドルと宣伝部工作として月額1,000ドルの報酬を得ていた。

 ティンパーリは、ブラック・プロパガンダとして「南京太虐殺」を世界に広める為に、アメリカ人宣教師ベイツ(中国国民党顧問)と共同で提供された偽情報をもとにして『戦争とは何か──中国における日本軍の恐怖』(漢訳『外人目撃中の日本軍横暴』)を出版した。

 日本軍は「4万人近くの非武装の人間」を殺害した。   

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太平洋戦争の真実、日本の辞書は嘘だらけ

太平洋戦争の真実、日本の辞書は嘘だらけ

2017-09-18

♬:27─3─通州大虐殺事件。国際報道機関は、軍国日本が主張する日本人居留民保護と自衛的軍事行動を犯罪と非難した。1937年7月28日〜No.119No.120No.121@            

中国大虐殺史ーなぜ中国人は人殺しが好きなのか

中国大虐殺史ーなぜ中国人は人殺しが好きなのか

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗

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 ナチス・ドイツ、ソ連・共産主義、アメリカ、イギリス、ファシスト・イタリアは、日本軍に戦争を仕掛けようとしている中国をヒト・モノ・カネで全面支援した。

 日本は、一ヵ国で、中国の攻撃に反撃し、日本人居留民を助けようとした。

 日本は中国に対する自衛戦争を主張し、中国は日本軍の侵略戦争と訴えた。

 国際世論は、中国の訴えを支持し、軍国日本を非人道的犯罪として非難した。

 日本には味方してくれる国は存在せず、国際的に孤独であった。

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 日本の軍需産業と民族資本は、国際金融資本からの多額の融資を受けている国際的軍需産業と対峙していた。

 日本軍の装備は、中国とは違って国際軍需産業からの輸入はなく、100%自前製造であった。

 日本は、資金も資材も少なかった。

 日本軍は、強力な破壊力のある重装備ではなく、命中精度の高い機能性重視の軽量兵器を要求した。

 国産兵器は、日本刀の様に、世界水準にある高度な職人技で作られていた。

 地理的条件から、重戦車ではなく航空機開発に力点が置かれた。

 その代表が、海軍の「ゼロ戦」と陸軍の「隼」であった。

 重戦車を開発すべきであったと言う者や戦艦「大和」は無用の長物と言う者は、信用しない方が良い。

 日本の軍需産業を支えていた科学技術力や開発能力は、世界トップレベルであった。

 問題は、資本能力であった。

 日本の敗因は、生産能力以前の資本力のなさであった。

 日本が相手にしたのは、欧米経済を支配していたユダヤ系国際金融資本であった。

 ユダヤ系国際金融資本は、アメリカやイギリスはもとより、ナチス・ドイツやソ連をも支配していた。

 中国は、ユダヤ系国際金融資本の全面支援を受けていた。

 ゆえに。ユダヤ系国際金融資本は、日本を滅ぼそうとした。

 昭和天皇と軍部は、ユダヤ人難民を助けてユダヤ系国際金融資本との関係改善を図ろうとした。

 ユダヤ系国際金融資本は、国際軍需産業の利益の為に軍国日本を切り捨てた。

 戦後。国際金融資本と国際軍需産業は、日本の軍需産業を支配して規模を縮小させ、戦闘機や主力艦など最前線配備の主力兵器開発を禁止した。

 自衛隊の最重要装備は、国際金融資本と国際軍需産業によって供給されている。

 日本政府は、一方的に提供される高額な装備の為に、多額の国税を支払っている。

 その高額な装備が、日本の国防に本当に必要なのかは二の次に過ぎない。

 現代日本の国防危機は、国際金融資本と国際軍需産業が押し付けてくる装備を、必要なものとして強制的に購入する為に仕組まれていると言われている。

 日本の国土防衛は、国際軍需産業に多くを依存している為に、国際軍需産業から供給がなければ成り立たない。

 支配され自立できない事実を隠蔽する為に、ライセンス生産するだけの下請けに過ぎない日本の軍需産業が槍玉に挙げられ、平和市民団体から戦争屋と非難されている。

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 日本軍が強かったのは、兵器の自給自足体制が盤石であったからである。 

   ・   ・   ・   

 日本政府は、国家の責任として、中国で生活している日本人居留民数万人の生命と財産を守る為に中国を侵略した。

 日本軍は、弾薬やガソリンの不足に悩みながら、諸外国から軍事支援を受けている十数倍の中国軍と激闘を繰り返していた。

 日本は、外国依存度が高いだけに、政府も軍部も産業界も中国との戦争を望んではいなかった。

 中国は、日本を戦争に追い込む為に、各地で反日デモを起こし、日本製品ボイコットを呼びかけた。

 中国の警察当局は、無防備な日本人居留民に対する暴行事件が増加しても、日本人居留民の生命財産を守る為に取り締まるどころか中国人暴徒を煽った。

 中国で起きる事は、全て当局の指導の下で起きていた。

 中国は、儒教的差別意識から、日本との友好を本心から望んだ事はない。

 ただし、謀略を好む中国人は和やかに「日中友好」を口にするが、本心は反日であった。

   ・   ・   ・   

 中国人の本質は、世にもおぞましいほど残忍であった。

 山縣有朋「支那人は性、残忍にして一旦生擒(捕虜)されれば死に勝る苦痛を受け、野蛮惨毒の所為を以て殺害される。生擒になるより潔く一死を選べ」

   ・   ・   ・   

 台湾の貴族院議員・辜顕栄(こけんえい)は、日中両国の戦争を回避する為に東京と南京を行き来したが、過労で死亡した。

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 中国共産党軍約5万5,000人は、スターリンの命令にしたがって国民党軍(ファシスト中国軍)に編入されたが、遊撃隊として日本軍と直に戦う事を避けていた。

 中国共産党工作員は、国民党軍の中に共産主義を浸透させ、隠れ共産主義者を増やしていった。

 中国共産党は、抗日戦争の主役ではなく、脇役でもなく、単なる傍観者として逃げ回っていた。

 中国共産党に協力したのが、反天皇反日の日本共産党と朝鮮人左派独立活動家達であった。

   ・   ・   ・   

 7月28日 天津暴動。中国軍は、天津租界が国際的通念として局外中立にあったが、日本を挑発する為に威嚇攻撃した。

 中国は、日本とは違って、如何なる国際法も遵守する意思はなかった。

 日本軍支那駐屯軍は司令本部付中き将兵(250人)だけで、中国軍天津保安隊(5,000人)の攻撃を凌いで天津租界の日本人居留民1万人以上を守った。

 陸軍航空部隊は、天津を攻撃している中国軍を爆撃して撃退した。

 午前2時 支那駐屯軍は、関東軍と朝鮮軍の援軍を得て約3万人となり、華北の日本人居留民数万人を守る為に中国軍8万人以上を攻撃し、華北への「侵略」を開始した。

 日本政府は戦争不拡大を宣言したが、現地軍の暴走は止まらなかった。

 イギリス系ユダヤ商会は、アヘンと引き替えに、天津を経由して大量の武器弾薬を華北の抗日中国軍に供給していた。

 アヘンは外貨を稼ぐ主要密売品であったがゆえに、国民政府も中国共産党も国際機関の国際査察を断固拒否していた。

 中国産アヘンは、東南アジアやアメリカなどの華僑社会の秘密結社が、地元の犯罪組織に売却していた。

 ワシントンの指示を受けたアメリカ陸軍航空隊は、正規パイロットに特別手当を払う事を条件として志願を募って退役させ、国際義勇航空兵として中国空軍に派遣した。

 宋哲元軍長は、北京防衛を断念して保定に退却し、天津の第38師と通州の保安隊に攻撃を命じた。

 逃げ遅れた中国兵は、民間人の身包みを剥ぎ、民間人に変装して姿を眩ました。

 日本軍は、ゲリラ化した便衣隊に悩まされる事となった。

 ベルリンの武者小路大使は、ヴァイツゼッカーに、日本の軍事行動は共産主義を封じ込めるという防共協定に従った行動であると主張した。

 ヴァイツゼッカーは、日本の軍事行動は中国に共産主義を蔓延させるだけであると反論した。

 ドイツ軍事顧問団のファルケンハウゼン中将は、駐華大使オスカール・トラウトマンに、最終的には中国軍が勝利するという秘密報告書を提出した。

 ヴァイツゼッカーは、東京の駐日大使ディルクセンに、「顧問団を引き揚げる事は中国に敵対する事になり、中立政策を取るドイツはそれを実行しない」と電報を打った。

   ・   ・   ・   

 7月29日 昭和天皇は、近衛首相を呼んで、日中紛争を平和的な話し合いで解決する様に熱望した。

 近衛首相は、中国問題の平和的解決の為に外務省、陸軍省、海軍省と協議し、満州事変以降獲得した権益全てを放棄するという妥協案をまとめた。

 交渉人として、中国と関係の深い民間の紡績業者船津辰一郎に依頼した。

 世に言う、船津工作である。

 日本外交の交渉初期段階で、伝統的に民間の政商を公式・非公式に特使として使う事が多かった。

   ・   ・   ・   

 午前3時 通州大虐殺事件。

 東京裁判で。ウィリアム・ウエプは、軍国日本の正当防衛・自衛軍事行動を証明する中国人による日本人虐殺事件を却下した。

 もし、報復権を認めた戦時国際法で日本軍の正当性を認めれば、軍国日本を戦争犯罪で裁けなくなるからである。

 中国共産党・ファシスト中国・馬賊・匪賊の、日本人居留民虐殺事件は歴史の闇に葬られた。

 国際司法機関は、世界正義を守り世界秩序・世界平和を維持する為に、日本人居留民大虐殺事件をなかったものとして処理した。

 犠牲になったのは、中国人ではなく、日本人であった。

   ・   ・   ・   

 上海の張治中は、日本海軍の陸戦隊に先制攻撃を加えるべく、ナチス・ドイツ、ドイツ軍需産業の協力を得て各種国防工事を急いでいた。

 ドイツ軍事顧問団との協議の上で工事を8月11日までに完成させ、13日には先制攻撃をかける事に一致した。

 そして、1万数千人の便衣隊(ゲリラ)を上海市内に潜伏させて、犯罪組織の協力を得て市内各所で挑発行動を起こし治安を急速に悪化させた。

 中国共産党は、挑発する様に、中国人暴徒を煽動して日本人居留民を襲撃し殺害と略奪を行い、日本軍による謀略であると宣伝した。

 中国全体が戦争への緊張に包まれ、抗日中国人暴徒は反日運動を激化さ、各地で日本人居留民への攻撃が始まった。

 少数の日本軍は、日本軍の十数倍の大部隊で堅固な防衛陣を引く中国軍を攻撃し、退却する中国軍主力を追って中国奥地へと侵略して行った。

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 ルーズベルトは、抗日中国軍を支援する為に、親友のトミー・コルコランが設立した中国援助事務所を通じて蒋介石に巨額の資金を提供した。

 蒋介石は、アメリカ人パイロットを率いるシェンノート退役大尉を大佐とし、中華民国空軍航空参謀長に任命した。

   ・   ・   ・   

 スターリンは、日本を戦争に追い込むように中国共産党と日本共産党に命じた。

 蒋介石は、中国共産党を殲滅するまで日本との戦争を好まず、中国共産党を殲滅してからなら日本との戦争に同意していた。

 毛沢東は、日本共産党と協力して、日本を戦争に追い込む為にあらゆる謀略を仕掛けていた。

 日本は、中国で生活する無防備な日本人居留民数万人を保護する為に、中国に侵略を開始した。

 国際社会は、日本を邪悪な侵略者、血に飢えた殺人者として非難した。

 日本を弁護する者は、誰もいなかった。

   ・   ・   ・   

 ドイツ外務省は、ドイツ軍や軍需産業とは異なり、対ソ封じ込めの為に日本と中国の全面戦争を阻止するべく、ベルリンの駐ドイツ日本大使武者小路を呼び出し日本軍による中国侵略戦争を支持しないと忠告した。





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通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか

通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか

2017-09-17

♬:27─2─中国共産党は、戦争を避けようとした日本軍を全面戦争に引きずり込むために盧溝橋事件を仕掛けた。1937年7月7日〜No.117〜No.118@        

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗

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 日本陸軍は、対ソ戦に備えて中国軍との戦争を避けたかったのが本音であったが、日本人居留民が中国共産党の指示を受けた中国人暴徒に暴行、強姦、虐殺されていた為に建前として強硬な発言を繰り返していた。

 中国との戦争を避ける唯一の方法は、中国本土や満州に住む日本人居留民を全員本土に避難させる事であった。

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 アメリカやイギリスなど諸外国は、日本人居留民(女性や子供)が中国人暴徒に迫害されている事は知っていた。 

 日本は、世界で孤立していた為に、味方として頼む国はなかった。

 ユダヤ系国際資本は、軍国日本とファシスト中国との戦争で金儲けを企んでいた。

 国際的武器商人達は、軍国日本と戦うファシスト中国に武器弾薬などの軍需物資を大量に売り付けていた。

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 軍国主義国家日本は、中国との戦争を避る為に、中国軍の挑発で日本人居留民が負傷し殺害されても目を逸らしていた。

 ファシスト国家中国は、日本との戦争を望み、日本人居留民を襲撃し、暴行し、強姦し、そして虐殺した。

 抗日中国は、平和的な話し合いによる解決を拒否していた。

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 軍国日本の敵は、ナチス・ドイツのヒトラー、ソ連のスターリン、アメリカのルーズベルトであった。

 日中戦争を煽ったのは、コミンテルンの命令で動いていた中国共産党と日本共産党であった。

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 軍国日本が戦争を避けるには、第一回南京事件同様に何もかも諦め、逃げ遅れた者は見捨て、夜逃げのように逃げるしかなかった。

 つまり。政府は国家の責任を放棄して、国家の義務として武力を用いて国民を助ける事なく、島国の中に閉じ籠もり震えて中国人の怒りが治まるのを待つ事であった。

 島国根性で、幾ら国外の日本人が暴行され強姦され虐殺されようとも、事勿れ主義で見て見ぬ振りをし、問題解決を先送りして無責任に閉じ籠もれば良かったのである。

 武器を持って戦ってまでして、国外の日本人を守ろうとしたのが戦争の始まりである。

 その事を反省して成立させたのが、武装反対、戦争反対、非暴力無抵抗主義の平和憲法である。

 他人の命より自分の命が大事と考える、現代の日本国憲法である。

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 日本の常識は、世界の非常識として、世界では通用しないどころか嫌悪された。

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 東京裁判は、侵略戦争を行った軍国日本には「自衛権」も「正当防衛」も認めず、命の危険にさらされた自国民を保護する為に武力を行使した事は犯罪であったと断定した。

 現代日本は、7年に及んだ連合軍占領を終結させ自主独立を回復する為にサンフランシスコ平和条約に調印し、軍国日本は戦争犯罪国家であったという東京裁判の判決を受け入れた。

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 杉田一次「ドイツが早くより有力な軍事顧問団を中国に派遣し、長期にわたって軍事援助を行い、日本を相手とする国防充実に手を貸していた事に日本は無知であった」

 石原完爾「支那は広いよ。行けども行けども、果てしがない。河でも山でもスケールが違う。あれじゃ幾ら意気込んで攻めてみても、暖簾に腕押し、退くに退けず、とうとうこっちが根負けだよ」

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 日本の支那派遣軍は、中国の第29軍に演習を行う事を事前に通告し、実弾ではなく空砲を使用していた。

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 欧米列強にとって、ファシスト中国は日本と違って安全保障上の脅威ではなかった為に、経済関係を強化するべく大量の武器弾薬を輸出していた。

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 多数の中国共産党工作員が、国民革命軍第29軍(宋哲元)内に忍び込み、ファシスト中国と軍国日本を全面戦争に突入させるべく、日本軍や日本人居留民への嫌がらせや暴力事件を引き起こしていた。

 蒋介石は、政府内の反蒋介石派や反日国民世論を意識して口では抗日戦を主張していたが、本心は中国共産党の殲滅であった為に、極秘で宋哲元に対して日本軍との衝突を避ける様に命じていた。 

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 7月7日夜 盧溝橋事件。日本軍の一個大隊135人は、北京郊外の龍王廟付近で演習する事を中国側に通告し、軽装備で空砲を充填して夜間演習を行っていた。

 第29軍大隊長金振中は、宛平県城近くの永定河の堤防に配置されている中隊に対して、夜間演習の日本軍が接近してきたら「撃って!」との命令を与えた。

 だが、この発砲は誰が撃ったのかは不明とされている。

 世界常識は、軍国日本の領土的野心による謀略であったとしている。

 午後10時頃 毛沢東は、日中戦争を起こす為に、「全陸海空軍、全国民衆の愛国運動を結集して、侵略日本軍に立ち向かえ」という檄電報を発した。

 だが。日本軍は、中国軍との戦闘を避ける為に、翌8日午前5時半まで反撃せず、話し合いによる解決に期待して自制した。

 日本軍の主戦略は、対ソ戦略で主力部隊を満州に広く展開してい為に、後方の中国とは戦争する意志はなかった。

 軍事戦略に置いて、よほど兵力にゆとりがり、敵が弱小国でなければ両面作戦はとらないのが常識である。

 日本軍は、世界第八位の軍事力で、両面作戦を行えるだけのゆとりが全くなかった。

 ソ連は世界第二位の軍事大国であり、中国は世界一位の軍事力を持っていた。

 中国共産党は、是が非でも、第八位の日本軍と第一位の国民党軍を戦争に追い込む為に画策していた。

 ソ連は、満州にいる日本軍主力部隊が中国戦線に移動する事を望んでいた。

 スターリンは、第二位の軍事力を持っていても、東アジアで最強の日本軍には勝てないとして恐怖していただけに、中国共産党や日本国内の共産主義スパイに謀略を命じていた。

 それが、ソ連の陰謀論である。

 午後10時40分頃。演習中の日本軍に対して、数十発の実弾が撃ち込まれたが、死傷者はなかった。

 弾丸は、宋哲元率いる第29軍(17万人以上)の部隊が駐屯する竜王廟方向から発射された。

 演習中の日本軍部隊は、連隊本部に連絡し、事態が明らかになるまで待機した。

 天津の支那駐屯軍司令部は、報告を受けるや、深夜にも拘わらず対策会議を開き、東京の参謀本部に知らせ、中国軍との武力衝突を避ける為に速やかに軍使を派遣する事決定した。

 支那駐屯軍参謀長橋本群は、病気で臥せっている司令官の田代皖一郎中将に代わって指揮を執っていた。日本の現地軍は、トップ不在であった。

 チャハル省と河北省の行政権を持っているのは、冀察政務委員会委員長兼第29軍長の宋哲元であった。

 支那駐屯軍情報部天津特殊情報班は、北京大学構内から延安の中国共産党軍司令部への「成功了」という緊急無電を3回傍受した。

 中国共産党北方局第一書記の劉少奇は、北京大学図書館に勤務し、地下工作を行っていた。

 第29軍副参謀長の張克侠、第110旅団長の何基澧、第3大隊長の金振中は、後年、中国共産党に入党した。

 国民党や国民軍には、多数の共産党員やシンパが潜伏していた。

 支那駐屯軍(天津軍)約5,000人は、北京の日本人居留民(約1,200人)を保護する為に、中国軍(旧軍閥軍)57万人以上と武装した中国共産党軍20万人以上と対峙していた。

 日本の支那駐屯軍は、兵力差から、北京・天津など華北の日本人居留民を保護しきれないとして、偶発的発砲事件として片付けて軍事衝突から全面戦争に発展させる意図はなかった。

 中国軍は、中国軍と何とかして現地で休戦協定を結ぼうとしていた。

 中国共産党の北方局主任劉少奇は、日本軍と国民党軍を戦わせるべく、第29軍参謀長の張克侠(秘密党員)に日本軍への総攻撃を命じた。

 日本政府は、不拡大方針のもとで、ワシントン体制の9ヵ国条約に違反していたが、中国との二国間交渉で軍事紛争を解決しようとした。

 スターリンは、日中軍事衝突を中国全土に拡大させるべく、毛沢東と国民党内の隠れ共産党員に指示を与えた。

 アメリカは、軍国日本に対して、門戸開放・領土保全・機会均等の原則に違反するとして抗議した。

 日本は、自衛行動によるものとして、地域主義による解決を主張して広域主義に基ずく9ヵ国条約を拒否した。

 劉少奇「七・七事件の仕掛け人は中国共産党で、現地責任者はこの俺だった」

 中国共産党は、共産主義の勝利の為に日本と中国が戦争するように仕向け、共産主義の大義の為に日本軍の残虐行為をデッチ上げた。

 共産主義陣営は、日本軍以上にプロパガンダ戦に長け、隠れ共産主義者の多くを日本国内に送り込んでいた。

 彼らは、政界や官界に協力者を獲得し、国家機密を知り、内政や外交にも影響力を与えていた。そして、日本軍部内にも滲透していた。

 日本軍は、緒戦からすでに負けていた。

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 昭和天皇は、戦闘を早期に収拾するように軍部に伝えた。

 軍部は、戦争に消極的な昭和天皇の意思を無視して戦火を拡大した。

 昭和天皇の周囲には、明治天皇の傍らで政府や軍部に睨みを利かせた西郷隆盛や伊藤博文や山県有朋といった頼りになる元勲・重臣がいなかった。

 為に、軍部の暴走を抑えきれなかった。

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 小林秀雄「戦争が始まっている現在、自分の掛替えのない命が既に自分のものではなくなっている事に気が付く筈だ。日本の国に生を享けている限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に取扱う事は出来ない、たとえ人類の名に於いても。これは烈しい事実だ。戦争という烈しい事実には、こういう烈しいもう一つの事実を以て対するより他にはない。将来はいざ知らず、国民というものが戦争の単位として動かす事が出来ぬ以上、そこに土台を置いて現在に処そうとする覚悟以外には、どんな覚悟も間違いだと思う。/日本に生まれたという事は、僕等の運命だ」(『戦争について』)

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 7月8日午前2時 北京の日本軍特務機関も協議し、第29軍の軍事顧問を務める桜井徳太郎大尉を、北京市長兼第29軍副軍長の秦徳純のもとに派遣し、事態を拡大させず沈静化させるべく情報交換させた。

 午前3時 日本軍の軍使は、龍王廟の南にある宛平県城に駐屯する中国軍に向かった。

 日本の現地軍は、日中武力衝突に発展しないように心血を注いでいた。

 午前3時25分 演習地の日本部隊は、北京の牟田口廉也連隊長の反撃命令を得られず事態が収束するまで集合地点で休憩していた。

 龍王廟付近から、休息中の日本軍部隊に対して実弾が撃ち込めれた。

 この待機中に、兵士一名の行方が分からなくなり騒ぎとなった。

 当の兵士は、たまたまトイレで点呼の場に居なかっただけである。

 牟田口廉也連隊長は、正当防衛として「撃たれたら撃て」と命じた。

 一木清直大隊長は、日本軍軍人の名誉にかけ、「降り掛かった火の粉は自分で払いのけるべき」として、休息地の中隊を防衛の為に展開させた。

 午前5時30分 日本軍部隊は、龍王廟とそばの堤防から三度目の銃撃を受けた為に、自衛行為として龍王廟付近の中国側トーチカを攻撃した。

 日本軍の攻撃を合図に、中国軍は宛平県城・龍王廟・川中島などから攻撃を開始した。 盧溝橋事件の勃発であるが、大軍の中国軍に比べて日本軍は少数の為に防戦に努めた。

 午前5時54分頃 東京の参謀本部。第一部長石原完爾少将は、部長会議で不拡大と現地解決方針を決定した。

 外務・陸軍・海軍三省の事務当局会議は、政府・軍部の基本方針が決定するまでの処置として、不拡大方針を確認した。

 軍部内部は、対ソ戦略重視の不拡大派と日本人居留民保護を優先する一激論とに分裂し大激論となった。

 午前6時頃 宋哲元は、南京政府に日本軍との戦闘を報告すると共に、日本軍と停戦交渉を開始した。

 午後6時42分 閑院宮参謀総長は、中国との戦争を回避するべく、支那駐屯軍に対して「事件の拡大を防止する為に、さらに進んで武力を行使する事を避けるべし」と命じた。

 陸軍中央は、対ソ戦に備えて拡大すべきではないという不拡大派と抗日侮日運動を沈静化させ日本人居留民の安全を確保すべきという一激論派で分裂していた。

 日本政府と陸軍中央は、不拡大と現地解決の方針を決定した。

 午前8時 南京政府は、廬山会議に出席していた蒋介石に「日本軍との戦闘中」との報告を転送した。

 蒋介石は、即座に日本軍への攻撃を命じ、抗日計画に従って増援を指示した。

 北京周辺の中国軍は、動員命令が下るや直ちに出撃準備に取りかかった。

 ラルフ・タウンゼント「兵員の数で世界最大の軍国主義国家である、この二つの隣国〔中国とソ連〕が、毎月毎月、国家を挙げて兵力を増強していた時、日本は列強中、最小の部類に止まっていたのである。……『日本は強力な軍事組織を作り上げた』と書く新聞が、巧妙にも、その軍事組織の正確な規模を報じないという事は由々しき事である。その新聞が、『完全武装した敵に襲われる、無力な中国』という過剰な表現をし、戦闘前の日本軍の規模を中国軍と比較する事を、巧妙にも避けているのである」(『アメリカはアジアに介入するな!』)

 中国共産党中央委員会は、日本軍攻撃の情報を得るや、数時間後には延安の党本部から全国に向けて長文の檄文を発し、日本軍の侵略に対して愛国運動の実行を訴えた。

 延安の中国共産党中央委員会は、各地の中共軍に対して徹底抗戦を檄を発した。

 中国共産党の情報網は全土に隈無く張り巡らされ、各地の情報は瞬時に延安に伝達され、情報の分析と党方針の決定と軍事行動は機敏に行われた。世に言う、七・八通電である。

 スターリンは、上海警備司令官張治中に対して、日本軍への先制攻撃を指示する極秘電報を打った。

 上海の大韓民国臨時政府は、抗日戦に参戦する為に情報部員や破壊工作員を日本軍の後方に送り込んだ。

 反日派朝鮮人テロリストは、日本人共産主義者と協力して勇猛果敢に行動していた。

 戦後。反日派朝鮮人の多くが日本共産党に入党した。

 アメリカ華僑は、反日派宣教師の協力を得て、ニューヨークで日本軍の「侵略」を非難する大会を開いた。

 アメリカのユダヤ系報道機関は、日本への軍需物資輸出反対のキャンペーンを行い、市民による排日運動を支持した。

 アメリカのユダヤ系国際資本は、日本軍の華北侵略を批判した。

 彼らは、軍国日本の言い分など一切聞く気はなかったし、日本側の自衛行動を認めなかった。

 コミンテルンは、中国共産党に対して、証拠とならない様に出所と日付を消した匿名の極秘命令を発した。マルクス主義者は、成功するしないにかかわらず、革命を起こす為の陰謀・謀略に長けていた。

「1,あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かねばならない。

 2,右目的の貫徹の為、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい。

 3,下層民衆階級に工作し、彼等に行動を起こさせ、国民党として戦争開始のやむなきにたちいたらしめねばならない。

 4,党は対日ボイコットを全支那に拡大し、日本を援助する第三国に対してボイコットをもって威嚇せよ。

 5,党は国民政府下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない」

 日中全面戦争を最も望んだのは、ソ連であった。

 徐州方面から、ナチス・ドイツの軍事支援を受けた最新鋭重装備の中国軍(中央軍)35万人以上が北上を開始した。

 アメリカやイギリスの国際金融資本も、中国経済を支配する為に日本資本を追い出し、アジア金融を独占する為に円貨の基軸通貨化する事を阻止するべく、抗日中国を支援した。 国際世論は、日本側の弁明を一切認めず、一斉に日本軍の侵略行為を非難した。

 中国侵略を命じた昭和天皇の、戦争責任を告発した。

 ルーズベルト「日本は明治以来、世界征服の陰謀を企て、段階的に実行してきた悪の帝国だ!」

 ルーズベルトは、親中派以前に、人種差別主義者として日本を嫌っていた。

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 日本が戦争に巻き込まれない方法は、惨めに逃げるしかなかった。

 命を守る為に、日本人としての名誉を捨て、武士の子孫としての誇りを捨て、日清戦争以来の全ての利益を捨て、資産・財産・投資の一切合切を捨て、無一文となって乞食の様に惨めに逃げだす事であった。

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 参謀本部は、現地部隊に戦線拡大を諌める指令を出していた。

 朝日新聞は、戦線拡大を支持する報道を繰り返していた。

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 7月9日 支那駐屯軍は、戦闘を終結させるべく、宋哲元軍長や秦徳純北京市長らと停戦交渉を行っていた。

 中国軍は、援軍が近づいているという情報を得るや、抗日意欲を増して日本軍への攻撃を強めた。

 午前2時 北京特務機関と秦徳純北京市長の間で、停戦が合意した。

 午前5時 日本軍が命令に従って撤退ラッパを吹くや、中国軍は攻撃を激しくした。

 日本軍は、やむなく応戦して、撤退を延期した。

 日本政府は、五相会議の決定に従って不拡大方針を決定し、事件解決の為の四条件を支那駐屯軍に伝えた。

 1,紛争の原因となる為に中国軍を撤退させる。2,責任者の処罰。3,中国側の謝罪。4,今後の保障。

 午後6時 日本軍は、陸軍中央の命令に従って、中国軍の砲撃が止んだ隙を見て撤退した。

 日本軍の死傷者47名。中国軍の死傷者130名以上。

 スターリンは、蒋介石に対してメッセージを送り、世界は侵略を繰り返している軍国日本に激怒しているから今日本を攻撃する好機であると。

 「今まで2年続いた中国との勝てない戦争の結果、日本はバランスを失い、神経が錯乱し、調子が狂って、イギリスを攻撃し、ソ連を攻撃し、モンゴル人民共和国を攻撃している。この挙動に理由などない。これは日本の弱さを暴露している。こうした行動は他の全ての国を一致して日本に敵対させる」

 ファシスト党・国民党や軍国日本に潜んでいた共産主義スパイ約数千人は、数万人の協力者と共に日本と中国が戦争に向かう様に策動した。

 黒宮広昭(インディアナ大学教授)「スターリンの目的は、日本を可能な限り弱体にし、ソ連から遠ざけておく事にあった。これは要するに、日本を中国に釘付けにし、その侵略を米英に向けさせるという事である。結局、日本はその後数年まさにその通りに行動することとなった」

 蒋介石は、中国共産党との密約に従って華北一帯に動員令を発令し、ナチス・ドイツ、ソ連、アメリカ、イギリスの支援を期待して日本と戦う事を宣言したが、宣戦布告はしなかった。

 徐州方面の30個師団(35万人以上)に華北への出動準備を命じていた。

 イタリア軍事顧問団は、エチオピア侵略で効力のあった大規模無差別爆撃を教訓として、中国空軍に日本軍駐屯地や日本人居留民が生活する地域への無差別爆撃を行う様に助言した。

 ムッソリーニは、中国空軍創設に関わり、航空機と装備一式を納めて利益を得ていた。

 日中戦争で都市部への無差別爆撃を始めたのは、人を人と認めない中国軍であった。

 だが、国際連盟は日本の攻撃のみを非難した。

 中国政府は、現地レベルでの停戦協定を拒絶し、以前と戦闘状態にある事を表明した。

 ルーズベルトは、軍国日本、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアの三ヶ国を国際社会で孤立させるべく、国内外で根回しを始めた。

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 7月10日早朝 宋哲元は、蒋介石に「戦闘は一段落し、事件は解決する方向にある」と伝えた。

 蒋介石は、最高司令官として、第29軍に勝利を勝ち取るまで日本軍との戦闘を続行するように厳命した。

 劣勢の日本軍部隊は日本人居留民の安全と両国の友好から和平を望んでいたが、大軍を擁する中国軍は戦争を望み日本人居留民を人質に取った。

 中国軍兵士は、日本軍を挑発するように、斥候の任務中に出会った日本軍将校に発砲した。

 午後9時15分 一文字山に残って警戒していた日本軍の二個中隊は、中国軍からの攻撃を受けた為に反撃して、龍王廟を制圧した。

 中国軍は、停戦協定を破った。

 支那派遣軍は、中国軍の大軍に包囲され、天津市内の日本人居留民を守りながら防戦に徹していた。

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 軍国日本の現地保護が、日本に戦争という悲惨な悲劇をもたらし、永遠に消える事のない戦争犯罪という汚名を残した。

 国家・政府・軍部が、武力で国民の命を守ろうとしたとき戦争が起き、武器を捨て国民を守ろうとしなければ平和を手にする。

 軍国日本は、平和ではなく戦争を選択し、占領地を拡大する為に中国への侵略を決断した。

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 7月11日 日本政府は、石原完爾作戦部長の献策を採受け、停戦協定の為に近衛訪中計画を採用し航空機を手配した。

 蒋介石は、日本との全面戦争を行う為に、何応欽軍政部長に対し「7月末までに100万人以上を動員できるよう」に準備を命じた。

 日本は局地限定の小紛争として小手先の対応をしようとしていたが、中国は本格的な戦争を想定して行動していた。

 中国は、中国に駐屯している日本軍を殲滅し、日本租界を奪還し、日本資本を没収し、全ての日本人を中国から追放しようとした。

 午後8時 支那派遣軍と中国軍第38師との間で停戦協定がまとまり、東京にその旨を伝えた。

 松井・秦徳純停戦協定。

 中国側の第29軍軍長宋哲元は、戦闘拡大を避ける為に、現地解決で撤退準備に入った。

 五相会議と閣議を開き、盧溝橋事件を北支事変と呼び、日本人居留民保護と中国軍への威圧の為に増援を決定した。 

 内地から三個師団。関東軍から二個旅団。朝鮮から一個師団。

 軍部は、内地師団に対し動員下令計画を見合わせると命じた。

 コミンテルンは、中国共産党に、「日中全面戦争に導くよう」に指令を与えた。

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 7月12日午後2時 香月清司中将が、田代中将に代わって新たな司令官として天津に着任した。

 香月司令官は、停戦協定を尊重しながらも、中国軍からの攻撃に備えて作戦準備を行うように命じた。

 蒋介石も、日中全面戦争は回避できないとして宋哲元に戦闘準備を命じ、全土に大動員令を発して中国軍に北上を命じた。

 7月13日 蒋介石は、宋哲元に「解決はありえない、政府は戦争を決断した」との電報を打って、即戦闘開始を厳命した。

 支那派遣軍は、香月司令官の新方針に従って、以前の四項目よりも日本側に有利な七項目を宋哲元に示し、受け入れられなかったら武力行使すると伝えた。

 午後8時 参謀本部第二課は、北支事変処理方針に従い、支那派遣軍に11日の合意を見守り軽挙妄動を慎むように打電した。

 軍部は、不測の事態に備えて、関東軍と朝鮮軍には出動準備の継続を命じ、その支援の為に航空兵団と後方担当部隊にも動員令を通達した。

 7月14日 南京で。日本総領事館は、中国人による日本人居留民への嫌がらせが多発した為に、暴行・強姦・殺人などの不測の事態を避けるべく、市内に居住する日本人に夜間の外出の自粛を要請した。

 陸軍は、日本人居留民を保護し日本の権益を守るという国防計画に従い、上海に第三師団と第11師団を青島に第14師団を派遣する事を決めた。

 上海危機に際して陸軍は二個師団を派遣する事を、海軍との間で1936年に協定を結んでいた。

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 7月13日 大紅門(だいこうもん)事件。北京の大紅門で、日本軍トラックが中国軍兵士に爆破され、日本軍兵士4名が死亡した。

 石原莞爾「支那事変が起こるとすれば、それはナポレオンにおけるスペインとの戦争と同じである。ナポレオンにとって本当の敵は陸ではロシアであり、海ではイギリスであったにもかかわず、スペインなどにかまっていたから泥沼に引き込まれてしまった。同じように、日本の本当の敵はソ連なのだから、支那事変などに巻き込まれてはいけない」

 日中戦争に対して、日本陸軍は消極的もしくは避戦あったが、日本海軍は積極的もしくは好戦であった。

 奉天の憲兵隊や特務機関は、上海の京滬(けいこ)警備(南京・上海防衛隊)司令官の張治中が満州の抗日工作員を動かしている事を察知して警戒していた。

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 7月15日 中国共産党は、停戦成立を妨害するべく、抗日戦貫徹の為に国共合作宣言を公表した。

 中国共産党は、何が何でも日本軍と蒋介石に戦争させるべく謀略を続けていた。

 宋哲元は、日本軍との戦闘を避けるべく停戦協定に合意し、日本軍に謝罪して責任者の処罰と再発防止を約束した。

 日本軍の近くに中国軍が駐屯する事は危険であるとして部隊を別の地に移動させ、中国共産党などの抗日団体の取り締まり強化を約束した。

 中国共産党は、国民政府を追い込む為に各地で抗日戦を求める愛国運動を組織し、中国人暴徒を組織して日本人居留民への暴力事件を起こしていた。

 中国全土で、数百万人が抗日暴動を起こしていた。

 ソ連軍は、数千人の正規兵を国際義勇軍として抗日中国軍に提供し、大量の軍需物資を外蒙古・新疆の北西から運び込んだ。

 参謀本部は、中国軍の動員情報を得て、方針を「必要な軍隊を派遣して解決すべし」に変更した。

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 7月16日 参謀本部は、日本側新提案七項目を四項目に簡略化し、支那派遣軍に対し中国側に19日迄に実行されなければ武力行使すると伝えるように命じた。

 7月17日 宋哲元軍長は、日本側提案を受諾すると意向を伝えた。

 午後6時 蒋介石は、廬山から中国の危機を呼びかける「最後の関頭」演説をラジオ放送で行った。

 国民党諜報機関は、ナチス・ドイツの人心掌握プロパガンダ手法を参考にして、中国世論を抗日に誘導していた。

 日本人居留民は、中国人兵士による通州虐殺事件を知るや中国人暴徒に怯えた。

 だが、日本軍部内の空気は中国との戦争には消極であった。

 日本軍駐屯部隊も、多勢に無勢で日本人居留民を守るのは困難として、中国軍との武力衝突は極力避けようとしていた。

 日本の右翼は、中国人による通州事件などの虐殺を知るや、中国を懲らしめるべきであるとして対中戦争を求めて国民世論を煽った。

 日本国民は、軍部に騙されたのではなく、軍部以上に中国との戦争を求めた。

 日本国民が軍部に騙されて侵略戦争に参加したというのは、日本人を知能も教養も無い無知蒙昧の愚鈍であると最大限に馬鹿した言い方である。

 日本国民が主体となって、日中戦争を始めたのである。

 日本人は、中国共産党に人形のように操られる感情無き愚物ではない。

 ただし。現代の日本人は、付和雷同的に自分の意思を持って主体的に行動しない中国人に似てきている。

 7月18日午後1時10頃 宋哲元は、香月司令官と会談して七項目全てを受け入れると伝え、紛争地である宛平県城及び龍王廟周辺から中国軍を撤退する事の同意した。

 南京政府は、「現地での解決は認められない」と発表して、宋哲元軍長の紛争解決の動きを牽制した。

 午後11時 宋哲元軍長と香月司令官は、天津で停戦協定に調印し、盧溝橋事件は解決したた。

 山東省の日本人居留民約2万人は、青島や通州など日本軍が駐屯する都市に非難した。

 中国各地の日本人居留民団は、凶暴化し始めた反日運動に対処する為に引き上げを検討し始めた。

 だが。殺されても中国人を信じ切ると言い張る日本人は、引き上げを拒否した。

 7月19日 宋哲元は、停戦協定に従って撤退を開始した。

 中国共産党は、戦争を拡大する為に、各地で抗日暴動を起こし地元の日本人居留民を襲っていた。、

 石原第一部長は、杉山元陸相を訪れ、梅津美治郎次官と田中新一軍事課長の同席もとで不拡大論を説明した。梅津次官は、一激論で反論した。

 陸軍中央(石原作戦部長)と外務省(広田弘毅外相)は、ソ連・共産主義の勢力を拡大さるだけだとして増派に反対した。

 A級戦犯の広田弘毅は、戦争回避の為の努力を続けていた。

 関東軍参謀長東條英機と朝鮮軍司令官小磯国昭は、抗日勢力を排除する為に「攻勢こそ最大の防禦」として戦線拡大を主張した。

 蒋介石は、約20万人(30箇師団)を華北に集結する様に命じ、うち8万人を北京周辺に進撃させた。

 南京政府は、現地における停戦交渉を拒否し、代表団を南京に送る事を日本に要求した。

 事実上の、和平拒絶と徹底抗戦宣言であった。

 南京市内における反日感情は一層酷くなり、日本人商店や日本資本企業・工場で働く中国人労働者はもちろん日本大使館や領事館に勤める中国人職員は売国奴として暴行事件が多発し、治安が悪化した。

 身の危険を感じた中国人労働者や中国人職員達は、勤め先から逃げ出し始めた。

 日本外務省は、邦人保護の為に、南京や漢口などで生活する日本人居留民に対して上海か本国に引き上げを勧告した。

 南京には外交官、駐在武官、報道関係者ら約40名のみが残ったが、8月に揚子江封鎖され戦争の危険が増大した為に、8月15日に揚子江対岸の浦口に渡って列車で天津に向かって脱出した。

 7月20日 盧溝橋近くにいた第37軍は、停戦協定は第29軍のもので自分には関係ないとして、日本軍への攻撃準備に取りかかった。

 個性の強い中国で完全停戦を実現する為には、中央政府から地方政府、各地の全ての軍隊と個別に協定を結ぶ必要があった。

 参謀本部の部長会議で、石原第一部長は内地からの派兵に同意した。

   ・   ・   ・   

 7月21日 蒋介石は、対日戦の戦争会議を開き、宋哲元軍長に対して抗日戦の続行を厳命した。

 宋哲元軍長は、抗日戦続行の命令に従って撤退を中止させ、再攻撃態勢を命じた。

 漢口領事館は、奥地の重慶に住んでいた日本人居留民は、「発令後10時間で引き上げができるように」との指示を受けた。

 漢口の日本人租界は、上海特別陸戦隊漢口分遣隊300人が守っていた。

 ここでも、中国人を信じて引き揚げに反対する日本人居留民がいて、他の日本人居留民を困惑させていた。

 一部の日本人居留民は、残留を主張する日本人居留民の制止を振り切って、漢口や上海を目指して揚子江を下り始めた。

 中国人は、夜逃げする様に立ち退く日本人を軽蔑眼で見送り。

 残留した日本人居留民は、中国人の敵意に満ちた視線に恐怖し始めた。

 東アジアの常識として、水に落ちた犬は容赦なく叩き殺された。

 日本の常識は、敵に塩を送る的に、困っている相手は助けた。

 日本軍は、戦略物資にゆとりがなかった為に、中国軍兵士捕虜を収容する事なく帰郷する様に諭して解放した。

   ・   ・   ・   

 7月22日 ベルリンの柳井恒夫参事官は、ドイツ外務省政治局長ヴァイツゼッカーに、対中武器輸出が続けられていると抗議し、今後は武器類を発見次第没収すると伝えた。

 ヴァイツゼッカーは、日独防共協定に従い、日中両国間の戦闘が激化するならば軍需品の引き渡しは停止されると答えた。

 ナチス・ドイツは、オランダ船籍運搬船でシンガポールのイギリス系貿易会社に商品を運んでいると偽装して、武器弾薬などの軍需物資を抗日中国に輸出していた。

 ドイツの軍需産業は、日中戦争を歓迎していた。

   ・   ・   ・   

 アメリカ軍は、隠れて抗日軍に味方して日中戦争に参加していた。

 アメリカは、自国経済の為に中国市場を独占するべく日本を中国から追放しようとした。

 世界規模の富を手に入れ豊かな生活を暮らす為に、戦争を必要とした。

   ・   ・   ・   

 7月23日 アメリカ政府の密命で中国に渡っていたシェンノート退役大尉は、蒋介石に対日空中戦での助言を与えた。

 アメリカ陸軍航空部隊は、ルーズベルトの許可を得て、現役将校を形式上退役させ、義勇軍として抗日軍に参加させた。

 国際世論は、日本軍の侵略を非難し、中国の防衛を支援した。

 スターリンは、中国でも、スペイン内戦で行った国際人民戦線戦略を採用した。

 ファシズムに反対する国際的知識人は、日本軍の「中国侵略」に抵抗する中国を支援する為に、こぞって軍国日本を非難した。

   ・   ・   ・   

 7月25日・26日 郎坊事件。

 中国軍は、日本を戦争に巻き込む為に挑発した。

 支那派遣軍は、中国側の抗日暴動が激しさを見せ始めた為に、北京周辺の日本人居留民を保護する為に200人を派遣した。

 中国軍数千人は、日本軍を待ち伏せして攻撃した。

 日本軍は、日本人居留民を中国軍や中国人暴徒から救出した。

   ・   ・   ・   

 7月27日 軍部は、これまで中国軍側の挑発行為に隠忍自重してきたが、度重なる侮辱に耐えられなくなり、激怒して不拡大論を廃して一激論を採用した。

 午前1時 不拡大派の石原第一部長は、中国軍の挑発から日本人居留民を保護する為に、自衛行動として内地から三個師団の動員を決断した。

 午前2時20分頃 北京城広安門事件。

 日本軍は、北京市内に取り残された日本人居留民約2,000人を、妨害する中国兵を排除して救出した。

 日本政府は、日本人居留民への暴虐行為を止めなければ「侵略」すると声明を発し、内地3個師団(約5万人)に北支派遣を下命した。

 夕方 蒋介石は、日中全面戦争に突入する為に、宋哲元軍長に対して北京を死守するように厳命し。

 陸軍は、東京のドイツ大使館付き武官オットーに対して、中国への武器輸出を抗議した。

   ・   ・   ・   

 中国駐在のアメリカ人外交官は、宣教師や企業家らとは違い、盧溝橋事件はソ連の工作であり、日本軍は自制的に行動していたという報告書をワシントンの国務省に送っていた。

 同時に、ナチス・ドイツが中国国民党に協力し、ドイツ軍事顧問団が中国軍を指導している事もワシントンに伝えていた。

 もし、日中戦争が起きるとすればソ連とナチス・ドイツの入念に練られた工作の可能性が強い、と。

   ・   ・   ・    

 2014年7月7日 msn産経ニュース「中国主席、盧溝橋事件77年の記念式典で日本批判を展開

 北京市郊外の盧溝橋近くで警戒する警察官=7日(共同) 

 【北京=川越一】日中戦争の発端となった1937年の盧溝橋事件から77年を迎えた7日、中国の習近平国家主席は、北京市郊外にある盧溝橋近くの中国人民抗日戦争記念館で開かれた記念式典に出席し、「中国は侵略の歴史の否定や歪曲(わいきょく)、美化を決して許さない」などと演説、名指しは避けながらも安倍政権を批判した。

 中国メディアによると、最高指導者が同式典に出席するのは初めて。節目とはいえない「77年」の式典を盛大に催した背景には、日本政府の“右傾化”を誇張しようという中国側の思惑がうかがえる。

 習主席は中国共産党・国家指導者や軍関係者、小中学生らを前に、旧日本軍の所業を強く非難した上で、「抗日戦争と反ファシズム戦争の勝利から間もなく70年となる今日も、依然として、確固たる歴史の事実を無視し、戦時中に犠牲となった数千万の罪のない命を無視する者がいる」と主張した。

 中国政府は「抗日戦争勝利」から70年となる来年を前に、党機関紙、人民日報や中国中央テレビなど国内メディアを通じて、反日感情を刺激し愛国心を鼓舞する宣伝を展開している。」

   ・   ・   ・   

 msn産経ニュース「「日本の侵略戦争に奮起」李克強首相、ドイツとの共同会見でも日本批判

 北京市郊外の盧溝橋近くで警戒する警察官=7日(共同) 

 【北京=川越一】中国の李克強首相は7日、訪中したドイツのメルケル首相と北京で会談した後の共同記者会見で盧溝橋事件に言及し、「歴史の教訓を記憶してこそ未来が開ける」などと日本を批判した。

 中国の指導者が第三国の首脳との共同記者会見の場で対日批判を展開するのは異例。

 李首相は会見の冒頭、自ら盧溝橋事件について発言し、「77年前の今日、日本の軍国主義者が発動した全面的な侵略戦争に対し、中国人民は奮起し、最終的な勝利を得るまで、8年間抗戦した」などと述べた。」

   ・   ・   ・   

 msn産経ニュース「中国紙、「きのこ雲」の図で日本批判[中国]

 3日付の重慶青年報の電子版に一時掲載されていた日本地図。広島と長崎の位置にきのこ雲とみられるイラストが書き込まれている(共同)

 中国重慶市の週刊紙、重慶青年報の最新号は、「公益広告」のページに広島と長崎の位置にきのこ雲とみられるイラストを書き込んだ日本地図を掲載した。集団的自衛権の行使容認などを主導する安倍晋三政権への批判を意図したものだが、被爆者の感情への配慮を欠いており、日本や国際社会の反発を招きそうだ。

 同紙は中国共産党のエリート養成機関、共産主義青年団系の新聞。広告が掲載されたのは3日付。「日本がまた戦争をしたがっている」と記し、日本地図には東京、広島、長崎の地名だけを載せている。

 同紙は「日本に友好的すぎたのではないか」と題する論評も載せ、「過去40年間の(中国の)対日政策は、感情や行動の上で寛容過ぎた」「警戒を高めなければならない」などと主張している。(共同)」

   ・   ・   ・   

 日本と中国には、偽りの友好は存在するが、命を預けるほどの真の友情は絶無である。

 特に、中国共産党との関係は見せ掛けに過ぎない。

   ・   ・   ・   

 EUは、重要な域外パートナーとして、1位にアメリカ、2位に中国、3位に日本と定めていた。

 日本より中国を重視するという考え方は、戦前から存在していた。

 西洋諸国にとって、自国の経済発展の為には競争相手の日本に協力するよりは、巨大市場を持っている中国に協力する事が国益にかなっていた。

 人間が貧しさより豊かさを求める上昇志向を本能とする限り、世界は金で動いている。

 金の魅力の前では、正義も、信義も、道義も、道理も、規範も、全てが後退する。



 

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日本人と日本文化―対談 (中公文庫)

日本人と日本文化―対談 (中公文庫)

2017-09-16

♬:27─1─ドイツ軍顧問団は、中立国アメリカを戦争に巻き込み、アメリカの経済力と軍事力を利用して軍国日本を撃退すべきであると提案した。1937年〜No.115〜No.116@      

侵略戦争―歴史事実と歴史認識 (ちくま新書)

侵略戦争―歴史事実と歴史認識 (ちくま新書)

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗

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 ファシスト中国は日中戦争を希望し、軍国日本は中国との戦争を回避しようとした。

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 ルーズベルトは、中国共産党に密使を送った。

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 ヒトラー「日本民族は、文化を創造する能力に欠けた黄色人種の一員にすぎない。欧州の科学や技術を輸入した御陰で1.5等国になったが、欧州から見れば2等国以下であり、輸入がなくなれば3等国以下に落ち込むのは明白である。ゆえに、日本如きは、我が第三帝国と対等の地位にはない」

 ヒトラーは、人種差別から、非白人非キリスト教徒の日本人を劣等民族と軽蔑し、日本を嫌悪していた。

 薄汚い卑猥な小国・日本よりも、偉大な文明を築いた大国・中国との友好関係を望んだ。

 ドイツ軍も、第一世界大戦における日本の裏切り行為に激怒して、日本軍と戦う中国軍を支援した。

 ドイツ人が日本人を憎むのは、明治憲法及び近代法の作成指導や軍事、科学、医学など多くの面で近代国家に導いてやったという思いがあったからである。

 ナチス・ドイツは、反日であり、親中国であった。

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 軍国日本は、ナチス・ドイツに対して、再三にわたってファシスト中国への軍事支援を非難し武器輸出を停止するように申し込んでいた。

 だが。ナチス・ドイツは、軍国日本の抗議を拒否した。

 ヴァイツゼッカー政治局長「日本の行動は中国の共産主義勢力を強め、中国をソ連に押しやる事になる」

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 フリーダ・アトリーは、日中戦争を取材し、中国軍に参加している日本人からの情報として、軍国日本に暴力的共産主義革命が起きて天皇制度は崩壊すると述べた。

 「日本は政治的にも社会的にも革命状態に近く、帝政ロシア末期の状態に近似している」

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 孫子「爵禄百金を愛(おし)みて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり」

 金をおしんで、戦いに重要な敵の情報を集めようとしない者は愚者であり、戦いに敗れ、国を滅ぼす。

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 国民党軍(兵匪)と中国共産党軍(赤匪)と軍閥が三つ巴となって各地で熾烈な戦闘を繰り広げ、兵士達は戦場にある中小都市や町や農村を襲撃して略奪と虐殺を行っていた。

 2,000万以上の匪賊や兵隊崩れの盗賊達も、無政府状態の各地を荒らし回り、略奪と虐殺を行い、若い女性を誘拐して売りさばいていた。

 中国大陸は、法秩序が崩壊し、治安は悪化して生き地獄と化していた。

 中国は、内戦による混乱を自力で回復する能力がなかった。

   ・   ・   ・   

 蒋介石は、妻の宋美麗とドイツ軍軍事顧問の助言に従い、日中戦争をキリスト教徒対異教徒との「宗教戦争」に仕立てるべくキリスト教に改宗した。

 アメリカ系プロテスタント教会を味方に付けるべく、アメリカの宣教師や修道士や尼僧を大量に呼び寄せ、各地で教区を寄附し教会や修道院を建て、生活費及び布教と慈善の活動費を与えて全面的に協力した。

 プロテスタントの牧師は、ファシスト中国の為に宣伝活動をし「中国=善、日本=悪」を世界中に広めた。

 邪悪な異教徒を殲滅するという十字軍的聖戦に憧れるアメリカ世論は、ファシスト中国の宣伝戦を鵜呑みにして、異教徒日本を滅ぼし、キリスト教の聖なる教義を教え、キリスト教徒に改宗させ、イエス・キリストの救済・恵み・恩寵・奇跡が得られ様に正しい道へ導く事を支持した。

   ・   ・   ・   

 1937年 日本は、北京議定書の合意によりアメリカやイギリスなど諸外国同様に、自国居留民を中国人暴徒から保護する為に北京郊外に軍隊を駐屯させていた。

 日本軍は、欧米列強への配慮と中国人を刺激しない為にら駐屯部隊を最小限とし、侵略的野心がない事を示す為に他国軍よりも強力な兵器の配備を自粛した。

 支那駐屯軍は、外国軍隊同様に、定期的に軍事演習を行っていた。

 陸軍は華北と満州を、海軍は華中と華南を、それぞれ担当して日本人居留民の保護に務めていた。

 中国共産党は、一気に日中戦争を起こすべく、中国国内で日本人居留民への残虐な事件を多発させた。

 日本政府よ軍部は、中国国内の治安を国民党政権に一任していた関係で、自国民の犠牲に目を瞑り抗議しても直接行動を避けた。

 中国の反日市民や学生は、腰抜けの日本を嘲笑うがごとく、各地で反日愛国運動を拡大させた。

 日本国民は、武器を持たず無抵抗な同胞が中国人暴徒によって危害を受けている事に激怒し、政府に対して中国を懲らしめる様に求める運動が盛り上がった。

 だが。日本国内の中国人は、嫌がらせを受けたが命の危険に晒される事はなく、日本人の知人友人が右翼や右派の暴徒から彼等を守った。

   ・   ・   ・    

 ドイツ軍顧問団は、蒋介石に、日本との戦争にアメリカを巻き込み、アメリカの経済力と軍事力を利用して日本軍を撃退すべきであると提案した。

 そして、資源がなく外国依存度の強い日本への経済制裁・経済封鎖が最も有効であると。

 ヒトラーは、日本憎しから蒋介石を支援し、ドイツ軍事顧問団の対日国防計画案を承認していた。

 ナチス・ドイツは、中国の友好国であって、軍国日本とは仮想敵国関係にあった。

 アメリカは、蒋介石の国民党をファシスト党・ナチ党と同種の政党と認定し、毛沢東の中国共産党は共産主義ではなく農民党・人民党として好意を寄せていた。

 アメリカ軍は、ルーズベルト大統領の許可を得て、極秘に正規軍人を義勇兵として抗日中国軍に派遣していた。

 アメリカのユダヤ系産業界は、日本と戦う国民党や中国共産党と商談をとりまとめ、軍国日本への経済制裁・経済封鎖を支持し、工業製品や鉱物資源及び食糧の対日輸出を制限もしくは禁止する様に要求した。

 ユダヤ系国際金融資本から巨額の融資を受けているアメリカ軍需産業は、抗日中国軍に武器弾薬を大量に売っていた。

 国際世論は、ユダヤ系通信社の報道に従って軍国日本と戦う中国を支援し、軍国日本を猛烈に批判した。

 日本軍部は、「武器自給の原則」で、経済制裁を受けながらも民族資本による軍需産業から武器弾薬を購入していた。

 日本民族系武器産業と国際資本系武器産業との、科学及び技術の戦いであった。

 日本は、味方がいない四面楚歌状態にあった。

 日本の上海総領事館武官室と調査班は、中国軍がドイツ軍事顧問団の指導とドイツ産業の全面協力の下で非武装地帯を要塞化しているとの情報を得るや、中国側の許可を得て調査団を派遣した。

 日本軍の視察団は、その現状に驚愕した。

 上海から南京までの非武装地帯はおろか、揚子江対岸の至る所に、堅固な要塞や頑丈なトーチカが建設さドイツ軍式塹壕と鉄条網が縦横無尽に張り巡らされ、予想以上の防衛強化がなされている事。

 配備された大砲や機関銃も、全てドイツ製で有り、日本軍装備よりも勝っていた。

 歩哨に立って警戒している中国軍の軍装が、全て最新のドイツ製で日本軍よりも優れている事。

 配置についている中国兵が、これまでの軍紀・軍律の乱れた盗賊集団紛いの軍隊ではなく、ドイツ軍式教練で鍛え上げられた統制のとれた兵士である事。

 その防衛陣地があまりにも広大な為に全体は把握するに至らなかったが、もし戦うとすれば、日本軍に甚大なる被害が出る事が予想された。

 ドイツ軍事顧問団は、ドイツ式に鍛え上げた中国軍の実力からして日本軍を撃破できるという自信を持っていただけに、蒋介石に対日戦の開戦を進言していた。

 中国共産党は、ソ連の対日戦即開戦要求を受け、民衆を煽って抗日戦を行わない蒋介石を弱腰と罵った。

 親中国反日のルーズベルトは、人種差別主義者として、日本から中国市場の独占を勝ち取るべく蒋介石にヒト・モノ・カネの支援を続けていた。

 アメリカ軍は、ルーズベルトの指示に従って、現役将兵を名目上で退役させ、費用アメリカ軍持ちで義勇軍として抗日中国軍に派遣した。

 ユダヤ系国際資本は、反日的国際雰囲気を利用して反日勢力に協力した。

   ・   ・   ・   

 アメリカ、ナチス・ドイツ、ソ連は、対日戦の共同謀議はしなかったが、中国を助ける為に日中戦争に参加しようとしていた。

 マッカーサーは、アメリカの傀儡政権であったフィリピン・ケソン政権の軍事顧問としてマニラに赴任した。

 アメリカ軍は、対日戦に備えてフィリピン軍を育成する為にマッカーサーを送り込んだ。

 陸軍上層部としては、人望が薄く煙たいマッカーサーをアメリカ国内から遠ざける移動であった。

 アメリカ軍の命令は、フィリピン軍を共同作戦できる戦力を持てるように強化するのではなく、フィリピン人兵士をアメリカ人兵士の弾除けになる用に軍事訓練を施す事であった。

   ・   ・   ・   

 アメリカ共産党は、コミンテルンから離脱したとの声明を出し、理想とするところは民主主義であると宣伝した。

 アメリカ人共産党員は、隠れ共産主義者としてルールベルト政権の中に潜り込み、モスクワと連絡を取っていた。

   ・   ・   ・   

 日中戦争は、昭和天皇や軍国日本が望まなくとも、国際情勢から起きる運命にあった。

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 近衛文麿の昭和史研究会の朝食会で、尾崎秀実は北京周辺で中国共産党北方局第一書記の劉少奇が不穏な動きを取る可能性がある事を説明した。

 尾崎秀実「来る7月上旬、北京周辺において我が軍に対して不穏な動きをなす分子の活動が予想されており。これが発火点となって日中間の戦争へ発展、さらに長期化するおそれさえ報告されておるのです」

 同席していた風見は、具体的な説明を求めた。

 尾崎「中国北部の我が軍は河辺正三少将の旅団が押さえていますが、御承知のように北京周辺には幾つもの軍閥が割拠しております。即ち蒋介石の北伐に抗して戦っている西北軍閥のボス馮玉祥配下の石友三、陳覚生ら。それを許さじとする蒋介石軍。もっとも彼らは表には出ません。……一方では、中国共産党も目を離せません。劉少奇の配下にある学生がト突出して衝突するかもしれません」

 近衛文麿や風見らは、尾崎秀実の情報収集とその分析力の優れた事に感心し、ソ連側のスパイである事を疑わず信頼した。

 尾崎が目指したのは、日本の平和ではなく、日本を共産主義化して天皇制度を廃止する事であり、ソ連を救う為に日本と中国を戦争させる事であった。

 つまり。他の革新官僚(偽装転向者)同様に、「敗戦革命」を目指していたのである。

 統制派軍人の池田純久は、陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で統制経済理論を学びマルクス主義に影響を受けた後に、企画院調査官となり革新官僚達(隠れマルクス主義者)と協力して国家総動員体制を指導した。

 池田純久は、梅津美治郎の懐刀と言われた秀才であった。

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 1月 議会で、浜田国松議員と寺内陸相の間で「割腹問答」が起こった。

 激怒した寺内陸相は、緊急閣議で、広田弘毅首相に衆議院解散を要求した。

 政党出身の4閣僚は解散の名分が立たないとして反対し、永野修身海相も解散には同意しなかった。

 ルーズベルトは、スターリンの警戒心を取り除く為に、ジュセフ・デービス民主党員をモスクワに派遣した。

 ソ連は、農業の集団化にって余剰となった労働力で産業の重工業化を図るという第一次五ヵ年計画を推進していたが、ウクライナを中心に大飢餓を引き起こし大量の餓死者を出して失敗していた。

 スターリンは、産業はもちろん社会の立て直しの為にアメリカからの多額の投資を受けるべく、ルーズベルトの提案を受け入れた。

 ルーズベルトは、ソ連への友好の証しとして、6月に国務省のソビエト部を廃止し、国内の親ソ派の監視を緩めた。

 スターリンは、アメリカの政策をソ連有利に誘導するべく大量のスパイを送り込み、ワシントンの主要ポストに同調者を就かせた。

 1月23日 広田弘毅首相は、軍部と政党との間での妥協を図ろうとしたが失敗し、閣内不統一を理由に総辞職した。

 誰の目にも、広田弘毅は陸軍の横暴による被害者であった。  

 軍部は、広田の平和を求める協調外交に反対し、ソ連・共産主義徒の戦争に備える為に軍備増強の要求をゴリ押ししていた。

 同時に、中国軍がナチス・ドイツの軍事援助で強化されている事に危機感を抱いていた。

 日独防共協定は、ソ連に備えると同時に、中国から手を引かせる目的であったが形骸化していた。

 広田弘毅は、軍部の要求を受け入ながらも中国との戦争を避ける為の外交交渉を進めていたが、中国側の戦争を起こそうとする謀略で全てが失敗に終わった。

 昭和天皇も軍国日本も、中国との戦争をできれば回避したいと願っていた。

 東京裁判は、A級戦犯広田弘毅を、軍部の暴走を止められず戦争を招いた罪でリンチ的縛り首にした。

 広田弘毅は、右翼の玄洋社に参加していたが侵略戦争を支持する過激派ではなかった。

 貧しい石屋のせがれであった。

 左翼・左派の良識派日本人は、貧困階層出身の広田弘毅を蛇蝎のように嫌っている。

 中国や韓国・北朝鮮などのアジア諸国は、戦争を回避しようとした広田弘毅を靖国神社から永久追放する事を求めている。

   ・   ・   ・   

 広田弘毅は、A級戦犯として有罪判決を受け処刑されたが、日中戦争から太平洋戦争に至るまで全ての段階でも戦争の共同謀議に関係はしていなかった。

 むしろ、戦争を防止する為に努力をしたし、戦争を終結しようと奔走もした。

 広田弘毅は、無罪であった。

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 2月2日 林銑十郎陸軍大将(A級戦犯)は、親中派として内閣を組閣するに当たり、日中関係が平和的に再調整される事を希望するとの表明をした。

 佐藤尚武は、軍部から対中宥和外交に反対しないとの了解を得た事で外相に就任し、内政不干渉の協調外交を行った。

 日本は、協調外交で徳になった事よりも損をした事の方がはるかに多かったが、先例墨守の日本的官僚主義で事態は好転するとして失敗から目を逸らし続けた。

 日本の外交は、外交能力のなさから、昭和に入ってから失敗の連続であった。

 軍部は、国外での満州防衛における対ソ・対共産戦略の強化と国内での二・二六事件後の処理が急務で、現時点での中国との紛争は極力避けたかった。

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 佐藤尚武外相は、ジョセフ・グルー駐日アメリカ大使に、林銑十郎内閣は対中融和が基本方針である事を伝えた。

 元横浜正金銀行頭取の児玉健次は、3月16日・17日に訪中し、蒋介石に両国の友好として経済協力を申し込んだ。

 蒋介石は、「日本の工業化(産業振興)の専門家の意見は歓迎する。そうする事で、中国の文化も経済も日本と同じ道程を辿って興隆するだろう。その上で東洋の幸福と和平構築を目指したい」と受入れを表明したが、その前提条件として塘沽(たんくー)協定の破棄を要求した。

 軍部は、満州事変の収束である塘沽協定の破棄を断固拒否した。

 児玉対中経済ミッションは失敗した。

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 3月 参謀本部第二部支那課長永津佐比重大佐は、ドイツ軍事顧問団の協力で上海の非武装地帯に堅固な防衛陣地が構築されつつあるとの情報を得るや、直ちに現地に赴き実情をくまなく調べて報告書を提出した。

 スターリンは、アメリカの世論を国共合作支持に誘導する為に、チャイナ・トゥデイ編集長ジャフェとIPRアメリカ支部局員フィールドに命じて雑誌アメラジアを創刊させた。

 編集員に、ソ連のスパイあり中国での布教活動の経験のあるビッソン宣教師を送り込んだ。

 3月3日 スターリン「戦争時に戦闘で勝利するには、何個軍団もの赤軍兵士が必要であろう。しかし、前戦でのこの勝利を台無しにするには、どこか軍司令部あるいは師団司令部でもいい、作戦計画を盗んで敵に手渡す数名のスパイがいれば十分だ」

 日本国内の政府や官庁や軍隊の中には、ソ連のスパイや協力者が多数潜入して活動し、日本の国策に影響を及ぼしていた。

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 4月3日 ファルケンハウゼン中将は、対日戦に備えて、青島に財政部の警備部隊である税警団を完全武装させて派遣し、多数の便衣隊を北京や天津方面に忍び込ませた。

 便衣隊とは、国際法で保護対象外の犯罪者(ゲリラ、テロリスト、スパイ、諜報部員、破壊工作員、その他)である。

 発見しだい。特に戦時においては軍法裁判を省いて、超法規的処分として戦場で現地司令官の判断で処刑する事が認められている。

 便衣隊を庇ったり匿ったりする者は、たとえ一般人であっても同罪として極刑にされた。

 便衣隊には、如何なる国の法律でも人権など全ての権利を否定している。

 東京裁判は、A級戦犯松井石根を便衣隊処刑に民間人が含まれていたとして有罪とし、リンチ的縛り首で処刑した。

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 4月 第20回総選挙で、無産政党の社会大衆党が37議席を獲得して大躍進した。

 社会大衆党の麻生久は、陸軍の政策は国民の生活向上につながらないと批判し、反軍立場を鮮明にした。

 4月7日 スターリンは、ハバロフスク地方委員会に暗号電報を送り、軍隊が増強されるまで日本の不法な挑発行為に乗せられて戦争を起こさない様に指示を与えた。

 ソ連は、日本軍を国境から遠ざける為に、日中全面戦争を画策した。

 日本と中国の戦争は、レーニン時代からソ連によって仕組まれ、避けられない運命にあった。

 4月16日 日本政府は、華北の分離や中国の内政を乱す様な政治工作にはしないという「対支実効策」を決定した。

 日本は、中国との戦争を避け、東アジアの平和を維持する為に話し合いによる問題解決を望んでいた。

 日本にとっての敵は、ソ連・コミンテルンの共産主義勢力であった。

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 5月1日 アメリカ連邦議会は、中立法を改正し、アメリカ政府が支援する必要があると判断した国家に対し軍事物資を供給する事ができるとした。

   ・   ・   ・   

 6月 アメリカで活動するラティモアやジャフェらはスメドレーと共に延安を訪れ、毛沢東や周恩来らと抗日戦についての秘密会議を持った。

 ニューヨーク州の小学校が、日米友好の架け橋として女子高師(現、お茶ノ水大学)附属小学校へ「青い目の人形」を寄贈する。

 日本国内でアメリカ・ブームが起き、アメリカの映画が大量に輸入され、アメリカ文化が紹介された。

 アジア・アフリカ地域で、アメリカ映画が多く上映されていたのは日本である。

 日本人は、アメリカに憧れ、アメリカ人を友人として親近感を持っていた。

 日本の国是は、アメリカとの協調であった。

   ・   ・   ・   

 6月4日 第一次近衛文麿内閣(昭和14年1月5日)が成立した。

 尾崎秀実は、革新派軍人の陸軍省軍務課長柴山兼四郎大佐と協力して、リベラル派風見章(隠れマルクス主義者)を内閣書記官長に送り込んだ。信濃毎日新聞記者当時、共産党員ではなかったが、『共産党宣言』を称賛する記事を掲載した事がある。

 「この宣言書は実に重大なる意義を歴史的に持つものである。その重要さはどんな言葉を用ひても誇大とはならぬほどのものである。最初にまづ彼らの持つ所の歴史的使命と、その尊厳さとを、感得せしねたのは、実にこの宣言であったのである」

 風見章は、戦後、社会党の衆議院議員となり、日ソ協会副会長やに日中国交回復国民会議理事長など歴任し、共産主義諸国との関係改善に功績を残した。

 戦後。政府や議会にいた革新的政治家や官公庁にいた革新派官僚の多くが、左翼系政治家や反天皇反政府系市民団体役員となっている。

 この時の陸軍次官は梅津美治郎で、柴山兼四郎大佐を可愛がっていた。

 柴山兼四郎大佐は、昭和3年11月から満州軍閥張学良の顧問補佐官を努めていた。

 支那事変。梅津美治郎大将は、関東軍司令官として新京に赴任した。

   ・   ・   ・   

 6月17日 グルー大使は、失敗に終わったにせよ、日本側の平和を求めた対中姿勢を評価する報告書をワシントンに送った。

上海総領事のガウスも、同様の報告書を送った。

   ・   ・   ・   

 6月23日 中国政府は、日中戦争の開始が近いとして、上海の各工場に対して上流への移転を命じた。

 日中戦争は、中国が仕組んだ、計画された戦争であった。

   ・   ・   ・   

 国際世論は、これを日本の侵略戦争と認定している。

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 6月30日 カンチャズ島事件。ソ連軍砲艦3隻が、国際法を無視し、自衛行為として満州国カンチャズ島を武力占領した。

 外交による話し合いで解決しようとすればソ連領にされる事はわかっていた為に、関東軍(参謀長東條英機中将)は陸軍中央の命令を無視し日満共同防衛協定に従って反撃してソ連軍に大損害を与えた。

 軍部は、ソ連軍との全面対決を恐れて「侵されても侵さない」の基本戦略を守る様に関東軍に厳命した。 

   ・   ・   ・   

 7月 ルーズベルトは、蒋介石が抗日戦の為にソ連から軍事支援を受けている事を確認し、近日中に軍国日本とファシスト独裁体制の中国が戦争に突入するとの極秘情報を得た。

 ソ連の各諜報機関は、日本・満州・朝鮮に約2,000人のスパイを送り込み、日本人・朝鮮人・中国人の協力者5万人以上から日本と満州の機密情報を入手していた。

 さらに。日本外務省の暗号解読書を日本人外交官となっている協力者から入手し、日本の外交暗号電報を棒寿司解読していた。

 日本の外交暗号電報は、アメリカ、イギリスそしてソ連に筒抜けであった。

 リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実ルートは、そうした情報網の一つである。

 ソ連軍諜報機関は、日本が過大評価するほどゾルゲ・尾崎グループを高く評価しせず、日本が終戦交渉の道具としてゾルゲの返還を申し込んでも拒絶し、処刑する事を黙認した。

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 7月4日 日本軍側は、中国当局に対して正規の手続きに則り、盧溝橋周辺で7日夜間から8日早朝にかけて攻撃訓練を実施する事を伝えた。

 日本と欧米列強は、義和団事件以来、内戦と犯罪が多発する中国で生活する自国民を保護する為に、清国との条約に従って北京から天津に自国軍隊を駐屯させていた。

 日本軍も、自国民保護の為に、天津に支那駐屯軍司令部を置き、他国との兵力差と中国側への刺激を避けるべく北京と天津に少数部隊を駐留させていた。

 各国軍隊は、国際法に基ずく条約で、中国側に通告して北京郊外で定期的な演習を行っていた。

 盧溝橋事件勃発以前。北京の日本公使館や上海、漢口、広東、天津などの領事館から、排日運動の被害や抗日暴動が中国共産党の煽動によるなどの情報が、東京の外務大臣宛に極秘電報で報告されていた。

 当時、中国で生活する日本人居留民は約9万人といわれている。

 上海に3万人。上海から重慶に至る揚子江沿いに3万人。青島とその周囲に2万人。北京と天津に1万人。

 日本人居留民を、中国共産党に扇動された凶暴な反日派中国人が隙あらば襲い掛かろうと狙っていた。

 そして。反日派朝鮮人テロリストと反天皇派日本人マルクス主義者も、日本と中国の全面戦争を今や遅しと待ち望んでいた。

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 2014年3月28日 msn産経ニュース「ネットに抗日記念館開設 中国、愛国心を鼓舞[中国]

 北京市郊外の盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館は28日までに、旧日本軍による暴力行為の写真などを公開するウェブサイト「抗日戦争インターネット記念館」を開設した。閲覧だけでなく、利用者が日中戦争と関連する資料やエピソードなどを展示できる仕組み。

 サイトは、大手ポータルサイト「新浪」「捜狐」「網易」「百度」などが協力し、27日に開設された。

 当局の意向を受けているとみられ、サイトには資料や写真のほか、安倍晋三首相の靖国神社参拝に関する言動やNHKの籾井勝人会長の慰安婦をめぐる発言が紹介されている。(共同)」

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 5月28日 msn産経ニュース「中国、負の歴史封印 「抗日」世界遺産登録で愛国心鼓舞狙う

 習近平指導部は抗日戦争を伝える施設の新設を加速。民主化運動を武力弾圧した89年の天安門事件に関する施設は中国本土にはない。共産党は「抗日」で愛国心を鼓舞しつつ負の歴史を封印、求心力向上を図っている。

 天安門事件後、当時の江沢民指導部は愛国教育の一環として各地で抗日に関する施設を拡張や新設。現在、抗日関連の「教育基地」は全国で少なくとも101カ所。ナショナリズムに根差した「中国の夢」の実現を提唱する習指導部はこの動きを加速。尖閣諸島や歴史問題で日本に攻勢をかける狙いもあり、初代韓国統監の伊藤博文を暗殺した朝鮮の独立運動家、安重根の記念館を1月、黒竜江省ハルビンに開設した。

 陝西省西安市では抗日記念碑を建設、重慶市でも同様の記念碑を計画している。南京事件の関連資料の世界記憶遺産への登録や、細菌兵器の人体実験を行った旧関東軍防疫給水部(731部隊)跡地の世界文化遺産登録の申請に向けた動きも進めている。(共同)

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 1937年2月4日 日独合作映画『新しき土』(独題『サムライの娘』)が上映され、大入り満員となって興行的に大成功した。監督はドイツ人のアーノルド・ファンク。制作費は約75万円で、ナチス・ドイツが出した。

 日本での上映作品は、共同監督である伊丹万作の編集版であった。

 ファンク版は、2月11日に公開された。

 ゲッペルス宣伝相は、映画をプロパガンダに最大限利用しただけに、日米両国の絆を強める為に「政治的、芸術的に優れている」と宣言し、ドイツの映画最高賞を授与した。

 ドイツ国内でも上映され、「観客総数600万人、最高記録のロングラン」と各新聞が報じた。

 劇中ナレーション「日本は災害が多く。それゆえ厳しい自然環境に鍛えられ精神性が磨かれた」

 「国家は家族の上になりたっており、その最上位にあるのが天皇家である。日本国は天皇家であり天皇家のために我々は生まれて死ぬ」

 「日本は人口が多く土が少ない、新しい大地が必要だ」

 良識ある映画評論家は、映画は庶民の芸術的娯楽であると言う立場から、政治的思想的プロパガンダ利用に反対して、酷評した。

 政府及び軍部は、映画を情報戦の一つと位置付けて、映画製作の事前検閲を義務付け、自由な映画批評を禁止した。

 日米友好の為に、アメリカ映画は1941年12月まで問題なく上映されていた。

 <映画製作の経緯>

 1920年代 ドイツ人の大半が、日本は第一次世界大戦において近代化への恩を裏切り、戦争を仕掛けてアジアの植民地や利権を奪ったとして嫌っていた。

 親日派のフリードリッヒ・ハック(通称、ドクター・ハック)とベルリン海軍武官事務所勤務の酒井直衛は、両国の友好の為に日独協会を設立し、ドイツの嫌日世論を改めるべく活動していた。

 フリードリッヒ・ハックは、ベルリンで、重工業メーカー・クルップ社の元日本支社長アルベルト・シンチンガーと組んでシンチンガー&ハック商社を立ち上げ、日本軍部にドイツの最新兵器や重工業品を売り込み、日本企業とドイツ企業との間で技術提携の仲介を行っていた。

 日本軍部や外務省に対して、対独外交のアドバイスを行っていた。

 だが、ドイツの政治家、軍人、企業家から一般市民に至るまでの反日感情は根強かった。

 1931年 若槻礼次郎首相。幣原喜重郎外相。

 満州事変当時。反日派ドイツ人は、中国に同情し、日本陸軍武官事務所に投石した。

 欧米諸国はもちろんドイツでさえ、ユダヤ系国際報道機関の反日報道で、日本は加害者で中国は被害者という反日嫌悪感が強かった。

 1933年 ヒトラー政権が誕生し、外務大臣は保守派の後押しでノイラート男爵が留任した。

 ドイツ人は、ヒトラーが主張するアーリア人種ゲルマン民族の優位性を信じ、日本人は物真似をするだけの低能な猿と軽蔑していた。

 欧米諸国の日本観は、蝶々夫人に代表されるゲイシャと富士山と切腹する狂人のサムライで、決して好意的なものではなかく、むしろ否定的で嫌われていた。

 ハックと酒井は、日本の良さを紹介する為に日独合作映画製作を企画した。

 ドイツ外務省は親中国派が主流で、ノイラート外相も反日親中国派であった。

 ドイツ経済界も、対中国貿易を重視して、中国の肩を以て日本には冷淡であった。

 ヒトラーも、対ソ連政策として、日本ではなく中国との提携を望んでいたが、ノイラート外相とはそりが合わずナチ党員のリッベントロップを重用してドイツ外務省と対抗させていた。

 当時のアジア外交は、対ソ戦略が基本であったが、軍国日本とファシスト中国とどちらと提携するか定まってはいなかった。

 ハックと酒井は、ヒトラーに信頼されているゲッペルス宣伝大臣を訪問し、日独合作映画への協力を懇願した。

 ゲッペルス宣伝相は、支援要請を快諾し、巨額な制作費の大半を出す事を約束した。

 1934年 斉藤実首相。広田弘毅外相。

 日本陸軍内部では、満州国を共産国ソ連の侵略から守る為にはナチス・ドイツとの提携が最善であるとして、ドイツの親中反日路線を親日路線に変更させるべく、ドイツ通の大島浩少将をベルリンに送り込んだ。

 軍部の戦略は、中国における領土拡大の為の侵略ではなく 、ソ連・共産主義勢力の滲透を防ぐ防衛であった。、

 だが。日本外務省は、ナチス・ドイツとの提携には消極的であった。

 大島駐在武官は、日本大使館に察知されないようにして、ハックとリッベントロップと密談を交わし日独防共協定の締結を進めた。

 ノイラート外相は、ヒトラーの親中国路線を推進して日本との提携を嫌っていた。

 日本軍部とリッベントロップは、日独防共協定締結の為に日独合作映画製作を利用する事にした。

 日本軍部は、ナチス・ドイツ国内の反日感情を払拭する為に映画をプロパガンダとして利用すべく全面協力した。

 1936年 岡田啓介首相。広田弘毅外相。

 ドイツの親日派は、世界最先端技術の特殊レンズで作られた超望遠レンズ「アスカニア」を映画撮影隊に渡した。

 ハックは、リッベントロップの密命を帯びて撮影隊と共に日本に着くや、大島武官が指定した陸海軍将校、官僚、政治家らに極秘で会って日独防共協定の趣旨を説明して回った。

 軍部首脳部は、ナチス・ドイツをファシスト中国から引き離し、ドイツ軍の中国への軍事支援を遮断する為の方便として歓迎した。

 「抗日中国軍が頑強に抵抗しているのはドイツ軍が軍事支援をしているからである」、と言うのが日本軍の見解であった。

 ソ連のスパイであるリヒャルト・ゾルゲは、日独合作映画製作の裏の意図を探ったが、ハックを単なる武器商人として重要人物とは見なさなかった為に深くは調べなかった。

 ソ連・コミンテルンは、世界に共産主義革命を輸出する為に日本軍と抗日中国軍・ドイツ軍を戦わせ、アジアに於ける日本軍とヨーロッパにおけるドイツ軍の軍事力を削ぐ計画を進めていた。

 中国共産党は、コミンテルンの指示に従って日中戦争を煽り、解放区を広めていた。

 2・26事件。

 ハックの隠密行動は、日独合作映画製作に隠れて、その真の目的を知っている人間は極少数であった。

 広田弘毅首相。有田八郎外相。

 7月 バイロイトの旧ワーグナー邸。大島武官は、リッベントロップの仲介でヒトラーと会談し、日独防共協定案を説明して承諾を得た。

 広田弘毅首相は、軍が勝手に進めていた日独防共協定を突然説明されたが、日中戦争終結につながるものとして承認した。

 広田弘毅は、日独防共協定を締結し日中戦争を拡大した罪でA級戦犯に指定され、リンチ的縛り首で処刑された。

 ノイラート外相とドイツ外務省は、依然として親中国路線を堅持して軍国日本との関係改善には反対していた。

 8月 駐英大使としてロンドンに赴任したリッベントロップは、ヒトラーの極秘指示に従い、イギリスに防共協定への参加を希望した。

 ヒトラーは、ソ連を滅ぼし共産主義を根絶させるべく、アメリカとの戦争を避け、イギリスとの同盟を望んでいた。

 イギリスは、ヒトラーの申し込みを拒否した。

 11月25日 ベルリンのリッベントロップ事務所で、日独防共協定が調印された。

 日本側代表は武者小路公共大使で、ドイツ側代表はリッベントロップ特命全権大使であった。

 1937年 林銑十郎首相。佐藤尚武外相。

 2月末 昭和天皇は、日独防共協定締結にハックが貢献した事を日本政府が推賞した為に、憲法の規定に従って勲四等旭日小綬章を授けた。

 ドイツ国防軍と保守派は、1940年に三国同盟が締結されるまで、抗日中国を密かに支援していた。

 軍部は、ナチス・ドイツをファシスト中国から完全に手を引かせる為に、より強固な関係を築くべく三国同盟締結を進めた。

 大島浩「当時は三国同盟の道が正しいと信じた。けれど私の見通しは誤りだった。生きている事を申し訳なく思う」

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ぼくらの日本

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2017-09-15

♫:26─5─反日派のドイツ人は、日本人五輪選手団の礼儀を知らない無作法で傲慢な態度に憤慨し、反日感情を高めた。1936年〜No.114 @  ❸      

庶民の発見 (講談社学術文庫)

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 2017年4月13日号 週刊新潮「オリンピック・トリビア! 吹浦忠正

 体協幹部が総辞職 『ベルリン五輪選手団』の醜聞

 1936年8月のベルリン五輪を終えた日本選手団の本隊は、マルセイユで鹿島丸に乗り込み、10月2日に神戸港に帰着した。

 ソンな折、10月21日、読売新聞が在独日本大使館の森島守人一等書記官(日米開戦時のニューヨーク総領事、戦後は左派社会党所属衆院議員など)の発言を引いて、『日本選手団は醜聞だらけ』という5段見出しの特ダネを掲載した。

 森島の発言は、〔魄同士が内輪もめをしていた、∈瀑汎本人会が選手団に3万円の寄付をして、二十余人の通訳を雇って役員に付けてやったのに感謝せず、召使同然に扱った、A手団は選手村隣の兵舎に一時入居した際、風呂がないと組織委のレヴァルト会長に直訴し、無礼を非難された(遅れて日本式の風呂までできた)、ち手団が案内役の独軍将校に聞くに堪えない暴言を吐いた(将校が日本語を理解することを知らなかった)というもの。

 森島は『こんな国辱的なことはない。在留日本人はドイツ人に顔向けできなかった』『これでは次期東京五輪が心配でたまらない』と広田弘毅内閣の平生釟三郎(ひらおはちさぶろう)文相に通報したという。

 読売は24日にはホッケーの選手が船内でカミソリを振り回して怪我をしたと報じ、25日付には同じ船に乗り合わせた田中耕太郎東京帝国大教授(後の最高裁長官)の目撃談を掲載した。『船中の生活はまさに国辱もの。上海を出て祖国に向ふという晩などの騒ぎは大変なもので、午前4時頃まで船客はほとんど眠ることもできなかったほど』。そして田中は幹部に『外交官的使命を果たしえる人格、識見の優れた人を選ばねばいけない』、『学業は第二、第三、ただ記録だけを争つて人格の淘汰を忘れいるところに禍根がある』としている。

 反論も覚束ないうち、月刊論壇誌『セルパン』(36年12月号)が『体協不統制の真相を公表す』と具体的に醜状を暴露し、大日本体育協会は役員のほぼ総入れ換えに追い込まれた。

 読売新聞運動部記者でオリンピックの紹介につとめた川本信正は、

 『(日本のスポーツは)森島や田中が想像してくれる程の高貴性を持つていなければ、また自らの文化的な役割をハッキリ意識しているわけでもない』

 と『セルパン』の特集記事の最後で苦しい弁護をしている」

   ・   ・   ・   

 日本人の礼儀正しさは「立つ鳥跡を濁さず」と言われるが、それは一部の日本人だけで、多くの日本人はむしろ悪ふざけに走りやすいお調子者である。

 その本性は、勇気などからっきしない、臆病者であり、小心者であり、気弱であり、恥ずかしがり屋であり、問い詰められたり追い詰められると、冷静さを失い、我を見失ってパニックに陥りやすい。

 日本人が起こした関東大震災の朝鮮人惨殺事件や第2回南京事件などの残虐行為は、日本民族が持っているパニックに陥りやすいという心の闇が原因であった。

 カミカゼ特攻や万歳突撃・玉砕や集団自決の悲劇・悲惨は、「どうせ自分は生きている価値のないつまらない人間で死ぬしかない」という自暴自棄の自己否定で暴走して起きた。

 その本姓を隠す為に酒を飲み、「酒の上のあやまち」と見苦しい言い訳をしながらドンチャン騒ぎをして誤魔化した。

 それは、さもしい庶民根性であって、潔い武士道ではなかった。

   ・   ・   ・   

 日本人の精神は、多数派の卑しい庶民根性であって少数派の勇ましい武士道ではない。

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 昭和前期の軍部を支配したのは、高貴な武士道ではなく下賤の庶民根性である。

 軍国主義者は、庶民出身の職業軍人や右翼であった。

   ・   ・   ・   

 明治の軍人や官僚は、サムライ出身で、人格者で品格・品性を持ち節度をわきまえていた。

 昭和の上級軍人やエリート官僚は、庶民出身で、丸暗記試験の高得点を取った秀才で、傲慢で下劣で分別を持っていなかった。

   ・   ・   ・   

 明治の元勲や重臣達は、庶民が国民皆兵で入隊し、庶民根性が軍隊に蔓延して軍隊を暴走させ危険があるとして天皇の統帥権で縛り、軍人は「政治に関与すべからず」との掟を定め、軍人を政治の表舞台から遠ざけた。

   ・   ・   ・   

 庶民根性には、天皇や国家への忠誠心はなく、憲法や法律を遵守する気もなく規律や規範を破りやすかった。

   ・   ・   ・    

 庶民根性は、ダラダラとして命令など真剣に聞かず、ちゃらんぽらんで軍紀や軍律を守る気もなかった。

   ・   ・   ・   

 軍隊は、庶民根性に絶対服従を叩き込む為に、皇国史観で洗脳して愛国心を植え付け、暴力的鉄拳制裁を加え、無謀な軍事教練を施した。

 軍事教育とは、庶民根性を形成していた人格・個性を完全破壊する事である。

   ・   ・   ・   

 誰が上司・領主になろうとも気にはせず、面従腹背で「ご無理ご尤も」と適当にやり過ごしていた。

 庶民根性にとって日本の支配者が誰であろうともどうでも良く、日本人であろうが、アメリカ人であろうが、中国人であろうが、朝鮮人であろうとが、ユダヤ人であろうが、ロシア人であろうが、案山子であろうが、こけしであろうが、犬猫であろうが、鳥であろうが魚であろうが、人口知能であろうが、ロボットであるが、石であろうが、草木であろうが、お化けであろうが妖怪であろうが、姿形があろうがなかろうが、とにかく盲目的に従った。

 庶民根性には、民族意識はなく、日本民族などに愛着はなく、日本民族を自己犠牲で守ろうという気もサラサラなかった。

   ・   ・   ・ 

 日本人は心の闇を恐れ、「穢れ」として浄化する為に、痩せ我慢や根性という精神主義に縋り付いて心の安定を保とうとした。

   ・   ・   ・   

 日本の庶民は、中国の民衆や欧米の大衆とは異なる。

 日本の歴史とは、庶民根性を封じ込める為に苦心した歴史である。

   ・   ・   ・   

 そうした自制心のない浅はかな庶民根性を鎮めるのに適していたのが、程ほどを良しとする曖昧・適当な日本神道・日本仏教・日本儒教であり、適していなかったのが絶対価値観を強要・強制する不寛容な朱子学の正統派儒教・キリスト教・共産主義であった。

 中華儒教やインド仏教は、日本に馴染むように教義・信義がねじ曲げられ、全く別物に変節させて日本に受け入れられた。

 キリスト教や共産主義が日本に根付かなかったのは、日本天皇の存在ではなく、権力者による非人道的弾圧でもなく、単純に庶民根性に嫌われたからである。

 庶民根性は、宗教性も政治性も道徳性も無縁で、思想・哲学・主義に馴染まず、深く真理を探求する小難しい論理的合理的な思索を嫌った。

   ・   ・   ・   

 庶民根性の本質は、自己満足の欲望と感情であった。

 庶民根性が求めたのは、自然のままの、奔放気ままな、何物にも束縛されない制限されない「ありのまま・あるがままの自由」であった。

 それは何故か、それは世にも恐ろしい逃れる事のできない自然災害多発地帯で生きる為である。

   ・   ・   ・   

 自然災害多発地帯は、予想しなかった災害で大きな被害がでたが、それは紛れもない現実の宇宙の森羅万象、自然の法則、自然の理法、自然の摂理にすぎなかった。

 そこで生きると言う事は、平等ではなかったが公平であり、左でも右でもない中庸で調和のとれた現実の生き様であった。


   ・   ・   ・   

絵から読み解く 江戸庶民の暮らし

絵から読み解く 江戸庶民の暮らし

2017-09-14

♫:26─2─2・26事件と軍部大臣現役武官制復活の影にコミンテルン・共産主義者の対日謀略。〜No.111        

昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像

昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像

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 マルクス主義者・共産主義者・社会主義者は、隠れマルクス主義者・マルクス主義転向組としてエリート革新官僚、エリート軍人官僚、統制主義的学者、高学歴出身記者、右翼活動家などになって、政府・中央官庁・軍部・報道機関・大学などの教育機関・地方自治体・市民団体など社会に広くそして深く入り込んでいた。

 彼らの多くは、敗戦後、GHQと野坂参三らが始めた日本大改造計画に参加するべく日本共産党や日本社会党などに入党した。

   ・   ・   ・   

 2017年10月号 正論「ロシア革命100年

 インテリジェンス・ヒストリーをタブー視するな 江崎道雄

 ……

 今年は、ロシア革命から100年にあたる。1917年に起きたロシア革命によってソ連という共産主義の国家が登場した。ソ連は、コミンテルンという国際共産主義ネットワークを1919年に創設し、世界『共産』革命を目指して各国に対して『秘密工作』を仕掛けた。

 ……

 インテリジェンス・ヒストリーという学問

 そもそも『秘密工作』などというよ、日本ではまともな学問として扱ってもらえないが、それは、日本がおかしいのだ。欧米諸国では、国際政治学、外交史の一分野として、この秘密工作について論じる学問が成立している。『情報史学』(インテリジェンス・ヒストリー)という。

 1990年以降、欧米の主要大学で次々と情報史やインテリジェンス学の学部・学科、専攻コースが設けられ、ソ連・コミンテルンの秘密工作についての研究も進んでいる。この動きは英語圏にとどまらずオランダ、スペイン、フランス、ドイツ、イタリアなどでにも広がっているが、なぜか日本だけはこの世界的な動向から取り残されてる(中西輝政『創刊の辞』、『情報史研究』創刊号〈2009年5月〉、情報史研究会編集・発行)。

 しかし、コミンテルンの秘密工作によって大きな影響を受けていたことを無視してルーズベルト政権のことも、あの戦争のことも正確に理解できるはずがない。同様に日本も、ソ連・コミンテルンの秘密工作によって大きな影響を受けてきた。ゾルゲ事件が有名だが、それは氷山の一角に過ぎず、政治家、官僚、軍部、マスコミなど広範囲に影響は及んでいた。コミンテルンや社会主義、共産主義といった問題を避けては、日本がなぜあの戦争に突入したのか、全体像の理解など困難なはずなのだ。

 軍部大臣現役武官制が軍の台頭を招く?

 ここでは一例だけ挙げよう。 

 2・26事件の責任をとって退陣した岡田啓介内閣に代わって成立した広田弘毅内閣は、軍部大臣現役武官制を復活する。この復活によって軍部の独裁が始まったというのが通説だ。例えば、半藤一利氏はその著『昭和史』(平凡社)の中でこう指摘している。

 ≪広田内閣がやったことは全部、とんでもないことばかりです。(中略)まず大正2年(1913年)以来、二十数年ぶりに復活した『軍部大臣現役武官制』、現役の軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれない制度です。現役軍人とはいま軍にいる将官で、軍を退いた予備役、後備役の人は大臣になれない。(中略)結果として、ほかから選ぶことができないから、陸軍や海軍が『ノー』といえば大臣になれない。陸海軍大臣のない内閣はあり得ないわけですから、内閣が組織できない、つまり以後、陸軍ないし海軍の意に染まらない内閣ならば大臣は出さない、もしくは辞職するということで、内閣はたちまち倒壊します。従って、内閣をつぶすのもつくらにのも、軍の思うままということです。政治に介入するための『伝家の宝刀』を軍が握ったことになる。これは非常に重大で、のちのち大きく影響してきます≫

 一方、筒井清忠帝京大学教授はその著『昭和10年代の陸軍と政治』(岩波書店)で、こう結論づける。

 ≪広田弘毅内閣組閣(1936年3月)において昭和10年代期陸軍の政治介入は始められた。『不祥事』を起こしておきながら政党員や自由主義者を入閣させるななどといった強硬な要求を陸軍は広田首相につきつけたのである。それは組閣本部を脅かしほとんどが実現されたのだが、重要なことは、この時、軍部大臣現役武官制でなくとも陸軍は組閣に協力に介入しえたのである≫

 つまり軍部としては、軍部大臣現役武官制は必要なかった。では、なぜこの制度は復活されたのか。筒井教授は≪予備役に入った皇道派将官の復活を阻止する≫狙いが含まれていたと指摘する。

 東京憲兵隊の大谷敬二郎氏もその著『天皇の軍隊』(図書出版社)でこう指摘している。

 ≪次田法制局長官は、この案が枢密院の審査に付せられたとき、審査委員を歴訪して、このままにしておくと、真崎、荒木といった皇道派の起用となるおそれがないではない。そうなっては粛軍にもとる結果となるのでと力説して、賛同を求めた≫

 次田法制局長官は野坂の義兄

 半藤氏の『通説』の間違いを指摘した筒井教授による精緻な検証作業に敬意を表するが、同時に一つ疑問が湧いてくる。

 この次田法制局長官が、実は日本共産党の幹部であり、中国共産党と連携して日本軍に対する反戦工作を仕掛け、コミンテルン執行委員でもあった野坂参三の義兄だったことになぜ触れていないのか、ということだ。

 野坂は早く両親と死別し、長兄(お菓子メーカーで有名なモロゾフ社社長)の養子先、葛野家に引き取られた。その葛野家の四女、信と1914年に結婚したのが次田なのだ。この時点で次田と野坂は親戚関係となっている(和田春樹『歴史としての野坂参三』、慶應義塾『福澤研究センター通信』2010年3月31日発行)。

 しかもその5年後の1919年に野坂参三も葛野信の妹、竜(龍と書く場合もあり)と結婚している。次田夫人の妹と結婚した野坂は夫婦で渡英し、イギリス共産党に入党。1921年5月13日、イギリス政府より国外退去を命ぜられた野坂は、スイスのローザンヌに在住していた次田の宿舎に滞在している。

 次田は、国際労働機関(ILO)政府代表者随員としてヨーロッパに派遣されていたのだ。

 その後、野坂は帰国するのだが、そこでも次田とのつながりは続いた。『実録 野坂参三』(株式会社マルジュ社)はこう記す。

 ≪野坂参三は、1928(昭和3)年の『3・15事件』一斉検挙で逮捕され、市ヶ谷刑務所で入獄生活を送っていたが、1930年(昭和5)年2月26日に『目の病気』ということで拘留執行の一時停止を受け、市ヶ谷刑務所を出獄する。そして、1931(昭和6)年3月にモスクワに向けて出発し、コミンテルンに潜り込む。この野坂参三の出獄からモスクワ入国に至るまでの一連の出来事に、重要な役割を果たしていた人物こそ、次田大三郎であったと見なすことができる≫

 野坂の出獄、そしてモスク行きに、次田がどう関わっていたのか、詳しい説明はこの本には書かれていない。だが、モスクワに行った野坂が1933年12月、コミンテルン第13回執行委員会総会において『日本における勤労大衆の革命闘争』と題した演説をしたことは事実だ。

 しかも、その演説の中で、日本共産党による日本軍工作の関連で皇道派の荒木貞夫陸相を名指しでこう批判している。

 ≪将来対ソ連邦戦争が起こった場合、革命的兵士が指揮官たる荒木に反抗し、彼らの部隊を赤軍の部隊にかえ、武器を天皇に向けることも全然夢想ではない≫(『野坂参三選集 戦時編』日本共産党中央委員会出版部)

 この野坂演説から僅か2年後に起こった2・26事件とその後の現役武官制の復活で、ソ連に警戒心を持つ荒木貞夫ら皇道派は排除され、どちらかと言えば、ソ連に宥和的な統制派が陸軍の主導権を握り、軍の政治介入が強まっていく。果たしてこれは偶然なのか。

 しかもこの次田は戦後、幣原内閣のもとで内閣書記官長、いまでいう内閣官房長官としてGHQによる憲法押し付けを含む占領改革を推進した人物でもある。

 このようにコミンテルンという視点を加えると、これまでとは全く異なる昭和史の光景が浮かび上がってくる。

 いわゆる東京裁判史観を否定しようとする余り、戦前を丸ごと肯定するかのような議論があるが、戦前の日本にも議会制民主主義や言論の自由を損ない、統制経済を推進するなど多くの問題があった。そしれその背景に実は、コミンテルン、そしてアメリカやイギリスなど外国からの秘密工作があったことを視野に入れるべきなのだ。

 現在の日本の政治もそうだが、外国からの影響力工作は必ず存在している。あの戦争に至る真実を知り、憲法改正において、あるべき日本の姿を前向きに考えていくためにも、コミンテルンの秘密工作を正面から論じるインテリジェンス・ヒスストリーが必要なのだ」

   ・   ・   ・   

 日本の地政学において、領土拡大を目指した大陸侵略は存在しない。

 同様に、「富や豊かさを求めて大陸と交易を盛んにする」、という日本の地経学も存在しなかった。

 つまり、世界常識としての地政学も地経学も、日本の歴史上に存在せず、明治までの日本を説明する事は不可能である。

   ・   ・   ・   

 日本民族日本人は、そもそも、中国大陸や朝鮮半島の大虐殺と略奪・強奪に恐怖して日本列島に逃げ込んだ民の子孫であるから、表面的な商売や文化的な浅い繋がりを求めても深い繋がりを好まなかった。

 その証拠に、中国や朝鮮から日本に逃げてくる歴史は存在するが、日本から中国や朝鮮に移住した話は皆無に近い。

   ・   ・   ・   

 日本人にとって、中国人や朝鮮人は「敬して遠ざける」べき相手であり、中国大陸や朝鮮半島は広いだけで住みたいとは思わない魅力のない不毛な土地であった。

   ・   ・   ・   

 日本の歴史における地政学にせよ地経学においても、中国大陸や朝鮮半島は存在しない。

   ・   ・   ・   

 日本の歴史における海外からの脅威とは、鎌倉時代までは西(中国・朝鮮)と北(蝦夷)であり、戦国時代から江戸時代初期までは南(南蛮・キリスト教)であり、江戸時代後期は北(ロシア)であった。

 それは、発展の為の積極的地政学ではなく、生きる為の消極的地政学であり、攻撃ではなく防衛であった。

 日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵、1592年・93年の文禄の役・壬辰の倭乱と1597年・98年の慶長の役・丁酉の倭乱の2回だけである。

 当時の世界情勢は、西洋人(白人キリスト教徒)によって日本人が奴隷として海外に売られていた時代である。

 日本は、寛平の韓寇(894年)で新羅水軍に、刀伊の入寇(1019年)で女真(じょしん)・高麗の混成海賊に、文禄の役(1274年)と弘安の役(1281年)で元・高麗連合軍に、応永の外寇(1419年)で李氏朝鮮軍に、侵略され、その度に虐殺され、強奪され、強制連行され奴隷として売られていた。

 820年 弘仁新羅の乱。新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。

 反天皇反日的半島系渡来人等の反乱・暴動が多発していた。

 日本にとって朝鮮は侵略国家か盗賊・海賊集団であった。

 朝鮮人テロリストは、度々、昭和天皇(桜田事件)や皇族(台中事件)を暗殺しようとした。

 歴史を教訓とし報復権・復讐権が認められるのであれば、日本民族日本人には中国と朝鮮に対して報復権・復讐権がある。

 ロシアは、北方領土で日本人惨殺などの海賊行為を行い、対馬を一時軍事占領し租界地として使用する事を強要し、あわよくば蝦夷地(北海道)の一部をロシア領にしようとした。

 レーニンとコミンテルンは日本とアメリカを全面戦争に追い込む戦略を練り、中国共産党は日本人居留民への殺害・暴行・強姦などの犯罪行為を繰り返し、その手先になったのが反日派朝鮮人と日本人共産主義者であった。

 最も極悪非道であったのが中国共産党である。

 マルクス主義・共産主義ほど、歴史上で最も怖ろしいイデオロギーは存在しない。

 共産主義者は共産主義の大義・人民の正義という美名の下で、世界中で大虐殺を繰り返していた。

 ナチス・ドイツ、ソ連、アメリカ、イギリス、フランスは、日本と戦うファシスト中国(中国国民党)をヒト・モノ・カネで軍事支援した。

 ユダヤ系国際金融資本も国際的軍需産業も、軍国日本と戦う全ての国・勢力をカネ・モノで全面的に支援していた。

 アメリカのキリスト教会も、キリスト教徒である反日派中国人や朝鮮人テロリストを支援し庇っていた。

 軍国日本が主張した「自衛戦争」とは、そうした歴史的背景がある。

 だが、戦時国際法は、日本の自衛戦争は侵略戦争と認定し、日本の軍事行動全てを時効なき戦争犯罪と裁定した。

 東京裁判は、日本を侵略国家として歴史に刻み、未来永劫、日本人に謝罪と反省と賠償という十字架を負わせた。

 歴史を鑑とすれば、日本は完全ある被害者であり、中国・朝鮮・ロシアそして西洋・キリスト教会は紛れもなき加害者である。

 中国共産党は尖閣諸島・沖縄を強奪しようとしているし、韓国は竹島を、ロシアは北方領土を不法占拠している。

 性善説のお人好しな日本人は、全ての加害者の罪を「水に流し」、信じ合える友人として接しようと心がけている。

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 大正時代から日本の存立の危機とは、天皇制度国家を破壊し、日本民族日本人を死滅させようとした、ソ連・中国共産党・日本共産党ら国際的共産主義勢力=コミンテルンによるイデオロギー侵略であった。

 日本国と日本民族日本人は、2000年近く祖先が命を犠牲にして伝えてきた伝統的天皇制度と皇室を守る為に、世界を相手として絶望に近い戦争を繰り返してきた。

 祖先の思い・志、命・魂を受け継ぎ後世に伝える戦いが、日本にとっての正義の戦争・正しい戦争であった。

 だが、世界はそれを戦争犯罪として完全否定した。

 また、現代の日本人も、伝統的天皇制度を自己犠牲で守ってきた祖先の思い・志、命・魂を無価値として踏みにじっている。

 その証拠が、日本罪悪人史観に基ずく戦争犯罪の近現代史である。

 その実例が、靖国神社問題である。



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コミンテルンの謀略と日本の敗戦 (PHP新書)

コミンテルンの謀略と日本の敗戦 (PHP新書)

2017-09-13

♫:22─2─桜田門事件。昭和天皇暗殺失敗。国内外に昭和天皇や皇族を殺そうとしていたテロリストが多数いた。ウィキペディア。1932年1月8日。〜No.97       

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗   

   ・   ・   ・   

 現代の韓国は、朝鮮人テロリストが建国した反日国家である。

 韓国は、反日であって、親日でもなければ知日でもない。

   ・   ・   ・   

 治安維持法は、日本人共産主義者を弾圧するには有効であったが、国内に潜伏した朝鮮人テロリストや反日派中国人工作員を取り締まるには役立たなかった。

   ・   ・   ・   

 反天皇反日的日本人や天皇制廃絶論者は、昭和天皇や皇族を暗殺しようとした朝鮮人テロリストの暗殺行動は合法的であったと理解を示し、天皇;皇族殺害に反対も否定もせず、ただテロ行為を黙認している。

   ・   ・   ・   

 国内外に、昭和天皇と皇族を狙うテロリストが暗躍していた。

 国家元首あるいは民族と国家の統合の象徴である昭和天皇を守ったのは、法律では治安維持法と不敬罪であったが、人では日本民族日本人のみであった。

   ・   ・   ・   

 日本天皇は、世界の王侯貴族の中でも最上位クラスに存在する由緒正しい日本国皇帝である。

   ・   ・   ・   

 ウィキペディア

 桜田門事件(正字体:櫻田門事件)は、昭和7年(1932年)1月8日に起きた昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件で、四事件ある大逆事件の一つ(最後)である。犯人は朝鮮出身者の李奉昌で、天皇に危害を加えようとしたかどで大逆罪に問われ、死刑となった。李奉昌大逆事件とも。

 概要

 観兵式還御の鹵簿に手投弾を投ず?: 畏くも天皇陛下御異状あらせられず?: 大逆犯人は朝鮮人 (大阪朝日新聞)

 昭和7年(1932年)1月8日、陸軍始観兵式のため、行幸が行われていた。午前11時444分頃、行幸の帰りに、皇居・桜田門の外、麹町区桜田町警視庁庁舎前に通りに差し掛かった鹵簿の馬車に対して、突然、奉拝者の線から沿道に飛び出した男が手榴弾を投げつけた。

 狙われた馬車は第二両目の御料馬車で、宮内大臣一木喜徳郎が乗車するものであった。手榴弾は左後輪付近に落ちて炸裂し、馬車の底部に親指大の2、3の穴を開けたが、手榴弾は威力が小さく、馬車と隊列はそのまま進んで午前11時51分頃、皇居内に到着した。後に破片で、騎乗随伴していた近衛騎兵1人とその乗馬と馬車馬の馬2頭が負傷していたことがわかった。

 昭和天皇は第三両目の御料馬車に乗車しており、手榴弾はその32メートルも前方で炸裂。車内にあって音を聞いた程度だった。奈良武次武官長が陪乗していたが、天皇は極めて冷静沈着で、帰還後も事件について何ら言葉をかけることもなかったという。

 襲撃者は一名で、警視石森勳夫、巡査本田恒義、山下宗平、憲兵河合上等兵、内田軍曹の五名によって即座に逮捕された。犯人は朝鮮京城生まれの李奉昌という人物で、朝鮮独立を目指す金九が組織した抗日武装組織・韓人愛国団(大韓僑民団)から派遣された刺客であった。

 即座に取り押さえられた李奉昌

 李は先月28日に昭和天皇が観兵式に臨席することを東京朝日新聞で知り、犯行の前々日(1月6日)にバス運転手菅原久五郎から偶然入手した憲兵曹長「大場全奎」の名刺を使って観兵式の警戒網を2回突破した。赤坂付近で襲撃する予定が、待っている間に付近の一つ木食堂で日本酒を飲んでいて鹵簿をやり過ごしてしまい、李は慌てて円タクを呼び止めて三宅坂の陸軍参謀本部前で降り、そこから走って警視庁正門まで行って奉拝者の列に混ざったという次第であった。李はどの御料馬車に天皇が乗車しているかを知らなかった。焦りや動揺の中で第一両目に投げようとしたが投げきれずに断念し、第二両目が次に来て漸く決心して投げきったというところで、誰が乗車しているかなどを考える余裕はそもそもなく、襲撃は失敗に終わった。

 この事件は大逆罪(刑法第七十三条)に該当し、大審院特別権限に属するということで、東京地方裁判所検事正は、即日、検事総長小山松吉に送致し、小山は直ちに大審院長和仁貞吉に予審を請求。和仁は東京地方裁判所判事に予審を命じ、上席予審判事秋山高彦が取り調べること、国選弁護人には鵜澤總明、山口貞昌の両名があたることに決定した。6月30日までに予審は終了し、大審院は7月19日に公判開廷日を決定。9月16日、公判を開き、予審調書を採用して即日結審した。

 9月30日午前9時15分、大審院大法廷において和仁裁判長は特別裁判の被告李奉昌に刑法第七十三条による極刑を言渡した。10月10日に死刑は執行された。

 影響

 不敬事件の発生に驚愕した犬養内閣は、内閣書記官長森恪の招集で緊急閣議を開き、政府責任について協議した。大正12年(1923年)の虎ノ門事件の際には第2次山本内閣は総辞職したため、これに習おうという意見や自重すべきという意見など様々あった。内務大臣中橋徳五郎、商工大臣前田米蔵、農林大臣山本悌二郎が旅行中で、大蔵大臣高橋是清は病気療養中で欠席していたが、とりあえず辞表を提出して天皇の裁可を仰ごうということになり、当日午後5時に旅行中の三名分を除く全員の辞表が提出された。

 ところが8日の夜、昭和天皇は現在の時局は重大であるとして鈴木貫太郎侍従長を西園寺公望のもとに派遣して下問させ、事態収拾を命じた。西園寺は犬養毅が優諚拝受して内閣を続行するように説得した。山本権兵衛も当事件は虎ノ門事件の状況とは異なると述べ、引責辞任の必要はないとした。翌9日午前8時、犬養毅首相以下全閣僚が出仕。午前10時、天皇自ら「時局重大なるが故に留任せよ」と命じて、犬養内閣は一転して留任することになった。

 他方、上海では中国国民党機関紙「民國日報(中国語版)」が事件について「不幸にして僅かに副車を炸く」などと犯人に好意的な報道をしたことから、現地の日本人社会による糾弾運動に発展して日中関係が緊迫化し、これが第1次上海事変の原因の1つになった。

  ・   ・   

 李奉昌(日本語読み;りほうしょう、朝鮮語読み;イ・ポンチャン、1900年(光武4年)8月10日 - 1932年(昭和7年)10月10日)は、金九の命を受けて昭和天皇の暗殺を試みて桜田門事件を起こしたテロリストである。襲撃は、失敗し大逆罪となって死刑に処された。日本名は木下昌蔵。韓国では独立運動家、義士とされている。

 経歴

 前歴

 大韓帝国時代の朝鮮の漢城府龍山で李鎮球の次男として生まれた。兄は李範泰。

 『屠倭實記(韓国語版)』では、生家は京畿道水原に先祖伝来の土地を持っていた中流農家であったが日本の鉄道敷設権で鉄道が開通された際に土地収用されて貧窮し京城府に出てきたとされているが、事件後の予審調書で李奉昌本人はこれとは異なる説明をし、彼の父は先祖の財産に頼らず建築業と運送業で自力で財をなした新興資本家であったと言う。いずれにしても初め裕福な家庭で育った。

 大正4年(1915年)、京城府錦町私立文昌学校卒。父は本妻である母を捨てて妾と暮らし大病を患ったり詐欺被害にあったりして家は急激に没落。経済的理由で進学できず、卒業すると生計のために働くことを余儀なくされた。京城府元町2丁目にあった日本人経営の菓子店である和田衛生堂の店員となり、大正6年(1917年)まで勤務するが、この間にマラリアを患い、以後、季節の変わり目などには後遺症の関節炎に終生悩まされた。次いで日本人薬剤師が経営する龍山区漢江通の村田薬局に転職。翌年辞めた。

 大正8年(1918年)、朝鮮総督府鉄道の鉄道庁に人夫として就職。後に転轍手となり、操車係見習に昇進したが、公社である同社では外地人労働者と内地人労働者の間の差別が顕著で、賃金や待遇などの格差に次第にやる気を失い、酒と賭博(麻雀)で身を崩して4、5百圓(円)の借金を抱えた。ちょうどこの頃、朝鮮半島では三・一運動(万歳運動)が起こっていたが、李は全く参加しておらず、後の予審調書でも国選弁護士山口貞昌の質問に青年期には反日にも独立運動にも関心がなかったと答えている。大正13年(1924年)4月、退職金で借金を返済するために関節炎が歩けないほど悪化したとの嘘の申告をして龍山駅操車課を退職した。

 同年11月、兄と一緒に大阪に渡り、知り合った藤幡という日本人が朝鮮人派出婦を所望していると聞いて、姪の李銀任を紹介し、往復の旅費のために給与の仮払金(手付金)を貰って帰国。母を説得して許可を得ると、翌大正14年(1925年)、銀任を連れて大阪に戻って藤幡に引き渡した。

 李は日本で職を探すことにしたが、職安職員にお前の朝鮮名は発音しづらいと言われたことから、日本名「木下昌蔵」を名乗るようになったと言う。

 大正15年(1926年)2月、大阪のガス会社に人足として就職。しかし9月に脚気になって東成区の大阪慈恵病院(現大阪市立弘済院)に入院し、村田薬局店員の時に隣に住んでいた知人・西升次郎(日本人)の兵庫県にある自宅で居候して静養。翌年5月に大阪に戻って仕事に復帰しようとしたが、病欠中に解雇されていて拒まれたために、埠頭で日雇いの沖仲仕などをする。その後、職を転々とするが、健康上の問題でなかなか定職には就けなかった。

 昭和3年(1928年)11月、同じ下宿先の人夫仲間、山住という朝鮮出身者および前田政二(日本人)の三人で、即位の礼を見物して昭和天皇のご尊顔を仰ぎたいと京都に行ったが、ハングルと漢文の混ざった手紙を持っていたというだけの理由で、京都府警特高課に予防検束され、11日間拘置所に入れられた。調書によると、日本名を名乗り日本人と同じように振る舞っても朝鮮人扱いされる差別に憤激したと言い、この件がその後の犯行に至るきっかけとなったと主張している。

 昭和4年(1929年)2月末頃、人夫仲間の本間茂の紹介で大阪市東成区鶴橋町の石鹸卸売商山野鹿之助の会社に就職したが、9月頃に集金した一匁分の代金100圓を拐帯して東京に逃亡した。中央区の職安で紹介された東京市京橋区の坂口という魚卸商に就職したが、仕事に嫌気がさし、友人宅に寝泊まりしたり吉原遊廓に入り浸ったりして、二、三日寮にも帰らなかったので叱責され、すぐに職を辞めた。それから救世軍の職業紹介所の助けで本所区の大木カバン店に就職して営業員となり、昭和5年(1930年)7月から11月までの4ヶ月間仕事をしたが、売上金240圓を使い込み、そのまま仕事に来なくなって、東京を去った。

 桜田門事件の実行犯

 韓人愛国団で、独立のために敵国の首魁を屠殺すると盟約し、殺人・テロを予告した李奉昌の宣言文(文章は漢文の日本語とハングル混じり文)。

 昭和5年12月、心機一転すべく中華民国上海市に渡った。鉄工所永昌公司で職工となったり、閔行区の蓄音機店で営業員として働くが、賃金が安いといってすぐに辞めてしまった。就職が思い通りにいかないときに同地の韓国人より上海市内に大韓民国臨時政府の庁舎があると聞き、昭和6年(1931年)1月、所在地を訪問。ちょうどこの年に結成されたばかりの韓人愛国団の秘密会議が行われており、下駄履きと日本人風の出で立ちで日本語を流暢にしゃべる李奉昌は、日本の密偵だと警戒されて追い出されたが、後日、潜入する工作員にはもってこいだということで逆に金九にスカウトされる。しかし周囲はしばらく素性のよく分からぬ李を疑い、宴席を設けて酒に酔わせ、本音を引きだそうとした。酔って大言壮語した李は、昭和天皇を処断すべきだなどと口走り、自分は天皇のそばまで行ったことがあり、そのときは武器を持っていなかったからできなかったが容易にできたと熱っぽく語ったため、それならばと、後日計画が立ち上げられた際に、暗殺計画を実行する役目が李に与えられた。

 12月12日、李は抗日テロ組織韓人愛国団に正式に入党した。金九より支度金として300ドル、武器として手榴弾が渡され、12月17日、氷川丸に乗船して渡日し、12月19日20時、兵庫県神戸市に到着する。その後大阪に入り、大阪市内の木賃宿に泊る。12月22日に東海道本線の超特急燕号で上京し、東京市浅草区松清町の尾張屋旅館に宿泊する。しかしこの間に酒と漁色に耽り、資金を使い果たしてしまったので、上海に電報でさらに100圓を送金してもらった。ひたすら実行の機会を窺っていたところ、12月28日付の東京朝日新聞の記事により昭和7年1月8日東京市外代々木練兵場において陸軍始観兵式が挙行されることを知り、天皇の行幸があるとわかって、この日に決行することを計画した。

 昭和7年(1932年)1月8日、犯行の前々日(1月6日)にバス運転手菅原久五郎から偶然入手した憲兵曹長「大場全奎」の名刺を使って観兵式の警戒網を2回突破した。赤坂付近で襲撃する予定が、待っている間に付近の一つ木食堂で日本酒を飲んでいて鹵簿をやり過ごしてしまい、李は慌てて円タクを呼び止めて三宅坂の陸軍参謀本部前で降り、そこから走って警視庁正門まで行って奉拝者の列に混ざったという次第であった。李はどの御料馬車に天皇が乗車しているかを知らなかった。第一両目をやり過ごしてしまい、一木喜徳郎宮内大臣が乗車する第二両目に手榴弾を投げ付けた。実際には昭和天皇は第三両目の御料馬車に乗車しており、手榴弾はその32メートルも前方で炸裂したが、威力が弱く、何事もなかったように通過。天皇は車内にあって音を聞いた程度だった。後に第二両目の馬車には、破片で小さな穴が空いてることが見つかり、騎乗随伴していた近衛騎兵1人とその乗馬と馬車馬の馬2頭が負傷していたことがわかった。李はその場で逮捕され、襲撃は失敗に終わった。

 詳細は「桜田門事件」を参照

 同年9月30日、大審院(裁判長和仁貞吉)にて大逆罪(旧刑法第73条)として死刑判決が下り、10月10日に市ヶ谷刑務所にて処刑された。

 その後

 三義士の一人として顕彰される李奉昌の墓(右から三番目「義士李奉昌之墓」と漢字で銘が刻まれる), 孝昌公園, 2004年撮影

 暗殺は完全に失敗であったとは言え、日本では犬養内閣が当日辞表を提出して総辞職を表明したほど衝撃が走り、翌9日に昭和天皇の慰留により撤回されるなど、社会に大きな動揺を与えた。

 中国では金九の大韓民国臨時政府が上海で活動していたことから、現地新聞が事件を好意的に報道して、日中関係を悪化させ、第一次上海事変の遠因となった。4月にもその上海で尹奉吉のテロ事件が起こったため、朝鮮人の独立運動を力で抑えよという世論が強まった。

 戦後の昭和21年(1946年)、遺骨は、尹奉吉と同じく、在日朝鮮人が発掘した後、ソウル市に於いて国民葬が行われた。大韓民国では独立三義士の1人とされた。

 昭和37年(1962年)、李奉昌は大韓民国政府(朴正煕軍事政権時代)から建国勲章大統領章(2等級)を追叙された。

 平成4年(1992年)には逝去60周年を記念する百ウォン切手が発行され、絵柄に採用された。韓国の小学校歴史教科書では義士として讃える記述が1ページあり、独立記念館で顕彰されている他、大韓民国指定史跡第330号孝昌公園(韓国語版)にも像と墓が建てられている。この公園は、平成11年(1999年)4月16日に訪韓した小沢一郎(当時自由党党首)が表敬訪問し、李奉昌が祀られた独立三義士墓に参拝した。

 韓国では『李奉昌義士記念事業会』が、定期的に追慕式を行っており、平成24年(2012年)の80周年にも白凡記念館で記念式典が行われたが、李明博大統領による天皇謝罪要求の直後であったためにほとんど報道されなかった。

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 大日本帝国憲法現代語版(完全護憲の会)

 大日本帝国憲法発布勅語

 朕は、国家の繁栄と臣民の幸福とを、我が喜びと光栄の光栄の思いとし、朕が祖先から受け継いだ大権によって、現在と将来の臣民に対して、この永遠に滅びることのない大法典を宣布する。

 思うに、我が祖先の神々と歴代天皇は、臣民の祖先たちの助けを借りて我が帝国を造り上げ、これを永遠に伝え給うた。

 これは、我が神聖なる祖先の威徳、そして臣民が忠実に勇敢に国家を愛し、公に従ったこと、それらによって光り輝ける国家の歴史を遺して来たということである。

 朕は、我が臣民は、まさに歴代天皇をよく助けてきた善良な臣民たちの子孫であることにかんがみて、朕の考えをよく理解して、朕の事業を助けるためによく働き臣民同士は心を通わせ協力し合いますます我が帝国の素晴らしいところを海外に広めて祖先たちに遺業を永久に強固なものにして行きたいという希望を、朕と共有し朕とともにこれからの国家の運営に努力して行く覚悟が充分に備わっていることを疑わないのである。

 上諭(前文に当たる部分)

 朕は、先祖の輝かしい偉業を受け継いで、永遠に一系で続いていく天皇の位を継ぎ、朕の愛する日本臣民は、朕の祖先が大事にしてきた臣民たちの子孫であることを忘れず、臣民たちの安全と幸福を増進して、その臣民たちの優れた美徳と能力をますます発展させることを望む。

 そのために、明治14年10月12日に下した国家開設の勅諭を実行し、そしてここに憲法を制定して、朕と将来の天皇、そして臣民と臣民の子孫が永遠にこれに従うべきである事を知らせる。

 国家を統治する権利は、朕が先祖から受け継いで子孫に伝えるものである。朕と朕の子孫は、この憲法の決まりに従って統治権を行使するという事に違反してはならない。

朕は臣民の権利と財産の安全を重んじ、これを保護して、この憲法と法律の範囲内で、完全にこれを守り尊重していく事を宣言する。

 帝国議会は明治23年に招集し、議会んが開会したと同時にこの憲法も有効となる。もし将来この憲法の条項を変更する必要が出てきた場合は、朕が朕の子孫は発議権を発動して議会に命じ、議会がこの憲法で決められた手順に沿ってその内容を変更する。朕と朕の子孫そして臣民は、それ以外の方法でこの憲法をみだりに変更する事はしてはならない。

 国務大臣は、朕のため憲法施行の責任を負い、臣民と臣民の子孫は、永遠にこの憲法に従う義務を負いなさい。

第1条

 大日本帝国は、永遠に一つの系統を継承していく万世一系の天皇が統治する。

第2条

 天皇の御位は皇室典範の決まりに従って、皇室の血を受け継げる男子が継いで行く。

第3条

 天皇は神聖だから非難したりしてはならない。天皇は政治をはじめ一切の事の責任を負わないし天皇をやめさせることもできない。

第4条

 天皇は日本の元首で日本を治める権利を持ち、憲法の決まりに従って日本を治める。

第5条

 天皇は議会の協力と賛成をもらって法律を制定する。

第6条

 天皇は議会が作った法律に判子を押して、世の中に広めてその法律を守らせるよう命令する。

第7条

 天皇は国会議員を集めて、議会を始めさせたり、終わらせたり、中断させたり、衆議院を解散させたりする。

第8条

 天皇は世の中の安全を保ったり、非常事態を避けたりしなければならない緊急の時に、もし国会が閉会していたりしたら、法律の代りに勅令を出せる。

第8条2項

 勅令は、次に議会が始まったら、その勅令を残すか取り消すか話し合わないといけない。取り消すことになったら勅令は無効になり、政府はこのことを国民に知らせなければならない。

第9条

 天皇は法律を実際に運用したり、世の中の安定や秩序を守ったり、臣民をもっと幸せにするために、必要な命令を出したり、出させたりすることができる。ただし、命令では法律を変えることはできない。

(内閣と省庁が出す命令は、この天皇の権利の委任である)

第10条

 天皇は行政機関の制度とか、大臣とか公務員や軍人の給料を決めたり、それらを任命したりやめさせたりする。ただし、憲法や法律でなにか特例があるときはその条項による。

第11条

 天皇は陸軍と海軍を率いる。

第12条

 天皇は陸海軍の編成や予算とかを定める。

第13条

 天皇は外国に宣戦布告したり、講和したり、条約を結んだりする。

第14条

 天皇は非常事態の時、戒厳(臣民の権利を制限する)を宣言する。戒厳の要件や効力は法律で定める。

第15条

 天皇は爵位とか勲章とか栄典とか、その他の名誉を与える。

第16条

 天皇は受刑者に恩赦を与えて減刑したり復権の命令を出す。

第17条

 天皇の代理人の摂政を置くときは皇室典範の決まりにしたがう。摂政は天皇の代理として権限を行使する。

第18条

 日本臣民であることの基準は法律で定める。

第19条

 日本臣民は法律・命令で決まった資格を満たせば誰でも平等に公務員とか軍人になれるし、その仕事ができる。

第20条

 日本臣民は法律の決まりにしたがって、一定期間軍人にならなければならない。

第21条

 日本臣民は法律の決まりにしたがって税金を納めないといけない。

第22条

 日本臣民は法律に違反しない範囲でならどこに住んでもよいし、移転も自由である。

第23条

 日本臣民は法律に違反しない限り、逮捕・監禁・審問・処罰されることはない。

第24条

 日本臣民は法律に決められた裁判官による裁判を受ける権利を奪われることはない。

第25条

 日本臣民は法律に定めた場合を除いて許可なく家に入られたり、捜索されたりしない。

第26条

 日本臣民は法律で定めた場合を除いて勝手に外信書(手紙など)の秘密を侵されることはない。

第27条

 日本臣民は所有権(自分の財産など)を奪われることはない。

 2項 公共の利益のためにどうしようもないときは法律で決まったことに従う。

第28条

 日本臣民は社会に迷惑をかけず、臣民の義務を果たしてさえいればどんな宗教を信じても自由である。

第29条

 日本臣民は法律に違反しない範囲でなら、(言論・著作・印行・集会及結社の自由を有す)何を言っても、何を書いても、どんな本を発行しても、みんなで集まったり、何かしらの団体を組織したりしてもよい。

第30条

 日本臣民は礼儀正しく、決められた手順を踏めば国に請願(お願いごと)をすることができる。

第31条

 この章の決まりごとは、戦争中や国家の非常事態の時には天皇の権力行使の邪魔をすることはない。

第32条

 この章の決まりごとは、陸軍海軍に関する法律や規律に触れないことなら軍人にも適用される。

第33条

 議会には衆議院と貴族院をおく。

第34条

 貴族院は貴族院令で決められた皇族・華族と天皇に任命された議員で組織する。

第35条

 衆議院は選挙で選ばれた議員で組織する。

第36条

 同時に両方の議院の議員にはなれない。

第37条

 全ての法律は議会の賛成がないと決めることはできない。

第38条

 両議院は政府が提案した法律案に賛成するか話し合ったり法律案を提案したりできる。

第39条

 どっちかの議院で否決された法律はどう会期中にはは再提出できない。

第40条

 両議院は法律やその他の件について政府に意見や希望を述べることはできる。ただし政府がそれを取り上げなかった場合、どう会期中に再度の試みることはできない。

第41条

 国会は毎年開く

第42条

 議会は3ヶ月の会期である。必要なときは勅命で延長できる。

第43条

 臨時緊急の必要あるときは臨時会を開くことができる。

 2項 臨時会の会期は勅命で定める。

第44条

 議会の開会、閉会、会期の延長、あるいは停会は、両院同時に行わないといけない。

 2項 衆議院が解散したら貴族院も一旦中止する。

第45条

 衆議院が解散したら勅命で新しい議員を選挙し5ヶ月以内に招集すべし。

第46条

 議員が3分の1以上出席していないと議会は開けないし議決もできない。

第47条

 両議院の議事は過半数で可決、同数のときは議長が決める。

第48条

 両議員の会議は公開しないといけない。ただし政府が要求したり、議会で決議した場合は秘密会とすることもできる。

第49条

 両議院はそれぞれ天皇に意見を伝えたり、報告することができる。

第50条

 両議院は臣民が提出した請願書を受け取ることができる。

第51条

 両議院は、権謀や議院法で決められていない議会の運営に必要な諸規則を決めることができる。

第52条

 議員は、議会の中で何をいいどんな評決をしてもそれに責任を問われることはない。ただし、議会の外で演説したり執筆して表明したことについては自分の責任となる。

第53条

 議員は現行犯とか、内乱を起こそうとしたとか、外国による侵略に加担するとかした時以外は、会期中に議院の許可なく逮捕されない。

第54条

 国務大臣と政府委員はいつでも議会に出席して発言できる。

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2017-09-12

♫:26─4─東京五輪。軍国日本は、1940年に東京でオリンピック大会を開催する為に、親日派エチオピアを見捨てた。1936年〜No.113 @            

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗

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 1932年3月1日 満州国建国宣言。 

 7月 東京市議会は、オリンピックを東京に招致する為の実行委員会を設置し、10月に誘致決議案を可決した。

 8月 ロサンゼルス五輪。日本は、1940年のオリンピックを東京で開催すべく、IOCやアメリカに好印象を与えるべく大選手団を派遣した。

 昭和天皇は、オリンピックの場を利用して、世界との絆を保ち、アメリカで人種差別で苦しめられている日系人を励ます為にも、選手団の活躍を希望して私有財産から1万円を下賜した。 

 日本政府も、オリンピック選手団への補助金を前回の6万円から10万円に増額した。

 嘉納治五郎と岸精一の両IOC委員は、ロサンゼルスで開催されたIOC総会で1940年オリンピック大会オリンピック大会開催地として東京が立候補するという正式招請状を提出した。

 IOC総会の決定権を握っているのは欧州諸国である為に、地理的な面と旅費など経費面から有力な候補地はローマであった。

 ドイツは今なお経済低迷が続いており、次期首相のヒトラーは「オリンピック無用論」で36年ベルリン大会を返上する可能性が高く、もし返上すれば代替地にローマが選ばれる公算が高かった。

 もし。ベルリンが返上してローマが代替地に選ばれれば、他に候補地がなければ東京開催が決定される可能性があった。

 非白人のアジアで大会が開催されることは、オリンピック大会史上の快挙であった。

 東京でオリンピック大会開催が決定し、東京オリンピック大会が成功すれば、反日感情を強めている国際世論での評価を好転させ国際信用の回復に役立つ事が期待できた。

 東京開催を勝ち取る事は、国際社会で軍国日本が孤立するかどうかを見極める重要な機会であった。

 昭和天皇は、日本の将来を好転させる為にも東京開催を切望していた。

 ムッソリーニは、ローマ・オリンピック大会開催に積極的であった。

 日本IOCは、東京開催を勝ち取る為にはローマ開催地立候補を辞退して貰うべく、ムッソリーニへの説得を続けた。

 ムッソリーニは、政治的判断でローマ開催を断念して開催地候補を取り下げた。

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 1933年3月27日 日本、国際連盟脱退通告。

 9月14日 国際協調派の広田弘毅(A級戦犯)は、孤立化した軍国日本の地位回復させるべくオリンピック大会招致に力を入れた。

 12月23日 皇太子明仁親王ご誕生。

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 1934年12月 ワルワル事件、イタリアは、エチオピア侵攻の為に、国境で挑発を始めた。 

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 1935年 IOC総会は、ムッソリーニが日本との約束を反故にしてローマ開催地立候補を表明した為に紛糾し、開催地決定を来年に持ち越した。

 日本IOCは、東京開催のカギを握っているのはIOC会長バイエ・ラトゥール(ベルギー)と睨んで日本への招聘を申し込んだ。

 1月 エチオピアはイタリアの侵略を国際連盟に提訴したが、イタリアは提訴を無視して挑発を繰り返した。

 2月 ムッソリーニは、副島道正伯爵と面会し、開催都市招致を辞退する事を言い渡した。

 ムッソリーニがオリンピック大会開催を東京に譲ったのは、エチオピア侵攻について軍国日本を封じるためであった。

 エチオピアは、親日派で、日本と天皇に親近感を持っていた。

 7月15日〜8月20日 第7回コミンテルン大会。「35年テーゼ」

 10月3日 イタリアは、エチオピアに侵攻した。

 国際連盟総会は、賛成50、反対1,棄権3で、イタリアを侵略者とする採決を可決し、経済制裁を参加国に要請した。

 が、加盟国は、建前としてイタリアを批判したが、本音では非白人のエチオピアを救う為に経済制裁を行う意思はなかった。

 国際正義とは、白人が身勝手に「ほざく」しょせんは綺麗事に過ぎなかった。

 エチオピアは、世界から同情されても見捨てられていたが、世界の孤児としてイタリアの侵略から祖国を守る為に自衛戦争を始めた。

 10月24日 ロンドン海軍軍縮交渉開始。

 12月 イタリア軍は、エチオピア軍の頑強な抵抗にあって苦戦に追い込まれた為に毒ガスを使用した。

 ムッソリーニ「エチオピアは文明国ではないので国際法は適用されない」

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 1936年1月15日 日本は、ロンドン海軍軍縮条約から脱退勧告。

 建艦競争最再開。

 2月26日 2・26事件。

 3月7日 ドイツ軍は、ライラントに進駐した。

 3月9日 広田弘毅内閣成立。

 3月19日 ラトゥール会長が乗船する、豪華客船「秩父丸」は横浜港に入港した。

 日本政府と日本IOCは、ラトゥール会長を桜の花咲く東京、京都、日光などを案内し、歓待した。

 4月9日 ラトゥール会長は、東京開催に好意的なコメントを残して日本を離れた。

 開催地候補として残っていたのは、東京、ローマ、フィンランドのヘルシンキであった。

 ムッソリーニは、ローマ開催を最終的に取り下げた。

 5月5日 イタリア軍は、エチオピア首都アジスアベバを軍事占領した。

 5月7日 イタリアは、エチオピアを併合した。

 5月9日 エチオピア皇帝ハイレ・セラシェ1世は、亡命した。

 6月 ロンドンが、突然、開催地立候補を表明した。

 東京市長の牛塚虎太郎は、ロンドンに立候補取り下げを依頼したが、拒否された。

 7月29日 ベルリンで、1940年オリンピック開催地決定のIOC総会が開催された。

 ラトゥール会長は、ロンドンの後出しジャンケン的な立候補に不快感を表し、東京開催を支持する姿勢を示した。

 ロンドンは、東京には勝てないと判断して辞退を表明した。

 候補地は、東京とヘルシンキの2都市に絞られた。

 7月31日 IOC総会で投票が行われ、東京は36票、ヘルシンキは27票で、1940年のオリンピック大会は東京で開催される事が決定した。

 軍国日本は、国際社会で孤立化してはいなかった。

 8月2日 東京日日新聞(現、毎日新聞)「躍進日本の熱意示す、競技設備に豪華計画、4年後の完璧布陣を期して手ぐすね引く各方面」

 陸軍は、オリンピック開催準備費に軍事費を削がれ、戦場から優秀な兵士を大会出場選手として引き揚げさせなければならず、不満であった為に協力する事に消極的であった。

 軍部は、戦時下であるにもかかわず、各国の選手団と共に世界中から報道関係者や大会観戦者が日本に押し寄せ、日本国内を自由に移動する事を警戒した。

 8月7日 国策の基準を決定した。

 12月4日 西安事件。

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 1937年3月20日 衆議院予算委員会で。政友会の河野一郎代議士は、「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがかと思う」と、疑問を呈した。

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 1938年 帝国議会で。杉山元陸相は、戦時につき鉄鋼など軍需物資が逼迫の度を増しているとして、五輪中止論を述べた。

 新聞各紙も、東京五輪に消極的な記事を掲載した。

 3月 IOC委員の嘉納治五郎は、カイロで開かれていたIOC総会で、東京開催を危ぶむIOC委員達を説得して回った。

 「オリンピックに政治の影響を及ぼしてはならない」

 欧米諸国のIOC委員は、嘉納治五郎の東京五輪開催への情熱に心を動かされ、それぞれの本国を東京五輪開催支持に説得した。

 東京五輪開催は揺るぎないものとなった。

 5月4日 嘉納治五郎は、横浜まであと2日という氷川丸船中で肺炎に罹って急逝した。享年77歳であった。

 6月23日 近衛文麿内閣は、軍部の圧力に屈して、戦争遂行のため以外の戦略物資の使用制限を閣議決定した。

 7月15日 日本政府は、国内外で強くなった東京五輪返上の意見に押されて、日本初の五輪開催を正式に断念した。

 五輪担当の木戸幸一(初代)厚生相「戦時体制に備えている時、五輪だけ別というのは不可能」

 同日。広瀬久忠厚生次官名で、五輪開催中止の通達文が小橋一太東京市長宛てに送られた。

 「政府に於いて成るべく大会を開催し得る様希望して来たるが、現下の時局は挙国一致、物心両面にわたり益々国家の総力を挙げて事変の目的達成に邁進するを要する状勢なるに鑑み、オリンピック大会はこれが開催を取止むるを適当なりと認むる。……」

 同様に、札幌の冬季五輪も返上された。

 9月 ミュンヘン会談。

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 ウィキペディア

 東京オリンピックは、1940年(昭和15年)に日本の東京府東京市(現・東京都区部)で開催されることが予定されていた夏季オリンピックである。

 史上初めて欧米以外の有色人種国家であり、アジアで行われるオリンピック大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたものの、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。

 概要

 当時の「五大国」の一つである日本の首都・東京での開催は1936年(昭和11年)の国際オリンピック委員会(IOC)で決定し、それ以降には開催の準備が進められていたものの、支那事変等の影響から日本政府は1938年(昭和13年)7月にその実施の中止を決定した。1940年大会の代替地として、オリンピックの招致合戦で東京の次点であったヘルシンキが予定されたが、第二次世界大戦の勃発によりこちらも中止となった。

日本は第二次世界大戦での敗戦後、1960年(昭和35年)の夏季大会に東京を開催地として再びオリンピック開催地として立候補、東京での開催は「東京オリンピック」として1964年(昭和39年)に実現した。これがアジアで初であると同時に、有色人種国家初のオリンピック開催となった。また、1964年大会から56年が経った2020年にも東京でオリンピックが開催されることが決定している(2020年夏季オリンピック)。

 開催準備

 日本のみならずアジアで初、有色人種国家としても初のオリンピック招致成功をうけて、1936年12月に文部省の斡旋で東京市、大日本体育会などを中心として「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、元貴族院議長でIOC委員の徳川家達公爵が委員長に就任するなど本格的な準備に着手した。

 その後は東京開催準備が進行した(国際博覧会も同年開催が予定された)。東京を中心とした都市美観工事やホテル建築、国際的土産品の新製、職員への英語教育などが計画、実行され、政府からは延べ55万円に及ぶ補助金が支出された。主会場には、明治神宮外苑に10万人規模のスタジアムを建設することを計画(明治神宮外苑競技場の改築)したものの、明治神宮外苑を管轄する内務省神社局がこれに強硬に反対したため、東京府荏原郡駒沢町の駒沢ゴルフ場の跡地にメインスタジアムを建設することとなった。

 また、ベルリンオリンピックで試験的に実現したテレビ中継の本格的実施をもくろみ、日本ラジオ協会と電気通信学会が、東京の各競技会場と大阪、名古屋を結ぶ中継を行うべく開発を進めることとなった。

 さらに日本政府は、冬季オリンピックを北海道札幌市に招致することを目指して招致活動を継続した結果、1940年に第5回冬季オリンピックとして札幌オリンピックが開催されることに決定した。

 開催権返上へ

 国内からの反対意見

 このように開催に向けた準備が進む一方で、1937年3月に衆議院予算総会で河野一郎(政友会、後に日本陸上競技連盟会長)が「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがと思う」と発言。実際に前年までヨーロッパとアフリカでは第二次エチオピア戦争が起きており、またこの発言のその4か月後に盧溝橋事件が起こり、その後日本軍と中華民国国軍の戦闘区域が拡大し「支那事変」(日中戦争)と呼ばれるようになると、陸軍が軍内部からの選手選出に異論を唱えた。また各種団体からの満州国選手団の参加を求める抗議行動が続いていた。

 1938年に入ると日中戦争の長期化により鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫した為競技施設の建設にも支障が生じ、東京市の起債も困難となってきた。さらに陸軍大臣・杉山元が議会においてオリンピック中止を進言し、河野が再び開催中止を求める質問を行うなど、開催に否定的な空気が国内で広まった。それまでオリンピック開催を盛り上げる一翼を担ってきた読売新聞や東京朝日新聞などでは、オリンピック関係の記事がこの年から打って変わって縮小している。

 さらに、軍部からの圧力を受けた内閣総理大臣・近衛文麿は、同年6月23日に行われた閣議で戦争遂行以外の資材の使用を制限する需要計画を決定し、この中にオリンピックの中止が明記されていたことから、事実上オリンピックの開催中止が内定した。

 国外からの反対意見

 1938年3月にカイロ(エジプト)で開催されたIOC総会では、ベルリン大会組織委員会事務総長のカール・ディームが聖火リレーの実施を提議し、各国から実施の要望がなされるなど、開催へ向けて準備が進んだ上に、聖火リレーのルートに満州国を入れることで、満州国選手団の参加に弾みをつけた。

 しかしカイロ総会前には、中国大陸における利権をめぐって日本と対立していたイギリスやイギリス連邦を構成する自治領オーストラリアだけでなく、大会開催権を争っていたフィンランドからも中止(とヘルシンキでの代替開催)を求める声が上がっており、さらに日中戦争の一方の当事国である中華民国は開催都市変更を要望してきた。このような状況下にあるにもかかわらず、「中国大陸での動乱が収まらなかった時は中華民国の選手の出場はどうするのか」という質問に対し、カイロ総会に至っても軍部のプレッシャーを受けて足並みが揃わなかった日本側委員は満足な回答をすることができず、外国委員を失望させた。

 また、イギリス以上に中国大陸に大きな利権を持つために、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任する事態となった。さらにド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が150通も寄せられており、ついにド・バイエ=ラトゥールから日本に対し、開催辞退の話が持ちかけられてきた。

 返上決定とその後

 さらに、東京での開催に大きな役割を果たした嘉納治五郎がカイロからの帰途で病死するに至り、日本政府は1938年7月15日の閣議で開催権を正式に返上した。東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円以上にのぼる。代わってヘルシンキでの開催が決定したが、1939年(昭和14年)9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催できなかった。なお、夏季大会は開催返上・取りやめの場合でも第1回からの通し回次番号がそのまま残るため、公式記録上では東京・ヘルシンキそれぞれ1回は「みなし開催」となったことになる。

 こうしてオリンピックの準備はひとまず中止され、組織委も大幅に縮小された。しかし、すでに工事をはじめ、竣工寸前であった東京市芝浦埋立地の自転車競技場(現存せず)と、埼玉県北足立郡戸田村(現・戸田市)のボートコース(戸田漕艇場)は1939年までに完成し、使用された。自転車競技場の建設にあたっては、市内主要大学の学生3,407名を中心とする帝都青年労働奉仕団が作業を担当した。また、駒沢(今日の駒沢オリンピック公園敷地)に主会場をおく案はそのまま1946年大会に生かされた。

 なお、中止運動の急先鋒に立っていた河野一郎は、1946年大会開催に当たって池田内閣で建設大臣(オリンピック関連施設や道路の建設の指揮監督を担当)およびオリンピック担当国務大臣を務めた。



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2017-09-11

♫:26─3─中国人愛国者の日本人居留民惨殺事件。日独防共協定。西安事件。ファシスト中国の日本本土無差別爆撃極秘作戦。1936年7月〜No.112@            

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 アメリカ外交は、宗教の理想や憲法の理念や国家の意思や議会の方針ではなく、その時の現役大統領の個人的恣意で決定される。

 大統領の、私的な好きか嫌いかの単なる気紛れであり、哲学も理論も原則も、そして公的な利益を守ろうという誠実も節操もなかった。

 フランクリン・ルーズベルトは、個人的に中国を愛し日本が嫌いであっただけに、ナチス・ドイツやソ連の軍事協力を受けて軍国日本と戦うファシスト中国=国民党及び中国共産党を軍需支援し、軍国日本に対して軍事行動に支障が出るような経済制裁を強めた。

 大統領や政治家達は、ウォール街の国際金融資本や国際的アメリカ財閥の利益の為に行動し、政策を決定していた。

 アメリカは、景気刺激策として他国間の戦争を欲していた。

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 日本人居留民は、中国共産党が唆している中国人暴徒の襲撃を受けたが抵抗せずされるがままに我慢していた為に、、暴行され、強姦され、そして殺害されていた。

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 東亜国勢調査所は、中国が日本を貶めるべくアメリカの通信員を買収して事実を歪曲し捏造した記事を書かせ、欧米諸国で排日気運を煽っている例を取り上げ、日本も負けず国際宣伝戦に備えて宣伝省を新設するように提言した。

 事実をねじ曲げた悪意に満ちたブラック・プロパガンダには、事実に基づいた良質のホワイト・プロパガンダで対抗するしかないと。

 だが。相手の裏を掻き揚げ足を取って貶めるというプロパガンダ戦は、正々堂々の生一本で雌雄を決する事を好む日本人が最も苦手とする分野であった。

 日本人には、宣伝戦や情報戦は向いていない。

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 7月 外務省・陸軍省・海軍省は、連日連夜、防共協定の協議を続けた。

 東郷茂徳欧亜局長(A級戦犯)は、ナチス・ドイツに利用されるだけで、日本に利するところは少ないとして猛反対した。

 ナチス・ドイツは、ユダヤ人女性を妻とする東郷茂徳(靖国神社戦争犯罪)を嫌っていた。

 中国は、兵器製造のクルップ財閥などドイツの主要産業の全面協力を得て、重工業建設三ヵ年計画を開始した。

 スペイン内戦(〜39年3月)。

 フランコ将軍は、各地で赤色テロを行い社会を恐怖に陥れている左翼・共産主義勢力を鎮圧した。ソ連は、ヒトラーの軍事支援を受けたフランコ将軍派と戦うスペイン人民戦線(共和国)を助ける為に、対外政策をファシズム勢力と対峙する全ての資本主義諸国と共闘するという人民戦線方式に大転換した。

 スターリンは、共産主義勢力を拡大する為に、ヨーロッパではナチス・ドイツとイギリス、フランスを戦わせ、アジアではファシスト中国と軍国日本を戦わせる陰謀をめぐらせた。

 アジア戦線での真の目的は、アジアを中国共産党に支配させる事であり、軍国日本もファシスト中国もその為に使い捨てにする道具にすぎなかった。

 ソ連・共産主義勢力が目指したのは、世界平和ではなく共産主義による世界支配であった。

 民族主義の反乱軍はフランコ将軍を首班とした新政府を樹立し、共和政府はソ連・共産主義勢力の支援を受けて徹底抗戦を掲げて内戦に突入した。

 内戦の死亡者、90万人以上。

 反宗教無神論の左翼・共産主義者による修道院・僧院への攻撃は、焼き討ち170件以上、完全破壊は1,900件以上、部分破壊は3,000件以上であった。

 殺害した聖職者は、司祭13人、管区司教4,814人、男性聖職者2,365人、尼僧283人、信者に至っては正確な数は不明である。容赦なき、宗教弾圧であった。

 勝利した民族主義の右翼・右派は、白色テロを行って20万人以上の反対派を虐殺し、さらに多くの反対者を「浄化」の名目で奴隷的重労働に狩り出して殺した。

 右翼・右派による弾圧も、血に飢えた左翼・共産主義者以上に凄惨を極めた。

 ピウス十一世「共産主義は内面的に邪悪であって、キリスト教的文明を救いたいと願う者は、如何なる領域においても、これと協力するのを受諾する事が出来ないのである」

 尾崎秀実は、ヨセミテで開催される太平洋問題調査会の会議に出席するべく、ゾルゲグループの西園寺公一と共に日本を出発した。

 同会議には、アジア地区で活動する隠れ共産主義者も数多く参加した。

 各国の高学歴エリート層の多くは、宗教支配を否定し、社会に変革をもたらすマルクス主義を信奉した。

 日本の大学の教授や学生の間に、反天皇反宗教を訴えるマルクス主義信奉者が増え始めた。

 7月24日 有田外相は、外務・陸軍・海軍合同会議で日独協定に合意し、日本案を決定した。

   ・   ・   ・   

 8月 五相会議で、海軍が主張する「南方南洋に進出発展すべき」という南進論が採用された。これ以降、日本の生命線は海上交通路としての南方とされ、満州は培養線に格下げされた。

 植民地宗主国である欧米列強の企業との摩擦を避けながらの進出であった為に、投資に見合って効果は望めなかった。

 成都事件。大阪毎日新聞記者ら一行4名が、中国人暴徒に襲われた。日本人に対する同様の事件は、中国各地で起きていた。

 中国政府は、日本政府の抗議に答えて日本人居留民の保護を幾度も約束したが、約束通りに日本人居留民を保護するきはなかったし、殺人事件に発展する反日中国人の愛国運動を取り締まるつもりもなかった。

 8月5日  第8代朝鮮総督南次郎(A級戦犯)「朝鮮を植民地視する者がいたら、構わん、殴り付けろ」

 8月7日 陸軍省は、帝国外交方針を決定し、ソ連牽制を目的としてナチス・ドイツとの提携を受け容れるべきであると結論を出した。

 8月10日 ルーズベルトは、海軍作戦部長に対して、オアフ島が日本軍に攻撃された時を想定した対策案を作成するように命じ、一枚の秘密覚書を渡した。

 「明白な考えが浮かんでいる─オアフ島の全ての日本人市民もしくは非市民の日本人で、日本の商船や艦船を出迎え、あるいは日本人士官や乗員と関係を持っている者について、秘かに、しっかり身許を確かめ、特別名簿に名前を載せておくべきである。これらの人物は、有事の際、最初に強制収容所へ送るよう」 

 8月14日(〜29日) 大平洋問題調査会は、アメリカのヨセミテで第六回国際会議を開いた。日本から、ゾルゲ機関の尾崎秀実が出席した。

 ユダヤ系国際金融資本は、中国市場で利益を得る為に大平洋問題調査会を利用し、平和ではなく、中国国内紛争から地域限定戦争が起きる様に画策していた。

 野坂参三は、モスクワからの帰りにアメリカに立ち寄り、コミンテルンに「アメリカで活動せる情報部員、組織部員をモスクワで養成する」という提案を行った。

 8月15日 スターリンは、日本を撲滅させる為に、毛沢東に蒋介石と抗日軍事同盟の締結を指示した。

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 9月3日 広東省北海で、日本人殺害事件が発生した。日本海軍は、事件を有利に解決する為に華北に配備していた軍艦を華南へ急派した。

 各地で、抗日派中国人による日本人居留民に対する刑事事件が多発した。

 日本政府は、蒋介石に治安を維持して日本人居留民保護を求めた。

 9月12日 ファルケンハウゼン中将は、蒋介石に、日本は抗議を繰り返すだけで戦う意志が弱いとして、河北省で日本軍に攻撃するように進言した。

 9月23日 上海共同租界内で、中国人便衣隊によって日本人水兵が射殺された。

   ・   ・   ・   

 10月 関東軍参謀長・板垣征四郎は、満州の産業開発を急ぐ為に商工省工務局長・岸信介の力を借りるべく満州に呼んだ。

 岸信介「私は日本で食い詰めて満州に来たわけではない。産業経済については委せてもらいたい。もし関東軍の言いなりになれというなら、自分ではなく誰か代わりの者をよこしてもいい」

 板垣征四郎「いや、産業経済の問題は君に任せるつもりなのだから、そのつまりでやってくれ」

   ・   ・   ・    

 張学良は、極秘に、イギリスのユダヤ人系国際資本の仲介でソ連と接触し、満州を奪還の為に中国共産党の抗日戦に参加する事を約束した。

 蒋介石は直属の中央軍を温存する為に、謀略を駆使していた。旧東北軍約20万人などの旧軍閥勢力を消耗させる為に、延安への総攻撃を命じた。内モンゴルにおける中国支配を確保する為に、中国共産党軍に内モンゴルへの脱出口を開け、内モンゴル軍と衝突する様に仕向けた。

 ラルフ・タウンゼント「嘘を付いても嘘だと思わない民族が支那人である」「彼らと約束はできない」(『暗黒大陸中国の真実』)

 10月1日 ファルケンハウゼン中将は、国際社会に日本軍の領土拡大目的の侵略戦争を知らせ、国際世論の支持を得る為に、漢口と上海の日本海軍陸戦隊を攻撃するべきであると進言した。

 10月15日 ルーズベルト「私が戦争を嫌っている事は、国民の皆さんは御存知です。そして私も、皆さんが戦争を嫌っている事を知っています。私は、皆さんに平和の記録をお届けします。それは、未来の世界平和への大きな期待に基づく記録です」

 10月下旬 ベルリンの武者小路公共大使は、、「ドイツ軍事顧問団が揚子江沿岸の防衛計画に深く関与している」という東京からの情報を、ノイラート外相に伝えて善処を求めた。

 国防省は、ドイツ外務省の要請に従って表向き対中軍備援助計画の一部を修正したが、密かに武器輸出を行った。

   ・   ・   ・   

 毛沢東は、寧夏で大攻勢に出たが国民党軍によって撃破され窮地に追い込まれた。

 ソ連は、毛沢東を救うべく、上海にいる孫文の未亡人・宋慶齢を通じて蒋介石夫人・宋美麗に資金援助を行った。

 さらに。蒋介石に帰順している張学良に、満州復帰の軍事支援を条件で中国共産党に味方する密約を交わしていた。

   ・   ・   ・   

 ソ連軍は、満州との国境線地帯に29万人を配置していた。

 日本軍は、満州と朝鮮に8万人を配置していた。

 もし。ソ連軍が本気で満州に侵攻したら、関東軍は防ぎきれなかった。

 陸軍中央は、対ソ戦の為に主力部隊を満州に引き戻す事を希望していた。

   ・   ・   ・   

 11月 昭和研究会は、正式に発足した。

 モンゴル人民共和国で、反共産主義者への大弾圧が行われた。

 モスクワは、親ソ派の残虐な拷問で得た自白リストに従って、同士であった政府高官や高級将校の反対派117名を日本のスパイとして処刑した。

 そして、民族の大同団結を掲げる民族主義と民族宗教を根絶し、共産主義体制の強化の為に更なる殺戮を命じた。

 関東軍は、共産主義勢力を封じ込める為の謀略を、外蒙古や新疆ウイグルなどで行った。

 11月25日 日本は、ナチス・ドイツと防共協定を結ぶ。

 広田弘毅は、署名した当時の首相としてA級戦犯に指名され有罪となり処刑された。

日本は、オランダを協定に誘ったが拒否された。

 イギリスは、ナチス・ドイツの誘いを断った。

 ポーランドは、ソ連と共にナチス・ドイツを敵国としてイギリスに接近した。

 ファシスト・イタリアは、日本と同じ様な協定を結ぼうとした。

 日本の新聞は、防共協定の成立を祝う記事を掲載して、親ドイツキャンペーンを行った。

 ドイツに馴染みのない国民の大半は、ナチス・ドイツには関心がなかった。

 ディルクセン駐日ドイツ大使「日本では、防共協定が好ましからざるものと受け止められている」

 古内広雄「昭和12、3年頃のドイツにおいて日本に対する関心なんてあまりないんですよ。むしろ中国に対する関心ですね。日本なんて、まあ、たとえてみれば中国の盲腸みたいに思われていたんですよ。そのアジアの中における日本の位置を、ドイツにおいて根本的にひっくり返したのがナチスだった。事の善し悪しは別として、これは事実なんですよ」

 日本の国際的経済通は、アメリカとイギリスの国際資本がソ連に多額の投資を行っている現実から、露骨に反共産主義ブロック形成に参加する事は、国際経済で不利な立場に立たされる恐れがあると危惧した。

 イギリスは、反共産主義協定は、ヒトラーには意義がある事であるが日本には利益にならないと分析した。 

 ポーランドは、ソ連同様にナチス・ドイツも仮想敵国としていた為に、日独防共協定に衝撃を受け、日本に対して警戒心を抱いた。

 ポーランド軍も、自国の情報が日本を経由してナチス・ドイツに流れる恐れがあるとして、日本軍との情報交換に慎重になった。

   ・   ・   ・   

 12月4日 西安事件。

 スターリンが恐れたのは、ファシスト中国と軍国日本が手を組んで中国共産党を殲滅し、共産主義勢力をアジアから追放する事であった。

 仲小路彰「張学良は、今や英米ユダヤ工作により、共産軍との秘密協定が成立した」(『第二次大戦前夜史 1936』)

 反日的オーストリア人は、日本を戦争に追い詰めるべく抗日軍を支援した。

 蒋介石の顧問となった、ニューヨーク・タイムズ紙記者のウィリアム・ドナルド。

 南京事件虐殺という伝聞情報をマンチェスター・ガーディアン紙に流した 、ハロルド・ティンパーリ。

 12月12日 スターリンは、毛沢東に対して蒋介石を助け、国民党と協力して日本軍の侵略と戦う様に命じた。

 中国共産党と国民党は、一致抗日で合意した。

 第二次国共合作。

 蒋介石は、ソ連を日本との戦争に引き込むべく、政治顧問や軍事顧問を受け入れた。

 日本国内の左翼・左派は、天皇制度を打倒する為に、如何に日本を不利な戦争に追い込むべきかを密議した。連絡員を上海に送り、ソ連や中国共産党のスパイと抗日戦勝利の為の情報交換を続けた。

 日本の上海総領事館は、満鉄調査室や陸軍諜報機関とは別に、国民党や中国共産党の活動を調べていた。

 中国共産党は、人を疑う事を知らない日本人外交官の無防備に付け込んで諜報員を送り込んでいた。

 中国人諜報部員は、にこやか微笑みを浮かべて日本の上海と香港の両総領事館に出入りし、言葉巧みに日本の機密情報を聞き出していた。

 上海満鉄事務所附属調査室に潜入していた共産主義者は、満鉄が知り得る日本の国情と外交に関する機密情報をソ連と中国共産党に送っていた。

 そして、満鉄から支給された経費を全て抗日戦勝利の為に中国共産党に上納していた。

 中国共産党は、日本人共産主義者の協力を得て、勢力を拡大した。

 蒋介石は、スターリンが自分を利用して中国共産党を助けようとしている事が分かっていただけに、中国共産党軍を独立軍として自由裁量権を与える事に同意しなかった。

 国民党軍と中国共産党軍の、抗日統一戦線における指揮命令系統交渉は暗礁に乗り上げていた。 

   ・   ・   ・   

 中国国民党軍は、ナチス・ドイツとソ連の軍事支援を受けて、日本軍を攻撃しようとしていた。

   ・   ・   ・   

 日中戦争は、日本が好むと好まざるとに関わらず、この時から不可避となった。

 それは、コミンテルンの陰謀であった。

   ・   ・   ・   

 12月13日 宋子文は、中国経済が混乱しない様にイギリスのユダヤ系銀行に支援を求めた。

 香港上海銀行支配人ヘンチマンは、法弊支持を表明し、中国金融に不利になる様な外貨買いは行わないと国民党政権に約束した。

 アメリカのユダヤ系金融機関も、イギリスに同調して中国支持を表明した。

 イギリスのユダヤ系国際金融資本は、中国金融経済を支配する為には日本金融資本の追放が欠かせないとして、アメリカの国際資本と協力して抗日勢力を財政支援した。

 12月14日 イギリスのユダヤ人ドナルドは、蒋介石を釈放させる為に、宋美齢の手紙を持って西安に飛んだ。

 12月23日 監禁されていた蒋介石は、周恩来が要求する抗日民族統一戦線の為の六項目に同意した。

 蒋介石は、抗日戦開始を約束して解放されたが、日本との戦争は時期早々として慎重に行動していた。

 日本政府や軍部も、満州開発に国力の大半を注ぎ込んでいた為に、現時点で中国と新たな戦争は避けたかった。

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 蒋介石は、抗日戦を開始する事を条件で解放された。

 「十字架にかけられたキリストの精神で中国人の為に最後の犠牲となる覚悟ができた」

 アメリカのキリスト教会は、中国のキリスト教化に一歩近付いたとして歓迎し、絶対神の正義という宗教的善悪二元論から蒋介石を支援した。

 蒋介石は、宗教人脈を通じて政界や財界の支援を確かなもにする為に、敬虔なクリスチャンである妻の宋美齢をアメリカに送った。

 中国で布教活動をした宣教師の子供達は、中国への郷愁的幻想を抱き、中世の聖騎士気分で異教徒天皇のサタン軍団を滅ぼしてか弱き中国を救うという叙事詩的英雄神話を夢見た。

 ニューヨーク・タイムズ紙、タイム誌、ライフ誌など多くの新聞・雑誌は、親中国を表明して、日本批判の論陣を張り、日本軍の軍事行動を非人道的侵略行為であると批判した。

 アメリカのユダヤ系国際資本は、中国市場の独占の為に反日陣営に資金提供を行った。

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 国民政府軍事委員会参謀本部は、37年度の『国防作戦計画』を制定し、「作戦指導要綱」に大型爆撃機の編隊で東京や大阪などの都市と佐世保や横須賀などの軍施設の無差別爆撃の準備を盛り込んだ。

 航空機の自己生産ができない為に、欧米の軍需産業から日本本土空爆用の大型爆撃機を購入する事を計画した。

 ドイツ軍事顧問団も、日本軍の攻勢から国家を守る為に空軍の充実が必要性であると提起した。

 中国政府は、日本を共通の敵とするソ連の支援に期待を寄せた。

 アメリカのユダヤ系国際金融資本は、莫大な利益になるとして興味を抱いた。

 後年。ルーズベルトは、日米戦争の宣戦布告前における日本本土無差別爆撃を承認した。

 





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中国に立ち向かう日本、つき従う韓国

中国に立ち向かう日本、つき従う韓国

2017-09-10

♫:26─1─中国国民党は、ナチス・ドイツと軍事支援の協定を結びファシスト陣営に参加した。2・26事件。1936年〜No.110@         

日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ

日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗

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 中国共産党は、軍国日本を戦争に追い込むべく謀略を続けていた。

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 中国国民党は、ドイツ軍需産業から武器を購入するべくナチス・ドイツと軍事支援の協定を交わしてファシスト陣営に参加した。

   ・   ・   ・   

 反日派のナチス・ドイツが、軍国日本と戦うファシスト中国(国民党政権)を軍事支援したのはビジネスのためであった。

 他国間の戦争ほど大金を稼げる上手い儲け話はない。 

 平和な日常用品を売るより戦争の武器を売った方が、手にする利益は大きい。

   ・   ・   ・   

 中立国アメリカは、自国の経済不況を克服の為に、小さい日本市場を切り捨て、大きい中国市場に味方した。

 アメリカの軍需産業にとって、武器を買わない軍国日本は商売敵であり、武器を大量に買ってくれるファシスト中国(国民党政権)は応援すべき上得意様であった。

 アメリカ政府は、経済振興政策として軍需産業に巨額の公金を投じていた。  

   ・   ・   ・   

 イギリスは、植民地インドの独立と共産主義化を防ぐ為にコミンテルンとの間で秘密の約束をして、ソ連の軍事支援を受けた中国共産党の勢力か拡大を黙認した。

   ・   ・   ・   

 欧米列強は地理的条件から日本の様な中国脅威論は存在しない為に、日本が事実を持って中国の不当さを訴えても理解はしない。

 巨大な中国市場を確保する事は自国の経済発展には不可欠として、日本が如何なる不利益を被ろうとも気にせずファシスト中国を軍事支援していた。

 欧米列強にとって、自国民が危害を加えられない限り、日本人が中国人からどんなに被害を受けようとも気にはしなかった。

 日本の対中国封じ込め外交は、諸外国の理解を得られないし、成功はしなかった。

 世界は、日本が主張する中国脅威論には関心がなかった。

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☆世界を植民地として支配し搾取していた白人キリスト教列強諸国。

 当時、欧米列強は、地表面積の6割強を領有していた。

 イギリスは27%、ソ連は15%、フランスは9%、アメリカは6.8%、16%をオランダ、スペイン、ポルトガル、イタリア、ドイツ、ベルギー、デンマーク、ブラジルの8ヵ国が占有し、残りの26%を日本を含む60余ヵ国が分け合っていた。

 イギリスは、海軍大国として、七つの海を支配していた。

 アメリカ、日本、フランス、ドイツ、イタリアなどは、海軍力を持ち特定の海域を支配していたが、海を支配するほどではなかった。

 アフリカ地区は、西洋列強の植民地となってキリスト教化が進んでいた。

 アジア地区は、中国、日本、タイのみが植民地化もキリスト教化もされず独立を守っていたが、日本以外の地域は西洋資本の支配下に組み込まれていた。

 侵略されて植民地化されず、非白人非キリスト教国家を守り通していたのは日本を含めてそれ程多くなかった。

 日露戦争によって西洋列強による植民地戦争は終結したが、マネーによる新たな植民地戦争が起きていた。

 軍国日本の、人口は約7,000万人で世界人口の30分の一で、占有面積は地表の0.25%にすぎなかった。

 当時の国力は、人口でなく、領土の広さと金融資本であった。

 「土地と金」の富基準からすれば、軍国日本は弱小国群内の上位ランク国家に過ぎなかった。

 当時の日本人は、現代日本人とは違って苛酷な国際情勢を肌身で感じていただけに、国益を守る為に権利を主張しても夜郎自大となって西洋列強の反感を買う事を避け、大国意識で自惚れる事もなかった。

 現代日本人のように、経済大国という優越意識からアジア・アフリカ地域で人を見下すような傲慢な態度は取らなかった。

 昔の日本人は、人種差別主義者(レイシスト)ではなく、むしろ八紘一宇の精神から人種差別に反対していた。

 大和魂を持つ真の日本人は、理の通らない自己満足的な憎悪発言(ヘイトスピ−チ)を嫌い、私利私欲による掠奪目的のデモを起こさなかった。

 戦前の日本は成熟した大人の国として、相手国人の商店を襲撃して破壊せず、相手国の商品を暴力的に強奪せず、相手国の国旗を引き裂き燃やす事をせず、相手国の人間を見つけ出して殴る蹴るの暴行を加えるような事はしなかった。

 幾ら怒り狂おうとも、中国人や朝鮮人のように冷静さを失い自制心をなくし見境なく荒れ狂うような狂人的凶暴さはなかった。

   ・   ・   ・  

☆1936年度 世界8大国の陸軍兵力(参謀本部調べ)

 順位…国名…兵数

 1位‥中 国‥210万人。2位‥ソ 連‥160万人。3位‥フランス‥67万人。4‥ファシスト・イタリア‥65万人。5位‥イギリス‥39万人。6位‥アメリカ‥35万人。7位‥ナチス・ドイツ‥33万人。8位‥日 本‥25万人。  

 ソ連=極東軍…40万人。

 日本=関東軍…約1万人。 支那駐屯軍(天津軍)…5,600人。 上海陸戦隊…2,500人。

 軍国日本は、兵力数と軍事費から見て軍事大国ではなく、民族資本と民族軍需産業で少数精鋭の中堅国家であった。

 日本は、食糧・資源・エネルギーそして金融・輸送・運輸など多くの面で他国に依存する、自給自足生活ができない国家であった。

 敵日勢力は、中国、ソ連である。

 反日勢力は、ナチス・ドイツ、アメリカであった。

 反日利敵勢力は、イギリス、ファシスト・イタリア、フランスであった。

 日本の友好国・支援国・同盟国は、世界中に存在していなかった。

   ・   ・   ・   

 日本、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、スペイン、オランダ、ベルギーの11ヵ国は、外国人が虐殺された義和団の乱を教訓として、自国の居留民を現地で保護する為に、中国人の排外暴動に備えて軍隊を駐屯させていた。

 アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどは、第一次南京事件から中国人の約束を信用せず、駐屯部隊に戦車や大砲や機関銃などの重装備を施していた。

 日本は、中国との友好を重視し、中国人暴徒との衝突を避ける為に、軽装備の少数部隊を日 本人居留民保護目的で各地に駐屯させていた。

 だが、日本軍部隊の駐屯は領土拡大目的の大陸侵略と非難された。

 日本には、「自衛権行使」や「正当防衛」という、自己弁護が認められてはいなかった。

   ・   ・   ・   

 日本軍は、皇軍という名誉にかけて世界一軍律が厳しく、上官の命令は天皇の命令として絶対服従であった。

 中国軍は、兵匪と嫌悪されるほどに、軍律も軍規も守らない犯罪集団とかわず、戦場では略奪、強姦、虐殺などしたい放題の残虐行為を行っていた。

 中国には、日本では考えられない様な世にも恐ろしい戦争文化があった。

   ・   ・   ・  

 蒋介石は、中国軍を強化する為にナチス・ドイツとハプロ条約という秘密軍事条約を結んだ。

 中国は、ナチス・ドイツの同盟国となり、ファシスト陣営の一員となった。

 蒋介石は、現時点で日本軍との戦争を回避しようとしていたが、将来においても日本と戦わないとは言っていない。

 ヒトラーが派遣したドイツ軍事顧問団の提案に従って、中国共産党を殲滅を優先し、日本軍の追い出しを後回しとしたからである。

 蒋介石の本心は、毛沢東同様に反日である。

 毛沢東は、アメリカ世論に影響力のあるエドガー・スノーを招き、自伝の執筆を依頼した。

 アメリカ世論は、中国共産党を農民政党で人民の味方と信じ、毛沢東を抗日戦争の英雄と英雄と祭り上げた。

 中国共産党は、親中国派記者のみを集めて、捏造・歪曲した情報を流した。

 共産主義勢力とキリスト教会は、謀略的情報操作術に長けていた。

   ・   ・   ・   

 ファシスト中国は、ドイツ軍需産業から大量の武器を輸入して、ファシスト中国軍をアジア一の最強軍隊に育てていた。

 ファシスト中国は、57.5%をナチス・ドイツの軍需産業から輸入し、二位のブルガリアは10.5%であった。

 軍国日本は、武器より生活雑貨の輸出を行い、対中国武器輸出は0.5%にすぎなかった。

 国際的武器市場は、欧米の軍需産業が独占していて、軍国日本は参入できなかった。

 つまり。軍国日本は、軍需産業の武器輸出国家ではなく、平和産業の生活雑貨輸出国家であった。

   ・   ・   ・   

 三田村武夫「昭和11(1936)年、『新しい政治、経済の理論を研究し、革新的な国策に貢献する』事を目的として発足した会(昭和研究会)は、近衛内閣と不可分の関係に立ち、軍部とも密接な関係を持っていわゆる革新国策の理念的裏付けをなし、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となり、日本の政治形態を一国一党の軍部独裁組織に持って行った事は周知の事実であるが、この会の組織は後述する如く、尾崎秀実を中心とした一連のコムミニストと、企画院グループのいわゆる革新官僚によって構成され、その思想の理念的裏付けは、全くマルクス主義を基底としたものであった」(『戦争と共産主義』)

   ・   ・   ・   

 中国では、中国の正統な統治者になる為に、「天命」を得る為に戦争を繰り広げていた。

 中国に於いては「天命」が最上位にあって、その下に思想信条や宗教が存在する。

 毛沢東は共産主義を、蒋介石はファシズムを、それぞれ旗印にしたが、本質は「天命」思想による中華皇帝になろうとしただけである。

 王朝名は、毛沢東は中国共産党王朝であり、蒋介石は国民党王朝であった。

 中国の歴史において民族は存在せず、王朝に従う者が民衆・人民として保護された。

 軍国日本は、中国の内戦に引き込まれ、翻弄させて滅亡した。

 スターリン「歴史というのはふざけるのが好きだ。ときには歴史の進行を追い立てる鞭として、間抜けを選ぶ」(1938年2月 国民党政府立法院長孫科との会談)

   ・   ・   ・   

 1936年 野坂参三らの『日本の共産主義者への手紙』

 日本軍は、徳王を軍事支援して蒙古軍政府を樹立した。

 毛沢東は、日本軍の攻勢に対抗する為に、内モンゴル人民革命党党首にモンゴル人の国家を樹立を支持する書簡を送った。

 中国共産党と日本共産党は、日本農村の悲惨な状況を悪用し、単純志向の国粋主義者や軍国主義者に接近して日本陸軍内への滲透工作を行っていた。

 農村出身兵士の身の上に同情した日本軍将校らは、国家社会主義的天皇親政の革命を起こすべきだと密談を重ねた。

 ソ連大使館とつながりのある日本人は、人民革命を起こす為に財閥と癒着する政治家を粛清しようとする若手将校団に活動資金を渡した。

 武者小路公共駐独大使は、休暇が終わってベルリンに戻る前に、軍部首脳とナチス・ドイツとの提携について意見を交換した。

 軍部は、ソ連・共産主義勢力から日本を守る為に何らかの手立ては必要ではあるが、だからといってヒトラーと慌てて手を組む必要を感じない、という意見が大勢を占めていた。

 フェラーズ『日本兵の心理』「日本では愛国心と神道は不可分である。どちらが欠けたとしても、残りの一方だけで存続する事が出来ない。国家的危機に際し、日本人にとって神道は純粋な形で驚異的な力となり、愛国心は他の国よりも大きな意味を持つ。このとき西洋人の視点から、神道は狂信的な意味を持つと思い込んでしまう」

   ・   ・   ・   

 イギリス共産党とコミンテルンは、左翼知識人団体レフト・ブック・クラブを発足させ、中国国民党中央宣伝部と協力して反日プロパガンダをおこなった。

 後に、イギリスの日刊紙「マンチェスター・ガーディアン」中国特派員H・J・ティンパーリーの南京虐殺を書いた『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とは何か)』を出版した。

 中国社会科学院『近代来華外国人人名事典』「盧溝橋事件後に国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」

 国際宣伝処長曽虚白は、アメリカとロンドンにプロパガンダ事務所を開設し、日本人は血に飢えた野蛮な民族であると宣伝してくれる反日協力者に活動資金を渡した。

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 近衛内閣のシンクタンクとして昭和研究会が設立され、隠れマルクス主義者である革新的学者やジャーナリストが参加した。

   ・   ・   ・   

 軍国日本は、国際世論への情報戦を重視し、日本人自らの手で、日本の真意と実相を世界に報ずると同時に、世界各国の動向と実情を、我が国に伝える重要使命を担った国家代表通信社として、「同盟通信社」を設立した。

 戦前の日本人は戦争の真っ只中で生きていただけに、戦争を知らない戦後の日本人とは違って、一瞬でも注意力を緩めて油断すると、自分の命どころか国家の滅亡につながる事を肌身で感じていただけに、インテリジェンスの必要性を痛感していた。

 つまり。思わなければ口に出さなければ戦争も惨事も起きないと確信して危機感を持たない現代日本人に比べて、いつかは戦争も大惨事も起きる事を歴史から学んでいた昔の日本人の方が生きる活力が強く危機対応能力も優れていた。

 後年。GHQは、日本独自の情報発信能力を壊滅し、日本の報道をユダヤ系国際情報通信社の支配下に置くべく、海外への口(情報発信)と耳(情報収集)を封じる為に国策情報通信会社であった同盟通信社を解体した。

   ・   ・   ・   

 1月 ドイツ人軍事顧問団団長アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将は、対日戦略意見書『中国国防基本方針』を南京国民政府に提出する。

 対日戦略として、日本は財力も貧弱で資源もない為に長期戦には耐えられない以上、直接対決を避けながら、アメリカなどの資源輸出国を味方に付けて日本を孤立させるべきである提言した。

 最も大事なのは、情報戦として、中国人民を反日運動に大動員して敵日姿勢を持ち続ける事であると。

 ドイツ軍人は、第一次世界大戦争におけるアメリカやイギリスが流した、「ドイツ軍の残虐行為」という有りもしない捏造・歪曲の謀略情報に負けたと言う思いから、同じ手口を取るように中国に勧めた。

 ドイツ軍人は、日本人を裏切り者と憎んでいた。

 蒋介石は、ドイツ軍の国家防衛案に従って長期抗日戦略を立て、日本が激怒して出兵せざるを得ない様な状況を作り出し、日本軍に占領した都市に駐留部隊を分散配置する様に強要しながら奥地に誘い込み、日本側からの和平交渉を全て拒否して日中戦争を欧米列強が参加する世界戦争へと発展させた。

 蒋介石は、ナチス・ドイツに、同盟成立の証しとしてタングステン鉱約2,000トンを手土産として使節団を送った。

 中国の訪独団は、ヒトラー総統、ブロムベルク国防大臣、シャハト経済大臣ら政府関係者とドイツ軍首脳部らと相次いで会見し、密かに対日戦への支援を要請した。

 ヒトラーは、人種差別主義者として、日本を卑劣な裏切り者と毛嫌いしていただけに喜んで軍事支援を約束した。

 ドイツ軍も、武器の強度を上げる為に必要なタングステン鉱を得る為に、対日戦に全面協力を確約した。

 軍国日本にとって、ファシストのナチス・ドイツは紛れもない敵となった。

   ・   ・   ・   

 ヒトラーは、ソ連を封じ込める為に中国軍の強化に協力し、ファシスト中国の軍事大国化を障害となっている軍国日本の粉砕を認めた。

 蒋介石も、中国を武力統一し、アジアの覇書であった中国の栄光を取り戻す為に、日本との戦争に勝利する事を希望していた。

 ライヘナウ「もし日中戦争が勃発したら、ドイツ軍事顧問団が中国軍と戦場に赴くのは当然だ」

 ソ連は、ヒトラーの陰謀と蒋介石の野望を打ち砕く為に、日本と中国の全面戦争を起こしナチス・ドイツを引き込むべく策謀していた。

 蒋介石も、ドイツ軍が軍隊を派遣して全面支援してくれる事を期待していた。

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 1月13日 軍部は第一次北支処理要綱(華北五省分治案)を決定し、関東軍は北支開発に本腰を入れる。

 東條参謀長ら関東軍強硬派は、満州の国防を主任務とする職分から対共産戦略から華北への積極策を主張したが、それ以上の侵攻作戦は任務外として策定していなかった。

 軍部上層部は、対ソ戦略から、これ以上の中国との戦闘に同意せず、中国内陸に深入りする事にも反対であった。

 1月17日 ダグラス・マッカーサーは、マニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟し、3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

 1月21日 広田外相は、第68回帝国議会において日中和平交渉の前提とした三原則を説明し同意を取り付けた。

 ソ連は、広田三原則に脅威を感じ、中国共産党を守るべく南京国民政府との抗日共闘協議に乗り出した。

  ・   ・   ・   

 2月 蒋介石は、南京に張学良と陝北共産主義勢力の掃討について打ち合わせを行う。

 中国軍は、将来の対日戦に備えて、ドイツ軍事顧問団の助言に従って新たな国防計画を実施した。

 張治中中将(隠れ中国共産党員)は、対日戦の最前線となる南京・上海防衛の京滬地区司令に任命された。

 張治中中将は、ドイツ軍事顧問団の指導を受け、上海から南京間に陣地やトーチカを鉄筋コンクリートで建設し幾重もの鉄条網を張り巡らし、ドイツの最新兵器を重層に配置して、アジア地区では最大にして最強の大要塞陣群を作り上げた。

 日本側は、停戦条約違反と強く抗議した。

 中国側は、口先では条約を遵守するといいながら、日本との如何なる約束も最初から守る気はなかった。

 中国とは、古代から、如何なる条約・協定・約束をも守らない謀略の国である。 

 スペインの総選挙で人民戦線派が勝利を収めて、議会の多数派となった。

 保守派は、スペインがマルクス主義に支配される事を恐れた。

 ソ連は、スペインを衛星国にするべく、人民戦線派を支持して軍事援助に乗り出した。

   ・   ・   ・   

 日本陸軍省は、『昭和11年版帝国及列強の陸軍』を発行した。

 「満州事変勃発以来の2、3年間は、『日支間に紛争に依る中央軍[国民軍]の隙に乗じて長江沿岸の要点を悉く占有すべし』との第三インター[コミンテルン]の積極政策指令を忠実に実行して到る処中央軍を悩まし、其勢力は真に侮り難きものがあった。此に於て、蒋介石は抗日より先ず剿共なる標語の下に共産全軍の中心勢力たる江西匪軍の討伐に全力を注ぐに至った。……新疆又は外蒙を経て直接ソ連邦と握手せんとする共産軍の意図は逐次実現の緒に就きつつあるを看取し得ると共に、共匪の北漸乃至東漸は延いて北支及満州に波及する所尠からざるに鑑み我が帝国としても特に関心すべき事項」

   ・   ・   ・   

 2月5日 アメリカは、ファシスト中国に武器輸出を急増させた。

   ・   ・   ・   

 2月6日 陸軍側は、極秘で進められていた防共協定交渉を、正式に外務省と海軍側に提案した。

 2月8日 イギリスは、日本軍の攻撃に備えてシンガポール駐屯軍を3倍に増強する事を発表した。

 2月12日 外務省は、合意するかどうかは別にして、防共協定を話し合うだけなら構わないとして同意した。

 東郷茂徳欧亜局長は、猛反対した。婦人は、ユダヤ系ドイツ人であった。

   ・   ・   ・   

 2月20日 第19回総選挙で、社会大衆党が18議席を獲得した。

 労農無産協議会の加藤勘十郎は、「反ファッショ」を掲げて全国最高得票で当選した。

 社会大衆党幹部は、戦時統制経済が資本主義の改革につながるとして日中戦争を支持し、さらなる社会変革を目指して陸軍統制派に接近した。

   ・   ・   ・   

 皇道派は、精神的国家主義集団として天皇制度を守る為にソ連・共産主義を警戒し、祖国日本の為にアメリカや蒋介石との軋轢を避ける事を望んでいた。

 統帥派は、革新官僚や尾崎秀実と協力して、対米英を敵視した南進論と日中戦争終結の為の中国一激論を主張した。

 陸軍部内は統制派と皇道派による派閥抗争が激しさを増していたが、第3派閥として中立派の実務型軍人官僚がいた。

 軍部の圧倒的多数派は、上官の命令で動く風見鶏的な実務型軍人であった。

   ・   ・   ・   

 2月26日 二・二六事件。安藤輝三大尉ら皇道派将校らは、農村の貧困を救うには、今の専制君主的天皇制度を廃絶して大統領による共和制度に改変する必要があると考えていた。

 昭和天皇を退位させ、北進論に理解のある秩父宮を初代大統領とし、制度が固まってからは民間人から総選挙で選ぼうとした。

 弘前にいた秩父宮は、第二師団を率いて上京しようとしたが、翌26日に東京からの命令で上京を断念した。

 陸軍内部の権力抗争は、統制派が勝利し、皇道派は中央から外された。

 統制派は、内政的に、総力戦に耐えられる様な高度国防国家に改造するべく、社会全般を戦時体制で統制しようとした。

 対外的には、欧米列強のアジア侵略に対抗する為に、ソ連とは友好関係を維持し、中国には強硬政策を採用して支配下に置くべきであると。

 憲兵隊は、軍隊が共産主義化する事を恐れて思想弾圧を行い、兵士内に潜入した共産主義者の摘発に力を入れた。

 軍隊の赤化事件は、暴力的共産主義革命を恐れた当局によって闇から闇に葬られた。

 特高は、日本国内で暗躍するソ連系、中国共産党系、国民党系の国際スパイ団の摘発に躍起となり、日本人プロレタリア活動家らを不当逮捕し、拷問的尋問で組織の全容をつかもうとしていた。この犯罪的な拷問で、幾人かが死亡した。

 同時に、皇道派に同調した精神至上主義右翼を弾圧した。

 中島莞爾「今回の亊、我れ已に10年来期せし所にして、決して唐突の挙に非ず。……吾、此の回、初め固より生を図らず、又死を必せず。……25年の間の不幸の子は、名をも捨て此の世を去ります。徹頭徹尾、貧しく弱い者の味方となり、国の真の姿をと力めて子は、国の将来を想ひつつ血の涙を呑んで死に就きます」

 近衛師団の某将校は、マルクス主義の本を読む若手将校が東京に多い事に危惧を感じていた。

   ・   ・   ・   

 若手将校らは、娘を売って家族の急場を凌いでいる極貧状態の農村に同情的であった。

 貧困に喘ぐ農村が、日本軍国主義の温床であった。

 靖国神社に祀られている軍国主義者の大半が、食う為に軍隊に入った農村出身兵士であった。

 徴兵されたのは次男・三男で、跡取りの長男や親の面倒を見る一人っ子は徴兵免除とされた。

 徴兵には、差別があった。

 国際世論は、窮乏する農村から発生した日本軍国主義を極悪非道の犯罪と非難し、靖国神社を好戦的神社であるとして政治家の参拝に猛反対した。

   ・   ・   ・   

 皇国史観の提唱者で天皇親政を主張する平泉澄は、東京在住の直宮や近衛文麿らと連絡を取り合い、青森の連隊にいた秩父宮に急ぎ上京するように電報を打った。

 昭和天皇は憲法の制約下で統治する限定された立憲君主制を志向していたのに対して、秩父宮は天皇親政を主張して対立していた。

 宮中側は、天皇親政を望む決起将校団が秩父宮を担いで昭和天皇に譲位を迫る事を恐れていた。

 平泉澄は、上京してくる秩父宮を途中で合流し、群馬県の水上駅で1時間ほど密談して、直宮として昭和天皇に従い一体となって事態収拾に当たるように説いた。

 「天皇が下々の脅迫強要によりて御方針を変え賜う事は断じてあるべからず。もし万一さような事あらば、これ国體の根源を破り、天皇の神聖を汚すもの、強要は断じて許さるべきにあらざるなり」(『孔雀記』)

 秩父宮も、クーデターで天皇が臣下に銃口を突き付けられて国家方針を変える事は国家を危うくするとの考えから、決起将校団に心情的に近くとも同調せず、決起部隊を叛徒賊軍として鎮圧する事に同意した。

 決起将校団が目指した昭和維新の失敗は、軍上層部にいた皇道派高級将校達が保身に走った為ではなく、皇族の中に味方を作れなかった為である。

 もし、この時。秩父宮が天皇親政を掲げて決起将校団を支持して昭和天皇に譲位を迫ったら、日本は分裂し内乱に発展し、遂には暴力的共産主義革命が起きたたかも知れない。

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 ニューズウィーク誌1936年3月7日号「先週、東京では狂信的な男達のせいで最悪の事態になる寸前だった。3日間にわたる血みどろで異様な筋書きのドラマに、アメリカとヨーロッパの国民は呆然とした。軍部の狂信者達の行動は、日本が好戦的な独裁国家への道を突き進む恐れを欧米の平和主義者に抱かせた」

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 2月27日 ワイマール共和国以来のドイツ保守層は、ソ連とラパロ条約(1922年)を締結し、ソ連軍と秘密軍事協定(1923年)を結んだ関係から、反ユダヤでもなければ反共産主義でもなかった。

 そして、親中国であり反日であった。

 敗戦国ドイツにとって、ソ連が唯一の友好国で有り、国家と軍隊の再建に協力してくれたのもソ連でありソ連軍であった。

 ドイツ国防省は、ドイツ軍再建の一環として、独中軍事協力計画を進めるべく中国の訪独団に警戒厳重な最新の兵器製造工場を見学させた。

 ドイツ産業界は、日本人には製品を売るが最新技術を渡す事を警戒し、日本の訪問団に工場を見せると技術が盗まれ猿まねされるとして工場見学を許さなかった。

 武者小路公共「ハンブルクの(実業家)連中は、実は日本が嫌いなんだ」

 ドイツ経済界は、日本との貿易拡大よりも中国との取引拡大に力を入れ、日本に奪われた対中国貿易を回復しようとしていた。

 ドイツの報道機関も、親中国反日を方針として、中国寄りの記事を書き、日本を厳しく批判する記事を多く掲載して反日感情を煽った。

 ヒトラーは著書『我が闘争』で、修正前の原書では、ドイツ帝国は未開文明国日本が近代文明国に発展するのに協力したにもかかわらず第一次世界大戦で恩を仇で返し、ドイツ帝国の海外財産を奪った裏切り者と激怒して、日本人は劣等民族とけなしにけなしていた。

 ナチ党は、反ユダヤと反共産主義から、外交方針を親中国から親日に変更しようとしていた。

 日本との提携を求めたのは、リッベントロップと国防軍情報課のカナリス海軍大佐であった。

   ・   ・   ・   

 3月頃 ソ連と中国共産党は、軍事的密約を交わした。共産軍と国民党軍は抗日戦の為に共同作戦をとり、全面的対日戦争を本年12月頃に開始する。

 ソ連は、抗日戦の為に全面的な支援を与える。

 3月7日 ドイツ軍は、ラインラントに進駐した。

 3月9日 広田弘毅内閣の成立。

 東大経済学部教授河合栄治郎は、社会変革方法として暴力的共産主義革命を否定し、議会主義的手法での社会主義経済体制への移行を主張し、そして暴力で要求を通そうとするファシズムをも批判した。

 帝国大学新聞「河合栄治郎(2・26事件の批判)ファシストの何よりも非なるは、一部小数のものが暴力を行使して、国民多数の意志を蹂躙するに在る」

 3月12日 モスクワで、ソ連とモンゴル人民共和国は日本軍の侵略に共同して反撃するという安全保障の為にソ・外蒙軍事協定(相互援助議定書)に調印する。

 両国軍による自衛目的の国境侵犯事件が多発するが、関東軍はシベリア出兵を教訓として消極的専守防衛に徹した。

   ・   ・   ・   

 4月 張学良は、極秘に延安に赴き、周恩来と会談して抗日団結で合意した。

 日本海軍は、「我が帝国海軍の能力と活動範囲は南島海域まで延長される」との声明を発表した。

 アメリカ大使館は、詳しい説明を求めた。

 長谷川海軍次官は、「それは単に日本の貿易をその方面に拡大する事を意味し、海軍が新貿易路を保護するのは自然な事だ」と返答した。

 日本海軍は、本土からミクロネシアの南洋群島を結ぶ南北海路戦略を正式に採用する事を表明した。

 それは、アメリカ本土・ハワイ・グアム・フィリピン・オーストリアに至るアメリカ海軍の伝統的東西海路戦略を遮断する事を意味した。

 アメリカ海軍は、深刻な安全保障の危機であると、海軍との関係が強いルーズベルトに訴えた。

 日米海軍は、相手を仮想敵国として机上で殲滅戦略を練る段階から、撃滅するべき明らかなる敵として戦備を強化する段階に移った。

 日本の南北海路戦略とアメリカの東西海路戦略によって、日米戦争は避けられない運命となった。

   ・   ・   ・   

 4月1日 ファルケンハウゼン中将は、ナチス軍のラインラント進駐を警戒するイギリスやフランスを関心をそらす為に、蒋介石に対して二・二六事件で混乱している日本を攻撃すべきであると進言した。

 「ヨーロッパに第二次大戦が起こって、英米が中国の争いに介入する余裕がなくなる前に、中国から日本に戦争を仕掛けるべきである」

 反日派朝鮮人テロ集団も、軍国日本の出方を注視していた。

 4月2日 有田八郎が、新たな外務大臣に就任し、防共協定について深入りしない事で賛成した。

 親米英派の重光葵外務次官(A級戦犯)は、対ソ・共産主義としてナチス・ドイツとの軽い関係での提携に賛成したが、それ以上に日本が戦争に巻き込まれない為にはアメリカやイギリスとの関係を強く求めていた。

 重光は、軍部や革新官僚に同調せず、昭和天皇と同様に避戦であった。

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 4月8日 中国は、抗日戦の為にナチス・ドイツと借款貿易条約(ハプロ条約=秘密軍事条約)を結び、ドイツ軍人を軍事顧問団として招聘し、当時世界最高の技術を持つ軍事産業のベンツやシーメンスなどの近代的工場を各地に誘致した。

 中国は、兵器改良の為にナチス・ドイツと1億マルクの借款条約を締結した。

 国防省官房長ワルター・フォン・ライヘナウ中将は、貿易協定に従って、経済省幹部やクラインらと中国軍備拡大計画を練った。

 中国側は、ナチス・ドイツからの経済・軍事支援を受けるべく軍事委員会に資源委員会を設置した。

 抗日軍は、ドイツ軍隊式軍事訓練で強化されていた。

 ヒトラーとナチス・ドイツ政府はドイツ経済の発展の為に対中国貿易を重視し、ドイツ軍は自国の軍事技術の優秀性を証明する為に抗日中国軍を支援した。

 シャハト経済相兼国立銀行総裁は、軍拡に必要なタングステン鉱を輸入する為に武器弾薬を輸出した。

 中国の日本人居留民の前に、抗日中国軍とナチス・ドイツのドイツ軍が立ちはだかった。

 満州の日本人入植者の後方には、中国共産党軍とソ連軍が迫っていた。

 日本軍は、大陸にいる同胞を救おうにも、国際世論の非難を受けていた。

 日本政府は、外交能力がなかった為に、幾ら説明しても理解を得る事ができず、国際社会から激しい抗議を受けていた。

 国際社会は、日本バッシングとして、日本製品のボイコットを行っていた。

 日本経済は輸出産業が基幹産業であっただけに大打撃を受け、国民生活も深刻な影響を受けた。

 4月9日 張学良は、延安で周恩来と会談した。

   ・   ・   ・   

 4月30日 ベルリンの武者小路公共大使は、大島武官から防共協定交渉を引き継ぎ、公式な外交ルートに乗せた。

 ナチス・ドイツは、日本との協定成立を願っていたが、その陰で中国への軍事援助を行い、ドイツ軍事顧問団の抗日戦指導を容認していた。

   ・   ・   ・   

 5月 毛沢東と周恩来は、蒋介石に対して抗日戦の為の国共合作を呼びかけ、国民党政権を窮地に追い込み為に反日市民運動を煽って日本人に対する事件を多発させた。

 蒋介石は、現時点での日本との戦争を望まず、その前に中国共産党の殲滅を計画していた。

 5月6日 ドイツ国防省は、陸・海・空三軍総司令官に対し、軍物資調達計画に中国側の要求を盛り込んで編成する事を命じた。

   ・   ・   ・   

 5月12日 ドイツ国防省は、陸・海・空三軍に対し、今後の日本についての調査分析を命じた。

 報告者。日本の大陸での軍事行動は、ソ連ではなくアメリカとイギリスとの摩擦を引き起こし、アメリカとの戦争を誘引する危険が大である。ドイツが、日本と同盟を結ぶことはアメリカとの戦争に巻き込まれる恐れがある。よって、日本ではなく中国との関係を進めるべきである。

 ドイツは、第一次世界大戦の敗北で、青島の租借を含む山東半島の権益と植民地であった南洋諸島を日本に奪われ、対中貿易が日本資本によって獲られた恨みを抱いていた。

   ・   ・   ・   

 5月 南京政府軍事委員会副委員長・馮玉祥は、イギリスの新聞紙記者のインタビューに答えて「中国はソ連と手を握り、中国共産党と和解し、日本と戦わなければならない」

 5月16日 コミンテルンは、北京や天津など華北で日本軍の補給路を妨害するとともに日本製品のボイコット運動を起こすように指示した。

   ・   ・   ・   

 6月 徴兵忌避の家出が増加した為に、憲兵や警察当局は国内における共産主義の蔓延を警戒した。

 両広事件。広東と広西の各軍閥が、蒋介石に抗日を迫る為に叛旗を翻した。

 ペルー政府は、アメリカの対日強硬政策に倣って日本人移民を禁止した。他の中南米諸国も横並び的に移民禁止の反日政策を取り、南北アメリカ大陸は反日一色となった。

 ライヘナウ中将は、中国との関係強化に為に中国を訪問し、日本に対して威嚇発言を行った。

 ライヘナウ「もし、戦争が勃発したら、ドイツ軍事顧問団が中国軍と戦場に赴くのは当然だ」

 ナチス・ドイツは、親中国反日を鮮明にした。

 フランスで、人民戦線内閣成立。

 ヨーロッパでは、反ファシズム反バチカンを旗印とする社会主義政党や共産党が協力関係を結んで、総選挙を経て人民戦線内閣を樹立させた。

 ユダヤ系国際資本は、利益を得て大金を稼ぐ為に、巧みに両陣営に資金提供を行った。

 アメリカとイギリスは、自国産業の発展の為に黙認した。

 ウィリアム・H・スタンレイ海軍作戦部長は、ハワイのオアフ島に住む日系人の活動を監視するように命じた。

 6月12日 ベルリンの日本大使館は、ドイツ・中国との1億ライヒスマルク借款条約(4月8日)情報を得るや、ドイツ外務省に対して「中国の軍備拡張に利用される恐れがある」と抗議した。

 ドイツ外務省は、日本大使館に対して満足する回答をしなかった。

 度重なる抗議に対し、政治局長署名の「バーターによる取引で、その中には武器も含まれているが、ごく僅かである」と文書を送った。

 ナチス・ドイツの武器輸出は、中国が断トツに多い57.5%で、第二位のブルガリアは10.5%にすぎなかった。

 ドイツ産業界にとって、対米依存の強い日本よりも中国の方が重要な貿易相手国であった。

 ナチス・ドイツにとって、実利の少ない軍国日本に比べて中国は莫大の利益をもたらしていた。

 独中関係は、経済・軍事において、日本が入り込む余地がないほど親密なものであった。

 ブロンベルク国防相は、蒋介石に対して、中国との協調と援助はこれまで通りに続けると断言した。

   ・   ・   ・   

 ナチス・ドイツは、ファシスト中国が軍国日本に勝利する為に、人材・物資など全力で支援していた。

 ドイツの保守層は、日本憎しからファシスト中国の勝利を心から願っていた。

 日本軍部は、ナチス・ドイツがファシスト中国を財政及び軍事で支援している事を知っていた。






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2017-09-09

♫:25─2─「35年テーゼ」。日本軍部は、中国で活動しているドイツ軍事顧問団とドイツ軍需産業の情報を集めていた。1935年7月〜No.108〜No.109@        

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗

   ・   ・   ・   

 7月 陸軍は、統制派と皇道派で激しく対立していた。

 皇道派の真崎甚三郎陸軍教育総監が罷免された。

 7月19日 ブリット駐仏アメリカ大使(ハル国務長官への報告)「アメリカと日本が開戦する事を、ソビエト政府は切望している……日本と開戦すれば、ソビエトが同盟国になるかもしれないという事は、願っていれば、いずれ願い通りになるという事です。日本の敗北が決定的になるまでは腰を上げないでしょうが、日本の敗北が決定的になれば、ソビエト連邦は機に乗じて一気に満州及び中国のソビエト占領地区を手に入れようとするでしょう」

   ・   ・   ・   

 ソ連・コミンテルンは、各国のインテリを取り込む為に平和勢力としてのプロパガンダを始めた。

 コミンテルン幹部のヴィリー・ミュンツェンベルクは、反戦平和運動を組織し、物理学者アインシュタイン、作家アンドレ・ジッド、劇作家バーナード・ショー、孫文夫人の宋慶齢ら世界的な著名人を参加させてた。

 日本でも、多くのインテリが参加し、洗脳されて共産主義者となった。

 洗脳された共産主義者の多くが、エリートとて自国の政府や軍隊に潜り込み、共産主義の大義の下で人民を解放するべく革命活動を始めた。

 アジアと日本を共産主義化する為に、蒋介石を反天皇反日反ナチス・ドイツの人民統一戦線に引き込み、アメリカの共産主義者を使って反日派のルーズベルトに蒋介石に対する財政・軍事支援を増加させる方向に誘導した。

 7月25日(〜8月20日) 第7回コミンテルン大会。モスクワで開催され、57か国、65の共産党から510人の代表が出席した。

 大会で、人民戦線方針が承認され、反ファシズム統一戦線(フロント)が結成された。

 軍国日本とナチス・ドイツを人民の敵で打倒すべき反革命分子であると、日本共産党や中国共産党など各国の共産党に指示を与えた。

 共産主義者が目指した平和とは、人民独裁の共産主義体制下での平和で、その理想を実現する為の戦争を正しい戦争として奨励した。

 各国の共産党員は、思想信条を隠して各国政府の中に潜入した。

 共産系義勇隊は、日本と戦う為に、続々と抗日軍に参加した。

 日本人共産主義者も、表向きに転向したと嘘を付き、革新官僚として政府の中枢に潜り込んだ。

 軍部は、薄々とは、転向左翼である革新官僚(隠れマルクス主義者)の魂胆を見抜いていたがソ連の情報を得る為に接近し、その情報をもとにして軍事行動を行っていた。

 だが。一部の若手将校が、娘を身売りするほどに困窮する地方の零細農家の惨状を改善する為は、富を独占する財閥と腐敗した無能力な政治家を打倒しなければとして、新たな維新活動に燃えた。

 憲兵隊は、軍隊内にマルクス主義が蔓延し始めた事に警戒し、特高警察と共に思想弾圧を強化した。

 統制派将校の中にも、マルクス主義を信奉している者が若干存在していた。

 さらに、政府内はおろか天皇の近くにさえ隠れマルクス主義者が潜り込んでいた。

 大会は、平和の為の闘争としてファシズム反対と戦争反対を議論し、資本主義攻勢反対の一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定した。

 コミンテルンは、世界の共産主義化の為に万人受けする「平和運動」と称する事にした。

 共産主義者は、平和運動を隠れ蓑にして、革命、暴動、戦争を煽ってソ連の勝利に貢献しようとしていた。

 「共産党は、……戦争準備の目的でブルジョワ民主主義的自由を制限する非常立法に反対し、軍需工場の労働者の権利の権限に反対し、軍需産業への補助金の交付に反対し、兵器貿易と兵器の輸送に反対して、闘わなければならない。……ソ連が社会主義の防衛の為に労農赤軍を出動させる事を余儀なくされた場合には、共産主義者は、あらゆる手段をもち、どんな犠牲をはらってでも、赤軍が帝国主義者の軍隊に勝利するのを助ける様に、全ての勤労者に呼び掛けるであろう」

 根本政策。第一決議、コミンテルンはこれまでの対立してきた諸団体との関係を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、敵に気付かれる事なく人民を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させる事。

 第二決議、共産主義化の攻撃目標を軍国日本、ナチス・ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いる。

 第三決議、軍国日本の共産主義化の為にファシズム中国を重用する事。

   ・   ・   ・   

 8月 皇道派の相沢三郎中佐は、統制派の永田鉄山少将を斬殺した。

 8月1日 コミンテルン第7回大会は、反共産主義国家の日本とナチス・ドイツとの戦争に勝利するべく、ブルジョア政党や資本主義諸勢力と手を組む為に、従来の階級闘争・世界共産主義革命路線を修正して広く大衆を動員する人民統一戦線テーゼを採用した。

 コミンテルンの日本支部である日本共産党は、野坂参三を代表として参加させ、再度の「天皇制打倒」の三五年テーゼを受け取った。

 二度も天皇制打倒のテーゼを受け取る事は諸外国の共産党の手前、恥であり、屈辱であった。

 日本人共産主義者は、何が何でも天皇制度を打倒するべく、壊滅しかけている組織をあげて取り組んだ。

 スターリンは、中国共産党に対して、満州における日本軍の増強を食い止め、中国を救う為に、国民党との統一戦線を組む様に命じた。

 ソ連は、日本軍を大陸奥地まで引きずり込んで泥沼化させると同時に、南進させて国力の消耗を強いて革命を起こさせようとした。

 日本人マルクス主義者は、共産主義の大義を掲げ、神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)を打倒し、神国・日本国家を解体し、祖先神の子孫である日本民族を消滅させるべく、政界、官界、学界、軍隊など分野に潜入した。

 警察当局や憲兵隊の思想弾圧を逃れる為に、協同主義と言い換え、階級制度に疑問を持つ皇族や華族に同調者(隠れ共産主義者)を増やした。

 定職を持たないマルクス主義者は、ソ連・コミンテルンからの資金援助を受けて社会を混乱させるべく活動を続けていた。

 資源がなく国力も貧弱な日本軍は、一か八かの短期決戦を得意とするが、消耗を伴うの泥沼戦争は不得意であった。

 日本外務省は、コミンテルンの決議宣言を、マルクス主義者に対する日本国内での破壊工作の指示、中国共産党に対する抗日運動から日中戦争に追い込む命令と分析した。

 日本は、共産主義の侵略から日本を防衛する為に、満州を独立国として建国して対共産主義同盟を結ぼうとした。

 世界恐慌で打撃を受けた国内経済を、満州に集中させる必要があり、国力の消耗を伴う中国との戦争は避けたかった。

 軍部の主流は、国家防衛の対ソ戦略として、専守防衛を基本戦術として満蒙を反共産主義の防波堤として整備強化を目指していた。

 共産主義封じ込めの提携先を、反共産主義・反ユダヤを掲げて勢力を拡大したナチス・ドイツではなく、独立して歴史の浅いポーランドであった。

 ソ連軍の動向を探るべく、ポーランドに情報将校を派遣した。

 ポーランド軍は、対ソ戦略から日本軍に協力して、ソ連に関する情報交換を行った。

 年の暮れ。スターリンは、ウィーンで、蒋介石と会見した。

 ソ連は、ファシスト中国が軍国日本の侵略に果敢に戦いを挑めば、全面支援する事を提案した。

 アメリカ共産党は、コミンテルンから活動資金を受け取り、リベラル派知識人やキリスト教会と協力して反戦・反ファシズム・アメリカ連盟を結成した。

 各種労働組合や平和主義市民団体も、反戦アメリカ連盟に参加した。

 左翼系報道機関は、日本軍の残虐記事を捏造して流布させ、国民世論を反日に誘導し、宗教的人種差別意識を利用して、非キリスト教国・非白人の日本への憎悪を煽った。

 コミンテルンは、日本共産党・共産主義者・無政府主義者・社会主義者・リベラル左派らに対し、数千万人を犠牲にしても搾取の元凶である「天皇制を打倒せよ!」と命じた。

 手段を選ばず、共産主義者である事を隠して敵の中に潜入して、味方の振りをして内から崩壊させるべきであると。

 この35年テーゼは、左翼・左派のマルクス主義者らが活動路線を変更していない限り今日でも存在し、彼らが事実を認めて公開し公式の場で否定しない限り今後も生き続ける。

 事実、現代の人権派や反戦平和団体はそのように行動している。

 リベラルを標榜する理想主義者も、その事実を黙認している。女系天皇も、内実はこの35年テーゼに基づいている。

 だが、共産主義者の発言や約束が当てにならない事は歴史的事実であり、それを信ずる者は馬鹿を見て惨殺された。

 共産主義者は、結果オンリー主義から一切の制約を無視して、合法・非合法の手段を選ばなかった。

 彼等は、国家元首・天皇を暗殺し、皇族を皆殺しにしようと計画を立てていた。

 国家権力は、マルクス主義者によって国内から破壊される事に危機感を抱いた。

 モスクワの第七回コミンテルン大会に出席した中国共産党代表の王明は、反ファシズム統一戦線の構築決議を受け、「抗日救国の為に全国同胞に告げる書」を発表して、国民党に国共内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。

 蒋介石は、日本を攻撃する前に、中国共産党の殲滅を優先するという、「安内攘外」の方針を明らかにした。国民党軍は、全兵力を延安攻撃に振り向けた。

 エドガー・スノー「共産党の運命はふたたび蒋介石の意中にかかる事となり、……1937年6月には蒋介石は、……再度紅軍の行く手を塞ごうとしていた。……(共産党は)今一度完全降伏に出るか、包囲殲滅を蒙るか、または北方の砂漠に退却するかを選ぶ事態となったかにみえた」(『中共雑記』)

 歴史的に、ドイツ保守層は親ソで反日であったが、新生ポーランドは反ソで親日であった。

 参謀本部第二部欧米課は、軍部首脳が親ポーランド派で占められている為に、ナチス・ドイツとの提携を極秘に模索していた。

 日独提携を声高に主張していたのは、34年3月までドイツ駐在武官を務めていた坂西一良中佐ら少数派であった。

 欧米課長飯村穣大佐からドイツ日本大使館付き陸軍武官大島浩大佐への極秘の指示。「第二部内だけの事だが、ドイツと将来にわたり何らかの提携を考えたい。

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 9月 イギリスは、中国における利権を守る為に、軍国日本に対して共同で蒋介石を財政援助する事を提案した。

 日本外務省と軍部は、国民党が満州国を独立国として承認してくれるのであれば援助すべきだと考えていた。

 高橋是清蔵相は、「主旨はまことに最もであるが、ない袖はふれない」といって反対した。

 もし、満州国の承認と引き換えに財政援助していれば、日本のその後の破滅は回避されたかもしれない。

 軍部は、これ以上の中国内戦に介入する事を好まず、ソ連・共産主義勢力の侵略を食い止めるべく満州に兵力を集中させる事を希望していた。 

 軍国主義者は、満州国を近代国家に成長させ、軍国日本と満州国は反共産主義同盟を組んで、アジアを共産主義の魔の手から守る計画を立てていた。

 軍国日本は、2000年以上の長きにわたって受け継いできた民族の伝統的天皇制度を共産主義から守る為ならば、如何なる手段でも厭わなかった。

 日本陸軍は、『転換期の国際情勢と我が日本』を発行した。

 「未だ誤られたる国民党部の欧米依存、排日政策より完全に脱却するに至らない……支那政権は昨今若干覚醒の機運に在る」

 反日的国際勢力は、「国體」を守りたいという日本民族の悲願を打ち砕くべく戦略を練って行動していた。

 長征。毛沢東「我々は独立した共産党ではない。我々は共産主義インターナショナルの一員である。我が中国革命は世界革命の一環なのだ。我々はソ連との国境に向けて進撃し、拠点を築き、それから東に向かおう」

 毛沢東は、スターリンの指導下で、ソ連の援助を受けて行動する事を改めて表明して、中国共産党における正統な主導権保持者である事を再度宣言した。

 モスクワ・コミンテルン本部からの極秘指定の無線通信は、全てソ連留学組の最高幹部・任弼時によって翻訳され毛沢東に届けられた。

 毛沢東は、党中央政治局会議に於いてモスクワからの指示として口頭で伝え、極秘指令電信文を回覧する事はなかった。

 モスクワへの無線通信は、毛沢東が完全に管理していた。

 毛沢東の発言に疑問を持つ者は、反革命分子として粛清された。

 毛沢東は、スターリンの指示に不服な点もあるが、スターリンが死ぬまでは嫌々ながら従っていた。

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 10月 中国共産党は、ぼろぼろな衣服をまとい空腹で痩せ細った体の流浪者集団として陝西省延安に辿り着いた。世に言う、長征の終了である。

 イタリア軍は、エチオピアに侵攻した。

 アインシュタインは、平和主義から、日本に続いてイタリアによるエチオピア侵略に抗議した。

 ポール・ドティ「ファシズムから分明を如何に救い、生き延びるか……平和の話しはそれから」

 10月1日 反日派のアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将は、ゼークト大将が帰国した為に軍事顧問団長に就任し、ファシスト中国軍の近代化を推し進め、蒋介石に対日強硬策を進言した。

 ファルケンハウゼン中将は、中国の敵は日本と中国共産党であるが、まず外敵である日本を攻撃すべきであるとして、手薄な上海と漢口の日本人租界を奇襲すべきであると進言した。

 ドイツ軍事顧問団は、漢口・上海の日本租界を奇襲攻撃し、日本人居留民保護にあたっている日本軍を強襲して殲滅させるべきだと対日作戦を提案した。

 蒋介石は、先に中国共産党を殲滅させるという「安内攘外」戦略から、ドイツ軍事顧問団が提案した対日即開戦論を退けた。

 10月17日 ルーズベルト「戦争に続く道を私達にたどらせる一連の混乱とアメリカが無関係でいられるよう全力を尽くそう、私は自分にそう誓っています」

 10月23日 ルーズベルト「海外で戦争が生じようと、この国がそうした戦争に混乱させられる事なく、無関係でいられる様にする事が私の第一の任務でしょう」

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 11月 ルーズベルトは、大統領選挙に勝利して、二期目を勝ち獲った。

 蒋介石は、抗日戦を求める強烈な国民世論を受け入れ、国民党大会で和平交渉が不可能となった時は抗日戦を覚悟すると表明した。

 抗日戦実行に際して、ソ連の軍事援助が得られるかどうかを探るべく、密使をウィーンに送った。

 ソ連は、追い詰められ消滅寸前の中国共産党を救う為に、ウィーンで蒋介石に接触して「日本と戦うのであれば援助する」と提案した。

 蒋介石は、日本軍と戦う前に中国共産党を滅ぼすという基本方針から、即答を避けた。

 ソ連と蒋介石を仲介したのは、イギリスのユダヤ系国際資本家であった。

 ユダヤ系国際資本家は、中国市場を独占する為に、日本を中国から完全に追放するべくファシスト中国を利用しようとした。

 南京のドイツ軍事顧問団は、日本軍との戦は避けられないと分かっていた為に防衛陣地建設と中国軍強化を急いでいた。

 マッカーサーは、「国権の発動としての戦争を放棄」したフィリピン憲法を起草した。後の、戦争放棄を唱った日本国憲法の原型でである。 

 フィリピンは、独立を認められてもアメリカの植民地に変わりなく、安全保障はアメリカ軍に全面的に頼っていた。

 世界史に於いて、自国の安全を自力で確保できない国は、安全を依存してい国の属国化植民地である。

 自衛の軍隊を持たない国は、国内に駐屯している国の占領下にある事を意味している。

 11月11日 ルーズベルト「アメリカ合衆国の第一の目的は、戦争に巻き込まれる事を回避する事です」

 11月4日 ソ連のスパイ・ゾルゲは、東京のドイツ大使館から日独協定の内容を盗み出した。

 11月26日 ドイツ外務省は、日本大使館付き陸軍武官大島浩に防共協定草案を手渡した。

 大島陸軍武官は、東京に日独防共協定草案を送った。

 防共協定案は、正規の外交交渉で生まれたのではなく、外交の素人である大島浩武官とヒトラーの外交顧問リッベントロップとドイツ軍情報部カナリス大佐らが作成したものであった。

 ドイツのエリート層は、反日派として日本との提携に猛反対していた。

 ドイツの日本大使館はつんぼ桟敷に置かれ、武者小路公共大使や横井忠雄海軍武官は何も知らされていなかった。

 日本の外交は、往往にして、外交を知らない素人が勇み足で極秘に他国交渉を行う傾向がある。

 成功した例は日独防共協定であり、失敗例が日米和平交渉である。

 日本人の外交音痴は、自分こそは本職の外交官よりも外交交渉能力があり、狡知に長けた老練な他国の外交官を説得できると妄信しているところにある。

 つまりは、外交を得意げに語る者はくだらない「井の中の蛙」に過ぎない。

 現代日本に、そうした夜郎自大の軽薄な政治家が増え始めている。

 参謀本部第二部ドイツ班と陸軍省軍事課は、日独防共協定を協議したが、親ポーランド派幹部の慎重論が大勢を占め継続的研究をする事で棚上げとなった。

 軍部は、ナチス・ドイツ以外に複数国と防共的提携の模索が主流を占めていた。

 軍人エリート官僚は、名門名家生まれでもい中級階級の子供であり、正規の軍事教育を受けた事のない歩兵伍長の食い詰め志願兵で、政治的に実績のないミュンヘン一揆の首謀者・ヒトラーを軽蔑し信用していなかった。

 軍部は、中国軍内のドイツ軍事顧問団の活動中という情報に神経を尖らせていた。

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 中国共産党支配地区で。

 現場で苦労させられている下級党員や一般兵士らは、裕福な家庭出身で共産主義の理念や理想を熱く語るモスクワ留学組党幹部に失望し、粗雑で乱暴ではあるが話しを聞いてくれる毛沢東が指導者として復権することを望んだ。

 毛沢東は、現場の不平不満を利用して支持者を増やし、有能な政敵を全て容赦なく粛清し、反対派を黙らせて権力を手に入れた。

 毛沢東は、政治や軍事や経済などの才能ではなく、相手の欲を利用する事で人心を獲得し、『水滸伝』の盗賊さながら謀略と流血で中国共産党の指導者となった。

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 12月 毛沢東は、モンゴル人の攻撃を避ける為に、三・五宣言を行って「内モンゴルの領土の保全を尊重する」と宣言した。

 中国共産党が体制を固めるまでの方便であり、モンゴルの自治権も人権も認めてはいなかった。

 戦後。中国共産党は、モンゴルの分離独立派を弾圧し、民族主義者を親日派として大虐殺した。

 共産主義政策は、反対派の大流血で実行された。

 北京で。学生達は、日本軍華北侵略反対と国共内戦停止を求める運動を展開した。

 12月9日 ルーズベルト「皆さんも私も承知している事ですが、私達には世界の他の地域で行われている戦争に参加するつもりはありません」

 12月下旬 ソ連のタス通信が、極秘で進められていた日独防共協定交渉をスクープした。

 情報源は、日本国内で活動していたソ連軍スパイのゾルゲであった。

 イギリスのニュース・クロニクル紙やフランスの左翼系新聞も報道した。

 ドイツ保守層は、日本との協定に猛反対した。

 ノイラート外相は、ヒトラーに「日本との提携は何ももたらさない」と進言した。

 南京のトラウトマン駐華大使は、蒋介石を支援する立場から、リッベントロップに「日本軍によって、ドイツの軍事的負担が軽減される事はない」と指摘して抗議した。

 ブロンベルク国防相は、中国との軍事協定交渉を優先して日本との防共協定には反対した。

 ベック参謀総長は、カナリス大佐の親日的行動に釘を刺した。

 シャハト経済相兼帝国銀行総裁は、中国貿易の拡大を求める経済界の強い要請を受けて猛反対した。

 ヒトラーは、独裁者として、対ソ戦略から日本との防共協定を承認したが、同時に経済の為に中国への軍事援助継続を認めた。






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伊勢神宮と天皇の謎 (文春新書)

伊勢神宮と天皇の謎 (文春新書)

2017-09-08

♫:25─1─ヒトラーは、対日戦用に上海と南京城の要塞化と上海・南京間の陣地構築にドイツの土木工学と築城技術を提供した。1935年〜No.106〜No.107@         

日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ

日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ

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 共産主義の陰謀。「戦争から内戦へ、内戦から革命へ」

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 軍国日本に迫り来る、国體(天皇制度)破壊という危機。

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 軍国日本にとって、蒋介石の国民党政権(ファシスト中国)に軍事支援するヒトラー、ナチス・ドイツ、ドイツ国防軍、軍需産業は敵となった。

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 1935年 日本海軍は、南方開発の重要性から「対南洋方策研究委員会」を組織し、国策会社南洋興発のポルトガル領東ティモール進出を支援した。

 軍国日本は、平和的に東ティモールに進出した。

 オランダとオーストラリアは、軍国日本の南方進出を警戒した

 マクマリーは、北京駐在のアメリカ公使を努めた経験から、「満州事変を引き起こしワシントン体制を崩壊させたのは中国側に責任が有り、アメリカは国益を損なう事を警戒しつつ、中国処分を日本に任せて身を引くべきである。そして、中国ではなく日本との関係に軸足を置くべき」であるという対中外交の意見書を、グルー大使を介してフランクリン・ルーズベルト大統領宛に提出した。

 ハル国務長官は、ルーズベルトの対日強硬外交を推し進める為に握りつぶして無視した。

 ソ連は、国民党の蒋介石と軍事的密約を秘めた条約を結び、中国共産党の毛沢東を支援した。

 中国の内戦は止まず、社会は混乱し、至る所で左右両陣営による殺人テロ事件が起きていた。

 胡適は、蒋介石や汪兆銘らに対日基本戦略として「日本切腹、中国介錯論」を献策した。

 あらゆる機会を捉えて日本を暴発するように仕向け、日本軍を内陸部奥地まで誘い込み、補給線を引き延ばして持久戦に持ち込む。

 国際世論を反日に誘導して味方に付け、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア、アメリカ、ソ連などの欧米列強を抗日戦に参加させる。

 持久戦で補給路を断たれ弱った日本軍に対して大攻勢に転じて、日本勢力を大陸から駆逐し、日本人を一人残らず中国から追放し、日清戦争いらい日本に奪われていた権益を全て奪還し、中国にある全ての日本資産を没収する。

 アメリカ世論は、第一次世界大戦を苦い経験として、アメリカを二度と国外での戦争に巻き込まれる事には反対していた。 

 連邦議会は、国民の反戦気運を受けて、国際法が定める戦争行為を行わないという中立法を成立させた。

 ルーズベルト大統領は、今後、ヨーロッパの戦争に関与しない事を誓って法案に署名した。そして、ことある事に中立法を破って武力介入して戦争に参加しない事を公約した。

 アメリカ市民権を持つ日系二世の多くが、親の勧めで日本に留学したが、日本がアメリカと比べてひどく陰気で貧しく、日本社会がアメリカ社会と比べて閉鎖的で陰気くさく、日本人がアメリカ人と比べて陰湿で冷たいと嫌って、帰国した。

 警察当局は、彼らをアメリカのスパイとして監視していたとも言われている。

 ウィリアム・プライスの報告。日系二世の子女達は、「日本には自分達の居場所はない」と答え、「日本が嫌いになった」と言う。

 事実。日本の子供達は、アメリカ的な彼らを同じ日本人とは見做さず、除け者にし、差別し、意地悪をし、苛めていた。

 FBIは、日本との関係が悪化しだすと、日本から帰国した日系二世を帰米(きべい)者と呼び監視した。

 1942年までの帰米者は、約9,000人であった。

 昔も、今も、日本に留学した外国人の多くが、外国人を受け入れず排除しようとする日本人の排他的な根性に嫌悪を感じて、日本を嫌いになって帰国している。

 ジョン・パトリック「(二世の女性の証言)日本の食べ物はまずいし、美味しいコーヒーもないし、日本人は汚い」「(日本とアメリカのどちらに住みたいか)もちろんアメリカです。アメリカ生まれの日本人で、実際に日本を体験した者で、日本がアメリアよりもいいなんて思う者は一人もいやしません」

 極僅かな日系二世は、日本を愛して日本にかぶれて帰国したが、日本を嫌う大半の日系二世から変人扱いされ除け者にされた。

 日本人は、排他的閉鎖的民族性ゆえに自分が思うほどに、外国人や外国に住む日系人に好かれてはいなかった。

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 1月 共産党軍兵士は、目的地を示せない党執行部に不満を持ち、失脚していた毛沢東を支持した。毛沢東は、支持者を拡大し、貴州省遵義の会議で中央政治局常任委員に返り咲いて主導権を掌握した。

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 3月 ゼークト大将は病気の為に帰国し、ファルケンハウゼン中将が第四代ドイツ軍事顧問団長と中国軍事委員会総顧問の職を引き継いだ。

 ファルケンハウゼン将軍は、国民党の最高幹部会議や国防会議に出席した。

 ファルケンハウゼン「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手が上がって英米の手がふさがれないうちに、対日戦争に踏み切るべきだ」

 ドイツ軍事顧問団は、対中国共産党戦と対日戦の為に中国軍の強化に取り組んだ。

 対日戦に備えて、上海と南京城の要塞化と上海・南京間の陣地構築にドイツの最新の土木工学が使われた。

 ゼークト大将は、ヒトラーや政府幹部らに、中国との提携を強めるように力説した。

 ヒトラーは、日本への嫌悪感から対中関係強化を承認した。

 親中派のシャハト経済大臣は、ドイツの経済発展の為には対中貿易は不可欠であるとの持論から、ファシスト中国との貿易拡大に取り組んだ。

 ドイツ財界は、ヒトラーの許可を得てファシスト中国との貿易を拡大した。

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 春 ハースト系新聞社は、親中反日世論を形成する為に、中国を擁護する記事を掲載して日本を攻撃した。

 アメリカ世論は、白人至上主義による人種差別から反日化した。

 カリフォルニア州議会は、相次いで排日法案を可決した。

 民間でも幾つかの排日団体か結成され、日本と戦う中国人や朝鮮人を助けた。

 アメリカのキリスト教宣教師は、反天皇反日として中国や朝鮮で布教活動を行っていた。

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 4月9日 輸送船ショーモント号事件。

 日本側は、貿易依存度が高いアメリカとの関係を維持する為に、政府はもちろん民間でも数多くの友好親善使節を送っていた。

 ルース・ファウラー「カリフォルニアに住む者は、反日本人の活動が日常茶飯事の事件である事に気づかされることになる。反日本人の動きは政治の場でも、社会経済活動でも、あらゆるところで付いて回った。だから日本人と接触する度に、それが直接的であろうが間接的であろうが、いつもこの問題の存在を思い起こされるはめになった」

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 5月 華北分離工作。関東軍は、幾つも停戦協定を結びながら破ってゲリラ作戦を仕掛けてくる中国軍を殲滅するべく、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)に親日派防共政権を樹立すべく華北自治運動を始めた。

 蒋介石は、中国共産党を殲滅するまでは便宜的に日本とは善隣を保つ必要があり、広田弘毅外相の善隣路線を評価した。

 両国は、公使館を大使館に昇格させた。

 5月2日 フランスは、ナチス・ドイツに対抗する為にソ連と相互援助条約を締結した。

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 6月18日 英独海軍協定調印。ヒトラーは、再軍備を禁止しているベルサイユ条約を無視して陸軍を増強する為にイギリスの承認を得るべく、海軍力はイギリス海軍の3分の1とし、空軍力はイギリス空軍と同等にする事に同意した。

 イギリスは、ナチス・ドイツが海軍と空軍を制限して陸軍のみを拡張する事を約束するのであれば軍拡路線を容認した。

 フランスは、事前通告を受けず蚊帳の外に置かれていた。

 イギリスとナチス・ドイツは、日本と敵対するファシスト中国の軍事強化計画で分担を決めた。

 イギリスは中国海軍を支援し、ナチス・ドイツは中国陸軍を支援した。

 アメリカは、戦略物資をファシスト中国に売っていた。


  


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日本文明の興廃 いま岐路に立つこの国

日本文明の興廃 いま岐路に立つこの国

2017-09-07

♫:24─1─ファシスト・イタリアのエチオピア侵略。エチオピア帝国と軍国日本。オマーン国王と結婚した日本人女性。1935年〜No.103〜No.104No.105@                  

マスカルの花嫁―幻のエチオピア王子妃

マスカルの花嫁―幻のエチオピア王子妃

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 中国と朝鮮以外のアジアと中東及び北アフリカの独立派民族主義者の大半は、日本に憧れる親日派であった。

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 日本の頑固な保守層は、国際結婚に猛反対していた。

 日本皇室には、純血主義による民族優位はもちろん人種差別や外国排除の考えは微塵もなく、むしろ諸外国との親善の為に国際結婚を容認していた。

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 ハワイ王家は、非白人同盟として、日本皇室と姻戚になる事を熱望していた。

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 日本皇室の弱点は、西洋諸国の王侯貴族のように、外国の王侯貴族との姻戚関係がなく、皇位継承権を持つ皇族が日本民族日本人だけと言う事である。

 外国の王家であれば、自国だけではなく他国にも王位継承権を持つ王侯貴族がいる。

 自国系の王家が絶えれば、他国から王族を迎えて自国の新たな王家とした。

 それが、真の開かれた王家である。

 必ずしも王家が、自国の血を引いた王族でなくても、他国の王族でも構わないと言う事である。

 例えて言えば、日本人の天皇家が絶えたら、イギリス王家かスウェーデン王家から王族を天皇として迎えて天皇に即位させる、と言う事である。

 それが女系天皇論である。

 西洋諸国の王侯貴族は、女系継承権で他国の国王に即位できる。

 故に、ドイツ人がイギリスの国王に即位できるのである。

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 反日派中国共産党は、一帯一路世界戦略で、貧しい親日派諸国に対して多額の資金援助金を行い反日派に加えている。

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 1904年 日露戦争の日本の勝利は、欧米列強による帝国主義政策である植民地拡大政策の終焉を告げるもので、植民地支配に苦しむ全ての有色人種にとって朗報であった。

 ロシア帝国と戦争を繰り返していた、フィンランドなどの北欧、ポーランドなどの東欧、トルコなどの中近東、ペルシャやイランなどの中東は、歓喜して親日派となった。

 インド、ビルマ、マレーシア、カンボジア、ベトナム、インドネシアなども親日派となって、日本に期待した。

 非白人諸国の大半が、親日派となり、小国日本を勝利に導いた明治天皇を偉大な指導者とし、日本を守り通した伊藤博文を優れた政治家として崇拝した。

 伊藤博文が朝鮮人テロリストによって暗殺された事に、哀悼の意を送り、その死を非白人社会の甚大なる損失であると惜しんだ。

 日露戦争の勝利を否定する反日派は、中国と朝鮮・韓国のみであった。

 伊藤博文の死を歓喜して喜んだのも、反日の中国と朝鮮・韓国であった。

 反日派以外は、日露戦争を軍国日本の大陸侵略ではなく、偉大なる自衛戦争と認めていた。

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 1919年1月 アフリカの唯一の独立国であったエチオピア帝国は、国際連盟に加盟する為に、有色人種で常任理事国である大日本帝国に助言を得るべく日本代表に接近した。

 非キリスト教徒非白人である日本は、欧米列強の植民地支配から解放してくれる希望の光であり、有色人種の憧れの星であり、富国強兵の近代国家になる為の手本であった。

 それは、同時に。世界をキリスト教徒白人のみで支配するという「神聖な使命」に燃える白人にとって邪魔者な異分子にすぎなかった。

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 1921年 ムッソリーニは、イタリア各地のファシスト勢力を統合してファシスト党を結成した。

 1922年 イタリア政府は、ファシスト党によるローマ進軍を阻止しようとした。

 イタリア国王は、国内の混乱を避ける為にムッソリーニを首相に任命した。

 ファシスト党は、新法を制定して議会を無力化し、他の政党を解散させ、一党独裁体制を実現した。

 政権を掌握していたファシスト党のベニート・ムッソリーニ統領は、「古代ローマ帝国の再興」、「地中海を再び我らが海に」という民族主義的なスローガンを掲げた。

 1923年 国際連盟は、エチオピア帝国が加盟の障碍とされた奴隷制の廃止を決めた為に加盟を認めた。

 1927年6月 駐ルーマニア公使、武者小路公共は、エチオピアに行き摂政タファリ・マコネン皇太子と「日本・エチオピア通商友好条約」に調印した。

 1928年8月 イタリアは、エチオピア帝国と隣接するソマリランド及びエリトリアを植民地として保有しており、エチオピアとイタリア=エチオピア友好条約を結んで関係を深めた。

 イタリアの目的は、将来、エチオピアを侵略する為の布石であった。

 エチオピアにとっては、自国を植民地しようと狙っているイギリスとイタリアを拮抗させる危険な賭であった。

 タファリ・マコネン「我が国は英伊両国によって密かに分割されており、イタリアは一番いいところを獲得した」

 1929年 イタリア王国は、約4,200万人の余剰人口を抱えた上に、世界大恐慌で国内産業が打撃を受けて失業者が街に溢れていた。

 さらに、世界的な農業恐慌による農業不況が農村部を直撃し、農家は生活苦に陥った。

 国内の失業と余剰人口を解決する為に、植民地の獲得と国威発揚を目的とした膨張政策を進めた。

「ローマ帝国の復活」を掲げて東アフリカ帝国建国計画に取り掛かっていた。

 1930年 イタリア軍は、エチオピア・オガデン地方のオアシス・ワルワルにイタリア軍が要塞を築いた。

 4月 摂政タファリ皇太子は、ザウディトゥ女帝が病死した為に、エチオピア皇帝(ネグサ・ナガスト)ハイレ・セラシエ1世に即位した。

 11月 セラシエ皇帝は、イタリアの侵略からエチオピアを守る為に、イタリア以外の列強との連携政策を進めた。

 イタリアの政界首脳や軍部と経済界は、皇帝の代替わりで国内は混乱し弱体化しているとの判断から、エチオピアの獲得論が持ち上がった。

 エミーリオ・デ・ボーノ植民地相「イタリアにとって残された最後の土地」

 1930年 日本とエチオピアは修好通商条約を締結した。

 1931年 エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は、大日本帝国憲法に倣ってエチオピア初の成文憲法「(英語版)エチオピア1931年憲法」を制定し、日本を手本として富国強兵の軍国主義政策を進めようとした。

 日本との交易を増やす為に、ヘルイ・ウォルデ・セラシエ外相を団長にした使節団を日本に派遣した。

 日本産綿製品のエチオピア市場における占有率は、33年にイギリス産を抑えて70%に達した。

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 1931年9月16日 満州事変。

 ムッソリーニは、国際連盟が満洲事変勃発以後の日本の軍事行動を止められなかった事で機能不全に陥ったと見るや、高原を有し農業移民が可能なエチオピアへの侵略計画を極秘で進めた。

 エチオピアを侵攻しても、国際連盟には阻止する力はないし、イギリスやアメリカから大量の戦略物資を購入していれば反対はしない、唯一の懸念されるのがエチオピアと友好関係にある軍国日本の出方であった。

 軍国日本がエチオピアを支援に出れば苦戦が予想され、ロシア帝国を破った日本軍がエチオピア防衛の為に派遣されては侵略計画自体が失敗する危険があった。

 1932年4月 ムッソリーニは、ファシスト大評議会においてエチオピアに対して積極的政策をとる旨を発表した。

 エチオピア侵略で、アフリカと中東に植民地を抱え、地中海の制海権を握るイギリスとフランスの介入が予想された。

 ムッソリーニは、イギリスとフランスの心証を良くするべくヨーロッパ政治における積極的に調停役を演じていた。

 イタリア軍は、イタリア領ソマリランドからのエチオピア領内に侵攻する為の軍用道路建設を始めた。

 1933年 ムッソリーニは、日本軍を中国に釘付けにする為に、満洲を巡って軍国日本と対立するファシスト中国を支持して、軍事面では中国空軍の訓練の為に軍事顧問を派遣し、経済面では両国の合弁航空機工場などを建設した。

 ファシスト・イタリアは、軍国日本との対立姿勢を明らかにするべくファシスト中国との提携を深めた。

 ムッソリーニは、宗教的白人至上主義として日本人を憎悪し、差別していた。

 軍国日本とファシスト陣営との対立の始まりである。

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 1933年 ヘルイ使節団に随行したていたエチオピア皇室の縁戚者リジ・アラヤ・アベバ王子は、大和撫子の控え目で清楚な美しさに魅了され、新聞に日本人花嫁の募集広告を掲載した。

 華族令嬢黒田雅子は、新聞広告を見て、両親に無断で応募した。

 1934年 アベバ王子と黒田雅子の縁談が成立し、軍国日本とエチオピア帝国の関係がより深くなる兆しを見せ始めた。

 ムッソリーニは、両国の関係に危機感を抱き、黄禍論を持ち出して軍国日本を非難し、アベバ王子と黒田雅子の縁談を破談に追い込んだ。

 イギリスやフランスも、軍国日本がアフリカ・中東に進出してくる事を嫌い、軍国日本を中国に封じ込める為にファシスト中国への軍事支援を強めた。

 4月 東京日日新聞は、夕刊でヨーロッパの「某国」の干渉によって破談した事を報じた。

 ヘルイは、帰国後、自国のアムハラ語で日本滞在経験を基にした日本紀行書を刊行し、同書を日本語訳で刊行して、両国の変わらない友好を世間に知らせた。

 伊藤久男は、エチオピアの呼びかけに答えるように歌唱『エチオピアの唄』を作って、レコードを日本コロムビアから発売した。

 白人の圧迫に苦しむ者同士として、エチオピアと日本の両国間で相互に関心が高まった。

 軍国日本の国民感情は、親エチオピアであった。

 ファシスト中国は、軍国日本に対抗する為に、ファシスト・イタリアやイギリスなどの軍事支援を受けて軍備強化を急いでいた。

 ナチス・ドイツもまた、中国市場に食い込む為に軍国日本包囲網に参加した。

   ・   ・   ・   

 1934年2月8日 ムッソリーニは、ヨーロッパが平穏であるという前提のもとで、エチオピアに対する軍事侵攻を35年に開始する事を決定し、戦争準備が整うまで先走った軍事行動をとらないように命じた。

 第一次エチオピア戦争で敗れたイタリア軍は、短期間の戦闘でエチオピア全土を占領する作戦を立案し現地軍の増強を急いだ。

 戦争開始の時期が近いという緊張感が、最前線戦に配備されたイタリア兵を思わぬ行動に走らせた。

 戦争は、現場の兵士による偶発的な事件から始まる事がある。

 11月(〜12月) ワルワル事件。ムッソリーニが警戒していた突発的事態が、イタリア領ソマリアとエチオピアの国境地帯でを起こした。

 エチオピアの地方守備隊を伴ったイギリス領ソマリランドとエチオピアの国境策定委員会は、このイタリアのエチオピア侵略に抗議した。

 委員会のイギリス代表は、国際紛争化を避けるためにすぐに現地を退去した。

 12月5日 ワルワルの地で両軍が衝突し、エチオピア軍に150人、イタリア人に50人の戦死者が出て、緊張状態は最高度に達した。

   ・   ・   ・   

 1935年 第6代オマーン国王スルタン・タイムールは、世界旅行するに当たって身分を隠し、その途中で日本に立ち寄った。

 タイムール国王は、神戸のダンスホールで大山清子(19)と運命の出会をして恋に落ち、国王である事を伏せて結婚を申し込んだ。

 清子も、その愛の真剣さを受け入れた。

 2人は、結婚を誓い合った。

 清子の両親は、年齢が倍以上離れている上に、結婚相手が中東の人である事から、娘は不幸になる思って猛反対した。

 二人の決意が固い為に、両親は「娘と結婚したいならオマーンではなく日本に住んでください」との無理難題な条件を突き付けた。

 タイムール国王は、直ぐさま帰国して、国王の座を弟のサイードに譲り、再び日本を訪れた。

 1936年 タイムールは、国王であった事を隠したままで清子と結婚し、生まれた娘を節子と名付けた。後の、ブサイナ妃である。

   ・   ・   

 サイード国王が来日し、タイムールが元国王であった事実が明らかとなった。

 1939年 清子は、23歳で腎盂炎を患い他界し、お墓は兵庫県東加古川市に建てられた。

 タイムールは、節子を伴ってオマーンに帰国し、将来を考えて王族の相続権を得られるよう手配してブサイナ妃と名乗った。

   ・   ・   

 イギリスは、日本がアラビア半島に拠点を得る事に、中東からインド支配が脅かされるとして危機感を抱いた。

   ・   ・   

 1978年 ブサイナ妃は、母の死から39年後に日本を訪れ母の墓参りをした。

 オマーン王国は、中東の中でも特に親日的な国である。

   ・   ・   ・   

 1935年1月15日 エチオピアは、ワルワル事件を国際連盟に提訴した。

 国際聯盟は、常任理事国のイタリアに気兼ねして紛争解決には消極的であった。

 皇帝ハイレ・セラシエ1世は、頼る国がない為に、白人勢力に反抗する軍国日本からの支援を期待した。

 軍国日本は、ファシスト中国や中国共産党による日本人居留民への死傷事件の多発で余裕がなく、エチオピア支援どころではなかった為に、エチオピア、イタリア両国との中立を保った。

 民間レベルでは、白人支配からアジアの解放を主張する黒龍会などの右翼諸団体がエチオピア支持を表明した。頭山満や議員などが「エチオピア問題懇談会」を立ち上げ、イタリアにエチオピア侵略の停止を求める決議案を送付した。

 1月3日 エチオピアは、イタリアの侵略を国際連盟に提訴した。

 国際連盟は、折からのドイツ問題に忙殺されて、エチオピア問題を審議するどころではなかった。

 ムッソリーニは、エチオピアに対するフリーハンドを得る為に、イギリスやフランスに働きかけ、「1935年1月6日に、イタリアはフランスから『フランスはエチオピア問題に関心を持たない』という秘密合意を獲得した」という成果を得たとして、イギリスにも同様の合意を迫った。

 イギリスは、イタリアのエチオピア政策を支持する事は、地中海・スエズ運河・インド洋への航海権を危険に晒すとして不同意を表明した。

 4月 ムッソリーニは、イギリス、フランスと共にナチス・ドイツに対抗する為にストレーザ戦線を結成し、イギリスはエチオピア侵攻を黙認すると分析した。

 イギリスは、ナチス・ドイツを封じ込める為にファシスト・イタリアを手なずける為に、エチオピアの獲得を容認する空気が生まれていた。

 イタリア軍は、エリトリアに正規軍5個師団と黒シャツ隊5個師団を、ソマリランドに正規軍1個師団と黒シャツ隊数個大隊をそれぞれ派遣した。

 東アフリカ植民地部隊の総兵力は20万人で、火砲700門、豆戦車150両、航空機150機が配備された。

 さらに、現地の傭兵や反乱部族(アスカリ)も参加した。

 6月 イギリスは、独断でナチス・ドイツと海軍協定を締結した。

 フランスとイタリアは、英独海軍協定に抗議してストレーザ戦線は崩壊した。

 イタリアは、独自外交方針を取る事にした。

 黒龍会の頭山満は、日比谷の東洋軒でエチオピア問題懇談会を開き、エチオピアのヘルイ外相と駐日イタリア大使にエチオピア支持の決議文を送付した。

 インド独立運動家ラース・ビハーリー・ボースは、ゲストとしてエチオピア問題懇談会に参加した。

 7月以後、大日本ツラン連盟、大アジア主義協会、愛国青年連盟、愛国婦人会などもエチオピアを支持し、日本刀や医薬品をエチオピアに送った。

 7月16日 杉村陽太郎駐伊大使は、ムッソリーニと会見し「エチオピア問題に政治的関心無し」と伝えた。

 7月19日 A級戦犯・広田弘毅外相は、日本皇室とエチオピア帝室との長年の友好関係を考慮して、エチオピア問題に関心があるという発言を行った。

 イタリアは、軍国日本に対する不信感が生まれた。

 日本政府は、軍部の圧力を受け、中国からイタリア軍事顧問団を締め出す為に「いずれにせよ、イタリアに対して好意的態度をとり続ける」事を表明した。

 ムッソリーニは、日伊間の友好関係を保つ為に「アジア人とアフリカの『未開人』を同一視しない」と述べ、日本批判の黄禍論キャンペーンを控えた。

 7月24日 大日本生産党の内田良平は、ムッソリーニに対する抗議電報を送付した。

 イギリスは、イタリアに対してエチオピア侵略に対する警告を行い、「もはや同盟国ではない」と通告した。

 日本軍部と右翼は、イギリスがファシスト・イタリアに圧力をかけ始めるや、エチオピア支持を取り止めてファシスト・イタリアとの同盟関係構築を望み始めた。

 8月 イギリスは、ファシスト・イタリアに圧力を加えるべく、本国艦隊をジブラルタルに派遣した。

 イタリア政界は、イギリスとの戦争を恐れる声が高まった。

 イギリスは、フランスがイタリアとの戦争に消極的であった為に戦争に踏み切ろうとはしなかった。

 ムッソリーニは、イギリスとフランスがエチオピアを救う為に戦争を行わないと確信して、エリトリアとソマリランドの軍をエチオピア国境に集結させ始めた。

 8月16日 パリ。イタリア・イギリス・フランス三国の代表は、エチオピア問題解決の為に会談を行った。

 イギリスとフランスは、イタリアに対して、エチオピアの独立を損なう事なく、国境線の変更やイタリアによる事実上の委任統治を認めるなどの宥和的な提案を行った。

 だが、ムッソリーニはエチオピアの軍事占領に拘った為に会談は決裂した。

 イギリスは、艦隊をマルタに派遣し、マルタが攻撃された場合は直ちに戦争に突入する事を決定した。

 イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、イギリスなどとの戦争に発展する危険があるとして、エチオピア侵攻に反対した。

 だが。ムッソリーニは、エチオピア戦争の方針を変えなかった。

 エチオピア問題は、国際連盟の場で正式に討議される事となった。

 9月6日 イギリス・フランス・ポーランド・トルコ・スペインによって構成された五国委員会は、エチオピア問題を平和的解決するべく話し合った。

 9月10日 イギリスとフランスの代表は、イタリアに対しては軍事制裁やスエズ運河封鎖などの強硬措置は執らず、国際連盟の枠組み内で戦争を抑止する方針をとる事で合意した。

 9月11日 イギリスのサミュエル・ホーア外相は、エチオピアの独立を支持する演説を行い、各国の連盟代表の熱烈な歓声を受けた。

 9月18日 五国委員会は、エチオピアの独立を国際連盟が保障するかわりに指導下に置き、イタリアが望む国境線変更を行う代償として、英仏がイギリス領ソマリランドおよびフランス領ソマリランドから若干の領土をエチオピアに割譲するという調停案を出した。

 イタリア政界内部では、平和解決の為に提案の受け入れを求める声が高まった。

 ムッソリーニは、「20万の軍隊を東アフリカに遠足に出したとでもいえというのか」と考慮しなかった。

 9月21日 ムッソリーニは、正式に拒否を決定した。

 イタリアとイギリスの緊張は、戦争直前といった最高潮に達していた。

 イギリスとフランスは、イタリアとの戦争を回避する為に、イタリアが戦争の範囲をエチオピアに限定して両国の権益を侵害しない事を確約すれば、英仏もイタリアの軍事行動を容認する事を決めた。

 地中海における戦争を回避する為に、エチオピアの主権は見捨てられた。

 イタリアの、イギリスとフランスを黙らせるという外交の勝利であった。

 ムッソリーニの強気は、アメリカ・ウォール街の国際金融資本から財政支援を受ける密約があったからである。

 皇帝ハイレ・セラシエ1世は、国際連盟から見捨てられた事が明らかになるや、イタリアとの戦争の為に国家総動員を発令し、50万人の新兵を集めた。

 だが、彼らの多くは槍や弓矢といった原始的な武器しか持っていなかった。

 エチオピア軍は、35万人の兵力を召集したが、軍事訓練を受けていたのはその4分の1で、装備は19世紀の旧式ライフルと旧式の火砲200門のみであった。

 エチオピア空軍の稼動兵力は、旧式のポテーズ25複葉戦闘機など13機であった。

 10月2日 ムッソリーニは、ラジオ放送で、エチオピアへの侵攻を宣言し、「アドワの報復」を訴えた。

   ・   ・   ・   

 エチオピア帝国には、外交での平和的な話し合いが閉ざされた以上は、残る手段は戦争以外に道がなかった。

 戦争か・平和か。個として独立した人間であれば、奴隷として惨めに生き長らえるよりも、勝てない戦いでも勝てると信じて勇敢に戦って死ぬ事を選んだ。

 エチオピア帝国にとっては自衛戦争であり、ファシスト・イタリアにとっては侵略戦争であった。

 軍国日本の満州事変とファシスト・イタリアのエチオピア戦争とは、両国に於ける人口過剰解消と世界恐慌による失業者対策であったが、戦争の本質は根本から異なる。

 一部の日本人は、エチオピア帝国を支持し武器弾薬を秘かに輸出していた。

   ・   ・   ・   

 第二次イタリア・エチオピア戦争。(1935年10月3日〜1936年5月5日)

 10月3日 総司令官エミーリオ・デ・ボーノ将軍は、イタリア軍部隊10万人とエリトリア軍部隊2万5,000人を率いてエリトリアから侵攻を開始した。

 イタリア軍部隊の大半は、アスカリと呼ばれる土着民の傭兵が占めていた。

 ソマリランドからは、ロドルフォ・グラッツィアーニ将軍が本国兵で編成された機械化部隊を中核とした攻勢を開始した。

 戦争は、宣戦布告なしに始まった。

 イタリア王国。兵力、50万人(アスカリ含む)。航空機、595機。戦車、795輌。被害、イタリア兵のみ3,731人。

 エチオピア帝国。兵力、80万人。被害、27万5,000人。

 「弱気を助け、強気を挫く」「判官贔屓」といった浪花節を好む日本の世論は、国力さ軍事力さに関係なく白人のイタリアに侵略されているエチオピアを支持した。

 日本政府と軍部は、国際世論がこの戦争を「第二の満洲事変」と見なしている事に配慮して局外中立を表明した。

 10月7日 国際連盟は、イタリアを侵略者とする採択を可決し、イタリアに対する経済制裁を開始した。

 石油などの重要な戦略物資については、中立国のアメリカがファシスト・イタリアに販売する可能性があるとして適用外とした。

 事実。アメリカの国際資本は、国際連盟の経済制裁決議を無視して、戦争で儲ける為にファシスト・イタリアに石油や軍需物資を売っていた。

 実効的な経済制裁は行われなかった。

 イギリスとフランスは、イタリアへの宥和政策として、イタリアによるエチオピアの植民地化を容認する和平案(ホーア・ラヴァル案)が立案された。

 エチオピア帝国は、屈辱的内容に激怒してイタリア寄りの和平案を拒絶して、徹底抗戦をおこなった。

 12月中旬 新総司令官のピエトロ・バドリオ将軍は、戦争を早期に終わらせる為に前任者の慎重な戦略を改めて大攻勢を仕掛けた。

   ・   ・   ・   

 もしこの時。エチオピアが、イタリアとの戦力差という現実をから和平案を受け入れて停戦していれば、亡国の憂き目を免れたしれない。

 日本にとっても、教訓となる事例かも知れない。

   ・   ・   ・   

 アフリカ系アメリカ人は、アメリカ共産党ハーレム支部などを中心に、資金を集めて医薬品を購入してエチオピアに送り、義勇兵を組織して支援を行った。

 西アフリカでは、黒人知識層などがエチオピアを応援した。

 黒人女優のジョセフィン・ベーカーは、エチオピアが奴隷制度を存続させていた為に、ムッソリーニを「黒人を救済する人物」としてイタリア支持を表明した。

 白人至上主義の人種差別主義者は、ファシスト・イタリアを支持した。

   ・   ・   ・   

 ナチス・ドイツは、ファシスト・イタリアをヨーロッパで口出しできないようにする為に、戦争を長期化させるべくエチオピアに武器を輸出した。

   ・   ・   ・   

 1935年2月15日 大角岑生海相は、衆議院赤字公債委員会で、軍事費を増額し軍事力を強化して国防を充実させる事によって、日本を攻撃すると甚大な被害を被るという威圧を敵に与え戦争を仕掛ける事の不利を自覚させると、説明した。

 「国費多端の折にも拘わらず、軍事費を要求する所以のものは、……これだけの準備をして置くならば日本に何かの考えで掛かってくるという国も非常に考えるであろう、躊躇するであろう、即ち……真に我が国を守るのであるという意味の国防を備えておけば、自然是れが戦争を避ける有力なる手段の第一であをうと思うのであります」

 国会は、第1回南京虐殺事件、済南虐殺事件、山東出兵、満州事変など、反日派中国に於ける日本人居留民暴行・強姦・殺人事件を目の当たりにしてきただけに、国防費増額を承認した。

 「軍備の充実と言う事は決して戦争という事に向かって進むという傾向の現れではない、素人考えで申すなら、戸締まりをしっかりしておかないと盗人が入ってくる恐れがあるから、しっかりと戸締まりをしておくのだという事で、まことに結構である」

 翌日。朝日新聞は「国防を充実せば戦争は起きない 衆議院赤字公債委員会で大角海相の答弁」と言う記事を掲載した。

   ・   ・   ・   

 1936年1月 軍国日本は、表だってエチオピアを支援できない為に、ファシスト・イタリアに対して存在を見せ付けるべく、権益保護名目でエチオピア首都アディスアベバに日本公使館を開設した。

 右翼のアジア主義者は、エチオピアを支持してファシスト・イタリアの帝国主義を非難した。

 1月20日 日本共産党は、機関紙『赤旗』附録『国際ニュース』第四号で、イタリアの侵略戦争を非難する記事が掲載したが、スペイン人民戦線に行ったような具体的な支援運動は行われなかった。

 左翼・左派のマルクス主義者にとっては、専制君主主義とファシズムの戦争で、人民の戦争ではないとして関心が薄かった。

 2月 イタリア軍は、頑強に抵抗するエチオピア軍陣地に対して毒ガスを使用して粉砕した。

 3月29日 グラツィアーニ麾下のイタリア空軍部隊は、エチオピア東部の都市ハラールを焼夷弾による爆撃を行って壊滅させた。

 3月31日 メイチュウの戦い。イタリア陸軍は、近代的な精鋭部隊であるエチオピア帝国親衛隊を撃退した。

 5月2日 ハイレ・セラシエ1世は、国外へ脱出し、ジブチ経由でロンドンに亡命した。

 5月5日 ピエトロ・バドリオ率いるイタリア軍が、首都アディスアベバを軍事占領して戦争は終結した。

 5月7日 ムッソリーニは、戦争の勝利とエチオピア併合を宣言した。

 エチオピア貴族は、祖国回復の為に、地方の部族の支援を受けて抵抗活動を続けた。

 愛国心を持ったエチオピア人は、イタリア人の奴隷になる事を拒否し、絶望的な戦闘を止めようとはしなかった。

 5月9日 ムッソリーニは、イタリア領エリトリア、ソマリランドを合わせた東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)の建国と、その皇帝にイタリア王・アルバニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の就任を宣言した。

 だが、戦争目的であった移住計画は失敗した。

 ファシスト・イタリアは、戦争には勝ったが国力を落とし、国際社会で孤立化して、ナチス・ドイツに接近した。

 新植民地エチオピア経営に専念する為に、中国から引き上げるべくファシスト中国との関係を清算する事にした。

 ロンドンに亡命しているエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は、国を失っても退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。

 国際連盟が、欧米列強の利害に左右されて国際紛争が解決できない事が明らかとなり、有名無実の存在として信用をなくした。

 6月 軍国日本は、ファシスト・イタリアとファシスト中国との関係に楔を入れる為に、イタリアによるエチオピア領有を承認した。

 軍部と右翼は、消滅したエチオピア帝国への同情を捨て去り、反ソ連・反共産主義を理由にして黄禍論を唱えるムッソリーニのファシスト・イタリアと日本の接近を歓迎した。

 親エチオピア派であった財界人も、綿製品を中心としたエチオピアに於ける日本の経済的な権益を考慮し、満洲に於ける日本の権益とエチオピアに於けるイタリアの権益を取引する事を望んだ。

 日本の世論は、熱しやすく冷めやすいという民族的特性から、ファシスト・イタリアの勝利で消滅したかっての友好国エチオピアへの関心が薄れた。

 口先で偉そうな事を言っても「諦め」と「忘れる」ことが、日本人である。

 大国や強国に媚び諂って生き残ろうとするのも、日本人である。

 西洋礼賛派日本人には、白人の勝利を祝い、滅びたエチオピア帝国など関心がなかった。

   ・   ・   ・   

 1937年11月 日独伊防共協定の締結。

 日本人は、親日的であったエチオピア帝国を見捨て、有色人種蔑視のナチス・ドイツとファシスト・イタリアとの提携を選んだ。

   ・   ・   ・   

 1938年4月16日 イギリスのネヴィル・チェンバレン首相は、ナチス・ドイツの膨張政策に対抗する為に、関係が冷却化していたイタリアとの再連携の為に復活祭協定

結んで、エチオピアに対するイタリアの支配権は事実上のもの(デ・ファクト)として認めた。

 皇帝ハイレ・セラシエ1世とエチオピア亡命政府は、またしてもイギリスに裏切られた。

   ・   ・   ・   

 1939年 第二次世界大戦が勃発。

 イタリアは、枢軸国の一員として連合国イギリスに対して宣戦布告した。

 エチオピア亡命政府は、連合国の一員に加わった。

 東アフリカ戦線 。エジプトのイギリス軍は、エチオピアのイタリア軍を攻撃した。

   ・   ・   ・   

 1941年 

 5月5日 イギリス軍は、イタリア軍を破って首都アディスアベバを占領した。

 ハイレ・セラシエ1世は、イギリス軍と共にアディスアベバに凱旋した。

 11月27日 イギリス軍は、東アフリカ帝国の全版図を占拠し、エチオピア帝国は復興した。

 イタリア軍敗残兵は、イタリア王国が降伏するまでゲリラ活動を行った。

 12月8日 真珠湾攻撃。日本は、対米英宣戦布告を行った。

   ・   ・   ・   

 1942年 エチオピア帝国は、イギリスとの協定に基づき軍国日本に宣戦布告し、日本との交戦状態に突入した。

 だが、エチオピア軍と日本軍が直接交戦する事はなかった。

















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オマーン見聞録―知られざる日本との文化交流

オマーン見聞録―知られざる日本との文化交流

2017-09-06

♫:23─3─不破哲三・共産党前議長講演概要。共産党は絶対主義的天皇制の弾圧と戦ってきた。天皇主義者による共産主義者弾圧。〜No.102  @          

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗

   ・   ・   ・   

 2017年7月20日 産経ニュース「【不破哲三・共産党前議長講演概要(1)】「共産党は絶対主義的天皇制の弾圧と戦ってきた」

 日本共産党の不破哲三前議長=7月19日、東京都中野区(桐原正道撮影)

 共産党の理論的支柱である不破哲三前議長(87)が19日、東京都中野区で開かれた党創立95周年の記念式典で講演し、「安倍晋三政権下で国政全体が『ウルトラ右翼』の潮流によって私物化されている」と述べ、政権の打倒と野党共闘の推進を呼びかけた。不破氏の講演の概要は次の通り。

   ◇   

 不破哲三です。日本共産党創立95周年のこの集まりに、たくさんの方がおいでいただいて本当にありがとうございます。このように一つの政党が同じ名前で95年という長く活動してきたことは日本の政治史にかつてなかったことだ。自ら歴史を開く開拓者の精神で取り組んだ多くの先輩たちの活動が刻まれている。

 先の都議選で全国が一つになって戦って、19議席という貴重な議席を勝ち取った。この勝利の中で党創立95周年を迎えたことを、ともに喜びたいと思う。今日はこの記念の日に私なりの経験を振り返りながら、日本共産党の歴史を語りたいと思う。中でも、今年の党大会の決議が結びの部分で強調した、歴史が決着を付けた3つの戦いに焦点を当ててお話をしたいと思う。

 まず第一は、戦前の暗黒政治との戦いだ。1945年8月15日、私は敗戦の瞬間まで典型的な軍国少年だった。動員先の工場の屋上で敗戦を聞いた。実はその前の日に「明日は敗戦だぞ」という噂が工場に流れてきて、「そんなことはあるはずがない」と友人と論争したばかりだった。

 本当に小学校時代、教育勅語と軍人勅諭でたたき込まれて育った軍国少年だった。教育勅語というのは幼稚園で大声で合唱するような軽々しいものではなかった。どこの小学校にも小型の神社風のご本殿というものが建てられ、そこにいつもは教育勅語がまつられている。祝日など学校の節目の集会があると、校長が恭しくそこから取り出してきて、私たちの集まった講堂で、厳かに一語一語重々しく読み上げる。生徒はそれを身動きせずに頭を垂れて聞く。せきをすることも、つばを飲むこともできない空気だった。学校生活で最も厳粛な時間だった。

 6年間それを節目ごとに繰り返すわけだから、暗唱させられなくても一字一句が頭に刻み込まれた。内容は、臣民、つまり天皇の家来である国民ということで、当時の憲法には国民という言葉はなかった。全部臣民だ。その臣民に下した天皇の道徳についての命令書だ。「朕思フニ」で始まるが、朕とは天皇が自分を指した代名詞。そこで始まり、この国は天皇の祖先が起こしたもので、国民の道徳もそのとき定めたものだ、だからそれを守らなければいけないぞ。そういうことを命令した文章だ。

 だから汝臣民という言葉で始まる。絶対に背いてはならない。この前書きの後に道徳の項目が続くが、最後の大項目が「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」。難しい文章だが、子供ながらに、要するに戦争になったら天皇家の存続のために命をささげろ。こういうことだなと誰にも分かった。

 中学に入ると、今度は教練という軍事教育が正規の科目になる。各学校に軍人が配属されていて、毎週何回か軍事教練を受ける。そのときに今度は、軍人勅諭というものを暗唱させられた。これもわが国の軍隊は「我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」。軍隊というのは天皇の軍隊なのだ。途中で武家に取られたが、それは明治維新で取り返した、これが今の日本の姿だ、軍隊の姿だ。

 こういう歴史の解説から始まって、天皇の地位こそが軍人の本分だと説明した後で「只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ」。鴻毛とは鳥の羽。天皇への忠義は大きな山よりも重いが、そのために犠牲にする身は鳥の羽のように軽い。そのつもりで軍隊の仕事をせよ。これで締めくくる。これが軍人勅諭だ。それが中学ではたたき込まれる。これが日本全土が焼け野原になっても、神国日本の勝利を疑わない軍国少年を育て上げたわけだ。

 敗戦でその価値観が覆された。にわかに新聞の紙面にも「民主主義」という耳慣れない言葉や、戦争の反省などが顔を出すようになった。しかし、その言葉にはなかなか実感が感じられなかった。しかし、その中で敗戦2カ月後に社会全体を驚かせた出来事が起こった。治安維持法が連合軍の命令で廃止され、日本共産党が初めて日本の国民の前に公然と姿を現したのだ。あの時代に主権在民などの旗を断固として掲げ、民主主義の日本のために命をかけて戦った人々の伝統があった。このことを初めて知ったことは、私が少年ながらに受けた最大の衝撃だった。

 戦前のマルクス関係の本に飛びついて、共産党とその思想、理論の勉強を夢中で始めた。1946年4月に最初の総選挙があり、5月から憲法議会が開会されたが、そこでも最初から国民主権を明記せよと主張したのは日本共産党だけだった。こういう状況を見ながら私は入党した。1947年1月、あとわずかで17歳の誕生日を迎えるときだった。今年でちょうど入党70年になる。

 戦前の日本共産党の戦いの歴史は、日本のどの党も持ち得ないものだった。そこには日本共産党が自由と民主主義、平和を断固として守る党であることを実証する不滅の歴史的な記録が刻まれている。今日はその活動を考えてみたい。

 第一は、それが絶対主義的天皇制という軍国主義的な独裁政治の最も凶暴な弾圧に対しての戦いであったことだ。相手側の最大の武器は、先ほど廃止されたといった治安維持法だった。この弾圧は1925年に制定されてから1945年に廃止されるまで20年間、日本社会で本当に猛威を振るった。この弾圧による逮捕者は数十万人を数え、投獄された者は5千人を超えるとされるが、日本社会に与えた重圧と残酷さは、これらの数字だけで表現できるものではない。

 党幹部や著名な活動家、小林多喜二らのように、最初から殺人を目的とした拷問で虐殺された。獄死者も党の中央幹部の野呂栄太郎ら500人を超えた。日本共産党の弾圧はヒトラーに先立つもので、当時でもほとんど他に例を見ない最も凶悪で苛烈なものだった。私はこの機会に、この過酷な条件のもとで国民主権の民主主義と侵略戦争反対の平和などを勇敢に掲げ、戦いの中で生涯を終えた多くの先輩、同志に対して心からの敬意と感謝の言葉をささげたいと思う。

 第二は、日本共産党のこの戦いを底流にして、新しい社会を目指す新しい文化の運動が花開き、戦後の私たちに大きな遺産を残したことだ。治安維持法の支配のもとでも戦前の日本では、学問の分野でマルクス主義の理論が大きな力を持つようになり、さらに文学、演劇、映画、音楽、美術など多くの分野にわたって、当時プロレタリア文化と呼ばれた新しい活動が社会全体に大きな影響を及ぼした。小林多喜二や宮本百合子の作品も、中央公論などといった当時一流の総合雑誌が競争で掲載したのだ。

 野呂栄太郎が中心となって、党の綱領的立場から日本社会の歴史、現状、展望を分析する講座を計画したときには、大学に籍を置く研究者を含めて多くの人々が結集し、1932年から33年にかけて日本資本主義発達史講座を全7巻、岩波書店から刊行し、大きな影響を与えた。

 また、マルクスの理論そのものの研究という点でも、ソ連でさえマルクス・エンゲルス全集の刊行が、最初の段階で最初の部分だけで中断していたときに、マルクス・エンゲルス全集の全32冊、資本論を含めると37冊になったが、これは世界で初めて日本で刊行された。このことも、この時代の特筆すべき成果だった。それは多くの研究者がマルクス・エンゲルスの文献もヨーロッパ方面で収集しながら刊行したもので、科学的社会史の研究への大きな貢献になった。

 治安維持法体制のもとで、それに抗して発展したプロレタリア文化は、その諸成果は戦前の暗黒時代のもとで未来を開く明るい灯火となった。厳しい情勢の中での活動だったが、そこに戦後に残した貴重な文化的、理論的遺産があったことを私は強調したいと思う。」


   ・   ・   ・   

共産主義の誤謬 - 保守政党人からの警鐘

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共産主義批判の常識 (講談社学術文庫 44)

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日本共産党 (新潮新書)

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歴史の暮方 共産主義的人間 (中公クラシックス)

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ネオ共産主義論 (光文社新書)

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2017-09-05

♣:98─1─「秋の味覚」サンマが消える!? 前年に比べ分布量が半減し、高価な高級魚となる。 〜No.565No.566No.567   🐟       

旧題名、「ホロコーストに関して、天皇とA級戦犯に幇助罪が成立するのか?」第3代目

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 日本人が安値で食える大衆魚が消えていく。

 一般庶民が安く食える魚の大半が輸入魚である。

 日本漁民人口が減少して日本の漁業が衰退し、将来、日本人の漁師がいなくなる。

 賢い消費者は、日本人漁師が捕った高価な魚介類を買わず、安価な輸入魚介類を買う。

 日本人消費者にとって、高価な魚介類を売るとしている日本漁業には愛着を持たない。

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 2017年9月4日 産経ニュース「「秋の味覚」サンマが消える!? 前年に比べ分布量が半減、年々増加する中国の漁獲量

 水揚げされるサンマ。今年は何回食べられるか

 「秋の味覚」として知られるサンマの北西太平洋の漁場への来遊量が、前年を下回るという見通しが発表された。日本の主な漁獲対象となるサンマの分布量は、なんと前年に比べ、半減するという。元々の量が少なくなると、水揚げ量も減って価格も高くなるのではと心配になってくる。中国の漁獲量が年々増えていることも気になるところだ。「庶民の味」は大丈夫なのか。 (夕刊フジ)

 国立研究開発法人「水産研究・教育機構」が8月に発表した今年度の「サンマ長期漁海況予報」によると、主要な漁期の8〜12月に漁獲対象となるサンマの分布量は前年の121・9万トン(157・4億匹)から、今年は約半分の59・5万トン(96・3億匹)に半減すると見積もった。

 日本に近い海域の分布量は前年を上回ったが、比較的遠い海域で著しく減少した。このため、近い海域のサンマが来遊する漁期前半(10月上旬まで)は前年を上回るが、漁期後半(10月中旬以降)は前年を下回ると予想した。

 なぜ、今年はサンマの分布量が減るのか。水産研究・教育機構東北区水産研究所資源管理部の木所英昭研究グループ長は「すぐに回復するのであれば環境によるもの、すぐに回復しないとなると、まだ解析は進んでいないが外国船がサンマを獲っていることの影響もあるのかもしれない。そのどちらか、または両方が関係しているのではないか」と話す。

 各国のサンマの漁獲量を比較すると、かつては日本のシェアは8割を超えていたが、近年は3割台に減少している。2016年は台湾がトップで、日本、中国、韓国、ロシアの順で続く。中国は漁獲量で見ると日本の半分程度だが、12年の2014トンから16年には6万3016トンと30倍以上に増やしている。

 来遊量が減ったうえ、各国の漁獲競争が激しくなると、気になるのは価格だが、前出の木所氏は「漁期前半は前年を上回ると予想されるため、近年価格が高い中で9月に価格がそれほど高くなることはないのではないか」とみる。漁期後半には来遊量の減少が予想されているが、もともとサンマがやせて価格が下がる時期にあたり、価格は高くならないと予想されるという。

 将来的にサンマは絶滅するようなことはないのか。木所氏は「サンマがどんどん減ったり、乱獲が急に進むというようなことは今のところ、ないのではないかという評価になっている。ただ、今後環境が変化したりした場合に、今のままでいいのかは再検討しなければいけないだろう」と話す。

 サンマをめぐっては、7月の北太平洋漁業委員会(NPFC)の会合で、日本が国・地域別の漁獲枠新設を提案したが、強く反発した中国に韓国とロシアが同調し、合意できなかった。将来にわたって資源を守るためには、漁獲枠を設けることは必要と思われるが、状況はどうなのか。

 東京海洋大の勝川俊雄准教授は「日本としては早く規制が必要だろうが、中国にとっては規制をのむメリットが見当たらない。その状況で、『合意してください』といっても難しいだろう」と指摘した。

 果たしてサンマの将来は−。」

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2017-09-04

♫:23─2─ドイツ軍事顧問団とナチ党は、蒋介石に敵日プロパガンダの為にアメリカのマスコミを利用するよう進言した。瑞金大虐殺。1934年〜No.100〜No.101@            

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 ファシスト中国には、軍国日本に比べて、三権分立はもちろん自由も民主主義もなかった。

 軍国日本に存在していた、全国民が参加する総選挙がなく、国民を代表する代議員による議会もなかった。

 ファシスト中国と中国共産党の内戦による大虐殺が、到る所で行われていた。

 ファシストとは、排外主義的な民族の伝統を重んずる右翼的社会主義で、愛国主義の官僚や軍人のエリートに支持された。

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 1934年 カリフォルニア州東洋問題評議会は、アメリカ政府の外交方針が対日制裁で固定された為に解散した。

 アリゾナ州で、日本軍の中国侵略に抗議した暴動が起き、日本人移民が襲撃された。

 蒋介石は、日本との第一次上海事変停戦条約を無視し、上海・南京間の非武装地帯にドイツ軍事顧問団の指導による陣地構築を始めた。

 エドワード・カーターは、アメリカ共産党との関係を強化させる為に、大平洋問題調査会の本部事務局をニューヨークに移転させ、事務局内に多くのマルクス主義者を参加させた。そして、機関誌パシフィック・アフェアーズの編集長にソ連のスパイであるオーエン・ラティモアを抜擢し、政治問題を取り上げ、辛辣な日本批判を行った。

 ソ連のスパイであるアール・プラウダーは、アメリカ共産党の書記長に就任した。プラウダーは、中国共産党の周恩来とは昵懇の中で、上海で活躍していたソ連のスパイのアグネス・スメドレー女史やリヒャルト・ゾルゲらと諜報活動を行っていた。

 蒋介石は、瑞金を総攻撃して占領した。

 毛沢東は、10万人の紅軍を率いて新たな拠点を探す為に逃避行に出発した。国民党の影響下にない少数民族地帯を通過しながら、1年かけて延安にたどり着いた。

 中国共産党は、中国人民の支持を得る為に、対日作戦宣言と対日作戦基本綱領を発表した。

 東北帝国大学の彦坂忠義は、核模型を発表し、核が巨大なエネルギーを秘めている事を提唱した。さらに、そのエネルギーを利用した大量破壊兵器が製造できると指摘した。

 日本の物理学会やアメリカの国際物理学会は、彦坂の「核の殻模型理論」を評価しなかった。

 ドイツのハーンとシュトラスクマン両科学者は、38年に同理論に影響を受けてウラニウムの核分裂を発見した。

 ヒトラーは、29年に原子爆弾の開発を認めた。 

 同理論は、1863年にマイヤーとイエンザンが発表してノーベル物理学賞を受賞した。

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 日本共産党は、「天皇制度打倒」を前面に出して活動した為に、警察の激しい弾圧でほぼ壊滅した。

 祭祀王・天皇と日本民族の関係は、ロシア皇帝とロシア人或いはドイツ皇帝とドイツ人

とは違い、日本では敗戦革命としてのロシア革命もドイツ革命も起きる可能性がなかった。

 日本人共産主義者は、日本の官憲の手が及ばない中国に逃亡し、上海の東亜同文書院に進学して、共産主義を学び、中国共産党とのつながりを持ち、コミンテルンから指示と活動資金をえて破壊工作を行った。

 蒋介石の情報機関は、日本人共産主義者を利用していた。

 逮捕された共産主義者の多くは、警察の取り調べで、共産主義を捨て天皇制度打倒運動をしないとの転向を誓って釈放された。

 共産主義者は、殺されても踏み絵を踏まなかったキリシタンとは違って直ぐ転んだ。

 だが、結果のみを重視する共産主義によって転向は敵を欺く偽装に過ぎなかった。

 「罪を憎んで人を憎まず」のお人好しの日本人は、陰険な陰謀を内に秘めた共産主義者にまんまと騙された。

 警察当局は、転向者多くが旧制大学や専門学校で学んだエリートであるとして、その才能を天皇の為・国家の為・社会の為に生かして貰う為に中央官庁への就職を斡旋した。

 其れは、日本の将棋の発想である。

 日本将棋は、西洋のチェスともあるいは中国の囲碁とも全く異なる価値観で行われるゲームである。

 中央官庁の官僚となった転向組は、将来敗戦革命を実効するべく、日本が戦争できるような国民総動員体制を立案し、配給制度などの統制経済策を進めた。

 彼らが、革新官僚と呼ばれる超エリート集団である。

 同時に、軍部を対外侵略戦争に駆り立てる為に軍隊に入隊した。

 彼らの多くが、統制派に組みして軍中央部の決定に影響を与えた。

 革新官僚も統制派軍人も、軍備が安心して戦争できるように情報を操作した。

 日本がアメリカと戦争が可能だと信じ込んだ偽装された報告書は、彼らが作成していた。

 尾崎秀実と転向組は、近衛文麿のブレーンとして政界に入り込んだ。

 尾崎秀実は、軍国日本の大陸政策とアメリカのアジア政策は衝突して戦争に発展する事は確実で、両国が戦えば日本は確実に敗北する。敗れた日本をソ連の力を借りて人民国家に再建するという、敗戦革命を目指した。

 中国共産党も、ソ連の支援でファシストの蒋介石を追い出して主導権を握ると見ていた。

 田中龍吉「日中戦争の中途、武藤章氏が軍務局長となるや、左翼の転向者が彼の周囲にブレ−ンとして参加した。

 陸軍省の部局に転向共産主義者が召集将校として起用されたのはこの頃である。統制派政治軍人の理念はこれが為にさらに飛躍した。すなわち大東亜共栄圏建設の理念である。

 この理念はコミンテルンの被圧迫民族解放の理念と表裏一体のものである。転向者との握手により、統制派の国防国家建設の理念から大東亜共栄圏建設の理念へと発展した事は、やがて三国同盟の締結となり、大政翼賛会の創設となり、さらに翼政会の出現となり、我日本を完全なる全体主義国家に変貌せしめた」

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 1月 武器商人ハンス・クライン退役大尉は、中国からベルリンに帰国するや、ドイツ軍事顧問団が手掛けていた独中貿易を引き継ぐ為に貿易会社ハプロを設立した。

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 3月 アメリカは、海軍軍縮条約量の上限までの建艦するというヴィンソン儀弉茲鮠鞠Г靴拭

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 ナチス・ドイツとファシスト中国の関係は、同じファシスト政権として強化された。

 軍国日本は、ファシスト国家ではなく、国際的ファシスト勢力と戦っていた。

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 ハンス・フォン・ゼークト大将は、ヒンデンブルク大統領とマッケンゼン元帥の勧めで軍事顧問団兼中国軍事委員会総顧問に就任した。

 ドイツは、対日敵視方針から、反日としてファシスト中国と結びついた。

 ドイツ軍事顧問団は、あらゆる機会をとらえて、対日強硬政策を促すように提言を繰り返していた。

 だが。蒋介石は、軍国日本と戦争する前に中国共産党の殲滅を優先する基本方針を譲らず、中国共産党を殲滅した後に軍国日本と戦う事を約束した。

 ファシスト中国と中国共産党は、烈しい国内戦を戦っていた。

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 4月 国民党軍は、中国共産党が支配する瑞金の表門にたる広昌を攻略した。

 蒋介石は、ゼークト大将を第四代ドイツ軍事顧問団として招聘し、中国軍に対し権限のある中国軍事委員会総顧問に就任させた。

 ゼークト「今最も中国がやらねばならぬ事は、中国の軍隊に対して日本に対する敵愾心を養う事」

 ドイツ軍首脳部と保守層は、第一次世界大戦の復讐として、中国軍を利用して日本軍を葬り去ろうとしていた。

 ドイツ産業界は、ファシスト中国との貿易拡大の為ならば軍国日本との敵対行動を歓迎した。

 クラインは、独中貿易を拡大するべくゼークト大将と共に中国に渡った。

 ゼークト大将は、軍政全般の改革を断行した。

 ソ連軍事顧問団時代のままの黄埔軍官学校を改編し、ドイツ国防軍式の軍司令官や参謀を養成するべく各種高等軍学校軍を設立した。

 実戦部隊として、とりあえず三年間で、最新鋭のドイツ製武器を装備した20箇師(20万人)の最強部隊を編成する。

 ドイツ軍事顧問団は、蒋介石に対日敵視プロパガンダ政策を進言した。

 ゼークト「日本に対して中国が強くなる為には武器も必要であろうし、飛行機も必要であろう。けれども自分がドイツにおける国防軍を編成し、国防軍を動かした経験からするならば、今もっとも中国がやらなければならぬ事は、中国の軍隊に対して日本に対する敵愾心を養う事だ」

 蒋介石は、殺人集団的秘密警察組織・藍衣社を使って、軍隊はもちろん人民に日本への憎悪を煽り、日本との友好を求める者を親日派として暗殺した。

 ヒトラーは、対中貿易を拡大する為に、クリーベル中佐を駐中大使トラウトマン以上の権限を持たせて上海総領事に任命した。

 ドイツ軍と軍需産業は、タングステンを輸入する為に、クリーベル総領事やドイツ軍事顧問団を通じて中国軍への支援を強めた。

 中国共産党は、支配する中国南部で産出されるタングステンを広東政府を通じてナチス・ドイツに売却し、ドイツの武器弾薬や機械を購入したいいた。

 ナチス・ドイツは、再軍備の為の外貨不足にあった為に、最新機器や工業製品とタングステン鉱などの原材料とのバーター貿易を進めていた。

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 8月23日 ハプロは、中国政府と物資交換条約(クライン条約)を結び、中国産業に確固たる地盤を築いた。ナチス・ドイツの対中貿易額は、飛躍的に拡大して、イギリスを抜き日本に次いで第二位に躍り出た。

 上海や漢口など南部の主要都市で、中国人労働者による反英反日運動が盛り上がり、一部が暴徒化して日本商店を襲い、日本製品を破壊し不買運動を起こしていた。

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 10月 日本海軍は、軍縮無条約突入した時、日本の国力ではアメリカとの建艦競争に叶わない事を十分理解していた。

 アメリカ海軍にはパナマ運河通過という制約がある以上、大型戦艦の建造には4万5,000トン級で主砲40センチという制限があった。

 日本海軍の軍備に関する研究委員会は、「量に対しては質で勝負する」との方針から、6万5,000トン級で主砲46センチの超巨大戦艦2隻建造計画を、37年から始まる第三次補充計画に組み込んだ。

 略称「A140─F6」、戦艦大和建造計画である。

 アメリカ海軍は、「質よりも量」で建艦計画を実施した。

 つまり、「百発百中の大砲一門」と「百発一中の大砲百門」とが戦った時どちらが有利かであった。 

 建艦競争に於いて、日本海軍は職人肌の質を極め、アメリカ海軍は大量生産による量を追求した。

 結果として、質の日本海軍は量のアメリカ海軍に敗北した。

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 日本軍の基本戦略は、国力に限界がある為に専守防衛で、「攻撃は最大の防衛」ではなく「勝てないまでも負けない」事を採用した。

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 陸軍軍務局軍事課員政策班長の池田純久少佐と四方諒二少佐は、総力戦を想定した社会主義国家の樹立と計画的統制経済の実行を訴えた『国防の本義と其強化の提唱』というパンフレットを陸軍省新聞班(班長鈴木貞一)から発行した。

 目指す国家像は、北一輝の『日本改造法案大綱』とソ連の五ヵ年計画に基づいた計画経済を実行する社会主義国家であった。

 軍部が手本とした統制体制とは、ナチス・ドイツではなく、ソ連であった。

 日本陸軍の主流派は、ポーランド派であり、親ドイツ派は少数派でナチス・ドイツを評価してはいなかった。

 林銑十郎陸相は、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を生ずる如き事実ありとせば、一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」と統制経済の提唱した。

 軍務局長永田鉄山ら統制派は、共産主義的な色合いを持つ提言であったが、日本を操縦するには最適手段として軍政に採用した。

 梅津美治郎や松谷誠や植村佐孝ら軍人官僚エリート達は、現場で推進しいた。

 軍部内には、共産主義者として親ソ派とまで行かなくとも、ソ連を評価するグループが存在し、敵にするよりは同盟して味方に引き付ける事が最善と考えていた。

 その考えが、後の日ソ中立条約締結をもたらした。

 隠れマルクス主義者である革新官僚(転向左翼)達も、コミンテルンからの指示に従って、共産党による国家支配というソ連方式に近い統制方式として日本に根付かせるべく国策に反映した。

 社会大衆党書記長麻生久は、「パンフレットに沿って進まないものは、社会改革活動の落伍者である」と賛辞を送った。

 美濃部達吉らは、雑誌「中央公論」11月号で「陸軍発表の国防論を読む」という論文を掲載して「国家既定の方針を無視し、真に挙国一致の聖趣にも違背す」と激しき批判した。

 「陸軍国策の総批判」という特集が、陸軍や右翼の反感を買い、後の天皇機関説問題を誘った。

 岸信介「私には、私有財産制を維持しようという考えはなかった。それだから、例の森戸辰男の論文に対しても私は国體として天皇制の維持は考えるけれども、私有財産制を現在のまま認めなければならないとは思っていなかった。

 私有財産の問題と国體維持の問題を分けて考えるというのは、当時の我々の問題の基礎をなしていたんです。従って、私有財産制の維持というものに対しては非常に強い疑問を持っていました」(『岸信介証言録』)

 財界や地主階級といった伝統的保守層は、革新官僚や統制派軍人等を共産主義者と非難した。

 小林一三「岸の企画案はアカである」

 軍部に近い右翼・右派は、伝統的保守層を時代遅れとして非難して、社会主義的統制国家案を支持した。

 皇道派軍人は、北一輝の日本改造法案(1923年刊行)を理論的支柱として、天皇親政という昭和維新の実行を目指していた。

 国家運営にあたっていた歴代の政権は、大陸侵略の共同謀議をする前に、政府、軍部、官公庁ないで左右が混在した複雑な状態にあった。 

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 10月14日 国民党軍(国民革命軍)は、瑞金を占領して、捕虜にした共産主義者や協力者を全員虐殺した。

 共産党軍(紅軍)は、行く宛てもなく密林の中へ敗走した。

 15万人以上いた中国共産党軍は、約3万人に激減した。

 カリャギン中将「ドイツ人顧問は、共産党掃討戦の時は素晴らしい能力を発揮した。彼らの残した足跡は、我々が中国のあちこちの地方を旅行したとき、幾つとなく見かけられた」

 中国共産党は、国民党軍の攻撃で江西省瑞金を脱出し、ソ連の庇護を受ける為に東トルキスタンや北モンゴルに逃亡する。

 西北の回族軍閥は、宗教を弾圧する共産主義を嫌い、敗走してくる中国共産党軍を攻撃した。 

 中国共産党は、ウィグル人を懐柔するべく詭弁を使った。

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2017-09-03

♣:97─1─反日派中国共産党。尖閣侵攻力さらに…中国軍、海兵隊を海軍直轄に格上げ。 〜No.562No.563No.564     

旧題名、「ホロコーストに関して、天皇とA級戦犯に幇助罪が成立するのか?」第3代目

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 反日派の中国共産党と中国軍は、尖閣諸島及び沖縄の領土化の為に邪魔になるのがアメリカ軍基地と自衛隊駐屯部隊であった。

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 石垣島など国境の島嶼防衛に自衛隊を配備する事に猛反対する、独立派の日本人達。

 彼等は、アメリカ軍や自衛隊の全兵力を排除して無防備状態を作ろうとしている。

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 2017年9月2日 産経ニュース「尖閣侵攻力さらに…中国、海兵隊を海軍直轄に格上げ 台湾の報告書指摘

 【台北=田中靖人】台湾の国防部(国防省に相当)は2日までに、中国の軍事力に関する年次報告を立法院(国会)に送付、海軍陸戦隊(海兵隊)を南海艦隊の傘下から海軍直轄に格上げしたと指摘した。習近平国家主席が主導する軍改革の一環で、陸軍の関連部隊との連携も強化しており、台湾や尖閣諸島(沖縄県石垣市)など島嶼(とうしょ)への侵攻能力を高めていることがうかがえる。また、2020年までに「台湾への全面作戦能力を完備する」計画を着実に進めていることも改めて浮き彫りになった。

 ■横断的な運用可能に

 報告書は8月末に非公開で立法院に送付され、産経新聞が2日までに入手した。海兵隊は従来、担当海域別に3つある艦隊のうち、主に南シナ海を担当する南海艦隊の下に2個旅団の存在が確認されていた。報告書は、海兵隊が「全体的な運用拡大に資する」ため、各艦隊と同列に昇格したと指摘。管轄にとらわれず横断的に運用できるようになったとみられる。

 この結果、海兵隊は東シナ海の尖閣諸島などにも投入される可能性が裏付けられた。新型の装備が次々と配備されている上、「陸軍の再編部隊との連携」も指摘された。具体的にどの部隊かの記述はないが、水陸両用師団とみられる。

 中国の水陸両用部隊の装備や訓練の強化は、米国防総省の6月の年次報告書でも指摘されていたが、組織体系の変更が明らかになったのは初めて。

 ■遼寧は空母打撃群を形成

 報告書はまた、中国初の空母「遼寧」が昨年末、台湾を事実上、周回した際、台湾南部の防空識別圏(ADIZ)内に進入していたことも明らかにした。遼寧が空母打撃群を「ひそかに」編成し、航行中に南シナ海などで随伴艦や艦載機と連携して実施した訓練では、基本的な防空、対艦作戦能力を示したと分析。限定的な遠洋航海能力も備えているとした。

 今年7月に爆撃機、轟(H)6が台湾海峡の中間線に沿って飛行した事例は「初の戦闘飛行だ」と指摘。台湾に対する軍事的な威嚇が常態化している実態を強調した。また、中距離弾道ミサイル(IRBM)の「東風(DF)26」を対艦弾道ミサイルに分類。同じく対艦弾道ミサイルのDF21DやH6と並び、米軍の来援を遅らせる可能性があるとした。

 一方、台湾本島への侵攻能力については、軍事的な威嚇や海空域の封鎖、ロケット軍によるミサイル攻撃の可能性は高いとしながらも、大規模な上陸作戦能力は現時点で備わっておらず、可能性は低いと分析。将来はサイバー攻撃や、核を高高度の上空で爆発させる「電磁パルス作戦」も選択肢に入ると指摘した。」



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2017-09-02

♫:23─1─「我が闘争」。反日派ナチ党とドイツ国防軍は中国に軍事顧問団を派遣した。ドイツ軍需産業。日本の国際連盟脱退。日本陸軍のイスラーム工作。 1933年〜No.98〜No.99@      

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 世界の総人口は、約20億900万人。

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 日本陸軍は、第一次世界大戦や上海事変を教訓とし、大陸に兵力を送り、敵前上陸を行う為の研究に本格化させた。

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 上海のユダヤ人サッスーン財閥は、国際金融資本のロスチャイルド家の東アジア代理人として、軍国日本と戦う蒋介石、ファシスト中国に多額の軍費を提供していた。そして、ソ連を通じて中国共産党にも支援の手を伸ばそうとしていた。

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 1933年 山田孝雄「それわが国家は天壌無窮の皇位を中心として存在し、その皇位は万世一系の皇統を以て充たされたり。かくの如き真実は必ずや、その内面の精神生活にこの天壌無窮、万世一系という事実を生むべき思想あるべきを思うべきなり。その偉大なる思想なくして如何にしてかかる偉大なる事実の行はるる事あるべけむや」(『国體の本義』)

 華族赤化事件。

 野坂参三は、日本の公安から資金を引き出してアメリカに渡り、日本国内にコミンテルンの為の謀略組織を立ち上げるべく活動した。

 第13回コミンテルン執行委員会総会で、野坂参三らはソ連から多額の活動資金を受け取った。

 「将来、対ソ同盟の戦争が起こった場合、革命的兵士が指揮官たる荒木に反抗し、彼等も部隊を赤軍の部隊にかえ、武器を天皇に向ける事は、全然夢想ではない」

 スターリン資金は、都市部のマルクス主義者日本人を通じて、農山漁村の貧困を憂える血気盛んな若手将校団の中に流れた。

 共産主義者日本人は、日本軍を弱体化し骨抜きにする為に、日本兵士の中に天皇や政府や財閥への不満や憎悪を蔓延させようとした。

 共産主義資金を手にした日本人は、天皇制度国家日本を中国共産党やソ連の利益に叶う国に改善すべく、地下活動を続けた。

 ソ連は、金と共に数多くの工作員を日本に送り込み、政治家、官僚、軍人、学者、報道関係者、知識人、そして皇室とその周囲の華族に同調者を広めていた。

 外国資金は、相手の国における敵対行為を許さない。

 常識ある普通の国は、外国資金での政治活動を厳罰をもって禁止している。

 常識なき国は、外国資金を自国民からの献金として受け取り、国益を無視し、利敵行為を国民の当然の権利として行っている。

 アメリカ共産党は、日本の侵略に抵抗する中国を支援する為に中国人友の会を設立し、機関誌としてチャイナ・トゥデイを創刊して編集長にソ連のスパイであるフィリップ・ジャフェを就任させた。

 ルーズベルトは、保守派の反対を押し切り、ソ連を承認して国交を樹立した。ユダヤ系国際金融資本家は、これまでの小口による非公式融資から本格融資に切り替えて大量のドルをソ連に送った。

 ソ連のスパイであるエドワード・カーターは、大平洋問題調査会の事務総長に就任するや、親中反日色の強い政治団体に改造した。 

 蒋介石は、抗日世論におされて、「中国共産党を殲滅して国内を統一した後に、国民と協力して日本軍と戦う」との妥協案を示した。

 秦孝儀「日本が我々の第一線の部隊を打ち破れば、我々は第二線、第三線の部隊でこれを補充する。……一線、また一線と陣地を作り不断に抵抗して少しも怠る事がない。……もし3年から5年も抵抗できれば、国際上において必ず新しい発展があると思う。……この様にしてこそ、我々の国家と民族には死中に活を求められる一筋の希望があるのであ」(『総統蒋公大事長編初稿』)

 軍令部は、情報を重視して、通信専門部署として第4部を設置し、通信諜報を担当する第10課を創設した。

 日本軍諜報機関は、神戸のアメリカ領事館から外交文書用暗号表を奪い、アメリカの暗号通信を傍受し解読していた。

 フォン・ゼークト大将は、ヴェッツェル中将の要請で中国を訪れ、蒋介石に中国軍の強化についての意見書を提出した。

 「日本一国だけを敵として、他の国とは親善政策を取る事」

 関東軍は、満州で石油を求めて国防資源調査として調査隊を各地に派遣した。

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 東トルキスタンのホータンとカシュガルで、ウィグル人は相次いで独立を宣言した。

 ホータンでホータン・イスラーム王国が建国し、イスラーム神学校の導師(イマーム)ムハンマド・イミン・ボグラが首長(アミール)に推戴された。

 カシュガルで東トルキスタン・イスラーム共和国が建国され、軍事指導者マフムード・ムフィティが国家元首に就いた。

 両国は軍事力がなかった為に、侵略してきた中国軍閥によって相次いで滅ぼされた。

 イミン・ボグラは、アフガニスタンに亡命し、在カブール日本公使館に身を寄せた。

 北田正元公使は、物資両面で支援し、現地情勢を聞き出して東京に極秘情報として報告した。

 ムフィティは、英領インド在ムンバイ日本総領事館に逃げ込み、部下15名と共に日本に亡命した。

 軍部は、内蒙工作の一環として、亡命ウィグル人達を利用するべく内モンゴルに送り込み独立運動を支援した。

 日本陸軍は、ソ連を封じ込める防共廻廊の建設の為に、ユーラシア大陸に親日国家群を樹立するべく各民族の独立運動を軍事支援していた。

 国民党は、日本陸軍のイスラーム工作が民族分離につながるとして危機感を抱き、ウィグル人はイスラームを信仰するムスリムで漢人の一員と断定し、回教徒として軽蔑した。

 中国共産党は、劣勢を挽回する為に少数民族の支持を得る為に、国民党の民族政策を激しく非難し、ウィグル人は漢族ではなく別種の少数民族「回族」であると主張した。

   ・   ・   ・   

 ナチス・ドイツ、ソ連、アメリカは、日英同盟が破棄され軍国日本が孤立した事で、安心してファシスト中国への軍事支援を始めた。

 日英同盟を失った軍国日本は、孤立無援の丸裸となり、自国一国で国土と国民を守らねばならなくなった。

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 アグネス・スネドレーは、中国共産党とファシスト国民党の内戦の模様を『中国の夜明け前』にまとめた。

 「将校は見付け次第、労働者や学生を殺していた。ある時は立ち止まらせて射殺し、また時には捕らえて跪かせて首を刎ねたり、また五体をバラバラに斬り殺したりしました。捕らえられた断髪の少女達は裸にされ、まるで当然のように凌辱された後、脚の方から頭の方へと、身体を二つに引き裂かれました」

 「ソビエト・ロシアの領事館の5人は逮捕され、街頭を歩かされ、ポケットに持っていた金は全部まきあげられました。靴は無理やる脱がされて、挙げ句の果てに殺されました。その内の一人の女性は性器から、太い棒を身体に突き刺されて殺されました」

 「老農婦は側に行って母親の腕から赤ん坊を無理にはぎとり、高く上げ地面に叩き付けた。繰り替えし彼女は拾い上げて、また地面に放り投げた」

 日本人では想像もできず実行が躊躇われる悲惨な蛮行が、ごく普通の中国人の手で日常的に中国各地で行われていた。

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 1月 ドイツで、ヒトラー内閣が成立した。

 ドイツの民意は、ヒットラーを独裁者とする事を支持した。

 ヒトラーは、積極的経済政策として軍需関連産業を活性化させるべく、紛争地帯への武器輸出を推進した。

 中国は、国内で産出するレアメタルをドイツに輸出し、日本と中国共産党と戦う為に最新鋭の武器を大量に購入した。

 中国とナチス・ドイツは、経済交流で深い関係を築き、更に軍事交流へと発展させた。

 1月9日 次期大統領候補ルーズベルト(民主党)は、対日強硬論者の前国務長官スチムソン(共和党)と、ニューヨーク・ハイドパークで昼食を共にして、新政権でのアジア外交の助言を求めた。

 スチムソンは、「日本側の主張を認めず、満州国の独立を承認せず、支那の主権と独立、領土、行政の一体を尊重すべき」との不承認政策「スチムソン・ドクトリン」を説明した。

 支那に宣教師を派遣していたプロテスタント系キリスト教会は、日本勢力を中国から追放する為に不承認政策を支持していた。

 ルーズベルトは、日本封じ込めの為にスチムソンを陸軍長官に採用した。

 アメリカは、中国との経済関係を強化させる為に、中国側の要求を受け入れて日本を共通の敵とする事に同意していた。

 レイモンド・モーリーとレックスフォード・タッグウェルらルーズベルトの側近は、フーバー大統領がスチムソン・ドクトリンは日本との戦争に発展する危険があるとして不採用した経緯を説明し、その採用を取りやめる様に警告した。

 モーリー「それは極東に大規模な戦争─イギリスがスチムソンに協力する事を拒否しなかったなら、合衆国とイギリスが日本と戦わねばならなかったであろう戦争─をもたらす政策を是認するものだった」

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 昭和天皇は、満州事変に不満を抱いていたが、軍部が提出した熱河作戦を裁可した。

 斎藤実首相は、昭和天皇に、国際連盟がリットン調査団を派遣して満州国建国を調査している最中に熱河作戦を行う事は、政府としては同意できないと訴えた。

 2月8日 昭和天皇は、奈良武次侍従武官長に熱河作戦を取り消したいと伝えた。

 奈良侍従武官長は、昭和天皇の内意を聞き流して中止指示を軍部に伝えなかった。

 軍部は、戦争に消極的な昭和天皇の命令を素直に聞く気はなかった。

 2月10日 昭和天皇は、午後1時45分から2時25分にかけて、奈良武次侍従武官長に作戦の中止を求めた。

 『昭和天皇独白録』「満州は田舎であるから事件が起つても大した事はないが、天津北京で起ると必ず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の虞(おそれ)がある」

 奈良侍従武官長は、一度裁可された作戦を中止する事はできないと奉答して譲らなかった。

 昭和天皇は、大元帥として「統帥最高命令によって作戦発動を中止する事が可能か否か」と聞いた。

 奈良侍従武官長は、拝謁の時間が過ぎたとの理由から、「それは閑院宮陸軍参謀総長がいらしてからに」と言い残し「慎重に熟慮されるべき」であるとして帰宅してしまった。

 その日の午後10時過ぎ。昭和天皇は、徳大寺実厚侍従に「さっき聞いた事についてはどうか」との手紙を書かせて、奈良侍従武官長に送った。

 奈良侍従武官長は、参内せず手紙を送って答えた。

 「天皇のご命令をもって作戦を中止しようとすれば、動もすれば大きな紛擾(ふんじょう)を惹起(じゃっき)し、政変の原因になるかもしれず」

 天皇がその統帥権で軍部及び現地軍の作戦を中止もしくは変更を強行すると、血気盛んな将校達が逆上して政変が起きるかもしれないと脅した。

 前年の、犬養毅首相が射殺された5・15事件の様な事件が起きる可能性が脅した。

 昭和天皇は、大元帥として統帥最高命令を発動しても軍部が決定した軍事行動は中止できないと悟り、部隊を万里の長城を超えない事を条件にして軍部の暴走を承認した。

 最終決定権者であった昭和天皇は、軍隊への統帥権を大日本帝国憲法で認められていたにも関わらず、「君臨すれど統治せず」の原則に従って政府及び軍部が決定した案件を裁可するだけの一機関に徹した。

 戦争を止める事は不可能であった事が、天皇の戦争責任がった。

 軍部は、軍事行動を制約している憲法を自分に都合の良い様に拡大解釈する為に、権力欲の強い政治家を味方に付けて議会を動かし、無力化した昭和天皇を担いで悪用して政府に圧力を加えて戦争を起こして行った。

 政治・外交・軍事が一体となって天皇を支えて国難である日清・日露両戦争を乗り越えた時代とは異なり、軍事が政治・外交より上位に立ち天皇の意思に関係なく独自で動く事を知らしめた瞬間である。

 軍国日本の歯止めは、この時失われた。

 国際連盟の内部では、日本の言い分を認めて制裁行動をしない代わりに、日本一国ではなく国際監視団を編成し満州の治安維持を行う代案を提案していた。

 日本軍部は、アメリカに加えてソ連も参加させる案と聞いて対ソ戦略から不同意を示した。

 2月15日 国際連盟は、軍国日本とファシスト中国に対して、満州国を承認しない勧告案を示して、親中国反日を鮮明にした。

 イギリスは、裏工作として、軍国日本の対面が立つ方策を探っていた。

 バチカンは、軍国日本支持を頑なに守っていた。、

 2月24日 関東軍は、らちが明かない外交交渉を続けていては敵に反撃の好機を与えるだけであるとして、熱河作戦を実行した。

 国際連盟は、リットン調査団の報告書に基づき日本軍の満鉄付属地への撤退を求める勧告案を、賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)で可決した。

 松岡洋右は、勧告案が総会で可決されるや、苦渋の選択として国際連盟に残る道を断念して議場を退場した。

 「日本政府は日支紛争に関し、国際連盟と協力せんとするその努力の限界に達した事を感ぜざるを得ない」

 松岡は、脱退には反対であっただけに、会場を出た所で「失敗した、俺は失敗した」と漏らした。

 イギリスは、何とかして日本の脱退を食い止めようとしたが、昔ほどの発言力をなくしていた為に国際的反日世論を説得できず日本の退場を見送った。

 日本の右翼や軍部などの人種差別主義者は、「持てる国」のアメリカやイギリスなどが日本を追い詰めたというアングロ・サクソン陰謀論やユダヤ人金融資本による世界征服陰謀論を信じ込んでいた。

 国際世論は、日本側の主張する自衛行為を否決し、領土拡大の犯罪的侵略行為と決め付けた。

 一部の対日強硬派は、さらに踏み込んで、日本に対して制裁的経済封鎖を要求した。

 国際連盟を動かしていたイギリスは、日本が連盟を脱退する事は連盟の弱体化につながるとして、日本に譲歩しないで脱退をさせないように裏工作を行っていた。

 蒋介石は、連盟の正式メンバーではなかったが、日本批判を繰り返していた。

 アメリカは、中国市場に食い込む為にファシスト中国を後押ししていた。

   ・   ・   ・   

 3月 日本軍は、熱河省を攻撃した。

 ヴェッツェル中将とドイツ軍事顧問団は、日本軍が長城を越えて河北方面に侵入してこないように中国軍を指揮して戦った。

 日本は、「中国は完全な統一国家ではなく、国際法などの諸原則が適用できない、犯罪の多発する不安定国家である」と主張し、国際連盟を脱退した。

 3月1日 満州国が建国された。

 中国の内戦から逃げるようにして満州に漢族が大量に移住し、満州族やモンゴル族は少数派になっていった。

 満州は満州族の故地で中国ではないとされていたが、漢族が多数派になって歴史上初めて満州は中国の領地とされた。

 満州が中国化するにつれて、漢族と朝鮮族の間で反日派が勢力を拡大させていった。

 3月3日 昭和三陸地震。M8.1。

 被害。死者1,522人。行方不明者1,542人。負傷者1万2,053人。家屋全壊7,009戸。流出4,885戸。浸水4,147戸。焼失294戸。行方不明者の多は、津波による被害であった。

 3月4日 フランクリン・ルーズベルトは、聖書に誓い、合衆国憲法を順守する事を宣誓して大統領に就任した。

 ルーズベルト大統領は、親中反日政策を行う為にスチムソンを陸軍長官に指名した。

 スチムソン陸軍長官は、日本軍と戦う中国への軍事支援が強化した。 

 ルーズベルトは、中国において日本排斥政策を決定した。

 ソ連は、ルーズベルトの周辺にスパイを送り込んだ。

   ・   ・   ・   

 3月12日 日本は、国際連盟を脱退した。

 日本国民は、満州国を認めない国際連盟からの脱退を求めていた。

 政府は、国際連盟からの脱退は国際社会で孤立化するとして躊躇していたが、脱退を求める国民世論の圧力に屈して決断した。

 国民世論を誘導したのは、軍部ではなく、会社経営の為に販売部数を増やそうとしていた新聞各社であった。

 そして、傍観して何もしなかった政治家と議会に不作為に尽きる。

 グルー大使からの報告「軍部のプロパガンダによって、軍部そのものにも、国民にも、西洋社会の道徳及びその圧力に屈するくらいなら、戦う覚悟ができている」

   ・   ・   ・   

 春 アメリカ財務省は、日本との関係悪化を恐れる国務省の反対を押し切って、蒋介石に対して、小麦・綿花買い付け名目で5,000万ドルを融資した。

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 4月 松岡洋右は、帰国途中のハワイで、日系アメリカ人の覚悟としてのメッセージをホノルルのラジオ局で放送した。

 「日系市民は、精神的に100%のアメリカ人でなければならない。万一、最大の不幸が起き、米日戦争と言う事が突発したと仮想した場合には、日本人系アメリカ市民は、ことごとく銃を持って立ち、アメリカの為に一命を投げ打ち、第一線に立って日本軍と戦わねばならない。しかして大和民族の血を有する日系アメリカ市民が、最も優秀な戦闘力を発揮して、さすがは大和民族の血を受けたる日系市民は強い、という観念を白人に抱かせてこそ、日系市民の名誉であり、これが大和民族の武士道である」

   ・   ・   ・   

 5月 日本は、満州事変を終結する為に、国民党政権と塘沽停戦協定を結ぶ。

 蒋介石は、中国共産党殲滅の為に、日本と妥協して満州国を表面的には承認した。

 ソ連は、表向き、東アジアの安定を望むとして蒋介石の決定を指示した。裏では、国民党政権との友好を利用して工作員を多数潜入させた。

 中国共産党は、国民党政府と日本が新たな戦争を起こす様に、華北の非武装地帯に拠点を築いて満州に破壊工作員を送り込んでいた。

 日本軍と満州国軍は、中国共産党ゲリラや反日馬賊と戦闘を行ったが、敵が非武装地帯に脱げ込めばそれ以上の追跡を断念した。

 国際的報道機関は、現地のキリスト教徒や反日派中国人の情報を得て反日世論を盛り上げ、日本を国際社会で孤立化させた。国際的報道機関の大半が、ユダヤ系であった。

 ソ連のスパイであるゾルゲは、ドイツ人記者として上海から日本に潜入した。

 政治活動家後藤隆之助は、社会大衆党亀井貫一郎から国内の状況を聞き、高校時代の同級生である近衛文麿を支援する組織を立ち上げる事とした。

   ・   ・   ・   

 6月 ルーズベルトは、クロード・A・スワンソン海軍長官の提言に従って、総額2億3,800万ドルの海軍増強計画を発表した。

 日本海軍は、ワシントン及びロンドンの両海軍軍縮条約に従い、涙を呑んで海軍予算を削り軍備縮小を行っていただけに、アメリカの海軍増強という背信行為に驚きそして怒りを覚えた。

 軍国日本は、アメリカとの軍備増強で遅れを取り、対抗できるだけの軍備を整えられぬままに戦争に突入させられた。

 アメリカの狙いは、軍国日本に軍拡競争を仕掛けて国家財政を疲弊させ、満州を含む中国大陸から全ての日本軍を追い出す事であった。

 誰が見ても、軍国の国力はアメリカの経済力の足下にも及ばない事はわかりきっていた。

 ルーズベルトは、日本の軍事支出を煽る為に、軍備強化を進めているスターリンと外交関係を修復し、アメリカ資本に多額の対ソ投資を促した。

 軍国日本は、アメリカを軸としたファシスト中国、ソ連、ナチス・ドイツの包囲網に囲まれた。

 だが。スターリンは、ルーズベルトの提案の真意を、アメリカは軍国日本とソ連を戦わせて中国の利益を独り占めにしようとしていると分析し、中国がアメリカの支配下に入る事はソ連には不利と判断して警戒した。

   ・   ・   ・   

 7月1日 イギリスの秘密諜報機関は、中国人を使って日本製品ボイコットを煽り、排日運動を盛り上げた。

 ソ連は、中国人共産主義者に日本居留民への暴行や日本軍への破壊工作など指示した。

 日本は、中国との安定した交易を維持する必要があると表明し、日本の生存を脅かすようなスチムソン・ドクトリンは受け入れられないと反論した。

 だが、日本側の弁明を認める国は少なかった。 

 7月30日 大阪朝日新聞は、敵日行動を止めないファシスト中国に対して、「3億の対支債権実力で回収を決意」という記事を掲載した。

 軍国日本は、隣国・中国が親日政策を採用して友好関係を深めてくれる事を期待して、総額10億円(現在の10兆円以上)の借款を行っていた。

 明治時代からの西原借款7億円。

 大正期の円借款3億円。

 日本軍部も、中国が対ソ戦略に協力して、共産主義勢力のアジア浸透を食い止めてくれる事を期待して、経済支援に同意していた。

 国民党政府は、日本との約束を破円借款や資本投資を国内インフラ整備ではなく、中国共産党や軍閥との内戦勝利の為に流用した。

 日中戦争とは。日本の好意による円借款の返済拒否と民間の日本資産を没収する為に、ファシスト中国が仕掛けた強奪戦争であった。

 国際金融資本は、中国投資をより良いものとして回収する為に、ファシスト中国が軍国日本に勝てるようにアメリカ、イギリス、ソ連、イタリア・ファシスト、ナチス・ドイツに軍事支援させた。

 中国が意図的に行う反日・侮日運動は、日本が配慮して行った無償有償の円借款や民間企業の資本提供と技術支援を踏み倒し強奪する為である。

 中国は、公私ともに受けた借金を返すつもりはないし、過去一度も最後の1円、1セント、1シリングまで返済した事がない。

 「南京政府の手によって処理せられるに至らば、その幾分は必ずや抗日資金として使用せられるべきは明らかであり、従って列強の対支借款は連盟の対支技術協力と共に関節に抗日を助長せしめ東洋の平和を撹乱するものといってもよい、対支借款はいはゆる西原借款などの政治借款と称せられるものをも合算すれば今や元利合計10億円にも達しているが、この政治借款について南京政府は全然責任なきが如き態度を執ってをり、その不都合は別に考慮するとしてもなほ明らかに南京政府において償還の義務を有しながら、知らざる振りをせるものの主要なるものを挙げると次のやうになっている。……

 南京政府軍需借款、陸軍部被服借款、第一次軍器借款、印刷局借款、済順・盻両鉄道借款、参戦借款など国庫券を担保とする借款は約1億2,000万円ある、これらは南京政府として逃れ難い厳然たる担保を提供してをりながら最近数年間は利払をもなさず、甚だしきは大正13年以来不払ひになっているものもある、よって現在これらの元利金を正確に計算すれば3億円に達するであろう、しかも何れも元利償還期限が疾(しつ)くに経過しているものでありいつでもこれを取り立てをなす権利のあるものである、支那の財政の状態を考慮して断乎たる処置を執らざに来るものである」

 中国が、日本が相手に配慮して行う善意を踏みにじる事は、過去も現在においても変わる事はない。

 何度も中国に裏切られ甚大なる被害を受けても配慮と善意を繰り返す日本人に問題があって、嘘をついて騙して日本から血税を掠め取る中国人は悪くはない。

 中国人とは、そもそもそうして生きてきた民族だからであるから。

 ファシスト中国は、1923年9月の関東大震災で日本が甚大な被害を被って力をなくした隙を見計らって負債の遅延を始め、33年3月の三陸大震災と北海道・東北地帯の大凶作を好機として同年7月に負債の踏み倒しを顕わにした。

 中国の常套戦略は、相手が疲弊して弱っている隙を突いて攻撃に出る事であった。

 ファシスト中国は、騙して軍国日本から借款が得られないと判断するや抗日戦争を本格化させた。

 中国の歴代王朝は、相手から利益を得られる内は友好関係を維持し、得る事ができなくなればイナゴの大群的に軍事侵略して血の一滴まで搾り取っていった。

 ファシスト中国は、日本からの金銭的支援が得られるうちは表面的に友好を演出していたが、何れ訪れる日本との戦争の為に軍隊に於ける敵日教育と学校に於ける反日教育を徹底して行っていた。

 中国人は、柔やかな微笑みをたたえた表の顔と陰謀や謀略を巡らす裏の顔の二面性を持っていた。

 日本政府は、表の顔を信じて、困窮する国民支援を後にして中国に対して10億円の借款を行ったが見事に踏み倒された。

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 8月1日 後藤隆之助は、霞山会館に、近衛文麿、海軍の石川信吾、陸軍の鈴木貞一、社会大衆党の麻生久・亀井貫一郎などを招いて初会合を行った。

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 10月1日 ルーズベルト「一国として、私達は他国間の戦争に介入する事に断固反対です。政府の政策は平和を維持する事、そして、私達を対立させかねないいかなる混乱も避ける事を明確に目差すものです」

 10月16日 蒋介石は、ドイツ軍事顧問団の指導を受け、80万人以上を動員して第五次掃共作戦を始めた。

 10月21日 スターリンは、軍国日本を油断させる為に対日宥和策として満州国との領事交換に同意したが、その裏で反日キャンペーンを強化する様に指示を出した。

 「私の見る所、日本に関し、また総じて日本の軍国主義者に敵対する、ソ連及びその他全ての国々の世論の、広範で理にかなった準備と説得を始める時がきた。……日本における習慣、生活、環境の単に否定的なだけではなく、肯定的側面も広く知らしめるべきである。もちろん、否定的、帝国主義的、侵略的、軍国主義的側面をはっきり示す必要がある」

 ロシア共産党の機関紙であるプラウダ紙は、ブラック・プロパガンダ戦略として反天皇・反軍国の激しい反日宣伝を行うと共に、日本国内の労働者を味方に付ける為に日本の肯定的な側面を伝えるホワイト・プロパガンダも同時に行った。

 日本の統制派軍人や革新官僚は、謀略的ホワイト・プロパガンダに幻惑され、ソ連を味方もしくは組みやすい相手と誤解した。その誤解は1945年8月15日の戦争終結のギリギリまで続き、軍国日本は崩壊した。

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 11月 ルーズベルトは、ソ連との国交を承認した。

 コミンテルンは、日本への経済制裁を強化さるべくアメリカ政府内に共産主義者を送り込んだ。

 反体制的労働組合は、モスクワの指示に従って労働争議を控え、ニューディール政策を支持した。

 共産主義者は、戦争を煽っていた。

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 12月27日 後藤隆之助と尾崎秀実らは、発起人会を霞山会館で開き、マルクス主義的革新運動を政治に反映させるべく昭和研究会を設立した。





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2017-09-01

♫:22─1─スチムソン・ドクトリン。桜田門前爆弾テロ事件と第一次上海事変。オタワ会議。5・15事件。中国共産党の瑞金大虐殺。1932年〜No.95 〜No.96@           

上海海軍特別陸戦隊写真集

上海海軍特別陸戦隊写真集

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗

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 満州事変後。朝日新聞や東京日日新聞(戦後の毎日新聞)は、新聞を売る為に、軍部の強硬派拡大派以上に戦争推進派として穏健派不拡大派を軟弱者・負け犬と罵り、全国で戦地報告や講演会を開いて世論を戦争へと誘導した。

 戦前の新聞各社は、軍部の弾圧や統制を受けた被害者ではなく、戦意高揚の報道を行い、和平交渉を行って戦争を止めようとする政府や軍部を激しく非難し、誤った情報を報道して国民を戦争へと駆り立てた。

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 1932年・33年 司法官赤化事件。

 帝国大学では、世界の潮流としてマルクス主義が流行し、マルクス主義を信奉する学生が多数が生まれていた。

 高等教育を受けた知的エリートの中に、反天皇反日の共産主義者がいた。

 左翼・左派のマルクス主義者は、天皇制度は人民を搾取する元凶であるとして打倒するべく、ソ連の支援を受けて密かに活動を続けていた。

 軍国日本は、神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)を中心とした国體を守るべく、この年だけで2,400件以上の思想犯を検挙した。

 マルクス主義者の活動以上に右翼の国粋主義者によるテロが横行し、警察当局と憲兵は右翼・左派の民族主義運動を取り締まった。

 前蔵相の井上準之助が、2月に右翼のテロで死亡した。三井合名会社理事長の男爵団琢磨が、3月に右翼に殺害された。

 河合徹「現在の資本主義を否定する基底として三二テーゼ[1932(昭和7)年にコミンテルンが決定した『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』。ブルジョア民主主義革命を経た後のプロレタリア革命を起こす二段革命論]を正しいと信じておりますから、資本主義否定の次ぎの段階においては天皇制を否定される事は当然であり、これによって社会主義が完成されるのであります」

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 右翼・右派は、意見の違う相手を容赦なく殺し、大量に人を殺す戦争を起こそうとした、血に飢えた見境のない狂った殺人集団であった。

 右翼・右派が、日本を戦争という破滅への道へ暴走させた。

 右翼・右派こそが、戦争の元凶であった。

   ・   ・   ・   

 アメリカは、自由と民主主義の為に、ナチス・ドイツやソ連同様に、軍国日本と戦うファシスト中国を軍事支援していた。

   ・   ・   ・   

 1932年 アメリカ陸軍は、大統領命令で、70機の軽爆撃機とジョン・ジョエットら10名の操縦士を中国空軍飛行学校の教官として派遣した。

 だが、幾ら教えても中国人パイロットは育たず事故死が続出した。

 後に。報告を聞いたルーズベルトやアメリカ軍首脳は、同じアジア人である日本人も中国人同様に人体的機能としてパイロットには向いていないと早合点した。

 その思い込みによる誤認が、真珠湾の悲劇につながった。

 当時。アメリカには独立した戦略空軍は日本軍同様に存在せず、陸上の航空隊は日本軍同様にアメリカ陸軍に所属していた。

 アメリカと日本の違いは、アメリカ軍には海兵隊が存在し、日本軍には海兵隊がなかった。

 アメリカ軍による中国への軍事支援は、以前から行われていた。

 沖縄のマルクス主義者・島袋正榮などは、ソ連に亡命した。

 沖縄は、反天皇反日の根拠地として共産主義者が多かった。

 アインシュタインは、日本軍の満州侵略に抗議し、日本への経済制裁を要請する談話を発表した。

 アメリカのSF小説家カール・W・スポーは、ワンダー・ストーリーブ誌に、原子爆弾を題材とした『最終戦争』を連載した。 

 アメリカ海軍は、ハワイ大演習を行い、日本海軍艦艇の命中率21%に比べてったアメリカ海軍艦艇の命中率は7%との結論を出した。

 スターリンは、軍国日本が満州を占領した事に危機感を抱き、アメリカが満州問題でソ連に接近してくると見越して、対米工作を指示した。

 真の狙いは、日米の全面対立であった。

 アメリカの対日強硬派は、軍国日本に対する牽制の為にソ連と国交樹立を訴えた。

 アメリカの保守派は、共産主義への警戒心から米ソ国交樹立には猛反対した。

   ・   ・   ・   

 ドイツ国防軍は、ファシスト中国への軍事支援を本格化する為にゲオルク・ヴェッツェル中将を顧問団長として送り込んだ。

 ドイツ国防軍は、ヴェルサイユ講和条約で軍の頭脳とも言うべ参謀本部を廃止され、大ドイツ軍を解体された為に、軍の再建をエリート参謀であったゼークト少将に命じた。

 ゼークトは、国内での軍隊再建が不可能な為に、産業力の劣っているソ連、トルコ、ボリビアなどに重工業などの産業支援をする引き換えに国内での軍事訓練を要求した。

 ソ連とは、1923年に秘密軍事協定を結んだ。

 当時のドイツとソ連は、敵対関係ではなく友好関係にあり、ドイツ軍はファシスト中国や中国共産党を軍事支援し、ソ連軍は中国共産党を軍事支援した。

 ヴェルサイユ講和条約は、ドイツ政府が外国の軍隊に軍事顧問を送る事も、軍事援助する事も禁止していた。

 ドイツは、正規軍人としてではなく、ドイツ軍人が私人としてファシスト中国と個人的な契約顧問となった事にして処理した。

 国際連盟も欧米列強も、ドイツ軍事顧問団の活動がファシスト中国対軍国日本の戦争として極東アジアに限定され、自国に影響が出なければ問題にはしなかった。

 むしろ、ファシスト中国が積極的に自国製品を購入してくれるのであれば、ドイツ軍事顧問団の活躍に期待した。

 武器商人・ハンス・クラインは、軍事顧問団の協力を得て、南京・広東両政府と武器工場建設の契約を結んだ。

 ドイツ企業の中国進出が再開され、ドイツ財界はユダヤ系国際金融資本の資金援助を得て巨額の中国投資を始めた。

 ドイツ国防軍は、軍国日本が幾ら抗議しても国際連盟が沈黙する限り、ファシスト中国への顧問団を継続し、参謀や指揮官の戦術・戦略能力向上の為に実戦で鍛えるべく人員を増やしていった。

 有能な人材を育成するには「百聞は一見にしかず」として、物が溢れた安全で安心できるゆったりした後方の教室で学ぶより、瞬時に気の緩みも許されず物資不足でやり繰りしなければならない最悪な現場に実際に身を置くのが一番として、人員を派遣した。

 軍事顧問団は、28年の設立時は30名であったのが、38年には100名以上にぞういんされた。

 ヴェッツェル中将は、ファシスト中国軍強化にゼークト大将を中国に招いた。

 ゼークト大将は、以前に北支の実地踏査に訪れた際、蒋介石に戦略的助言を行っていた。

 「日本一国だけを敵として、他の国とは親善政策を取る事」

   ・   ・   ・   

 中国政府内部では、対日戦略をめぐって主戦派と戦争を避けようとする主和派の二派に別れて対立していた。

 主和派は、今の国力では日本には勝てない。日本に勝つには、殖産興業を起こして国力を付け、富国強兵を進めて軍事力を強化する事が先決である。隠忍自重し、国力を充実させ最強の軍隊を組織してから、日本と雌雄を決すべきである、と。

 主戦派は、我が軍は日本軍の10倍以上の兵力を有し、装備している武器もドイツ、アメリカ、イギリスから購入した最新式で、優秀な我が部隊で旧式装備の日本軍を攻撃すれば勝利は間違いないと豪語した。

   ・   ・   ・   

 1月7日 スチムソン国務長官は、不承認主義(スチムソン・ドクトリン)として軍事制裁を伴う対日経済封鎖を宣言しようとした。

 スチムソン「武力に訴えて日本が得たもの一切を認めない」

 フーバー大統領は、食糧や原材料を海外依存しなければ生きられない日本に経済制裁を行えば戦争になるとし、アメリカは共産主義勢力が暗躍する中国の為に日本とは戦争する気はないと、スチムソン提案を拒否した。そして、日本軍の攻撃的自衛行為は犯罪であると非難するにとどめた。

 大統領選に影響力を持つ軍産複合体は、フーバー大統領の再選支持を取り止めた為に、フーバーは落選してルーズベルト大統領候補が当選した。

 ジュネーブ。アメリカ、中国、ソ連の三国は、日本のアジア侵略を阻止する為の秘密会議を行った。

 スチムソンは、共和党員でありながら、戦争回避の軟弱策にこだわるフーバー大統領を見捨て、反日強硬政策に反対しない民主党のフランクリン・D・ルーズベルト次期大統領に極秘に会談を重ねた。

 アメリカ政界は、党利党略を重視する日本とは違って、党方針よりも個人の政治信条が優先されていた。

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 徳富蘇峰「支那人と日本人とは、決して同じものではない。根本的に違ふといふ此の見地からして、総ての外交政策なり、或は総ての事を創出さえなければならないと思ふ」(昭和7年『蘇峯会誌』第3年第一輯)

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 1月8日 警視庁前桜田門爆弾テロ事件。国家元首・昭和天皇爆殺失敗事件。

 朝鮮人テロリストは、大元帥・昭和天皇を狙って爆弾テロを行うが爆殺に失敗した。

 日本のマルクス主義者と反天皇派キリスト教徒は、軍国日本を転覆する為に、天皇暗殺を計画する朝鮮人テロリストを支援していた。

 ファシスト中国は、上海の大韓民国臨時政府を匿っていた。

 上海・フランス租界のキリスト教会に、朝鮮人テロリストは潜伏していた。

 ソ連・コミンテルンは、極秘に、反天皇派マルクス主義者や反体制のアナーキストに活動資金を与え、日本を中国との全面戦争に追い込む様に指示していた。

 上海の日本人居留民は、国民党機関紙「民国日報」が国家元首・昭和天皇暗殺テロ未遂事件を好意的に報道した事に激怒して、中国政府に激しく抗議した。

 ファシスト中国は、日本側の抗議を適当に受け流して日本人の感情を逆撫でにした。

 一部の過激な日本人居留民は、朝鮮人テロリストを庇い支援する中国への軍事的制裁を求めた。

 上海は。昭和天皇の名誉と命を守ろうとする日本人居留民と、大国意識で日本を見下し昭和天皇を尊厳を傷つける反日派中国人との間で、一触即発の不穏な状況に入っていた。

 日本海軍の上海駐屯陸戦隊と中国軍は、互いに相手の軍事行動を注視深く観察しながら臨戦体制に入った。

 スチムソン国務長官は、日本の満州における侵略行為は、門戸開放・機会均等・領土保全の諸原則を蹂躙し、不戦条約と9ヵ国条約に違反する行為で承認できないと発表した。

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 日本民族は、神話の時代から受け継いできた伝統的天皇制度である「国體」を如何なる犠牲をはらっても守ろうとした。

 2000年という気の遠くなるほどの長い年月を掛けて守る通してきた民族の伝統文化を、何とかして後世に残そうと孤独な戦いを続けていた。

 民族固有の信仰とも言うべき「国體」を守る為ならば、全世界を敵に回し、一人孤独に戦う覚悟であった。

 民族の一員であれば、祖先が守ってきた「国體」を死んでも守ろうとした。

 日本民族と日本天皇は、一心同体であった。

 全世界がよってたかって日本天皇(昭和天皇)を殺して、玉体を切り刻んでゴミとして捨てようとしたら、全ての日本民族はその後を追って殉死する覚悟を決めていた。

 日本民族は、無残にも八つ裂きにされても、たとえ一人になっても昭和天皇を守ろうとした。

 「国體」には、2000年という、世界中の如何なる帝室や王室にはない崇高なる重みがある。

 中国にもないし、韓国にも北朝鮮にもない。

 さらには、アメリカにもない。

 中国の4000年の歴史とは、まやかしである。

 韓国の5000年の歴史も、架空の幻想である。

 中国の歴史は、政治的なイデオロギーである。

 韓国の歴史は、願望を込めた空想、ファンタジーにすぎない。

 日本の歴史は、現実の歴史、民族の歴史である。

 日本民族には、根絶やしにされても、皆殺しにされても、「国體」を死守する重い責任があった。

 それが、日本の歴史である。

 日本の歴史は、日本民族の歴史である以上に、日本皇室の歴史である。

 日本の正史は、唯一の日本の統治者である日本天皇の歴史である。

 日本の歴史が、日本天皇の歴史であるのが当たり前である。

 日本天皇のみが、日本の正統なる統治者である。

 日本天皇は、政治権力でもなく宗教権威でもなく、民族の心であり志であり良心であり道徳であり気概である。

 日本民族の品格や品位や品性は、日本天皇と共にある。

 ゆえに。日本民族は、2000年の歴史と共に日本天皇を護持してきた。

 「国體護持」とは、日本民族の歴史を守る事である。

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 軍国日本は、世界から犯罪者、侵略者と非難されようとも、国家元首・昭和天皇の命と名誉を守る為に、朝鮮人テロリストを支援するファシスト中国を報復攻撃する必要があった。

 国際世論は、親中反日として、軍国日本の国家元首・昭和天皇を守る為の自衛行為を否定し、朝鮮人テロリストを匿っているファシスト中国に制裁を加えるという正当防衛を激しく非難した。

 国際社会は、昭和天皇の存在を国家元首ではなく一般市民と同格とみなし、一般市民並みの昭和天皇の命を国家が軍事力で守る事は犯罪行為と認定していた。

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 1月18日 上海日本人僧侶襲撃事件。日本軍による謀略とされている。

 上海の日本人居留民は、激怒して、中華街に殴り込み中国人と衝突した。

 中国人は、日本人への復讐する為に気勢を上げた。

 1月20日 日本人居留民団は、「排日運動を殲滅するべし」との決議を行い、決議文を呉鉄城上海市長に提出した。

 上海市当局は、問題がこじれて不測の事態に至る事を恐れ、日本側の要望書を受理した。

 上海市内の学生や市民は、日本の横暴に屈服したと激怒して上海市役所を襲撃して、市内各所で暴動を起こした。

 呉鉄城市長は、暴動を鎮圧させる為に戒厳令を布告した。

 中国軍は、反日派市民を支援する為に市内各所に兵士を配置した。

 各国は、自国民を現地保護する為に軍隊を派遣した。

 日本政府は、昭和天皇暗殺テロ未遂事件擁護報道への反省と、二度と朝鮮人テロリストによる昭和天皇暗殺という重大事件を支援させない為に、懲罰的軍事行動を決定した。

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 日本政府は、第一回南京事件の様に、中国への配慮から軍事力を使って日本人居留民を保護するのではなく、多少の死傷者を出してもかまわないから戦争を避けて逃がす事を考えていた。

 軍部は、国内外から如何様に非難されようとも、反日派中国人暴徒に囲まれ、虐殺の危険にさらされている全ての日本人居留民を助ける為に武力を使う事を決めた。

 平和の為に中国にいる大半の日本人を見殺しにするか、全ての日本人を助ける為に戦争を覚悟で軍隊を出兵させるか。

 日本に残された選択は、反日派中国人暴徒が日本人居留民全員を虐殺する強い意志を持っていただけに、。戦争か平和かの二者択一しかなかった。

 だが。国際社会は、軍国日本の自国民現地保護という個別的自衛権を認めず、軍国日本の正当防衛を悪意のある過剰反応で戦争犯罪と決めつけていた。

 軍国日本が、戦争犯罪国家として断罪される事はすでに決まっていた。

 軍国日本には、自国民を守る為に戦争を決断する以外の道は全て閉ざされていた。

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 これは、軍国日本とファシスト中国の戦争であった。

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 1月28日(〜5月)国際世論が非難する。悪名高い第一次上海事変の勃発である。

 日本海軍陸戦隊(2,700人)対中国軍(3万人以上)。日本人居留民約2万5,000人。

 ヴェッツェル中将は、蒋介石に、ドイツ軍事顧問団が鍛えた精鋭部隊・第87師と第88師の投入を進言した。

 ドイツは、親中国反日派として、日本軍と戦う中国軍に軍事支援を行っていた。

 中国軍5万人以上が、上海の日本人居住区である閘北を攻撃した。

 日本政府は、日本人居留民を保護する名目で日本軍約6万人の派兵を決定した。

 中国共産党は、数万人の労働者や学生を組織して暴動を起こし、暴徒を煽って放火と略奪を行った。

 日本人居留民は、人を人と認めず、殺人や強姦を猟奇的に行う中国人暴徒を恐怖して見詰めていた。彼らを助けるのは、同じ日本軍だけであった。

 スチムソン国務長官「上海に対する日本の攻撃は道徳的問題にかかわると同時に、アメリカにとって金銭的価値にかかわる問題である」

 フランス租界は、戦火の外で安全であった為に、外国人は酒を飲みながら戦闘の行方を見物していた。

 狩猟民族の彼等にとって、非白人同士が殺し合って幾人死のうとも気にはしなかった。

 それが、当時の世界であった。

 アメリカは、中立国という立場から公に蒋介石を支援できなかった為に、個人の私的支援という名目で退役軍人を中国空軍に派遣した。

 世界的な戦略家の間では、生物学的調査の結果を踏まえて、日本人は民族的に内耳管に異常があって平衡感覚に欠陥があり、眼鏡を掛けるほどの近眼で空中戦も爆撃も出来ない、というのが常識となっていた。

 諸外国の軍隊は、この科学的報告に基づき、日本人は飛行機を操縦できないと信じられていた。

 白人優先主義に基づく人種差別から、空は神の天国に通ずる神聖な場所で、世界を支配者する欧米人のみに許された聖域とされていた。

 中国空軍の飛行教官ロバート・ショートは、世界常識に基づく人種偏見から、日本海軍航空機に空中戦を挑むが撃墜されて死亡した。

 日本海軍は、中国軍側の暗号を解読して作戦に反映して戦果を上げたことから、暗号解読に力を入た。

 退役軍人であるアメリカ人ロバート・ショートは、中国空軍に参加して日本軍機と戦った。

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 2月 蒋介石は、日本とソ連を全面的武力衝突させるべく張学良軍(30万人以上)に無抵抗を指示し、華北に約20箇師団を集結させ、熱河省を反撃拠点とするべく約7,000人を進出させた。

 張学良も、満州奪還の為に熱河省で義勇軍4万人を編成し、万里の長城から攻撃した。

 東京の軍中央は、中国軍との全面戦争を恐れて万里の長城を越えて侵攻する事を禁じた。

 スターリンに対しては、ソ連軍を対日戦に参加させる為の不可侵条約の締結を打診した。

 スターリンは、アメリカの国際石油資本がソ連を対日戦に引き込もうとしていると、モロトフに書簡を送って警戒を促した。

 コミンテルンは、アメリカなどの共産主義者に対して、ソ連を日本の攻撃から守る為に、日本の侵略に抵抗する中国を支援を支援する大衆動員を呼びかけた。各国の労働組合に対して、日本へ積み出される全ての物資を阻止する為に、世界中の鉄道や港湾で抗議のストライキを命じた。各国の共産党とその支持者に、自国政府に対して対日経済制裁などの強硬政策を取らせるようにロビー活動を指示した。

 関東軍は、満州独立を脅かす敵を掃討するべく熱河省への関内作戦を行った。

 昭和天皇は、熱河作戦は国際連盟の誤解を招く恐れがあるして中止を求めていた。

 軍部は、戦闘に消極的な昭和天皇の意思を無視して、熱河作戦を実行した。

 関東軍司令官武藤信義大将は、「熱河省は満州国領内であり、熱河作戦は対支戦争を起こす為ではない」と説明し、部下に「長城の向こう側の河北省は中華民国の領域だから越えてはいけない」と命令した。

 関東軍は、満州の独立を確保するべく、張学良軍を万里の長城以南(関内)へ追いやって作戦を終了した。

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 日本政府は、満州事変に対する国際的批判を沈静化させる為に、国際連盟理事会に事実調査を提案した。

 国際連盟は、中国側からの訴えもあった為に、イギリス人のリットンを団長とする調査団を派遣した。

 イギリスは、反日的なアメリアとは違って親日的」、中国政府よりも日本政府と外務省を信用し、日本の満州における権益を認め、関東軍の軍事行動に理解を示していた。

 中国で生活するアメリカ人などの欧米人は、法の支配が利かない無法地帯の中国に秩序を取り戻す為に日本軍の行動は必要として歓迎していた。

 ソ連は、関東軍が満州北部への侵攻姿勢を見せるや、日本軍との武力衝突を避けるべく中立宣言をして北満州防衛を放棄した。

 国際連盟は、リットン調査団を満州に派遣した。

 リットン調査団は、結論として、日本の中国侵略と認めた。

 アメリカのマスコミも、日本の弁明を一切認めず犯罪的侵略行為と非難した。中国に同情するアメリカ人は、黒人・ユダヤ人差別同様に日系人への差別を露骨に行った。

 イギリス政府は、帝国内特恵制度を整備する為に、保護主義の一般関税法を制定した。

 国際世論は、日本側の自衛行為という説明を完全否定した。

 2月7日 アメリカ軍は、対日戦略の一環としてジェントを団長とする空軍顧問団を中華民国に派遣した。

 アメリカ軍需産業は、イギリスの援蒋ルートを利用して軍需物資を抗日軍に供給し始めた。

 2月8日〜3月13日 日本軍は、呉淞桟橋に上陸して中国軍を攻撃して日本人居留民を救出し、攻撃に転じた。

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 3月 日本軍の指導で建国した満州国は、満州族、日本人、漢人、モンゴル人、朝鮮人の五族共和を理想とした。

 3月1日 援軍として第11師団が上陸し、総勢6万人となったところで、中国軍5万以上を猛攻した。

 3月3日 日本軍は、敗走する中国軍を追撃して嘉定と南翔の戦で停止した。

 朝鮮人テロリストは、戦争を継続させるべく、停戦交渉を妨害する為に爆弾テロを行った。

 日本軍戦死傷者は3,091人で、中国軍戦死傷者1万1,770人。

 3月4日 永井荷風『断腸亭日乗』「銀座商店の硝子戸には日本軍上海攻撃の写真を掲げし処多し、蓄音機販売店にては盛に軍歌を吹奏す、……全市挙って戦捷の光栄に酔はむとするものの如し」 当時の日本国民は、日本軍の中国軍に対する勝利に熱狂し、さらなる中国大陸への進撃を望んでいた。

 日本国民は、軍部の犠牲者ではなく、軍部の大陸侵略を指示していた。 

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 4月26日 中国共産党は、軍国日本に対して宣戦布告した。 

 4月29日 上海天長節爆弾テロ事件。不逞朝鮮人テロリストは、軍国日本とファシスト中国の戦争を長期化させるべく、日本軍の軍司令官を暗殺した。

 昭和天皇は、軍部に対して、戦闘拡大を禁じ停戦協定を望んだ。

 軍部は、軍司令官が暗殺されて怒り狂ったが、昭和天皇の命令に不承不承従った。

 一部の軍人は、戦争より平和を望む昭和天皇を軽視した。

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 5月 「32年テーゼ」。共産主義者は、ロシア革命のように天皇制度を廃止し、昭和天皇ら全ての皇族を処刑しようとしていた。

 コミンテルンは、日本共産党とその支持支援する日本人に対して採択された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する共産主義インターナショナル執行委員会西欧局もテーゼ」を送り、日本を共産主義国家にする為に階級闘争を仕掛けて天皇制度を打倒する様に命じた。

 「労働者農民の革命的大衆闘争は、革命的危機の昂揚をもたらすものであろう。そしてその下で天皇制は絶滅的な打撃を受け、労働者農民のソヴィエトは樹立され、その旗の下に日本共産党は労働者階級及び一切の勤労者を、最終の勝利に導くであろう」

 日本のマルクス主義者は、搾取される人民を助ける為に天皇を打倒し、日本でロシア型の暴力的共産主義革命を起こそうとしていた。

 天皇主義者は、国家元首・天皇を守る為に、天下の悪法である「治安維持法」でマルクス主義者を弾圧した。

 アメリカ国務省などにも共産党員や支援者がいて、日本を追い詰める為の経済制裁的な強硬政策を実施していた。

 日本共産化テーゼは、日本を軍事占領したGHQの民政局による日本無能・無力化改革の中に引き継がれた。

 共産主義者が目指した改造計画の大半は成功したが、唯一、万世一系の男系天皇(直系長子相続)制度は破壊できなかった。

 そこで、天皇と皇室を消滅させる長期的プランとして、皇室財産を没収し、皇統維持の為に必要な宮家を縮小させ、孤立無援の裸の王様状態にした。

 5月15日 犬養毅首相の妻・君千代は元芸妓であり、妾も烏森の芸妓であった。

 水商売の芸妓・芸者で、政治家・官僚・企業家の妻になっている女性が多数いた。

 五・一五事件。首謀者の三上卓と古賀清志両中尉に死刑判決が出るや、114万8,000人分の減刑嘆願書が裁判所に寄せられた。

 日々の苦しい生活を送っている国民は、無能無策の政党政治に絶望し、直情径行の軍人に社会変革を求め始めた。

 悪名高い、日本の軍国主義の始まりである。

 日本の軍国主義は、国民生活無視・財閥利益優先の政党政治への絶望によって始まった。

 心ある知識人エリートは、市場原理の資本主義社会では貧富の格差が広がるのみで、腐敗して政治能力のない既成政党では国家改造は望めないと考えた。彼等は、社会改革を行う為に、大日本帝国憲法を停止し、特権階級を廃止し彼等が持っている私有財産を没収し全ての産業を国有化し、国民の権利も制限して国家の統制下で計画経済の必要性を主張した。つまり、国家社会主義体制の確立である。

 斉藤実海軍大将の山本英輔への手紙「政治が乱れ財閥が全盛横暴を極め、陸軍上層部までもが政争や権力闘争に明け暮れているのを見ている正義感の強い若い将校がファショ気分となり、これを民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が策動している。これがいわゆる統制派である。表面は美化されているが終局の目的は社会主義で、『国防の本義』はその真意を表している。林前陸軍大将や永田軍務局長はこの事を知っているのか、知らぬままに乗せられているのか不明だが、最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、あらゆる組織を国家的に統制するものである。それは『ソ連邦』の結果となる」

 失業者240万人以上を抱える日本は、満州投資による満州開発は死活問題であったが、満州開発は日本一国のみでは不可能で国際資本の投資が必要であった。

 資源の無い日本は、生き残る為に、満州の門戸解放と機会均等を受け入れる事を表明した。

 アメリカの失業者は、1,600万人以上。

 イギリスの失業者は、270万人以上。

 欧米列強は、自国経済の回復を内戦続きの中国市場で果たそうとしていた。国際資本は、平和ではなく戦争を望んでいた。

 鈴木貫太郎「犬養さんは満州の独立に反対した。そしてそう云う策動家の手先になつた軍人が、遂にあの暴行を敢てしたのであったが、その後の仕末に到っては誠に遺憾の点が多い。

 私共の其時の感想から云へば、如何なる理由があるにしても、あの暴徒を愛国者と認め而(しか)も一国の宰相を暗殺した者に対して、減刑の処分をして、一人の死刑に処せらるる者がなかったと云ふ事は、如何にも国家の綱紀から見て許すべからざる失態であったと思ふ。その為めに政治の大綱が断ち切られた様な気持ちがした。

 もしあの場合に真実に政治に明るい者があったなら、もっと厳格に処分しなければならなかっただろう。それが緩やかであった為めに遂に2・26事件を引起こした。2・26の起る温床は5・15の後始末の不結果に依るところが大なりと思ふ。真に遺憾に堪へない次第である」(『鈴木貫太郎自伝』)

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 昭和8年5月17日 司法省は、5・15事件の詳細な報告書「5・15事件の全貌」を陸軍省と海軍省などの連名で発表した。

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 6月12日頃 スターリンは、ラーザリ・カガノヴィッチ政治局員に対して、中国共産党が強固な拠点を確保するまで満州問題には曖昧な態度を取って日本を非難せず、日米対立を煽る為にアメリカに接近する様に指示した。

 「政治局は国際関係において最近生じた大きな変化を考慮に入れていない様だ。その中で最も重要な変化は、中国では日本にとって有利に、欧州ではフランスにとって有利に、アメリカ合衆国の影響力が低下し始めた事である。これは極めて重要な情勢だ、これに応じて、アメリカ合衆国はソ連との連携を模索するだろう。そして、すでにそれを求めている。その一つの証拠がアメリカで最も有力な銀行の一つの代表ランカスターの訪ソだ。この新しい情勢を考慮に入れよ。

 6月20日 スターリンは、軍国日本に安心して満州での軍事行動が出来る様に、ヴャチェスラフ・モロトフ首相とカガノヴィッチ政治局員に日ソ不可侵条約締結を目指す様に指示した。

 「もし日本が実際に条約に動き出すとしたら、おそらくそうする事で、どうやら日本が真剣に信じていると思われる我々の対中条約交渉を頓挫させる事を望んでいるからだ。だから、我々は中国との交渉を打ち切るべきではないし、逆に、我々の対中接近という見通しで日本を脅かして、それによってソ連との条約調印に日本を急き立てる為に、対中交渉を継続して長引かせる必要がある」

 ソ連にとって国家間の条約や協定は、政治的軍事的な一時の方便で有り、不可侵条約や中立条約で相手を油断させて侵略した。

 小国は、国家存亡の為に、国際法に基ずく条約や協定に一縷の望みを託していた。

 だが、大国は自分の都合がいい様に解釈し、一方的に破棄する。

 共産主義者にとって、国際法よりも共産党の基本方針を優先していた。

 特に、中国共産党にはその傾向が強かった。

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 7月(〜8月) イギリスは、カナダのオタワで、アメリカの保護主義に対抗する為に英連邦経済会議を開き、連邦以外からの輸入制限措置を決めた。

 排他的ブロック経済協定が成立して、世界市場における自由貿易体制は崩壊した。

 植民地を持つフランスやオランダなども、自国産業保護の為に自給自足政策を実施して、外国製品の輸入を制限した。

 植民地を持たず資源のない日本は、輸出先で高関税をかけられて不利な状況に追い込まれ、商品を優先的に売る植民地を持っていなかった為に、中国市場に活路を求めた。

 アメリカも、中国市場へ乗り出していた為に、競争相手の日本製品を排除するべく中国人に金をばらまいて日本製品不買運動をけしかけた。

 日本は、輸出量が半減して不況が深刻化し、倒産や操業短縮などで失業者が町に溢れた。不況脱出の切り札として、満州市場に乗り出した。

 さらに、農業不況に喘いでいる農民を救済するべく満州鉄道沿線への移住を奨励した。

 こうして、満州は日本の生命線とされた。

 ソ連は、日本の満州進出に警戒感を募らせ、自衛の為に中国や日本で共産主義革命を起こすべく両国の共産主義者に指示した。

 アメリカとイギリスは、最後の経済的フロンティアとして満州市場に参入すりべく、此処でも反日運動を煽り、馬賊を利用して治安を悪化させた。

 関東軍は、日本人移住者を守る為に、親日派中国人の協力を得て軍事行動を起こした。

 国際世論は、軍国日本を領土拡大の野心があるとして非難した。

 7月2日頃 スターリンは、カガノヴィッチ政治局員に対して、満州で反日派朝鮮人を使った対日テロ活動の失敗が軍国日本を弱体化させるという基本戦略を危険に晒したとして、当事者の厳罰を厳命した。

 「さる朝鮮人爆破工作員達の逮捕とこの事案への我が組織の関与は、日本との紛争を誘発する新たな危険を作り出す。ソビエト政権の敵以外、いったい誰がこんな事を必要とするのか。必ず極東指導部に問い合わせて、事態を解明し、ソ連の利益を害した者をきちんと処罰せよ。このような醜態はもう許さない。……この紳士達が我々の内部にいる敵のエージェントである可能性は高い」

 スターリンは、猜疑心が高い指導者として人を信用せず、政策や工作が失敗した時は内部に潜む敵のスパイの妨害工作として、犯人捜しを命じた。

 秘密警察による監視社会であるソ連は、疑わしい者は全て逮捕して拷問を行って自白を引き出し、罪を認めなければ地獄の責め苦で嘘の自白をさせて処刑するかシベリヤの強制収容所に送った。

 裁判はあっても無きに等しく、無実でも疑われれば余程の身の潔白を証明する証拠がない限り有罪となった。

 7月5日 日本共産党は、コミンテルンの指令に従い、国際共産党日本支部 日本共産党中央機関紙の名で「赤旗」号外を配布し「警察的軍事的天皇制を倒せ!」と檄を飛ばした。

 日本共産党党是の最優先に達成すべき重要課題は、暴力的ロシア革命に倣って天皇制度を廃絶する事であり、時代や社会に合わせて天皇制度打倒を口にしなくても、天皇制度打倒の党是は不変であった。

 共産主義とは、終わりが良ければ手段を選ばない事であり、共産主義の大義の為なら平気でウソも吐くし裏切りもするのが共産主義である。

 共産主義の目指す理想社会とは、労働者が搾取されない人民社会であり、万国の労働者が団結する為に民族主義を否定した国際主義社会である。

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 8月12日 ハルピン大洪水。松花江から溢れた水は市内を呑み込み甚大な被害を出した。

 日本軍と満州人警察官達は、反日暴動に発展する事を恐れて被災者の救助活動を行った。

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 9月 日本は、満州国を独立国と認める議定書を交わし、未開発の不毛の大地を開発する為に多額の投資を始めた。

 9月6日 リヒャルト・ゾルゲが、上海から横浜に到着して、スパイ活動を開始した。

 コミンテルンは、ソ連邦の軍事干渉に関する第12回執行委員会決議を行う。

 ゾルゲや尾崎らソ連のスパイは、日本を破滅に追い込む為に、コミンテルンの指示に従って対日謀略活動を活発化させた。

 9月15日夜から16日未明 撫順炭鉱襲撃事件。楊柏堡(ヤンパイプ)事件。

 赤匪(共産党系)などの抗日ゲリラや馬賊は、撫順炭鉱を襲撃し、施設に火を放ち、日本人5人を惨殺した。

 炭鉱施設や社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所は操業停止に追い込まれた。

 殺害されたのは民間人で、同炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人であった。

 抗日ゲリラや馬賊は、80家族、約300人が住む楊柏堡の社宅を襲撃した。

 住人達は、襲撃を察知して坑道を使って逃げ避難して助かった。

 抗日ゲリラや馬賊は、無人となった楊柏堡を荒らし回り、破壊、略奪、放火し、人がいれば日本人であれ朝鮮人であれ容赦なく虐殺した。

 9月16日 平頂山事件。撫順を守る関東軍の独立守備隊は、抗日ゲリラに通じていたとされる平頂山集落を攻撃し、住民らを殺害した。

 満洲日報は号外を出した。「深夜の炭都はたちまちにして物凄き戦闘の巷と化し、炭鉱事務所、社宅は焼き払われた。死傷者多数…泣き叫ぶ男女の様はまさにこの世の修羅場」

 診療所の責任者・友七郎は、犠牲になった炭鉱職員や家族の検視を行して報告書をまとめた

 「非常に惨い状態で、耳や鼻をそぎ落とされ、目までくりぬかれていた……顔が分からず、ご本人と特定するのが難しかったと聞きました」

 抗日ゲリラや馬賊を手引きしたのは、地元の中国人労働者であったとされている。

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 10月 沖縄出身の宮城与徳は、コミンテルンの指示を受けてアメリカから帰国して、ゾルゲと尾崎秀実の連絡役として活動した。さらに、独自に陸軍将校と接触して軍事情報を収拾してゾルゲに伝えていた。

 陸軍内には、宮城らに軍情報を漏らす軍人が少なからず存在していた。

 リットン調査団は、イギリス本国の方針に従って日本に有利な報告書を提出した。

 そして。蒋介石の南京政府は、国民党が支配する一党独裁で自由と民主主義のないファシスト国家と認定し、中国の現状は内戦状態で統一された正統政府が存在していない事も認めた。

 リットン「満州国という国さえ否定してくれれば、満州事変以前の状態に戻す必要はないし、日本の権益は全て認める」

 軍部寄りで戦争を煽っていた朝日新聞などの報道機関は、リットン報告書を「反日文書」と糾弾して世論を煽った。

 政府や議会は、国際協調で平和的に満州問題を解決したいと思いながらも、民意に流されてリットン報告書を拒否し、国際連盟を敵視した。

 日本全権代表の松岡洋右(A級戦犯)は、ジュネーブに旅発つ前に、元老・西園寺公望に挨拶に行き、「脱退は絶対に致しません」と明言した。

 日本政府も国際連盟脱退には反対であったが、軍部と右翼そして国民世論は脱退を支持していた。

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 11月 中国共産党軍は、湖北省を荒らし、35万人以上を虐殺し略奪した。350万人は、家を捨てて他省へ逃げた。共産主義者は、共産主義の大義で各地で数十万の大虐殺事件を起こしていた。

 共産主義者は、血を好み、見境もなく殺戮と略奪を行った。

 民衆は、彼らを赤匪と恐れ、殺されない為に共産主義者に従った。

 多くの教会やミッションスクールも焼き討ちにあい、多くの宣教師やキリスト教徒が猟奇的に惨殺された。

 国民政府軍も、共産軍同様に教会や学校を襲い略奪し、施設は死体や汚物などのゴミの山となって打ち捨てられた。

 毛沢東「権力は、銃口から生まれる!」

 モスクワの指令「階級の敵は一人残らず殺し、彼等の家を焼き払い破壊せよ!」

 彭湃(ポンパイ)「レーニンのやり方は委細を問わぬ。ただ反動分子を殺すだけだ。……誰に報告する必要もない」

 日本は、自分勝手な中国人の無法ぶりに呆れると共に、共産主義者の人を人と思わない悪鬼の様な残虐性に恐怖を感じた。だが、共産主義者から祖国日本を守ろうとした事

 が犯罪行為とさ、共産主義価値観と戦った愛国心は「悪」と断定された。

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 12月 松岡洋右代表は、各国代表に日本の正当性を訴えて回り、連盟脱退を回避するべく精力的に努力をしていた。

 昭和天皇は、親米英派として、国際連盟に留まる事を希望していた。

 12月8日 松岡代表は、国際連盟に留まる為に有名な「十字架上の日本」演説を行い、日本を孤立化させようとしている国際世論に対して反論した。

 「諸君、日本はまさに十字架にかけられんとしているのだ。しかし我々は信ずる。かたくかたく信ずる。わずかに数年ならずして世界の世論は変わるであろう。そしてナザレのイエスが遂に世界に理解された如く、我々もまた世界によって理解されるであろう」

 イギリスなど日本に理解を示す一部の国は、妥協点を模索した。






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2017-08-31

♫:21─2─中国近代文学・口語文体・共産主義・民主主義・科学技術などは日本国語の御陰である。魯迅。日本によって中国は近代化した。1931年〜No.93No.94@        

中国人の機智 『世説新語』の世界 (講談社学術文庫)

中国人の機智 『世説新語』の世界 (講談社学術文庫)

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 中国語や朝鮮語の口語文体は、日本国語が原型である。

 日本型口語文体が中国語や朝鮮語を変形させた御蔭で、中国の読書人や朝鮮の両班が独占してきた言語が貧しい人民や民衆に広まった。

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 1931年11月 魯迅「排日の声の最中にあって、私はあえて断固として中国の青年に忠告を一つ差し上げたい。それは、日本人は私たちが見習うだけの価値あるものを一杯持っている、という事である」(『集外集拾遺補編』)

 1932年11月22日 魯迅は、北京輔仁大学で「今春の感想二つ」という講演を行う。

 「日本人は真面目すぎるのに、中国人は不真面目すぎるのです。中国の事柄は往々にして看板をかければそれで成功した事にします。日本人はそうではありません。彼らは中国のように芝居をやるだけ、というのとは違います。日本人は徽章や訓練服があるのを見れば、必ず彼らを本当に抗日している人間だと思い込み、むろん強敵だと見なします。不真面目な者が真面目な者とぶつかれば、当然不真面目な者が損をします」

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 日本人は、他人の目を意識し、他人の評判・批判を気にし、人から後ろ指を指されないよう神経を使い、人に言われなくて絶えず立ち止まり内省して、自ら行いを正した。

 人に嫌われ仲間はずれにされない為に、他人に迷惑をかけない為に自分の抑え、自分の利益よりも相手を思い他人に尽くす事を心掛けた。

 それが、日本を支配する同調を強要する「空気」である。

 利己主義の中国人や朝鮮人は、利他主義の日本人とは正反対である。

 中国人や朝鮮人は、日本人の心情を無視して土足で家の奧まで上がり込み其処等中を破壊し穢し汚して傍若無人に暴れ回り騒ぎまくり、日本人が耐えられなくなって苦情を申し立てると、自分達の方が道徳、礼儀、行儀・マナーに正しいのだから理解して受け入れよと開き直った。

 自分が利益を得る為ならば、他人を非難中傷して、嘘八百を捲し立てても辱とは思わない。

 2014年以降、日本に来て爆買いをし、観光地で顰蹙を買う中国人観光客達。

 日本人の中には、中国人を隣人として理解を示し、中国人の振る舞いを正当なものとして受け入れるべきだと訴える日本人がいる。

 日本人には、中国人や朝鮮人の人を見下した傲慢な態度・振る舞いが理解できず我慢できなくなって爆発した。

 中国人や朝鮮人にとって一度の人生は、好き勝手ができる遊びであった。

 日本人にとって生きるという事は、生死をかけたやり直しができない一度きりの真剣勝負であった。

 日本人には、中国人や朝鮮人の、無邪気すぎるほど子供っぽい、自分本位で他人を無視した、常識ない度を超した悪ふざけが理解できなかった。

 同様に、中国人・朝鮮人には日本人の遊びが嫌いであった。

 日本人と中国人・朝鮮人とでは、正反対の死生観、人生観を持っていて、幾ら話し合おうとも分かり合えるはずがなかった。

 その違い、数千年かけて住んできた自然環境に由来する。













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近代日本と朝鮮人像の形成 (遊学叢書)

近代日本と朝鮮人像の形成 (遊学叢書)

2017-08-30

♫:21─1─満州。中国人による日本人居留民への犯罪が激増していた。万宝山事件。朝鮮排華事件。中国共産党と満州事変。石原莞爾。1931年〜No.91No.92@                   

中国は日本を併合する

中国は日本を併合する

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 ジョージ・ヘンリグ(ケンタッキー大名誉教授)「(満州事変は)実際、当時の保守的ヨーロッパ人達は中国の策略的、欺瞞的であるのに対し、日本は安定の源で共産主義に対する防波堤でもあると」(『オックスフォード米国史』)

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 国際常識において、戦争は、戦勝国になれば有効な一大公共事業であり、一時的な失業者対策になるとされている。

 だが、敗戦国になれば悲惨の一言であった。

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 ゲレー回顧録『25年』(イギリス外務大臣)「しからば西欧の如何なる国が、仮に日本と同じ立場にあったとして、日本以上に、いや日本と同じ程度にさえ、自重する事ができただろうか」

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 日本政府は、中国政府への配慮と国際的日本批判を批判を恐れ、満州や中国で生活する日本人居留民を中国人暴徒から武力を行使しても守ろうという決意は薄かった。

 日本人居留民は、国家から見捨てられ、中国人暴徒の中に放り出されていた。

 彼らの命を守るのは、軍部の統帥権と軍国主義者の狂気だけであった。

 国際世論は、軍部と軍国主義者の暴力的行為を侵略行為、戦争犯罪、非人道的犯罪として完全否定した。

 軍国日本には、中国や満州に住む日本人居留民を戦争をして守る権利が認められていなかった。

 国際世論は、軍国日本の自国民を守るという正当防衛も自衛権も認めてはいなかったどころか、如何なる武力行使も完全否定していた。

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 蒋介石は、革命外交を宣言して日本の中国利権や資本を没収し始めた。

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 1929(昭和4)年10月の大恐慌発生以来、イギリス、フランス、オランダなどの植民地を持つ国は自国経済の保護の為に、排他的ブロック経済を採用し、持たざる国である軍国日本、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアを自国圏市場から締め出した。

 日本経済は、関東大震災以来三陸地震や室戸台風など相次ぐ天災から立ち直れないうちに世界大恐慌に巻き込まれ、多くの会社が倒産し、数多くの工場が操業停止に追い込まれ、失業者が都会に溢れた。

 日本が唯一期待する中国市場では、抗日中国人による反日大暴動が多発し、日本製品ボイコットで市場から閉め出され始めた。

 ナチス・ドイツやファシスト・イタリアは、反日運動に便乗して大量の武器弾薬を売り込み、日本資本の追い出しを手助けした。

 ドイツ軍は、ワイマール政府の許可を得て対日戦の為に軍事顧問団を派遣した。

 ドイツの保守階級は、反日派であった。

 北海道や東北地方は、34年と35年の大凶作で餓死者は出なかったが飢餓人口が44万人を超えていた。

 貧困農家では、口減らしの為に息子を軍隊か満蒙開拓団に出し、娘は僅かな金を稼ぐ為に都会に年季奉公に出かけた。

 多額の借金を抱えた極貧農家は、娘を女郎屋に売った。

 金の工面ができない農家は、泣く泣く、田畑を都会の投資家に獲られた。

 政党政府は、有効な打開策を打ち出せず、不毛な政争に明け暮れていた。

 生活に困窮する都市労働者や地方農家は、賄賂を取って堕落している政党政治家に絶望し、単純思考でわかりやすい軍部に救済を期待した。

 日本は、八方塞がりの状況から脱出する為に軍国主義を採用し、国際社会を敵に回しても大陸侵略に暴走した。

 軍国日本は、「満州は、満州族の故郷であって中国人の土地ではない」の建前で、日本の死活にかかわる重要地域として、親日政権樹立の為に軍事行動を行おうとしていた。

 国際社会から締め出された軍国日本には、商品を販売する地域として、満州と太平洋の南洋統治領しか残されていなかった。

 国際社会は、軍国日本の命綱である満州と南洋諸島からも追い出そうと画策していた。

   ・   ・   ・   

 コミンテルンは、アジアを共産主義化する為に国民党政権内部に中国共産党員を忍び込ませ、反日運動を煽っていた。

 アメリカ共産党員の鬼頭銀一は、天皇制度を打倒して日本を共産主義化する為に、コミンテルンの策動基地のある上海で朝日新聞記者尾崎秀実とソ連スパイのゾルゲを引き合わせた。

   ・   ・   ・   

 徳富蘇峰「朝鮮も俺が属国だと斯う言っている。そうして責任を問われる時には、朝鮮は独立国だと言っている。人がやかましい問題にすると。俺の物ではないと言っている。人が立派に整理して物が出来上った時には、之は俺の物だから戻して呉れと言っている。実に余りに虫が好過ぎるのであります。……

 支那人は黙って居れば、如何なる物でも巻き上げようとしている。支那人に言わせれば、九州も之は上海に近いから俺の領地だと言うかも知れない。現にご承知であるかもしれないが、明の永楽帝は我が阿蘇山に台安鎮国山という名前を付けております。この調子だと富士山にでも、或いは支那人が何とか言う名称を付けるかもしれません。

 実に之は虫の好い国としては世界第一であります。此の虫の好い支那人と競争し得るのは、ただ御隣国の一つの米合衆国だけであります。それで両国はなかなか仲が良い」(昭和6年講演『歴史上より見たる日本と支那』)

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 1931年 日本共産党最高幹部の鍋山貞親は、獄中で、転向する前に『社会民主主義との闘争』という論文を公刊した。

 「我々労働者と農民は、議会以外大衆行動にのみ、自己の利益を擁護し又自己を解放する手段と手法とを求め……議会行動を議会以外大衆行動に従属せしめ、議会を大衆行動の支持点として利用する為にのみ、これに参加するのだ」

 官憲は、労働者・農民の権利向上を求めるマルクス主義運動と天皇制度廃絶及び国家転覆を画策する最左派の日本共産党を分けて考え、テロ集団の壊滅の為に共産主義者を大弾圧し、マルクス主義関連の書籍の焚書を行わず書店での販売を許していた。

 革新官僚や統制派軍人等は、マルクス主義の社会主義政策を研究していた。

 パール・バックは、貧困階級出身の中国人によるサクセスストーリーとして小説『大地』を出版し、世界的な大ベストセラーとなった。

 中国で布教活動をしていたプロテスタントの宣教師は、全米で「中国=善。日本=悪」を広め、異教国日本の侵略で塗炭の苦しみにある中国人キリスト教徒を救う為の募金活動を行った。

 『大地』を読んだ善良なアメリカ人は、侵略者日本から可哀想な中国を助けようという善意から募金に協力した。

 反日勢力は、「日本は世界征服という野望を持っている」というプロパガンダを行って、アメリカ世論を誘導した。

 西海岸諸州の人種差別主義者は、日本人移民はアメリカ侵略の先兵と信じ込んで警戒し、白人社会に警鐘を鳴らしていた。

 軍国日本は、悪を憎む「善人」のアメリカ人によって破滅へと追い詰められて行った。

 日本海軍は、沖ノ鳥島に水上飛行機の軍事基地を建設する為に政府に圧力をかけた。

 日本政府は、軍部の圧力に屈して日本領として東京都小笠原支庁に編入したが、気象観測所や灯台などの建設を渋った。

 警察当局と憲兵隊は、日本国内で1,900件以上の思想弾圧を行った。

 カリフォルニア州で、アジア人排斥を緩和させる為に東洋問題評議会が結成された。

 毛沢東は、江西省瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。

 中国共産党は、農村改革として地主や豪農から小作人を解放して自作農とし、土地改革として地主や豪農などから農地を取り上げて小規模農家や零細農家に再配分した。

 共産党支配地域に政治局員を配置し、農村を共産党下部組織・単位として、農民を共産主義革命兵士に仕立て上げた。

 開放農民達は、中国共産党に協力し、国民党員や地主、豪農、企業家、資本家、知識人などの国民党支持者を告発して財産を没収し、場合によっては人民裁判で有罪と決め付けて処刑した。

 処刑された者、18万8,000人以上。

 追放された者、210万人以上。

 永年抑圧されていた人民は、これまでの鬱憤を晴らすように気に食わない者を、プロレタリアの大義を振り回して事実無根の無実でも処分した。

 共産主義者は、敵の血を大量に流す事に狂喜していた。

 中国共産党は、土地開放という農村改革を行う事で小規模農家と小作人の支持を得て、支配地を拡大した。

 アメリカのマスコミは、中国共産党を抑圧と搾取に立ち向かう農民政党として絶賛した。

 後年。中国共産党は、個人の土地所有を禁止して党の管理下に置くとして農民から農地を取り上げ、抵抗する者は容赦なく反革命派・右派として処分した。

 3月 3月事件。橋本欣五郎らは、軍隊を動員して議会を占拠し、宇垣大将を首班とする総力戦内閣を樹立するクーデター計画を練る。軍部は、橋本欣五郎らは逮捕したが、国を思っても行動として穏便な処置で事件を解決した。

 橋本欣五郎の周囲には、若手エリート将校や革新官僚やマルクス主義から転向した右翼などが、レーニン資金を目当てに集まっていた。

 陸軍は、橋本欣五郎が10月も同様のクーデター計画を起こした為に、姫路野砲連隊付きとして左遷した。レーニンから渡された20万円近い活動資金は、陸軍省軍務局軍事課が終戦まで保管した。

 4月 周恩来の片腕であった顧順章は、蒋介石に寝返って中国共産党のスパイ網を売った。

 国民党は、顧情報をもとに中国共産党のスパイ組織を一網打尽にして潰した。

 周恩来は、裏切りに激怒し、仲間への見せしめとして、顧順章の家族を皆殺しにして上海フランス租界の公園に埋めた。

 毛沢東は、武装蜂起全てに敗北し、窮地に追い込まれて瑞金に逃げ込んだ。

 中国共産党エリートのソ連留学派は、ソ連の協力を得て、壊滅的打撃を受けた組織の立て直しに取りかかった。

 非留学組である毛沢東派は、コミンテルンから党指導力と軍事能力を疑われ中枢から遠ざけられた。

 両派は、熾烈な権力闘争を始めた。

 6月20日 フーバー・モラトリアム。

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 夏 台南州立嘉義(かぎ)農林学校の野球部は、台湾代表として甲子園に出場した。

 近藤兵太郎監督「1位でなければダメだ。2位と最下位は同じ事だ」

 近藤精神とは、最高位を目指して、最後の最後まで諦めない事。

 実力とは、技量と精神の結合である。

 正選手、内地人(日本人)3人、本島人(台湾系漢族)2人、高砂族4人。

 1回戦、3─0で神奈川商工を破った。

 決勝戦、4─0で名門、中京商業に敗れて、準優勝。

 「球は霊(たま)なり 霊正しからば球また正し 霊正しからざれば球また正しからず」

 日本人は、人種差別や優秀民族意識よりも逆境にある者に心を寄せるという判官贔屓が強く、台湾の学校が快進撃して勝ち進む事に熱狂して喜び優勝する様に声援を送った。

 武士道精神から、勝った者にも、負けた者にも、両者ともよく戦ったとして分け隔てなく称讃した。

   ・   ・   ・   

 7月 旅順で、関東軍の石原完爾参謀は、対中強硬派の森恪代議士に対共産主義・対ソ戦略としての満蒙構想を説明し、政治的な協力を求めた。

 7月2日 万宝山事件。在満の日本人団体である満州青年聯盟は、抗日中国人の暴動を恐れた。右翼的日本人は、軍部に対して、満州を中国から切り離して五族協和による理想国家を建国する事を要望した。

 朝鮮人小作人は、不毛に近い未開墾の土地を中国人地主から借り受けて農作業を行い、収穫を折半して生活していた。

 農耕するには厳しい土地の上に、小作料は高くて収入は少なく、中国人役人が定期的に廻ってきて賄賂を取り、馬賊が時より襲撃してきて食糧や貯めていた金を奪っていった。

 食糧価格が暴落すると、朝鮮人小作人の手取りが減った。

 小作料が払えなくなった朝鮮人小作人は、借金の返済に妻子を取られ、小作地から追放された。

 朝鮮人の多くは、現在の不幸の原因は中国人ではなく日本人であるとして反日運動に参加した。

 7月5日 朝鮮排華事件。朝鮮で。朝鮮人暴徒が、中華街を襲撃して華僑約100人を殺害した。

 ファシスト中国は、朝鮮人による華僑虐殺に対する制裁として対日経済断交を実行した。

 満州では、中国人による日本人への刑事事件が急増した。

 日本政府は、中国政府や奉天政府に抗議し事件の沈静化と日本人居留民の保護を求めた。 だが。中国政府も奉天政府も、口では再発防止を約束するだけで一向に実行せず、むしろ反日暴動を煽っていた。

 満州で、日本人女学生数十人がピクニック中に襲撃され強姦される事件が起きた。

 反日派中国人による日本人居留民への犯罪行為は、増加の一途にあった。

 満州在住の日本人居留民団は、中国側の機嫌を伺うように抗議だけする日本政府の弱腰外交に絶望し、生命財産を守る為には武力保護しかないとして関東軍の軍事行動に期待した。

 関東軍は、日本人居留民の生命財産を守る為に、満州を中国から切り離す軍事計画を極秘で進めた。

   ・   ・   ・   

 中国人と流血事件を起こしていたのは日本人ではなく、朝鮮人であった。

 日本人は、中国人と敵対し争う事なく、友人として親しく付き合っていきたいと希望していた。

 朝鮮人は、長年、中国から属国として軽蔑され、中国人に差別され、奴隷の如く使役されてきた屈辱を晴らす為に、日本国籍の威を借りて復讐をしていた。

 日本人は、朝鮮人と中国人の流血を伴った乱闘騒ぎのとばっちりを受け、中国人から逆恨みされた。

 中国共産党は、それを利用して軍国日本を戦争に引きずり込む為の陰謀を巡らせていた。

 単細胞的な日本軍人エリート達は、中国共産党とソ連の陰謀に乗せられて戦争を始めた。

 天才的戦略家の石原莞爾は、それを知ってか知らずか分からないが、満州事変を引き起こした。

 石原莞爾とは、それだけの軍人で、褒められた人間ではない。

   ・   ・   ・   

 7月6日 日本は、沖ノ鳥島を自国領土に編入した。

   ・   ・   ・   

 田原総一郎「(満州事変前における)張学良軍の日本への圧迫・弾圧は筆舌に尽くし難く、奉天近辺だけでも暴行や器物・施設の破壊などの日本人及び日本企業関係の被害が、1年間で30万件を超える有り様だった。また、日中間で満鉄と並行する鉄道は敷設しないという取り決めになっていたのに、中国側は約束も日本側の抗議も無視して2本の平行鉄道を作り、満鉄の売り上げは1/3に激減した。……以上のことから、満州事変は既得権を守る自衛の戦いであった」(『日本の戦争』)

   ・   ・   ・   

 国際連盟は、中立性を捨て、ファシスト中国を支援し、軍国日本を非難した。

 軍国日本は、国際社会で孤立した。

   ・   ・   ・   

 9月 関東軍(約1万400人)は、日本人居留民の保護と日本製品排斥に抗議して侵略を開始した。

 満州だけで、この年だけですでに1,300件以上の反日暴動や暴行事件が起きていたが、中国側の妨害や非協力で300件以上が未解決のままであった。

 中国側には、治安を回復する意思はなかった。

 中国人官憲は、日本人に対する暴力事件に目を瞑り、犯罪者から賄賂を取って解決を妨害した。

 満州は腐敗し、中国同様に無法地帯化して、無抵抗な日本人は暴力や略奪を受けても泣き寝入りするしかなかった。

 30万人の日本人居留民は、無抵抗主義で話し合い解決を外交政策とする日本政府に絶望して、「一時退去の方針」に従い資産を放棄して帰国した。

 残留した26万人の日本人居留民は、生命財産を守る為に関東軍に保護を求めた。

 ゾルゲは、モスクワの指示で周恩来と上海のフランス租界で面会し、モスクワの指令を伝えた。

 中国共産党は、ソ連共産党の支援でやっと生き延びていた。

   ・   ・   ・   

 9月18日 満州事変。関東軍は、政府と陸軍中央の協調外交では無防備な同胞を守りきれないとして、張学良軍(26万人以上)を攻撃した。そして、満州に親日政権樹立を目指して暴走した。

 戦史に詳しければ詳しいほど戦略的常識に囚われて、最終的には日本軍は敗北すると分析し、1万人の関東軍が26万人以上の敵がいる満州を席捲するとは予想していなかった。

 朝鮮軍(任務は、治安の維持の為で、装備は軽装備であった)は、天皇の許可を得ずに、混成第39旅団(約3,000人)を満州へ侵攻させた。

 上海や南京で数十万人による抗日大会が起き、中国全土で数千にものぼる暴動が起き略奪や放火が多発した。

 中国当局は、取り締まるよりむしろ反日運動を煽った。

 イギリスの政府暗号研究所は、日本軍の機密通信を傍受して、関東軍の軍事行動を事前に知っていた。

 西海岸諸州で、日本軍の侵略戦争に対する抗議運動が起き、日系アメリカ人への風当たりが強くなった。

   ・   ・   ・   

 日本外務省は、根も葉もない捏造情報による日本叩き報道がなされていたが、中国人による日本人居留民への犯罪が知れ渡れば自然と落ち着くと高を括って放置した。

 中国側は、日本側が表だって反論をしない事を良い事に激しい宣伝戦を仕掛けて国際世論を味方に付けた。

 アメリカの宣教師達も、アメリカ全土で日本を非難する説教を続けて、アメリカ世論を反日に導いた。

 軍国日本は、日本外務省の情報戦・宣伝戦の無策によって破滅へと追い詰められていった。

   ・   ・   ・   

 満州事変後。アメリカの広告会社の多くが、事変を利用すれば金儲け出来ると踏んで日本大使館に押し寄せ、「契約すれば、日本の主張する正当性を世界に広める」と商談を申し込んだ。

 当時の駐米日本大使出淵勝次は、武士道精神から、何らやましい事がない以上、国際法に則り正々堂々と構えていれば、正しい事は姑息で陰険な謀略的宣伝戦を用いて騒ぎ立てなくとも知れ渡るものと、国際正義を信じ切り情報戦を軽視した。

 「日本は、君らの力を借りて下品な宣伝活動をやらなければならないようないい加減な主張をしていない。正々堂々の外交をやるだけだ」

 昔も今も、日本のエリート外交官僚は、事務能力は優秀ではあるが、それ以外の能力は無きに等しい。

 現代日本の外交官は、事勿れ主義的に波風を立てないように反論せず相手の言う事を唯々諾々と拝受し、その結果として皇室の権威が傷付き国益が損なれ国民が不利益になろうとも意に介さない。

 広告会社は、門前払いをした上に自尊心を踏みにじった軍国日本に憎悪して、先を争って中国大使館に協力を申し込んだ。

 中国大使は、国際世論を味方に付ける絶好のチャンスとして、大歓迎して広告契約を取り交わした。中国寄りの宣伝を依頼する為に、和やかに微笑みながら巨費を投じて得意の大接待を行った。

 陽気なアメリカ人は、葬儀場にいるみたいにジョークもユーモアもいわず笑いもせず無口で厳めしい顔で立ち尽くす無愛想な日本人よりも、明け透けで物事に拘らずよく笑い陽気に浮かれて騒ぐ面白い中国人に好意を抱いた。

 日本人は嫌われ、中国人は好かれた。

 アメリカの広告会社による、中国寄りの報道で国際世論は親中国反日一色となった。

 アメリカの広告会社の大半が、ユダヤ系であった。

 日本外務省のプレゼンテーション能力の完全なる欠如で、国際世論に於ける宣伝広報戦で日本は敗北した。

 情報戦略がなかったのは、戦場で生き死にをかけて戦っていた軍人ではなく、安全な広報でエリート風を吹かせていた官僚であった。

 エリート官僚は、自己の無能無策ぶりを隠蔽する為に失敗の責任を全て軍人に転嫁し、被害者面して我関せずと逃げ隠れして反省するところがなかった。

 この失敗の構図は、現代でも変わるところがない。

 エリート官僚の大半が、隠れマルキストである革新官僚であった。

 国際社会において、自己主張も反論もせず「沈黙する者」は「罪を認めた者」である。

   ・   ・   ・   

 国民党政府は、抗日救国会を設立し、反日市民団体に対して全土で日本人居留民への暴力・強姦事件を示唆した。

 日本大使館は、蒋介石に対して日本人居留民保護を求めたが、国民党政府は誠意を見せる事なく適当にあしらった。

 中国各地の日本領事館は、反日暴動が激しくなって生命の危険が迫っているとして、日本軍が駐留しているより安全な上海や北京など主要都市への避難を決定し、管轄内の日本人居留民に通達した。

 日本人居留民の中で、知り合いの中国人達は危害を加える事なく守ってくれると信じて、家族共に残った。

 中国人暴徒は、居残った日本人居留民を襲い、暴行し、強姦し、略奪した。

 幾人かの日本人居留民は、殺害されたと言われている。

 中国は、日本の様に惻隠の情がないだけに、逃げる相手に対して容赦なく襲いかかって虐殺と略奪を行った。

 中国大陸とは、人の常識や道理が通用しない非情な世界である。

 朝鮮において。軍国日本に協力した方が有利と判断した朝鮮人は、「内鮮一体」を大義とする皇民化推進市民団体を結成した。

 親日派朝鮮人は、日本軍の侵略戦争に協力し、中国人を差別した。

 松井石根「自分が戦線に出ている間に最も感じた事は、朝鮮の人々の皇軍将兵諸君に対する親切であった」

   ・   ・   ・   

 朝日新聞は、軍部が局地戦で戦闘を止めようとしている事に不満を抱き、国民世論を好戦に煽っていた。

   ・   ・   ・   

 9月19日 スターリンは、蒋介石が華北の部隊(100万人以上)に待機命令を出しながら北上しないのは、日本とソ連を戦わせようとしているのではないかと疑った。

 ソ連の極東軍は、約40万人。

 ソ連は、満州事変を国家安全への脅威としたが、日本軍との戦闘を避ける為に極東軍を後方に下げ、中立を守る為に逃げ込んできた張学良軍を中国領に追い返した。

 9月21日 蒋介石は、日本軍の侵略行為を規約第11条に違反するとして国際連盟に訴え、主力部隊を中国共産党撲滅に振り抜けた。

 国際連盟は、中国側の訴えを支持して日本軍に即時停戦を命じ、日本側の一切の弁明を却下した。

 中国全土で、反日暴動が起きた。中国共産党は、中国人暴徒を煽って日本製品を破壊もしくは略奪し、日本人居留民が襲って重軽傷を負わせていた。

 アメリカ共産党は、日本軍が数千人の中国人を大虐殺しているとの捏造記事を流し、国民世論を反日に誘導した。

   ・   ・   ・   

 9月22日 スチムソン国務長官は、反日派急先鋒として、中国で活躍する宣教師やユダヤ人資本家からの情報を得て、対日経済制裁を準備した。

「日本は九ヵ国条約を破り、中国を侵略し領土を広げようとしている。アメリカは、日本の満州占領を承認しない」

 フーバー大統領は、日本との戦争になる恐れがあるとして経済制裁を中止させた。

 スチムソン国務長官は、対日経済制裁計画を国際連盟に持ち込んだ。

 フーバー大統領は、日本が中国を含みアジアの共産主義化を防止し、混乱を沈静化させ秩序を回復する事を表明する限り、その軍事行動はアジアの平和に貢献するものとして容認することを表明した。

 オーストリアのカレルギー伯爵やイギリスのバルフォアら世界的著名人らが日本を擁護したが、しょせん少数派で反日世論を沈静化する事は出来なかった。

 ロックフェラー財閥やユダヤ系国際金融資本は、日本を中国から追放する為に、反日強硬派のルーズベルト大統領候補に接近した。

 共和党のスチムソン国務長官は、ロックフェラー財閥の指示で民主党大統領候補ルーズベルトを支援し、親日的なフーバー大統領の再選を阻んだ。

 ソ連は、日本軍との戦闘を避ける為に、日本軍が兵員輸送に東支鉄道を使用する事を黙認した。

 中国の支配に苦しむモンゴルやチベットなどの民族主義者は、日本軍の快進撃に刺激されて、中国からの独立運動を盛り上げた。

   ・   ・   ・   

 アメリカにおける対日政策は、宥和派と懲罰派で激しく対立した。

 太平洋問題調査会は、反日親中をホワイト・ハウスに提言した。

   ・   ・   ・   

 10月 松本三益は、日本共産党に正式に入党し、沖縄に帰郷して、教職員を集めて沖縄教育労働者組合(OIL)を組織した。

 沖縄教育労働者組合事件。警察当局は、共産主義に傾倒した教師や師範学校生らを多数検挙した。

 松本は、逃亡したが2年後の1933年に逮捕され、37年に出獄したが再び地下活動を行い40年7月に再逮捕された。

   ・   ・   ・   

 11月 中国共産党は、国民党軍の猛攻で各地の拠点を失い支配地を失っていた。国民党を日本軍と戦わせる為に、侵略者から中華民族を救済するを標榜して日本に対して宣戦布告した。

 学生や市民は、侵略者日本との戦いを避け妥協する国民党への不満を爆発さ、各地で各種の反日団体を組織して愛国運動を始めた。

 中国人共産主義者は、北京や南京や上海などで数十万人を動員して抗日救国大会を開いて、「日本人を殺せ!」「日本人を追い出せ!」の大合唱を行った。

 群衆は暴徒化し、国民党本部や政府関係のビルに押しかけて暴れ回った。

 蒋介石は、国際社会に対して治安維持を示す必要から、暴徒の武力鎮圧を命じた。

 地方の各軍閥は、勢力拡大を続ける国民党を疲弊させる為に、蒋介石に対して抗日戦発動を要請した。だが、彼等は、中国共産党同様に、進んで日本軍と戦う気は毛頭なかった。

 中国人共産主義者は、都市部での市民暴動に失敗した為に、地方の都市で貧民や浮浪者や犯罪者を集めて愛国運動を継続し、偶然にもそこに日本人居留民が生活していれば襲った。

 抗日愛国団体は、日本へ資源を売る事に反対する労働運動を組織し、日本製品ボイコットを行い日本製品を見付けるや破壊した。

 毛沢東、瑞金に中華ソビエト共和国を樹立した。

 中国共産党は、中華ソビエト憲法大綱で少数民族の自治権を認めたが、それは謀略であり本心ではなかった。 

 11月24日 国際連盟は、日本軍の自国民保護目的の攻撃的自衛行動を犯罪行為と糾弾した。

 ポーランド、ノルウェー、スペインなどは、中国の訴えを支持して日本軍の即時撤退を要求した。

 加盟国の間で、資源の無い日本に侵略戦争が出来ない様に経済制裁の発動と、抵抗を続ける中国への軍需物資等の支援が可能かの協議を始めた。

 国際連盟は、中立性を捨てて中国に加担した。

 11月25日 国民世論は、満州事変を全面支持していた。

 国民は、満州駐留兵士への慰問金募金活動を行って、10万円(現代の数億円)を軍部に渡した。

 その他に、鉄兜献金や愛国飛行機献金などを行って軍事行動を支援した。

 日本国民は、軍部の暴走を熱狂的に支持すれ反対の声は上げなかった。

 言論統制で戦争反対が言えなかったわけではないし、軍部に騙されていたわけではない。

 当時の日本人が、無能無学にして無見識で自己判断できなかったほどの知能指数の低い障害者ではなかった。

 軍部に騙されていたという日本人がいれば、そうした日本人は思考力も感情も全くない無味乾燥の人間である。

 外国から言われる「軍部に騙されていた可哀想な日本人」とは、日本人は救いようのない最低な人間であると侮蔑し軽蔑する差別用語である。

 現代日本人は、馬鹿にされて喜んでいる。

 当時の日本人は、中国情勢を十分知った上で、満州に於ける日本軍の軍事行動を全面的に支持していた。

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 12月 高橋是清は、金解禁を放棄して、内需拡大として軍備拡大策を採用し、9月18日の満州事変を利用してさらに需要創出政策をさらに進めた。

 軍部と軍需産業は、軍事費増額を求めて政治工作を始めた。

 国費が農村部より都市部に多く投資された為に、都市生活者と農民の間における貧富の格差が広がって行った。

 共産主義者は、尊皇精神の強い貧困農民より、都市の低所得労働者救済に力を入れた。

 12月10日 モスクワのコミンテルンは、偽書「田中奏上文」を発表した。

 台湾の貿易商人蔡知堪が、近衛師団が厳重に警戒する皇居に潜入し、国家最高極秘文書を保管してある秘密の場所から、田中上奏文の日本語原文を中国語に翻訳し、その翻訳本を持ち出したとされている。

 国際社会は、それを信じた。

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 日本は、国際的孤立を恐れた。

 政府組織や軍情報部は、対外宣伝グラフ誌を刊行した。






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「日本文明」の真価―今、世界が注目する (祥伝社黄金文庫)

「日本文明」の真価―今、世界が注目する (祥伝社黄金文庫)

2017-08-29

♫:20─2─世界大恐慌。ファシスト中国とナチス・ドイツの軍事同盟的関係。中国共産党とソ連の対日謀略。霧社事件。1929年〜No.86No.87No.88No.89〜No.90@             

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗

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 軍国日本は、アメリカとの関係を悪化させない為に、人的交流を盛んに行っていた。

 だが。人的交流は、民間であれ、公的なものであれ、国家意思の前では役に立たなかった。

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 世界の経済学者は、ソ連で行われているマルクス主義的計画経済こそが不況対策の唯一の手段と考えた。

 日本に於いても、社会主義的計画経済の書籍が相次いで出版され、政治家、官僚、軍人から右翼に到るまで幅広い層に読まれた。

 流血も正当化する過激な共産主義は弾圧されたが、社会の混乱を鎮めようとする穏健な社会主義は受け入れられた。

 世界各国は、競って統制経済を採用した。

 コミンテルンは、マルクス主義経済が時代の寵児となって持てはやされや、各国のエリートを労働運動の闘士にするべくスカウトして洗脳を始めた。

 労働組合は、賃金値上げや労働環境改善といった現場の労働者の権利を守り、安定した生活を確保する為の組合であって、共産主義集団ではなかった。

 労働者にとって、働いて賃金の稼いで家族が生活できれば幸せなのであって、資本主義であろうと、共産主義であろうと、そんな事はどうでも良かったのである。

 満鉄は、日本石油の協力を得て、石油を求めて満州の各地で地質調査を行っていた。

   ・   ・   ・   

 1929年 コミンテルンと中国共産党は、日本軍が中国を征服し、日本と天皇が全世界の支配しようとしている証拠として、「田中メモランダム」を公表した。

 国際的反日報道機関は田中メモランダムを真実として伝え、各国の反日市民団体は抗議運動を起こした。

 「田中メモランダム」は、中国共産党が日中戦争を起こす為の創作であり、偽物である事は周知の事実であった。

 日本共産党は、天皇制度打倒の為に反軍反戦活動として、華族と軍人に支持者を広るべくパンフレット攻勢を強めた。

 警察当局と憲兵隊は、共産主義活動を取り締まった。この年の摘発件数は、全国で約400件であった。

 昭和天皇は、国家元首として、自分の事よりも日本国家の将来を考え、日本民族が国際社会に受け入れられる様に心懸けた。

 カリフォルニア州議会は、排日移民法の内容を一切変更しないとの決議を圧倒的多数で可決した。

 労働不足をアジア人で補おうとする企業家達は、東洋人移民受け入れの緩和を求める運動を起こした。

 日本人移民は、日系アメリカ人市民同盟(JACL)を結成した。

 日系アメリカ人市民同盟は、移住者が模範的な善良なアメリカ市民になる様に啓蒙活動を行い、アメリカ生まれの二世が日本国籍を離脱できる様に助言をし、日本政府にも国籍離脱条件の緩和を要請した。

 日本政府は、日系アメリカ人の事情を考慮して、1916年頃から父系血統主義に基ずく国籍法を修正し、手続き簡素化を図った。

 日系アメリカ人は、日本人移民排斥の問題となっていた二重国籍問題を解決させる為に、アメリカの出生地主義に基づいてアメリカ国籍を取得した。

 アメリカ布教を行う仏教会は、表だった宗教活動を行う事はアメリカ人の敵意を買うだけであるとして、日系人社会内での活動にとどめた。

 だが、日系アメリカ人の多くは、経典の言葉が分からず、仏教儀式が持つの陰気な雰囲気を嫌った。

 神道が、アメリカに信者を拡大する為に進出する事はなかった。

 日本の国外に於ける宗教問題は、仏教であって神道ではなかった。

 仏教は信仰としての信徒を持っていたが、神道は信仰としての信者を持っていなかった。

   ・   ・   ・   

 中国国民党政府も外務省宣伝広報局は、プロパガンダ戦に長けた英米の世界規模の報道機関と契約し、多額の宣伝費を提供した。

 外国人の記者やカメラマン達は、中国軍の協力を得て、反日の為にデマを捏造して虚偽報道を行った。

 ドイツ帝国と関係があったユダヤ系国際報道機関は、反日であった。

 日本軍が虐殺を行っているという作られたプロパガンダが、真実として世界中に流された。

 日本を弁護してくれる、味方してくれる、報道機関は世界にひとつも無かった。

 軍国日本は、宣伝戦と情報戦に負けた。

   ・   ・   ・   

 コミンテルンは、中国と満州に於いてインテリジェンス・ネットワークを張り巡らすべく、工作員としてロシア人47名、中国人183名を送り込んでいた。

 中国における共産主義革命を起こすべく、ロシア人250人、中国人600人、朝鮮人200人を送り、中国共産党と日本共産党を指導しようとの陰謀をめぐらしていた。

 コミンテルンは、中国本部を上海共同租界に置き、活動資金として1万5,000ドルを送金していた。

 汎太平洋労働組合事務局(PPTUS)も、アジア本部を上海に置いて活動していた。

 ソ連軍情報部(GRU)は、スペイン内紛に情報将校の多くを派遣し、中国に力を入れるのは30年代中頃からであった。

 軍情報部は、ハルビンのオットー・グレンベルクグループと上海のゾルゲ・グループとフレーリッフグループの三つの工作チームを使って情報収集を行っていた。

 ゾルゲグループは、朝日新聞記者尾崎秀実やアグネス・スメドレー等を使って、日本や中国の機密情報を得ていた。

 グレンベルクグループは、張学良に接近し、金と女で味方に引き込み、中国共産党との仲立ちを行っていた。同様の手口で、日本軍奉天独立守備隊の数人の日本人将校を籠絡していた。

 ソ連情報機関は、国民党南京政権に派遣されているドイツ外交使節団及び軍事顧問団の情報を集めて、如何にして日本と中国を全面戦争に引き込みかを計画していた。

 陳立夫「日本と中国が戦うのを望む、ドイツとフランスが戦うのを望む、それがソ連の戦略だったのです。したがってソ連は中国の学生を扇動する一方、日本の軍人に覇を唱える事を求めたのです」

   ・   ・   ・   

 3月4日 日本に理解を示すフーバーが、大統領に就任した。

 だが。フーバー大統領が、国務長官に指名したのは対日強硬派のスチムソンであった。

 春 ナチス主要幹部ヘリマン・クーベル中佐は、死亡したバウアー団長の後任としてドイツ軍事顧問団長に就任した。

 4月18日 昭和天皇は、駐日アメリカ大使キヤッスルと面会し、関東大震災におけるアメリカの素早い震災支援に感謝を延べた。

 9月〜30年7月までの間に、各国の大使や高級軍人ら延べ31組と、忙しい政務の間をぬって積極的に面会した。

 昭和天皇「アメリカの援助によるところ多く、比較的早く完成せられたるは悦ばしく存じおれり」

 アメリカは、震災による日本の奇跡的な復興は、日本人の不屈の信念と諦めない努力で有り、多に類例のない伝統文化に裏打ちされた民族の叡智であると讃えた。

 キヤッスル「アメリカは当初にいささか援助したのみ、その後は日本固有の力と日本人の驚くべき想像力によって完成された」

 昭和天皇は、アメリカ・イギリスと協力して世界平和を建設するべく、軍部が不満を持つロンドン軍縮条約締結を承認した。

 昭和天皇は、国家元首として、日本の平和的繁栄及び安定的発展と日本国民の安寧を願って、日本が不利になる事を承知で各軍縮条約の成立を悦んだ。

 昭和天皇は、日本が戦争を行う事には反対であり、日本国民が戦火に巻き込まれて戦病死する事にも反対であった。

 昭和天皇は、誰よりも、強く平和を切望していた。

 7月〜12月 中ソ国境紛争。ソ連軍特別極東軍ヴァシーリー・ブリュヘル将軍、3万〜8万人。被害、戦死281人、戦傷 729人。

 中国国民革命軍(満州軍閥軍)張学良、約10万人。戦死・行方不明3,500人。戦傷2,200人、捕虜6,900〜9,500人。

 ソ連軍は、ハルピンを拠点とする中東鉄道を接収する為に、不戦条約に従い「自衛戦争」を宣言して南満州を侵略した。

 ソ連軍爆撃機は、東アジアで初めての都市に対する大規模爆撃を行い、多くの民間人を殺傷した。

 中国共産党は、10月末にソ連軍の侵攻と示し合わせ広東省の海豊・陸豊方面で行動を開始した。

 10月24日 世界大恐慌。

 東部諸州の都市労働者や南部諸州の農業労働者は、仕事を求めてカリフォルニア州などを目指して移動した。

 西部諸州は、これまで文化度の低い僻地として馬鹿にされてきた恨みから、失業者として移り住んできた白人達を軽蔑して差別した。

 新たに移住してきた白人は、低賃金労働者としてスラム街に住む事を余儀なくされた。

 彼等にとって、白人至上主義で生きてきただけに、町の中でクリーニング店や食堂を営んで成功して安定した生活している日系アメリカ人がしゃくに障った。

 環境の悪い郊外に住む事を余儀なくされた貧困家族は、豊かな農地を持って裕福に生活している日系アメリカ人達が憎くてたまらなかった。

 日系アメリカ人は、自分達が得意とする分野や職種に特化し、アメリカ人や中国人と競合して摩擦を起こさないように細心の注意を払い、なるべく他人に依存しない自給自足に心がけた。

 日本が古代から心掛けてきた伝統的経済体制は、他国に依存しない、自己完結の自給自足体制であった。

 それが、後の日本を中心とした大東亜共栄圏構想である。

 だが。それが経済摩擦の原因となり、戦争を引き起こした。

 こうして、貧しい下層階級の白人による日系アメリカ人に対する新たな人種差別が始まった。

 排日運動のほとんどが、西海岸諸州、特にカリフォルニアを震源地として起きている。

 日本バッシングを強力に支援しているのが、人種差別意識の強い南部諸州であった。

 日本には、味方となり支援してくれる国家も民族の少なく、国際的に「孤独」と言っていいほどである。

   ・   ・   ・

 1929年 日本は、国策会社・日本航空輸送を設立し、主要都市を結ぶ航空網を整備した。この後、民間の航空会社が誕生して営業を始めた。

 民間会社である以上は、操縦士も軍人ではなく民間人である必要があった。

 逓信省は、陸海軍航空隊とは別組織として、民間操縦士10万人を目標に仙台、七尾、米子に操縦士養成所を開設した。

 純民間を目標とした為に、女性の希望者も現れた。

 日本の航空路線は、日本を中心に朝鮮や日本軍支配地の中国各地に広がった。

   ・   ・   ・   

 1930年代。空は、欧米資本の航空会社が支配していた。

 国際航空路は、欧米の航空会社以外は飛ぶ事ができなかった。

 航空機は、白人支配の象徴とされ、パイロットも白人以外にはなれなかった。

 白人国家以外で、純然なる民族航空会社を持ち、白人以外で飛行機を飛ばしていたのは、日本だけであった。 

 欧米の航空会社は、機内サービスとして食事や酒を出していたために、乗り物酔いになる乗客が続出した。

 飛行機は、男性エリートの職場という認識が強かった。乗客の排泄物処理が多くなるや、男性パーサーはその作業を嫌った。

 ボーイング社は、女性を乗務員とするわけには行かず、やむなく看護婦を乗務させた。

 1931年 日本の民間航空会社は、世界で最初に普通の女性をスチュワーデスとして採用した。

 日本人女性の社会進出は、儒教価値観の中国より盛んであり、キリスト教価値観の欧米に劣る事はなかった。

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 日本人は知的好奇心が旺盛で、日本国内でスタンダードの『赤と黒』の文庫本が10万部以上売れた。

 それ以外でも。一般の日本人は、世界的名作小説を好んで読んでいた。

   ・   ・   ・   

 1930〜32年 西北大飢饉。軍国日本は、約1,000万人の餓死者を出している飢饉を放置する事は極東アジアを混乱させ新たな動乱の元となり、関東大震災時の支援に対する恩返しとして、被災地の状況を調べる為の調査団と数千万人の飢餓民・流民を救う為の救援隊を急派した。

 軍国日本は、中国を侵略して領土を広げるのではなく、ソ連・共産主義勢力からアジアを防衛する為に日中親善と同盟を希望していた。

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 1930年頃から、皇国史観による「天皇は神である」という現人神教育運動が強化された。この時から、天皇は神聖にして侵すべからざる「神」となったのである。それ以前は、天皇は尊い存在ではあっても神とはされていなかった。

 日本共産党は、コミンテルンの指導による暴力的革命を計画したが失敗した。警察当局は、多くの左翼・左派のマルクス主義者を逮捕した。

 マルクス主義者は、転向を誓い、内閣調査局や軍部の事務員、満鉄などの国策会社に就職した。

 満州の総人口は、約3,000万人。中国人(漢族)は、1923年から30年までの移住者は570万人以上で、45年までに2,000万人以上が移住した。

 中国人は、非中国人入植者から利権を回収する為に、全満州で暴力的な排斥運動を始めた。

 朝鮮人入植者は、27年末で80万人以上であり、さらに増加して地元農民から暴力的に農地を奪った。農地の簒奪は、日本人の陰謀とされた。

 約26万人の日本人居留民は、自衛の為に武装した朝鮮人移住者とは違って、自己主張ができないだけに無防備に放置されていた。

 日本の満州農民入植計画は、故郷の小規模農地にしがみついた零細農家の非協力で、希望者が集まらずに失敗した。

 国策として半強制的に募集しても、農民は国外に出る事を嫌って参加しようとはしなかった。

 集約的重労働で農地を切り開いてきた農民にとって、如何に豊かであっても他人の農地を奪う事には罪悪感を持っていた。

 もう一つの重工業振興政策は、国外に雄飛しようとする都市の下層階層の一旗揚げ組を大量に惹き付けた。地元民との問題を起こしたのは、貧しい都市出身者であった。

 彼等は、社会格差で虐げられてきた恨みがあるだけに、人種的差別意識が病的に強く、他人の痛みには同情せずせせら笑った。

 地元住民と農地をめげる流血事件を起こしていたのは、朝鮮人入植者と日本人で都市出身の土地投資家であった。一番の被害を被ったのが、国策で不毛な僻地に入植させられた日本人農業移民者であった。

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 1930年頃 毛沢東は、欧米の世論を味方にする為のプロパガンダ工作として、アグネス・スメドレーら著名なジャーナリストらを利用した。

 1930年初頭 アメリカに住む日本人は約13万8,000人であり、約半分が一世の移民であった。

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 アルベール・カミュ「明日もない。希望もない。神もない」

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 1930年 浜口内閣は、デフレ政策として金本位体制に復帰する為に金輸出解禁を断行し、同時に緊縮財政として海軍軍縮を行った。

 円高と物価下落を目的として通貨供給量の収縮を行い、国際競争力を回復させて景気浮揚を図ろうとした。

 国際的農産物価格の下落により、日本国内の米や繭玉の価格が半値に下落し、生産量を増やせば価格を暴落させるだけであった。

 国際市場の縮小によって、日本の絹・綿製品の輸出量は減少した。

 欧米列強が国内産業を守る為の保護政策をとりブロック経済に進む事によって、日本の輸出産業は打撃を被った。

 日本の主要輸出品が生糸であった為に、繭玉生産で現金収入を得ていた養蚕地帯の農村経済は破綻した。

 松本三益は、東京の沖縄県人を集めて日曜会を結成した。

 スチムソン国務長官は、議会でロンドン軍縮会議報告を行った。

 「本会議でアメリカが目指した事は、アメリカ海軍が日本海軍力に勝る様に製艦計画を完成するまでの8年間、日本の現勢力をそのままにしておく事であった」

 アメリカは、太平洋における日本海軍勢力を封じ込めに満足し、次に中国大陸から日本陸軍を追い出すべく蒋介石の南京政府に接近した。

 蒋介石は、共産主義撲滅の為に掃討戦を開始した。

 中原大戦。蒋介石は、張学良が寝返ったお陰で反蒋介石派軍閥連合軍を撃破した。

 橋本欣五郎は、陸軍エリート将校を集めて桜会を結成し、一部の同志と軍人官僚中心とした新国家建設の密議を重ねた。

 アメリカは、不況対策として、国内産業の保護の為に関税を引き上げ輸入を収縮させた。

 日本産業は、アメリカへの輸出で外貨を稼いだ為に、アメリカの保護政策で国内不況が悪化した。

 日本の主力輸出産業であった生糸は、新たに開発された安価なレーヨンによって壊滅的打撃を受けた。

 8月 ゲオルグ・ヴェッツェル中将が、第三代ドイツ軍事顧問団長に就任し、中国軍指揮官にドイツ軍式戦略戦術論を講義した。

 ドイツ軍人は、日本軍との戦いを想定して、中国軍の第87師と第88師にドイツ軍式の軍事教練を施した。

 蒋介石は、軍閥や中国共産党との戦いの際も、ドイツ軍事顧問団に助言を求めながら軍隊を指揮した。

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 10月(〜12月) 霧社事件。日本人の台湾人差別が原因で起きた惨劇。

 台湾住民は、日本人学校の運動会を襲撃し、校庭にいた学童や父兄を襲撃して虐殺した。

 日本人学童も殺害され、首が切断されていた。

 見るも酷たらしく殺害されたのは、武器を持たない一般人であった。

 現代日本の歴史教科書は、軍国日本の正当防衛を否定し、植民地支配していた軍国日本に責任があると教えている。そして、反日蜂起を正義であると讃えている。

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 11月 浜口雄幸首相は、ロンドン軍縮条約に反対する右翼に狙撃され、翌年に死亡した。



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日本文明と近代西洋 「鎖国」再考 (NHKブックス)

日本文明と近代西洋 「鎖国」再考 (NHKブックス)

2017-08-27

♫:20─1─「統帥権」。ファシスト中国の「革命外交」。コミンテルンの天皇制度打倒指令「27年テーゼ」。〜No.83No.84No.85@    

統帥綱領

統帥綱領

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 高坂正堯『国際政治 恐怖と希望』

 国家とは、力の体系、利益の体系、価値の体系の複合体である。

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 歴史は、現実に起きる諸条件及び諸要素が全く異なる為に、同じ事を繰り返す事はない。

 歴史を教訓として学とすれば、それは平和学ではなく戦争学である。

 地政学と軍事学を伴わない歴史教育は、無意味ある。

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 軍部と軍国主義者が、好戦的な一般国民の後押しを得て、統帥権を悪用して暴走した。

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 日本人の思考と行動は、短期的戦術若しくは中期的戦略でであって、長期的戦略はない。

 起きてもいない事や何もない所を想像して、求める結果を想定して計画し準備し、て、作戦を立て行動する事が苦手である。

 何かが起き、甚大な被害が出てからでないと行動できないのが、日本人である。

 日本人の行動は、「後悔先に立たず」で大半が後手である。

 欧米や中国は内なる衝動で変化を起こすが、日本は外からの強打があって初めて動く。

 日本人は、玉突きの玉で、玉が当てられてからようやく動く。

 外から強打され、恐怖してパニックを起こす。

 日本は、蜂の巣である。

 日本人は、蜂である。

 蜂は、巣が刺激されないと防御的行動を起こさないが、巣が刺激されると巣を守る為に飛び回る。

 日本人は、防御的蜂蜜か熊蜂であって、攻撃的雀蜂ではない。

 蜜蜂や熊蜂は、雀蜂のように別の蜂の巣を攻撃はしない。

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 ロシアの侵略が、明治維新と日露戦争を引き起こした。

 清国(中国)・朝鮮連合の脅威が、日清戦争と日韓併合を引き起こした。

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 軍部は、戦争を回避する為に日本人居留民を見捨てた消極的平和主義の政府に激怒した。

   ・   ・   ・   

 軍部は、政府が第1回南京事件と漢口暴行強姦事件で日本人居留民を現地保護せず見殺しにした事を教訓として、政府に変わって日本人居留民を保護する為に、統帥権を政府や議会から独立させた。

 軍国主義者は、統帥権を拡大解釈した。

 軍部は、統帥権を悪用して暴走した。

   ・   ・   ・   

 政府が、日本人居留民を現地保護する為に、中国と戦争を覚悟して集団的自衛権を発動して中国派兵を命じていれば、統帥権の暴走を食い止められたかもしれない。

   ・   ・   ・   

 軍人は、立案した作戦を淡々と実行し、成功すれば生還して、失敗したら戦死した。

   ・   ・   ・   

 陸軍参謀本部は、山県有朋の主導で『統帥論考』を作成した。

 統帥権とは、国家権力たる三権、行政権(政府)、立法権(議会)、司法権(裁判所)からの制約を受けず、完全に独立している。

 政府の政策、議会の議決、国民世論の批判に影響もされない。

 さらには、大元帥・天皇の意思さえも無視した。

   ・   ・   ・   

 昭和天皇「立憲主義に固執しすぎた事が、このような事態を招いたともいえる。陛下にはいま少し号令を発して欲しかったという声も聞いたが、私としては立憲主義を尊重してそうはできなかった。いまにして思えば、残念な事をした」、

   ・   ・   ・   

 『司馬法』「国 大なりといへども、戦いを好めば、必ず滅ぶ。天下 平らかといえども、戦いを忘れなば、必ず危うし」

   ・   ・   ・   

 参謀本部は、「最高の機密、門外不出の書」である昭和3年に『統帥綱領』、昭和7年に『統帥参考』を作成し、陸軍大学を卒業して参謀本部の統帥部に配属されるエリート軍人官僚のみに閲覧を認めた。 

 日本帝国軍人は、政治家、官僚・役人、財界人、左翼の学者・知識人・運動家らが、対中協調路線で、天皇の名誉、国家の体面、国民の生命財産、国外の権益を、中国への思いやりや配慮で譲歩して見捨てるというのであれば、統帥機関として責任から武力を持って守ろうと決意した。

 明治憲法(大日本帝国憲法)は、植民地戦争を是認する帝国主義憲法ではなく、五箇条の御誓文による日本式民主主義を基礎に編纂された近代憲法である。

 近代法理思想を忠実に遵守する、三権分立の理想的な憲法である。

 統帥権は、国家存立の三権には入らないが、政治的独裁者や深慮分別ない政治家に私的に乱用され私欲・個人欲の追求に軍隊を悪用されない為に、政府や議会から切り離して天皇の大権として独立させた。

 日本人は、「人は、善人ばかりでなく悪人もいる」事を実感と知っていたがゆえに、軍事権・統帥権を私的に使わない天皇に預けた。

 天皇も判断を誤って道を間違える事があり、天皇を悪用する偽善者が現れる事を知っていたが故に、天皇を神聖不可侵の存在とすると当時に天皇の権限を憲法で縛った。

 伊藤博文らは、天皇を利用して幕府を倒した自己の経験を学んで明治憲法を編纂した。

 だが、明治期と昭和前期の国際情勢、特に中国をめぐるアジア情勢は激変して、明治憲法では対応できなくなっていた。

 中国の内戦から発生した弱肉強食の無法地帯的混乱に対して、「相手の立場に配慮して一歩下がって譲歩する」という日本人の謙虚では対応できなくなっていた。

 だが、政府や議会が時代遅れとなった中国への配慮外交で日本人居留民が犠牲になり、虐殺事件再発防止を平和的な話し合いで勝ち取ろうとする無能な政治家や官僚を目の当たりにした時、軍部は国権を侵害しようとも超法規的に行動するしかなかった。

 『統帥参考』「統帥権。……従て統帥権の行使及結果に関しては、議会に於て責任を負わず。議会は軍の統帥・指揮ならびに之が結果に関し、質問を提起し、弁明を求め、又は之を批評し、論難するの権利を有さず。」

 「統帥と政治。……兵権行使する機関は、軍事上必要なる限度において、直接に国民を統治することを得(う)……軍権の行使する政務に関しては、議会に於いて責任を負わず」

   ・   ・   ・   

 世界平和をもたらすと期待された国際連盟は、幻想であった事がハッキリした。

 軍国日本は、国際連盟に対して過度の期待を抱き、国益を犠牲にし軍縮を受け入れ国際協調と国際貢献を行ったが、悉く裏切られた。

 軍部は、国際協調主義や平和至上主義では国家を守れないと痛感した。

 現実主義を信奉する軍国主義者は、戦争をさせ平和を求めてるという平和至上主義の理想主義は有害であると再自覚した。

   ・   ・   ・   

 日米戦争は、レーニンが発案し、コミンテルンがアメリカ共産党や中国共産党などに示唆した。

   ・   ・   ・   

 1926年(大正15年・昭和元年) 憲政会・第1次若槻内閣の幣原喜重郎外務大臣は、不干渉主義を保持していた。幣原外交。 

 大正末期から昭和の初め、帝大生の3分の1は共産主義統制社会の実現の為には官界や経済界で出世するべきだと真剣に考えるマルクス主義者で、同じ3分の1がマルクス主義者ではないが社会全般の統制は必要だと考え協力した。

   ・   ・   ・   

 1927年 ファシスト中国、中国共産党、満州軍閥は、民族主義を煽り、満州各地で大規模な排日暴動を起こし、数多くの日本人居留民を襲い暴行を加え、強姦し虐殺した。

 3月24日 第1回南京事件。中国人共産主義者と南京の市民と学生は、暴徒となって日本人居留民達を襲い暴行し強姦し殺害した。

 4月3日 漢口事件。

 反日派中国人達は、地方の日本人入植者や奉天などの日本人住民を組織的に襲撃し、中国人官憲は取り締まるどころか支援していた。

 満州の日本人居留民は、中国本土同様に被害を受け、数多くの死傷者を出していた。

 コミンテルンの日本共産党に対する27年テーゼ「日本問題に関する決議」を作成した。

 日本共産党が、統一戦線政府を樹立する為に主導権を握る必要があった。

 「多種多様な階級的諸組織の全てが、その政治的頭部組織たる共産党の指揮下に立たねばならない」

 反天皇反日的日本人は、日本で暴力的共産主義革命を起こすべく暗躍し始めた。

 エリート官僚やエリート軍人官僚の中に、マルクス主義が浸透していた。

   ・   ・   ・   

 統帥権を悪用したには、軍人ではなく政治家であった。

 政治家は、政権与党から政権を奪う為に、統帥権を悪用して政府を批判し、内閣を総辞職に追い込んだ。

 日本の政治家や官僚・役人は、自分の立身出世の為に政局を弄び、アメリカやイギリスのような高度な政治能力と狡知な外交交渉術や卓越した経済政策力を持つ事ができなかった。

 日本の悲劇は、軍部の暴走ではなく、政治家や官僚・役人が成熟するどころか稚拙に安穏とし為である。

 軍人は、軍事予算の増額を威圧的に要求したが、政治に干渉する気はなかった。

 政治家が、首相や大臣の椅子欲しさに軍人を利用し、軍人を政治の場に引きずり出したのである。

 問題は、軍人ではなく政治家である。

 問題の政治家は、責任を他人に転嫁し、義務を地位を悪用して回避し、利権がらみの甘い汁が吸える権利だけを要求する。

 明治から大正、昭和初期から戦中を経て後期、そして平成と、政治家や官僚・役人の質は明らかに劣り、劣化を続けている。

 戦うべき時に戦いを放棄する政治家や官僚・役人が、最も醜悪な存在であり、国家を滅亡に導く。

 それが、第一回南京事件であった。

   ・   ・   ・   

 第二次山東出兵と済南虐殺事件。

   ・   ・   ・    

 統帥権は、個別的自衛権を採用して集団的自衛権を拒否した。

   ・   ・   ・   

 日本政府は、第1回南京事件に際してアメリカとイギリスからの集団的自衛権発動による同時派兵要請を拒否し、個別的自衛権で独自の行動する事を通告した。

 アメリカとイギリスは、日本が共同派兵を拒否した事で、日本は協力してお互いの国民を守る意思はないと判断した。

 軍部としては、政府が集団的自衛権を放棄して個別的自衛権で皇室と国家と国民を守ると決定した以上は、統帥権を個別手自衛権で強化するしかなかった。

 もし。政府が、単独ではなくアメリカやイギリスと連合を組み、自国民を殺傷した中国人暴徒を懲罰として武力で鎮圧していれば、統帥権の強化は必要なかった。

 日本軍が、集団的自衛権でアメリカ軍・イギリス軍と行動を共にしていれば、義和団事件時同様に独自の軍事行動をとる事なく抑制され、それ以降の世界での孤立と中国との戦争は起きなかった。

 日本の悲喜劇は、中国との戦闘を避けるという配慮から、アメリカやイギリスとの協調関係を放棄し、日本は日本で独自に個別的自衛権を発動すると決断した事にある。

 無自覚的に、中国との戦争を避ける為にアメリカやイギリスとの戦争へと舵を切った。

 集団的自衛権による小さな戦争を恐れる余り、個別的自衛権で大きな戦争を引き寄せた。

 統帥権による軍部の暴走を抑制するには、集団的自衛権でアメリカ軍とイギリス軍と連合軍を編成する事であった。

 国家に於いて最も警戒すべき自衛権とは、国家間の協調関係を旨とする集団的自衛権ではなく、自主判断で独自の行動できる個別的自衛権である。

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 革命外交。

 1928年 蒋介石は、第二次北伐を終えて中国統一が実現した。

 国民政府外交部長・王正廷は、「革命外交」という概念を打ち出し、国際法に基づく正式な手続きを無視して一方的に不平等条約無効を宣言した。

 蒋介石は、不平等条約の即時破棄と国際合意・ワシントン条約の無効を宣言した。

 軍国日本に対しては、日清戦争以降の1896年と1904年の条約の無効と国際法による交渉で獲得した諸権利は否認し、投資と犠牲で築いた全ての中国権益を没収すると通告した。

 コミンテルンは、国民党と日本軍を戦わせる為に、中国本土及び満州に於ける日本の権益を全面否定する法令を次々と制定した。

 中国共産党は、各地で抗日運動を暴動に煽り立て、日本人居留民を襲って重軽傷を負わせ、日本人商店を襲撃して略奪と放火を行った。

 幣原喜重郎外相は、国際協調外交を標榜し、中国との戦争を避けるべく、軍部を宥め、日本人居留民に泣き寝入りさせ、中国側に配慮し譲歩して妥協を重ねていた。

 その結果、逆に中国人による抗日暴動は激しさを増し、日本人居留民の被害も増えた。

 日本政府は、中国との戦争を避けるべく、平和を最優先にして中国で生活する日本人居留民の保護を放棄した。

 如何なる原因があろうとも、平和を求め、戦争を否定した。

   ・   ・   ・   

 1929年 ソ連軍は、ハラルに進駐した。

 スターリンは、満州に親ソ傀儡政権を樹立して中国・日本を含む東アジアを共産主義化する為の拠点を築こうとした。

   ・   ・   ・    

 1930年4月 ロンドン条約の成立。日本全権は、若槻礼次郎と財部彪。

 外務省代表団はシャンパンを抜いて祝杯を挙げ、海軍代表団は通夜のように沈み込んで悔し涙を噛みしめた。

 軍部は、国防を蔑ろにして協調外交や軍縮政策を進める政党政府に不満と反発を強めた。

   ・   ・   ・   

 1931年9月18日 満州事変。現地軍の関東軍は、中央の不拡大方針を無視して戦場を満州全体に広げた。

 日本国民は、関東軍を支持した。

 軍部と軍国主義者と一般国民は、一心同体であった。

 加害者の軍国主義者と被害者の一般国民は、有り得ない事である。

 一般国民は、軍国主義者に騙されたのではなく、軍部の日本居留民を現地で保護する大陸政策を積極的に支持していた。

   ・   ・   ・  

 1932年 コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。

 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。

 9月15日夜から16日未明 楊柏堡(ヤンパイプ)事件。

 共匪(共産主義匪賊)と馬賊は、撫順炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人を猟奇的に虐殺した。

 中国人労働者が、襲撃を手引きした。

   ・   ・   ・  

 外交は、耳当たりのいい常識論で相手と話し合って問題を解決する事ではない。

 相手を気持ちを慮って配慮し、自分から一歩下がって譲歩して、懸案事項を棚上げして有耶無耶に妥協を図る事は外交交渉ではない。

 外交とは、密室で行う2国間交渉で暗礁に乗り上げ不調に終わる事を想定し、国際社会で孤立しない為に如何に数多くの第3国を味方に付けるかである。

 軍国日本は、ファシスト中国との2国間交渉で停戦を目指して失敗し、親日的傀儡政権を樹立して内々で日中戦争を解決しようとした。

 反日に凝り固まった中国と、本心で幾ら腹を割って話し合った所で、中国が求める要求の95%近くを正当であるとして受諾しなければ解決できない事は知っていたがゆえに、一歩も引く事ができなかった。

 中国はどんな政治体制に変わったとしても、社会は儒教的価値観による縦社会として不可侵の上下関係のみが支配していた。

 中国が日本に強要したのは、対等関係による平等ではなく、上下関係による服従であった。

 中国の中華思想は、日本、朝鮮、ベトナムなどの周辺諸国・地域に対してはタテ関係として絶対服従を求めるが、アメリカ、ロシア、イギリスなど白人国家にはヨコ関係として友好を求める。

 軍国日本は、日中戦争を局地紛争と限定して中国との2国間交渉で解決しようとした。

 ファシスト中国は、中国の巨大市場と無尽蔵の資源を利用してナチス・ドイツ、ソ連、アメリカ、イギリス、国際連盟を味方に付け、国際世論を利用して軍国日本を追い詰めていった。

 昭和天皇は、日本の窮地を救い戦争の危機を回避する為に、諸外国が反日色を強めた為に国という枠組みを持たないローマ教皇とユダヤ人に働きかけた。

 日本外交の失敗は、中国との2国間交渉の決裂ではなく、中国の赤裸々な惨状と日本が被った深刻な被害を公開して第三国を味方に付けなかった事にある。

 つまり、中国を手出しできない救いがたい窮地まで追い詰めのではなく、中国の気持ちを察し配慮して妥協しようとした「詰めの甘さ」にある。

 日本の外交方針は、明治と大正と昭和前期では正反対になった。

 明治と大正は、植民地にされ奴隷にされない為に、他人の視線を気にせず軍備を増強し、相手を無視して冷徹で非情な現実外交に徹していた。

 それが、日韓併合である。

 それと同時に、人として「平和と人道に対して貢献」するべく、ポーランド人児童やロシア人児童、ロシア人難民やユダヤ人難民を犠牲を出しながら救出した。

 平和と人道に対する貢献をして戦死した日本人将兵は、国家が顕彰する為に靖国神社の祭神として祀った。

 同胞が助けられた事に対して、ポーランドは軍国日本に感謝したが、ロシアとユダヤは逆に日本人軍国主義者を憎んだ。

 昭和に入ってから、他人からいい人と思われたいという八方美人的意識が強くな、平和の為に軍縮を受け、国益を抑えて耐える、温情と配慮による理想外交を進めた。

 対話して相手を理解すれば如何なる問題も解決の一口を見つけ、必ず解決し分かり合えると信じた。

 現実にはそれは幻想で有り得ない事であり、相手の身となって考え、相手の目から自分を見つめると言う事は無意味な事である。

 世界的普遍の常識や共通の価値観を持った者同士なら可能ではあるが、中国人相手には不可能であった。

 軍国日本は、平和を求める理想外交で破滅した。

 ジョン・フォレスター・ダレス「(瀬戸際外交とは)戦争に突入する事なく、ぎりぎりまで相手を追い込む能力は芸術的だ。そして、自ら崖っぷちに行く勇気がなければ、敗者になる」

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 軍部と統帥権

 1932年1月8日 警視庁前桜田門爆弾テロ事件、昭和天皇暗殺失敗(東京義挙)。

 1月28日午後 第一次上海事変。

 4月29日 上海爆弾テロ事件(上海義挙)。

 昭和天皇は、平和を望み、戦争を嫌い、戦争の早期解決を命じていた。

 5月 5・15事件。三上卓海軍中尉らが、首相官邸に乱入して政友会総裁の犬養毅首相を射殺した。

 憲政の常道に従えば、同じ政友会の鈴木喜三郎が首相に就任するはずであったが、昭和天皇は斉藤実海軍大将に首相として組閣する事を命じた。

 憲政の常道である、二大政党制による大正デモクラシーは終焉した。

 国民とマスコミは、企業や富裕層の便宜を図って貧困庶民の救済を行わず賄賂で腐敗した政党政治に嫌気をさしていただけに、政党政治に痛打を与えた三上ら暗殺者を庶民の英雄として助命嘆願運動を行った。

 軍部は、庶民が味方してくれるという現実を目の当たりにして勇気付いた。

 軍部を助長させたのは、庶民であった。

 統帥権の強化を目指す軍部は、陸軍と海軍で主導権争いをしていた。

 宮中内でも、陸軍派と海軍派が昭和天皇を囲い込む為に暗躍していた。

 長洲・山県有朋系で陸軍寄りの中村雄次宮内大臣が辞任し、海軍寄りの薩摩・大久保利通の次男・牧野伸顕が後任の宮内大臣に就いて、勢力図は大きく変わった。

 昭和天皇は、国際派である牧野伸顕と海軍閥の後押しで、国政国益より党利党略で政権与党を目指し財界との癒着で腐敗堕落した政党政治に見切りを付け、天皇親政への舵を切った。

 海軍部内では、国際協調としての海軍軍縮条約をめぐって、海軍省側の条約派と軍令部側の反対派に分かれて揉めていた。

 条約派は次の海戦は航空部隊・空母が主体となると主張し、反対派は諸外国海軍同様に海戦を制するのは大艦巨砲であるとして譲らなかった。

 軍令部は、斉藤実内閣の樹立を歓迎し、長年の念願である、海軍内で海軍省の下位に置かれている地位の向上を目指した。

 軍令部長の伏見宮博恭(ひろやす)元帥は、軍令を軍政から独立させ権限を強化する為に「軍令部条例及び海軍省軍令部業務互渉規定」という規則を改定させ、統帥事項や高級将校の人事権を海軍省から軍令部に移管させた。

 軍令の軍令部は、明治以来、軍政の海軍省の下部組織に組み込まれていたが、この改定で軍令部は独自の秘密行動が可能となった。

   ・   ・   ・   

 1933年 伏見宮部長は、海軍内の最高権力者とし、海軍大臣・大角岑生(みねお)大将に対して海軍省内の条約派将官を追放するように要求した。

 3月 大角海相は、定期人事異動で山梨勝之助大将や堀悌吉中将ら条約派将官を左遷し退役させた。

 海軍は、軍縮路線から軍拡路線に切り替え、アメリカとの建艦競争を再開させた。

 世界の軍事常識である大艦巨砲主義から、空母建艦と航空隊増設を制限した。

   ・   ・   ・   

 陸軍も、皇道派と統制派で激しく主導権争いを繰り返していた。

 統制派は、中央の軍人官僚エリートグループで、近代的な長期持久戦の集団国防主義であった。

 皇道派は、戦闘現場で下士官や兵士達と共に戦う若手将校グループで、伝統的な短期決戦の一国防衛主義であつた。

 1935年 国體明徴問題。天皇機関説。統帥権干犯問題。

 佐々木惣一(京都大学)「之(統帥権)を以て国務大臣輔弼の外に置くとするの説行はるれども、蓋(けだ)し是れ一つ独断たるのみ、何等法上の根拠あるなし」(『日本憲法)

 6月 ヒトラーは、ナチス・ドイツの再軍備を認めた。

 統制派や革新官僚の親ドイツ派は、ナチス・ドイツと対ソ対共産主義勢力に対する提携を模索した。

 皇道派と民族主義者は、日本の国力にあった一国防衛戦からファシズム陣営との数カ国共同戦略は不可として反対した。

 統制派は、国防戦略統一の為に中央から皇道派を一掃し始めた。

 8月 皇道派の相沢三郎中佐は、統制派の軍務局長永田鉄山少将を惨殺した。

 統制派は勢力を弱めるどころか、永田計画に沿って一つに結束した。

   ・   ・   ・   

 1936年2月 2・26事件。昭和天皇は、皇道派の蹶起を叛乱と決めつけ、反乱軍の鎮圧と陸軍内の綱紀粛正を厳命した。

 統制派は、天皇の命令として日露戦争・沙河会戦の英雄・荒木貞夫と真崎甚三郎ら重立った者達を予備役として追放して、陸軍を掌握した。

 そして、皇道派の復権を阻止する為に陸軍大臣及び海軍大臣の軍部大臣現役武官制を復活させた。

 軍部は、軍部大臣現役武官制によって、国政を軍事優先の総力戦に改編するべく政治的発言力を強め内閣を支配した。

 共同謀議として、幾つかの内閣は軍部の要求を達成できずに総辞職に追い込まれた。

   ・   ・   ・   

 共産主義者は、陸軍内に深く浸透し、軍首脳部内にも支持者や同調者がいた。

 憲兵隊は、思想弾圧として軍隊内の共産主義者を探していた。 

 紅い軍人は、陸軍にも海軍にもいた。

 皇族や華族の中にもいて、天皇の身辺にも入り込んでいた。

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 昭和天皇は、最高権力者にして最終決定権者として、日中戦争の終結と対米英蘭戦争の回避に心血を注ぐべく、信用できる人物を首相に任命して組閣を命じた。

 軍部は不都合な情勢や情報及び事実を隠蔽し、首相を恫喝し、昭和天皇に誤った報告を奉答して欺いた。

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 1937年7月7日 盧溝橋事件。中国共産党は、日本軍とファシスト中国(中国国民党)を全面戦争に追いこむべく仕掛けた。

 軍部は対ソ戦略から早期停戦と戦闘不拡大を主張したが、政府と議会は徹底攻撃を譲らなかった。

 国民は、度重なる日本人居留民への暴行・殺人・強姦等の犯罪行為を止めないファシスト中国への怒りから、消極的な軍部の弱腰を非難し、積極的な政府を支持した。

 7月28日 天津暴動。

 7月29日 通州大虐殺事件。

 8月13日 第二次上海事変。日中戦争勃発。

 国民党軍の中の隠れ共産主義者は、スターリンの指示に従って日本軍に先制攻撃を行った。

 戦争を仕掛けたのは、軍国日本軍ではなく中国軍であり、ソ連の指示を受けた中国共産党であった。

 戦争を起こしていたのは共産主義者である。



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統帥権と帝国陸海軍の時代 (平凡社新書)

統帥権と帝国陸海軍の時代 (平凡社新書)

2017-08-26

♫:19─2─戦争ノ抛棄ニ関スル条約(パリ条約、ブリアン=ケロッグ規約)は自己申告の自衛戦争を認めていた。田中義一内閣と張作霖爆殺事件。1928年〜No.81No.82@                      

中高生からの平和憲法Q&A

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 戦争ノ抛棄ニ関スル条約(パリ条約、ブリアン=ケロッグ規約)

 昭和4(1929)年7月25日 条約第1号

 昭和4(1929)年7月24日 発効

 (昭和4年 外務省告示第64号)

 (現代語訳)

 ドイツ国大統領、アメリカ合衆国大統領、ベルギー国皇帝陛下、フランス共和国大統領、グレートブリテン、アイルランド及びグレートブリテン海外領土皇帝インド皇帝陛下、イタリア国皇帝陛下、日本国皇帝陛下、ポーランド共和国大統領、チェコスロヴァキア共和国大統領は、人類の福祉を増進すべきその厳粛な責務を深く感銘し、その人民の間に現存する平和及び友好の関係を永久にする為、国家の政策の手段としての戦争を率直に放棄すべき時期が到来した事を確信し、その相互関係における一切の変更は、平和的手段によってのみ求めるべきである事、又平和的で秩序ある手続きの結果であるべき事、及び今後戦争に訴えて国家の利益を増進しようとする署名国は、本条約の供与する利益を拒否されるべきものである事を確信し、その範例に促され、世界の他の一切の国がこの人道的努力に参加し、かつ、本条約の実施後速やかに加入する事によって、その人民が本条約の規定する恩沢に浴し、これによって国家の政策の手段としての戦争の共同放棄に世界の文明諸国を結合することを希望し、此処に条約を締結する事にし、この為に、左のようにその全権委員を任命した。

 ドイツ国大統領

 外務大臣 ドクトル グスタフ ストレーゼマン

 アメリカ合衆国大統領

 国務長官 フランク B ケロッグ

 ベルギー国皇帝陛下

 外務大臣兼国務大臣 ポール イーマンス

 フランス共和国大統領

 外務大臣 アリスティード ブリアン

 グレートブリテン、アイルランド及びグレートブリテン海外領土皇帝インド皇帝陛下

グレートブリテン及び北部アイルランド並に国際連盟の個々の連盟国でない英帝国の一切の部分

 ランカスター公領尚書外務大臣代理 ロード クッシェンダン

 カナダ

 総理大臣兼外務大臣 ウイリアム ライオン マッケンジー キング

 オーストラリア連邦

 連邦内閣員 アレグザンダー ジョン マックラックラン

 ニュージーランド

 グレートブリテン駐在ニュージーランド高級委員 サー クリストファー ジェームス パール

 南アフリカ連邦

 グレートブリテン駐在南アフリカ連邦高級委員 ヤコブス ステファヌス スミット

 アイルランド自由国

 内閣議長 ウイリアム トーマス コスグレーヴ

 インド

 ランカスター公領尚書外務大臣代理 ロード クッシェンダン

 イタリア皇帝陛下

 フランス国駐剳イタリア国特命全権大使 伯爵 ガエタノ マンゾニ

 日本国皇帝陛下

 枢密顧問官 伯爵 内田康哉

 ポーランド共和国大統領

 外務大臣 アー ザレスキー

 チェコスロヴァキア共和国大統領

 外務大臣 ドクトル エドゥアルド ベネシュ

 よって、各全権委員は、互いにその全権委任状を示し、これが良好妥当あること認めた後、左の諸条を協定した。

 第一条

 締約国は、国際紛争解決の為、戦争に訴えない事とし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄する事を、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。

 第二条

 締約国は、相互間に起こる一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因がどのようなものであっても、平和的手段以外にその処理又は解決を求めない事を約束する。

 第三条

 1 本条約は、前文に掲げられた締約国により、各自の憲法上の用件に従って批准され、かつ、各国の批准書が全てワシントンおいてに寄託せられた後、直ちに締約国間に実施される。

 2 本条約は、前項の定めにより実施されるときは、世界の他の一切の国の加入の為、必要な間開き置かれる。一国の加入を証明する各文書はワシントンに寄託され、本条約は、右の寄託の時より直ちに当該加入国と本条約の他の当事国との間に実施される。

 3 アメリカ合衆国政府は、前文に掲げられた各国政府、及び実施後本条約に加入する各国政府に対し、本条約及び一切の批准書又は加入書の認証謄本を交付する義務を有する。 アメリカ合衆国政府は、各批准書又は加入書が同国政府に寄託されたときは、直ちに右の諸国政府に電報によって通告する義務を有する。

 右の証拠として、各全権委員は、フランス語及び英語によって作成され、両本文共に同等の効力を有する本条約に署名調印した。

 1928年8月28日、パリにおいて作成する。

(全権委員署名 省略)

 宣言

(昭和4年6月27日)

 帝国政府は、1928年2月27日パリにおいて署名される、戦争抛棄に関する条約第一条中の「其の各自の人民の名に於いて」という字句は、帝国憲法の条文により、日本国に限り適用されないものと了解する事を宣言する。

   ・   ・    ・   

 戦争放棄を定めた第九条の日本国憲法の原型とされる、国際条約。

 戦争放棄の精神は、日本国憲法だけではなく、スペイン1931年憲法第六条、フィリピン1935年憲法第二条三項、そして国連憲章第二条にも受け継がれた。

 戦争放棄を謳った憲法は、珍しい憲法ではなかったし、ノーベル賞平和賞候補に取り上げられるほどの事でもなかった。

   ・   ・   ・   

 自衛戦争を認めた付帯条項。

   ・   ・   ・   

 1927年3月24日 第一回南京事件。日本人虐殺事件。

 4月3日 漢口事件。日本人暴行事件。

 中国人暴徒による日本人居留民暴行事件が頻発した。

 4月6日 フランスのアリスティド・ブルアン外相は、アメリカに対し2国間の不戦条約締結を呼びかけた。

 アメリカのフランク・ケロッグ国務長官は、米仏の2国間に限った条約ではなく、日英独伊を加えた6大強国による多辺的国際条約にする事を提案した。

   ・   ・   ・   

 1928年2月 普通選挙による総選挙で、政友会は1議席の差で民政党を凌いで第一党となった。

 中国では、国民選挙が行われていなかった。

 6月 蒋介石は、不平等条約破棄を宣言し、軍国日本に対して日清戦争以降の1896年と1904年の条約の無効を通告し、日本が所有する中国権益を没収しようとした。

 中国の政治的安定や経済再建を目的として締結されたワシントン条約を廃棄した。

 6月4日 張作霖爆殺事件。

 6月23日 ケロッグ国務長官は、国内の保守派の猛反対を受けて付帯条項を日本を含む関係各国に送達した。

 「各国は如何なる場合においても、条約規定とは関係なく、自国の領域を攻撃または侵入から防衛する自由を有し、かつ自国のみが、事態が自衛のため戦争に訴える事を必要とするか否かにつき決定する権限を有する」

 侵略戦争は認められないが、自衛戦争は認められていた。

 自衛戦争である事を認めるのは戦争を行う国であって、攻められる国ではないし、第三国や国際機関でもなかった。

 自衛戦争は、自国内に侵略してきた敵軍に対してのみではなく、敵国内に取り残され敵国人によって生命の危険にさらされている自国民を救う事も含まれる。

 そして。経済制裁である資産凍結や禁輸措置は侵略行為とし、経済制裁に対する自衛戦争は正当であると認めた。

 だが、軍国日本には認められなかった。

 8月27日 各国全権は、パリで集まり協議して不戦条約に署名した。

 田中義一首相兼外相は、国際協調から、同条約原案をそのまま受け入れて承認した。

 昭和天皇も、世界平和への貢献になるとして、明治憲法の天皇の大権事項に従って裁可した。

 9月15日 野党の民政党は、田中内閣打倒の為に不戦条約批准を政局に使って異議を申し立てた。

 9月16日 朝日新聞は、民政党緊急総務会において不戦条約に反対する中村啓次郎総務の主張を掲載した。

 「『人民の名において』国家意思を宣言せるが如き民主的基調の条約をそのまま批准せんとするが如きは絶対我憲法上許すべからざる事である。我等はかくの如き国體の基礎を危うくし天皇の大権を乱さんとする田中内閣の責任を糾弾し我国體及び憲法を擁護せねばならぬ」

 9月17日 田中義一首相は、小川平吉鉄道相と協議して、条文の「人民」は国體に違反しないとして取り合わず静観する事で意見一致した。

 外務省でも、森恪政務次官以下幹部会を開き、ケロッグ国務長官から7月16日に「人の名に於いて」の字句は「人民の為に」と同意義であるとの回答を得ているとして、反対派の難癖を取り合わないという方針を再確認した。

 9月18日 民政党総裁浜口雄幸は、同条約批准に猛反対した。

 「人民主権国と天皇主権の我が国と同様の観念の下に条約を締結することは絶対に許せない……政府、与党は外交問題を政争の具に供するというが、世間はそんな言い掛かりに惑はさるべきものはない」

 条約や勅令の審査権を持つ憲法の番人を自負する枢密院も、「人民の名に於いて」という表現が国體に反して違憲であるとして、批准に反対した。

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 1929年 田中義一首相と外務省は、枢密院の批准反対派への妥協案として、日本の国際的信用を傷付けない範囲で、アメリカに「『其の各自の人民の名に於て』なる字句は帝国憲法の条章なきものと了解する」との留保的宣言を行う事の了承を得る交渉を始めた。

 1月14日 法律学界では、政局として騒がれている不戦条約違憲論に関して、条約原文は問題ないとの大勢が占めていた。

 外務省が訳した「その各自の人民の名に於いて」の「people」は人民というより「普通には君主に対して用いられ用語」であると解釈した。

 だが、「High Contracting Parties」を慣例に従って「締約国」と訳した事を批判した。

 過去の外交史で、外国語の条約文や契約文章が日本語訳されると、その解釈で問題となる事が時折発生していた。

 そして野党勢力は、翻訳文を曲解して政府を打倒する政局に利用した。

 日本議会史とは、国家・国民の為というより、国家・国民を無視した、野党が与党の揚げ足を取り政情を混乱させる政局史である。

 美濃部達吉(東大法学部憲法担当教授)帝国大学新聞「英語の『ピープルス』はこれに反して国家を構成する総ての人々を包括する語で、君主も皇族も一般人民もいやしくも国家を構成する者であれば、その一切を包括してこれを『ピープルス』というのである。……もしこれを日本語に訳すとすれば、『人民』というよりも『国家』という方がむしろ原義に近い」

 「その文言自身には毫も国という意味を含まず、単に締約当事者という意味であって……不戦条約の場合の如く……『ピープルス』の名において何々を宣言することを明記して居る場合に、これを『締約国』と訳すのは不当であって……『締約者は各その国家の名において』と訳すのが正当である。即ちそれは各締約国の皇帝および大統領がその各自の国家、言い換えれば国家を構成する現在及び将来の総ての人々を代表してこれを宣言する旨を明示しているのである」

 もし、発展途上国のように英語若しくは西洋語をグローバル語として公用語に受け入れ、無理してローカル語の民族固有言語に翻訳しなければこうした誤解は生じない。

 国内を完全なグローバル化で統一して、西洋語の条文を、西洋語で読み、西洋語で理解し、西洋語で公布し実行すれば、何ら問題も起きない。

 問題は、日本語への翻訳であった。

 4月 フランスは、条約を批准して、残るは日本だけとなった。

 アメリカは、日本が批准しないと条約が発効しない為に「日本の特別な国内事情」を考慮して、日本の提案を受け入れた。

 4月16日 民政党総務会は、日本の批准問題をアメリカに泣きつく為体に不満が続出し、党見解を全会一致で決めた。

 4月17日 朝日新聞は、民政党の見解を報道した。

 「政府はさきに態々全権を送り調印をした今日その所信をもってすれば原案のまま批准するが当然でもし調印の不当を知って留保するとすればまづ枢府に諮詢した後米国政府その他に交るが順当である。しかるに政府は徒らに他国の鼻息をうかがひその結果によって事を進めようとしているがもし米国政府その他が反対すれば如何にせんとするか」

 6月 原締約国で未批准は日本だけとなり、その間に新規加入国が増えて日本は国際的に苦しい立場に置かれていた。

 民政党は、政権を政友会から奪う為に、田中首相の留保的宣言を条件に付けて解決案とするという妥協策に依然として反対していた。

 日本全権代表として条約をまとめて署名した枢密顧問官・内田康哉(外相経験者)も、条約文を都合よく解釈し、政治的妥協で後付として留保的宣言が加えられた事に反対した。

 6月17日 朝日新聞「日本一国が批准寄託できないためにこの画期的条約が実施せられないので世界51ヶ国がひたすらに日本の批准を待つているというのが現状である」

 枢密院は、条約批准に関する第一回精査委員会を開いた。帝国憲法起草に関わった伊東巳代治が、委員長を務めた。 

 田中義一首相と外相省は、「人民の名に於いて」という字句を含む条約本文は、「国論を統一して帝国の立場を中外に宣明する付帯して」に過ぎず、憲法違反に当たらないとい事で押し切る事に決めた。

 反対派は、政府側を激しく追及した。

 伊東委員長は、このまま条約批准ができないと日本は国際的に孤立する恐れがあるとして、反対派を抑えて政府案を承認するべく調整に入った。

 6月18日 伊東委員長は、枢密顧問官のみで第二回精査委員会を開き、「人民の名に於いて」は憲法違反にあたるが、憲法違反に対して留保的宣言が正式留保であるとの解釈の下で、政府提案通りの条約案を全会一致で承認した。

 外務省は、「政府側で如何なる解釈を下しても、政府が正式に留保なりと認めなければこれは国内の問題であり……批准寄託に際し留保の手段をとる必要なし」との見解を表明した。

 6月20日 民政党総務会は、枢密院が条約案を曖昧解釈で承認したが、同時に憲法違反である事も認めている点を突いて、田中内閣倒閣へと追い込む事を決めた。

 枢密顧問官・内田康哉も、反対を表明して譲らなかった。

 6月21日 朝日新聞は、民政党総務会幹事長の俵孫一の談話を報道した。

 「第56議会においては議員の質問に対し『人民の名において』なる字句は『国家のために』と訳すべきものであると答弁したが枢府に対してはその主張に屈して『人民の名において』と解釈することに決し議会における言明を裏切った、その政治的責任はすこぶる重大である」

 6月25日 田中義一首相兼外相は、内田康哉宅を訪れ、明日、昭和天皇隣席で開かれる枢密院本会議で条約案に賛成してくれるように懇願した。

 内田は、自分の信念で行動するとして拒否した。

 6月26日 昭和天皇は、国際協調、アメリカとの摩擦を極力避ける為に条約案を政府提案通りに可決する事を望んでいた。

 内田康哉は、枢密院本会議で、正論を持って条約批准に反対する演説を行った。

 「本条約案は……何等国體の本義に反する事なく憲法の条章をみだるものに非ざる事を確信し……政府も又自分と同様の見解をとったもので原案のまま御批准を奏請すべきものであるに拘わらず政府は宣言書を付して留保付御批准を奏請するとは何の意味があるか……

 我枢密院においては右『人民の名において』なる字句は憲法違反なり、憲法抵触なるが如き見解をもって本宣言を承認せんとするは自分の絶対に同意し能わざるところである……

 無留保調印をなして置きながら今日におよんで宣言を付し留保付批准を見るにおいては国際上重大なる結果を引起し信を中外に失墜するに至る事を考えなければならぬ」

 決議の結果、内田、科学者・桜井錠二、元海相・八代六郎の三名が反対したが、賛成多数で政府案が可決された。

 内田康哉は、自己の信念という筋を通す為に、全権として条約をまとめ調印した本人でりながら政府案に反対し事を理由として、枢密院議長・倉富勇三郎に辞表を提出した。

 6月27日 朝日新聞「内田伯(伯爵)が引責辞職したのに、内田伯に訓示を与えた首相兼外相が何等の責任がないとして内田伯を見殺しにするなどは常識からいうも妥当でないからとの点に関して世論は一せいに、しかも猛烈に政府を攻撃するととなろう」

 国外的には、不戦条約批准を成立させて信用を保てた。

 国内的には、批准を政局とした民政党など野党陣営は、憲法違反を犯してまで強引に国際協調路線を推し進めた田中義一首相の責任を問い、田中内閣倒閣運動を盛り上げた。

 7月1日 田中義一首相は、満州事件解決の不手際で昭和天皇を煩わせた事を理由にして辞職した。

 陸軍省は、爆殺事件の首謀者と認めた河本大作大佐らを停職にするなどの行政処分を行った。

 軍部の暴走が始まった。

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 済南虐殺事件。

 通州虐殺事件。

 昭和天皇暗殺失敗テロ。

 軍国日本は、被害国家として、中国共産党及びファシスト中国(中国国民党)に対し正当防衛の自衛戦争を宣言し発動した。

 東京裁判は、日本の自衛戦争は戦時国際法違反であり、時効なき戦争犯罪との判決を下した。







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平和憲法の理論

平和憲法の理論

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

2017-08-25

♣:96─1─中国爆撃機6機が紀伊半島沖まで飛来。若者の間に高まる中国・北朝鮮に対する「防衛・安全保障」意識。〜No.559No.560No.561       

 旧題名、「ホロコーストに関して、天皇とA級戦犯に幇助罪が成立するのか?」第3代目

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 

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 安全保障において危機感を抱かない、非暴力無抵抗主義・反戦平和主義・非武装中立主義・話し合い重視の護憲派日本人達。

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 2017年8月24日 産経ニュース「中国爆撃機6機が紀伊半島沖まで飛来 防衛省幹部「特異な動き、注視する」

 紀伊半島沖で飛行が確認された中国軍機(防衛省提供)

 防衛省は24日、中国機のH6爆撃機6機が、沖縄本島と宮古島の間を通過して紀伊半島沖まで飛行し、航空自衛隊の戦闘機が緊急発進(スクランブル)したと発表した。領空侵犯はなかった。

 防衛省統合幕僚監部によると、このルートで中国機の飛行が確認されたのは初めてで、中国側の意図を分析している。

 紀伊半島沖まで飛行した今回の中国軍機の動きについて、防衛省幹部は取材に対し「情報収集か訓練の可能性が高い。国際法違反ではないが、特異な飛行なので引き続き注視する」と述べ、今後も警戒監視に万全を期す考えを示した。

 6機は24日午前、沖縄本島と宮古島の間の公海上空を通過した後、日本列島に沿う形で太平洋を北東に飛行した。紀伊半島沖まで進んだ後、反転して同じルートで東シナ海に戻ったという。」

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 8月25日01:14 産経ニュース「【中国爆撃機・紀伊沖飛行】中国空軍報道官「実戦能力高め、強軍事業を推進する」「頻繁に飛行する」

 【北京=西見由章】中国国防省は24日、中国空軍が同日に遠海(飛行)訓練を実施したと発表した。申進科・空軍報道官は声明で「中国空軍が遠海訓練を常態化させているのは国際法と国際慣例に合致している」と主張。訓練は「実戦能力を高め、強軍事業を推進するものだ」とし、「どのような妨害に遭おうとも、中国空軍はこれまでと少しも変わらない。これからも頻繁に飛行訓練を行う」と主張した。

 防衛省によると、中国のH6爆撃機6機は24日、沖縄本島と宮古島の間を通過して紀伊半島沖まで飛行し、航空自衛隊の戦闘機が緊急発進(スクランブル)した。領空侵犯はなかった。

 防衛省統合幕僚監部によると、このルートで中国機の飛行が確認されたのは初めて。

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 8月25日12:38 産経ニュース「外交ルートで「関心表明」 中国爆撃機の紀伊半島沖進出

 紀伊半島沖で飛行が確認された中国軍機(防衛省提供)

 小野寺五典防衛相は25日午前の記者会見で、中国軍の爆撃機6機が24日に紀伊半島沖まで飛行し、航空自衛隊が緊急発進(スクランブル)で対応したことについて、外交ルートを通じ中国側に飛行目的の照会など関心表明を行ったことを明らかにした。

 小野寺氏は「国際上、問題のある事例ではないが、当然、中国側の意図を今後も分析し、照会していくことは必要だ」と述べた。」

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 8月26日 産経ニュース「【緊迫 朝鮮半島】北ミサイル影響か…「防衛・安保に力を」過去最高 内閣府調査、生活は「満足」「まあ満足」73・9%に

 弾道ミサイルの着弾を想定した訓練で小学校の体育館に逃げ込む住民ら=7月29日、茨城県龍ケ崎市

 内閣府が26日に公表した「国民生活に関する世論調査」によると、現在の生活について過去最高の計73・9%が「満足」または「まあ満足」と回答した。所得など項目別でも満足との答えが増えており、内閣府は景気の緩やかな回復傾向が要因と分析している。一方、政府への要望では、防衛・安全保障面に力を入れるよう求めた人の割合が過去最高となった。弾道ミサイルの発射など、挑発行為を続ける北朝鮮情勢の影響があるとみられる。

 項目別にみると「所得・収入」で満足を感じる人が前年比3・2ポイント増の51・3%に上昇し、21年ぶりに「不満」を上回った。そのほか「資産・貯蓄」(44・4%)、「食生活」(89・3%)、「住生活」(83・3%)、「自己啓発・能力向上」(62・2%)、「レジャー・余暇生活」(62・8%)の満足度がそれぞれ過去最高を記録した。

 政府への要望に関する質問(複数回答)では「医療・年金などの社会保障の整備」を求める人が前年比0・7ポイント増の65・1%と5年連続で最多となった。

 「景気対策」と「高齢社会対策」がそれぞれ51・1%、「雇用・労働問題への対応」が37・3%と続いた。前回7番目だった「防衛・安全保障」は同4・3ポイント増の36・2%となり、全体の5番目にあがった。

 調査は昭和32年度からほぼ毎年実施しており、今年は6月15日から7月2日まで、18歳以上の1万人を対象に行い、6319人から有効回答を得た。

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2017-08-24

♫:19─1─済南虐殺事件。皇族暗殺テロ失敗の台中事件。日本共産党と28テーゼ。コミンテルンと張作霖爆殺事件。1928年〜No.79No.80@         

日本のアジア侵略 (世界史リブレット)

日本のアジア侵略 (世界史リブレット)

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 昔の民族主義者日本人にとって、万世一系の男系天皇とは2600年以上かけて守り継いだ民族の『まごころ』であり、『道徳』であり、『良心』であった。

 そして、「日本神話(天皇神話)」に基づく民族中心宗教の「水と緑と光」を崇め育て慈しむ感性豊かな信仰の対象でもあった。

 『天皇の御稜威』『天皇の大御心』。

 伝統を重んずる真の日本民族日本人(日本国籍者・帰化系日本人)である限りは、命溢れる豊かな日本の自然風土同様に、「民族の命」「民族の魂・霊」であるところの男系天皇・万世一系の皇室を、自分の命を捨て犠牲にしても守ろうとした。

 日本人と言える日本人とは、そういう心穏やかにして「畏怖の念」を抱き、純粋に敬虔な気持ちになりきれる日本人の事である。

 今は亡きかっての日本人(靖国神社の祭神)は、万世一系の男系天皇の為に死地に赴いた。

 『新約聖書』(コリント人への第二の手紙)「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」

 サン・テグジュペリ「たいせつなものはね、目に見えないんだよ」(『星の王子さま』)

   ※   ※   ※

 軍国日本、アメリカ、イギリス、ナチス・ドイツなどは主権を持った正統国家として、憲法で定められた手順に従って国民投票を行い、国家戦略の下で行動していた。

 ソ連や中国共産党は、暴力的手法で世界革命を起こす為の陰険な陰謀を巡らせていた。

 中国国民党は、一度も国民選挙を行わない、自由と民主主義を持たないファシストであった。

 軍国日本は、ファシスト中国と戦っていた。

 中国共産党は、軍国日本とファシスト中国とを戦争させるべく陰謀を巡らせていた。

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 1928年 コミンテルンは、第六回大会で、帝国主義戦争の敗北から内戦を誘発させ共産主義革命を起こすという、敗戦革命路線を採択した。

「帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、

1,自国政府の敗北を助成する事。

2,帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめる事。

3,民主的な方法による正義の平和は到底不可能なるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行する事。

 である。帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめる事は、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する、いわゆる戦争防止運動はこれを拒否しなければならない」

 ソ連は、日本を中国との戦争に誘い込む為に、中国・日本・朝鮮に大量の工作員を送り込んだ。

 国民党は、首都を南京に定め、都市部を中心に勢力を拡大した。支持者は、資本家や地主などの支配層であった。軍閥割拠の内戦で国内は混乱して、日本や欧米の様な民主主義的資本主義的諸政策を実施できる状態ではなかった。再統一するだけの経済力と軍事力を得る為に、一党独裁による国家社会主義政策で恐怖政治を行わざるをえなかった。

 国民党政府は、民主的政府ではなく、ファシスト政府であった。

 中国共産党は、地方の農村部を支配し、共産主義者と秘密結社の構成員が都市部の労働者を組織して暴力的共産主義革命を模索していた。

 瑞金の中華ソビエト共和国臨時政府は、地主対小作人・資本家対労働者という階級闘争から、資本家を殺害して私有財産を貧民に分け与え、地主を殺して農地を小作人に再配分していた。

 毛沢東ら党首脳部には、産業を興して資本を蓄え、農地の生産性を向上させるという発想はなかった。秘密結社が行っているアヘン売買が、貴重な資金源であった。党は、共産主義国家建設を標榜して農民に農作物よりもケシ栽培を奨励し、食べ物が減るとしてケシ栽培を拒否する農家は人民の敵として殺害し、党の方針に従わない村人は全員殺害して財産を没収した。

 コミンテルンは、毛沢東の場当たり的共産主義政策では中国共産党の将来はないとして指導者の地位から引き摺り降ろし、モスクワの指示を忠実に実行する王明らを送り込んだ。

 蒋介石は、北伐を再開した。

 満州軍閥張学良は、アメリカ国内における日本人排斥運動を盛り上がりを、満州から日本資本を追い出す絶好の好機ととらえた。アメリカを満州に引き込む為に、南京の蒋介石と手を組み、日本との約束の多くを無視して陰湿な嫌がらせを行った。

 日本政府は、反日中国人による日本人居留民への犯罪件数が急増したが、国際協調外交で不介入方針をとり、中国側に抗議はするが被害を受けている日本人居留民の救済はしなかった。

 満州在住の日本人は、苦労して築いた資産が中国人に奪われるとの恐怖から、自衛目的の武力行使を嫌う日本政府を当てにせず、関東軍の侵略的軍事出動を頼みとした。

 アメリカは、満州侵略を目指す軍国日本の犯罪行為は9ヵ国条約に違反すると非難した。

 南京政府は、国際社会の反日世論を利用して、9ヵ国条約の規定を自分に有利な様に歪曲して利用し、全土で排日政策を進めて日本資本の経済活動を妨害した。

 中国共産党も、スターリンの指示を受けて反日運動を指導し、各地で日本人居留民への殺人や暴行などの犯罪を引き起こしていた。

 中国は統一された国家ではなく、複数の軍閥が独立した分裂国家であった。

 南京政府も各軍閥政権も中国共産党も、人民に対して日本を攻撃する事で正統性を主張していた。

 経済不況下にある欧米列強は、中国の3億人という巨大市場を手に入れるべく反日運動に手を貸していた。

 日本の孤立は、既に始まっていた。

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 コミンテルンは、中国共産党の広東蜂起(1927年)や上海自治政府樹立(同)を実例とした革命の教本・『武装蜂起』を編纂し、日本共産党など各国の共産主義者に配布した。

   ・   ・   ・   

 蒋介石は、第二次北伐を終えて中国統一が実現した。

 国民政府外交部長・王正廷は、「革命外交」という概念を打ち出し、国際法に基づく正式な手続きを無視して一方的に不平等条約無効を宣言した。

 コミンテルンは、国民党と日本軍を戦わせる為に、中国本土及び満州に於ける日本の権益を全面否定する法令を次々と制定した。

 中国共産党は、各地で抗日運動を暴動に煽り立て、日本人居留民を襲って重軽傷を負わせ、日本人商店を襲撃して略奪と放火を行った。

 幣原喜重郎外相は、国際協調外交を標榜し、中国との戦争を避けるべく、軍部を宥め、日本人居留民に泣き寝入りさせ、中国側に配慮し譲歩して妥協を重ねていた。

 その結果、逆に中国人による抗日暴動は激しさを増し、日本人居留民の被害も増えた。

   ・   ・   ・   

 3月 東條英機は、木曜会の会合で、「満蒙に完全なる政治勢力を確立する」という、満州を中国から分離独立するという計画案を提起して賛同を得た。

 中国の国土は広く多民族が雑居して統一性を欠いている為に、各民族ごとに独立させ主権を持った国家として連邦体制にした方が安定すると考えた。

 漢族の中国。満州人の満州国。モンゴル人の内蒙古国。イスラム教ウイグル人のウイグル国。チベット人のチベット国。その他少数民族の民族国家。

 中国と長い付き合いがある日本は、中国を「多」と認識していた。

 中国との短い付き合いしかない欧米列強は、中国を「単」と認識していた。

 この認識の違いが、日本と欧米列強の対立の原因であった。

 松岡洋右等は、欧米列強に向かって中国の「多」による混乱を説明しようとしたが全て失敗に終わった。

 3月15日 教職員赤化事件。

 国家権力は、天皇制打倒を子供達に教えているマルクス主義の教員に目を光らせ、自由な教育を制限した。

 マルクス主義者は、子供達に世襲の専制君主である天皇は人民を「搾取する悪」であると教え、武器を持ってソ連のように権利を人民の手に奪い返すべきであると訴えた。

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 コミンテルンは、日本の共産主義者に天皇制度廃止のテーゼを発した。

 4月 日本政府は、緊急勅令を発して、天皇制度を破壊しようとする者は死刑に処すと宣言した。

 警察当局は、天皇制度を守る為に共産党員を一斉検挙した。

 徳田球一は、逮捕され、45年の敗戦まで監獄に収監された。

 蒋介石は、第2次北伐を開始した。

 国民党軍は、山東省周辺の北伐軍を攻撃し、張作霖の奉天軍を北京に敗走させた。

 日本軍は、中国の内戦から日本人居留民の保護を目的として第2次山東出兵を行った。

 4月7日 イギリスの諜報機関は、中国人の反英感情を反日感情に転換する為に、中国人共産主義者を利用して反日暴動を煽った。

 中国は、アメリカやイギリスの反日政策を利用し、欧米列強に奪われた自国の権利を回復する為に反日運動を盛り上げた。満州を含む全中国で、日本の貿易的利権全てを奪う為の日本製品ボイコット運動を行った。

 中国人秘密結社や中国人共産主義者は、各地で武器を持たず抵抗しない日本人居留民を襲った。

 4月16日 警察当局は、治安維持法違反容疑で共産党の一斉検挙を行う。

 日本共産党は、国家権力の弾圧で大打撃を受け崩壊した。

 逮捕者は7万人以上で、その大半がマルクス主義を捨てると転向を約束した。

 狂信的レーニン信奉者は、天皇への忠誠を口にして転向を装い、革新派官僚として新体制運動に参加した。

 マルクス主義者日本人の真目的は、天皇制度の打倒し、天皇を日本から追放して、プロレタリア革命を成功させる事であった。

 融通性のない頑迷なマルクス主義者のみが、転向を拒否して有罪判決を受けて収監された。

 治安維持法違反で、死刑判決を受けて処刑された共産主義者はいなかった。但し、拷問まがいの尋問で死亡した者はいた。

 中村薩英・伊藤隆「統制経済論や新体制論や大東亜共栄圏論や、総じて『革新』派の理論の中にマルクス主義的なものの考え方が、さまざまな形で影響を与えているのを無視する事はできない。そうした意味での昭和期の日本の思想に与えたマルクス主義の影響の分析も極めて重要といわねばならない」(『近代日本研究入門』)

 三田村武夫「昭和6年頃から一度検挙された共産党関係者で、いわゆる、その思想の転向者と見られる人物については、司法省においても、あるいは警察庁の特高部においても熱心に就職の斡旋をしたものである。そして、それらの連中は、官庁関係では嘱託名義で、調査部、研究室に就職し、民間の調査研究団体にも多数の転向者が就職していたはずである。更にまた、軍部にも同様にその調査事務には相当数の転句者が入っていた……転向者の大部分が、実はその頭の中はマルクス主義であり、……此等の人々が戦時国策の名に於てなした役割は軽視すべからざるものがある」(『戦争と共産主義』)

   ・   ・   ・   

 5月 済南事件。日本人居留民14名が陰惨な方法で虐殺され、400人が重軽傷を負うほどの暴行を受けた。

 田中義一内閣は、田中上奏文に従い、前年の事件の再発を避ける為に山東出兵を決断した。

 国際社会は、日本の懲罰的軍事行動も、報復的制裁行動も、自衛行動も正当防衛も一切認めず、全てを侵略目的の犯罪行為と認定している。

 5月2日 国民党軍は、日本軍に済南市の治安を保証して撤退を要請した。

 5月3日 日本軍は、国民党軍が治安を維持し日本人居留民の安全を保証した為に、約束に従って市内の防衛陣地を明け渡して市外に撤退した。

 その直後。中国統一を妨げる日本軍に激怒した中国人は暴徒化して、武器を一切持たない無防備な日本人居留民を襲い、略奪と強姦を繰り返し、死者14名(男12名、女2名)を惨殺した。

 日本国内の同仁会などの医療機関は、中国人の兵士や暴徒によって負傷した日本人居留民約400人の治療にあたった。 

   ・   ・   ・   

 日本の女性は、乳房を削がれ、お腹は切り裂かれ、陰部には棒切れが突き刺されていた。

 日本の男性は、腹を切り裂かれ、男根が口の中に押し込められていた。

 日本の子供は、男児も女児も、口には出せないほどの凌辱がなさていた。

中国人暴徒は、山東地域にある日本人墓地を破壊し、日本人遺体を掘り起こして地表に打ち捨てた。

 『春秋集伝纂例』「(国の滅亡とは)およそ邦を覆して祀を絶つを滅という」

 佐々木到一「予は病院において偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻の極みだった。手足を縛し、手斧様なもので頭部、両部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒を挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たる事が分かったような始末である」

 日本軍は、中国人の悪鬼の如き蛮行を各地で実際に見聞する事によって、対日強硬論が主流となった。

 政府部内では、猟奇的虐殺を行ったのは極一部の中国人で、大半の中国人は戦争より平和を望んでいる。として、中国への融和政策を主張した。

 中国政府も、犯罪を起こしているのは一部の中国人に過ぎず、社会への不満から犯罪を繰り返しているに過ぎないと説明していた。が、それは言い訳であり謝罪ではなく、中国人の不満はすべて日本人が原因であると開き直っていた。

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 済南事件における日本人被害者の写真は、南京事件での日本軍による虐殺証拠写真として認定された。

 南京事件における証拠写真は、日本人の被害写真であった。

   ・   ・   ・   

 日清戦争時、山縣有朋が日本軍兵士に清国の捕虜になるよりも名誉ある戦死を命じた、理由そのものであった。

 東條英機が発表した「戦陣訓」も、この事を言っていた。

 中国人による惨殺の証拠写真は、日本軍による中国人に対する残虐行為の証拠として抗日戦勝利記念館に展示されている。

 中国人は、喜々として残虐行為を行っていた。

 軍国主義者の日本人は、軍部に対し、日本人居留民が極悪非道な中国人から受けた残虐行為に対する懲罰を求めた。

 国際社会は、中国を弁護して、日本を非難した。

   ・   ・   ・   

 中国人は、強い相手には微笑んで近付いて友情を示すが、弱い相手には容赦なく襲い掛かって残虐行為を行う。

 中国人の行動は「面子」だり、「面子」は強い相手には引っ込めるが、弱い相手には相手の権利を制限しても「面子」を強要した。

 日本軍は、隠忍自重して、国民党軍に対して殺害及び略奪の再発防止と日本人居留民の生命財産の保護を求めた。

 国民党軍は、戦いを避けようとする日本側の要求を鼻であしらって無視し、口先だけで約束を守る意志がなかった。

 日本軍は、国民党軍の誠意なき対応に不満を抱き、懲罰的として済南市内にいる国民党軍を攻撃した。

 国民党軍は、日本軍が奉天軍に味方して攻撃してきたと判断して応戦した。

 日本軍と国民党軍は軍事衝突し、日本軍の攻勢で国民党軍は数千人の死傷者を出した。

 国民党政府は、日本軍の言い掛かりであると強く抗議すると共に、国際連盟に日本の不法行為を告発した。

 だが。欧米列強は、第一回南京事件の件もあって中国側の提訴への反応は鈍かった。

 北伐軍は、日本軍との衝突を避ける為に済南を迂回して北京に向かった。

   ・   ・   ・   

 国民党は、将来において日本との戦争は避けられないとの判断から、歴史を都合の良い様に歪曲と捏造を加えて人民に教えるという愛国教育方針を決定した。

 表向きには日本との友好と協調を表明しながら、裏では日本との戦争に備えて準備を始めていた。

 中国人の子供達は、反日洗脳教育で、血に飢えた凶悪な日本人が国土を強奪し人民の資産を略奪する為に侵略してきていると信じ込んだ。

 中国人エリートの多くは日本留学経験者で、資源のない日本は食料や資源を中国からの輸入に依存し、日本製品を中国市場で売らなければ製造業は成り立たない以上、日本との貿易を遮断すれば日本経済は自滅すると、日本の内情を分析していた。

 中国の対日政策は、日本製品のボイコットが有効とされた。

 各地で起きた反日暴動は、中国政府の官製デモであった。

 格差社会に不満を抱く人民は、日本に対する悪感情はなかったが、日々の鬱憤を晴らすかのように反日暴動に参加して略奪と放火を繰り返した。

 興奮して理性を失った中国人は、日本人を襲撃して暴行を加えた。

 生真面目な日本人は、思想信条がなく周囲の雰囲気で我を忘れて暴れ回る分別なき中国人暴徒に襲われる日本人居留民を、武力でもって守ろうとした。

 中国人は、日本人を下位者として軽蔑しているだけに、日本人が抵抗する事でさらに激昂して更に激しい反日暴動を起こした。

 中国共産党は、日本との戦争を起こさせるべく、日本人に暴行を加えて、幾つかの強姦と殺害事件を起こした。

 魯迅「これはまったく気質の違いによるものである。日本人は真面目過ぎるのに、中国人は不真面目(いい加減)過ぎる。中国では看板さえ掲げれば成功だと考えるが、日本人はそうではない。彼らは中国人のように芝居をやるだけ、というのとは異なっている。彼らは抗日グッズを持っていれば、本当に抗日している人間だと思い強敵だと思うのだ。このように不真面目な者と真面目な者がぶつかれば、どうやっても酷い目にあうものだ」

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 5月4日 東京朝日新聞などの新聞各社は、「南軍鬼畜と荒れ狂う」「日本人は狂暴なる南軍のために盛んに虐殺されつつあり」と日本人居留民虐殺事件を報じ、中国への報復権行使を求めた。

 日本に駐在する各国の外交官や報道関係者は、済南虐殺事件を知っていた。

 力には力をという世界常識を信奉する者にとって、虐殺されても報復しない者は「何か心にやましい所がある」と考え、被害を被った日本より虐殺した中国に同情した。

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 5月14日 台中事件。昭和天皇の皇后(平成の今上天皇の生母)の実父久邇宮邦彦王襲撃事件。

 キリスト教系朝鮮人テロリストは、上海や台湾に潜伏して破壊活動を続けていた。

 翌29年1月27日 邦彦王は病死した。邦彦王の実母は、伊勢神宮近くの身分賤しい下女(部落民の娘)といわれている。

 信仰を大事にする一部の敬虔なキリスト教徒は、中国・日本・朝鮮をキリスト教化する事を 神聖な使命としていた。

 異教徒日本人をキリスト教徒に生まれ変わらせる為なら、天皇・皇族暗殺テロでも、日本転覆の爆弾テロでも、大虐殺を伴う内戦的共産主義革命でも、何でも手段を選ばなかった。

 憲兵隊と特高警察は、宗教的男系天皇と神国日本を守る為に悪名高い治安維持法(1925年3月成立)で、天皇暗殺テロや天皇制度打倒を計画している反宗教無神論の共産主義者や無政府主義者を一斉検挙(1933年 小林多喜二拷問死)し、神の裔・天皇への忠誠を否定し天皇暗殺テロ計画に関与したと思われるキリスト教徒や仏教徒を全員逮捕(大半が不当逮捕であった)した。

 昭和天皇と皇族を暗殺するべく付け狙う独立派朝鮮人とその支援者(日本人と中国人)を逮捕して、暗殺者の名前と潜伏先を聞き出そうとして拷問にかけた。

 35年間の日本支配下で、数万人の朝鮮人活動家が逮捕され拷問などで惨殺された。

 朝鮮人テロリストは、日本や朝鮮などにあるキリスト教会に出入りしていた。

 信仰を大事にする一部の敬虔なキリスト教徒は、中国・日本・朝鮮をキリスト教化する事を 神聖な使命としていた。異教徒日本人をキリスト教徒に生まれ変わらせる為なら、天皇・皇族暗殺テロでも、日本転覆の爆弾テロでも、大虐殺を伴う内戦的共産主義革命でも、何でも手段を選ばなかった。

 抗日派中国人や反天皇派日本人も活動拠点に、アジア各地のキリスト教会を利用し、重要な抗日拠点は上海と天津の両租界内のキリスト教会にあった。

 現代の韓国・北朝鮮は、昭和天皇と皇族を暗殺し、日本転覆を謀った、爆弾テロリストを民族の英雄「義士」と称え、反天皇反日テロ記念館=独立運動記念館を建てて国民への愛国心教育に利用している。

 そして、観光スポットとして外国人旅行者(特に、日本人観光客)に見学を奨励している。

 それ故に、万世一系の男系天皇が続く限り、天皇と皇族の訪韓はありえない。

 民族中心宗教・神道による愛国心を持つ日本人は、天皇と皇族の訪韓を絶対に望まない。

 東アジア共同体構想の一環として、「戦後和解」の美名で訪韓をさせようとする事は、悪意を持った「天皇の政治利用」であり、神聖であるべき「皇室外交」を意図的に汚す陰険な陰謀である。

   ・   ・   ・   

 先帝・昭和天皇を暗殺しようとしたテロリストの国にその皇子である今上天皇あるいは皇族を訪韓させて、テロリストを処刑した事実を謝罪し反省させる事を強要するなどは、どう考えても理解できない。

 だが、正しい歴史認識を無条件で受け入れ、現男系天皇家とは赤の他人である女系天皇となれば、天皇の訪韓は可能である。 

 正しい歴史認識は、国家元首・昭和天皇暗殺未遂テロを正当行為とし、昭和天皇と皇族を殺害しようとした朝鮮人テロリストを英雄あるいは偉人と絶讃している。

 国際世論は、正しい歴史認識を支持している。

 現代日本でも、国民主権・主権在民の平和憲法の精神から、正しい歴史認識を受け容れるべきであるとする国際派日本人が多くいる。

 彼らは、歴史の全てを知りそして理解した上で、天皇中心の天皇主権を主張する民族主義者を軍国主義者と嫌っている。

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 5月18日 日本軍は、南北内戦が、日本人居留民の生命財産の安全を脅かし満州に波及する事を恐れて、南北両軍に対して平和的話し合いによる解決を勧告した。

 同時に、満州における日本の権益と日本人居留民の安全が危険に晒されたとき、自衛行動として軍事介入すると恫喝した。

 蒋介石ら国民党は日本軍の裏切りに激怒し、中国人民は反日ナショナリズム運動を展開した。

 中国側は、国際世論に対して、日本軍の侵略行為は国際規約違反であると訴えた。

 国際世論は、攻撃している日本軍を犯罪者として非難した。

 欧米列強の諸政府は、済南事件での軍国日本の言い分を支持したが、満州における日本の影響力が強まる事には不快感を示した。

 欧米の国際資本は、満州市場への参入の為には日本の占有権を縮小させるべきであると考え、アメリカの門戸開放・機会均等の原則を支持した。

 日本としては、脆弱な民族資本では全満州の開発は不可能である事は分かっていた為に、国際資本の参入に歓迎していた。

 国際資本がこだわったのは日本指導による満州開発、つまり経営権の問題である。

 人種差別主義の白人企業家にとって、資本力のない日本人が経営するプロジェクトに発言権なしで参加する事に対する不満であった。

 白人種が世界を支配する確信する白人にとって、独占的経営権は白人が持つものであって非白人が持つものではなく、優秀人種の白人が劣等人種の非白人種の部下に成り下がる事は受け入れがたかった。

 世界は、経済力及び軍事力を背景とした白人至上主義で動いていた。

 その地球的潮流に抵抗していたのが、非キリスト教非白人非西洋語の日本のみであった。

 キリスト教価値観が支配する世界の中で、幾ら欧米協調を目指したところで、日本文化・日本語の日本は否応もなく孤立する運命にあった。

 関東軍は、対ソ戦略の為に、満州を中国本土から切り離して独立させるすべく張作霖に対して満州帰還を恫喝的に要請した。

 コミンテルンは、関東軍の満州中国から分離させる策に危機感を抱いた。

 貿易立国日本は、世界同時不況で世界市場から日本製品が閉め出され始めていた為に、唯一の国外市場である満州の利権に執念を燃やしていた。

 日本軍部は、ソ連・共産主義勢力から祖国日本を守る事を最優先し、中国への軍事介入を嫌っていた。と言うよりも、国力から中国内戦に直接介入する余裕はないと分析していた。

 欧米のユダヤ系国際資本は、中国と日本の共産化を目指すソ連・コミンテルンに資金提供を続けていた。

   ・   ・   ・   

 6月 ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)は、シベリアの安全と満州の共産主義化の為に、満州軍閥張作霖の暗殺と日中戦争の開戦を画策していた。

 6月4日 張作霖爆殺事件・満州某重大事件。

 関東軍は、満州を中国の内戦から切り離すべく張作霖に帰還を要請した。張作霖は、中国統一の野望から関東軍の要請を拒否したが、蒋介石の敗れて帰還を受け入れた。関東軍の強硬派は、独断で、満州が内戦に巻き込まれなる事を防ぐ為に、北伐軍に敗れて満州に戻る張作霖を途中で殺害する計画を進めていた。

 張作霖が乗車する特別列車は、奉天駅到着前に、車内に仕掛けられた爆弾が爆発して炎上した。張作霖は、重傷を負って二時間後に死亡した。

 犯行は、関東軍の河本大作大佐とされた。張作霖の近くに爆弾に詳しい協力者がいて、北京を出発する間際に爆弾が車内に仕掛けられたとされている。

 だが。真犯人は、日本軍と奉天軍の武力紛争を画策したコミンテルンという説がある。

 張学良は、父張作霖を爆殺した日本軍に対抗して、仇敵の蒋介石と和解した。そして、国民党を通じてソ連に接近し、日本を満州から追い出す為にコミンテルンの支援を期待した。

 線路は破壊されなかった為に、鉄道運行には支障が出なかった。

 ツアーズ在奉天イギリス総領事「爆薬は食堂車の内部から上方で爆発して、食堂車を完全に破壊し、貴賓車と寝台車を炎上させた。貴賓車と寝台車は落ちてきた陸橋の瓦礫によってひどく破損している」

 イギリス公文書「調査で爆弾は、張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論にいたった。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される」

 ヒル大佐「張作霖の強い個性と中国での利権を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であった。そのため張作霖の排除と、それに代わる扱いにくくない指導者への置き換えは、ソ連にとって魅力的な選択肢であったと思える」

 ランプソン在北京イギリス公使「ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民党軍、張作霖の背信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた少なくとも四つの可能性がある」 

 2008年に刊行された『GRU百科事典』は、張作霖爆殺事件をコミンテルンが「日本軍の仕業に見せかけた工作の成功例であった」と認めている。

 張作霖爆殺事件。ソ連の資料によると、コミンテルン諜報部の組織名「グリーシカ」(別名「マメルシュ」)の下部組織の犯行と認めている。隊長はナウム・アンチゴン、副隊長はメルニコフ(別名イワン・ヴィナロフ)。

 イギリス諜報部は、爆殺に使用された火薬の成分を分析し、火薬はソ連製であると報告した。

 6月12日 田中義一首相は、昭和天皇に治安維持法改正緊急勅令案を上奏し、枢密院からも同様の奏請がなされていると伝えた。

 昭和天皇は、違反者を「死刑もしくは5年以上の禁固刑」にする厳しい内容になってい事に改悪ではないかと不満を持ち、即決を避け、手許に置いて保留とした。

 6月13日 昭和天皇は、田中義一首相から治安維持法改正の説明を聞いたが、違反者を「死刑もしくは5年以上の禁固刑」にする厳しい内容になってい事に改悪ではないかと不満を抱いた。

 6月27日 枢密院議会は、治安維持法改正を審議し、賛成多数で承認した。

 昭和天皇は、死刑等で庶民の自由な発言を封殺し思想弾圧を行わないように希望して、枢密院議長の倉富勇三郎に「充分審議すべき」との内意を伝えた。

 6月29日 昭和天皇は、憲法に従って議会が承認した治安維持法改正を裁可したが、運用については条件を付けた。

 昭和天皇は、意に反した法案の裁決を強行した田中義一首相に対して不信感を抱いた。

   ・   ・   ・   

 7月 蒋介石は、北伐軍が北京に入城した事で中国の統一を宣言した。

 田中首相は、蒋介石が中国を統一して治安を回復する事を期待して、山東に出兵させていた日本派遣軍を撤兵させた。 

 北伐軍将兵は、河北省にある西太后や歴代皇帝の墓を暴き、遺体を地上に打ち捨て、副葬品の金銀財宝を略奪した。中国人は、自分の祖先は大事にするが、他人の祖先は無視する。

 国民政府は、同じ漢族である明王朝の歴代皇帝稜は守ったが、異民族の清王朝の皇帝稜は破壊した。

 中国人は、自分の利益に利用できるものは保護したが、利益にならないものは容赦なく破壊した。

 中国人にとって、異民族の天皇などは尊敬する相手ではなく、死滅させるべき憎き相手にすぎなかった。

 最後の清国皇帝であった溥儀は、中国人の死者を冒瀆する酷薄に絶望し、祖先の生地である満州で民族国家を再建する為に日本軍に協力した。

 中国人が死者を大事にするのは、自分の祖先の場合だけで他人の祖先には興味も関心もなかった。

 8月 第6回コミンテルン大会で、「帝国主義戦争を内乱へ」というテーゼを採択し、中国共産党と日本共産党に対して両国が戦争を起こす様に導く事を示唆した。

 アメリカ人女性アグネス・スメドレーは、協力的な宣教師やジャーナリストを通じて、アメリカ国内で反日世論を煽った。

 尾崎秀実とゾルゲは、日本国内の革新派エリート官僚集団に接近してマルクス主義の浸透を図り、国家機密情報を得ると共に戦争を始める為の統制経済の必要性を指導した。陸軍官僚のエリートは、総力戦としての統制経済体制計画に同調した。陸軍中央の参謀や現地軍の情報部は、尾崎秀実らがもたらす敵情報の正確さと情報分析の的確さに引き込まれ、気を許して軍情報を知らず知らずのうちに漏らしていた。統制派エリート将校団との交流を深め、少数の皇族や華族の上級将校にも接近して昵懇となった。

 日本人は、今も昔も、無警戒で無防備であった。その為に、各国のスパイや工作員は自由に行動していた。

   ・   ・   ・   

 8月27日 戦争放棄に関する条約。(不戦条約。パリ条約。ケロッグ・ブリアン条約)

 フランスのブリアン外相とアメリカのケロッグ国務長官は、国際理想主義を体現する「パリ不戦条約」を提案し、15ヶ国が調印した。

 日本は、翌29年に批准した。

 第1条「戦争放棄の宣言 締約国は国際紛争解決のため戦争に訴える事を非とし、かつ、その相互関係に於いて、国家の政策の手段としての戦争を放棄する事をその各自の人民の名において厳粛に宣言す」

 アメリカのケロッグ国務長官は、自衛戦争か侵略戦争かは第三国ではなく戦争を行う国家が自ら判断する「自己解釈権」を認めた。

 自衛戦争は、1,領土、2,国民の生命、3,国民の財産、が侵された時、あるいはその危険が発生した時に認められるとされた。

 侵略戦争に対する、明快な定義はなされなかった。

 戦争は、何時の時代でも自衛の為に行われるからである。

 そして、経済封鎖及び経済制裁を歴とした戦争行為であると断言した。

 これ以降。日本の軍事行動すべてが、自衛行動・正当防衛・自国民保護などの理由の如何に問わず問答無用で戦争犯罪とされた。

 東京裁判は、日本を完全ある悪として、日本人を裁いて有罪とした。

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 ソ連軍は、中国共産党軍の育成の為に、軍事顧問団をファシスト中国から中国共産党軍に派遣先を変更した。

 蒋介石は、ソ連軍事顧問団に代わる軍事顧問団を得るべく、中国の産業視察の為に訪中していたドイツ参謀本部のマックス・バウアー大佐に軍事顧問就任を依頼した。

 バウアー大佐は、本国の許可を得て軍事顧問団を組織して団長となり、中国軍の育成と軍事作戦の助言を行った。

 中国軍は、ドイツ式軍事訓練を受けて鍛えられていった。

 ドイツの保守層や国防軍は、反日派としてファシスト中国に全面協力を行った。

 ドイツの軍需産業は、中国のタングステンを獲得するべく対中貿易に力を入れ、多額の投資を行った。

 秋 マックス・バウアー元ドイツ陸軍大佐は、蒋介石の要請を受け、約30名のドイツ軍事顧問団を率いて中国を訪れた。

 ドイツの軍需産業は、ドイツ軍事顧問団を通じて高価な最新兵器を大量に売り込み、アジアで最強の軍隊を作るのに貢献した。

 11月 毛沢東等は、都市労働者による西洋的共産主義運動の限界を自覚し、モスクワ帰りのエリートが支配する中国共産党中央の指示に従っていては権力が得られないと判断した。そこで、中国共産党中央に対して、遊民を革命戦士とする遊撃部隊を組織した事を報告した。

 12月29日 張学良は、満州が国民党軍の指揮下に入った事を明らかにする為に、奉天城に国民党の旗と赤旗を掲げた。

 翌29年1月10日 東三省交通委員会幹部2名が、張学良の屋敷で、反乱を企て立ちして射殺された。

 ユン・チャン、ジョン・ハリディ「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているがソ連情報機関の史料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せ掛けたものだという」(『マオ』)



 


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日本文明と近代西洋 「鎖国」再考 (NHKブックス)

日本文明と近代西洋 「鎖国」再考 (NHKブックス)

2017-08-23

♫:18─3─偽書『田中メモランダム』。山東出兵。ソ連の五ヵ年計画。ソ連軍は、極秘で日中戦争に参戦していた。1927年5月〜No.76〜No.77No.78 @             

南京事件 国民党極秘文書から読み解く

南京事件 国民党極秘文書から読み解く

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗

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 田中義一内閣は、本音では、金融恐慌と農村救済と共産主義及び無政府主義の蔓延対策など緊急を要する財政・治安の内政諸懸案の対処で手一杯で、中国問題どころではなかった。

 中国内戦による混乱から日本人居留民を保護する為に軍隊を派遣するにも、財政逼迫と中国派兵よりも国内対策を求める強い世論で、数千人単位の少数兵力しか派遣する事ができなかった。

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 5月 蒋介石率いる国民党軍は、日本人居留民が多く住む山東省済南市に向けて北上を開始した。

 各国は、中国情勢の緊迫から、中国に住む自国民を守る為に軍隊を派遣していた。

 日本も、国民の安全を守るという国家の責任から、青島・済南間の鉄道線路確保と済南市の日本人居留民の保護目的で派兵した。

 中国における居留民は日本が圧倒的に多く、日本人は中国人への親近感から武装された外国租界ではなく手薄な地域で中国人と隣り合わせで生活していた。

 軍部は、日本人居留民人数に即した兵力を送り出した。 

 その事が、中国人の敵意を買った。

 日本政府は、中国との衝突を回避する手段として、現地保護の原則を放棄して邦人の前面引き上げを覚悟した。

 日本軍に守られた日本人居留民は、中国人を信じ切っていた為に中国軍を刺激する事を好まなかった。

 5月 第1次山東出兵。

 済南市における両軍の兵力は、中国国民革命軍2万人以上対日本軍第六師団約3,500人。

 それは警戒行動で、領土拡大目的の軍事行動ではない以上、中国軍が日本人に危害を加えないと分かるや小部隊を残して撤兵した。

 関西財界と新聞は、たとえ居留民保護目的でも出兵は中国側を刺激するとして、出兵には反対した。

 中国は、謀略で敵軍を撤退した後に、弱小となった所を攻める事を常套手段としていた。

 中国で撤退する事は、多くの犠牲者を出す危険な愚策であった。

 中国人暴徒による、日本人居留民への犯罪が減少するどころか増大した。

 日本国内では、警察や憲兵隊の監視が厳しく、華僑に対する嫌がらせはあっても殺人事件は起きなかった。

 日本人は、犠牲になった同胞の無念さに涙したが、アジアの平和の為に耐え忍んだ。平和と共存を求める日本人は、ありもしない中国人の良心を信用した。

 中国共産党は、日本人共産主義者から、日本の世論は分裂しているとの情報を得ていた。 

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 6月(〜7月) 田中義一首相は、中国での日本人居留民を如何に守るかべきかを協議する為に、東方会議を開いた。

 会議は、中国には治安を維持する警察力が著しく低下している為に、これまでの非暴力無抵主義による内政不干渉では守れない、という事で意見が一致した。国家の義務として、武器を持たず無防備な日本人居留民を守る為に、好戦的に武力を投じ現地で守る干渉政策を採用した。但し、領土的野心を示す事は、国際社会で孤立する危険があるとして、危険が去れば速やかに日本軍を撤退させる事とした。

 これが、悪名高い「田中上奏文」である。

 東京裁判は、この軍事行動を不戦条約やハーグ条約などの国際法に違反する、時効無き戦争犯罪と認定した。

 国際法は、日本の如何なる自衛行為をも認めてはいなかったのである。 

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 中国共産党政府が、日本の中国侵略及び世界征服の証拠として歴史教科書に載せている田中上奏文(田中メモ)では、大正11年に死亡している元老・山縣有朋が昭和2年の会議に出席したとされている。

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 パスカル「人間は、天使でも野獣でもない。そして不幸な事は、天使のまねをしようと思うと獣になってしまう」(『パンセ』)

 ジュネーブ会議。日本代表石井菊次郎は、イギリスとアメリカの対立を調整しようとしたが失敗して分裂した。

   ・   ・   ・   

 軍国日本は、国家の責任として、中国との戦争を覚悟して自国民を守ろうとした。

   ・   ・   ・   

 7月 ファシスト中国の国民党は、資金源となっている資本家の要請を受け、中国共産党による都市労働者の組織化を禁止した。

 ただし、国民党系でない中立派地主に対する小作人争議のみを許可した。

 中国共産党は、農民協会を組織して小作人争議を行ってそれなりの成果を得ていた。

 何らかの原因で農地を捨てて流浪していた遊民は、農民協会に入り込んで小作人の権利ではなく自分の利益の為に活動を始めた。

 遊民系協会員は、地主に暴力を振るって金をむしり取り、従わない者は人民の敵として虐殺して財産を奪った。都市への食糧を差し止めて不当な賄賂を要求し、従わなければ暴動を起こした。

 農民会の被害を受けた地主や都市は、国民党に中国共産党の横暴を訴えた。

 中国共産党中央は、ロシア共産党の指導に従って階級闘争を行うべく、農民運動を過熱化させ不法行動をとる地方組織に自制を求めた。

 農民協会は、盗賊紛いの遊民系会員を排除しようとしたが、逆襲を受け協会は大混乱した。

 場当たり的な活動方針しか持たない中国共産党によって、都市や農村の労働運動は統制を失って、遊民は匪賊化して犯罪事件が増加した。

 蒋介石は、匪賊化した中国共産党を排除すべく、第一回国共合作を解消して政府内中国共産党員を追い出した。

 国民党政府に協力していたコミンテルン顧問団と中国軍の育成にあたっていたソ連軍軍事顧問団は、国民党を去り、中国共産党の紅軍を訓練した。

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 8月 蒋介石も、中国武力統一までは日本軍との武力衝突を避ける方針をとった。

 日本政府は、日本人居留民の安全が守られたとして撤兵した。

 イギリスは、上海での反英運動が昂じて華南地方の英国権益を略奪する方向に暴走する事を畏れていた為に、中国人が反日に転じて北に向かう事に期待していた。

 イギリス諜報部員は、国益の為に中国人の間に反日気運を煽り、極秘で反日派中国人活動家に金と武器を流し始めた。

 中国共産党と国民党左派は、軍閥打倒と日本人追放の為に国民党の意思を統一すべく暗躍していた。

 中国のナショナリズム運動は、中国共産党の指導の下で燎原の火の如く広がっていった。

   ・   ・   ・   

 8月1日 南昌武装蜂起。

 8月21日 蒋介石は、ソ連軍を対日戦に介入させるべく、スターリンと不可侵条約を締結した。

 スターリンは、日本軍との戦闘を避けるべく、蒋介石に知られない様に極秘で日本側に接近した。

 8月後半 日本軍は、中国政府が「日本人居留民の生命財産は責任を持って保護する」事を約束した為、山東半島から撤兵した。

 だが。ファシスト中国は、日本との如何なる約束も守る意志はなかく、不利な状況下に追い詰められた為にか日本軍を撤退させるべく方便として約束したまでの事であった。

 中国各地では、中国人便衣隊(ゲリラ)による日本人居留民への暴行や殺人事件が絶えなかった。

 朝日新聞「中国が捏造した反日宣伝記事は、香港経由で世界中にばらまかれている」

 中国で活躍している一部の白人企業は、日本軍が進駐すると中国人便衣隊や中国共産党の赤匪の犯罪行為が激減するとして、日本軍を歓迎していた。

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 9月 毛沢東率いる遊撃部隊(流民部隊)は、中国共産党中央の指示を無視して独自方針で暴動を起こしたが敗退し、匪賊の様な会党が根城としている井崗山に立て籠もった。会党の黄文才や王佐らは、支配地域での強奪に「人民の正義」という大義名分を持たせる為に喜んで入党した。

 アヘンの密売と人身売買を生業としていた秘密結社も入党して、井崗山中国共産党勢力は急激に党員を増やした。

 毛沢東は、表面的にはマルクス主義による人民の指導者と振る舞いながら、実態は中国伝統の専制君主であった。

 彼らは、労働者の権利が保証された人民国家の建設ではなく、自分達の一君独裁の封建王朝を築こうとしたにすぎない。

 革命部隊と言うよりは盗賊集団に過ぎなかった為に、毛沢東ら党幹部と平党員らとの間には雲泥の格差が存在し、党員は一般住民を奴隷の様に使役した。

 井崗山の中国共産党部隊が遊撃戦といいながら犯罪行為を繰り返した為に、住民は彼らを血も涙もない「共匪」と恐れた。

   ・   ・   ・   

 毛沢東は、中国を支配する為に繰り返し読んだのはマルクスやレーニンの書籍ではなく、北宋時代の司馬光がまとめた『資治通鑑』であった。

 そして、愛読書が『三国志』で、見習ったのは王朝を守ろうとして仁徳者・劉備元徳ではなく、王権を簒奪した乱世の覇王・曹操であった。

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 9月29日 政府の役職から身を退いて蒋介石は、「休養」を理由として日本を訪れたが、真の目的は別の所にあった。

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 10月3日 蒋介石は、神戸で華僑の財閥・呉啓藩の邸宅で宋家の長男・宋子文と落ち合い奈良の法隆寺などをめぐり、神戸市の有馬温泉で宋子文の母親である倪(げい)佳珍に宋美麗との再婚の許可を求めた。

 倪佳珍は、結婚を許可するに当たり、結婚式は日本ではなく中国で行う事とメソジスト会派のキリスト教に改宗する事の条件を付けた。

 蒋介石は、宋美麗との結婚許可を得るという訪日した最大の目的を達成し、軍事独裁政権(ファシスト中国)を樹立する為の宋財閥からの財政支援とメソジスト会派を通じてアメリカからの軍事支援を得る事が可能になった。

 孫文は、中国の近代化の為に、前半は日本と日本右翼の支援を受け、後半はレーニンとソ連の支援を受け、軍閥を打倒する為に中国共産党と手を組んだが、全て失敗し、失意のうちに死亡した。

 蒋介石は、中国共産党を打倒する為に、満州権益を守ろうとする軍国日本と決別し、中国進出の機会を窺っているアメリカに接近した。

 アメリカは、軍国日本を中国市場から閉め出す為に蒋介石を利用しようとした。

 10月23日 蒋介石は、関西旅行から東京に戻るや、帝国ホテルで「謹んで日本国民に告ぐ」という満州及び北京の敵対軍閥を支援する日本政府を批判する声明を発表した。

 日本政府は、蒋介石は軍人政治家ではあるが下野した私人であり、中国の安定化にはこれまで通りの親日派軍閥を支援するとい基本方針からノーコメントを貫いた。

 蒋介石は、日本政府の冷ややかな反応は予想していたので気にはしなかったが、日本右翼に中国統一の北伐を承認して貰う為に頭山満と面会した。

 右翼の首領である頭山満は、白人植民地支配からのアジア解放を唱える大アジア主義者で、孫文やアジア各地で抵抗運動を続けている独立派の最大の支援者であり、アジア全体での影響力が強なった。

 蒋介石は、中国の近代化という孫文の意志は継続するが中国再統一に当たって中国共産党との関係を断ち事を条件に、頭山満から北伐決行の支持を取り付けた。

 コミンテルンは、国共合作が崩壊した事を理由にして中国共産党の書記を陳独秀を解任し、ロシア語が話せる瞿秋白を任命した。

 蒋介石は、軍事力(黄埔軍官学校卒業生を主力とする中央精鋭部隊)、裏社会の暴力(上海の犯罪的秘密結社)、財力(宋財閥)を手に入れ、国民党内部の権力闘争に勝ち残った。

 中国共産党は、知識人や学生を味方にする為に上海文壇への浸透していった。

 国民党政府は、左翼作家達を逮捕、拷問、処刑した。 

 文壇の重鎮である魯迅は、中立を守っていたが、国民党政府の弾圧を激しく非難し、知人のエドガー・スノーやバーナード・ショーらを通じて世界に訴えた。同時に、文壇に隠れ口先で社会を混乱させる左翼の作家や知識人を扇動家と強く批判した。

 近代国家の建設、国民の覚醒、社会の安定を妨げているのは、文語体中国語と各民族・各地の方言であるとして、日本の国語運動・標準語普及活動を手本として統一的口語体中国語・中国国語を創作して広める事に全精力を注ぎ込んでいた。

 魯迅の国語統一運動に賛同し協力したのは、日本留学組の親日派エリート達であった。

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 12月 張作霖は、人種差別的な朝鮮人土地耕作令を発布し、急増する朝鮮人移住者が土地を取得できない借地期限を1年と制限し、同時に昔から住み着いている朝鮮人農民達の土地や農作物に圧力をかけて生活苦へと追い込んだが。

 朝鮮人移住者は、中国人の嫌がらせに不満を募らせていった。

 広東コミューン事件。共産主義者は、武装蜂起して広東を占領し、犯罪者を釈放して略奪と放火を許可した。蒋介石は、討伐軍を派遣して、共産主義者と犯罪者を容赦なく処刑した。

 ナチス・ドイツ、アメリカ、イギリスなどの欧米諸国は、1929年10月に起きた世界大恐慌から自国経済を立て直す為に、中国軍にモノとカネの軍事援助を行い、ソ連には軍需産業の発展名目で多額の融資を行った。

 当時の中国軍は、ドイツ軍同様に強力な最新兵器を装備した最大最強の軍隊であった。

 日本軍装備の大半が、国際的軍縮圧力もあり、議会によって予算を大幅に削減されて日露戦争当時のままであった。

 ソ連軍は、1930年後半頃から、正規兵数千人と失業者数万人を国際義勇兵として抗日戦に派遣した。

 世界大恐慌により、 欧米列強は保護貿易主義に走り排他的経済ブロックを形成した。

 地下資源の無い貿易立国日本を、明治維新以前の前近代的農業国家に逆戻りさせる為に、日本を国際的に孤立化させ、国際経済市場から閉め出し、中国市場からも追放しようとした。

 日本殲滅計画を立案し、各国政府を動かして対日強硬政策と日本包囲網(ABCD+S包囲網)を実行に移したのが、イギリスとアメリカの国際的ユダヤ人資本家であった。

 中国と日本の違いは、何処にあったか。中国の軍需産業は、何時止むとも分からない内戦を支えるには脆弱であった。中央政府及び地方独立軍閥は、欧米列強から武器弾薬を大量に輸入する為に国民を犠牲にした。産業らしい産業のな内戦状態の中国における重要な収入源は、アヘンと人身売買と盗掘であった。

 軍国日本は、憲法に従い法的手続きの基で国家予算を決め、国民の生活を圧迫しない範囲で軍事強化を図った。

 日本独自の国防計画をたて、欧米列強の軍需産業に依存せず、独自の兵器体系で国内産業を活用した武器自活路線を採用した。

 国内不況で大量の失業者を抱えている欧米列強は、経済浮揚策として、大量消費を行っている中国の内戦を利用していた。

 欧米列強の軍需産業に多額の融資を行っていたのが、国際的ユダヤ人金融資本であった。

 扱い商品は、武器弾薬とアヘンであった。彼らは、各国の政府・軍隊の秘密情報部や新聞社・通信社などの国際的報道機関から膨大な情報を仕入れていた。

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 1928〜32年 第一次五ヵ年計画。農村地帯は都市労働者の犠牲となり、数千万人の零細農家以外の農民は土地を没収され、強制的に集団農場や国営農場に押し込められた。

 農民は、共産主義体制下では虐げられ、自由が認められず奴隷的重労働が強制された。

 抵抗した中小規模の農民は、家畜を殺し、穀物生産を拒否した為に、クラーク(富農)として弾圧され極北の地獄のような強制重労働収容所に送られた。

 農産物生産が25%に低下した為に、ウクライナなどの農村部で数百万人が餓死した。

 数百万人の農民が、緑軍として内戦を起こしたが、西側の兵器で武装した共産軍によって皆殺しにされた。

 共産軍は、反革命分子に対して情け容赦がなく、共産主義の大義に逆らう者は虐殺した。こうして、数千万人が犠牲となった。

 赤軍や赤旗の「赤」とは、数千万人の人民が流した赤い血であった。

 西側のユダヤ人金融資本は、ソ連の国内で何が起きているかを充分に認識した上で、石油やマンガン鉱などの資源を独占する為に、スターリンの都市重工業化計画に巨額の融資を行った。アメリカの全機械輸出の40%以上が、ソ連向けであった。

 ソ連の重工業による経済発展は、共産主義にもとずく党主導の計画経済では失敗したが、西側のユダヤ人資本家らの協力で成功した。そして、急速に軍事大国となり、周辺諸国に軍隊を派遣して傀儡化した。

 ルイス・マクフェデン上院議員「ソビエト政府は、我が国の連邦準備制度理事会及び連邦準備銀行の決定により、ロックフェラーのチェース銀行、モルガン・ギャランディ・トラスト他、ニューヨーク市内の幾つかの銀行からアメリカの国家資金を手に入れている」

 ハリマン「共産主義の考え方は、少数が多数の為に何が善であるかを知っているのだというのであって、少数がその善意を民衆の上に仮借なく強制したのであった。個人が国家の婢僕であった」






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日本の文化 本当は何がすごいのか

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