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1:昭和天皇は戦争回避とユダヤ人難民救護を希望し原爆開発中止を厳命した。

2017-11-19

⚖:33─1─ルーズベルトは、市民権の有無に関係なく全ての日本人を強制収容所に閉じ込め、銃と有刺鉄線で監視すように命じた。1942年〜No.204No.205@       

1941 日系アメリカ人と大和魂

1941 日系アメリカ人と大和魂

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。  ↗

   ・   ・   ・(戦時移民計画局→戦時移住計画局)

 セオドア・ホワイト『歴史の探訪』「(1942年)シェンノートの戦略は、80機に満たぬ攻撃力にかかっていた」「時にはその半数ほどが、無頓着な性交という事故で飛び立てなかったのである。昆明の有名な売春宿で貰った性病のおかげで、地上員や乗務員が入院させられた」

 中国戦線に派遣されていたアメリカ軍兵士の多くが、地元の薄汚い安い娼婦宿に通い、中国人娼婦との性交渉で性病をうつされ戦闘不能に陥っていた。 

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 日本人は、白人キリスト教徒から最も嫌われたアジア人であった。

 白人キリスト教徒は、日本人を殺す事に罪悪感を感じなかったところか、むしろ喜びを感じていた。

 世界中で、日本人は嫌われていた。

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☆アメリカ社会は、「ワスプ(WASP)」と呼ばれる極一部の特権的上流階級を構成する血閥と血縁関係者が支配していた。

 支配階級のワスプとは、ホワイト、アングロ・サクソン、プロテスタントの事である。彼らは、排他的で閉鎖的な会員制の秘密クラブを幾つも結成して、情報と利益を共有し、経済はもちろん政治や外交や軍事をその財力で支配していた。つまり、軍産複合体である。

 アメリカ建国当初に移住していた一族、中国とのアヘン及び人身売買の貿易で財を成した家、そして19世紀から20世紀にかけて財閥化したユダヤ人実業家であった。

 彼らは、古い血筋を大事にし、血の繋がりのない者は金持ちでも下層階級として排除し差別した。

 厳格な階層社会を形成し、新参者のユダヤ人や南欧・東欧出身者を中流階層として、最下層である中南米出身者や黒人やアジア人の上に置いた。

 西欧・北欧出身の白人を神の愛した完璧な最上の人間とし、中欧・南欧・東欧出身の白人を欠点のある普通の人間とし、それ以外の有色人種は人間の姿をした動物と見なしていた。

 この排他的階層には、超えがたい断層が存在していた。

 これが、普遍的価値観による階級社会であった。

 その階級社会は、中国・朝鮮が持っている中華思想に酷似していた。

 同様に、世界にも、中世以来の神聖にして尊い血統に結ばれた特定の一族が特権と名誉と富を独占している。

 キリスト教の絶対神に祝福され最も愛された、少数の白人系血閥が世界を支配していた。

 普遍的価値観を持つキリスト教会が、世界を単一に教化する為に全ての異教を滅ぼそうとしている。

 地球規模の特権階級である彼らは、国民としての義務や責任も持たず、国家への愛国心を持たない無国籍者である。

 自己の利益の為に国益を破壊し、国家を破壊して、ささやかな国民の家庭団欒を奪った。無国籍の彼らにとって、国家の枠組みは無意味で、国境は存在しない。

 皇室・天皇家の皇統は、絶対神に愛された神聖な血筋ではなく、絶対神に承認された正統な王族でもなかった。

 ゆえに、非白人の天皇は、その高貴ある世界的一族ではなく、滅ぼすべき反キリスト教の異教徒・蛮族であった。

 不寛容な普遍宗教にとって、現人神を信仰する民族宗教・神道は滅ぼすべき異教である。絶対神は、血を好むがゆえに、生け贄を求めた。

 神代から日本民族日本人は、誰でも、日本人であろうが。外国人(マレビト・マロウド・客人)であろうが、等しく尊い祖先神を持った人であるという「現人神」信仰を持っていた。

 現人神は、天皇一人を指す事ではなく、全ての人が神の子孫なんである。

 わかりずらく、理解しずらいから、子供でも解るように天皇を現人神信仰の象徴にしたにすぎない。

 つまり、日本人は当然の事ながら、日本人以外の白人、アジア人、アフリカの原住民、生きとし生きるもの全てが個々の雑多な神の子孫であると信じていた。

 人も、動物も、植物も、自然現象も、ありとあらゆるものが全て八百万の神々として神社に祀り崇めていた。

 ゆえに、必要でない無益な「血」を流す事に恐怖を感じ、我欲的に個人益で血を流す事で神の天罰が下るとして恐れ、神の恨みを買う事を避けるために助け合って生きてきた。

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 ロサンゼルス・ロングビーチ近郊のターミナルアイランド島には、約350人のの日本人が移住していた。

 日本人移住者の職業は漁業で、日本人漁師はカリフォルニアが消費する6割近い魚を水揚げしていた。

 大陸部に移住していた日本人農家は、カリフォルニアの農産物の7割近くを収穫し、都市部の食生活を支えていた。

 日本移住者は、誰も耕さない不毛な土地に移り住み、自然環境に負担をかけない日本式農法を基にして、その土地の気候風土に合った栽培方法を独自に創意工夫して農作物が収穫できる様に手を加えていた。

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 アメリカ共産党に関係していた在米日本人のカール・ヨネダや木元伝一らは、対日戦に協力する為に戦時情報局(OWI)の対日心理作戦に従事し、諜報・情報活動を行っていた。

 共産主義者である日系アメリカ人は、天皇制を打倒して日本を共産主義化する為に、日系人部隊を編成するべく帰国せずアメリカに残った在日アメリカ人の中を説得して廻った。

 日系アメリカ人社会は、アメリカに忠誠を誓って軍隊に入隊する者と、国民としてアメリカの国策には従う入隊を拒否する者と、2つに割れた。

 戦時下において、国家に忠誠を誓わず入隊を希望しない者は反逆者として逮捕され監獄に収監されるか、厳しく監視だれた。

 アメリカは、軍国日本以上に徹底していた。

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 1941年12月7日 ルーズベルトとハル国務長官は、駐米ソ連大使マクシム・リトヴィノフをホワイト・ハウスに呼んで、日中中立条約を一方的に破棄して対日戦争に参戦するように要請した。

 スターリンは、ナチス・ドイツとの戦争に国力を傾注する為に、対日参戦を拒否するように返答した。

 12月17日 スターリンは、イギリスのイーデン外相に、将来、対日戦に参加する意思がある事を表明した。

 12月19日 コーデル・ハル国務長官は、日独伊などの枢軸国と戦う連合国を結成する為の連合国宣言を起草し、ルーズベルトに提出した。

 ルーズベルトは、書類に「戦勝国連合」と上書きし、ホワイト・ハウスに逗留していたチャーチルに示して同意を得た。

 国際連合の雛形の誕生である。

 ソ連のリトヴィノフ大使と中国の宋子文大使は、明けて42年元旦に戦勝国連合(日本名・国際連合)に署名した。

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 アメリカ軍は、ハワイ州兵の34%を占める日系アメリカ人兵士を拘束して本土に送り、「日本人は人ではなく獣である」として家畜用施設に押し込めた。

 日系アメリカ人は、アメリカ国籍であって日本国籍ではない為に国内法が適応されたが、人種差別的に不当な扱いをされた。

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 アメリカのメソジスト教会は、嘗てイエズス会やフランシスコ会同様に中国での布教には成功したが日本では根付く事ができなかった。

 ファシスト中国や中国=国民党の蒋介石・宋美麗夫妻や多くの有力者に洗礼を施していた関係から親中派となり、中国が勝利の為に宋美麗の要望を、狂信的反日派のルーズベルトに伝えていた。

 メソジスト教会は、反日派急先鋒として天皇制度の撲滅と日本のキリスト教化を神聖な使命と堅く信じていた。

 その親中国反日姿勢は、現在にまで続いている。

 アメリカのキリスト教会は、伊勢神宮はもとより靖国神社などの日本神道を地上から抹消しようとしている。

 それは、中世のキリスト教徒と異教徒との宗教戦争に近い状況であった。

 南京虐殺など民間に広く伝えられた反日プロパガンダは、メソジスト教会と報道機関が積極的に流していた。

 メソジスト教会は、反天皇反日の為ならば、ファシスト中国だけではなく悪魔のような中国共産党とも手を組んだ。

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 12月26日 チャーチルは、アメリカ議会で演説を行った。

 「日本の政策を過去数年にわたり支配してきたのは、政治結社の若手有志や陸海軍の下級将校である。彼らが歴代の内閣や議会に対して、その意志を押し付けてきた。彼ら少壮将校や運動家たちは、自分たちの積極的・攻撃的政策に反対する政治家を次々と暗殺した。自分たちの激越な政策に対する支持が十分でないとする政治家も暗殺した。

 この種の結社の中核分子は、自分たちの侵略計画と初期戦闘の勝利の見通しに目が眩み、日本国内の賢明で慎重な判断を下す勢力の反対を押し切って日本を戦争に突入させたのである。間違いなく、途方もなく大きな企みに乗り出したのである」

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 カナダに於ける反日感情はアメリカや中南米よりも強かった為に、日本人強制収容所もアメリカ以上に酷く、強制収容所に入れられた日系カナダ人の扱いはあった悲惨であった。

 その証拠に、カナダの日本人強制収容所の実話は世の中に出てこない。

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 1942年 大平洋問題調査会は、マーシャル陸軍参謀総長の要請に従って、ロックフェラー財閥の全面支援を受け、日本軍の残虐行為を捏造して反日宣伝工作を行った。

 日本軍の非人道的犯罪行為に関する情報は、コミンテルンの息のかかった国民党国際宣伝処やYMCA系宣教師から提供された。

 キリスト教徒は、異教徒の王・昭和天皇を日本から排除する為に全面的に協力した。

 国民世論の、昭和天皇と軍国日本への憎悪は、こうした事実無根の悪意に満ちた偽宣伝によって増幅された。

 スターリンは、アメリカ共産党を通じてルーズベルト政権 内部や太平洋問題調査会に200名以上のソ連スパイを入り込んでいた。『ヴェノナ文書』

 ソ連スパイは、スターリンの密命を受けて、日本を戦争に追い込む為にあらゆる手段を講じていた。

 日本の共産主義者も、スターリンの指示を受け、アジアの平和を唱えて反天皇反日活動を続けていた。

 戦後、マッカーシー上院議委員は、戦前・戦中のルーズベルト政権内部で活躍した数百人以上のソ連スパイを告発した。

 中国共産党は、日本人共産主義者や朝鮮人独立派と協力して満州や朝鮮に工作員を送り込んでいた。

 日本軍内の朝鮮人軍属は、朝鮮の軍国日本からの独立の為に、中国共産党に日本軍はもちろん満州国軍や南京傀儡政府軍の軍事機密情報を流していた。

 日本の警察当局は、中国各地で中共諜報団と言われるスパイ組織を摘発し、満鉄職員中西功や同盟通信社記者西里竜夫や中国人と日本人の混血児である汪錦元ら隠れ共産主義者を一斉検挙した。

 日本国内に潜む祖国を売る共産主義者スパイ団は、個別の組織として個別に活動しながら社会各層に深く入り込んでいた。彼等は、日本帝国主義、天皇制ファシズムを打倒する事を正義と確信し、日本を世界戦争に引きずり込んで破壊しようとしていた。

 日本側の対重慶和平工作は、彼等の暗躍で全て不調に終わっていた。

 特高や憲兵隊が躍起となっても、全てを破壊する事が出来なかった。

 中西功「帰国すれば死刑か無期だ。しかし3年もすれば日本に大きな変動が起きる。その時、私は自由の身になるのだ」

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 アメリカに住む日本人の72.7%が、日本に帰国した事がない。

 日系二世で、日本に留学して教育を受けた事がある者は12.9%であった。

 日本人移民は、日本民族出身という誇りは持っていたが、中国人や朝鮮人ほどに日本国家への愛着はなく、日本人であろうという意識も薄かった。

 日系アメリカ人は、模範的なアメリカ人になる為に日本を捨て、アメリカに同化するべくアメリカへの忠誠を誓い、日本と敵対してもアメリカ国民としての責任と義務を果たそうとした。

 日本人移民は、アメリカを自分の都合の良い様に変えるのではなく、自分をアメリカに合わせて変えようとした。

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 アメリカ政府は、上海のユダヤ人難民の生活が苦しくなる事を知っていて、在外日本資産を凍結し、物資の輸出を停止に近い制限を加えた。

 上海のユダヤ人難民は、ジョイント(アメリカ・ユダヤ人合同配分委員会)からの送金が停止され、生活物資の流通も途絶えて生活が苦しくなった。

 日本軍は、ユダヤ人難民の生活を守る為に、ジョイント本部と協議してスイス赤十字経由で18万ドルのクレジットを承認した。

 アメリカ政府は最初は戦争を優先して反対したが、ジョイントの説得とキリスト教会の要請で日本軍支配下への送金を認めた。

 交渉に当たったのは、A級戦犯の東郷茂徳外相(靖国神社)であった。

 賀屋興宣蔵相(A級戦犯)は、ユダヤ人難民救済の為に、特例として上海租界の在米資産凍結を解除した。

 日本人は国際信義として賄賂を取らなかったが、中国人と朝鮮人は公然と賄賂を要求した。

 中国と朝鮮は、日本とは違って、古代から賄賂と不正が公然と横行する腐敗した社会であった。

 上海には、以前ほどではないが、外貨と物資が出回る様になった。

 中国人商人や中国人秘密結社は、ユダヤ人の物資や資金をあの手この手で巻き上げていた。

 個性の強い貪欲な中国人は、相手が弱いとみるや、ハイエナの様に群がり、何もかも奪い去ろうとしていた。

 日本軍は、ユダヤ人難民の生活を悪徳中国人から守る為に上海ゲットーを造り、貧困で生活に困っているユダヤ人難民達を収容した。

 中国に逃げてきたユダヤ人難民達は、昭和天皇と東條英機や松岡洋右ら多くのA級戦犯の庇護のもと、中国を占領している日本軍の保護下で守られていた。

 ユダヤ人難民を助けたA級戦犯は、靖国神社の祭神として祀られている。

 右翼・右派の人種差別主義者は、反ユダヤ主義者として、ナチス・ドイツに協力してユダヤ人難民を皆殺しにしようとしていた。

 亡き昭和天皇と今上天皇は、神の裔として、唯一の祭祀王でありながら、アジア諸国や国際世論の「靖国神社反対」によって御親拝できずにいる。

 反対派日本人は、歴史の全てを知り、全てを正確に理解した上で、確信を持って行動している。彼らに、知らない事は何もない。 

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 アメリカ陸軍省陸軍情報教育部は、日本軍と戦うアメリカ兵への反日教育として『汝の敵を知れ』というパンフレットを作成した。

 アメリカ軍は、日本人は文化以前の野蛮人であり、道徳を持たない未開人である以上、白人と同等と考えず、道徳的に扱う必要はないと徹底的に教育した。

 アメリカ人兵士は、宗教的人種差別と反日教育で日本軍と戦い、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下といった大量虐殺に対する罪悪感は皆無である。

 兵士であれ、一般の非戦闘員であれ、日本人を皆殺しにする事は世界平和の為の正義とされた。

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 1月 アメリカ政府は、日本政府に対して、兵士捕虜への虐待を禁止し身の安全を確保するというジュネーブ条約の遵守を求めた。

 日本は、軍部の反対で、ジュネーブ条約を批准していなかった。

 東條英機首相は、アメリカの捕虜の待遇に関する要請について、アメリカ軍と同様な待遇は保証できないとして、事情の許す範囲で国内法規に従って「準用する」と返答した。

 この返答が、A級戦犯東條英機の戦争犯罪容疑の一つとされた。

 日本軍は、アメリカ軍に比べて食糧や医薬品が不足していた為に、大量の物資を持っているアメリカ軍が行うであろう捕虜収容所の様な待遇を与えられない以上、最低限の人道的待遇を保証するしか出来なかった。

 つまり。アメリカ軍が日本人兵士捕虜にステーキとワインを出したとしても、日本軍には同等の食事を出せないと言うことである。

 日本は、上官の命令で非戦闘員を無差別に爆撃して殺害した爆撃機のパイロットを、自分の意志で実行した確信的大量虐殺犯として軍法会議にかけて処刑した。

 軍法会議が開かれない状態では、現地司令官の裁量で略式において処刑した。

 その行為が、捕虜虐殺の戦争犯罪とされた。

 日本軍は、連合軍に比べて圧倒的に戦略物資がなかった為に、各戦場で日本軍兵士は飢えと闘いながら戦っていた。

 戦う日本軍兵士への補給を制限しても、戦略物資が欠乏している日本軍の捕虜収容所では、有り余る戦略物資を持つ連合国軍の捕虜収容所の様な待遇は不可能であるとして、連合国同様の待遇は保証できないとした。

 だが、1,061人の日本兵士が捕虜虐待のB・C級戦犯で処刑された。

 アメリカや連合国は、最初から日本軍兵士及び一般人に対して、ジュネーブ条約を含む一切の人権的国際法を適用する気はなかった。

 ゆえに、一般市民を大量殺傷する目的の、都市への無差別爆撃や原爆投下を行った。

 勝者である連合国の行った行為は、全て正当防衛とされた。

 この日本軍の行為は戦争犯罪とされ、多くの日本軍将兵が有罪となって処刑された。

 東條英機は、有罪とされ、リンチ的縛り首にされた。

 昭和天皇も、道義的責任があるとして、逝去された現代に於いても「天皇の戦争責任」が追求されている。

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 連合国26ヵ国は、日本やナチス・ドイツと単独講和をしないという連合国共同宣言に調印した。

 西海岸諸州の報道機関は、一斉に、日本人隔離キャンペーンを行った。

 各州議会や市当局は、日本人の強制隔離に賛成を表明した。

 1月7日 満州の梅津大使は、「満州国は無国籍となった在満ユダヤ人難民を他の外人と同様に扱う事」を東郷外相に知らせた。

 1月8日 イギリス空軍は、日本と同盟を結んだタイに対して空爆を開始した。

 タイは、自衛の為にイギリス・アメリカに対して1月25日に宣戦布告し、日本軍に協力してイギリス領ビルマに進攻した。

 日本軍は、イギリスに奪われていた旧タイ領を占領するやタイに返還した。

 タイは、日本への恩義から、国内を日本軍の兵站基地として提供した。

 カナダ政府は、西部のブリティッシュ・コロンビア州の日本人移民2万3,438人をどう扱うかを協議した。

 カナダ軍は、イギリス連邦の一員として香港やシンガポールなどの防衛に数千人を派遣し、内2,000人が日本軍の捕虜となっていた。

 カナダ政府は、捕虜となっているカナダ兵が日本軍から報復的虐待を受ける事を恐れて、日本人移民への監視を強化するが強制収容はしないと決定した。

 ブリティッシュ・コロンビア州選出議員は、日本人移民の強制収容を求める地元住民の意見を伝える為に首都オタワに向かった。

 西海岸住民は、カナダ政府に対して、日本人移民を隔離排除する為に強制収容は必要であるとの請願書や電報を大量に送りつけていた。

 アメリカやカナダなどでは、ハワイに於ける日本人移民による破壊工作が報道され、日本人移民への敵意が増幅されていた。

 1月10日 アメリカ海軍潜水艦は、病院船ハルピン丸を轟沈して、多くの日本人を救助する事なく溺死させた。

 1月11日 日本は、オランダに対して宣戦布告した。

 日本軍は、蘭印に侵攻した。

 オランダは、41年12月10日に、日本に対して宣戦布告した。

 オランダ軍は、各地で日本軍の猛攻にあい激戦の末に降伏した。

 日本軍の勝利で、アジア・アフリカで信じられた白人不敗神話は終焉した。

 レティシア・R・コンスタンティーノ(フィリピン大学歴史学部教授)「東アジアに対する日本の軍事進出は、いろいろの意味で、アジアに解放をもたらす力を、存分なまでふるった。

 日本帝国の軍隊が、香港、ビルマ、インドネシア、インドといった、西側帝国主義の要塞を次々と攻略していった素早さは、それまで白人は不敗と信じていた諸民族を、驚愕された」

 日本軍は、占領地の拡大と共に守備部隊を分散した為に兵力不足に陥り、やむなく現地人を集めて防衛義勇軍として軍事教練を施し銃器や航空機(二枚翼の練習機)などの武器を与えた。

 教育に力を入れ、公用語としてインドネシア語の普及に力を入れ、これまでの英語やオランダ語のかわりに日本語を教えた。

 インドネシア人は、始めて共通語を得た。

 1月12日 イギリスは、中東のハイファに到着したウ・ソーに、日本側の極秘暗号電報の全文を見せ、宗主国に対する反逆罪で逮捕した。ウ・ソーは、解任され、ウガンダに戦後まで幽閉された。

 ルーズベルト「私は、ビルマ人がもともと嫌いです。あなた方もこの50年間、彼等に随分手を焼いたでしょう。幸いウ・ソーは今やあなた方の厳重な監禁下に置かれています。どうか一味を残らず捕らえて処刑台に送り、自ら蒔いた種を自分で刈り取らせるよう願っています」

 ウ・ソーは、1947年7月の民族の英雄アウンサン将軍暗殺の首謀者として処刑された。

 1月15日 外務省は、ユダヤ人対策を根本的に再考して「我軍占領地に於けるユダヤ人処理方針案」を作成した。

 東條首相や東郷外相ら政府及び軍部は、昭和天皇の希望を入れて、戦時国際法を無国籍ユダヤ人難民保護の為に弾力的に運用して、反天皇反日宣伝に悪用される事を警戒した。

 そして、ナチス・ドイツが日本軍占領地内でユダヤ人迫害を行わない様に監視を強化した。

 1月17日 サンフランシスコ市は、全ての日系企業に対して閉鎖を命じた。

 日系企業に働いていた数万人の日系アメリカ人は失業し、その家族は路頭に放り出された。

 1月19日 木村兵太郎陸軍次官は、東條陸相の許可を得て、全軍に「時局に伴いユダヤ人取り扱いに関する件」を伝えて、無国籍ユダヤ人の保護を命じた。

 1月26日 宮中歌会始。

 昭和天皇「峯つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと たたいのるなり」

 昭和天皇は、口には出さなかったが常に平和を念じ、戦争を讃える好戦的な御歌を読む事がなかった。

 そして、アメリカで苦難にあっている日本人移民の身の上を案じた。

 1月29日 アメリカ司法省は、軍事基地、港湾、空港、電力供給施設など軍事上重要地域から敵性外国人の排除を決定し、排除地域の選定を軍に一任した。

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 東條英機首相からの手紙。要旨「日系二世は、アメリカ人である。だから、あくまでも自国に忠誠を尽くして当然である」(ミノル・トウナイ「日系人は祖国アメリカに尽くせ!」ワック株式会社『歴史通』11月号 2010年11月9日)

 この手紙は、実物が存在しない為に偽物とういわれている。

  ・   ・   ・ (戦時移民計画局→戦時移住計画局)  

 2月 ヒトラーは、多額の資金がかかる原爆開発の規模を縮小する事を命じた。事実上、ドイツにおける原爆開発は中止に追い込まれた。

 ルーズベルトは、アメリカ人兵士の犠牲者を最小限にとどめて勝利する為に、優れた科学技術と膨大な物量を生産する工業力を最大に利用し、一つの都市を瞬時に破壊する原爆の開発を命じた。

 議会の承認を得ることなく、原爆の開発を急げ為に20億ドル以上の巨額な資金を投入した。

 戦時では、議会は政府や軍当局の要求を「勝利」を条件として形式的な手続きのもとで承認した。

 議会は、戦時では政府と軍隊に従属する。

 王実味「38年頃には絶対平等とかいっていたが、実際には高級幹部はどういう生活をしているのか。こんなに格差があっては、おかしいのではないか。この状態を放っておくと大変な事になる」

 延安において。中国共産党は、人民の平等を謳い、数万人の高等教育を受けたインテリを集めた。

 だが、そこには平等も公平もなく、激しい格差が存在し、上級階級は下級党員に比べて優遇されていた。

 上級幹部は下級党員を小間使いの様に扱き使い、下級党員は鬱憤を党員でない人民にぶつけて虐待していた。

 ヒュー・バイアス『敵国日本』「今日の日本を支配しているのは軍事社会主義であるが、これは生来の好戦心に、マルクス主義が影響して生まれたものだ」

 「今日の日本にあるのは、実質的な独裁政府である。しかし、我々の考える独裁とは違う。国民政党と称する政党が独裁者の背後にあり、彼の面前でプロパガンダが大声で叫ばれ、独裁者が権力を行使するという類いの独裁ではない。ドイツではヒトラー、ソ連ではスターリン、イタリーではムッソリーニがそれと指摘できる。しかし、日本にはそれと挙げるべき名前はない。それは日本人の名前が奇妙に聞こえるからではなく、日本にはこの種の権威をもつ個人的指導者がいないからである」

 2月13日 ハイラル・ジョンソン上院議員ら太平洋岸議員代表者会議は、ルーズベルトに対して、日本人の血を引く敵国人は戦時戒厳令を布告するまでもなく全員隔離するべきであるとの意見書を提出した。

 ナチス・ドイツは、ユダヤ人を分類するにあたって、混血における血の濃さを考慮した。

 アメリカに於ける日本人分類は、白人・非白人を基準として、一滴でも日本人の血が混じっていれば容赦せず、全ての混血児も対象とされた。

 その意味に於いて、アメリカの分類はナチス・ドイツよりも徹底していた。

 司法省は、そこまで徹底して日本人移民を隔離する必要があるのか懐疑的であり、市民権を持つ日系アメリカ人の人権侵害になる事を警戒した。

 西部諸州議員は、司法省に対して、日本人隔離政策に賛成する様に政治的圧力を加えた。

 2月14日 西部方面防衛軍司令官J・L・デウィット中将は、スチムソン陸軍長官に対して、日系アメリカ人全員を直ちに強制収容所に入れて隔離すべきであるとの意見書を提出した。

 西部諸州知事及びサンフランシスコ市当局は、日系アメリカ人は日本軍の上陸を手引きし各地で暴動を起こす危険性がると、ワシントンに訴えた。

 強制収容の対象は、人数の少ない日系だけであり、人口の多いドイツ系やイタリア系は除外した。

 2月15日 山下泰文中将指揮下の第二十五軍は、難攻不落のシンガポールを攻略した。

 イギリス軍約10万人対日本軍4万人。

 ヒトラーは、人種差別から、優秀民族であるアングロ・サクソンのイギリスが非白人の日本軍に破れた事に落胆した。

 リッベントロップ外相に「我々は、世紀の尺度で物を考えねばならない。将来、黄禍が我々にとって最大の危機にならないと限らない」と語った。

 ハッセル元ローマ駐在ドイツ大使日記。3月22日「ヒトラーは日本の大戦果に全く熱意を示さなかった。彼は黄色人種を追い返す為にイギリスの援助に20箇師団を喜んで派遣すると語った」

 ヒトラーは、人種差別主義者としてユダヤ人同様に黄色人種を嫌っていたが、気宇壮大な夢想家として、偉大な世界文明を築いた中国に憧れていたが、日本は猿真似が上手いだけの文化度の低い周辺国として興味が薄かった。

 2月17日 日本軍は、ビルマや蘭印への侵攻作戦を行う為にも、後方の安全を確保する必要があった。占領したシンガポールで、連合軍に情報し破壊活動などのゲリラを行う華僑抗日義勇軍や中国人のマレー共産党員ら合計数万人を処刑した。中には、破壊活動に参加していない中国人も混じっていた。

 戦後、民間人の中に紛れて破壊活動を行ったゲリラを処刑した事が戦争犯罪とされて、多くの日本人将兵が戦争犯罪者として処刑された。

 シンガポールを占領した日本軍は、イギリスが誇る最新鋭機器であるレーダー装置2基をを鹵獲した。調べた結果、それは日本の八木教授が発明した指向性アンテナであり、かって日本の特許庁が却下した技術である事が判明した。

 日本の技術官僚は、欧米技術を優秀とし日本の技術を猿真似のまがい物と評価しなかった。武井武が発明した非鉄磁石フェライトの特許を、八木アンテナ同様に真価を認識できず受理しなかった。

 日本の軍事技術の遅れは、最先端技術に対する日本軍人の無能とい前に、国際派を標榜する西欧礼賛官僚の傲慢による。

 高級官僚は、戦場に出て戦死する危険がなく、目の前で部下の死を見る事がなかった。ゆえに、汗水たらして泥に塗れるという危険な現場を知らず、現実離れした自分の理念理想のみを後生大事にして、自分が知る範囲外の全てを否定し排除した。

 そうした自己満足的役人根性は、アメリカの奴隷の如くアメリカの言うままに無条件で受け入れる戦後日本に蔓延った。相手が、アメリカから中国に変わっても、その思考停止状態は変化しない。

 2月19日 ルーズベルトは、「大統領令9066号」に署名し、スチムソンを陸軍長官に対して軍事的重要施設地域を選定し速やかに敵性外国人を排除する様に命じた。

 この人種分離政策は、当然の事ながら非白人・日本人のみで、白人であるドイツ人やイタリア人には適用されなかった。

 日系アメリカ人は、一般的民間人であり、女子供も含まれていた。

 約10万人の日系アメリカ人の内7万人が、合衆国憲法が定めた市民権を持った二世や三世のアメリカ市民であった。

 公民権を持つ日系アメリカ人は、「敵性外国人」としてその権利すべてを剥奪され、財産の大半を二束三文で放棄させられた。

 日系アメリカ人は、国民として祖国アメリカに忠誠を誓いこそすれ、アメリカを裏切って日本の利益の為に破壊行為やスパイ行為などを一度も行った事がなかった。

 日本の軍部も、天皇の「移民者に不利になる事は避けるように」との希望に従って、彼等を謀略の一環として「第五列」として利用する事はしなかった。

 彼等は、武士らしく、正々堂々と、正面切っての果たし合いを好んだ。卑怯卑劣、姑息で陰険な戦法を嫌った。

 それゆえに「死」の美学として潔くあっさりと「死」を覚悟し、捨て身で「神風特攻」を行い、玉砕覚悟の「万歳突撃」を行った。

 『命の大切さを知るがゆえに、生きる意味を深く自問自答して、死から逃げることなく「死」を直視していた』

 FBIは、危険人物と疑う一世と二世の在米日本人約5,000人を一斉検挙して、拷問的尋問を行った。非協力者の怪我は、見せしめとして治療はせずに、拘置所に放り込んで放置した。

 アメリカの警察の一部も腐敗し、犯罪者から賄賂を受け取っている警察官がいた。

 だが、彼等は偏執的人種差別主義者として日本人家族からの金品は拒絶した。

 「シラミの子はシラミ」

 「黄色い害虫は、生まれ変わっても黄色い害虫」 

 白人至上主義の人種差別主義者は、黄色い害虫・日本人を人間以下の家畜として扱った。

 強制収容所に移送されるあいだ、劣悪な家畜小屋や競馬場の厩舎や競技場の倉庫などに集めて押し込んだ。

 身体を洗う際はプライバシーはなく、女性であっても男の監視員の前で全裸となり、汚物が残る薄汚い洗い場で家畜を洗うシャワーの使用を強要された。

 拒否する事は許されず、権利を主張して反攻すれば家畜の様にムチで強打された。

 食事は、残飯に近い栄養価の乏しい食べ物であり、抗議すればリンチを受け食事抜きで食堂から追い出された。

 一切の抗議は許されず、絶対服従が強いられた。

 反攻すれば、容赦なく、半殺しに近いリンチが加えられた。

 日本人は、人間ではなくイエローモンキー或いは黄色い害虫として扱われた。

 そこは、絶対神も見放した暴力が支配する強制収容所である。全知全能にして天地創造の主の恩寵が届かない、隣人愛に無縁な地であった。

 アメリカ社会は、日本以上に人種差別がひどく、非白人への暴行やレイプ事件は日常茶飯で、白人による非白人への殺人事件が起きても警察は本気で捜査しなかった。

 アメリカは、日本以上に凶悪犯罪が多発していた為に、人を信用せず数多くの監視機関が自国民を監視して囮捜査を行っていた。

 そして、司法取引で裏切りや密告を奨励していた。

 彼等は、「原罪を背負っている人は必ず犯罪を犯す存在である」と確信し、特に非白人は生まれる以前から犯罪者と信じていた。

 非白人が白人の様に教養をつけて猿真似する事を軽蔑し、白人になったつもりでいる非白人を単なる馬鹿とあざ笑っていた。

 ジョン・デューイ(コロンビア大学名誉教授)「現在の日本にとって不幸な事はあまりにも急に、そして全ての事にほとんど準備の無いまま一等国になった事だ」(1919年来日)

 黒人は、人種差別に抗議する為に、デトロイトなどの黒人労働者の多い都市で抗議の暴動を起こしていた。

 日本の軍部や外務省は、白人の人種差別や所得格差による階層社会に不満を持つ黒人活動家らに、日本を支持する様にとの宣伝活動を極秘に行っていた。

 アメリカ政府は、各州に対して、退去させた日系アメリカ人を受け入れるかどうか問い合わせた。

 コロラド州のカー知事以外は、日本人の受け入れを拒否した。

 アーカンソー州知事ホーマー・M・アドキンス「我が州民は、日本人の風習やその特異さを知らない。我々はこの問題に協力したいのはやまやまであるが、なにぶん州民の95%はこの州で生まれていて外の事をよく知らない者ばかりだ。この州はこれまで日本人を見た事もない者ばかりである。こうした中で日本人を受け入れるのは好ましい事だとは思わない」

 カンザス州知事ペイン・ラトラー「ジャュプはいらない。カンザスは彼らを歓迎しない」

 コロラド州知事カーは、人道的見地から受け入れを表明したが、受け入れ反対の州住民は抗議の手紙や抗議文を大量に送りつけた。日系アメリカ人の受け入れを表明した為に、43年の州知事選挙で落選した。

 ペルー政府は、アメリカに倣って国内に在住する日本人移民の国外追放を決定し、日本人移民の財産を全て没収してアメリカに強制移送する事を決めた。

 他の中南米諸国も、アメリカの方針に追随し、日本人移民に対して退去隔離策を実施した。

 各地の日本人移民は、不満と不安で、地元政府の決定に従った。

 2月20日 スチムソンを陸軍長官は、軍事的重要地域選定の責任者にデヴィット中将を任命した。

 ヴァンゼー会議。

 2月23日 日本海軍潜水艦伊17号は、カリフォルニア州サント・バーバラ沿岸のエルウッド製油所を砲撃した。

   ・   ・   ・   

 3月 イギリス海軍巡洋艦エクゼター号は、スラバヤ沖海戦で撃沈された。

 救命ボートで漂流中のイギリス人水兵約400名は、日本海軍艦艇を発見するや、日本軍に虐殺されると覚悟した。

 日本海軍駆逐艦「雷」は、武士の情け・惻隠の情として、イギリス人水兵を海から引き上げて救助した。

 日本海軍将兵は、永年の経験として、欧米人兵士は中国人兵士とは違って戦時国際法を遵守して暴動・叛乱を起こさないと知っていたからである。

 日清戦争の時。東郷平八郎元帥(東郷神社)は、助けられても後ろから忍び寄って平気で人の寝首を掻き、恩を仇で返してくる恩知らずの中国人を恐れて助けなかった。

 世界の価値観と中国の価値観は、天と地ほどに違っていた。

 アメリカ陸軍の日本語学校は、メリ−ランド州のキャンプ・リッチーの対ドイツ情報工作訓練学校と合同され、陸軍情報部(MIS)の管轄に入った。

 陸軍情報部は、謀略・情報戦の重要性から規模の拡大・強化が図られた。

   ・   ・   ・   

 3月2日 デヴィット中将は、軍事的重要度から第一地区と第二地区を発表した。

 該当地区に住んでいた日系アメリカ人達は、国家に忠誠を誓うだけに、命令が出る前に自発的に資産を処分して立ち退いた。

 日系アメリカ人の大移動が始まった。

 3月4日 カナダ政府は、日本人移民強制隔離を求める民意を受け入れ、一転して強制収容を決定した。

 日本人移民の強制収容の為に、ブリティッシュ・コロンビア州安全委員会が設立された。

 同委員会は、アメリカの日系アメリカ人強制隔離の方針に倣って、海岸部からカスタード山脈までに住む全ての日本人移民約2万人の強制収容を提言した。

 新聞各社も、反日一色となって、安全保障を理由にして日本人移民の強制収容を支持した。

 カナダ世論も、カナダ市民権有る無しの関係なく敵国人である日本人移民の強制隔離に賛成した。

 アルバータ州都エドモントン「ジャップを絶対に入れるな!」

 全ての州が、日本人移民の受け入れに猛反対した。

 カナダ政府は、内陸諸州に対して、戦争終了後に元のブリティッシュ・コロンビア州に戻すか日本に強制送還すると約束して強制収容所を建設した。

 知日的メデイアは、日本人が日本人だけの地域共同体を作って生活する事が問題である以上、日本人共同体を解体して日本人を全土にバラバラに生活させるべきであると提言した。

 つまり。白人社会に完全同化させる為に、日本人である事を捨てさせるべきであると。

 3月8日 ステート・トリビューン紙「太平洋岸の軍事的に感じやすい地域から排除される日本人を支援し、彼らに働く場を提供しろなどという指示は馬鹿げている」

 軍事警戒第一地域に住んでいた日本人1万231人は、3月27日までに自発的に退去して、内4,825人が第二地域の日本人居住地域に移り住んだ。残りは、日本人排斥運動の少ない他州に出ようとした。

 各地の日本人だけが住んでいる地域は、移住してきた同胞を温かく迎え入れた。

 一部の日系アメリカ人は、そうした日本人だけで集まる閉鎖性の強いムラ的共同体を嫌って日本人のいない土地を目指したが、行く先々で非白人という人種差別で拒否された。

 日本人は、日本人と言うだけで追い出されていた。

 移住先がない日系アメリカ人約1,200人は、元住んでいた第一地域に戻った為に、新たな問題が発生した。

 3月18日 ルーズベルトは、アメリカ国内の全ての日本人を強制的に収容隔離する大統領令9102号を発令し、強制収容を行う強力な権限を持つ部局として戦時移住計画局(WRA)を設立させた。

 「日本人を移転させ、彼らの生活を維持させるという面倒な作業から軍を解放しなければならない。それが戦時移民計画局創設の目的である」

 ミルトン・アイゼンハワーが、初代長官に任命された。

 日本国籍を持つ一世やアメリカ市民権を持つ二世など全ての日系アメリカ人を、武装したアメリカ兵が監視しする有刺鉄線だ囲まれた強制収容所に押し込める事は、アメリカ合衆国憲法はもちろんジュネーブ条約違反であった。

 3月21日 議会は、国防上の理由をもって、指定された重要地域からて外国人を排除する命令を承認した。

 ハワイはもちろんアメリカ本土でも、日系人による暴動や破壊工作は起きていないどころか、日系アメリカ人は国民の義務として忠誠を誓っていた。

 ハワイの人口は約42万人で、日系人は約16万人(人口比率38%)で、内日本国籍は3万5,000人であった。

 アメリカ国籍を持つ日系人達にとって、父祖の国日本よりも自分達の国アメリカを上に置いて、アメリカの為に日本と戦う事を表明した。

 移民達が生きようとしたのは、昨日ではなく明日の為の今日であった。

 軍国日本も、日系人がアメリカに忠誠を誓って自分達と戦う事を許していた。

 それが、武士道であった。

 武士道は、私的な「孝行」より公的な「忠義」を優先していた。

 カリフォルニア州における日系アメリカ人の資産は、約2億ドルと言われていた。

 日本人は、「御上」の御意向に従順に従い性質がある為に、不平を漏らさず、抵抗も見せず、唯々諾々とアメリカ軍の銃口に従った。

 白人至上主義による人種差別が、移動する日系アメリカ人の前に立ち塞がり、各地で思わぬトラブルを生じ始めた。

 カリフォルニア州近隣諸州のハイウェーパトロール警察は、検問所を設けて移動してきた日系アメリカ人家族を追い返した。

 市や郡の各警察も、全ての駅やバスターミナルで日系アメリカ人家族が降り立つの監視し、見付けしだい自費で引き返す事を命じた。

 自発的に退去した数万人の日系アメリカ人達は、受け入れてくれる州や市も町もなく荒野に放り出された。

 各都市や町でも、日系アメリカ人への敵愾心による差別が酷くなり、命に関わる事を承知で食べ物や生活物資を売る事を拒否する個人商店もあった。

 「私のレストランは衛生に気を使っています。店に入ったネズミの様にジャップは必ず殺しています」

 こうした日本人排斥運動は、全ての州で起きていた。

 ネバダ州弁護士協会「日本人がカリフォルニア州バークレー市で危険であれば、ネバダ州でも危険な存在であるに決まっている」

 3月27日 アメリカ政府は、重要指定地域か自発的退去した日系アメリカ人家族が荒野で立ち往生し、人数が急増して命の危険が生じ始めた為に、忠誠心の証しとして自発退去する事を停止する様に命じた。

 日本人隔離の具体策を持たなかったアメリカ政府は、思い付き的退去命令が思わぬ結果をもたらした事に困惑し、早急の代替策をとるべく狼狽えた。

 アメリカ政府にしても軍首脳にしても、いとも簡単に日本人移民が移動命令に抵抗も暴動もせずに従順に従うとは思わなかった。

 アメリカはもちろん如何なる国であっても、強制退去命令を拒否する住民による大混乱が起きるのが当たり前であった。

 移住を命じた当局は、日本人は真珠湾で騙し討ちを行った危険な存在である以上、必ず反国家的大暴動を起こすものと恐怖して警戒していただけ、肩すかしを食らい、面食らってどう対処するか困惑した。

 ディロン・マイヤー「日本人移民強制収容所の設置は、日本人隔離政策の中で事前に計画されたものではなかった。日本人を軍事上、敏感な地域から排除する、という計画だけがあったに過ぎない」

 ワシントンは、隔離作業は地方の州政府任せでは上手く機能しないとして連邦政府が強権的に行うべきと判断した。

 西部方面防衛軍内に戦時市民コントロール局(WCCA)を設置し、軍主導で市民権の有る無しに関係なく全ての日系アメリカ人を特定地域に隔離する事にした。

   ・   ・   ・   

 中立国のメキシコとペルーは、アメリカ政府の命令に従って、国内にいる日系人を逮捕し、財産を没収して追放にした。

 アメリカは、国際法を無視して、国外追放された両国の日系人をテキサス州クリスタルシティ強制収容所に監禁した。

 



   ・   ・   ・

2017-11-18

♬:27─2─五族協和・王道楽土の犠牲になった流転の王妃・嵯峨浩。〜No.116    

流転の王妃の昭和史 (中公文庫)

流転の王妃の昭和史 (中公文庫)

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗

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 軍国日本は、江戸時代末期から、北から侵略してくるロシア・ソ連・共産主義勢力から母国日本・日本天皇を守る事が国防の根幹であった。

 日露戦争の経験から、ロシア・ソ連・共産主義勢力に対抗するに日本一ヵ国では不可能なので、周辺に共に戦ってくれる同盟国を増やす必要があった。

 それが、満州国である。

   ・   ・   ・   

 日露戦争時、清国(中国)と朝鮮が共に戦ってくれたら苦戦しなかったが、ロシアに味方した為に甚大な被害を出して辛勝した。

 中国と朝鮮は、古代から、親日知日ではなく反日敵日であった。

 日本には、古代から、反日敵日国家に包囲されていた。

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 日本民族日本人の祖先は、縄文時代から朝鮮半島南部に原住民として住んでいた。

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 満州国を攻守同盟国にする為には、人質を差し出し、満州国帝室の男子と結婚させる事であった。

 それは自家の女子を相手に差し出す、日本特有の政略結婚であった。

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 11月16日 産経ニュース「「死んだつもりで国の為に結婚」…“流転の王妃”結婚前の揺れ動く心境、赤裸々に 愛新覚羅溥傑の妻・嵯峨浩の未公開書簡21通、東京の古書入札会に出品

 愛新覚羅溥傑の妻、嵯峨浩の見合い写真

 満州国皇帝の弟の愛新覚羅(あいしんかくら)溥傑(ふけつ)の妻で、「流転の王妃」として知られる嵯峨浩(ひろ)(1914〜87年)が結婚直前の揺れ動く心境をつづった未公開書簡が見つかり、16日に東京都千代田区の東京古書会館で報道陣に公開された。国策として進められた政略結婚の内幕を明かす貴重な資料だ。

 浩は嵯峨実勝侯爵の長女で、女子学習院卒業後の昭和12年4月に関東軍の主導で溥傑と結婚。34年刊の自伝「流転の王妃」は映画化もされた。

 今回公開されたのは11年1月〜12年2月に画塾の級友にあてた書簡21通と写真3枚で、うち3通は溥傑との縁談に触れた内容。「とうとうあきらめて私は死んだつもりで国の為(ため)に結婚しなければならなくなりましたの」(12年1月21日)、「本当にもっともっと平凡な結婚がしたうございました」(同1月24日)、「御国(おくに)の為になることなら私はどうなろうと満足でございます(中略)決心と覚悟がつきました」(同2月9日)など、突然の政略結婚への戸惑いや不安、覚悟を赤裸々に打ち明けている。

 書簡は17日から東京古書会館で開かれる古書オークション「古典籍展観大入札会」(東京古典会主催)に出品される。」

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 ウィキペディア

 嵯峨浩(1914年(大正3年)3月16日 - 1987年(昭和62年)6月20日)は、愛新覚羅溥傑(満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟)の妻。後に記した自伝のタイトルから「流転の王妃」として知られる。

 生涯

 戦前

 1914年(大正3年)3月16日、侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の第一子として東京で生まれた。嵯峨家は藤原北家閑院流の三条家の分家で、大臣家の家格をもつ正親町三条家が、明治維新後に三条実美の転法輪三条家と混同されることを避けるため改称したものである。明治17年(1884年)の華族令では家格に基づき公勝に伯爵が叙爵されたが、明治21年(1888年)になって「父・実愛の維新の功績」により嵯峨家は侯爵に陞爵している。

 浩が女子学習院を卒業した1936年(昭和11年)当時、日本の陸軍士官学校を卒業して千葉県に住んでいた満州国皇帝溥儀の弟・溥傑と日本人女性との縁談が、関東軍の主導で進められていた。当初溥儀は、溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向を持っていた。しかし日本の皇室典範は、皇族女子の配偶者を日本の皇族、王公族、または特に認許された華族の男子に限定していたため、たとえ満州国の皇弟といえども日本の皇族との婚姻は制度上認められなかった。そこで昭和天皇とは父親同士が母系のまたいとこにあたり、侯爵家の長女であり、しかも結婚適齢期で年齢的にも溥傑と釣り合う浩に、白羽の矢が立つことになった

 翌1937年(昭和12年)2月6日、二人の婚約内定が満州国大使館から発表され、同年4月3日には東京の軍人会館(現九段会館)で結婚式が挙げられた。同年10月、二人は満州国の首都新京へ渡った。夫婦関係は円満で、翌1938年(昭和13年)には長女・慧生が誕生。翌年、溥傑が東京の駐日満州国大使館に勤務するため東京に戻り、翌1940年(昭和15年)には次女・?生が誕生。?生誕生後すぐに満州へと渡るが、1943年(昭和18年)に溥傑が陸軍大学校に配属されたため、再び東京に戻った。

 流転の日々

 1944年(昭和19年)12月、学習院初等科に在学していた長女の慧生を日本に残して、新京に戻った。翌1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦によって新京を攻められたため脱出し、終戦を朝鮮との国境近くの大栗子(通化省臨江県)で迎えた。溥傑は溥儀の日本へ亡命する飛行機に同乗、浩は陸路で朝鮮に向かい、そこから海路で日本へ帰国することになった。

 しかし、溥儀と溥傑らは途中でソ連軍(赤軍)に拘束され、浩たちのいた大栗子も危険となったため、臨江に逃れた。翌1946年(昭和21年)1月には、八路軍の手によって通化の八路軍公安局に連行され、通化事件に巻き込まれた。同年4月以降、長春(満州国時代の新京)、吉林、延吉、佳木斯へとつぎつぎに身柄を移され、同年7月に佳木斯で釈放された。

 釈放後、同年9月に葫芦島に至り、そこで日本への引揚船を待った。しかし、同地で国民党軍に身柄を拘束され、北京を経由して同年12月に上海へと移された。同月、上海の拘束場所から田中徹雄(旧日本軍の元大尉、のちの山梨県副知事)の助けを得て脱出し、上海発の最後の引揚船に乗船して、翌1947年(昭和22年)1月に日本に帰国した。なお、上記の流転の日々から帰国までの間、次女の?生をずっと伴っていた。

 引揚げ後

 日本に引揚げた後、父・実勝が経営する町田学園の書道教師として生計を立てながら、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移転した嵯峨家の実家で、2人の娘たちと生活した。一方、溥傑は、溥儀とともに撫順の労働改造所に収容され、長らく連絡をとることすらできなかった。1954年(昭和29年)、長女の慧生が、中華人民共和国国務院総理の周恩来に宛てて、「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出した。その手紙に感動した周恩来は、浩・慧生・?生と、溥傑との文通を認めた。

 1957年(昭和32年)12月10日、学習院大学在学中の慧生が、交際していた同級生、大久保武道とピストル自殺した(天城山心中)。

 北京での第二の人生

 1960年(昭和35年)に溥傑が釈放され、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会した。この後、浩は溥傑とともに、北京に居住した。北京に移住後、文化大革命(文革)が始まり、1966年(昭和41年)には二人の自宅が紅衛兵に襲われた。文革が下火になって以降、浩は1974年(昭和49年)、1980年(昭和55年)、1982年(昭和57年)、1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)の計5回、日本に里帰りしている。

 1987年(昭和62年)6月20日、北京で死去した。1988年(昭和63年)、浩の遺骨は、山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された摂社愛新覚羅社に、慧生の遺骨とともに納骨された。

 溥傑が死去した1994年(平成6年)、浩と慧生の遺骨は半分に分けられ、溥傑の遺骨の半分とともに愛新覚羅社に納骨された。浩と慧生の残る半分の遺骨は、溥傑の遺骨の半分とともに、中国妙峰山上空より散骨された。次女の?生は日本に留まって日本人と結婚、5人の子をもうけ、2012年(平成24年)現在、兵庫県西宮市に在住する。

  ・   ・  

 五族協和とは

 日本が満州国を建国した時の理念。五族は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人を指す。五族協和 (満州国)を参照のこと。

  ・   ・   

 王道楽土とは、1932年、満州国建国の際の理念。

 概要

 アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく東洋の徳による統治(王道)で造るという意味が込められている。なお、日本の歴史の教科書には、日本の政府が「王道によって治められる安楽な土地」と説明して、宣伝していたとしているものもある。

 「五族協和」「王道楽土」と並び称されたが、「五族協和」とは、満日蒙漢朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うとする趣旨の言葉。満州には五族以外にも、ロシア革命後に逃れてきた白系ロシア人や、ユダヤ人迫害政策を取ったナチス党政権下のドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人、ウイグル人等のイスラム教徒なども居住していた。

 満州には内戦の続く疲弊した中華民国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人、そして大日本帝国政府と満州国政府の政策に従った満蒙開拓団(満蒙開拓移民・満州武装移民)らの移住・入植が相次ぎ、人口も急激に増加した。

 内地(日本本土)においても、(当時の農村不況も相まって)困窮する零細農民や土地を持たぬ小作農、土地を相続できない農家の次男三男以下など、または大陸にて雄飛し名をあげる野望を抱く「大陸浪人」らの間で、満州に憧れる風潮が生まれた。

満州を新大陸や楽園(ユートピア)のように表現する映画や歌も作られた。

 ・「開拓団の子供」

 ・「迎春花」(李香蘭)

 ・「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」(東宮鉄男作詞)

 日本人の「満州馬賊」として知られているのは

 ・小日向白朗(尚旭東)

 ・伊達順之助(張宗援)

 などであった。

  ・   ・   ・   

 2015年6月30日 産経ニュース「【戦後70年】血に染まった乳母の顔、銃弾・砲弾の嵐…西宮在住ラストエンペラー血族の回想「多くの人に守られ生かされた」

 周恩来首相主催の昼食会での記念写真。前列右から溥傑、浩、周恩来、嵯峨尚子(浩の母)。福永さんは浩の左後方。左から2番目が溥儀=1961年、中国(関西学院大学博物館提供)

 ラストエンペラーとして知られる清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ、1906〜67年)とともに満州で終戦を迎えた血族が兵庫県西宮市に住んでいる。溥儀の実弟である溥傑(ふけつ、1907〜94年)の次女、福永●生(こせい。●=女へんに雨、その下に誇のつくりで大を取る)さん(75)。戦後70年を迎えて戦争の記憶が風化し日中関係が複雑さを増す中、「人と人との真心の交流を大事にしてほしい」と訴えている。(加納裕子)

満州国崩壊 石投げられ、唾吐きかけられ、目の前で多くの命失われた

 福永さんは昭和15(1940)年3月、溥傑と嵯峨浩(さがひろ、1914〜87年)の次女として東京で生まれた。浩は公家華族の長女で、2人の結婚は日本と満州の親善の架け橋といわれた。

 1945年8月の終戦時、5歳だった福永さんは溥儀や溥傑、浩とともに満州にいた。「みんな泣いていて、寂しいような悲しいような情景だけは覚えております」と振り返る。父親の溥傑は溥儀とともに飛行機で亡命する途中、ソ連軍が拘束。一方、母親の浩は「一族とともに皇后をお守りする」と決意して日本への帰国の誘いを断り、やがて皇后とともに中国共産党軍に捕らえられる。

 翌年1月、皇后と浩、福永さんらは中国東北部の町、通化に移送された。翌月、日本人が武装蜂起に失敗し、戦死や処刑などで千人以上が死亡したとされる「通化事件」が発生。福永さんらのいた場所も戦場となり、激しい戦闘にさらされた。

 その後も軍に拘束されたまま中国東北部を転々とし、延吉では軍に市中を引き回されて市民に石やつばを吐きかけられたことも。ハルビンで釈放され、日本に引き揚げる開拓団に紛れて歩き続けてようやく港にたどり着いたが、今度は国民党軍に戦犯として捕らえられた。上海で元軍人の日本人に救出されて日本への引き揚げ船に乗るまで直線距離にして約6千キロ、約1年5カ月に及ぶ流転の日々の中で、母娘の目の前で多くの命が奪われたという。

鮮血で染まる顔、折り重なって守ってくれた人々

 福永さんが鮮烈に覚えていることがある。通化事件で砲弾が飛び交う中、皇后を守ろうとした溥儀の乳母が撃たれ、手首のない手で顔を覆った。鮮血で真っ赤に染まった顔…。乳母はやがて息絶え、遺体は放置された。そんな砲弾の中で一族を守ろうと、布団をかぶせて覆いかぶさった日本兵がいた。その日本兵が砲弾で亡くなると中国兵が同じようにかぶさって守り、命を落としたという。

 「それらの方が亡くなった上で私たちが生かされたことに感謝しております」と福永さんは振り返る。この後も数え切れない修羅場をくぐり抜けての奇跡の生還の陰には、身をていして浩や福永さんを守ろうとした大勢の日本人、中国人がいたという。

愛によって再生した一族の物語、伝えていくことが大事

 溥儀とともにソ連に抑留されていた溥傑はその後、中国の戦犯管理所に送られた後、1960年に釈放。互いを想い続けていた一家は翌年、再会を果たし、浩は生涯を北京で溥傑とともに過ごした。

 一方、福永さんは日本にとどまって帰化し、日本人の実業家と結婚して大阪や兵庫で5人の子供を育てた。溥傑と浩は1972(昭和47)年の日中国交正常化以降に日中親善のため何度も来日し、浩は福永さんに「物がなくなっても惜しむことはない。人の心と自分の命を大切にするように」と繰り返したという。

 平成25年10月、福永さんは兵庫県西宮市の自宅で保管していた一族の資料約千点を同市にある関西学院大学博物館に寄贈。同博物館では27年5〜7月に約60点を公開する展覧会「愛新覚羅家の人びと−相依為命(あいよっていのちをなす)−」が開催され、6月20日に開かれた記念講演会では福永さんが自らの体験を語った。

 博物館によると、当初の定員300人に対して4倍近い参加申し込みが寄せられ、関西圏だけでなく、関東や九州など遠方からの参加者もいたという。河上繁樹館長は「予想を超える反響だった。終戦から70年、中国との緊張関係もある中で、戦争を知らない世代が増えている。ご本人が語ることが大きかったのではないか」と話す。

 展覧会の副題「相依為命」は「時代は変わっても、相手を思いやる気持ちがあれば生きていける」との意味で、溥傑がよく口にした言葉。福永さんの生涯をつづったノンフィクション「流転の子 最後の皇女・愛新覚羅●生」を著した作家の本岡典子さん(59)は「●生(こせい)様は“命さえあれば”と語られ、その言葉はシンプルだけれど大切なこと。苦労の後、愛によって再生したご一族の物語を伝えていくことは今、とても大事なことだと思います」と訴える。

 福永さんは取材に対して穏やかだが、凛とした表情で語った。「私どもは政治や経済とは全く関係ありません。心と心の交流こそが一番確かで信頼できると思うのです。父と母の『相依為命』ではありませんが、お互いに思い合って支え合って生きていく精神が広まれば、戦争は少なくなると思います。次の世代の方にも心と心の交流を続けていってほしいのです」

   ◇  

 ■愛新覚羅家の歩み(敬称略)

 1906年 愛新覚羅溥儀が誕生

 1907年 溥儀の実弟、溥傑が誕生

 1908年 溥儀が第12代清朝皇帝になる

 1912年 溥儀が退位し、清朝が滅亡

 1914年 嵯峨浩が誕生

 1928年 溥傑が日本に留学

 1932年 満州国建国宣言、溥儀が執政に就任

 1934年 溥儀が満州国皇帝に即位

 1937年 溥傑と浩が日本で結婚、2人は満州へ渡る

 1938年 溥傑の長女、慧生(えいせい)が誕生

 1940年 溥傑の次女、●生(こせい)が誕生

 1945年 満州国崩壊、溥儀が退位。溥儀と溥傑はソ連軍に拘束される

 1947年 1年5カ月の流転の末、浩と●生が帰国。終戦時に学習院初等科通学のため日本にいた慧生と再会

 1950年 溥儀と溥傑が中国の戦犯管理所へ移送される

 1957年 慧生が死去

 1959年 溥儀が釈放される

 1960年 溥傑が釈放される

 1961年 ●生が学習院女子短期大学を卒業。溥傑と浩、●生が北京で再会。浩は北京にとどまり、●生は日本に帰国する

 1962年 ●生が日本に帰化

 1967年 溥儀が死去

 1968年 ●生が日本人実業家の福永健治と結婚、大阪に居を構える(その後、一家は兵庫へ転居)

 1972年 日中国交回復

 1987年 浩が北京で死去

 1994年 溥傑が北京で死去

 2007年 福永健治が死去

 2013年 ●生が一族の写真や手紙、映像などの資料約千点を関西学院大学博物館に寄贈

 (●=女へんに雨、その下に誇のつくりで大を取る)

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 朝日新聞

 絵空事に終わった五族の共生

 るで日本の城を移設したかのような旧関東軍司令部。今もそのまま共産党吉林省委員会が使っている=中国・長春で

 溥儀(プーイー)(ふぎ)(1906〜67)

 清朝最後の皇帝(宣統帝)。姓は愛新覚羅。2歳で即位し、辛亥革命で1912年に退位した。満州事変の最中に日本軍に連れ出され、32年の満州国建国とともに執政、34年に皇帝(康徳帝)となった。日本の敗戦後はソ連に抑留された。50年に中国で戦犯となったが、59年に特赦を受け、一市民として余生をすごした。自伝に「関東軍は高圧の電源、私は正確敏活なモーターのようなもの」だったとある。満州国を傀儡(かいらい)国家と自覚していたのだろう。

 東京の新大久保は不思議な街だ。

 韓国、中国、モンゴル、ベトナム、タイ、マレーシア……。いろんな国の料理店が軒を並べ、様々な外国語が飛び交う。

 かつて「満州国」があった中国・延辺(イエンピエン)朝鮮族自治州の人が出した店もある。

 「ぼくのふるさとの味です」

 そう言って、満州の朝鮮人を研究している一橋大客員研究員の許寿童(ホ・スドン)さん(43)が私を誘った。

 許さんの父親は満州国時代の1938年に、8歳で家族と一緒に朝鮮南部から延辺に移った。当時の朝鮮は日本の植民地。土地を奪われ、食べていけない農民も多かった。そんな農村の人減らしと、満州に日本の勢力を増やそうとする移民政策で、押し出されるように国境を越えたのだった。

 許さんと話しながら、二つのことを考えた。一つは、満州国とそれまでの日本の植民地とのつながり。もう一つは、新大久保の街が象徴する日本の今と満州国とのつながりだ。日本では今、人口減や少子化を補うように外国人が増え、多くの民族が共に生きる社会のあり方が問われている。「五族協和」に失敗した満州国に学ぶものがあるのではないか。

 そう口にすると、許さんはこう言った。

 「五族協和はウソでした。それを前提に歴史に目を向けるべきでしょう」

         *

 満州国の首都だった長春(チャンチュン)に飛んだ。

 ここもまた、不思議な街だ。

 満州国時代は「新京(しんきょう)」と呼ばれた。壮大な都市計画で造られた建物群がほとんどそのまま残っている。しかも、大学や病院として今も使われている。生きた歴史のテーマパーク、とでも言おうか。

 たとえば、満州国政府の中枢だった国務院は、西洋と中国の伝統様式を混ぜた造りで、日本の国会議事堂のようだ。

 なぜこんなところに日本の城があるんだろう――。そう驚かされるのが、街の中心で威容を誇る関東軍司令部の建物だ。満州国の支配権を誰が握っていたか、一目瞭然(りょうぜん)と言っていい。今は共産党の吉林(チーリン)省委員会。この地域の最高権力者であり、権力のバトンタッチを見る思いがする。

 侵略者の建物を壊さずに、使い続けているのはどうしてだろう。省の公文書館にあたる機関で、満州国時代の憲兵隊文書などの整理に取り組んでいる張志強(チャン・チーチアン)さん(55)に疑問をぶつけてみた。

 二つの理由がある、と張さんは言う。

 まず、日本の敗戦で満州国が崩壊したとき、まだ数年しか使っていなかった。それに、設計は日本人でも建てたのは中国人。「自分たちの血と汗で造ったものを使うのは当たり前」だったのだそうだ。

 二つめは、青少年への「愛国主義教育」のためだ。「侵略された時代の物を残せば歴史の事実が見えますから」

 確かに、ここに来れば、満州国の記憶がよみがえる。ところが、建物には「偽満(ウェイマン)」「偽満州国(ウェイマンチョウクオ)」の史跡という金属板が張ってある。目の前にはっきりと存在しているのに、ニセモノとはどういうわけか。

 東北淪陥(りんかん)14年。満州事変から満州国の崩壊までを中国ではそう呼ぶ。東北地方が占領され踏みにじられた屈辱的な時代という意味だ。20年ほど前から淪陥史をつくる事業が始まった。編集長を務めてきた省社会科学院の孫継武(スン・チーウー)さん(81)を訪ねた。

 「偽満というのは、満州国を認めないということです。私たちの土地を奪った日本がつくった国ですからね」

 その時代を生きた孫さんは、小学校から日本語を習わされた。タバコとタマゴの発音が区別できず、先生に「バカ」と言われて殴られた。日本人の子が中国人を殴っても先生は注意しない。朝礼も別々に並ばされた。「何が五族協和だ」。日本への反感は高まるばかりだったという。

 孫さんたちは80年代末から90年代末にかけて、「偽満」の時代に日本の開拓民が入植した地域の農民100人余りの聞き取り調査をした。見えてきたのは日本の軍隊に土地を奪われる農民の姿だった。山野に追われて荒れ地を開墾するか、土地を手にした日本の開拓民の小作をするしかなかった。その日本人も多くは貧乏な農民だった。

 「彼らも日本の侵略の犠牲者。中国の農民と友好的なつきあいをした人もいたんですよ」。そう言ったあとで、孫さんはすぐ言葉を継いだ。「全体的にいうと、日本人はすごく優越感を持っていた。自分たちは優等民族で、中国人は劣等民族だと」

 それを象徴するのが、孫さんが学校で毎日やらされた宮城遥拝(きゅうじょうようはい)だ。天皇がいる東京に向かって拝み、それから満州国皇帝の方を拝む。この順序で、満州国は日本の傀儡(かいらい)国家だと子供にもわかったのである。

 ■朝鮮からの移民急増 植民地政策が後押し

 さて、そろそろ冒頭の許さんの故郷を訪ねなくてはなるまい。

 延吉(イエンチー)の空港に降り立つと、冷気が肌をさす。朝鮮南部から来た人々にこの寒さはこたえたはずだ。それでも、朝鮮が日本の植民地になったあと、とりわけ満州国ができたあとに朝鮮人の数は急増した。なぜか。

 延吉にある延辺大の民族研究院長、孫春日(スン・チュンリー)さん(49)は二つあげる。

 一つは、日本の植民地統治への不満があって逃れてきた人たち。もう一つは、日本が始めた土地調査で証明書がないなどで土地を奪われた人たちだ。いずれも、日本の植民地政策が背中を押したことになる。

 朝鮮人の移民は17世紀から始まったが、日本の統治後には満州事変までに100万人を超え、満州国時代に230万人に達した。そう指摘して、孫さんは言う。

 「満州国をつくってから、日本は朝鮮でも王道楽土の宣伝を始めました。朝鮮人は反日感情が強いが、このころには日本にはもう勝てないという心理も芽生え、日本人扱いされて優越感を持つ人もいた。一旗揚げようと満州へ来る人が増えました」

 36年からは計画移民政策が始まった。20年で日本の農家100万戸を移住させ、満州人口の1割を占める。そういう計画だったが、日本人だけでは足りず、朝鮮人も毎年1万戸を入植させようとしたのだった。

 その一方で、日本軍は朝鮮人の「反満抗日運動」にも手を焼いた。そのために、農民たちを「集団部落」に囲い込み、外側の抗日勢力との分断をはかった。

 延辺朝鮮族自治州を車で走ると、あちこちで「抗日戦士」の記念碑に出あう。その数の多さが、日本の弾圧の厳しさと犠牲者の多さを物語る。「日本がここに派出所を出した1907年から38年間の抗日の歴史があるんです」。案内してくれた州博物館研究員の金哲洙(チン・チョーチュー)さん(58)がそう言った。

 ■台湾からも官僚・医者 日本人並み身分求め

 日本の植民地になったために、満州とつながる。この流れは台湾でも起きていた。

 台北にある中央研究院台湾史研究所の所長、許雪姫(シュイ・シュエチー)さん(54)は、満州に住んだ台湾人の研究を90年代から続けている。

 47年2月28日に国民党政権が住民を虐殺した「二・二八事件」とその後の弾圧を調べるうちに、犠牲者に満州から帰った人がいるのに気づいたのが発端だった。

 「日本統治時代の研究はそれまで、中国南部の重慶(チョンチン)に行って国民党に参加した人たちに偏っていた。満州に行った台湾人に焦点を当てた研究はなかったんです」

 許さんはまず、満州体験者700人のデータを集めた。驚いたのは、医者の多さだった。満州医大の卒業生だけでも100人余り。次いで目立つのは公務員だった。

 その背景を許さんはこう見る。

 「台湾には高等教育機関が少ないうえ、就職も容易でなく、日本人とは給与差別もありました。だから、日本人待遇で活躍できる満州へ、という流れでした」

 また、台湾出身で満州国の初代外交部総長(外相)を務めた謝介石(シエ・チエシー)にあこがれ、満州へ渡った若者も少なくなかったという。

 許さんは満州から帰った約50人に話を聞いた。だが、彼らの口は重かった。謝介石が戦後は「漢奸(かんかん)(中国の裏切り者)」とされたように、身の危険があったからだ。

 その一人で、38年に開校した満州国の最高学府、建国大を1期生として卒業した李水清(リー・ショイチン)さん(89)に会うことができた。

 「入学したころは、五族協和の理想に燃えていた。同窓生は今でも兄弟のように仲がいいです」。きれいな日本語だ。

 貧しかった李さんにとって、学費や衣食住の費用がいらず、小遣いまで出る建国大は輝いて見えた。学生は日本人、中国人のほか、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人もいて、寮で6年間生活をともにした。日本人はコメ、中国人はコーリャン。そんな満州国の差別に憤り、同じ食事をとった。

 だが、3期生が入った40年ころから動揺期に入り、やがて崩壊状態になったというのが、李さんの見方だ。日本が英米と開戦した41年末には、関東軍による思想弾圧事件が起こり、獄死する建国大学生も出た。

 戦後は、建国大の後輩が二・二八事件で殺され、李さんも2年半の獄中生活を強いられた。それでも李さんは、建国大に行って良かったと思っている。

 「違う民族が一緒にいて、立場をかえて物事を見る姿勢を学びました」

 それも大学の中の話。外の満州国は矛盾だらけだった。行政のトップには中国人が置かれたが、それは名前だけで実権はその下の日本人が握っていた。そもそも満州国には国籍法がなかった。法的には「満州国民」は一人もいなかったことになる。

 「日満合併に持っていくつもりだったからでしょう」。李さんはこともなげに言った。そう見られていた満州国が、すでに日本の植民地になっていた台湾や朝鮮とつながっていて何の不思議もない。

         *

 ここに紹介できなかった人も含めて、当時を生きた多くの人々から聞いた言葉がある。孫継武さんが口にした、日本人の「優越感」だ。そんな感覚の「五族協和」は、ウソに終わるしかなかったろう。

 私たちはこれから、外国人と共に暮らす社会をどのようにつくればよいのか。その答えを探るとき、まず自分のどこかに異民族、異文化を見下す気持ちがないかどうかを点検してみたい。

   (隈元信一)

 キーワード:満州国

 1932年、満州事変で占領した土地に日本が建てた国で、日本の傀儡(かいらい)国家だったというのが定説になっている。傀儡は「あやつり人形」の意味だが、その人形として連れてこられたのが清朝最後の皇帝、溥儀(プーイー)(ふぎ)だった。清は満州族がつくった王朝だったから、その出身地で元首にしても国際的な非難は避けられると関東軍(満州の日本軍)はもくろんだ。しかし、国際連盟は満州国の建国を認めなかった。満州国を承認したのは、日本の同盟国のドイツ、イタリアや、太平洋戦争で日本の勢力下に入ったタイ、ビルマなど、約20カ国だった。

 総面積は約130万平方キロ。今の日本の面積の3.4倍の広さで、現中国の東北三省(遼寧・吉林・黒竜江)に内モンゴル自治区と河北省の一部を含む。

 人口は建国時に3000万人、40年には4200万人。中国人がほぼ9割で、朝鮮人、モンゴル人と続き、日本人は2%ほどだった。日本の民間人は建国時の23万人が敗戦時に155万人に増えたが、引き揚げの際に20万人以上が命を落とした。また、敗戦直前に軍に動員された開拓団の男たちを含め、軍人ら60万人以上がソ連によってシベリアに抑留され、死者は6万人を超えた。

キーワード:五族協和と王道楽土

 建国理念として、満州国はこの二つの言葉を内外に宣伝し、特に日本人に夢を抱かせた。五族(漢・満州・モンゴル・朝鮮・日本)が仲良くやっていこう。最初にそう提唱したのは、民間の在満日本人がつくった満州青年連盟の人たちで、幹部には指揮者・小沢征爾氏の父、小沢開作もいた。圧倒的多数派の漢民族に排日感情が強まる中で、建国当時は人口の1%に満たなかった日本人が生きていくには「協和」を訴えるしかない。そんな事情もあった。

 一方の「王道楽土」は、武力で制覇する「覇道」に対し、徳で治める「王道」でみんなが楽しく暮らせる国を築こう、という意味だ。この理念が、日本の武力でできた満州国で唱えられたところに最初から矛盾があった。


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2017-11-17

♯:32─10─負けると分かっている戦争を強要されたサムライ・武士の覚悟・決意。マキャベリ。〜No.203  @  ❻        

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗ 

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 サムライ・武士は、少数で負けると分かっていても、逃げ出さず、嘆き悲しまず、卑怯・卑劣を憎み、無様・臆病を嫌い、正々堂々と一人でも戦った。

 サムライ・武士は殺されようとも、日本民族日本人としての名誉と体面の為に、負け犬・弱虫にだけはなりたくはなかった。

 ただし、戦うのは、生きる為であって死ぬ為でもなく、敗北する為ではなく勝利する為であった。

 その為に、多勢に無勢で戦った。

 それが、武士道である。

 その覚悟・決意は、日本人にあって中国人や朝鮮人にはなかった。

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 それが日米英蘭戦争=太平洋戦争であった。

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 軍国日本は勝てない事は分かっていたが、それでも勝つつもりで戦った。

 さもなければ、一ヵ国で世界を相手に戦争などできなかった。

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 戦後の日本にはない心と志であり、現代の日本人にはない覚悟と決意である。

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 マキャベリ

 「時節も事態も変化したなか、君主が変わらなければその国は衰える。しかし変化に即応できる人間はそうはいない」

 「国の安寧秩序はその生命の続く限り、慎重この上なく統治をしていく支配者がいるかどうかではない。むしろ、死後でも国家が維持されるように、法律を予(あらかじ)め与えてくれる人物がいるかどうかにかかっている」

 「決断力のない君主は多くの場合、当面の危険を回避して、中立の道を選び、大方は亡んでしまう」

 「中立の立場をとる者は、敗者からは憎まれ、勝者からは軽蔑される」

   ・   ・    ・   

 

新訂 孫子 (岩波文庫)

新訂 孫子 (岩波文庫)

2017-11-16

♯:32─9─オランダ・オーストラリア連合軍の中立国ポーランド領ティモール侵略。マレー沖海戦。香港攻略。ウ・ソー逮捕。1941年12月9日。〜No.202 @           

「日系アメリカ人」の歴史社会学―エスニシティ、人種、ナショナリズム

「日系アメリカ人」の歴史社会学―エスニシティ、人種、ナショナリズム

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   ・   ・   ・   

 クラウゼヴィッツ「戦争が始まってから最も大切なのは知力よりも胆力だ」

 戦時中の海軍エリート将校は、優秀であったが胆力がなく、敗戦の責任を取りたくない為に作戦の失敗を隠蔽した。

   ・   ・   ・   

 戦争に於いて、中立国宣言は無意味である。

 軍事力を持たない中立国など、国家として認められない。

 永世中立国スイスは、国民に権利を与えると共に徴兵制の義務を課している。

 スイスは、外国の侵略者に対して、国土を焦土と化し、国民の死体を山と積み上げても守り抜く覚悟を持っている。

 武器を持ち死を覚悟で国を守らない国民には、国民の権利はない。

 スイス国民は、武器を取ってドイツ軍から祖国を守った。

 世界には、非暴力無抵抗は存在しない。

   ・   ・   ・   

 アメリカ軍は、総力を挙げて日本陸軍の暗号解読に務めたが解読できず、逆に日本陸軍にアメリカ軍の暗号が解読されている事を恐れていた。

 日本陸軍と中野学校の諜報能力は、世界レベルにあり、アメリカやイギリスに負けてはいなかった。

 だが。日本海軍と外務省の諜報能力は低く、アメリカとの情報戦で敗北していた。

   ・   ・   ・   

 日本人で、軍事・経済大国アメリカと戦って勝てるという自信を持っている者は、政治家にも軍人にもいなかった。

 だが、生死を賭けて戦う以上は、少兵力と乏しい物量を自覚しながらも、大兵力と膨大な物量を持つアメリカ軍に勝つつもりで立ち向かった。

 それが、「死」を覚悟したサムライの武士道であり、日本精神としての「滅び」の美学である。

 そして、犠牲を最小限にとどめる為に短期決戦を求め、早期停戦する為に第三国による講和を模索した。

 昔の日本人は、相手が巨大で強いからといって、戦わずして屈服する事は男の恥と嫌った。

 屈辱を受け入れて卑屈に生きるよりも、雄々しく、清々しく、爽やかに、名誉を守る為に死ぬ事を選んだ。

 現代の日本人とは、正反対の日本人である。

 日本の淡い期待を打ち砕いたのが、ルーズベルトの「無条件降伏」要求であった。

 もし、無条件降伏の原則がなければ、戦争はもっと早い時期に終わっていた。

 チャーチル「日本は、自分の気持ちをもっと早く言ってくれればよかったのに。日本が、そんなに怒っているとは思わなかった」

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 日本軍は、欧米諸国が植民地でのインフラ整備を行わなかったために、東南アジア各地を占領するや土木工事に取り組み、銃をツルハシやスコップに持ち替えて山を切り開き木を伐採して道路や鉄道を施設した。

 日本軍兵士は、連合国と戦いながら、地元住民を労務者として強制連行して大土木工事を行っていた。そして、日本兵の死で多かったのは戦死ではなく、マラリアやコレラやペストによる病死か、栄養失調による餓死であった。 

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 マレーシアの独立記念日は、日本軍がコタバルに上陸した日である。

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 マレーシアの中学2年の歴史教科書「現地の人々は、日本のスローガンを信じた。日本は自分達が『アジア人の為のアジア』のために戦っていたのだ。

 これは、日本がヨーロッパ人を殴打してアジアの国々を解放したという意味である。多くのアジア人は日本を解放者と思った。日本が進出してくる事に、地元住民の激しい反対はなかった。

 日本の進出の後になって、やっと現地の住民は、日本が約束を守らない事に気付いた」

 アジア人住民は、日本軍が占領して軍政を敷くや、自由を勝ち取る為べく連合軍に協力して抗日抵抗組織を結成して活動を開始した。

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 東南アジアの買春、人身売買、ギャンブル、アヘン販売、金融・高利貸しなど暗黒社会を暴力と死の恐怖で支配していたのは、中国人であった。

 地元の政治家や警察当局や実力者は、中国人から高額の賄賂を受け取り不法商売を黙認していた。

 マレーシアの華僑・華人は、全人口の30%以上を占めていた。

 シンガポールでは、人口の50%近くが華僑・華人であった。

 マレーシア。アンドリュー・バーバー『戦時のペナン』

 「19世紀に、英国人は中国人が牛耳るビジネスを黙認していたが、19世紀の終わりに近づき、英国人はいままで手を出さなかった分野への関与を強めた──まず女性が16歳以上である事、そして自らの自由意思で働いている事を確認するためだ。当局は『ポ・ロン・クク』なる家をシンガポールとペナンに建て、強制的に働かされている娘達の避難所とした。」

「1914年に、政府高官がペナンの売春宿を訪れ、女性達が強要されたうえで働いていないか確認した。各宿も小規模で偏狭であり、賭博とアヘン吸引に利用されていた。政府調査で明らかにしたところによるとペナンには159軒の売春宿があり690人の中国人、129人の日本人、36人のタミル人、56人のマレー人女性が雇用していた。──総計911人の『登録された』売春婦がいて、各宿に平均4人の女性が所属し、ジョージタウンの独身女性の5%を占めていた。30人の日本人女性が高い技量で『高級』との定評を得ていた。ペナンにおける欧州人売春婦の不在は証明が難しいが、シンガポールにいる34人の欧州女性は巨大な市場においてごく小さな存在でしかない」

 1910年の日韓併合後。朝鮮人は日本国籍が与えられ、国外では日本氏名を名乗り日本人として扱われた。

   ・   ・   ・   

 日本軍の軍事行動は、独立派の手引きによって南方各地で広範囲に行われた。

 アメリカやイギリスの情報機関が、日本軍の軍事行動に協力する独立派を知らなかったと言う事はまずあり得ない。

   ・   ・   ・   

 軍国日本は、アメリカと戦っても勝てない事は知っていたが、事ここまで追い詰められては祖国防衛の為に戦う事を決断した。

 戦う以上は、女々しいく愚痴を言っても詮無き事として諦め、男らしく滅びる事を覚悟して、サムライの子孫として手を抜かず死力を尽くし持てる力を出し切って、日本国民全員が勝てると信じ前に出て戦うしかなかった。

 だが。そんな絶望的状況下にあっても、死ぬと分かっている戦争に参加する事を嫌う日本人と日本国籍朝鮮人(韓国人)がいた。

 軍国日本は、決して国民(日本人・朝鮮人・韓国人)が一丸となって祖国日本を守る為に戦ったわけではなかった。

   ・   ・   ・   

 イラン王国は、有色人種の小国・日本が白人の大国・ロシア帝国に勝利した事を我が事のように歓声を上げて喜んだ。

 親日的なイランは、1945年に欧米列強の圧力で日本に宣戦布告したが、本心では白人と戦っている日本とは戦いたくはなかったし、むしろ白人支配を終わらせる為に日本軍が勝つ事を願っていた。

   ・   ・   ・   

 昭和天皇「私は嘗て『ローマ』訪問以来、教皇庁とは、どうしても、連絡をとらねばならぬと思っていた。開戦后、私は『ローマ』法皇庁と連絡のある事が、戦の終結時期に於いて好都合なるべき事、又世界の情報蒐集(しゅうしゅう)の上にも便宜あること竝(ならび)に『ローマ』法皇庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考えて、東条に公使派遣方を要望した次第である」(『昭和天皇独白録』)

   ・   ・   ・   

 12月9日 台湾の日本海運航空隊は、世界の常識を破ってフィリピンのクラーク飛行場を空爆し、B17爆撃機や戦闘機など約100機を破戒して、制空権を確保した。

 アメリカ軍は、日本軍攻撃機は日本人ではなくドイツ人が操縦していると信じていた。

 日本陸軍部隊は、香港に攻撃を開始した。

 中国共産党は、日米戦争の勃発よって大平洋反日統一戦線の完成との声明を出した。

 日本は、オーストラリアはイギリスとは別の国であるとして宣戦布告しなかった。

 オーストラリアのジョン・カーティン首相は、イギリスに味方して日本に宣戦布告し、中立国ポルトガル領東ティモールに軍隊を派遣して軍事占領した。

 オーストラリア軍攻撃機は、中立国ポーランド領ティモールのディリに停泊していた、大日本航空所属の無線誘導船を爆撃して沈めた。

 日米戦争の勃発を喜んだのは、スターリンと蒋介石であった。

 そもそも日本がアメリカと戦争しなければならない様に追い詰めたのは、スターリンであり、蒋介石であった。

 日本は。昭和天皇も、東條英機も、東郷茂徳も、アメリカとの絶望的戦争を回避する為に外交を続けていた。

 日本の平和への希望は、アメリカを戦争へと動かしていたスターリンと蒋介石と毛沢東によって砕かれた。

 その意味で、日本外交の敗北である。

 アメリカ軍による対日戦準備は、41年初頭から行われていておおよそ9割方が完了していた。

 午後 昭和天皇は、皇祖皇宗に対して、アメリカとイギリスと戦争するに至った状況を報告し、戦勝を祈願する「御告文」を奏した。

 さらに、歴代天皇の陵に勅使を派遣して「宣戦について奉告」した。 

 12月10日 日本は、今日の米英戦争を、インドからインドネシア・ポリネシアを含めたアジア人種全体にわたる戦争であるとして「大東亜戦争」と呼ぶ事に決定した。

 アメリカは、日本が主張した白人と非白人の人種間戦争を否定する為に、日米の太平洋戦争との認識を押し通した。

 GHQは、昭和20年12月15日に「太平洋戦争」と呼ぶ事を命令し、表現の自由を謀殺し言論弾圧として「大東亜戦争」と言う事を抹殺した。

 日本海軍航空隊は、マニラ湾のキャビテ軍港を空爆して制海権を制した。

 日本陸軍第14軍は、ルソン島に上陸を開始した。

 アメリカ軍は、マニラを戦火から守る為に抵抗せず放棄し、バターン半島とコレヒドール島の要塞に撤退した。

 アメリカ軍兵士は、日本軍への恐怖心から、フィリピン人を殺しながら敗走した。

 フィリピン人の犠牲者数は、不明である。

 レスター・テニー「日本兵との区別がつかない。だから出会った現地人を皆殺しにしてバターンに向かった」

 オランダは、日本に対して宣戦布告し、以前からの対日戦略に従ってオーストリアとの共同作戦を実行した。

 日本には、戦争の早期に於いてオランダとの開戦を考えていなかった。

 オランダは、戦時国際法を無視して軍事行動を発動した。 

 マライ半島に上陸した日本軍は、地元の反英反華僑組織メンバーの協力を得てシンガポールを目指して進撃した。

   ・   ・   ・   

 イギリス暗号解読関係文書「S・S・アンダーソンと特殊情報部 極東」。

 「Y班(暗号解読班)の暗号解読と解釈者は極東における数々の困難に遭ったが、通常の業務に加えて、次のような極めて重要な成果をあげた。(1)日本軍が1941年12月に戦争に入るという大量の警告。(2)プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが敵に探知されて空から攻撃されるという事を、攻撃4時間前に知った事。ただ日本の暗号を解読して、極東統合局に送って、それからプリンス・オブ・ウェールズに送った時はもう悲劇が起きていた」

 イギリス情報機関による日本軍の暗号解読は、アメリカよりも進んでいた。

   ・   ・   ・   

 マレー沖海戦。日本軍航空部隊は、イギリス東洋艦隊主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈した。

 日本軍航空部隊は上空にとどまっていたが、漂流している生存者の救助を行ってる僚艦(駆逐艦)を攻撃をせずに引き揚げた。

 イギリス海軍内部では、「船が撃沈されて漂流したら日本海軍艦艇に救助を求めよ」という事が、まことしやかに囁かれていた。

 戦った相手に敬意を払うという武士道精神であり、死力を尽くした決闘が終わった後で助かる命は手当てした救い、助からない者は苦しまないように止めを刺した。

 戦後、止めを刺した事が戦争犯罪とされた。

 日本海軍は、「武士の情け」として漂流する敵兵に向けて一発の銃弾を打った事はない。

 武士道精神において、漂流している敵兵を機銃掃射して殺す事はありえなかった。

 もし、漂流している敵兵を殺害した日本兵士がいたとすれば、その日本人はサムライではなく、武士道精神も日本の志も持たない心なき日本人である。

 真の日本民族日本人は、「惻隠の情」を持っている。

   ・   ・   ・   

 12月11日 ヒトラーは、幾ら挑発されてもアメリカとの戦争を避けていたのに、アメリカに宣戦布告した。

 ヒトラーの決断は、歴史の謎とされている。

 12月17日 オーストリア・オランダ連合軍約1,900人は、中立国ポルトガル政府の承認を得ずに、抗日派華僑の手引きでポルトガル領東ティモールに侵攻してディリを軍事占領した。

 大日本航空関係者を含む日本人居留民30名は、逮捕され、風呂も便所もない劣悪な環境の倉庫に監禁され、人種差別による非人道的暴行を受けた。

 ポルトガル総督は、国際法違反であると抗議したが無視された。

 反日派華僑は、復讐心から、各地で非武装の日本人居留民を多数殺害し、日本人女性数人を拉致して娼婦として売り飛ばし、殺害した日本人居留民の財産を略奪した。

 後日。蘭印を占領した日本軍は、娼婦として売られていた極少数の日本人女性(10代〜30代)を売春宿から救い出した。それ以外の日本人女性の消息は、不明である。

 日本兵は、売春窟やアヘン窟を支配していた反日派華僑や中国人ゲリラを見せしめに虐殺し、泰緬鉄道などの建設現場に労務者として送りだした。 

 労務者は、奴隷的重労働を課せられて、その多くが過労死した。

 奥地に逃げた抗日派中国人は、連合国軍に協力して各地で破壊活動を行った。

 娼婦とされていた貧しい地元女性の多くは、華僑らによってアヘン中毒にさせられ上で、奴隷的に売春を強制されていた。

 もし死ねば、人としての尊厳は認められず「ゴミ」のように捨てられていた。

 東南アジア経済を支配していたのは、こうした犯罪者的華僑達であった。

 戦後、日本人兵士は「国際正義の名」のもとに戦争犯罪者として処罰された。

 当時、オーストリアは日本に宣戦布告していたが、オランダは宣戦布告していなかった。

 日本も、オランダには宣戦布告をせず、攻撃もしていなかった。

 日本の対オランダ宣戦布告は、1942年1月11日であった。

 戦時国際法は、日本軍の侵略が予想される以上、オランダ軍の先制攻撃は予防的正当防衛であると認めている。

 日本海軍の真珠湾奇襲攻撃は、騙し討ちによるもので、戦時国際法違反の犯罪行為とされた。

 だが。アメリカ軍は、日本との戦争は不可避との判断の下で、日本軍の奇襲に備えて準備を完了していた。

 日本軍の軍事力は、アメリカ軍に比べれば劣勢にあった。

 つまり。日本にとっては、アメリカは世界的な軍事大国で勝てないことが分かっていた。

 アメリカは大国であり、日本は小国であった。

 小国が大国に戦いを挑む時、宣戦布告し、攻守の軍備を整えてから戦うのは自殺行為でった。

 軍国日本は、ポルトガル政府の了解を得て、翌年2月に救出部隊を派遣して連合軍を敗走させた。

 日本軍は、島民と混血児ピリスとの対立を調整し、植民地政府に対して島民を苦しめている人頭税等の廃止を要請した。島民には待遇の改善をさせる事を約束して、暴動を止める様に説得した。

 ジェームズ・ダン(オーストラリア外交官)「大戦前の島民人口は47万人で戦後は43万人。日本軍が数万人を殺したはずだ」

 朝日新聞と北海道新聞は、日本軍による島民虐殺を報道し、日本政府に対して戦後賠償を訴えている。

   ・   ・   ・   

 オーストラリア外交官J・ダン「日本軍は、島民5万人を略奪し虐殺した」

 ポルトガル領東ティモールには、5万人もの島民は存在せず、奪う物とてなかった。

 反天皇反日的日本人は、日本軍の戦争犯罪を捏造して告発した。

 現代日本の真の敵は、そうした反天皇反日の日本人達である。

 地元独立派にとって、反天皇反日の日本人は独立を否定する不倶戴天の敵である。

   ・   ・   ・   

 2002年 独立した東ティモールは、戦時中での日本軍への信頼感から、PKO(国際平和維持活動)として自衛隊を受け入れた。

 東ティモール人は、上陸した自衛隊を日本軍として大歓迎して迎えた。

 東南アジアから南アジアにかけて、ことごとくが親日的で反日的ではなかった。

 現地人にとって、日本軍による憎むべき犯罪行為もあったが、それ以上に植民地からの解放で日本軍が多大なる貢献をしてくれた事を高く評価していた。

 2011年3月 東チモールは東日本大震災で、建国して日が浅く国民は貧困生活を送っているが、戦前の軍国日本と建国前後の自衛隊派遣に対する感謝から、被災地に義援金を送った。

   ・   ・   ・   

 12月8日 日本軍は、タイ国内の8ヶ所に侵入した。

 プラチュアップキリカンの守備隊は、タイ政府が日本軍通過許可を出す前の上陸で合った為に、日本軍を侵略者として攻撃したが撃破され、42名が戦死した。

 同様の戦闘は別の地点でも行われ、タイ軍側で計216人が戦死した。

 12月21日 タイ王国は、日本との間で日泰同盟条約を締結した。

 ビブン首相は、蒋介石に対して「同じアジア人として日本と和を結び、米・英の帝国主義的植民地政策を駆逐するべきであえる」との勧告電報を打った。

 日本軍は、ビルマ進攻作戦の為に、タイの協力を得て、バンコクでビルマ人独立派によるビルマ独立軍を編成した。

 12月24日 漢口の第11軍司令官阿南惟幾中将(敗戦内閣の陸軍大臣)は、アメリカとの戦争は勝てないので、バチカンを利用して早期に講和を求めるべきであると日記に書き残した。

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 香港攻防戦。日本側作戦名「C作戦」。

 第23軍司令官・酒井隆中将、参謀長・栗林忠道少将。攻略軍3万9,700人。

 香港駐屯軍総司令官・クリストファー・マルトビイ少将。総兵力1万3,000人。

 中国人義勇兵約1万人。

 イギリス軍は、半年間は持ちこたえるだけの食糧弾薬等を準備してい。

 12月8日午前3時50分 日本軍は、国境を突破して香港に迫った。

 12月13日と17日 日本軍は、香港を戦火から救うべく、無血開城を勧告する軍使を派遣した。

 香港総督ヤングは、徹底抗戦の方針に従って降伏を拒否した。

 12月23日 日本軍は、説得を諦めて総攻撃を開始するが、市民に被害が出る市街戦を避け、自軍に被害が出る事を承知で山岳地帯からヴィクトリ要塞の前面陣地カメロン山を攻略した。

 香港のラジオ局は、日本軍が市民を狙撃しているという偽情報を放送して敵愾心を煽っていた。

 12月26日午後6時 イギリス軍は降伏し、日本軍は香港全島を占領した。

 日本軍の被害、戦死683人、戦傷1,413人。

 イギリス軍の被害、戦死1,555人。

 捕虜は1万1,000人。内訳は、イギリス人が5,000人、インド人が4,000人、カナダ人が2,000人。

 中国人義勇兵の被害は、不明。

 香港警察による治安が麻痺した為に、香港市内はそれまで潜んでいた中国人の秘密結社や犯罪組織が闊歩し、略奪や強奪などを行い、治安が悪化した。

 特に、日本軍の朝鮮人軍属による掠奪や強姦が酷かった。

 香港市民は、朝鮮人軍属を「一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった」と記録し、日本人よりも朝鮮人を激しく憎んだ。

 朝鮮人軍属は、各地も日本軍占領地で、日本軍の威を借りて地元民を差別して暴力沙汰を起こしていた為に嫌われていた。

 各地を転戦している日本軍兵士にとって、敵と戦う上で地元民は大事な協力者である以上は、差別し虐待して逆恨みされて敵に内通される事を避ける為に優遇した。

 兵力の乏しい日本軍にとって、地元住民の信頼を得て協力して貰えるどうかが、勝利の分かれ目であった。

 朝鮮人にとって、日本が勝とうが負けようがどうでも良く、戦場で高価な戦利品を掻き集める事が関心事であった。

 日本軍は、日本軍による香港市民への犯罪行為を取り締まる為に憲兵隊を投入して、戦時国際法を犯す朝鮮人軍属らを取り締まった。

 朝鮮人軍属は、正規の軍人ではない以上、国際法であろうが日本軍の軍紀であろうが守る気はさらさらなかった。

 中国人犯罪者の取り締まりには、中国語が話せて、土地勘のある香港警察に任せた。

 12月28日 第23軍の香港入場式。

 日本軍は、国際世論の厳しい批判を受けた南京等の失敗を教訓として、国際報道機関の支局が多く存在する香港で支配に細心の注意を払った。

 捕虜となした元香港総督ヤングを、敬意を払って台湾の捕虜収容所に収容した。

 イーデン外相は、英国下院議場で、日本軍が香港で虐殺を行っていると非難声明を読み上げた。

 「世界の文明人を恐怖に突き落とした南京の大虐殺に比すべき、恐るべき野蛮行為を香港において行った」

 「イギリス軍の将兵50名は手足を縛られた上、銃剣を以て突き殺された」

 イギリスやアメリカの報道機関は、軍情報機関と協力し、日本軍「悪」というイメージ操作の為に日本軍兵士による捕虜虐殺や婦女子暴行という捏造情報を世界中に広めていた。

 ハロルド・ラスウェル「敵に陵辱される若い女性というのは、国境の反対側にいる大勢に当の陵辱者になったかのような秘められた満足感を与える。それ故、多分、こうしたストーリーに人気がありそこらじゅうで見られるのだろう」(『宣伝技術と欧州大戦』)

   ・   ・   ・   

 謝永光「香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった。

 このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた当籤人であった」(『鍼灸医の体験した日本軍の香港占領』) 

 日本軍占領地で、日本人兵士より朝鮮人兵士もしくは軍属の方が乱暴狼藉を働いていたと言われている。

   ・   ・   ・   

 2017年7月27日号  週刊新潮「変見自在 高山正之

 香港淪陥(りんかん)

 ……

 漢民族にそんないい過去があったのだろうか。

 歴史を振り返れば絢爛の文化を生んだのは殷であり、隋、唐、元、清だった。いずれも外来の民族が建てた王朝ではなかったか。

 韓民族はその合間に漢や明を建てた。劉暁波を死なした今の中共政権を含めてどれもが陰惨な歴史を刻んできた。そんな民族の復興はだれも期待しない。

 それに阿片戦争を外国がもたらした苦難の象徴のように言うけれど、あの阿片禍を生んだのは韓民族自身だったはずだ。

 時の満州族王朝はだらしない韓民族が阿片にのめり込むのを予感して吸引を罰し、英国には禁輸を命じた。

 狡い英国は香港沖の零丁(れいてい)島に阿片を運んだ。すると韓民族業者がやってきた。沖合貿易というわけだ。

 清朝は怒り、阿片戦争が起きるが、このとき香港の韓民族は英国側についた。英国に清朝を倒させて韓民族の国を立ち上げる『滅満興漢』を策した。

 しかし英国は戦争に勝って香港島を得ると英国側についた韓民族を清朝官憲に引き渡した。

 多くが処刑され、もっと多くが国を捨て、米国などに渡った。一部は地下に潜り阿片密売を生業にした犯罪組織、紅幇(ホンパン)を結成した。

 因みに清朝が読んだ韓民族の習性は正しかった。19世紀、支那の阿片患者は150万人だったのが『中共建国時は2,000万人』(『大禁毒』)に膨れ上がっていた。

 かくて香港人は英国の支配下に入った。先日のニューヨーク・タイムズは英統治下で香港の民は『法治と民主主義を学んだ』と今の支那編入拒否の原点を指摘しているが、さてそれはどうか。

 英領に入って100年目。香港は真珠湾と同じ日に日本軍の侵攻を受けた。日本軍は深?側から九龍半島に攻め込んだ。

 英側は2年前からこの日に備えて背後の丘陵地に鉄壁の長城を築いていたが、たった1日で落とされた。英軍は香港人が見守る中、真っ青になって海峡の向こう香港島に逃げていった。

 しかし日本軍はなぜか香港島上陸を1週間遅らせた。その理由を戦史叢書は『英人が脱出後、九龍で略奪が横行したため』と記す。

 香港人は、英統治下にいながら、ずっと韓民族の習性を捨てていなかったのだ。

 日本軍は略奪を止めさせ、治安を回復したうえで香港島を攻略した。降伏調印はあのペニンシュラホテルの中二階で行われた。香港人はそれから3年間、日本の淪陥(占領)下にあった。つまりインドネシアやシンガポールと同じ期間を日本人の施政下で暮らした。

 インドネシア人はその3年間で共通語を得て、軍隊を作り、戻ってきたオランダ人と戦って独立した。

 シンガポールの華僑たちは道に唾を吐きゴミを捨てる習性を改め、まともな民に生まれ変わっていた。

 香港は英領100年のあと3年間の日本淪陥を挟んで再び英領の時代が半世紀以上続いた」

   ・   ・   ・

 スターリンは、モスクワを訪れたイギリスのイーデン外相に、ヒトラーを倒した後に日本に対する戦争に参加する事を約束した。

 外務副人民委員ロゾフスキーは、スターリンとモロトフに、国家の安全保障に関する戦後外交方針についての報告書を提出した。

   ・   ・   ・   

 秘密結社インド独立連盟のプリタムシン書記長とモハンシン大尉は、第25軍傘下のF機関の協力を得て英印軍インド人兵士捕虜やマレー在住インド人を組織してインド国民軍を編成した。

 12月31日 タイのバンコク。ビルマ・タキン党のオン・サンやネ・ウィンらはべくビルマ独立義勇軍(BIA)を組織し、日本軍と共にビルマに進撃する出陣式を行った。

 日本軍は、ビルマ人の協力を得てビルマに侵攻した。

 ビルマ仏教界の精神的支柱であったウー・オッタマ僧正は、親日派として日本軍の侵攻を歓迎した。

 オッタマ僧正は、1920年に日本留学から帰国してビルマ人団体総評議会を組織して、ビルマ独立の活動を続けていた。

 「(日露戦争)日本の勝利は、日本が明治天皇を中心に3,000万の民族が団結した事にある。ビルマも仏教の教えを中心に青年が団結すれば、必ず独立を勝ち取る事ができる」

 白人の植民地支配と華僑の経済搾取に苦しむ貧しいアジア諸民族にとって、軍国日本の天皇は特別な存在であった。

   ・   ・   ・   

 12月暮れ ウ・ソーは、帰国途中で、ポルトガル首都リスボンの日本公使館を極秘で訪問した。千葉公使は、翌年1月2日付けの極秘暗号電報で東京の東郷外相にとして報告した。

 「12月31日 ビルマ首相ウ・ソーがハワイから引き返し、帰国の途次に公使館を訪問した事……『今やシンガポールの命運旦夕に迫りビルマ独立の為の挙兵には絶好の機会と認めらる。日本がビルマの独立尊重を確約すればビルマは満州国の如く日本の指導下に立つ国として日本人とともにイギリス勢力の駆逐に当たる。日本の必要とする資源はことごとく提供する用意あり』」 

   ・   ・   ・   

 日本国民は、朝鮮人とは違って徴兵制がり、国民の義務として召集令状の赤紙一枚で戦場に駆り出された。

 家の近所の住民から「おめでとうございます」と言われ、家族と一緒に「ありがとうごあいます」と答えた。

 そして、「バンザイ!」との声に送られて出征した。

 日本兵士は、「建て前」として命を捨てても天皇陛下と御国の為に戦ってくると誓ったが、「本音」では死への恐怖と生への執着から戦争に行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。

 日本人青年の多くは、行きたくはなかったが国民の義務として、泣きながら軍隊に入った。

 家族も、手塩にかけて育てた子供を、戦死するかもしれない戦地に行かせたくはなかったが、国の命令とあっては仕方がないとして、泣きながら見送った。

 靖国神社で、出征する若者は敵を倒して帰ってくる事を誓い、残された家族は無事に生きて帰ってくる事を祈った。

 全ての国民が、靖国神社にお参りした。

 責任ある政治家や軍人や官僚達は、安全な後方にいて、若者達を戦死する戦場に送り出し、失敗した事の責任を他人に押し付けて自分の保身だけを考えて行動していた。

 無責任でくだらない上級指揮官は、戦死する事なく逃げ回った為に、靖国神社に祀られる事がなかった。

 責任感のある有能な軍人は、兵隊の前に立って敵陣に向かって突撃した為に戦死して、戦死した若者達と伴に靖国神社に祀られている。

 アジア諸国から非難され廃止を求められている靖国神社とは、そうした軍国主義者が祀られた神社である。

 靖国神社を守らない日本人が、現代日本で増えている。

 国家に責任を持つ政治家や官僚の中からも、無責任に放棄する者が増えている。

   ・   ・   ・   

 アルゼンチンは、アメリカから対日参戦を要請されたが、これまでの日本との友好関係から返答を引き延ばした。

 アルゼンチンが対日参戦を発表したのは、終戦間際の1945年に入ってからで、国内の日本大使館員や駐在武官等を強制収容所ではなくホテルに収容した。

 戦後、敗戦後の日本に最初に大量の支援物資を送った。

 中南米諸国は、台湾や東南アジア諸国同様に親日的であった。

   ・   ・   ・    

 2016年6月20日 産経ニュース「【杉田水脈のなでしこリポート(7)】

親日から親中に…オーストラリアの危うい現状を憂えています(その3) 空爆記念式典にも変化が…

 杉田水脈さん

 ダーウィン空爆記念式典のある「変化」

 1942年2月19日、日本軍は真珠湾を攻撃した同じ艦隊でオーストラリア北部の軍港ダーウィン港を攻撃しました。攻撃は1942年から43年にかけて64回にわたりました。

 最初の攻撃でのオーストラリア側の被害者が243名ということはよく知られていますが、これは初日の2回の攻撃による被害で、それ以降の攻撃で合計1500名以上の方が亡くなっています。また、日本側の犠牲者もパイロットら空爆時に亡くなった方が400〜500名おり、ダーウィン空爆1か月前には伊124号が撃沈され、乗組員80名余りが亡くなりました。このように多くの日本人戦没者がダーウィン港の海に眠っていることは、日本ではあまり知られていません。

 ダーウィン空爆が始まった日である2月19日には、ダーウィン空爆記念式典が毎年開催されますが、例年式典に参加している日本人が2016年の式典である変化に気が付きました。

 2015年までの式典では、ダーウィン市長や北部準州(ノーザンテリトリー、略称NT州)主席大臣らが国を守る為に戦った人に敬意を表する挨拶をしました。その上で、戦後のダーウィン市が多文化都市として繁栄していることも強調されていました。特にNT州多文化共生大臣のピータースタイルズ氏のコメントは素晴らしいものでした。

 「私たちは過去を忘れてはならないが、もっと大事なことは和解だ。今日は日本の総領事も来られている。過去は過去で、未来へ向かわなければならない。理解を深めることにより再び争いが起こることを防がなければならない。私は今年の1月にハワイの真珠湾に行ったが、私のツアーの半分は日本人であった。皆、過去を乗り越え、また昔何が起こったかを知るためにそこに来ている。ここダーウィンに日本人を見ない。真珠湾攻撃と同じ艦隊がダーウィンにやってきたのに。である。またここには伊124号という80名の乗組員が乗った潜水艦も沈んでいて、戦士の墓場であり神聖な場所として我々は保護している。73年前は敵だったが、今は同盟国であり良き友である。敵であったとしても和解し、前へ進むことが出来る」

 かつて日本人は「ダーウィン港を攻撃した国の出身」という気まずさから出席しない人も多かったのですが、最近は日本人の参加者も増えてきました。とりわけ日豪のカップルが「自分たちの子供たちが両親の母国の犠牲者を慰霊する機会になれば」と願って参加するようになっています。

 このように順調に日豪の和解が進んでいたのですが、今年の空爆式典は少し違いました。ジャイルズ首席大臣はスピーチで「人々の肌は皮がむけ、市民が焼き殺され」というフレーズを使って、生々しい空爆時の被害の様子を描写したのです。式典に何度も参加されてきた方は「こんな生々しく、かつ未来につながらないスピーチは初めてで、いたたまれない気持ちになった」と語っていました。

 記念式典の雰囲気も明らかに変わり、反日的な空気が出始めているということです。2017年はダーウィン空爆から75周年になります。第二次世界大戦で被害があった土地で反日活動が行われても、日本の立場上阻止するのは難しく、今後とも注視していく必要があると思われます。

 ガーデンアイランドでの慰霊

 さて、今回のオーストラリア視察の最大の目的は、1942年(昭和17年)5月、シドニー湾攻撃の際に、特殊潜航艇「甲標的」艇長として散華された松尾敬宇中佐をはじめとするご英霊の方々の慰霊にありました。

 このシドニー湾攻撃により、オーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルが沈没し、19名の戦死者が出ています。オーストラリア海軍は大きな痛手を負ったわけです。

 にもかかわらず、松尾中佐らの潜水艦は引き揚げられ、イギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官のジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将は、乗組員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)の海軍葬を営み、その後遺骨も日本へ返還されました。

 当然、オーストラリア国民の一部から非難の声が上がりましたが、グールド少将はひるみませんでした。彼は葬儀後のラジオ放送で次のように語っています。

 「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の1千分の1のそれを払う覚悟をしているだろうか」

 「戦死した日本軍の勇士の葬儀を我が海軍葬で行うという私に、非難が集中していることは承知している。けれど私は、あえてこの葬儀を実行する。なぜなら、もし我が国の兵士が彼らのように勇敢な死を遂げた場合、彼らにもまた、同様の名誉ある処遇を受けさせたいためである…」

 装甲の薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降することなしに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、同じ軍人として崇高な精神を共有していたのでしょう。

 「愛国心」は全世界共通です。愛国心の強い人間はたとえ敵国の者であったとしても尊敬の念を持って迎えられるのです。今の日本人が忘れかけているものを思い出させてくれる逸話であります。

 我々は、フェリーに乗り、ガーデンアイランドへ渡りました。大勢の中国人観光客と一緒に上陸しましたが、現地係員の方々は私たち一行が日本人だとわかるととても親切に接してくれました。「私たちは松尾中佐たちの慰霊がしたいのです」。そう説明すると「ここがいいですよ。」と教えてくださいました。

 そこで私たちは岸壁に旭日旗を掲げ、「海ゆかば」「君が代」を斉唱し、靖国神社のお神酒をお供えしたのでした。

   ×     ×     ×   

 「なでしこリポート」では3回にわたり、オーストラリアの現状をお伝えしてきました。最後にオーストラリアが海軍葬を行ったエピソードを紹介しましたが、その後も合同慰霊祭が続いているなど日豪両国は良好な関係を続けてきました。にもかかわらず、ここに来て日豪関係に黄色信号が灯っています。このことを真剣に受け止め、今後の動きを注視していきたいと思います。

 ■杉田水脈(すぎた・みお) 昭和42年4月生まれ。鳥取大農学部林学科卒。西宮市職員などを経て、平成24年に日本維新の会公認で衆院選に出馬し、初当選。平成26年に落選後は、民間国際NGOの一員として国際社会での日本の汚名を晴らすため活動を続けている。好きな言葉は「過去と人は変えられない。自分と未来は変えられる」

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ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫)

ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫)

2017-11-15

♯:32─8─アメリカとイギリスは、「7日午後1時」という指定日時の重要な意味を知っていた。マレー強襲上陸。1941年12月8日。〜No.200〜No.201@           

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗ 

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 真珠湾攻撃は、奇襲攻撃(サプライズ・アタック)であって卑怯な攻撃(スニーク・アタック)ではなかった。

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 ルーズベルトとアメリカ軍は、日本の外交機密暗号を傍受・解読し、「7日午後1時」以降に日本軍が軍事行動を起こす事を理解していた。

 チャーチルとイギリス軍も、「7日午後1時」以降に日本軍がマレー半島を攻撃する事を知っていた。

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 ルーズベルトは、真珠湾に太平洋艦隊を移動させた。

 真珠湾の水深は約14メートルで、航空機から発射される魚雷は通常40メートル沈みこんでから敵艦に向かって進んで命中する。

 真珠湾を攻撃するには航空機しかなく、水深の浅い真珠湾では雷撃は不可能であった。

 残る攻撃方法は爆撃であったが、水平爆撃は命中精度か低く撃沈する威力は弱く、急降下爆撃は命中精度も高く破壊力も強かった。

 軍事評論家フレッチャー・プラットは、日本人は近視で高高度水平爆撃は無理であり、おぶって育てられる為に三半規管に異常があって急降下爆撃はできない、と科学的報告書を発表していた。

 ルーズベルトは、もし万が一、日本海軍が真珠湾を攻撃したとしても被害は軽微で済むであろうと考えていた。

   ・   ・   ・   

 大本営は、真珠湾攻撃の12月8日は日本では「大安」でアメリカ・ハワイ・真珠湾では「仏滅」だから成功したと盲信していた。

 ミッドウェー海戦においても、中国から伝来した陰陽道の暦占い「六曜」に従って、勝負事に先んじて勝つ「先勝」を選んだ。

   ・   ・   ・   

 なぜ、スチムソン陸軍長官が日本を戦争に追い込むような対日強硬策をルーズベルトに進言していたのか。

 それは、スチムソンが1927年〜29年までフィリピン総督をしていた経験による。 そこで知ったアジア人像とは、アジア人は不平不満で反抗しても、脅せば恐怖で震え上がって大人しくなり、奴隷の如く従順となって損を承知で命令に従うという事である。

 アジア人が大人しくなったところで話を聞き、アジア人の要求をほんの僅か叶えてやれば良い。

 フィリピン統治で学んだ実践知で、軍国日本と日本人を理解し、対日強硬策を実施した。

 スチムソン陸軍長官は、ルーズベルトほどの反日親中国派ではなく、人種差別主義者として日本を憎んではいなかった。

 むしろ、ウォール街の国際金融資本家らの金儲けの為に日本を利用する事を考えていた。

 つまり、スチムソン陸軍長官はルーズベルトとは違って日米戦争を望んではいなかった。

 世界常識を持つ多くのアメリカ人高官達も、軍国日本は、チェコスロバキアがナチス・ドイツとの戦争を回避する為にミュンヘン会談決定を受け入れて国土解体を決断したのと同様に、アメリカとの戦争を避けるだろうと予想していた。

 軍国日本が、絶望的戦争を避けるには領土の一部を放棄し帝国の解体を受け入れる事であった。

   ・   ・   ・   

 12月7日午前4時半頃 アメリカ軍暗号解読班は、ワシントンの日本大使館に送られた最終電文第14部の暗号を傍受し、解読した。

 日本政府は、ハル国務長官への手交する時刻を「7日午後1時」と指定し、さらに直ちに暗号機を破壊する様に命じた。

 ハワイ時間の午前7時半で、南雲機動部隊が真珠湾を奇襲するのは午前8時であった。

 誰が呼んでも、「午後1時以降に日本軍が攻撃してくる」事は明らかであった。

 ブラットン陸軍大佐は、午前9時から午前10頃まで行方不明になっていたマーシャル参謀長を捜し回り、午前11時15分にようやく解読文を手渡した。

 マーシャルは、何故か、前日の夜から所在不明となっていた。

 後日。「何処にいたのか?」と問われて、「覚えていない」と答えた。

 マーシャル参謀総長は、ブラットン大佐の最重要な14部から読むようにとの要望を無視して、13部から読み始めた。

 そして、アメリカとの外交関係を断絶するという内容の最後の14部を読み終えて、海外に駐屯するアメリカ軍に日本軍からの攻撃が近いという警戒を伝えた。

 但し、ハワイへの警告は、緊急電話回線も海軍の無線を使わず、時間がかかる民間の通信回線で送った。

 文面は、事態が切迫しているというものではなく、「午後1時の通告時刻が何を意味するか分からないが」という曖昧なものであった。

 スターク海軍作戦部長は、早朝にクラマー少佐から「午後1時」の通告時刻付き暗号解読文の連絡を受けたが、自宅でゆっくりと朝の時間を寛いでから登庁した。

 ウィルキンソン海軍情報部長は、解読文を読み終わったスターク海軍作戦部長に、至急、ハワイのキンメル提督に電話する様に意見具申した。

 スターク海軍作戦部長は、大統領命令でハワイに警告できるのはマーシャルだけであるとして、マーシャルに電話したがつながらなかった。次に、ホワイトハウスに電話したが、ルーズベルトにもつながらなかった。

 「私は良心には一点のやましいさもない。なぜなら自分の一切の言動は、上司の命令によってコントロールされていたからだ」

 その頃。ルーズベルトは、外部からの電話を全てつながない様に命じて、ハリー・ホプキンズと一室に閉じ籠もって密談していた。

 ワシントン時は、ハワイ時間午前7時半にあたる。

 ノックス海軍長官は、後日、報告書を読んで通告時刻「午後1時」は宣戦布告の時間を意味するとし、キンメル提督に緊急警告が成されていなかった事を知って愕然とした。 

 日本大使館は、最後通告の清書作業が指定手交時刻までに完了できないのは明らかであったが、大使館員全員を非常呼集して清書を間に合わせようとはしなかった。

 真珠湾騙し討ちの責任は、緊張感に欠けた外交官の怠慢であって、日本全体が責めを負う事は不当である。

 ハリー・バーンズ「スタークはFDRに協力を求められた。しかし、いくらか良心の呵責を感じていたらしい。もっとも、彼を計画の主要な実行者にすれば、FDRにとって余計な危険が増える事をを意味する。スタークはノックスのもとで仕事をしていた。彼を通じて計画がノックスに伝われば、計画全体が挫折してしまう恐れがあったからだ」

   ・   ・   ・   

 ルーズベルトは、昭和天皇に平和を求める親書を送ったが、新しい提案を盛り込まなかった。つまり、平和への親書で戦争を回避する意志はなかった。

 ワシントン時間午前11時 ホワイト・ハウスは、ルーズベルトの親電を東京に送った。

 ホワイト・ハウスは、親書を送る事を発表した。

 ハル国務長官は、中国大使に「この電報は多分役に立たない。しかし、後日、アメリカ側の立場をよくする。その為に打っておいたんだ」と語った。

 松平康東一等書記官「ルーズベルト大統領から親書が出る。という事は戦争なんだ」 

 正午 東京の中央電信局は、グルー大使に宛てた親電文を受け取ったが、参謀本部の戸村盛雄少佐は独断で親電をグルー大使に渡すのを15時間遅らせた。

 グルー大使は、アメリカ発のラジオで親書を知っていたが、受け取ったのは午後10時半であった。

 直ちに、昭和天皇への謁見を求めたが実現しなかった為に、東郷外相に手渡した。

 午前11時52分(ハワイ時間午前6時22分) スターク海軍作戦部長は、マーシャル参謀長に、機能が優れた海軍無線局を使って海外の警備部隊に警告を発するべきと意見した。

 マーシャル参謀長は、海軍の提案を拒否し、陸軍無線局からパナマ、マニラ、サンフランシスコの警備部隊に警告文を送ったが、ハワイには直接ではなく民間回線で送った。

 この警告文は、遅れて配達された。

 ルーズベルトは、日本軍に攻撃される事は知っていたが、それが真珠湾であったかそれは不明である。

 5ヶ月以上に及ぶ、日本を戦争に追い込む作戦は成功した。

 チームSRは、10ヶ月前から日本占領計画の研究を始めていた。

   ・   ・   ・   

 戦後。GHQは、戦争を回避する為に送られた親電の行方を極秘で調査していた。  

   ・   ・   ・  

 日本海軍の真珠湾奇攻撃は、卑怯な騙し撃ちではなかった。

 アメリカは、日本の外交暗号傍受し解読し、日本が何を考えているかを知っていた。

 そして、「7日午後1時」以降に日本軍が軍事行動を起こす可能性がある事を理解していた。

 日本側も、東京のアメリカ大使館とワシントンの外交電報を傍受していた。

 アメリカ軍が日本海軍の奇襲を知らなかったとすれば、アメリカ軍は日本軍との情報戦に完敗した事になる。

 それは、決してあり得ない事である。

   ・   ・   ・   

 アメリカ軍は、日本軍の奇襲攻撃に備えて軍隊を配備していたが、真珠湾だけは無防備のまま放置していた。

   ・   ・   ・   

 12月8日午前零時15分過ぎ グルー大使は、ワシントンの指示に従って、東郷外相に親書を手渡して昭和天皇への謁見を願い出た。

 東郷外相は、グルーに「親電は現今の危急を救い得るものとは認めがたく、且つ時刻も急迫につき」として昭和天皇の面会を断った。

 午前2時半 東郷外相は、東條首相に親書を伝えた。

 東條首相「内容に目新しいものはあるか」

 東郷外相「何もありません」

 午前2時50分 東郷外相は、皇居に参内した。

 昭和天皇は、真珠湾攻撃やマレー半島上陸などの成功報告が来るのかを不安で眠れずにいた。

 午前3時 昭和天皇は、海軍軍装を召し、御学問所で東郷外相から親書を受け取って呼んだ。

 昭和天皇は、親書を読み、東郷外相の報告を聞き、戦争を回避する為の建設的な文面でない事に失望した。

 東條首相は、真珠湾攻撃の30分前に、昭和天皇の前で親書の全文を読み上げた。

 アメリカ東部時間の午後1時であった。

 スチムソン「戦争回避の努力をみせるポーズとしての価値しかなかった」

 日本陸軍船団は、マレー半島に上陸を開始した。

 ワシントンの日本大使館は、東京の指示に従い、最後覚書を東部標準時間7日午後1時に手交する為に準備を急いだが、清書に手間取り遅延という失態をしでかした。

 館員は、最後の暗号機を破壊し、暗号帳と機密文書を焼却処分した。

 だが日本外務省は、手交が遅れても構わないと思っていた節が幾つかある。

 先ず第14部を第13部から15時間後に長文で送った事、次に「大至急」ではなく「至急」と指定した事。

 そして、通告文の原文から「将来起こる一切の事態の責任は、挙げてアメリカ政府にある」という最後通告文を削除した。

 つまり、ワシントンの日本大使館は開戦通告と深刻にとらえなかったともいわれている。

 アメリカは、暗号電文から、開戦は間近であると判断した。

 ホワイト・ハウスとワシントンの軍首脳部は、午後1時頃に日本軍が何処かを奇襲攻撃する事を予想した。

 予想しなかったとした、無能と言うしかなかった。

 午後零時20分 日本政府は、日本の戦争はアジアの解放の為であるという「帝国政府声明」を発表した。 

   ・   ・   ・   

 『フーバー回想録』「スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして真珠湾で負けたのだ」

   ・   ・   ・   

 ハワイ時間7日午前8時(日本時間 8日午前3時25分)。真珠湾攻撃。日本は、軍事大国・アメリカに対して覇権的意図のもとで武力先制攻撃・騙し討ちを行ったのではなく、軍事的劣勢を補い為に予防的先制攻撃(プリベンティブ・プレアタック)・奇襲攻撃を行っただけである。

 不意打ちを食らわせる攻撃は、戦争勃発を意図として理不尽な圧力を加えて来る軍事大国に対する小国の当然な権利である。

 小国の権利が認められなければ、世界は大国の正義で支配される。

 大国中心の文明論及び力の正義に、敗北覚悟で宣戦布告して叛旗を翻したのは軍国日本だけである。

 日本軍は、攻撃対象を軍艦、軍用機、軍事施設に限定して、軍用地以外は攻撃しなかった。

 日本海軍攻撃隊は、民間人や民間施設への誤爆を避けるべく細心の注意を払っていたが、軍基地や軍事施設で働いている民間人の犠牲はやむを得ない犠牲とした。 民間人の犠牲者は、68人で、そのほとんどが基地の従業員であった。

 湾内に停泊していた大小軍艦約120隻を攻撃したが、一隻の病院船には一発の機銃弾も撃ち込まなかった。

 アメリカ軍が撃った対空砲火の破片が落下して、市民57名が巻き込まれて死亡した。

 石油基地なども攻撃しなかった為に、真珠湾の環境破壊と民間人の二次的被害も起きなかった。

   ・   ・   ・    

 パン・アメリカン航空の大型飛行艇チャイナ・クリッパー機は、真珠湾のあるフォード島北側にある飛行艇専用の船着き場を目指して飛行していた。

 同機の乗客の中に、ビルマ首相ウー・ソーとイラン帝国皇太子パーレビ(モハンマド・レザ・シャー)がいた。

 真珠湾攻撃の真っ最中にハワイに向かって飛行していた民間機チャイナ・クリッパー機は、日本軍機の攻撃を避ける為にハワイ島ヒロ空港に緊急着陸した。

 両者は、日本軍による真珠湾奇襲攻撃の成功を間近に見て、白人による世界支配の終焉は近いと確信し、アメリカやイギリスと戦う軍国日本への共感を強めた。

 ウー・ソー首相は、軍国日本の戦争に協力する申し込みをした事がバレて逮捕さ、戦後、濡れ衣を着せられて処刑されたれた。

 イラン帝国皇帝レザ・シャーは、枢軸側に味方しないし連合国側に協力しないと中立を宣言したが、ソ連への援助ルートを確保したいアメリカとイギリスの謀略で逮捕されモーリシャスに島流しにされた。

 パーレビ皇太子は、皇帝に即位した。

 親日派のパーレビが、祖国が連合軍によって軍事占領され傀儡国家の皇帝となった。

   ・   ・   ・   

 トルーマン「真珠湾の失敗は、陸海軍の反目にあった。キンメルとショートは口もきかない間柄で、お互いに情報ゼロの状態であった」

   ・   ・   ・   

 日本海軍は、マリアナ諸島のグアム島に上陸し、アメリカ軍守備隊400人と現地民義勇兵800人は抵抗は無駄と判断して降伏した。

 数日で、トラック島やクエゼリン島なども日本軍によって占領された。

   ・   ・   ・   

 昭和天皇は、日本海軍による真珠湾攻撃の報告を聞くや、「病院や学校には爆弾を落とさなかっただろうね。本当に大丈夫だろうね」と何度も念を押した。

 自衛行為としての「正戦」を宣言した以上、可能な限り非戦闘員を巻き込まない事を希望した。

 その気持ちで、一般市民を大虐殺する目的の大量破壊兵器・原爆の開発に猛反対した。

 軍国日本が戦ったのは、戦時国際法に則った「正戦」であって、神の意思で際限の無い殺戮や無差別の虐殺を祝福する「聖戦」ではなかった。

   ・   ・   ・   

 日本軍は、地元の独立派の協力を得て侵攻していた。

   ・   ・   ・   

 軍部は、第三国であるタイのシンゴラ湾に許可なく上陸する為に、政府に対して開戦詔書から「国際法を守る」の文言を削除させた。

   ・   ・   ・   

 日本は、宣戦布告以前に真珠湾を奇襲攻撃し、この先制攻撃ゆえに、日本は戦争犯罪国家とされた。

 日本軍は、乏しい弾薬や燃料の為に軍事目標を攻撃したが、それ以外の病院などの民間施設を攻撃するゆとりはなかった。もし民間施設を攻撃したとしても、意図した攻撃というよりは戦闘による誤爆であった。

 それは、全ての戦場で言えた事であった。

 日本には、アメリカの様に有り余るほどの物資はなく、遊び半分に浪費できる燃料も弾薬も無かった。

 弾薬の乏しい日本兵は、貴重な銃弾を一発ずつ撃つ銃を手にして突撃した。

 大量の弾丸を持つアメリカ兵は、離れた場所から機関銃を乱射して日本兵をなぎ倒していた。

 その物量差は、海上でも、上空でも、同じであった。

   ・   ・   ・   

 12月8日午前1時30分(日本時間) 日本軍の第18師団佗美支隊(佗美浩少将)は、宣戦布告なしでマレー半島東岸のコタバルに上陸を開始した。

 上陸作戦は、真珠湾奇襲攻撃より1時間20分早かった。

 日本軍は、英領マレーとその北のタイ領シンゴラに上陸した。

 タイ首相ピブンは、軍国日本と無害通行の秘密約束をしていたが、戦争は軍国日本の敗北で終わる事が分かっていた為に戦後の言い訳の既成事実を作るべく、現地からの日本軍上陸の緊急報告が届けられた際に居留守を使いった。

 海岸守備のタイ軍は、ピブン首相の命令がない為に上陸してきた日本軍を侵略軍として攻撃した。

 日本軍は、無害通行の密約があったのにタイ守備隊からの予期せぬ攻撃に驚いたが、シンガポール攻略という作戦に加えてタイ軍と戦う事は好ましくないとして静観した。

 タイ軍は、ピブン首相からの戦闘停止と日本軍の領土内通過を認める命令が届いて攻撃を止め、日本軍の上陸を静観した。

 日本軍は、長時間、タイ国内に留まる事は迷惑になるとして直ちに南下し、国境近くに建設されている要塞ジットラ・ラインの攻略に向かった。

 イギリス軍は、ジットラ・ラインは3ヶ月は日本軍の攻撃を防げると確信していたが、1日で日本軍に占領された。

 日本軍の攻撃を助けたのは、地元のマレー人であった。

 イギリス軍に協力したには、マレーで生活していた約350万人の華僑や華人であった。

 華僑や華人達は、イギリスの植民地支配に協力し地元マレー人を奴隷如く使役し阿片を売り付けて大金を稼いでいた。

 反日派の華僑や華人は、マレーに住む日本人居留民に暴力を振るう事件を起こしていた。

 イギリス人警官は、華僑や華人達による日本人居留民への犯罪に目を瞑り放置し、殺人・強盗・放火などの重犯罪のみ逮捕した。

 華人の陳嘉庚の配下は、日本人の谷豊の妹(6)を強姦して惨殺した。

 刑務所に収監された反日派の華僑や華人の重犯罪者は、白人看守から「好ましいアジア人」として優遇され、華僑や華人から英雄視されていた。

 日本軍の自転車を使った銀輪部隊は、1日平均20キロの快進撃を続け、敵の攻撃を受けるや自転車を捨てて密林に入って敵軍を殲滅した。

 地元マレー人は、自主的に、無報酬で、日本軍が乗り捨てた自転車を保管し、自転車を担いで日本軍兵士の後に従い、シンガポールへの進撃を助けた。

 華僑や華人達は、イギリス軍に協力する為に民間便衣隊(ゲリラ・スパイ・破壊工作員)を組織して、進撃してくる日本軍を攻撃した。

 イギリス軍パーシバルは、地元マレー人の協力で快進撃してくる日本軍に対抗するべく、日本人憎しの重犯罪者の華僑や華人を便衣隊として利用するように命じた。

 ジョン・ダレー大佐は、チャンギー刑務所などに収監されている華僑や華人の犯罪者を便衣隊として組織し、ダレーのならず者部隊と呼ばれた。

 華僑と華人は、中国国民党系と中国共産党系の二グループに分けて競わせた。

 犯罪者以外にも一般人も参加して、当初は約3,000人であったが、シンガポールが陥落する昭和17年2月迄に総勢数万人に膨れ上がった。

 正規軍人ではなく民間人ゲリラ・テロリストとして利用する為に軍服を支給せず、目印として黄色いバンダナを巻かせて戦場に投入し、さらに日本軍の兵站線を破壊すべく日本軍の後方へ送り込んだ。

 華僑や華人らのならず者部隊は、重犯罪集団の凶悪さを遺憾なく発揮して、戦闘地域以外の日本人居留民はおろか地元マレー人へ見境ない凶悪犯罪を「戦争である」として行っていた。

 日本軍は、ならず者部隊の便衣隊員で投降した者は許して武器を取り上げて家に帰したが、投降を拒否して徹底抗戦する者は正規軍人ではなく民間人ゲリラ・テロリストとして処刑した。

 その処刑が、戦争犯罪「シンガポール大虐殺」と認定された。

   ・   ・   ・   

 マレー半島上陸作戦。イギリス軍14万人。日本軍3万5,000人。

 シンガポール防衛のイギリス軍は、マレーシアとタイ国境近くに、日本軍の侵略を防ぐ為に堅固な重層防衛線ジッド・ラインを築いていた。

 パーシバル「日本軍を3ヶ月は食い止められる」

 イギリス軍は、他の欧米列強軍同様に、白人キリスト教徒は優秀人種で世界の支配者り、優秀人種の軍隊は負ける事は絶対にあり得ないという不敗神話から、劣等人種の日本軍を過小評しいた。

 植民地支配を受けていたアジア人の多くも、日本軍は負けると確信していた。

 イギリスは、植民地支配で莫大な利益を得る為に、マレー半島の自然を破壊し、ブラジルからゴムの木を、アフリカから油椰子を持ち込んで植え、中国人苦力を奴隷の如く酷使して錫鉱床の露天掘りを行い重金属を含んだ死の池を幾つも放置していた。

 華僑や華人らは、白人植民地支配で利益を得ていた為にイギリス軍に協力していた。

 植民地支配に苦しむマレー人らは、白人や華僑・華人から解放してくれる神軍の到来を待ち望んでいた。

 日本軍は、マレー人ら現地住民にとって解放軍であり、華僑・華人らにとっては侵略軍であった。

 日本軍が迷惑をかけたという相手は、植民地の圧政下で搾取され貧困で苦しめられていた現地住民ではなく、植民地支配に協力して暴利をえ現地住民を下等人種と差別していた華僑・華人であった。

 日本陸軍謀略機関であるF機関(藤原岩市少佐)は、東南アジア各地の民族主義者を味方に付け、独立闘争の為に武器弾薬を与えた。

 植民地支配に苦しむ東南アジアの人々にとって、日本軍は紛れもなき「解放者」であった。

 東南アジアの華僑・華人らは、植民地に於ける既得権を守る為に白人支配者に協力した。

 非中国系東南アジア人は、祖国回復の暴動を起こし、植民地軍を攻撃する為に日本軍に協力した。

 独立派マレー人達は、先を争うにして日本軍の弾薬を運び、シンガポールへの近道を教え、そして進撃の道先案内をかつてでた。

 だが後に、民族主義者は、祖国完全回復の為に連合軍に協力して、侵略者日本軍を攻撃した。

 山下奉文は、全軍に対して軍紀厳守を命じ、占領地での強姦・略奪・放火を禁じた。

 「軍風紀を緊粛し『焼くな、奪うな、犯すな』を厳守すべし。従わざる者は処断し、上官もその責任を問う」

 戦場に立った大半の日本軍上層部は、兵士全員に皇軍としての行動と非戦闘員への犯罪行為を禁ずる命令を出していた。

 だが、一部の日本軍兵士は上官の命令を無視して略奪と虐殺を行った。

 戦後、上官や関係のない日本人兵士が戦犯として処刑された。

 イギリスの暗号解読機関は、ケーブル・ワイヤレス社の協力を得て、日本の全ての暗号を解読していた。日本語は世界的に難解な言語であり、その言語の壁ゆえに日本の暗号は解読できないと盲信している者は、無能な日本人である。日本外交の暗号通信はもちろん日本海軍の暗号も、イギリス情報機関は解読していた。

 タイは、セーニー・プラモート王子を極秘でアメリカに送り、抗日派華僑と協力して反ファシスト団体・自由タイを組織して連合国軍に味方させた。

 ルーズベルトとハル国務長官は、駐米ソ連大使リトヴィーノフに対日戦への参加を要請した。

 モロトフは、ソ連は中立条約で日本との戦争は出来ないし、ナチス・ドイツとの戦争に全精力を集中したいと訓令した。

   ・   ・   ・   

 日本軍は、今後の戦闘に備えて地元民の反感を買わないようにする為に、司令部付き医療施設近くに、民間業者に依頼して慰安施設を開設した。

 日本軍の占領地では、日本兵による地元女性に対する強姦事件は少なかった。

 日本軍の占領は、戦争が終わって占領したわけではなく、戦闘が終わっての占領であった。

 少数兵力の日本軍は、膨大な物量を持って大反撃してくる連合軍に備えて陣地構築を急いでいた。

 勝敗の鍵は、地元民が味方してくれるかどうかに懸かっていた為に、間違っても反感を買い敵意を持たれる事は避ける必要があった。

 だが。何時一死ぬかもしれない救いのない絶望的状況下で、気の弱い日本人兵士が死を前にして自暴自棄となりって凶暴になり、強姦や暴行をおこなった事は事実である。

 戦後。彼らは、B級C級戦争犯罪者として有罪となり、リンチ的縛り首で処刑された。

 日本は、彼らを靖国神社に祀って慰霊した。

 中国や韓国などアジア諸国は、戦争犯罪者の慰霊を許さず、靖国神社の破棄を求めている。

   ・   ・   ・   

 昭和天皇は、平和を望んでいただけに戦争になった事に落胆したが、戦争を始めた以上は勝つ為に背広から軍服に着替えた。

 午前7時10分 昭和天皇は、御座所で、侍従武官の山県有光と同城英一郎から真珠湾攻撃、マレー半島上陸、シンガポール爆撃などが成功したとの報告を受けた。

 真珠湾攻撃成功の報告を受けた際、「病院や学校には爆弾を落とさなかったろうね。大丈夫だろうね」と心配して念を押して問い質した。

 昭和天皇は、 午前7時15分に永野修身軍令部総長から真珠湾攻撃の戦果を、午前7時30分に杉山元参謀総長からマレー半島上陸作戦その他の報告を受けた。

 攻撃は飽くまで敵軍艦と軍施設のみで民間施設への攻撃はしなかったとの答えで、民間人への被害はなき旨を聞いて安堵した。

 午前10時 昭和天皇は、帝室会計審査局長官の木下道雄から「昭和15年度会計審査」の成績について報告を受け、個人的な親しさから戦争が始まった事に対して「極めて沈痛な表情」を見せていた。

 午前11時25分 昭和天皇は、内閣上奏書類「米国及び英国に対する宣戦の布告の件」を裁可した。

 最終軍事指揮権を持った大元帥として、国家と民族を守る為に、全ての国民に軍隊に入隊して敵を倒す事を命じた。

 国家元首・昭和天皇は、最終的決定権を持つ最高権力者として、如何なる外圧にも屈する事なく逃げ隠れもせず全ての責任を引き受けた。

 昭和天皇には、如何なる理由があれ、戦争責任がある。

   ・   ・   ・   

 東條英機は、誰もいな寝室で、昭和天皇の期待に応えられず戦争になった事に号泣し、己の力が及ばなかった事に涙を拭う事なく慟哭した。

 泣き止んだ後、総理として戦争を始めた以上は勝つ事のみを考えて政府を率いた。

   ・   ・   ・   

 全ての日本人は、日本には非がないと信じ、正義は日本にあると確信し、戦争に勝つ事だけを考えて銃を取った。

 負ける事はもちろん、譲歩して戦争を止める事も考えず、前を向き、油断をせず、一歩でも前に出る為に猛進した。

   ・   ・   ・   

 日本が戦争を回避する方法は、チェコスロバキア解体である。

 チェコスロバキアは、ナチス・ドイツとの戦争を避ける為に国家の解体に合意した。

 軍国日本が、アメリカとの戦争を避ける唯一の方法は、大日本帝国を解体し、日露戦争以前の状態に戻る事である。

   ・   ・   ・   

 日本人捕虜第一号、酒巻和男海軍少尉「貴国ら『持てる国』は、『持たざる国』である日本に対する経済封鎖を実施。我々に石油や綿などを売却する事を拒んだ為、我々は崩壊以外に選択肢を持たない状況に追い込まれた。その為、貴国と外交交渉を開始したが、実を結ばなかった。従って、友と共に私は真珠湾を目指して出港した。その目的は戦艦を撃沈する事であった」

 アメリカ軍は、酒巻少尉を捕虜収容所に収容したが、奴隷のように従順に指示に従わず、反抗的でトラブルを起こし手を焼いた。

 酒巻少尉は、帝国海軍軍人として、日本男児として、武器がなくとも戦う意欲を捨てず、殺される事を覚悟で日本の名誉を守ろうとした。

 アメリカ軍は、人格を崩壊させる為に裸で独房に閉じ込めたりと、ジュネーブ条約違反を承知で精神的攻撃を繰り返していた。

 連合軍も、日本軍同様に、捕虜虐待を行っていた。

 日本軍の捕虜虐待は戦況悪化と共に起きたが、連合軍による捕虜虐待は人種差別で起きていた。

   ・   ・   ・   

 ククリット・プラモード(後にタイ王国首相)「日本のお陰で、アジアの諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はスクスクと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のお陰であるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあった為である。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」

・・・・・・・   

 真珠湾攻撃は、日本軍の予防的先制攻撃である。

 日本軍攻撃機は、戦時国際法に基づく軍事目標主義を遵守して、病院や民家など民間施設への攻撃を避けた。

・・・・・ 

 B17爆撃機編隊は、午前8時にオアフ島に着陸するように命令を受けて飛行していた。

 ハワイに設置された防空用レーダーサイトの当直士官は、この日に限って専門外の将校が配置に就いていた。

 将校は、レーダーの機影を報告があるB17爆撃機編隊のと思い込んでいた。

 真珠湾攻撃。ハワイ時間、午前7時53分。

 アメリカ軍基地では、多くの日系アメリカ人が基地労働者として働いていた。

 高度な技術を持っていた日系アメリカ人労働者は、アメリカへの忠誠を示す為に、軍事施設の拡充強化に協力した。日本人らしい生真面目さから、弱点を作る為の手抜きはしなかったし、国家への裏切りとして軍事機密情報の漏洩も破壊工作もしなかった。

 ハワイ準州政府は、日系アメリカ人に市民権を認め公務員への道を開いて忠誠を要求したが、政治力を持たせるとハワイを乗っ取られるとの恐怖感から選挙投票権を認めなかった。

 日本軍の攻撃で、日系アメリカ人の犠牲者は、白人に次いで多かった。

 日本人医師や看護婦は、大量に運ばれてくる負傷したアメリカ兵や基地労働者の治療に奔走した。

 帰化して市民権を獲得した日系アメリカ人は、模範的アメリカ人であろうとして、日本と戦う為に自らの意思で志願してアメリカ軍に入隊した。

 日系アメリカ人は、母国日本との関係を断ち切る為に、ファミリーネーム(姓)はそのままにして、ファーストネーム(名前)をアメリカ風に改名した。

 日系アメリカ人は、日本民族の誇りを守る為に、ユダヤ人の様にユダヤ民族である事を隠す為にフルネームを変更しなかった。

 だが。アメリカ軍内部は激しい人種差別が横行していて、日本人志願兵は虐待に近い過酷な訓練が強制されていた。

 日本人志願兵は、アメリカ兵以上に規律を守り、上官の命令には盲目的に従い、地獄の様な猛訓練によく耐えていた。

 一部の軍首脳部は、日本人志願兵の不屈な忠誠心から日本人単独部隊の創設を模索し始めた。

 日系アメリカ人は、アメリカ国民として国家に忠誠を誓い、国家の為に日本と戦う事を決意した。

 日本精神・大和魂は、死ぬと分かっていても正々堂々と戦う事を本懐とし、生き残る為に味方を敵に売る「裏切り」を最も嫌った。

 アラスカの日本人移民134人は、エスキモーら原住民とアザラシや鯨を獲って生活していたが、敵国人とされてアイダホ州のミニドカ収容所に強制的に送られた。

 午後2時 野村と来栖両大使は、ハル国務長官に最後覚書を手交した。

 スチムソン陸軍長官「私は日本が奇襲したという、最初のニュースが届いた時に、何よりもまずほっとした。この危機が到来した事によって、決断できなかった時が去り、アメリカ国民全員を一致団結できるのだと思って、安堵した。

 被害の報告が、刻々と入ってきて、急速に大きくなっていったにもかかわらず、そのあいだ中、深い満足感にひたった」

 チャーチル「すでに戦争に勝った。……我々は戦争に勝ったのだ。……私は感動し興奮によって満たされ、すっかり満足して床につき、救われた事に感謝しながら、安らかな眠りにおちた」

 ハワイの日本人総人口は15万9,534人で、ハワイ諸島の34.2%に当たる。

 アンドリュー・W・リンド「ハワイでは日本人移民の職業階層内の上昇傾向が本土の日本人に比べて進んでいた」

カレイ・マックウィリアム「1941年の時点でハワイでは、日本人が就いていない職種はないといってよかった。働いている日本人の15%は指導的立場や専門職についていた」

 日系アメリカ人は、今はなきハワイ王家時代からハワイ先住民との間に強い絆が存在していたが、支配階級の白人との接近を極力避けて日本人だけで固まって生活していた。

 ハワイ先住民は、白人支配のハワイではなく、ハワイ人のハワイにするべくハワイ王家の復活を切望していた。

 アメリカ本土とは違って、日本移民排斥運動は起きなかった。むしろ寛容であった。

 白人支配層は、本土同様に日本人排斥運動を行いたかったが、日本人を排除してしまうと貴重な労働力が居なくなりハワイ経済が崩壊する恐れがあった。

 ハワイには、日系アメリカ人に代わる労働力が他にいなかった。

 西海岸諸州の日本人移民排斥団体が、ハワイの日本人約16万人を受け入れる事に猛反対していたからである。

 後に。カリフォルニア合同移民問題委員会は、国家安全保障の観点から西海岸の全ての日本人を退去隔離を主張したが、ハワイから本土への移住隔離は反対した。

 その為に。ハワイの人種差別主義者は、諸島内の日本人を「追放せよ!」とは主張できず、新聞や雑誌に反日論文を掲載しても、本土の様な退去隔離運動を起こさなかった。

 真珠湾攻撃後。アメリカ軍は、ハワイ在住の日系アメリカ人の暴動を恐れて戒厳令を引いたが、破壊工作は起きなかった。

 デロス・エモンズ将軍は、解任されたショート将軍に代わってハワイ防衛司令官として着任するや、日系アメリカ人がハワイでは欠かせない存在である事を理解して保護した。

ただし、アメリカに忠誠を誓わない者や軍国日本の行動を擁護する者は逮捕して本土の刑務所に送った。

 「我が国に忠誠心を持つ者は、それをハッキリとした形で示そうとする。それを妨げる様な事をするべきでない」

   ・   ・   ・   

 日本航空隊の未帰還機は、第一次攻撃隊で9機、第二次攻撃隊で20機。

 アメリカ軍は、奇襲による混乱から立ち直り、迎撃態勢を整えつつあった。

 レーダー観測部隊も、汚名を返上するべく、日本攻撃隊の機影を総力を挙げて負っていた。

 ハワイ近海にいた空母レキシントンは、日本機動部隊を発見すべく索敵活動を開始していた。

 南雲艦隊は、第三次攻撃を加える為に作戦海域に留める事は、アメリカ軍の反撃を受ける危険があった。

 



   ・   ・   ・   

真珠湾攻撃の真実

真珠湾攻撃の真実

2017-11-14

♠:78─6─福島第一原発事故で被曝し健康を害した元アメリカ軍人兵士402人の裁判。トモダチ作戦の犠牲者。 〜No.430    

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 

   ・   ・   ・  

 アメリカは同盟国であり、アメリカ軍は味方である。

 困った時に、手を差し伸べてくれる相手が信用できる親友であり、自己犠牲的に助けてくれる相手には命を投げ出してもその友情に答えなければならない。

 日本人には、好き嫌いに関係なく、人の信義として助けてくれたアメリカ人に報いる責任がある。

 困った時に助けてくれた相手に対して、如何なる理由があろうとも相手が困ったている時は助ける義務があり、気にくわないから助けたくないでは人ではない、人間失格、人間以下である。

 それが、集団的自衛権である。

 日本人が好きな、「情けは人の為ならず」「武士は相身互い」「お互い様」である。

 それを否定する日本人は、日本の心・まごころ・志を持った日本民族日本人ではない。

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 集団的自衛権を否定する日本人は、助けられた事を喜ぶのではなく嘆きか悲しみ、自己犠牲的に助けてくれた事を怨嗟の声をあげて呪うべきである。

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 白起将軍に恩を受けた兵士の親は、白起将軍の恩を受けた事を喜ばず嘆き悲しんだ。

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 関ヶ原の合戦のおり

 大谷刑部は、負けると分かっていても、石田三成への友誼から味方して戦死した。

 島津義弘は、徳川家康に味方したかったが、石田三成から受けた恩義に対して味方し家臣の多くを戦死させた。

 受けた友誼と恩義に命を捨てて答えるのが武士であり、武士の名誉であり、武士道である。

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 福島第一原発事故は、一歩間違えば、北関東から東北地方一帯、日本列島の3分の1で人が住めなくなるかもしれないとい大惨事であった。

 幸運が味方してくれたから助かったが、当時の日本の政府・議会・官僚そして企業の体たらく、大惨事に対する対応能力のなさを見れば恐怖しかない。

 国政を行う政治家や官僚は、高等教育を受けたエリートであるが、口先だけで能力がない事が暴露された。

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 2017年11月14日 msnニュース「文春オンライン 今野 晴貴

 〈9人も死んでしまった…トモダチ作戦で頑張ってくれた若き米兵らが 原発事故の放射能で被曝し健康を害したとして400人超が裁判を起こしている事をあなたは知っていますか?〉10月8日、日本テレビ「NNNドキュメント」

 私は労働問題を専門とし、ブラック企業や過労死の問題に取り組んできた。その中で、私がいつも思うことは「経済活動」はどこまで人間を犠牲にすることが許されるのか? という問いである。

 原発賠償の問題は、そうした労働問題と同じように、原子力発電という私企業の経済活動が、個々人に与えた被害であり、実際に、労働の分野では以前から「被曝労働」が問題となってきた。

 複雑な原発を維持し続けるためには、炉心の真下に人が入っての点検や、隅々までの清掃作業が求められる。驚く方も多いかもしれないが、最新鋭の原発も、人力の雑巾がけで清掃が行われているのが実態なのだ(その人員はスラムから日雇いで集められる)。そうした「被曝労働」によって多くの癌・白血病が発症してきたのだが、それが「労働災害」と認められるまでには多大な裁判闘争を必要とした。そして今日、原発避難者の被害を中心として、「経済被害」を社会的に問う新しい裁判が続けられている。

 そんな中で、本作は日本でほとんど顧みられることのない「トモダチ作戦」に参加した若い米兵たちの被曝被害に焦点を当てている。「トモダチ作戦」に当たった兵士たちは、メルトダウンの危険が迫る中(それは日本国内でも知らされていなかった)、全速力で被災地に向かった。米兵の被曝は震災後比較的早い段階から問題にされてはいたが、その後の実態はほとんど日本では問題にされていない。

 現在、東京電力を提訴している原告は402人。空母ロナルド・レーガンの航海日誌を検証すると、水蒸気爆発後の放射性プルームに突入していることがわかる。爆発後、私たちの方に風は向かわず、北東に放射性物質は流されていた。そこに、正確な情報を知らされない同空母が突入してしまったのである。

 被害は凄惨だ。腫瘍により足を切断した者や、異常出血で子宮を摘出してしまった者、毛髪が抜け、下痢、頻尿、倦怠感などの健康障害で日常生活をまともに送ることもできなくなってしまった多くの被害者がいる。すでに亡くなった原告もいる。カメラはそうした当事者たちの生々しい声を届けている。彼らは、小さな子供を抱え、つい先日まで健康だった若者たちである。

 だが、米政府は空母乗組員の放射線被曝を認めていない上、軍関係者は従軍中の事柄について政府を訴えることはできない制度になっている。そこで東京電力に対する訴訟が起こされているのだが、ここでも争う姿勢が示されている。未だに彼らは補償を受けることなく、健康被害と闘い、命を落としていっている。震災被害者の救援に参加した米兵に対して、あまりにも酷薄な現実であろう。

 そもそも、放射能の被害は被曝の量、被曝と健康被害の因果関係の特定、という2つにおいて極めて判断が難しい。そのため、上述した「原発労働」の被曝の訴訟においては、被害を認定する際の「一定の基準」が裁判の中で積み上げられてきた。一定以上の被曝があった場合、その健康被害(癌など)を「労働災害」として一律に認定するという方法だ。そのような基準は科学的な特定が難しいために、「世論」の影響を強く受ける。

 今回についても、東電の情報公開と世論が鍵を握っている。米兵の被害者たちも、米国の陪審員制度に対する期待があるという。もちろん、米国内の判断は米国内の世論によるところになるが、当事国として、私たちも彼らの「被害」に向き合うことが求められているのではないだろうか。」

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写真で見る トモダチ作戦

写真で見る トモダチ作戦

2017-11-13

♯:32─7─フーバーFBI長官は、英MI5(情報局保安部)からの真珠湾奇襲情報をガセネタとして握り潰した。1941年12月5日〜No.198〜No.199@      

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗ 

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 昭和天皇「さきの大戦の遠因を顧みるに、黄白の対立にあり」

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 ルーズベルトは、日本外務省暗号電報傍受・解読から軍国日本が戦争を決断した事は知っていた。

 軍諜報部の情報から、日本軍が攻撃してくる事を予想していたが、それが真珠湾であるとは信じなかった。

 真珠湾を攻撃するには、航空機でしかあり得ない。

 優生学の科学者は、日本人を科学的に分析し、「日本人は生態的に欠陥があって航空機は操縦できない」という報告書を提出していた。

 アメリカは、宗教的人種差別から日本人を下等人間と見下し、日本軍を甘く見ていた。

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 日本人は、アメリカ人に比べて体力など多くの面でに劣り勝てない事は分かっていたが、戦う事決断した。

 日本人は、個人的に生き残りたがい為に勝ち負にこだわるのではなく、家族・仲間・同胞への想いから四の五の言うのを止めて戦争を決断した。

 日本人は、軍部に騙されて戦争をしたのではなく、戦わざるをえないと覚悟して戦争を受け入れた。

 大人の常識を持っていた日本人は、アメリカに勝てない事は分かっていた。

 大人の常識を持たない日本人だけが、アメリカに勝てると確信していた。

 軍部に騙された日本人は、大人の常識を持たず子供の様な自己判断力がない低能者のみだけである。

 大人の常識を持つ日本人は、軍部に騙されてはいない。

 その意味に於いて、軍部に騙されていたと信じている現代日本人は、戦前の日本人に比べて大人の常識がない子供のような無責任な日本人という事になる。

 つまり、戦前の日本は軍部に騙されていたと確信を持って公言する傲慢な日本人は信用すべきではない。

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 日本軍にとって、真珠湾奇襲攻撃は先制攻撃の一つであり、マレー半島のコタバル奇襲上陸の方が時間的に先であった。

 日本軍機は、奇襲上陸の前に、南シナ海上空で哨戒飛行中のイギリス軍機を撃墜している。

 イギリスやアメリカは、シンガポールを攻撃する日本軍の大輸送船団がマレー半島に近付いてる事を知っていた。

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 12月5日 樺山愛輔は、グルー大使に、対米戦を決意した9月6日の御前会議の内容を伝え、「たった今、胸がむかつくような事を聞きました。今日はこのまま家に帰ります」と言い置いて立ち去った。

 アメリカ軍は、日本軍が開戦と共にどこを攻撃してくるかを連日協議し、フィリピンのマニラ湾とタイ・マレーを分けるクラ地峡への攻撃が予想されると分析していた。

 グルー報告にあった、ハワイ・真珠湾への攻撃は軍事的常識からして荒唐無稽で可能性が低いとされた。

 FBIは、北米・太平洋沿岸のアマチュア無線が海上を移動する正体不明の無線を傍受しているという、幾つもの報告を受けていた。

 その真偽は今に至るまで不明であり、その情報がどうなったかも分からない。

 アメリカ軍が、日本軍の行動を掴んでいなかったとすれば、アメリカの情報収拾能力は低かったというしかない。

 真珠湾奇襲攻撃の成功は、日本の諜報・情報・宣伝能力がアメリカより優秀であったと言う事である。

 ドイツのリッベントロップ外相は、日本軍部に、ウラジオストックに陸揚げされているアメリカの援ソ物資を阻止するよう要請した。

 日本軍部は、ナチス・ドイツの圧力を黙殺し、戦時中もアメリカによる対ソ支援を黙認していた。

 マニラで。アメリカのアジア艦隊司令官とイギリスの東洋艦隊司令官は、日本軍との戦争が起きた場合を想定して海軍協力計画を策定するべく協議した。

 シカゴ・ディリー・トリビューン紙は、ルーズベルトの戦争計画を一面全紙で報道した。

 ホワイト・ハウスは、軍国日本が暴露記事を読んで攻撃を仕掛ける事を中止するのではないかと恐怖した。

 ワシントンの日本大使館は、暴露記事を東京に通報しなかった。

 アメリカ軍は、暗号解読でその事実を確認した。

 共和党と孤立主義者は、「参戦はしない」と公約して当選したルーズベルトを「戦争を呼び込む火遊びをしている」と非難していた。

 空母レキシントンは、最新鋭艦8隻に護衛されてミッドウェー島に向かって出航した。

 ハワイ・真珠湾には、最新軍艦の姿はなく旧式戦艦など老朽艦のみが碇泊していた。

 その艦艇数は、太平洋艦隊兵力の半分強に過ぎなかった。

 東郷外相は、ワシントンの野村大使に、ハル・ノートに対する最終覚書を長文で打電する事を知らせ、アメリカ側に提示する時期を追電すると伝えた。そして、4月以来の困難なる外交交渉に感謝する電報を送った。

 大統領付海軍武官ビアドール大将は、日本の暗号を燃やせという秘密通信情報をルーズベルトに報告した。

 ルーズベルトは「で、いつ起こると思うか」と問い、ビアドール大将は「およそ、いつでも」と答えた。

 野村大使は、ハル国務長官を訪ね、インドシナに展開している日本軍はABCD諸国の軍事的脅威に対する予防の為であると説明した。

 ルーズベルトのウェンデル・ウィルキーへの書簡「情勢は間違いなく深刻で、もし、日本がフィリピン、蘭領東インド、マレー半島、ビルマへの展開を継続した場合、いつなんどき武力衝突が起きてもおかしくない。今後4、5日のうちに事を決するかもしれない」

 ワシントンは、東京のアメリカ大使館に対して、突発的な緊急事態が起きた時の準備として暗号や書類を破棄する様に指示した。

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 ヒトラーは、モスクワ攻撃の中止を命じた。

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 日本外務省は、12月6日(ワシントン時間12月7日)に、昭和天皇や軍部の強い要請を受けて、ワシントンの日本大使館に対して宣戦布告が遅れない様に「これから重要な電報を送る」というパイロット電報を打った。

 軍国日本は、「騙し討ちをする卑怯な国」という汚名を避けるべく適正な手立てを施していた。

 アメリカは、全ての暗号電報を傍受していた。

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 12月6日 日本軍部は、「日本の作戦の見地上、ソ連との戦争に入る事を絶対に避けなければならぬ時期の間は、充分にこれを実行できぬ事を諒承せられたい」と返答した。

 当時。アメリカは、ドイツ軍と戦うソ連を支援する為に、大量の軍需物資をウラジオストックに陸揚げし、シベリア鉄道でヨーロッパ前線に送っていた。

 ナチス・ドイツのリッベントロップ外相は、日本に対して援ソ物資の阻止を要求した。

 日本政府は、対ソ静謐の基本方針であるとして、阻止要請を拒否した。

 アメリカの軍需産業は、ユダヤ系国際金融資本から巨額の融資を得て大量の武器弾薬を生産し、アメリカ、イギリス、中国、ソ連などの連合軍に供給していた。

 マレー沖で、日本軍戦闘機はイギリス軍機を撃墜した。

 戦争は、この時から始まった。

 埼玉県北足立郡の大和田にある海軍第1550通信隊は、16:00時に、第一航空艦隊の近くで電波を発するアメリカ潜水艦を発見して軍令部に報告した。

 軍令部は、17:00時頃に、1550通信隊から緊急電を受け取り、第一航空艦隊が敵潜水艦に発見される恐れがあると緊張したが、方位測定の誤りという第二報を受けとって安堵した。 

 第一航空艦隊の旗艦である空母赤城は、1700時に、ハワイ北方の約1,290キロ辺りで無電を交わしあうアメリカ潜水艦2隻を発見した。

 ルーズベルト大統領より昭和天皇に対し、平和を志向し関係改善を目指すという親電が送られる。

 東郷外相、野村大使に交渉打ち切りを伝える「対米覚書」を訓令した。

 アメリカは、午後3時頃に、東京が諸外国の日本大使館に送った対米交渉の終了と国交断絶が近いという13項目の極秘電文を傍受した。

 暗号電報は、返書を「翌7日午後一時にハル国務長官に渡すように」との時間を指定し、日本大使館に暗号機の破壊を命じた。

 冷静に判断すれば、「午後一時」以降に、日本軍が何らかの軍事行動に出る可能性がある事に気付いたはずである。

 だが。真珠湾も、マニラも、その他のアジア・太平洋地区にある全てのアメリカ軍基地は警戒態勢をとる事なく、無防備であった。

 ルーズベルトは、同解読文を読んでハリー・ホプキンスに「これは戦争と言う事だな」「それにしても立派な記録が残った」と語った。

 ホプキンズ「間違いなく戦争になるのに、こちらが最初の一撃を加えられないまま、みすみす奇襲されるのを防げないのは残念です」

 ルーズベルト「いや、我々はそうする事はできない。民主主義の国であり、平和を愛する国だ。だが、我々の歴史に汚点は残らない」

 以前。来栖三郎特命全権大使が求めていた昭和天皇への平和を求める大統領親書を送る件を復活させ、アメリカは最後の最後まで戦争を回避する為に努力をしていたというアリバイ工作を行った。

 「天皇親書」を公表する事で、アメリカは最後の最後まで戦争を避ける為の努力をしていたと言う、歴史的免罪符を手に入れた。

 ホワイト・ハウスは、イギリスの要請に従って対独戦参戦を決定し、中国に味方する形でナチス・ドイツの同盟国日本を戦争に追い込む為に努力を続けていた。

 一部の国務省上級職員は、上司らの「参戦」という本心を理解せず、本気で日本との戦争を回避しようとして奔走していた。

 アメリカ大統領は、国民の総意で選ばれた以上、憲法で権限を制限された象徴天皇とは違って強力な権力を持ち、最高軍司令官として独自で決断し全軍に命令を発していた。

 アメリカ軍情報部は、傍受した「風・メッセージ」と同様に、上層部の命令で真珠湾に伝えなかった。

 後年。政府・議会・陸軍・海軍は、独自に真珠湾攻撃の責任糾明委員会を設置した。

 海軍翻訳班勤務のクレイマー海軍中佐は、メッセージ傍受の事実を証言しようとした。海軍上層部は、戦争遂行に障害になるとして、彼をベセスダ海軍病院の精神病棟に強制隔離し、如何なる委員会にも出席できないように命じ、メッセージ傍受を証言しないように強制した。後に、クレイマーは証人台に召喚さえたが、精神に異常をきたし発言は曖昧で一貫性を欠き証言に信憑性はないとされた。

 陸海軍首脳は、同メッセージが公に出ると戦争内閣であるルーズベルト政権の崩壊につながるとして、事実を公言しないように情報部関係者に箝口令を引いた。真実を証言しそうな部下に対しては、任意退役と年金停止と再就職の妨害をちらつかせて脅した。

 軍人は、上官命令が絶対で有り、最高総軍司令官の大統領に関係するとあっては命令に従わざるをえなかった。

 アメリカ軍は、日本軍同様に都合の悪い情報は隠蔽し、関係する部下全員に偽証を強要した。

 オーストリアからワシントンに、日本艦隊が真珠湾に向かっているという怪情報が飛び込んできた。

 ワシントンの海軍省に、アメリカ・アジア艦隊司令長官ハート大将とイギリス・極東艦隊司令長官フィリップス大将による対日戦争計画に関する「ABC」及び「ABD」の秘密協議での報告書が提出された。

 ルーズベルトは、チャーチルの督促に従って、大統領直属の組織として原爆開発製造のマンハッタン計画を正式に始動させた。

 「ドイツを倒すには有効な武器が必要で有り、それを我々は今掌中にしている」

 極秘軍事計画として、巨額の予算を使うにもかかわらず議会の承認を得ず、情報がナチス・ドイツなどに漏れない様にFBIや州警察や軍諜報機関を総動員して国民を監視した。

 アメリカは、日本以上に監視社会であり、表面的には自由がある様に見えて戦争勝利に為に国民の自由が制限されていた。

 知る権利が制限されていたアメリカ国民で、一部の科学に興味を持つ者以外は、原爆についての知識は無かったし、原爆開発の事実も全く知らなかった。

 チャーチル首相、マニラのフィリピン防衛司令部、オランダ領東インド諸島総督に伝えられたが、ハワイには直ぐには伝えなかった。

 ハワイの真珠湾は、マジック情報が伝えられずつんぼ桟敷に置かれていた為に、防衛体制が不十分であった。

 同6日夜 ルーズベルトは、ラジオ放送で昭和天皇に親書を送った事を伝え、アメリカは平和的解決に絶望せず戦争を回避する為の努力をしていると発言した。

 グルー大使は、命令に従って、天皇への親書を日本政府を飛び越えて宮内省に届けた。

 チャーチルは、英連邦自治領政府に対して、「不幸にして戦争にいたった場合、責任は日本の側にある」と話して団結を呼びかけた。、

 アメリカ連邦議会は、特殊兵器(原爆)の開発予算として6,000ドルを許可した。

 ルーズベルト「さあ、我々は攻撃された。それについて疑う余地はない」

 ウォーカー郵政長官「ボスはここ数週間で一番、安堵していたようだ」

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 キンメルは、ハワイ近海における航空機による索敵を行おうとしたが、ワシントンの命令で中止した。

 もし、この時、北方海域に索敵を実行していれば日本機動部隊を発見することができた。

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 ハワイは、アメリカの保護領であったがアメリカの領土ではなかった。

 白人住民の人数よりも、ハワイ人と日系移民の人口の方が多く、正規の選挙をすれば白人候補が当選できなかった。

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 MI5リッデル副長官日記「アメリカは日本がタイに侵攻すれば、完全にイギリスをサポートする事を同意した。日本の軍艦に護送された輸送艦がタイに向かっている。侵攻は差し迫っている」

 イギリスは、アメリカを巻き込んだ対日戦開戦が目の前に迫っている事を知り、その時を固唾をのんで俟っていた。

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 12月6日午前10時ごろ(日本時間で7日) カイロのイギリス軍空軍本部。中東イギリス空軍司令官アーサー・ロングモアは、当地にオブザーバーとして滞在していたボナー・フェラーズに、軍事機密情報である「日本軍は24時間以内にアメリカを先制攻撃するという電報」を入手した事を伝えた。

 フェラーズは、日本軍がアメリカを攻撃するという情報をワシントンに通報するか迷い、その後どうしたかは不明である。

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 2014年12月8日 産経ニュース「【戦後70年】

 真珠湾奇襲、英MI5は知っていた 証拠の日記見つかる 007のモデルのスパイ暗躍 情報伝えられたFBI長官は…

 日本海軍の真珠湾攻撃により炎上して沈む米戦艦ウェストバージニア。奇襲攻撃の情報をFBIは握り潰していた可能性がある(ロイター)

 73年前の12月8日、日本は真珠湾を攻撃した。当時の日本の最高機密だが、英独の二重スパイが攻撃計画を事前に察知し、英MI5(情報局保安部)が把握していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。MI5のガイ・リッデル副長官は日記に、スパイが奇襲4カ月前に独側から偵察を指示されたリストに真珠湾と米艦隊があったことを「われわれ(MI5)は所有している」と記していた。スパイの回顧録によると、米FBIにも奇襲を伝えたが、ジョン・フーバー長官が握り潰していたという。(編集委員 岡部伸)

 このスパイは、セルビア人のドシュコ・ポポフ。コードネームは「トライシクル」(三輪車)で映画「007」シリーズのジェームズ・ボンドのモデルの1人として知られる。

 リッデル日記によると、真珠湾攻撃後の1941年12月17日付に「『トライシクルの質問状』を今、われわれ(MI5)が所有している。これは8月にドイツ人たちが真珠湾について特別に関心を示し、可能な限りのあらゆる情報を入手したがっていたことを極めて明瞭に示している」と書かれていた。

 ポポフの回想録「スパイ/カウンタースパイ」によると、「トライシクルの質問状」は、ポポフが同年7月、ポルトガルのリスボンで独諜報機関のアプヴェール(国防軍情報部)から「米国でスパイ網を組織せよ」との指令を受け、渡された調査リストだった。この中に真珠湾の米軍施設や米艦隊などが含まれていたという。

 ポポフは、アプヴェールの同僚から、1940年11月に英海軍が航空機でイタリアの軍港タラントを奇襲した攻撃手法に日本が関心を示していると聞いていたため、日本がタラント海戦に倣って真珠湾を攻撃すると推測したという。

 渡米したポポフは、FBIのニューヨーク支部長と面会し「日本が真珠湾を奇襲する可能性がある」と告げた。フーバー長官にも面会して進言したが、フーバーは二重スパイのポポフを信用せず、個人的に握り潰した。さらにフランス人のハリウッド女優、シモーヌ・シモンと交際し、高級ホテルやペントハウスで暮らす豪勢な生活を非難したという。

 「質問状」は書類だけでなく、ドイツが超高細密の印刷技術を使って開発した極秘の連絡手段「マイクロドット」としても手渡された。高倍率の拡大鏡で見ると微細な文字が判明する技術。ポポフはこれをFBIに渡し、英米は初めてドイツの革命的なスパイ技術の存在を知った。

 真珠湾を偵察する「質問状」は、明確な攻撃計画ではなく、奇襲の意図も明記していないため、日本の奇襲計画情報を入手して、米国に伝えたというポポフの主張は信頼性に欠けるとの見方もあった。

 しかし、その後、情報公開が進み、米国では「ポポフの真珠湾情報はフーバーに伝わったが、ルーズベルト大統領まで上げられなかった」とする論文も発表された。大戦中にドイツの「エニグマ」など世界各国の暗号を解読し、現在は博物館となっているブレッチリーパークでも「ポポフは奇襲4カ月前にリスボンで真珠湾の『調査』情報を受け取り、MI5に報告し、FBIに伝えた。しかし、フーバー長官は、ポポフを嫌い、拒否。FBIのエージェントは敬意を払って関心を持った」とポポフが真珠湾情報を得て英米に伝えていたと公表している。

   ◇

【プロフィル】ドシュコ・ポポフ

 セルビアの裕福な家庭に生まれ、ドイツの大学を卒業後、弁護士となった。第二次大戦勃発後、ドイツのスパイとなったが、ナチス嫌いだったため、英MI5に引き抜かれ、二重スパイとなった。ノルマンディー上陸作戦で偽情報をドイツに流して作戦を成功に導いたことにより戦後、英国籍を得て英国王室から勲章を受けた。

 ギャンブル、女性好きで知られ、「007」のジェームズ・ボンドのモデルの一人とされる。コードネーム「トライシクル」は「女性2人とベッドを共にする習性」「部下を2人雇って3人で情報収集」などから命名されたといわれる。「007」原作者のイアン・フレミングはポポフの監視役だった。

【用語解説】MI5

 英情報局保安部。英国内での外国スパイや共産主義者などの摘発、国家機密の漏洩阻止などのカウンター・インテリジェンス(防諜)を行う内務省管轄の情報機関。冷戦時代、ソ連のスパイ、キム・フィルビーら「ケンブリッジ5」を突き止め、大戦中は、日独の諜報活動に監視の目を光らせ、二重スパイを送り込み、欺瞞情報を流して勝利に貢献した。英国は他に外務省管轄の通称「MI6」、秘密情報部(SIS)を持つ。



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真珠湾攻撃を決断させた男

真珠湾攻撃を決断させた男

 

2017-11-12

♬:27─14─日中戦争がドロ沼化し長期戦になったのはソ連軍が国際義勇軍を援軍として中国軍に派遣したからである。〜No.142   ❹        

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗

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 日中戦争は、勃発時から日本とファシスト中国との二ヵ国間戦争ではなく国際戦争であった。

 もし、二ヵ国関戦争であれば、日本軍は大勝・快勝し早期に終了していた。

 日中戦争は、勃発時は日本軍対中国・ドイツ軍事顧問団共同軍の戦争で、初期段階は日本軍対中国・ソ連連合軍の戦争であった。

   ・   ・   ・   

 軍国日本は戦争回避であり、中国・ソ連は戦争開戦であった。

   ・   ・   ・   

 軍国日本が戦った真の敵は、天皇制度廃絶を正義とする共産主義勢力であった。

   ・   ・   ・   

 ジョージ・オーウェル「人々が党の強いる虚構を受け容れるなら、あらゆる記録が同じような虚構を述べるなら、その虚構は、歴史の中に組み込まれて真実となってしまう。『過去を支配する者は未来まで支配する』と党のスローガンは謳う。『現在を支配する者は過去まで支配する』……それは『真実管理』と呼ばれていた」(『1984年』)

   ・   ・   ・   

 一般的に言われる南京事件とは、第二回南京事件の事である。

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 2017年12月号 前衛「南京事件80年 戦争と侵略の体験

 南京事件80周年国際シンポジウムに参加して

 ──中国における南京事件研究の進展

 笹原十九司

 『南京大虐殺及び日本戦争犯罪』国際シンポジウム

 2017年9月7日、中国の南京において『南京大虐殺及び日本戦争犯罪』国際学術シンポジウム(主催団体は南京大虐殺史及び国際平和研究院と南京侵華日軍南京大虐殺史研究会、以下、国際シンポと略称)が開催された。南京大虐殺事件(南京事件と略称)が日中戦争初期の1737年12月に発生してから80年経過したことを記念して開かれたこのシンポジウムには、中国からは45名の研究者、日本からは私をふくめて5名、アメリカとドイツからそれぞれ1名が参加して報告と討論をおこなった。国際シンポのタイトルは『南京大虐殺及び日本戦争犯罪』と日本人にとって厳しい表記であったが、本稿で紹介するよに、南京事件を総合的、多面的に検討したきわめて学術的なシンポジウムであり、学ぶところが多かった。

 ……

 アメリカと日本から主報告

 開会式につづいた全体会において、主報告者として私が『日本海軍航空隊の南京爆撃とパナイ号事件』を報告し、南カリフォルニア大学ホロコースト基金会研究センターのウルフ・グルーナー教授が『ホロコースト・ジェノサイド研究と南京大虐殺(1937〜38年)と比較研究の有効性』の報告をおこなった。

 グルーナー教授の報告は、独ソ戦でソ連に侵攻、占領したドイツ軍と、日中戦争で南京に侵攻、占領した日本軍の虐殺、残虐行為を比較検討したものであった。ドイツ軍は広大なソ連領土を侵略し、ソ連軍だけでなく、ゲリラ部隊や民衆の抵抗をうけて、兵士や民衆の区別なく敵とみなして殺戮したことや、食糧の補給がなくて略奪をおこなったこと、占領地で女性のレイプをおこなったことなど、日本軍が南京をはじめ中国大陸でおこなった不法・残虐行為と類似していることを明らかにした。ただし、ドイツ軍がソ連内のユダヤ人を種族絶滅政策によりジェノサイドの対象にしたことは日本軍とは異なっている。南京事件では日本軍は捕虜をとらない方針で集団虐殺したのに対して、ドイツ軍はソ連軍をいったん捕虜として収容したが、結局は捕虜に与える食糧がないために多くを餓死させたのである。

 グルーナー教授によれば、独ソ戦において、ドイツ軍がソ連領土内でおこなった虐殺・残虐行為にかんする研究は、まだ開始されたばかりだという。

 これに関連して、2015年にドイツでおこなわれた第二次世界大戦の終結70周年を記念する行事について言及しておきたい。1945年1月27日にソ連軍によってアウシュヴィッツ収容所が解放された日である。これを記念して1月27日は、国連で『国際ホロコースト記念日(ホロコースト犠牲者を想起する日)』とする決議が採択され(2005年)、加盟各国は『大量殺戮が二度と繰り返されんないよう、次の世代に悲劇の記録を伝えるための教育プログラムを構築する』ことが奨励されている。終戦70周年の2015年1月27日、ドイツ連邦議会でアウシュヴィッツ解放70周年の記念式典がおこなわれたが、この式典に戦時中、兵士としてレニングラードの包囲戦を生きのびたロシア人の作家、ダニール・グラーニンが来賓として招かれて演説したのである。

 1941年9月から44年1月まで、2年以上続いたドイツ軍のレニングラード包囲戦は、戦争史上、最も長い、最も破壊的な大都市包囲戦の一つと言われている。100万人を超える人々が命を落としたが、そのほとんどが食糧の供給を絶たれたための餓死だった。演説の中でグラーニンは、生き延びるために親たちが子どもに人肉を食べさせたことなど、目撃した悲惨な状況を語った。

 レニングラード包囲戦とホロコーストと直接の関連はないが、ドイツ連邦議会は、この記念すべき日にこそ、ドイツの加害責任を明らかにしたいと強く望んだのである。グラーニンの演説を聞いた議員らは深い感銘を受け、『最も感動的なのは、ドイツ人を憎んで当然のこの老人が、(戦後)ドイツとロシアの和解における重要な先駆者になったことだ』などと感想を述べたという。グラーニンは戦後、『反目から親善』に向けたソ連(ロシア)とドイツの和解のための尽力してきた作家であるが、その作家にドイツ連邦議会において、ドイツ軍によるロシア市民への加害・残虐行為の実態を語ってもらったのである。

 現在の日本の国会に南京や北京から中国人の歴史学者や文学者を招聘(しょうへい)して、日中戦争(抗日戦争)における日本軍の侵略・加害の歴史を語ってもらうようなことがはたしてできるかを想定してみれば、ドイツ政府とドイツ連邦議会の見識のレベルが、日本の政府や国会とは格段の差があることを思い知らされた。

 ……日本の歴史研究者ではこれまで私以外には究明してこなかった、日中戦争を全面化し、戦時国際法に反して、宣戦布告をせずに中国の首都南京を爆撃し、世界戦史上最初となった長期的かつ本格的な南京空襲作戦を敢行した海軍の戦争責任を問うたものである。報告の概要は以下のとおりである。

 日中戦争についての歴史書の多くは、1937年の盧溝橋事件によって『日中全面戦争に突入した』あるいは『満州事変に始まる日中戦争が全面化した』などという記述をしているが、海軍は1936年の段階で陸軍に先駆けて日中戦争発動態勢をとり、海軍航空隊は首都南京への渡洋爆撃への出撃待機をしていたが、陸軍の反対で実行されなかったのである。そして1937年7月7日の盧溝橋事件が勃発、厳密にいえば、当時の呼称で『北支事変』が開始された。すなわち華北に限定された戦争が開始されたのである。それは陸軍が1935年から開始した『華北分離工作』の延長であり、華北を『第2の満州』とする狙いに基づいていた。

 陸軍参謀本部さらに天皇も戦争を華北に限定する方針であったのを、8月9日に上海にいて謀略による大山事件を仕掛けて、8月13日から第2次上海事件を引き起こして、華中へと戦争の拡大、さらに8月15日には宣戦布告もせずに中国の首都南京を渡洋爆撃、つづいて華中・華南の都市爆撃をおこない、戦争を一挙に拡大。『北支事変』から『支那事変』へと名称を変更させ、現在の呼称でいえば『華北戦争』を『日中戦争』へと拡大したのが海軍であった。

 9月10日に上海に飛行場を開設した海軍航空隊は、九六式陸上攻撃機と九六式艦上戦闘機からなる南京空襲部隊を編成し、中国政府の首都南京の軍事・政治。経済機構を破壊して、国民政府を屈服させ、中国国民に敗戦を自覚させるために、大規模な南京空爆作戦を敢行した。海軍航空隊の南京爆撃は第1次(9月19日)から第11次(9月25日)までおこなわれた。その後も南京爆撃は10月、11月と長期にわたっておこなわれ、国民政府の首都機能は麻痺し、政府関係者や広範な市民に恐怖感、敗北感を与えた。そのため、蒋介石は11月20日、国民政府の首都を奥地の重慶に移転することを発表、政府機関・文化教育機関など諸機関・施設の移転作業を開始するにいたった。 11月上旬に上海を占領した中支那方面軍の指揮官(松井石根、武藤章、柳川平助)が、作戦になく準備も装備もなかった南京攻略戦を参謀本部の統制を無視して強行し、南京事件を引き起こすが、現地軍の独断専行の前提として、海軍航空隊による南京爆撃が戦略爆撃の効果を発揮して、陸軍の地上からの南京攻略が容易であると判断されたことがあったのも重要である。すなわち、海軍航空隊の南京爆撃が陸軍部隊による南京攻略の前哨戦の役割を果たしたともいえる。

 さらに海軍航空隊は、日本軍が南京城内に突入して12月12日、南京上流の長江に停泊していたアメリカアジア艦隊の揚子江警備隊に所属する砲艦のパナイ号を撃沈、4名の死者、3名の重傷者、10名の負傷者を出した(パナイ号事件)。パナイ号事件は日本海軍機がアメリカ砲艦を『不意打ち』『卑怯な急襲』によって攻撃、撃沈したとして、後に真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が開始されると、『真珠湾攻撃への序曲』としてアメリカ国民に想起、記憶されることになった。日本の海軍の側でも、パナイ号を撃沈したのが真珠湾攻撃で戦艦ウェストバージニアに魚雷を命中させた村田重治であり、パナイ号事件の対米処理に奔走した海軍省次官の山本五十六が、1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃を、連合艦隊司令長官とぢて命令したのであった。

 パナイ号事件は、通説にいわれる陸軍が日中戦争から対米戦争へ『海軍を引きずっていった』のではなく、その逆であったことを象徴的に物語る事件であった。

 中国からも南京爆撃の報告

 日本海軍航空隊の南京爆撃についての私の報告にたいして、中国の研究者からもこれに対応する二つの報告があった。一つは袁志秀『1937年の南京航空戦において犠牲になった中国空軍将兵に関する考察』と題する。南京大虐殺記念館の保管研究所副所長の報告である。報告の前半は『日本軍の南京爆撃』と題して、私の報告と重なるが、1937年8月15日の渡洋爆撃に始まる海軍航空隊の南京爆撃について、12月6日までの経緯をまとめたものである。後半が、『中国空軍の南京防衛戦』と題して、日本海軍機を迎撃した中国空軍機の戦闘の経緯を整理したものである。11月にソ連の志願航空隊の戦闘機大隊23機が南京に到着し、日本海軍機と空中戦を展開したと述べた。ついで、中国空軍の南京防衛戦で日本海軍機と空中戦を展開して犠牲になった操縦士や飛行中の事故で殉職した操縦士や搭乗員27名の名前と簡単な略歴を紹介し、最後に南京の空中戦において『中国空軍精神』を発揮した勇士として称えると結んだ。

 中国において、大分以前から共産党軍、国民党軍という呼称の区別をやめ、両軍を含めたと『中国軍』いう呼称を使うのが一般的になり、中国共産党中心の抗日戦争史観では評価されなかった国民党軍(国民政府軍)の戦闘を歴史事実に照らして顕彰することが広く定着した事が、この報告からもうかがえる。

 もう一つは、盧彦名『中ソ提携の観点からの南京抗戦と南京大虐殺』と題する南京大虐殺記念館館員の報告である。ソ連は、1937年8月20日に中ソ不可侵条約を締結し、ソ連を仮想敵にした日本軍の北進政策、具体的には満州を基地にソ連領への侵攻を企てている関東軍の脅威からソ連を守るため、中国の抗日戦を積極的に支援した。ソ連は日本海軍航空隊の南京爆撃に対抗して、ソ連製の爆撃機や戦闘機ならびにソ連兵の志願航空部隊を派遣し、日本海軍の南京空襲部隊と空中戦を展開させた。志願航空部隊といっても実質はソ連政府が派遣した空軍部隊であったが、日本からのクレームを躱(かわ)すために、ボランティアの部隊であると称したのである。

 ソ連政府は、9月15日かあソ連機の中国への搬送を開始し、南京事件がほぼ終結した38年3月1日までに航空機282機を中国に搬送して、中国空軍の対日抗戦を支援したのである。11月21日には、南京の航空基地を飛び立ったソ連志願航空部隊の第一大隊のE-16型戦闘機7機が20機の日本軍機との空中戦を展開、九六式戦闘機2機、九六式攻撃機1機を撃墜し、南京空中戦での初勝利をあげた。以後、ソ連の志願航空隊と中国空軍は協力して、南京が陥落するまで数次にわたり日本海軍航空隊と空中戦を展開、20機を撃墜するという戦果をあげた。

 余談になるが、私は数年前、南京城壁の東にそびえる紫金山の北山麓にある広大な国際抗日航空烈士公園を訪ね公園の中にある南京抗日航空烈士記念館を参観したことがある。同館には、日本の海軍航空隊、陸軍航空兵団と戦闘して犠牲になったソ連人やアメリカ人などのパイロットの功績が展示されている。

 盧彦名報告はつづいて、ソ連共産党中央委員会の日刊機関紙『プラウダ(中国語は真理報)』が、日本海軍航空隊の南京空爆の被害の実態や日本軍の南京大虐殺の惨状、さらに日本軍の2人の将校による『100人斬り競争』についても報道し、1938年1月30日の『プラウダ』は『日本軍の中国における暴行』と題する長編の特集記事を組み、南京大虐殺の惨状を世界に知らせたと述べ、これらのソ連のメディアの報道は中国軍民の抗日戦争の国際的に支援するものであったと結論した。

 二つの分科会における報告と活発な討議

 ……

 〕論的枠組み

 ……

 日本軍の分析

 ……

 F本人の戦争観 明治維新以降、自由民権運動もあった日本であるが、日清・日露戦争で日本が勝利して以降、現人神として天皇信仰が作り上げられ、日本の侵略戦争を推進する精神的原動力なったという報告があった。さらに中国の学会から観察する『日本人の目から見た南京大虐殺』という問題関心で、日本における南京大虐殺論争史の記述の変遷を整理した報告もあった。なお、拙書『南京事件論争史』(平凡社新書、2007年)は、中国でも翻訳書が、羅萃萃・陳慶発・張連紅訳『南京事件論争史』(社会科学文献出版社、2 011年)として出版されている。戦時から戦後における日本人の戦争観の変遷を整理し、現在歴史修正主義者の安倍政権のもと、南京事件否定派が跋扈(ばっこ)し日本国民の戦争責任感が変化していることを分析した報告もあった。

 て邉事件当時、南京に滞在した外国人の活躍

 ……」

   ・   ・   ・   

 2017年11月16日号 週刊新潮「新聞ネットじゃわからない国際問題

 鳥の目 虫の目 魚の目 宮家邦彦

 当世日本『シンクタンク』事情

 ……

 ビジネス書では『戦略は成果をだすための総合的な方策、戦術は戦略を実現する具体的手段』などと解説すると、著者の見る『国家の戦略』とは以下の4つに要約できる。

 ‥┐鬘韻弔帽覆襦

 ∪気靴て洩噌颪鯀ぶ。

 I蕕韻訐鐐茲鮴錣錣覆ぁ

 ぞ,討訐鐐茲蓮△任れば戦わずに勝つ。

 複数ある敵対勢力を1つに絞り、最も強い同盟国を選び、負けそうな戦争を戦わず、常に『勝つ組』に残る。このシナリオが本来の外交・安全保障戦略であり、それ以外は全て戦術だ。国家戦略と具体的戦術を提示できるシンクタンクだけが生き残る。……」

   ・   ・   ・   

 中国軍とは、ファシスト中国=中国国民党の私兵軍隊である。

 軍国日本は、ファシスト中国=中国国民党政府とは違い、日本帝国憲法に従って普通選挙=国民総選挙を実施して国会を開催し、日本国内在住の朝鮮人に参政権を認め立候補権と投票権を与えていた。

 国民総選挙で当選して国会議員になった在日朝鮮人がいた。

   ・   ・   ・   

 ナチス・ドイツ、ヒトラーは、中国・ソ連連合軍に軍事顧問団を派遣し、日本軍に勝利する為に中国軍を世界最強の軍隊に育成し、国際世論を反日に導く謀略宣伝=ブラック・プロパガンダを伝授した。

 アメリカ、ルーズベルトは、陸軍航空部隊の正規軍籍のパイロットと整備兵を偽装退役させボランティア飛行隊として中国軍に派遣し抗日戦に参戦した。

 ヒトラーもルーズベルトも親中国派反日派で日本を憎んでいた。

 ルーズベルトの対日戦略は、軍国日本を日本列島に閉じ込め衰退させ、非日本人の大量移民で日本民族の血筋を地上から平和的人道的道徳的合理的に消滅させる事であった。

 イギリス、チェンバレンは、大量の軍事物資を中国・ソ連連合軍に供給し続けた。

 アメリカ・ウォール街とロンドン・シティーのユダヤ系国際金融資本や欧米の国際的軍事産業(死の商人)は、日本を民族資本と軍需産業を破壊するべく中国・ソ連連合軍を支え続けた。

 アメリカ・キリスト教会は、日本や中国などのアジアをキリスト教化するという神聖な使命から、異教国・異教徒・昭和天皇を滅ぼすべくファシスト中国を支援した。

 蒋介石・宋美齢夫妻はキリスト教徒。

 フランスは、中国・ソ連連合軍への兵站基地として仏印を提供した。

 オランダは、軍国日本の軍事行動を妨害する為に石油の販売に難癖をつけた。

 中国共産党は、日本軍後方で勢力拡大と日本軍撃滅の為に勇猛果敢に活動していた。

   ・   ・   ・   

 現地軍司令官松井石根(A級戦犯)は、中国・ソ連連合軍に軍事支援するアメリカ・イギリス・フランス・オランダを分断排除する為に、東京に対して「宣戦布告」を意見具申した。

 東京の革新官僚や統制派軍事官僚である隠れマルクス主義者・共産主義賛同者らは、アメリカ・イギリスとの貿易に支障をきたすとして「宣戦布告」の意見具申を却下した。

 陸軍は対ソ戦重視から即時停戦・和平交渉を切望したが、日本政府は戦争拡大・完全勝利を譲らず戦争継続で押し切った。

 軍部は日中戦争早期終結の為に、ナチス・ドイツとの三国同盟とソ連との日ソ中立条約を知米派(隠れ親米派)松岡洋右(A級戦犯)に要請した。

   ・   ・   ・   

 日本国内や朝鮮半島では、反天皇反日の日本人共産主義者やキリスト教徒である朝鮮人テロリスト・反天皇反日派朝鮮人らが天皇制度打倒と避戦派昭和天皇暗殺の為に暗躍していた。

   ・   ・   ・   

 軍国日本包囲戦と天皇制度国家日本殲滅戦を計画したのは、ソ連・コミンテルンであった。

 中国共産党は、現場で抗日派敵日派反日派に指令を伝え、軍国日本を撃滅し中国を勝利に導いた。

 故に、中国共産党は偉大である。

   ・   ・   ・   

 日中戦争はコミンテルンの悪辣な陰謀ではなく、日本・中国・朝鮮などアジア全体を共産主義化するというレーニンの正当な国際戦略であった。

 日本においては、反宗教無神論による暴力的人民革命で軍国日本解体、天皇制度廃絶、国體破壊、天皇家・皇室消滅であった。

 日中戦争を勃発させ日本軍を中国奥地まで引きずり込み長期戦へと泥沼化させたのは、中国共産党であった。

   ・   ・   ・   

 1918年 レーニンの共産革命輸出。

 1920年 レーニンは、日米全面戦争を誘発して欧米列強の植民地支配を弱体化させ、植民地で叛乱を起こし独立させ、財源であった植民地を失って疲弊した欧州諸国で共産革命を起こして共産主義政権を樹立させようとした。

 第一段階が日中全面戦争、第二段階が日米全面戦争、最終段階が敗戦革命である。

 世界戦争を起こしたのは共産主義者であった。

   ・   ・   ・   

 日本共産党は、コミンテルンの日本支部であり、中国共産党の下位組織で、ソ連・コミンテルンの命令・指示・示唆は中国共産党から伝えられる事が多かった。

   ・   ・   ・   

 日本軍による大虐殺事件は、南京の一件だけで、北京や漢口など他の都市では起きていない。

 日本軍は、河南省大飢饉で飢餓民約500万人を救うべく軍事費を増額して食糧や医薬品を被災地に強硬急送し、中国軍の黄河堤防爆破による濁流に呑み込まれた数十万人を救助した。

 軍国日本は、戦争犯罪をしたが同時に人道貢献も行っていた。

 幾つかの人道貢献が行われたのは、A級戦犯東條英機が首相兼陸相の時期である。

 日本は、悪い事もしたが善い事もした。

 日本人には、悪人もいるが善人もいた。

 日本人については、悪人が善人だり、善人が悪人である。



   ・   ・   ・   

資料 ドイツ外交官の見た南京事件

資料 ドイツ外交官の見た南京事件

2017-11-11

♯:32─6─ニイタカヤマノボレ1208。アメリカ軍情報部は日本軍の行動を知っていた。風情報。1941年12月〜No.195〜No.196No.197@        

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗ 

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 国力に不安を抱く大日本帝国は、大国との戦争を回避する為にギリギリまで外交交渉を行い、万策尽きて戦わざるを得ない状況に追い詰められた時に、平和を諦めて戦争を仕掛けた。

 日本人は、戦争を覚悟していただけに、戦争を避けようとしたが、戦争から逃げようとはしなかった。

 日本軍部は、いつ宣戦布告してもいいように平時から戦争の準備を行っていた。

 軍国日本の戦争は、主体性なく後手から始まる事が多かった。

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 昭和天皇がアメリカとの戦争に反対したのは、皇太子時代にヨーロッパを訪問し、第一次世界大戦における悲惨な爪痕を見、破壊と死を肌で感じたからである。

   ・   ・   ・   

 アメリカとイギリスは、日本の暗号電報を傍受・解読し、日本国内の協力者からの国家機密情報の提供で、日本の行動を知っていた。

 日本は、騙し討ちではなく奇襲攻撃を仕掛けただけである。

   ・   ・   ・   

 アメリカ海軍諜報機関は、日本海軍艦艇の動向追跡の為の無線方位探知機をアラスカ、シアトル、グアム、上海、フィリピン、サモアなどに置き、日本海軍の暗号通信を傍受していた。

 アメリカ軍は、日本海軍の暗号無線を傍受はしていたが解読と翻訳までには至っていなかった。

 ただし、FBIとニューヨーク警察は国際法に基づく外交特権を無視して、1920年春にニューヨーク日本総領事館に忍び込み、副領事室の金庫に保管されていた「日本帝国海軍秘密作戦暗号書」を盗撮した。

 アメリカ海軍情報部は、その後も国際的重犯罪である機密文書の盗撮を繰り返し、日本海軍の暗号書と軍用語を熟知していた。

 アメリカ軍は、日本軍艦艇の識別符号から現在地を割り出していた。

 呼び出し符号は、平時であれば半年に一回定期変更されていたが、11月1日に変更されたのが12月1日にまた変更された。

 アメリカ軍は、日本海軍が近いうちに戦闘を開始するものと判断した。

 大艦巨砲思想のアメリカ海軍は、日本海軍が真珠湾を攻撃するとしたら航空機ではなく潜水艦・潜航艇と分析していた。

 ハワイのキンメル提督は、ハワイの警戒水域を監視する全駆逐艦に対して、潜航している国籍不明の潜水艦を発見したら即撃沈するように命じた。 

   ・   ・   ・   

 12月 昭和天皇は、統帥権を持った大元帥として真珠湾攻撃計画を知っていたと言われているが、定かではない。

 イギリス外務省高官ノース・ホワイトは、チャーチルに「アメリカに於ける孤立主義は、当分のところ力を振るい続けようが、克服される事になろう。アメリカは、まだ、我々の懐に入っていない。だが、大統領は我々を救う為に、一歩一歩、着実に計略を進めている」

 イギリスは、一日も早く、アメリカが大西洋憲章に従って対日戦開戦をする事を望んでいた。

 イギリス海軍は、軍国日本との戦争に備えて最新鋭装甲戦艦プリンス・オブ・ウェールズを巡洋戦艦レパレスと共に、シンガポールに派遣した。

 シンガポールのイギリス軍司令官パーシバルは、マレー半島を南下してくる日本軍に備えて、半島部に6万人のイギリス・インド軍を投入して、数ヶ月間持ちこたえる事ができる要塞線を幾重も作った。

 要衝であるクアラルンプールには、数週間は防戦できるように、奥行き30キロにも及ぶ巨大にして重層な陣地を作り、インド第11師団と2個旅団を配置した。

   ・   ・   ・   

 朝日新聞などに煽られた国民は、対米戦を決断しない東条英機首相に対して「腰抜け」「意気地なし」「卑怯者」など罵詈雑言の手紙を送りつけて「早く開戦せよ」と脅した。

 戦争を望んでいたのは、軍部ではなく国民であった。

   ・   ・   ・   

 アメリカ軍情報機関は、日本がハワイ・真珠湾、米国西海岸・サンディエゴ、フィリピン・マニラなど太平洋アジア地域にある主要な軍港に関する情報を活発に集め始めたという報告を受けていた。

 アメリカ軍は、日本軍が奇襲攻撃に出る事を予想していたが、攻撃目標が真珠湾とは考えてはいなかった。

 その根拠は、科学的分析によって、肉体的欠陥から「日本人は航空機をまともに操縦できない」という、人種差別的偏見からそう信じられていた。

 日本航空機による真珠湾攻撃は有り得ないという先入観から、暗号電報に真珠湾情報が多数あっても注意を払う事なく、稚拙な謀略と嘲笑して無視していた。

   ・   ・   ・   

 アメリカ海軍航空隊は脆弱で、戦闘機パイロットは約130人で、主力戦闘機であるF4Fワイルドキャットは年産300機に過ぎなかった。

 アメリカ海軍も、主流派は大艦巨砲派であり、航空派は脇役どころかお荷物とされていた。

 航空母艦を中核とした本格的な機動部隊を編成していたのは、日本海軍だけであった。

 つまり、軍国日本は世界で優秀であった。、

 零戦を配備していた日本海軍航空隊は、世界最強であった。

 零戦の欠点は、世界標準とされた13ミリ機関銃ではなく20ミリ機関銃(60〜100発)と7.7ミリ機関銃を装備していた事とされている。

 空母エンタープライズを中心とした空母部隊は、真珠湾を出航してからは隠密行動を取り、24時間哨戒による臨戦態勢の下で、国籍不明の船舶、航空機、潜水艦を発見しだい警告なく即攻撃し撃破する様に命令されていた。

 当然。太平洋上に存在するのは、ドイツ海軍ではなく日本海軍である。

 アメリカ軍は、日本側からの宣戦布告を受ける前から、すでに戦闘態勢に入っていた。

 ホワイトハウスは、日本外務省の秘密暗号電報を解読して、昭和天皇と東條英機首相らは戦争を避けるべく外交努力をし、和平交渉が失敗すれば戦争を決断する事を知っていた。

 アメリカは日本軍の攻撃に備えて戦闘配備に入っていた以上、日本側の騙し討ちは言い掛かりに過ぎない。

 軍国日本の「騙し討ちの責任」は、軍国日本ではなく、それを許したアメリカ政府とアメリカ軍にある。  

   ・   ・   ・   

 バンドンのオランダ軍総司令官テル・ポールテン将軍は、オランダ軍情報部が掴んだ、日本海軍艦隊は千島列島、澎湖列島、海南島に集結して出航したという情報を、マーシャル参謀総長に伝えた。

 ルーズベルトは、日本海軍艦隊情報を聞くや、其の情報は他人に伝えない事と今後も日本海軍艦隊情報を報告するようにマーシャルに命じた。

   ・   ・   ・   

 12月1日 昭和天皇独白録「御前会議というものは、おかしなものである。枢密院議長を除いて出席者は全員、閣議または連絡会議で意見一致の上で出席している。議案に対して反対意見を開陳できるものは枢密院議長ただ一人で多勢に無勢、如何ともし難い。全く形式的なもので、天皇には会議を支配する決定権はない」

 御前会議は、ハル・ノートを受けて対米英蘭開戦を決定した。

 昭和天皇も「開戦やむなし」と裁可した。

 昭和天皇は、平和を希望したが、政府が対米英戦開戦を決定した以上、憲法に従って立憲君主として、御前会議で開戦を決定した事を硬い表情を崩さず沈黙して受け入れ裁可した。

 天皇は、絶対君主ではなかった為に、自分の意志で憲法を無視する事ができなかった。

 日本は、憲法を遵守する法治国家であり、法律を無視して約束を踏みにじる中国の様な人治国家ではなかった。

 昭和天皇「もし、己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これ専制君主と何ら異なる所はない」

 東條英機「御上が日米交渉を白紙に還元して、再検討せよと仰せられたので、私は誠意を持ってこれを実行したが、どうしても戦争に突入せねばならぬとの結論に達したので、御上にお許しを願った。

 しかし、なかなかお許しがなかった。そして、ようやくやむを得ないと、仰せられた。

 御上が真に平和を愛しておられ、平和を大事にしておられる事を、目の当たり拝察できて、私は何とも申し訳ない事を、お許し願わねばならないので、残念至極だった。

 御上は日英同盟の事、英国御訪問中受けられた、英国側の厚情などを、静かに仰せられた。

 私は二度とこの様なお許しを願う羽目にならぬようにと、心から願った。

 宣戦の大詔の中に、『豈(あに)朕が志ならんや』とある文句は、もと原案になかったのを、特に御上の仰せで、加えられた」

 樺山愛輔伯爵は、東郷茂徳外相の内意を承けて、東京倶楽部でグルー大使とドゥーマンと合い、日本政府は日米交渉を打ち切った事を伝えた。

 MI5の元に、在英日本大使館や領事館の動きが逐一報告され、その全てが戦争開始を示す緊張した情報であった。

 「日本は領事館の電話線を切った」

 「在ロンドン日本大使館は暗号機の解体を指示した」

 イギリスは、開戦と同時に国内にいる日本人の抑留を協議した。

 ワシントンは、ハワイの陸海軍司令部に対して、グルーの真珠湾奇襲攻撃警告とその可能性がないとの分析結果を伝えた。

 「海軍情報部では、こうした噂を信憑性あるものとは考えていない。そればかりか、日本の陸海軍の現在の配備と動きに関する情報に基づけば、パールハーバーへの攻撃は近い将来のうちにはあり得ない、作戦計画もされていないと思われる」

 マイルズ陸軍少将は、暗号解読から日本軍の軍事行動は近いと判断し、「避けられなくはないにしても、戦争はおそらく起きるでしょう」とマーシャル陸軍参謀総長に話した。

 軍上層部は、真珠湾における軍艦の停泊位置を座標値にした格子状地図情報(10月9日)を無視し、真珠湾防衛司令部に知らせる事を求める部下からの再三の意見書を握りつぶした。

 ブラットン陸軍大佐「陸軍参謀総長に阻止され、いかなるマジック(傍受情報)も海外の司令部に送られる事はありませんでした」

 アメリカの報道機関は、日本軍が新たな南進行動を取る為にフランス領インドシナに大部隊を集結させていると報じた。

 ハル国務長官は、野村大使と来栖特使に、日本の発言は「恫喝や身の毛もよだつ様な脅迫ばかりだ」となじった。

 アメリカ軍諜報機関は、東京からベルリンの日本大使館への対米英戦戦近し」という暗号電報を傍受した。

 連合艦隊は、北部太平洋上の機動部隊に真珠湾攻撃の攻撃命令を発した。

 「ニイタカヤマノボレ1208」

 外交交渉が成立して作戦中止の暗号電文「ツクバヤマハレ」

 空母赤城と給油艦は、無線風刺を忘れて無線を使用していた。

 アメリカ海軍省はルーズベルトの指示に従って、アジア艦隊司令長官ハート大将に対して、日本軍の進路と予想されるインドシナ近海の3カ所に小型艦艇を派遣する様に命じた。

 ハート大将は、西シナ海とシャム湾に侵入使用としている日本軍の動向を監視する様に、航空機や潜水艦に偵察を密にする様に命じた。

 日本軍航空機は、アメリカ軍艦艇を発見したが、マレー攻略部隊の輸送艦隊が発見される恐れがあるとして攻撃せず見過ごした。

 シンガポール防衛軍は、日本軍の不穏な行動に備えるべく戦争警戒体制をとり、マレーシアの全部隊に第二戦備態勢を命じた。

 オランダ軍も、日本軍の攻撃を予想して蘭印への広範な軍隊移動を命令した。

 抗日派華僑は、日本軍の侵略に備えて武器を持ち民間自衛軍を組織した。

 東南アジアを占領した日本軍は、ゲリラ活動を行う華僑数万人を虐殺した。この虐殺行為は、戦争犯罪とされた。

 FBIハワイ支局の特別捜査官シーバスは、ホノルル警察の諜報局長ジョン・バーンズを呼び出して、「日本軍が一週間以内に真珠湾を攻撃する」という機密情報を伝えた。

 シーバス捜査官は、マニラのイギリス情報部から日本軍に関する機密情報を得ていた。

 遙か以前から。ホノルル警察とFBIは、オアフ島の日系人への監視を強化し、危険分子のリストを作成して何時でも逮捕できる準備をとっていた。

 アメリカは軍国日本以上の監視社会で、移民国家として国民の愛国心を本気で信用せず、利敵行為を行わないか絶えず監視し、危険分子には人権を無視して別件で逮捕した。

 それが、アメリカの「自由と民主主義」である。

 フーバー長官のもとに、蘭印のオランダ人情報部員から、日本軍の攻撃が一週間以内にあると言う報告が届けられた。

   ・   ・   ・   

 12月2日 東京の外務省は、ワシントンの日本大使館に対して、三台ある暗号機の内二台の破壊を命じた。

 外交の常識が或る者であれば、暗号機を破壊する事は開戦が近い事を理解したであろう。

 ジャワ島バタヴィア(ジャカルタ)のオランダ軍暗号解読部隊は、東京からバンコク大使館に送られた真珠湾の四つの海域に関する暗号電報を解読して、ワシントンのオランダ大使館に伝えた。大使館付き陸軍武官ウェイジャーマン大佐は、マーシャル総参謀長に伝えた。

 同様の情報は、バタヴィアのアメリカ軍情報部からもワシントンの陸軍情報部に伝えられ、真珠湾が攻撃を受ける可能性があるとして警告した。

 サンフランシスコ第12海軍区の情報部は、ハワイの西方海域から発信された未確認信号を傍受した。マカラー大佐は、同情報をワシントンに送ったが、ルーズベルトに知らされたかは不明である。マーシャルは、同情報を真珠湾の陸海軍司令部には伝えられず、警告も与えなかった。

 ルーズベルト「合衆国は日本とは平和な状態にあり、それも完全に友好関係にある」

 国務省は、日本との交渉には幾つかの越えがたい難しい課題があるが、総じて平和的な話し合いが続けられ、戦争に発展する様な決裂状況にはないと発表していた。

 アメリカ国民は、政府発表を鵜呑みにし、アメリカは戦争回避への努力を続けており、日米戦争はあり得ないと確信していた。

 ルーズベルトは、記者会見で、日本軍の増派がフランスのヴィシー政権との合意であれば反対できないが、部隊移動が常識外の大部隊である為に、日本政府に対して如何なる意図で追加部隊を送ったのかの説明を求めたと語った。そして、「アメリカは日本と平和な状態にあり、それも完全なる友好関係にある」と語気を強くして発言した。

 ウェルズ国務次官は、日本大使に、インドシナに集結している日本軍の説明を求めた。

 スチムソン陸軍長官は、中国代表に、事態は万事上手くいっていると蒋介石に伝える様に要請した。

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 12月3日 連合艦隊司令長官山本五十六は、昭和天皇に拝謁した時、国際信義にてらして事前通告を奏請した。

 昭和天皇も、戦争が避けられないのならば、日本の名誉の為に、サムライの如く正々堂々と戦う事を希望した。 

 東條英機首相も攻撃前に宣戦布告を発する事に賛成したが、東郷茂徳外相のみが乗り気ではなかった。

 東條英機首相も東郷茂徳外相も、日本海軍の真珠湾攻撃は知らされていなかった。

 A級戦犯達で、真珠湾攻撃を知っていたのは永野修身軍令部総長ら数人のみであった。

 記者団は、ハル国務長官に日本との対話状況についての説明を求めた。

 ハル国務長官は、11月26日に手渡した国際的道議による基本的な諸原則に対する日本側の回答を待っている段階であり、日本軍が行っている部隊移動の説明もまだ得てはいないと、答えた。

 ニューヨーク・タイムズ紙「長官はアメリカの政策が平和的な手段を採用し、法と正義と道議に基づくドクトリンを遵守しているのとは対照的に、日本の政策は武力に基づいているとの見方を示した。予備的な対話では、この問題があらゆる側面から取り上げられた。そうした中には、多少の細かい話しも非常に多くの大きな問題も含まれていたと、長官は述べた。……ハル氏は、自分の理解しているところでは、イギリスは我が国政府にシンガポールにおける海軍力の増強について常に情報を提供しており、また、オランダも同様に、蘭印インド諸島の軍事的備えに関して情報を寄せていると述べた」

 アメリカは、表面的には平和の為に日本との対話を継続している事を発表していたが、その裏では日本との戦争の為にイギリス、オランダ、中国と協調行動を取っている事をほのめかしていた。

 イギリスとオランダは、植民地支配における帝国主義的権益を守る為にアメリカの対日強硬政策に協力し、対日戦の為の軍事協力を強めた。

 ワシントンの日本大使館から東京の本省への報告。「すべての状況を勘案して、タイを占領した場合、イギリスとアメリカが何らかの共同軍事行動を、宣戦布告の有無にかかわらず、とる事は決定的に間違いないとみられる」

 日本の諜報機関は、連合国側の対日戦に備えた秘密会議を行っているとの未確認情報をえ、経済制裁や日米交渉での強硬発言が東南アジアにおけるアメリカ軍の部隊移動と連動していると分析していた。

 アメリカやイギリスなどの日本に敵対する国々の船舶は、日本軍の攻撃を避ける様にして上海港から姿を消した。

 アメリカの砲艦ウェーキ号とイギリスの砲艦ペトレル号は、上海租界に残った自国民守る為に上海港に留まった。 

 日本は、短波放送で「東の風、雨」を二回繰り返し報じた。

 ワシントンの日本大使館は、暗号機の破壊と秘密書類の焼却処分に取り掛かった。

 アメリカ軍諜報機関は、暗号を解読し、日本大使館の動きを見張っていた。

 スターク海軍作戦部長は、各方面に日本が各大使館に向けて暗号機や秘密文書の処分を命じた事を知らせた。

 真珠湾のキンメルには別の電文を送った。「日本軍の攻撃目標はマレー方面で、ハワイではない」と。

 ワシントンも、開戦に備え、東京を含む枢軸陣営にある各大使館に暗号機や重要書類の破棄を命じた。 

 イタリアのチアノ外相日記12月3日「アメリカ国民を直接この世界大戦に引き込む事の出来なかったルーズベルトは、間接的な操作で、即ち日本を攻撃せざるを得ない事態に追い込む事によって、大戦参戦に成功した」

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 12月4日 外務省は、不戦条約における自衛行為である以上は無通告開戦を主張し、宣戦布告文を手交する事には消極的であった。

 東郷外相は、昭和天皇や東條首相や山本五十六司令長官らの強い要請で対米覚書を用意する事に同意した。

 軍部のゴリ押しに、外務省は折れた。

 この外務省のやる気のなさが、後にアメリカへの通告の遅れという大失態を引き起こした。

 アメリカ陸軍諜報機関は、日本の暗号処分命令という極秘電報を傍受し、戦争が切迫しているという判断した。

 海軍情報部極東課長マッカラム中佐は、真珠湾のキンメル司令長官に知らせるべきであると進言した。

 上司は、スターク海軍作戦部長の指示に従って、マッカラム中佐の作成した文書から「戦争は目前に迫っている」という表現を削った。

 ワシントン・ポスト紙は、大スクープとして「ルーズベルトの戦争計画」を掲載した。

 スチムソン陸軍長官は、「その様な秘密計画を、我が国の敵に知らせる人物や新聞を愛国的だと思っている」とのコメントを出した。

 ホワイト・ハウスで、定例閣議が開かれた。

 短波放送傍受班は、「東の風 雨」を傍受した。

 サフォード大佐は、「風」情報を報告した。

 「風」情報は、真珠湾のキンメル提督やショート将軍には伝えられなかった。




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日米開戦の悲劇

日米開戦の悲劇

2017-11-09

♯:32─5─東條英機ら戦争回避派は、ハル・ノートを読んで話し合いによる和平交渉は不可能と判断し戦争を決断した。1941年11月28日〜No.193No194@         

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 政治家も軍人も、日本の国力・軍事力では、十中八九、アメリカに勝てない事は分かっていた。

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 11月28日 閣議に於いて。外交交渉を主張していた東郷外相ですら、「4月以降、半年以上にわたって交渉経過を全て無視した、傍若無人の提案」と激しく非難し、話し合いによる和平交渉を諦めた。

 昭和天皇も、「ハル・ノート」を読んで、平和的解決が不可能であると諦めた。

 東條英機首相は、開戦の責任は昭和天皇ではなく、輔弼の責任者である自分が負うべきである事を覚悟した。決して、責任逃れで誰かに貧乏くじを引かせる気はなかった。

 日本政府は、ワシントンの日本大使館に対して、ハル・ノートに関する重要な電報を打った。

 「交渉は事実上、決裂する。これは不可能である。しかしながら、貴下等には交渉が打ち切られたという印象を与えない様にする事を望む」

 アメリカ軍情報機関は、日本側の外交暗号電報を全て傍受し、日本が外交を断念した事を報告した。

 来栖三郎全権特命大使は、日米開戦を回避する為に、ルーズベルトから昭和天皇への親書を送る事を提案した。、

 ルーズベルトは、日本への配慮として、太平洋上を航行するアメリカ船籍の商船は武装しないと語った。

 そして、昭和天皇への警告文と連邦議会に対する緊急メッセージの作成を命じた。

 ハル国務長官は、イギリス大使に、和平の為の日米交渉は事実上終了してあとの問題は陸海軍の手に移ったと説明した。

 これ以降、ワシントンは日本に対して中国擁護の強硬姿勢を改め、友好的な柔軟姿勢をとり始めた。

 つまり、アメリカは平和の為に努力を惜しまないと。

 ニューヨーク・タイムズ紙は、ワシントン筋はこれまで国務省が行ってき日米交渉での努力を高く評価し、不退転の決意示す為に改めて基本原則を提示したものであると報じた。

 タイムズ紙は、日本政府がアメリカ政府の覚書をもって外交交渉は終結したと判断したとの、東京のオットー・トーリシャス記者の記事を掲載した。

 国際感覚のある者ならば、両記事を読んで、話し合いによる平和解決は終了して後は戦争しかない事を理解した。

 それでも、根気強い話し合いで戦争が回避できると信ずる者がいたとすれば、それは外交史を含む歴史全体が理解できない者である。

 ルーズベルト「選択肢は、第一が、何もしない。第二が、これ以上の事があれば我々は戦うという限界点を明快にした最後通牒の様なものをもう一度出す。第三が、直ちに戦う、だった」

 スチムソン「我が方の戦術と安全という観点から見れば、我々が主導権を握り、さらなる警告なしに攻撃する事が望ましかったのです。攻撃が最大の防御であるのは自明の理です。敵の動き待って先手を許すのはどのような場合でも危険な事です。日本がタイに向けてさらに行動を起こす事に対して、8月に大統領が与えた警告が、再度の警告なしに攻撃する事を正当化すると考える様になっていました。まして日本の新たな南下行動は警告に背こうとしている事を示唆していたのでなおさらでした。一方、世論の観点からすれば、さらなる警告が与えられた方が、状況はより明快になるという事も認識していました」

 ルーズベルトは、ホワイトハウスに閣僚を召集し、ヒロヒト天皇に平和を求める親書を送る事を決めたが、戦争回避の為の具体的な提案はしない事にした。

 アメリカは、日本との戦争を決定していた。

 ルーズベルトは、全員に、日本軍がアメリカのフィリピンを攻撃せず素通りし、イギリスのシンガポールやオランダのインドネシアを攻撃した時、アメリカは参戦すべきかを聞いた。

 全閣僚が、参戦すべきであり、議会や国民は納得するとの意見で一致した。

 ハル国務長官は、イギリスの駐米大使ハリファックス卿に「日本との外交関係は、事実上、終わった。仕事は、すでに陸海軍の手に移った。日本は突然に動き、それも完全な奇襲となるはずだ」と告げた。

 オーストラリアの駐米公使ケイシーは、戦争回避の為に調停の労を執ろうと申し込んだが、ハルは「もはや、外交の舞台ではない」と断った。

 ハルゼー中将は、空母エンタープライズと最新鋭艦11隻を率いてウェーク島に向かって出航した。

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 サイパン島近海で。アメリカ海軍ブルックリン型軽巡1隻と輸送船5隻は、日本海軍潜水艦隊旗艦・香取と遭遇した。

 アメリカ海軍情報部は、香取が発信した電波を傍受し、日本海軍艦艇や海軍基地が慌ただしく出している電波を傍受し、その多さからただならぬ気配を感じていた。

 日米交渉が破綻した事を知っているアメリカ軍上層部は、日本軍の攻撃が近いと分析した。

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 11月29日 東條首相ら主要閣僚は、参内して昭和天皇に、昨日の閣議で開戦を決定した事を上奏した。

 昭和天皇は、なをも開戦を決意する事にはためらいを持っていた。

 ルーズベルトの昭和天皇に対する書簡は、アメリカが平和の為に努力したという実績を残す事はできても、戦争回避の効果は疑わしいとして見送られた。

 ハル国務長官は、イギリス大使に「日本との関係で外交が果たす役割は事実上終わり、問題は今後、陸軍と海軍の高官の手に移る」と語り、「日本は突然、しかも可能な限りのあらゆる意外性の要素を持って行動を起こし、広範に及ぶ地域に展開して、特定の陣地や基地を獲得するかもしれない」と日本軍の攻撃について警告した。

 スターク海軍作戦部長は、全部隊に電報を送った。

 「戦闘行為を避けられる事ができない繰り返す できない のであれば アメリカは日本が最初に明白な行為を取る事を希望する」

 アメリカの軍当局は、「日本軍がフランス領インドシナからタイに進撃した場合、太平洋地域で大規模な戦闘を招くのか」という質問に対して、明解な回答を行わなかった。

 アメリカ陸軍司令部は、真珠湾守備部隊に対して、第一段階の警戒態勢を命令じたが、日本軍の攻撃が近くなってもそれ以上の臨戦態勢の命令を出さなかった。

 真珠湾はつんぼ桟敷に置かれ、日米交渉の破綻と開戦近しという情報を得る事がなかった。

 アメリカも、日本軍同様に、陸軍と海軍は仲が悪く情報交換は消極的であった。

 陸軍と海軍の関係が悪く、共同作戦が上手く行かないのは何処の国でも同じ事であった。

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 ベルリンの大島浩駐独大使は、陸軍省に「リッベントロップ外務大臣は日本がアメリカと戦争に入った時は、ドイツは直ちに参戦すると確約した」との電報を打った。

 陸軍省は、「情報はもっとも危険な段階に達し、日本とアングロ・サクソン諸国との戦争は、一般の予想より早い段階に勃発するであろうとドイツ側に伝えよ」との返電を送った。

 ルーズベルトは、12月1日に「日本が開戦すればドイツは参戦する」という、待ち望んでいた報告を受けた。

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 11月30日 昭和天皇は、対米戦を担当する嶋田繁太郎海相と永野修身軍令部長をお召しになって、不安な思いを問い質した。

 昭和天皇「ドイツが戦争を止めてしまったら、どうするか?」

 嶋田海相「人も、物も、すべて万端の準備が整っております。大命降下をお待ちするばかりで御座います。この戦争に石にかじり付いても、勝たねばならなぬと考えております。ドイツを決して頼りにしておりません」

 東郷外相、野村・来栖両大使に、ハル・ノートに対してアメリカに反省を求める様に訓令を送った。

 アメリカの新聞各社は、前日の29日に、ジョージア州ウォームスプリングスに滞在中のルーズベルトが、アメリカの諸制度を防衛する為に「一年以内に戦争になる可能性がある」事を表明したと報じた。

 ニューヨーク・タイムズ紙「大統領はここ数週間ワシントンで国際問題に取り組む中で、あと一年のうちにアメリカの青年達が戦争を戦っている可能性について深く考えてきたと演説で述べた」

 日本は、ベルリンの日本大使館に対し「開戦は予想よりも早くなる可能性があり」と、ドイツ政府に助言するように指示した。

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 11月下旬頃、中国・朝鮮人民同盟は、アイオワ州選出上院議員ガイ・ジレットや国務省に対して、「日本軍がクリスマス前にハワイを奇襲する計画を立てている」と警告した。歴史的に、仲間と信じていた朝鮮人や中国人が、強大な敵に寝返って寝首を掻きに来るか分からないという恐怖感を生んでいた。いつ裏切るかも知れないという潜在的不信感が、朝鮮人と中国人への差別を増幅させ、信用することなく日本人社会から無意識に疎外した。

 アメリカは、日本の外交暗号を解読して、日本の意思と行動を知っていた。

 フランク・E・ビーティ海軍中将「1941年12月7日以前な段階で、私達は確かに日本を追い詰めていた。……それほどの無理難題を日本に私達は押し付けていたのだから、合衆国に対する、日本が軍事行動に出る事は当然予想された」

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 昭和16年度内の治安維持法違反による逮捕者は、1,094人であった。

 反天皇反日的日本人は、ソ連・コミンテルンの指示で行動していた。

 中国共産党政権に亡命していた野坂参三らは、日本人兵士捕虜を天皇制度打倒の革命闘士に改造すべく、マルクス主義による洗脳教育を行っていた。

 中国のキリスト教会は、反天皇としてファシスト中国を支援していた。

 朝鮮人は、日本人の、親日派として味方か?それとも反日派として敵か?









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2017-11-08

♠:78─6─新潟の中国総領事は、東日本大震災で被災した中国人を市立体育館に集め治外法権として日本人を締め出した。2011年4月。〜No.429      

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 2017年12月号 SAPIO「日本領土爆買い

 中国人富裕層狎賤儉瓮乾襯嫋譴泙能亳宗

 北海道が『中国人自治区』となる日 宮本雅史

 ……

 『これは武器を持たない戦争だ』

 ……

 『一帯一路』で狙われる釧路

 ……

 中国は長い時間をかけて戦略的に計画を遂行する国である。

 かつてウイグル人が住む土地にじわじわと入職して地域コミュニティを作った中国人は、ある日突然、『この土地は我々の自治区だ』と手の平を返して豹変し、ウイグルを中国の自治区に編入した。いまの北海道は侵略前のウイグルに似ていると心配する声は非常に多い。

 実際に東日本大震災の時には新潟で避難する中国人らにより市立体育館が狎蟲鬮瓩気譴襪箸いΑ◆惻3伊仝◆戮里茲Δ併態が生じた。

 当時、新潟の中国総領事は、東北地方に住む中国人を市内3ヵ所の体育館などの集めた。1万人の中国人が集まったとされる。

 ある地方議員が確認のために館内に入ろうとすると、『許諾権限は中国にある』と拒否されたという。押し問答の末、『見たものを一切口外しない』との誓約書を書いて3mだけ館内立ち入りが許された。その時、体育館にいたのは中国人だけだった。

 総領事館内ならともかく、市の施設での治外法権は本来なら成立しない。中国は少しでも隙を見せれば強権的に物事を遂行する。このまま北海道にアンタッチャブルな集落が乱立して中国に勝手な口実を並べられたら、日本の主権が奪われて国家が成り立たなくなる。

 最大の問題は、世界の多くの国が外国人の土地所有を禁じるか、厳しく制限する一方で、日本は野放し状態であることだ。しかも日本の土地所有権は法律的な権限が強く、一度買われるとなかなか取り戻せない。

 実際に犂攅餡臭瓩凌覆狢佛呂任蓮韓国資本が買い占めた土地を後に自治体が買い戻そうとしたが、5,000万円で売った土地に4億円の犖世っ有瓩つき、いまだ買い戻せていない。

 中国資本による土地買収は合法的であり、日本にそれをとやかく言う権利はない。中国が日本に仕掛ける『武器を持たない、目に見えない戦争』にかつためにも、外国人の土地所有を規制する法の整備を急速に求めたい」

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 全ての国家は、自国を優先し自国と自国民の利益を追求し、他国を無視し他国民を犠牲にする。

 その傾向が最も強いのが、中国共産党政府である。

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 同盟国アメリカは、東日本大震災救援のトモダチ作戦としてアメリカ海軍と海兵隊を出動させ、日本人被災者を助けた。

 反天皇反日的日本人は、日米安保反対とアメリカ依存脱却を主張して、アメリカ軍による支援活動に感謝するどころか無視した。

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 日本が頼る国は、同盟国アメリカであって仮想敵国中国共産党政府ではない。

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 中国共産党が口にする日中友好は、単なる言葉のアヤに過ぎず本心ではないく、一帯一路戦略で利用したい日本の港湾施設を占拠する事である。

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 日本人は、「立つ鳥跡を濁さず」として、世話になった地元の住民に迷惑をかけない様に配慮する。

 中国人は、「後ろ足で砂をかける」として、助けてくれた地元の住民に迷惑をかけよとも気にせず立ち去る。

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 中国人・朝鮮人を不憫に思って助けても、恩義を感じてくれると思わない方が良いし、感謝の言葉も期待しない方が良い。

 中華儒教では、災害に遭った小人を助ける者は皇帝に対する反逆者と見なして警戒している。

 恩義に対する思いは、日本と中国・朝鮮の中華とは全く異なる。

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2017-11-07

♣:105─1─中国共産党は、1980年代から自虐的歴史教育で日本人を洗脳している。 〜No.586No.587No.588  ⓰   ♼   

なぜ日本の教育は間違うのか (扶桑社新書)

なぜ日本の教育は間違うのか (扶桑社新書)

旧題名、「ホロコーストに関して、天皇とA級戦犯に幇助罪が成立するのか?」第3代目

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 何故、中国共産党や中国軍が、日本に多数の工作員・諜報部員を送り込んで監視の強化と親中国派日本人育成に力をいれているのか、それは日本が戦前回帰して中国侵略をしてくる事を警戒しているからではない。

 中国の偉大な栄光であった満州族系清朝を打倒した辛亥革命の発源地が日本であったからである。

 欧米列強は、親清朝派として孫文ら中国革命派には冷淡で、香港や上海の欧米の現地諸機関は清朝の革命派取締に協力していた。

 孫文などの中国革命派は日本に政治亡命し、日本国内で日本人右翼や軍部の協力を得て辛亥革命を成功させたという、歴史的事実を重く見ているからである。

 中国共産党や中国国民党は、孫文を国父として神格化してるが、日本に政治亡命し右翼や軍部の協力で辛亥革命を成功したという事実を歴史の闇に葬ろうと躍起になっている。

 中国共産党にとって歴史的事実は諸刃の刃であるだけに、「中国に不利・日本に有利な事実」を覆すべく、「中国に有利・日本に不利」となるような捏造・歪曲・改竄したウソの歴史を日本に強要している。

 中国共産党が口が酸っぱくなるほど繰り返す、「歴史を鑑」とせよ「歴史を教訓」とせよと言うのはそういう事である。

 二度と日本を人民革命の発源地・震源地にしない、それが中国共産党の対日戦略の基本戦略であり、反日運動の本音である。

 それ故に、日本国内にいる、反共産党派反体制派中国人や台湾、チベット、ウイグル、モンゴルなどの少数民族諸団体への監視を強化している。

 中国共産党にとって、孫文ら中国革命派が日本の右翼や軍部の協力を得て辛亥革命を成功させた事は認めたくない歴史的事実である。

 さらに、最も忌むべき歴史的事実は、初期中国共産主義運動が原書日本語訳(和製漢字)をもとに日本で始まったという事実である。

 中国語にはマルクス主義を表現する近代思想の語彙は皆無で、共産主義・社会主義を学ぶには日本語を習得しなければならなかった。

 日本の御陰で、辛亥革命による近代化と共産主義運動による中国共産党結成があった。

 つまり、現代中国の原型はソ連・ロシアでもなく欧米でもなく明治日本・軍国日本にあったと言う事である。

 中国あるいは中国人も、日本から生まれていったものである。

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 2017年12月号 SAPIO「諜報戦 日本を蝕む赤い15組織き完全図解

 『反日的日本人を育成せよ!』

 中国『対日工作機関』の最新指令 本誌編集部

 第二期習近平政権がスタートした。先の党大会では2050年までに『社会主義強国』となり米国を凌ぐ軍事力を持つと宣言。日本に対して従来に増して強硬姿勢を貫くことが予想される。その尖兵となるのが中国の対日工作機関である。

   *   

 日中国交正常化45周年の今年、安倍晋三首相は中国大使館主催の祝賀会に出席(9月28日)。両国首脳の相互実現したい考を示した。これを受け、日中関係の改善だと歓迎する声がある。

 しかし、これはあくまで表向上の動きに過ぎない。これまで中国は、したたかな外交戦略で日本を揺さぶる一方、あらゆる手段で対日工作を仕掛けてきた。政界では反中派を抑え込み、親中派議員を増やすことに注力。近年は小渕優子氏ら『親中派二世』にも接近していた。

 それが最近、変化したという。産経新聞外信部次長の矢板明夫氏が語る。

 『以前の中国は、旧田中派を中心とする政治家と裏で握って親中派を作る一方、日中友好7団体とのパイプ作りに奔走した。しかし安倍政権が対決姿勢を強めて世間的にも反中感情を広がるなか、わずかな親中派を作っても焼け石に水で意味がなくなった。大使館中心の諜報活動などは継続しているが、一時、政財界への裏工作は少なくなった』(矢板氏)

 代わりに習近平政権が進めるのが、猗親日本人瓩鮖抉隋育成し利用する工作だ。

 『最近の中国は、歴史問題などで中国側の意見を支持するリベラルな日本人を積極的に支援している。左派の活動家や弁護士、研究者などの言説を紹介して反日を煽り、内政への不満をそらす戦略です』(矢板氏)

 実際に近年、中国メディアに登場して中国寄りの発言をする日本人が目立つ。

 たとえば、明治学院大学国際平和研究所研究員の石田隆至氏は、人民日報(16年8月15日付け)に寄稿した『日本は隣国の正義に耳を傾けるべき』の記事で日本の安保法制を厳しく批判し、『東アジアにとっての真の脅威は中国ではなく日本である』と結論づけた。

 歴史学者の笠原十九司氏は今年9月、南京で開かれたシンポジウム『南京大虐殺と日本の戦争犯罪』に出席。『安倍内閣は、大虐殺の歴史を否定する態度を取る者が少なくありません』などと憂慮を示したという。中国の国営通信社が伝えた。

 中国はこうした言説を徹底的に利用すると評論家の石平氏は指摘する。

 『南京大虐殺を「事実」とするコメントは中国政府の公式見解と合致し、「東アジアの脅威は日本」とのコメントは中国脅威論を取り消すための材料となる。官製メディアに掲載される日本人の意見はその後、反日宣伝材料として繰り返し利用されます』

 もうひとつ見逃せない動きは、中国で相次ぐ日本人の『スパイ拘束』である。

 たとえば今年9月18日、大連市国家安全局はスパイ活動に関わったとして日本人ビジネスマン1人を逮捕した。これで15年以降、スパイ容疑で中国当局に拘束された日本人は12人に上る。

 『そもそも拘束された日本人は通常のビジネスを行っていただけと考えられます。しかも昔ならを狄特翡謬聴瓩鮖箸た緻眠爾埜鮠弔鬚靴燭、最近の中国は堂々と公表する。

 9月18日は満州事変の発端となった柳条湖事件の日で、反日ナショナリズムを煽るにはうってつけの日でした』

 公明党人脈が利用されている

 ……中国の対日工作機関は網の目のように広がり、日本の中枢に浸透している。

 最も知られる情報機関は、国務院(中国政府)に所属する『国家安全部』。詳しくは後述するが、ここから様々な組織に『工作員』が潜り込んでいる。

 中国共産党直属の『中央対外連絡部』は党の外交を推進する機関だが、実質的には対外工作機関として、日本の政治家とのパイプ作りなどに勤しむ。

 日本国内における中国の工作活動の拠点となるのが、東京都港区の一等地に居を構える中日中国大使館だ。

 大使館トップである程永華・駐日大使は創価大学に留学経験がある。

 『10年の就任以来、7年を超える職務は歴代最長です。程大使の公明党人脈を生かして、自公政権に影響力を及ぼすことを習近平が期待しているからです』(矢板氏)

 幅広い対日人脈を誇る程大使のもと、大使館員は日々様々な工作を行う。

 『中国の外交官は日本の政界に深く食い込み、副大臣、大臣家経験者クラスとサシで食事します。彼らは外交力を武器に東京でのウイグル会議やダライ・ラマ訪日など、中国の不利益になる日本の動きを阻止すべく奔走します』(矢板氏)

 これらは言わば『オモテ』の活動だが、大使館には『ウラ』の活動もある。

 200人以上と言われる大使館常駐スタッフは日本の外務省にあたる『国務院外交部』に所属する者だけではない。前述した国家安全部は、参事官や書記官などの肩書で中国大使館に要員を送り込み、日本の警察庁にあたる『公安部』も自前の人員を配置する。

 こうした狃亳組瓩漏宛鯢瑤凌祐屬茲蠍⇔呂鮖ち、独自の情報活動を進める。

 狃亳組瓩楼娚阿柄反イ砲眄んでいる。

 『国家安全部や人民解放軍からの出向者は、人民日報や新華社など、日本に支局を置く多くの中国メディアに潜り込んで働いています。記事を書く者も、メディアの仕事もまったくしない者もいます』(中国メディアに詳しいジャーナリスト)

 彼らはメディア関係者として様々な立場の日本人と会って情報を収集する。防衛省のインテリジェンス担当者が身分を偽ってNHKの北京支局に勤務するような犇悗玄雖瓩世、これが現実なのだ。

 情報史研究家の柏原竜一氏は言う。

 『中国は情報活動の重点をプロパガンダに移している。世界中で進める中国の拠点づくりや日本での土地買い占めなど、長期に及ぶ狄略瓩鮴掬化するための宣伝工作に注力しています。それに対して日本はあまりに無防備。このままでは日本を含め、世界は中国のものになるでしょう』

 もはや隠されることもなくなった『中国の野望』を直視しなければならない」

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 反日派中国共産党による日本人洗脳教育は、歴史教育であり、それは1980年代から始まっている。

 洗脳歴史教育を手引きをしたのは、反天皇反日的日本人達である。

 その悍ましい醜悪な姿は、日本人を白人キリスト教徒や中世キリスト教会に奴隷として売った日本人に似ている。

 売られた日本人は百姓や町人などの庶民であり、売った日本人は高度な教養を持った知識人である。

 昔の知的趣味人は日本をキリスト教国家に生まれ変わらせようとし、現代の知的エリートは日本を中国共産党の支配下に置こうとしている。

 つまりは、日本人の真の敵は中国共産党・中国軍ではなく日本の中に潜む知的な反天皇反日的日本人であるが、彼らの怨念・憎悪の根は深く、そして国土に広く染みついている。

 それは、全国の学校で使用されている日本人凶悪非道重罪人史観=自虐史観に基ずく歴史教科書を見れば、その深刻さは一目瞭然である。

 第二回南京事件。従軍慰安婦問題。強制徴用工問題。戦犯企業賠償問題。天皇の戦争責任及び戦争犯罪。靖国神社問題。樺太強制移住問題。日帝植民地支配問題。日本大陸侵略問題。などなど。

 中国共産党と中国軍は、反日敵日である。

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 1980年代以降に増えた反天皇反日的日本人は、国内だけではなく国連を中心とした国際舞台でも活動している。

 反天皇反日的日本人は、最高学府出身の知的エリート層や富裕層・金持ちに多く存在して、天皇制度の廃絶を願い、日本の国益に反対し、日本人の利益を損なう行動を続けている。

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 中国共産党と中国軍の対日謀略工作は、大学などの最高学府で密かに行われ、マスコミ関係者を核とした草の根運動・市民団体運動に浸透し、反天皇反政府反国家的民意を作ろうとしている。

   ・   ・   ・   

 深刻な問題は、反天皇反日的日本人が中国共産党と中国軍に利するような発言や行動を行っても、思考停止的にその事を自覚せず、自分が正しいと信じ切っている事である。

 思慮分別なき夢遊病者的な自覚なき善人、それが彼らの姿である。

   ・   ・   ・   

 中国共産党と中国軍は、反日・敵日であって親日・知日ではない。

 中国共産党が日本に望んでいる友好関係とは、平等に基ずく対等関係ではなく華夷秩序に基ずく上下関係である。

 つまり、聖徳太子の対等以前の倭国の従属である。

   ・   ・   ・   

 中国人は、性悪説信奉者として、儒教や道教を教養として身につけるが、現実を生きる術は孫子の兵法から学んでいる。

 日本人は、性善説信奉者として、儒教や道教を生きる道標として学び生活の面で実践しようとするが、人を欺き討ち滅ぼす謀略の教典である孫子の兵法は理解できない。



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2017-11-06

♯:32─4─ハル・ノートは、東條英機が戦争回避の為に決断した満州以外からの撤兵譲歩案を拒絶した。1941年11月26日〜No.191No.192@               

ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦 (文春新書)

ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦 (文春新書)

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 アメリカは、すべての外交暗号を解読し、交渉期限が11月末まで交渉決裂は戦争につながる可能性が非常に高いという事を理解していた。交渉が打ち切られた場合、12月初めには日本が先制攻撃を開始する事を予想した。

 アメリカ軍諜報機関は、ワシントンの日本大使館から東京の陸軍省への武官暗号電報を傍受し解読していた。

 イギリスは、日本の暗号電報膨張をしていた。

 バチカンは、日本や中国・朝鮮のキリスト教会を通じて詳しい情報を得ていた。

 ユダヤ系国際金融資本は、金を武器としてあらゆる情報を入手していた。  

 日本の国家的機密情報の大半が、筒抜けであった。

 情報が筒抜けであった事を知らなかったのは、日本の指導部、政治家や外交官や軍人達であった。

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 11月25日 「ハル・ノート」

 アメリカは、中国在住の日本人居留民50万人以上を無防備なままで狂暴な中国人犯罪者や朝鮮人テロリストの中に見捨て、そして、仏印等での食糧確保を断念して、両地域から無条件全面撤兵するという『ハル・ノート』を野村大使と来栖臨時大使に突き付けた。

 日本が『ハル・ノート』を受け入れたとしても、アメリカは食糧購入禁止等の経済制裁を解除する気はなかった。アメリカの望みは、戦争であった。

 アメリカは、「日本の自衛権」を否定していた。ワシントンは、アジアの全アメリカ軍に対して日本軍の奇襲攻撃に備える様にを命じた。アメリカ軍は、早い段階からマニュアルに従って対日開戦準備を行っていた。対して、日本軍は泥縄式的に準備を行っていた。

 ウィリアム・ヘイター「アメリカ政府は(日本が拒否する事を)承知していたはずだ。私がこの文書(ハル・ノート)の存在を教えられた時、国務省は、これを極東問題の理想的解決、ユートピアとして扱っていた」

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 「ハル・ノート」を作成したのは、ソ連のスパイであるハリー・デクスター・ホワイト財務次官(ユダヤ人)であった。スターリン(ユダヤ人)は、日本を含む全アジアを共産主義化する為に、日本とアメリカを戦争させる様に指示を与えていた。共産主義者は、共産主義の大義で戦争を起こし拡大させるべく暗躍していた。ソ連・共産主義陣営の指導者の多くは、国際主義者ユダヤ人であった。

 日本を戦争に追い込んだのは、まぎれもなく国際的ユダヤ人金融資本家とユダヤ人経営の巨大軍需産業であった。

 日本には、侵略して戦死するか、座視して餓死するか、土下座して奴隷になるかの、三つの選択肢しか残されていなかった。

 軍国日本は、「戦うも亡国なら、戦わないのも亡国」として「戦わずして亡国は、真の亡国。奴隷への道」と拒否した。敗れたとしても、「戦って亡国」になれば子孫に名誉と勇気を残せると覚悟した。当時の指導者は、口では必勝を叫んでいても、本心から勝てると信じていた者は一人もいなかった。その覚悟ができる者のみが、真のサムライである。それは、理屈では説明できない事であった。

 チャーチル「我々はその瞬間まで、10項目について知らなかった。この文書は我々が要求していたものを、はるかに大きく上回ったものだった。日本大使が呆れ返ったというのは、その通りだったに違いない」

 ハル国務長官は、スチムソン陸軍長官に「これで、私の方は片付いた。後の仕事は、君とノックスの手の中にある。陸軍と海軍のね」と語った。

 アメリカは、ハル・ノートを最後通牒と認識していた。

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 マニラのイギリス諜報部は、ワシントンに、「12月1日に日本軍がクラ地峡を攻撃する可能性あり」との極秘電報を打った。

 ルーズベルトとスターク海軍作戦部長は、日本軍の進撃という極秘情報をスチムソン陸軍長官やノックス海軍長官らに伝えなかった。

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 キッシンジャー「ルーズベルトは、日本がハル・ノートを受諾する可能性はないと知っていたにちがいない。アメリカの参戦は、ルーズベルトという偉大で勇気のある指導者の並々ならぬ外交努力なしでは達成できない偉大な成果だった。彼は、孤立主義的なアメリカ国民を大規模な戦争に導いた。もし日本がアメリカを攻撃せず、東南アジアだけにその攻撃を集中していたならば、アメリカ国民を、何とか戦争に導かなければならないといルーズベルトの仕事は、もっと複雑困難になっていたであろうが、結局は彼が必要と考えた戦争を実現したのである」

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 11月26日 日本海軍の機動部隊は、真珠湾攻撃の為に択捉島単冠湾を出撃し、ハワイに向かった。

 世界初の、航空部隊を主力とした機動艦隊であった。

 ワシントンは、北太平洋を航行している自国と連合国の船舶に対し、悪天候を理由にして引き上げを命じ、今後は南太平洋航路を使いオーストラリアとニューギニアの間のトレス海峡を通る様に指定した。

 南下する全ての日本艦隊の進路上から、一瞬にして敵の船舶が全て消えた。

 スチムソン陸軍長官は、ルーズベルトに、上海から仏印に日本軍の遠征軍派遣が開始した事を報告した。

 ルーズベルトは、内心、日本軍が予想通りに行動を起こした事を喜んだ。

 スターク海軍作戦部長は、ハワイのキンメル太平洋艦隊司令長官に対して、ハワイ近海で予定されていたエンタープライズとレキシントンの両空母の模擬演習を中止して、ミッドウェー島とウェーク島への陸軍の戦闘機を運ぶ様に命じた。

 キンメル提督らは、、突然の命令に困惑したが、日本軍の攻撃を想定した模擬演習を中止して空母部隊に輸送命令を伝えた。

 太平洋艦隊の3隻の空母の内1隻であるヨークタウンは、西海岸のサンディエゴ基地にいた。

 ハル・ノートが手交された後は、真珠湾への通信は全て参謀総長マーシャルの決済が必要となり、日本軍の情報が遅れたり或いは送られなかったりとの支障が出始めた。

 キンメル提督やショート将軍以外の、マッカーサーや他の司令官には正しい情報が送られていた。

 ハル国務長官は、スチムソン陸軍長官に、日米和平交渉は終了して後は戦争しかないと話した。

 「ジャップには、覚書を送ってやったよ。私はもう一件から手を洗った。あとは、君とノックス──陸軍と海軍の問題だ」

 国務省は、日本政府に対して、平和的解決を求めるとして基本原則に基づいた覚書を手渡した事を発表した。世に言うところの「ハル・ノート」は、極秘文書として公表されなかった。

 野村大使も来栖特使も、この覚書を読んでアメリカ側の最後通告と認識し、「日本の提案に対するこの回答は交渉の終結も同然と受け止められる」と語った。

 ハル国務長官は、国務省幹部に、対日交渉は終了して後は戦争しかなく、後の事は安全保障の問題として陸海軍の手にゆだねられたと発言した。そして、何時日本軍が奇襲攻撃をしてきてもよい様に防衛戦略を練る様に語った。

 シビリアン・コントロール下にある軍当局は、ただちに国外の駐屯部隊に戦争警戒を発した。

 但し、部隊を指揮して戦う制服組は依然として二正面作戦には反対であった。

 AP通信は、ワシントンからの情報として、日米交渉は土壇場に追い込まれ、日本側が、アメリカの諸原則を受け入れて侵略を中止して平和を回復するか、前進運動を再開してその報いを受けるであろうと結んだ。

 確かな筋からの情報として、「合衆国は今晩、政策に関する率直な声明書を日本に手渡した。……爆発寸前の極東問題に関して両国が合意する可能性に事実上、完全に終止符が打たものだった」と報じた。

 UP通信「合衆国は、政策に関する率直な声明書を日本に手渡した。情報筋が語るところによると、それは爆発寸前の極東問題に関して両国が合意する可能性に事実上、完全に終止符を打つものだった。合衆国政府は何らか譲歩をする代償として、日本が将来の侵略計画を放棄する事、中国とフランス領インドシナから撤兵する事、中国で『門戸開放』政策を復活させる事、日本がいわゆる〔大東亜〕共栄圏を実現する手段として武力にかえて平和的交渉を用いる事を求めると伝えている」

 アメリカは、何時の時代でも、如何なる地域でも、相手国の国内事情を完全無視し、自国優位の独占ルールを、巨大な武力や莫大な経済力を背景として小国に強引に押し付けていた。

 アメリカは、自国の利益を追求するという国益から、相手国の利益・国益を考慮せず強引に完全粉砕していた。つまり、弱肉強食の国際市場原理から相手国への配慮はまったくなかった。

 日本は、古代から宗教・伝統・文化・風土で培ってきた日本独自のルールを守りつつも、国際協調で受け入れる範囲で適応するべく努力してきた。だが、日本(国家・民族)そのものを根底から破壊しようとするアメリカの無制限要求「ハル・ノート」を、小国とは言え主体性を持って戦争を覚悟で完全拒否する事を決断した。

 追い詰められた日本には、国家として国民を守る為に戦争を起こす以外に生き残る術はなかった。

 こうして、日本は永遠に消える事のない極悪・凶悪な「戦争犯罪国」との烙印を押された。

 海軍情報部は、ルーズベルトに対して、「日本軍がアメリカ及びイギリスに対して戦争を仕掛ける為の準備を始めているらしい」という極秘電文を傍受したと報告した。

 この国家機密情報は、スチムソン陸軍長官やマーシャル陸軍参謀総長らも報告されたが、真珠湾には伝えられなかった。但し、日本軍の爆撃が予想されるパナマ運河守備部隊には伝えられた。

 真珠湾の太平洋艦隊司令部もハワイ方面陸軍司令部にも、如何なる情報も伝達さず、早い時期から日本海軍の奇襲攻撃を受けるまで蚊帳の外に置かれていた。

 ハル・ノートは、日本側の最終打開案(乙案)に対する正式な拒否回答であり、交渉の為の新たな原則である。

 アメリカは、日本とイギリス、中国、日本、オランダ、ソ連、タイ、およびアメリカ合衆国と包括的な不可侵条約を提案する代わりに、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄することを求めるものである。

 作成者のホワイト財務次官(ソ連のスパイ)は、日露戦争の成果を否定する内容になっている為に日本政府が最後通牒と見なすだろうと予測して、ハル・ノートの前段に「極秘、試案にして拘束力なし」との文言を記述する事で、ハル・ノートは試案である事を明記し、わざと交渉継続の可能性がある様に臭わせた。

「1)アメリカと日本は、英中日蘭ソ泰米間の包括的な不可侵条約を提案する。

 2)仏印の領土主権尊重及び経済協定を締結する。

 3)日本は中国及び仏印から一切の陸海空兵力、及び警察力を撤収する。

 4)日米両国は、アメリカの支援する重慶国民党政府以外の如何なる政府も認めない。

 日本が、成立させ支援している汪兆銘の南京政権を否認する。

 5)イギリスなどの諸国が1901年の北京議定書で得た中国に対する治外法権を放棄する様に、両国が共同で努力する。当然両国は、率先して権益を放棄する。

 日露戦争後。日本の戦争は、全て自衛ではなく侵略であるとし、戦勝国として正当な権利で獲得した中国権益を完全否定した。

 アメリカは中国・満州不可分論の原則から、満州を含む全中国大陸からの完全撤兵を要求し、領土の3分の1を放棄させ様としていると解釈した。

 6)通商条約再締結の為に交渉を開始する。

 7)アメリカは日本の資産凍結を解除し、日本はアメリカ資産の凍結解除を行う。

 8)円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立させる。

 9)第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄。

  日本側は、日独伊三国同盟の廃棄要求と捉えた。

 10)両国は、本協定に合意し実現に向けいて邁進する。」

 アメリカ側は、貿易条約再締結の交渉を始める条件としたが、必ずしも開始するとは確約していなかった。

 野村・来栖両大使は、ハル・ノートを受け取り熟読するや、最後通牒的内容に愕然として日米交渉継続は不可能と判断した。

 ハル国務長官は、難色を示す両大使対してアメリカ側の意図説明をせず、質問を一切拒否し、日本側を突き放す様に投げやりな頑なな態度をとった。

 両大使は、ルーズベルトとも会見したが、にこやかな態度を示すもハル・ノートを再考する余地はまったくない様に思われた。

 ハル・ノートの提示は、陸海軍の長官にも知らされずに行われた。

 ルーズベルトとハルは、これによって日米交渉は決裂して、後は戦争しか残されていないであろうと理解していた。

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 アメリカは、満州国を自主独立国と承認せず、中国の一部と見なしていた。

 よって、中国からの全面撤兵は満州も含むのが常識である。

 アメリカは、日本が激怒して拒否する事が分かっていた。

 ハル・ノートは、明らかに最後通牒であり、宣戦布告であった。

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 後年。ハミルトン・フィッシュは、ハル・ノートは対日最後通牒であると証言した。

 「日本人は、あの戦争を最後まで勇敢に戦った。わが国と日本の間に二度と戦いがあってはならない。両国は、偉大な素晴らしい国家として、自由を守り抜き、お互いの独立と主権を尊重し、未来に向かって歩んで行かねばならない。日本が攻撃されるような事があれば、わが国は日本を防衛する。それがわが国のコミットメントである。その事を世界は肝に銘じておかねばならない」

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 覚書第二部『合衆国及び日本国間協定の基礎概略』「日本政府は中国とインドシナから、全ての陸・海・空軍及び警察部隊を撤退させるものとする。合衆国政府及び日本政府は重慶を暫定的に首都とする中国国民政府以外の、如何なる中国内の政府や体制をも─軍事的、政治的、経済的に─支援しないものとする」

 ハル・ノートは、中国に生活する日本人居留民約50万6,000人の生命財産の安全を保証せず、日本軍の全面撤退を要求している。

 日本軍は、日本人居留民の安全を最優先として撤退を渋っていた。

 軍部が、もっとも懸念したのは、通州事件などの日本人居留民虐殺事件の再発と拡大であった。

 日本が侵略戦争の理由としたのは、抗日派中国人の虐殺から日本人居留民を保護するという自衛行為であった。

 日本軍が中国から全面撤退した後、誰が、日本人居留民を保護してくれるかであった。

 中国共産党は、日米全面戦争を起こさせる為に、資本家指導の国民党政府に不満を抱く中国人を煽って日本人居留民虐殺事件を多発させていた。

 蒋介石は、中国人の不満が自分に向けられるのを恐れて、日本人居留民の安全を保証しないし、保護活動を行うはずがなかった。

 反日派朝鮮人も、日本からの独立を勝ち取る為に、日本人へのテロ行為を繰り返していた。

 結果として。武器を持たず無防備な気弱な日本人居留民は、猟奇的虐殺を平然と行う凶暴な中国人暴徒の中に見捨てられることになる。

 日本の軍国主義者は、民族中心主義に走り、合理的思考を停止させ、情緒的に軍事行動に暴走した。

 好戦的冒険主義者は、国家が戦火に巻き込まれて数百万人が焼き殺されようとも、中国にいる約50万6,000人の日本人居留民を守ろうとした。

 日本の悲劇は、短絡的に、少数の為に多数を犠牲にするという行動で起きた。

 日本政府は、国家の責任を放棄して、国外で生活する日本人同胞を見捨てれば戦争は起きなかった。

 民族主義として仲間の「絆」意識の強い日本人は、アメリカの排日移民法などの差別に激怒し、差別で不利益を被る日本人に同情し救いの手をさしのべようとした。

 世界は合理的に自己責任を鉄則として、日本の様な情緒的な行為は一切しない。

 日本の常識は、世界では通用しない。

 その事を突きつけたのが、ハル・ノートである。

 軍国日本は、日本民族を民草として慈しみ安寧を祈る天皇の御稜威・大御心から、ハル・ノートを拒否した。

 そして、未来永劫許される事のなき戦争犯罪国家の烙印を押された。

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 吉田茂は、アメリカとの戦争を避ける為に、ハル・ノートの末尾に「以上は試案であって、拘束力は持たない」との文面から、「これは最後通告ではない。交渉の余地がある」と主張した。

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 日本の政府と軍部は、全員一致で開戦を決定した。

 東郷茂徳「アメリカは東亜の現実を見ない。しかも自らは容易に実行しない諸原則を日本に強要する。我が国の譲歩にもかかわず、その主張を一歩も譲らない。ハル提案は到底受け入れられない。これをアメリカが撤回しない限り、交渉を継続しても、我が国の主張を通す事は不可能だ」

 軍国日本人は、昭和天皇の名誉を守る為に、嘘偽りを避け、掛け値なしで、外交的駆け引きもなく、戦争を避けたい一心で生真面目に交渉を続けていた。

 加瀬英明「外交官は天皇の名代として、その任に当たる。天皇は嘘を付かないんだから、その名代も嘘を付かない。ひたすら誠意を持って事に当たる。ところが、外国で誠意を持った国なんてありません」

 誠心誠意努力する生真面目な人間は、裏切られた知ったときの失望は、堪えに堪えただけに怒りとして爆発する。

 幣原喜重郎「外交は狐狸の化かし合いだ。いかにして相手を欺瞞するかにある。国家は極端なエゴイストであり、そのエゴイストが、最も狡猾で悪辣な狐狸となる事を交渉者に要求する」

 外交交渉とは、如何に国益を守り利益を上げ為に老獪な謀略を行って相手に被害を与えるかであった。

 誠意による譲歩では、外交交渉は出来ない。

 譲歩は、相手を惑わす狡猾な手段の一つである。

 誠意を持って話し合いで物事を解決すると言う事は、高度な教養で交渉が出来ない無能な者の自己弁護の下品な言い訳である。

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 夜。チャーチルは、ルーズベルト宛に緊急極秘電報を送った。

 イギリス政府は、チャーチル極秘電報の公開を75年間禁止したが、2016年11月26日に公開を2060年まで延期した。

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 11月27日 日本は、中国の暗号解読でアメリカ側が3ヵ月休戦の暫定協定案を検討している事を暗号解読で知り、ハル・ノートが和平への望をもたらす暫定案であろうと期待していた。

 期待は見事に裏切られ、期待が失望に変わり、そして絶望した。

 絶望は、選択肢を狭め、降伏を拒否して開戦へと暴走した。

 吉田茂ら非戦派は、「これは最後通牒ではない。まだ交渉の余地がある」と主張した。

 グルー大使も、日米の関係改善の為に根強い話し合いを続けるように要請したが、これまでのワシントンの反応からアメリカがこれ以上の譲歩をする事はないと分かっていた。

 「この時、開戦のボタンは押されたのである」

 東郷外相らアメリカ側の暗号電文を読んでいた者達は、アメリカの戦争への確固たる意思があると感じ取っていただけに、和平交渉による避戦は不可能と断念していた。

 大本営政府連絡会議は、日米交渉成立の期待を込めて、ハル・ノートに対する緊急的会議を開いた。

 出席者全員が、平和への望みが絶たれ国家的な自殺が要求されていると絶望し、そして理不尽な最後通牒であるとして激怒した。

 東條英機首相「これは最後通牒です」。

 東郷茂徳外相は、日本側が最終案として提示した乙案が拒否された上に、ハル・ノートの内容に失望し外交による解決を断念した。

 連絡会議に於いて、ハル・ノートが提示された事で、軍部と革新派の強硬意見が主流となり、東條首相や東郷外相ら交渉妥協派の努力は無駄に終わった。

 連絡会議は、日米開戦やむなしとの結論から宣戦の事務手続き順序を決定した。

 野村大使と来栖大使は、ホワイト・ハウスを訪れてルーズベルトに交渉継続を願い出た。

 ルーズベルトは、暗号解読で日本が交渉の最終期限を日本時間で29日零時と決定した事を知りながら、交渉継続に前向きであるフリを見せて期待させた。

 ハル国務長官は、スティムソン陸軍長官の電話に、「自分は日本との暫定協定を取りやめた。私はこのことから手を洗った。今や問題は貴方及びノックス海軍長官 即ち陸海軍の掌中にある」と答えた。

 アメリカ海軍は、アジア各地の潜水艦部隊に対して無制限潜水艦作戦を発令した。

「日米が開戦した場合には、たとえ、武装していない商船でも警告なしに攻撃してもよい」

 アメリカ陸軍は、最高司令官であるルーズベルト大統領命令として、前線基地司令部宛に極秘の警告を発した。

 「戦争が回避できないのであれば、合衆国は日本に最初の明白な行動に出る事を望む」

 ワシントンは、フィリピンやボルネオなど対日戦の最前線にあるアメリカ軍部隊に対して極秘命令を発した。

 「対日交渉はすでに終了した。日本の攻撃が数日以内に予想されるから、適切な防御を行う様に」

 命令を受け取ったアメリカ軍部隊は、臨戦態勢に入った。

 アメリカは、日本との和平を望んではいなかった。

 ルーズベルトは、ホワイ・トハウスで戦争会議を開き、「対日戦は厭わない。切っ掛けがあれば開戦する。ついては各方面への警報は慎重にすべき」と話した。

 スチムソン陸軍長官は、「開戦を辞さないなら、最終的な警報は必要ではないか」と主張した。

 ルーズベルトは、日本にこちらの動きが覚られないように警報を出し、日本軍に先に撃たせるよう仕向ける旨を指示した。

 戦争に反対する議会と国民を戦争に駆り立てる為の、隠蔽工作を命じた。

 ハル国務長官は、アメリカは平和の為に努力したという証拠を残す為に、日本側との合意に達する見込みのない不毛な話し合いを続けた。

 ハルは、スチムソンに日本と戦争をしない為の休戦協定や暫定協定は全て取りやめたと伝えた。そして、「私は、もうこの問題から手を引いた。問題は、もはや貴方とノックスの手にある─海軍と陸軍の、ね」と話した。

 スターク海軍作戦部長とマーシャル陸軍参謀総長は、ルーズベルトに対日戦共同戦争計画案を提出した。

 「今もっとも肝要なのは、合衆国の観点から言えば、時間を稼ぐ事である。フィリピン諸島には海軍と陸軍のは大幅な援軍が至急派遣されたが、望ましい兵力には達していない。増援は継続して行われている。重大で差し迫った懸念であるはグアム近海の陸軍の護送と、上海をまさに発とうとしている海兵隊の護送である。総勢2万1,000人の地上軍部隊が1941年12月8日に合衆国を出航する予定であり、この増援部隊が戦争行為の始まる前にフィリピン諸島に到着する事が重要である。国家政策に合致している限り、当方が性急な軍事行動を起こす事は避けるべきである。事を遅らせられれば遅らせられるほど、同諸島を陸・海軍の基地として保持できる保証が高まるのである」

 つまり、フィリピン諸島に対する増援と防衛強化が完了するまでは、日本との戦争は先に延ばすべきであると提言した。

 陸軍省と海軍省は、海外にある全てのアメリカ軍前哨基地に対して、日本との外交交渉は決裂した以上、何時日本が不意打ち突いて攻撃してくるかわからないとの戦争警告通知を発した。

 マーシャル参謀総長は、ハワイのショート中将に対して、日本との交渉が打ち切られた事を知らせ、一般市民にわからない様に警戒態勢を強化する様に警告した。

 ハロルド・スターク海軍作戦部長は、日本軍が奇襲してくると予想されるフィリピン、タイ、ボルネオなど東南アジア地域の海軍施設に警告を発した。

 イガソル海軍作戦部次長は、ルーズベルトの戦争警告を海軍の全指揮系統に流した。

 アメリカ軍は対日戦準備が整っていない為に、日本軍の攻撃は来年春頃になるとの希望的観測を抱いていた。

 スターク海軍作戦部長は、真珠湾のキンメル大将に対して、日本との交渉が終了した事を伝え、日本海軍機動部隊がフィリピンやタイに向かって出動しているらしいと伝えた。

 ディフェンス・コントロール・技慘瓠弊鐐荵慘瓠法崟鐐莨態に突入した。後は現場指揮官の判断に委ねる」

 太平洋・アジア各地のアメリカやイギリスの各部隊は、本国の命令によって日本軍の攻撃に対する応戦態勢に入った。

 「本電は戦争警報とと見なされるべし……日本軍の員数と装備及び海軍機動部隊の編成からすると、フィリピン諸島、タイあるいはクラ地峡もしくはボルネオへの上陸作戦が考えられる。本土各海域、グアム及びサモアは妨害工作に対する防御手段をとるよう」

 タイ、マレーシア、シンガポールなどの抗日派武装華僑や反日朝鮮テロ組織と、フィリピンのイスラム系ゲリラやジャワの郷土防衛義勇軍やビルマの反ファシスト人民同盟などの各武装民族主義者は、欧米植民地軍に協力して日本軍の侵略に備えた。

 ベトナムのベトコンなどの各共産主義組織は、ソ連・コミンテルンの指令のもとアメリカ情報機関の支援を受けて、反日運動を開始し、日本軍の情報を伝えた。

 グルー大使は、東京の知人友人らに、戦争を回避する為に無条件で即刻「ハル・ノート」を受諾するべきであると訴えた。

 「ハル・ノートは範囲が広く客観的で、まさしく政治の道を具現した文書である。もし日本が侵略的政策を中止しさえすれば、日本がそれを手に入れる為に戦っていると称するものを、アメリカは殆ど全部日本に与える事を提議している。このプログラムに従えば、日本は必要とする原料を自由に入手する事と、通商貿易の自由と、財政的協力及び援助と、凍結令の撤回と、アメリカと新しい通商条約を交渉する機会を与えられる。だがもし日本が東亜の国々を政治的経済的に抑圧しようと欲し、武力によって南進を遂行しようとするならば、間もなくABCD国家の全てと戦端を開く事になり、問題なく敗北して第3等国の地位に落ちる。だがもし日本が賢明な手段を打てば、これ以上の戦争をする事なく、その為に戦争を始めたと日本が主張する要求を、全て手にする事が出来るである。いま日本政府がとるべき賢明な処置は、ハル・ノートを直ちに受け容れ、偉大な外交的勝利をおさめた事を国民に納得させる事である」

 アメリカ軍は、日本との戦争が近づいたとして、マニュアルに従い上海の海兵隊をマニラに移動さた。

 ワシントンにいる、イギリスの情報部員マン・W・スチーブンスン(暗号名イントレピッド)は、チャーチルに、アメリカ軍は2週間以内に軍事行動を開始すると報告した。

 チャーチルは、アメリカを戦争に引き込む事に成功したと喜んだ。

 ワシントンとロンドンは、軍国日本との外交交渉は不調に終わり、日本軍が何時何処を攻撃するか分からないにせよその時が近づきつつある事を確信していた。

 MI5(英国軍情報部第5課)は、偽称で、正式には内務省に所属する国内情報機関SSと呼ぶ。

   ・   ・    ・   

 11月27日 UP通信「ワシントン11月27日。米政府筋は『枢軸国同盟からの脱退と中国からの全面撤退を求める米政府の要求に対する日本政府の回答は、数日以内のタイへの日本軍の攻撃になるかもしれない』という懸念を表明した」

 アメリカ軍は、東南アジアの華僑・華人などから日本軍に関する情報が大量に得て、日本軍の攻撃は近いと判断し、開戦後にベトナムからタイ・ビルマ・中国雲南省に侵攻すると分析していた。

 フィリピン大統領は、日米開戦が近いにも関わらず、フィリピン国民には日本軍を撃退する防空準備が不足していると嘆いた。

 アメリカ海運業者は、アジア航路の全ての船舶に武装を装備した。

 アメリカは、日本との戦争は不可避であり、開戦は近いと考えていた。

 アメリカ市民は、軍国日本はアメリカ側の要求を全面的受諾して戦争にはならないと、楽天的に考えていた。 

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 真珠湾の太平洋艦隊のキンメルは、近いうちに日本との戦争はある事はワシントンからの情報で知っていたが日本海軍航空隊による真珠湾攻撃はないとの確信と日本艦隊は日本国内にあるとの偽情報を信じ、当分の間は艦隊運用計画や戦術訓練を臨戦警戒体制に変更させず実施していた。

 日本軍は、アメリカ軍との情報戦で優位にあった。





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しきたりの日本文化 (角川ソフィア文庫)

しきたりの日本文化 (角川ソフィア文庫)

2017-11-05

♯:32─3─ルーズベルトは、日本との戦争をする為に日本側の譲歩2案を拒否する事を決断した。1941年11月15日〜No.189No.190@           

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 ルーズベルトの側近やワシントンの高官には、スターリンの指示で日米戦争を起こそうと為ている共産主義者が多数いた。

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 アメリカ軍とイギリス軍は、対日戦の準備を完了した。

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 11月15日 大本営は、日米交渉の進展に考慮して、作戦開始時期を保留した南方作戦を発令した。

 大本営政府連絡会議は、大東亜戦争を集結させる基本方針として、ソ連との戦争を避け、インド及びイラン方面への進出を認め、日独伊三ヶ国にソ連を加えて有利な条件で講和に持ち込むとした。

 ジョージ・C・マーシャル参謀総長は、ニューヨーク・トリビューン誌、ニューヨーク・タイムズ誌、タイム誌、ニューズウィーク誌、AP通信社、UP通信社などの報道機関に対して、秘密厳守のもとでオフレコの記者会見を行った。12月10日までにフィリピンの陸軍航空基地にBー17などの重爆撃機を配備して、早い時期(宣戦布告以前)にその大編隊で日本本土を爆撃し、主要な都市を火の海とする計画を準備中であると言明した。

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 11月中旬 外務省南洋局は、外務省はもとより南洋局の決定ではない、局内の一当事者意見として「南方戦ノ性格、戦争目的ニ関スル1意見」という文書を作成し。

 戦争の基本的性格を必要物資獲得と述べ、

 宣言すべき戦争目的を優先順位に従って、

 1,生存の擁護──自存自衛。

 2,援蒋行為の抜本塞源的排除。

 3,大東亜の興隆。

 の三つをあげた。

 日本は、アジアの解放を重視してはいなかった。

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 11月16日 来栖三郎特命大使は、野村大使に協力し膠着した日米交渉を打開する為にワシントンに到着し、記者会見で日本は平和を望んでいると発表した。

 アメリカ政府の某高官は、日本の来栖特使に、「(アメリカは)太平洋で米英両国の艦隊を事実上、連合させようというイギリスとの海軍同盟」を結んだともらし、日本側に譲歩を迫る圧力をかけたといわれている。(ニューヨーク・タイムズ記者アーサー・クロック)

 11月17日 東條首相と東郷外相は、日米交渉に関する国会答弁で、米英両国は日本を包囲し経済及び軍事であらゆる強硬な圧力をかけていて交渉成立は予断が許せないと発言した。

 重慶政府の郭泰祺外相は、日本を包囲する国際的ABC同盟が成立したとの声明を出した。

 AP通信やUP通信など国際報道機関は、日本を包囲する国際的連帯協議が行われていると報道していた。

 ニューヨーク・タイムズなどアメリカの報道機関も、同様の協調行動が進められ、日本は追い詰められつつあると新聞に掲載していた。

 日本に対する好意的記事を載せる報道機関は、枢軸国諸国の報道機関以外では存在しなかった。

 ユダヤ系国際報道機関は、あからさまな反日反天皇の批判記事を載せ、敵対関係を鮮明にしていた。

 野村大使と来栖特使は、和平交渉を迅速に進めるべくルーズベルトと会談した。

 来栖三郎「日本はもとより対米交渉の成功を強く望んでいる、それには時間的な要素が或る。日本は事態を遷延するほど、自己を防衛するのに当たりって、経済的、軍事的条件が悪化する事になる。日本としては、今後、無為に過ごして結局は全面的な屈服となる事は、どうしても耐えられない。日本としては妥協に対する熱意は十分にあるから、急いで交渉を妥結させる必要がある」

 ルーズベルト「友人の間には、最後の言葉はない。日米間に何らかの一般的な諒解を作る事によって、事態を救う事が出来ると思う」

 昭和天皇と軍国日本は和平を望み、中立国アメリカは戦争を望んでいた。

 4月から続けられて来た素人外交交渉は、和平への道を築くどころか、戦争へと事態を悪化させるだけで終了した。

 国家の運命を決定する重要な外交交渉に於いて、国益を無視した善意だけの民間外交は有害であった。

 満州首都憲兵隊は、在満日本共産党組織を壊滅する為に、満州国農事合作社主事の佐藤大四郎を逮捕し、同時に日本内地から移り住んだ転向組を含んだ16名を治安維持法違反で逮捕した。

 コミンテルンは、6月に独ソ戦が始まるや「日本軍が北進してシベリアに侵攻しないようにせよ」と、ゾルゲと日本人協力者に指示した。

 尾崎秀実は、満鉄調査部を通じて佐藤大四郎ら転向組に、シベリアの農作物と畜産事情の調査を依頼した。

 佐藤大四郎は、「過去3年間、シベリアの農業は不作で家畜の成育も悪い」との偽報告書を提出した。

 満鉄調査部は、「北進しても食糧はない」という偽報告書を参謀本部に送った。

 政府と軍部は、南進はアメリカとの戦争になるとして猛反対する松岡外相の意見を退けて、東南アジアに進攻してもアメリカは干渉しないという偽情報を信じて南進を決定した。

 転向組が、本心からマルクス主義を捨てたとは限らなかった。

 共産主義革命は、結果として革命が成功するのであれば手段を選ばなかった。

 11月17日 東条英機首相は、臨時議会施政方針演説で、外交の三原則を発表した。

 1,第三国が日本の企図する支那事変完遂を妨害しない事。

 2,日本を囲む諸国家が直接軍事行動はもちろん、経済封鎖という敵性行為を解除し経済の正常関係を回復する。

 3,欧州戦争が拡大して戦禍が東亜に及ぶ事を極力防止する。

 11月18日 ニューヨーク・タイムズ誌は、フィリピンの航空基地を発進した爆撃機は日本を爆撃した後にウラジオストックに着陸し、ウラジオストクで燃料を補給し爆弾を積んでその帰路で日本を再空爆してフィリピンに帰着すると言う記事を載せた。

 11月19日 日本外務省は、在外公館に対して風情報を流した。在外公館は、暗号書や機密文書の焼却に取り掛かった。アメリカやイギリスは、東京からの天気予報のニュースをラジオ放送などで傍受し、事態の逼迫している事を理解した。当然、両国の情報機関は日本の在外公館が一斉に大量の書類を焼却している事実を知っていた。

  東の風、雨    日米関係の危機

  北の風、雲    日ソ関係の危機

  西の風、晴れ   日英関係の危機

 アメリカとイギリスの諜報部は、東京ラジオの「風メッセージ」を傍受し、日本は日米交渉に絶望して軍事行動に出る公算が大であると分析した。

 日本を戦争に追い込むに、ありとあらゆる日本軍の残虐行為を捏造してプロパガンダ放送を行った。

 ワシントンは、さらに日本を戦争に追い込み為に強硬な態度を見せ、日本を絶望させた。

 ニューヨーク・タイムズ紙は、国務省内部の情報として、アメリカは同盟国イギリスと友好国ソ連と協力して日本との戦争準備を整えたと報道した。記事を書いたアーサー・クロックは、些細な戦争計画書は陸軍省と海軍省の金庫の中に保管されていると付け加えた。

 国務省極東部は、日本との戦争を回避する為に具体的な行動をとる様に、ハル国務長官に勧告した。

 サフォード大佐は、東京からワシントンの日本大使館への重要な暗号電報を傍受し、特別班を組織して日本の短波放送を24時間態勢で傍受する様に命じた。

 11月20日 野村大使と来栖特使は、東京からの新たな提案によって和解を求めよという指示に従って、ハル国務長官と会談して暫定協定案である乙案を提出した。

 国務省は、乙案を一顧の価値もないとの判断し、黙殺する事にした。

 ハル国務長官は、日本との最悪の事態(戦争)を想定して、イギリス、中国、オーストラリア、オランダの大使と協議を行った。

 アメリカ政府は、日本軍の侵略行為がアメリカに危機をもたらしうとしているもと発表した。

 ハル「我々は、日本の行動と発言から11月20日の日本側の提案が彼等の最終提案である事を知っていた。そこで、対話が継続した期間を通じてアメリカ政府がとった立場を一点の曇りもなく明らかにしておく事は当然ながら望ましい事であった。……11月22日以降、日本はすでに平和的解決を見据えた真剣な対話を放棄したというのが、私の個人的な見解だった」

 ヘンリー・モーゲンソー財務長官は、二正面作戦を回避する為に、暫定協定案の作成に取りかかった。

 隠れ共産主義者のハリー・ホワイトは、ソ連の工作員であるパブロフの指示で行動していた。

 国務省極東部の幹部は、大統領の「不参戦公約」を信じ、「参戦決意」の本心を知らなかった為に、戦争を回避する暫定協定案に賛同した。

 ハリー・ホワイトは、3ヶ月の暫定期限を設けた穏和案と10項目の強硬案(ハル・ノートの原案)を起草して提出した。

 ルーズベルトは、日本軍がアメリカを素通りしてシンガポールや蘭印を攻撃する事を恐れていた。

 最大の懸念は。アメリカ世論は、軍国日本がアメリカを避けてイギリスとオランダを攻撃した時、参戦を許さない可能性があった。

 さらに。仮に、太平洋の彼方にあるフィリピンやグアムなどの植民地を攻撃したとして、アメリカ国民が日本との戦争を許すか分からなかった。

 当のルーズベルトも、グルー大使も、対日戦は不可能であろうと考えていた。

 アメリカ国民を参戦に向かわせる為には、日本軍にハワイなどのアメリカ領土を攻撃させ、間違いなく参戦を訴えるだけの被害を出す必要があった。

 スチムソン陸軍長官「問題は我々が多大な被害を蒙らずに、如何にして日本の第一撃を引き出すか、その方法だった。これは難問だった」

 ルーズベルトは、アメリカが参戦する前にイギリスとナチス・ドイツが戦争を止めて講和する事を恐れていた。

 事実。退位したウィンザー公エドワード8世は、祖国の荒廃を防ぐ為に徹底抗戦を主張するチャーチルを批判し、夫人のシンプソン女史を通じてナチス・ドイツと接触の糸口を探っていた。

 前首相のチェンバレンらも、戦火で回復不能な状態になる前に一刻も早く戦争を終結させるべく秘密裏に動き始めていた。

 イギリス国民も、二年近く続いている戦争に厭戦気分を持ち始めていた。

 副総統ヘスは、和平目的で、イギリスに単独飛行して親独派のケント公の牧草地に降り立っていた。

 アメリカ金融界は、ドルを戦後世界経済の基軸通貨として国際金融市場を支配する為に、武器貸与法を使ってイギリスが世界中に持っている全権益と国内の5,000万ポンド相当に金塊を奪った。

 ドル一極支配体制の為に、イギリスとナチス・ドイツを回復不能になるまで徹底的に戦わせ、疲弊させ、荒廃させようとした。

 ゆえに。アメリカは、イギリスとナチス・ドイツの和平を阻止する必要があり、時期に来たら是が非でも参戦しなければならなかった。

 アメリカ陸軍は、日本軍のフィリピン侵略に備えて戦車部隊をバターン半島に配置し、万全の防衛体制を完成させた。

 イギリス軍は、日本軍の侵略に備えて、8月から9月の間にマレーシアの要塞地帯ジットラ・ラインや香港の九龍の防衛を完成させた。

 アメリカ陸軍は、海軍に対抗する対日勝利計画として、欧州戦線で撃墜された事のない「空の要塞」と恐れられた40機のB−17をフィリピンなど太平洋戦域への配備を急いだ。

 対日戦開戦と同時にB−17で東京を無差別爆撃すれば、日本軍用機ではB−17を撃墜できない為に2、3ヶ月で軍国日本を降伏させられる確信していた。

 ならば、マニラとウラジオストックを往復飛行して示威運動すれば戦争防止になると一部の軍人は考えたが、対日戦を臨みルーズベルトによって却下された。

 11月21日 来栖大使は、ハルに単独会見し、三国同盟は即刻一片の死文と化す申し入れを行った。アメリカは、日本側の三国同盟死文化申し入れに興味を示さなかった。

 ハル国務長官は、国務省の極東問題ブレーン・トラストと今後の交渉を協議した。

 国務省筋は、記者会見で、日本に対して如何なる譲歩もするつもりはなく、依然として事務的予備交渉であり具体的提案を基にした本交渉ではないと発表した。

 アメリカの陸軍参謀本部作戦極秘報告によると。マーシャル参謀総長は、日本との開戦を12月1日に設定し、日本への宣戦布告前の先制攻撃準備状況を聞いた。

 部下の参謀は、台湾の日本海軍基地と日本本土の工業地帯を含む約6,000ヶ所の爆撃目標を印した地図を、フィリピンのマッカーサーに送った事を報告した。

 だが、日本本土爆撃計画は、大型爆撃機の配備が遅れている為に決行日を翌年42年3月に繰り下げた。

 軍当局は、国務省に対して、それまで日米交渉の決裂を引き延ばす事を要望した。

 戦争を求めたのは、日本ではなく、アメリカであった。

 昭和天皇は戦争を回避する事を希望したが、ルーズベルトは戦争を希望した。

 ルーズベルトに参戦を求めたのは、スターリンであり、蒋介石であり、チャーチルであった。

   ・   ・   ・   

 ニューヨーカー誌に、真珠湾攻撃を思わせる様な日時と北緯を表す様な奇妙な暗号広告が掲載された。

 後日。FBIは,アメリカ国内に潜伏して活動している日本スパイへの攻撃を知らせる暗号ではないかと調査するが、掲載契約書の住所と電話番号がデタラメで、会社自体が実在せず、捜査を行き詰まって謎のまま終わった。

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 11月22日 東郷外相は、野村・来栖両大使に対して、交渉終了期日が25日から29日までに4日間延長された事を伝え、経済制裁としての対日禁輸令を解除する様に全力で交渉に当たるよう訓令した。

 真珠湾奇襲機動部隊は、択捉島の単冠湾に集結した。

 ルーズベルトは、ネルソン・ロックフェラーを米州問題調整官として経済防衛会議の新たなメンバーに任命した。アメリカは、経済戦争の範囲を地球規模に拡大し、敵性国家に対する輸出統制法、友好国に対する武器貸与法、国内産業に対する戦略物資法を持って戦い抜こうとしていた。

 日本本土爆撃を主目的とした爆撃機パイロットを中心としたアメリカ第二義勇兵部隊が、サンフランシスコを出発した。宣戦布告前日本爆撃に使用される爆撃機や戦闘機の各部品の船積みも、大統領命令で急ピッチで進められていた。

 野村大使と来栖特使は、日本側は南部仏印から引き上げを含む提案を、ハル国務長官に手渡した。

 11月24日 ホワイト・ハウスで。ルーズベルトは、イギリス、中国、オランダの代表団と個別に会談して意見交換を行った。

 ワシントンで、アメリカ・イギリス・中国・オーストラリア・オランダの5カ国が対日連合戦線を結成した。

 中国側は、日本に理解を示す様な如何なる譲歩にも反対し、相変わらず戦争を求める様な強硬発言を繰り返していた。

 真珠湾。キンメル司令長官は、スターク海軍作戦部長の許可を得て、空母レキシントンによる実戦さながらの航空機による模擬攻撃演習を行った。

 日本人には遺伝的欠陥があって優秀なパイロットは養成できない、と言うのが世界の軍事専門家の共通認識であった。

 そして、日本の航空機は欧米の航空機に比べて劣るというのが常識となっている。

 11月25日 東南アジアには、植民地支配からの独立を目指す少数派の親日派勢力と、植民地支配を維持しようとする多数派の反日勢力と、人民政府樹立を望む共産主義者のどが存在していた。

 タイ王国も、親日派、親英派、中立派、反王制派、華僑勢力と幾つもの勢力が存在していた。

 タイのピブーン首相は、イギリスのクロスビー公使に対して、軍国日本に対してタイを侵略をすれば米英が対日宣戦を布告するという、英米共同の声明を出す様に要請した。

 アメリカは、ハルノートに、日本軍の仏印への増兵とタイへ進駐を禁止する項目を加えた。

 ハル国務長官は、日本の全権代表と会談を繰り返したが、今だ予備会談の域を超えず、本交渉に入るには時期尚早であると発表した。

 報道各社は、これ以上の不毛な交渉は続かずそう遠くない将来に破局を迎えるという、外交専門家筋の情報を報じた。

 中国からワシントンに、日本軍が大軍を南方に移送しつっあるとの極秘情報がもたらされた。

 ルーズベルトは、ホワイト・ハウスで戦争内閣が開き、日本の攻撃は「次の月曜日(12月1日)あたりが、最も危険であると思う」と発言した。

 会議は、「アメリカに最大の危険を招かぬ様に配慮しつつ、日本の方から攻撃せざるを得ない様に仕向ける」事で合意した。

 ハル国務長官「日本は攻撃を仕掛ける準備をしており、いつでも攻撃態勢に入る用意ができている」

 ルーズベルト「日本は警告なくして攻撃するので有名で、たとえば次の月曜日に攻撃されるかも知れない。我々を大変悩ましている問題がある。それは、もし敵が一撃を加えようとしているとすると、その一撃を待っているのは得策ではない。リスクがあったとしても、日本が先に一撃を加えるようにさせる場合、アメリカ国民から全面的な支持を受ける為には、誰の目にも侵略者が誰であるかを確実にしておく必要がある」

 スチムソン陸軍長官「日本に最初の発砲するのを許す事にリスクがあるとはいえ、アメリカ国民の全面的な支持を得るには、誰の目にもどちらが侵略者なのか疑いの余地を残さずはっきりとさせる為に、それをするのが間違いなく日本である様にするのが望ましいことに我々は気が付いた」

 アメリカ軍当局は、対日戦争準備が完了するのは来年春頃になるとの見通しを報告し、対日戦準備が完了するまで対日交渉の延長を要請した。  

 ルーズベルトは、日米交渉をあと3ヶ月ほど引き延ばす為の寛大なる条件を含んだ暫定案を作成した。

 戦争参戦は決定事項であった為に、暫定案は戦争を回避する為ではなく、あくまでも軍当局の要請による時間が稼ぎでしかなかった。

 蒋介石は、90日以上もアメリカの参戦を先送りしては中国は日本軍に完全征服されるとして猛反対した。

 政治・外交顧問として中国に滞在しているオーエン・ラティモアは、暫定案拒否という中国側の強い意向を大統領補佐官ロークリン・カリーに伝えた。

 ハル国務長官は、日本に有利な暫定案をチャーチルや蒋介石に伝えた。

 東郷外相は、アメリカの外交電文を傍受して暫定案の内容を知るや、暫定案が提案されれば和平交渉が好転すると期待した。蒋介石が悲鳴を上げる様に拒否しても、チャーチルが暫定案に理解を示した事に一縷の望みを託した。

 親中国派高官の大半がマルクス主義者かその支援者で、中国を共産主義化するというソ連の指示で動いていた。

 ルーズベルト「問題は、どうやって我々が日本に先制攻撃をさせるからである。日本に先制攻撃を仕掛けさせ、どちらが侵略者かを明確にさせる事が理想だ」

 東京の外務省は、ワシントンの日本大使館に対して「交渉の決裂は不可避だが、政府としては交渉決裂の気配を感じさせる事は避けてもらいたいと希望する」

 中国側は、日本とアメリカが戦争する様に、アメリカとイギリスで強力なロビー活動を展開した。

 アメリカとイギリスの政府高官等は、中国人特有の他人の迷惑を一切考慮しないヒステリックな言動に辟易とした。そのヒステリックから逃れる為に日本との妥協的暫定案を断念し、日本との戦争へと踏み出して行った。

 中国人は、世界的に謀略・陰謀がうまい民族である。

 こうして。昭和天皇や東條首相等が一縷の望みを託した和平交渉は完全に断たれ、後は絶望的戦争しか選択肢が残されていなかった。

 アメリカ陸軍参謀本部参謀第二課(Gー2,諜報担当)は、日本軍5箇師団が山東省と山西省から上海に南下し、そこから輸送船に乗って南下したとの情報を、スチムソン長官に伝えた。

 ルーズベルトは、スティムソン長官から知らせを受け、日本は交渉を行いつつも軍艦を南下させていると受け取り、暫定協定案を放棄してハル・ノートを提示する事を指示した。

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 ワシントン時間11月25日夕 アメリカ海軍当局は、アメリカと反枢軸国の全ての船舶に対し、北太平洋横断航路の使用を禁止する事を伝え、当時アメリカ西岸から北太平洋を航行して本国に向かっていたソ連船2隻の内1隻は西海岸の港での停泊を命じ、1隻は太平洋を南へ大きく迂回する航路をとるように指定した。

 これ以降、ハワイ北方の北太平洋には一隻も船舶がいなくなった。

 真珠湾の太平洋艦隊のハズバンド・キンメルは、真珠湾軍港は北方海域からの航空機による弱い事から、日本機動部隊を迎え撃つ大演習を実施したが、ワシントンの海軍中枢の命令によって演習を中止した。












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2017-11-04

♯:32─2─東條英機らは、初めての戦争回避提案(甲案と乙案)を決定し、アメリカ側に正式の予備交渉を申し込んだ。1941年11月〜No.187No,188 @         

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 転向右翼(隠れマルクス主義者)は、日米戦争を決断せず外交交渉で平和的解決を目指す東條英機首相に圧力を掛けるべく、単純細胞で思慮分別のない軍国主義者、国粋主義者、民族主義者を動かして非難の手紙を大量に送りつけていた。

 国内事情も国際情勢も読めない視野狭窄の右翼や右派は、「開戦」という勇ましい言葉に煽られ冷静に考える事もできなくなり、集団ヒストリー状態となり、半狂乱となって東條英機を「裏切り者」「卑怯者」と汚く罵る手紙を送り続けた。

 革新官僚(隠れマルクス主義者)達も、対米戦に不安がる軍部(特に陸軍)に、安心して戦争が出来るように統計数値を改竄し、嘘の報告書を提出した。

 日本の空気は、開戦派によるブラック・プロパガンダによって対米英戦開戦へと大きく動いていた。

 昭和天皇やA級戦犯達の力では、戦争へという時代の激流を止める事も、濁流の流れを平和へと変えることも出来ない所まで追い詰められていた。

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 A級戦犯・東郷茂徳外相は、原理原則として一歩も譲らないハル4原則に憤慨していた。

 「この4原則を自分達は少しも守らないのに、我が日本にばかり押し付けてくる」

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 赤松(東条英機首相秘書官)「東條さんは首相になったらいろんなことがわかってきたらしい。これは戦時下のことになるのだが、ある時『近衛さんが開戦前に自分と対立したときの苦衷は今になってわかる』とつぶやいたことがあった。

 日本の上層部、とくに陛下を中心にしての権力関係、それは複雑な構造になっている。陸軍部内にもいろいろな勢力とつながっている人たちがいる。なぜ海軍は、自分たちの力ではアメリカと戦えないと言わなかったのか、彼らが一言ノーと言ったなら、戦争は陸軍だけでは決してできなかった。

 東條さんは確かに戦争の方向に引っぱったといえば、それは認めるけれど、つまりはいいように海軍に利用されたんじゃないかな」

 「東條さんは軍人としてはアメリカとの戦争やむなしとの側にいた。特に陸軍大臣のときはね。しかし首相になって、陛下から白紙還元を命じられて、いわば条件付き首相だった。それで強硬策から転じて戦争より外交に力を入れよ、となった。だがつまりはそうできなかった。これは君、負い目だよ、だからひとたび戦争になったら勝たなければ、との姿勢に転じたんだね」

 「これは開戦時の軍務課長だった佐藤賢了が戦後になって言ったことだけれど、東條内閣は白紙還元なのだから、それまでのすべてを御破算にして条件を一つ一つ調べていって、本当に日本は戦争ができるのかを問うべきだった。どういう結論が出たろうか。たぶん結論は同じで戦争になっただろうということだ。つまりはそれまでの思惑がなんらかの形で噴き出すからね。ということは、東條さんも個人としては必ずしも戦争を行いたかったわけではないが、しかし戦争を進める人たちの代弁役を担うことにならざるを得なかったんだ」

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 11月 日中軍戦力比。

 日本軍…中国戦線・68万人。満州・80万人。本土・37万人。

 中国軍…国民党軍・400万人以上。中国共産党軍及び抗日ゲリラ・不明。

 北支那方面軍司令官として着任した岡村寧次大将は、中国伝統の三光作戦とは正反対の三戒(焼くな、犯すな、殺すな)を訓示し、翌年には全将兵にも同様の訓示を行った。

 来栖三郎前駐独大は、特命全権大使として、アメリカとの戦争を回避する為にワシントンに向かった。

 中国は、アメリカが対独戦重視として軍主力を欧州戦線に投入し、日本軍を撃破する為の援軍を送らない事を恐れていた。アメリカから洩れ伝えられる和平交渉の行方に神経を尖らせ、戦争回避する為に日本への如何なる譲歩にも半狂乱となって反対した。

 財務省のホワイトは、スターリンの指示に従って、日本を戦争に追い込むべくハル・ノートの原案を作成して提出した。

 東京の外務省は、ホノルル領事館に、真珠湾の海軍軍港に出入りする船舶の情報を収集して 報告する様に要請した。アメリカ軍は、同極秘電文を傍受した。ワシントンは、真珠湾の陸海軍司令部にスパイ活動が行われている事を通報しなかった。

 ハワイの太平洋艦隊司令部も陸軍司令部も、ワシントンから対日交渉の進展状況や日本軍の行動についての情報は受けていなかったし、防衛強化の為の整備要請もなおざりにされていた。

 ビルマ植民地政府首相ウ・ソーは、ロンドンを訪れ、自治権拡大の請願の為にチャーチル首相やエイメリー植民地相と会談したが、何ら成果は得られなかった。 

 チャーチル「彼等に必要なのは、独立ではなく鞭だ」

 ルイス・アレン「もし独立の機会があるとすれば、それは一滴の石油も一粒のコメもとれなくなった時」

 ウ・ソーは、ビルマを植民地状態から解放する為に、ルーズベルト大統領に会う為にワシントンに渡った。白人優越主義者のルーズベルトは、面会を拒否した。

 ルーズベルト「大平洋憲章は、有色人種の為のものではない。ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」

 11月下旬 軍令部第一課の課長補佐クラスの高級将校は、第四課土井美二大佐に、日米開戦の場合の輸送船団の喪失船舶数を尋ねていた。

 日本海軍には、兵站輸送保護という思想がなかった為に、敵軍の攻撃による船舶喪失を計算した事がなかった。

 軍令部は、作戦がスムーズに行くように、第一次世界大戦における潜水艦の攻撃による輸送船団の船舶被害数をもとに都合よく算出した。

 ワシントンは、日本との戦争が近付いたとの判断で、上海に駐屯させていた第四海兵隊をフィリピンに引き上げさせた。

 同時に、中国に居住するアメリカ人に帰国するかフィリピンか中立地帯に移動するように要請した。

 11月1日午前7時 東條首相と杉山元陸軍参謀総長が会談した。

 東條英機「御上の御心を、考えねばならない。日露戦争よりも、はるかに大きな戦争であるから、御軫念(天皇が心を痛めている)の事は、十分拝察できる。今開戦を決意する事は、到底お聞きにならないと思う」

 昭和天皇は、戦争よりも和平を切望していた。

 午前9時 大本営政府連絡会議は、翌日午前1時半まで16時間半開かれ、開戦か和平かで大激論が交わされた。

 A級戦犯の東郷茂徳外相と賀屋興宣蔵相は、開戦には反対であった。

 永野修身軍令部部長は、開戦1年目と2年目の間は勝算があるが、3年目以降は予断が許せないと発言した。

 杉山参謀総長は、南方作戦で支那への支援路を遮断すれば、支那は抗戦を断念する公算が大であると述べた。

 統帥部は、和戦決定をせずに時間が経てば、備蓄している石油を消費して枯渇する恐れがあると主張した。

 東條英機「政府としては、統帥部が責任をもって言明しうる限度は、開戦後二ヵ年は成算があるが、第三年以降は不明であると言う事に諒解する」

 誰も、戦争に勝つと明言する者はいなかった。

 統帥部は、11月30日まで外交交渉を続けても良いと譲歩した。

 東條首相「12月1日にならないものか? 1日でもよいから、長く外交をやる事ができないだろか?」

 連絡会議は、外交打ち切りの日時を「12月1日零時」とする事を決定した。

 ルーズベルトは、日本を戦争に追い込む戦略をたてる為に、マジック情報の解読文の全文を届ける様に命じた。

 アメリカ陸軍情報部(MIS)は、日本との戦争が不可避となった為に、戦争準備作業として対日謀略戦準備を急いだ。

 MIS‥ミリタリー・インテリジェント・サービス。

 第四陸軍参謀第二部(G2)は、西部国防司令部本部が置かれているサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ(金門橋)脇にあるプレシディオ要塞の航空機用格納庫に、陸軍情報部語学学校(MISLS)を開校し、日系アメリカ兵に日本語教育を行った。

 陸軍首脳部は、日本との戦いには日本語が堪能な兵士が必要であるとの認識から、日系アメリカ人の忠誠度を疑いサボタージュの危険があるという反対意見を押し切り、忠誠を誓う二世の採用を決定した。

 だが。二世兵士の独立部隊を編成するか、黒人兵同様に軍隊内の一兵士として使用するか、運用方法は未定であった。

 アメリカ陸軍内には、伝統的な人種差別が存在し、黒人やアジア人は一般兵士志とは認められず汚い雑用を命じられていた。

 当然。白人以外の将校は存在せず、軍人エリートの職種とされたパイロットや船長にも白人以外ではなれなかった。

 白人兵士は、日系兵士を黒人同様に差別し、訓練と称して嫌がらせやリンチを加えていたていた。

 日本語学校の生徒は、日本語能力によって三クラスに分けられた。

 Aクラス‥帰米二世。アメリカ国籍を持つ二世で、日本に留学して高等教育を受けた日本語堪能者。

 Bクラス‥帰米者ほど語学能力はないが、一般会話ぐらいはこなせる者。

 Cクラス‥日本語が話せない者。

 戦後建てられた石碑「この建物は1941年11月から1942年4月迄、軍事情報部語学学校第1期生の教室だった。最終的には。6,000人の日系アメリカ人兵の卒業生が第二次世界大戦中、太平洋地域で彼等の祖国の為に勇猛に働いた。アメリカ合衆国はこれらの二世語学兵とその家族に報いる事の出来ないほどの恩恵を負っている」

 11月2日 昭和天皇は、東條、杉山、永野に、作戦準備の重要を認めつつも外交交渉による打開を強く求めた。

 そして、対米英戦が起きた際に「収拾にローマ法皇を考えてみては、いかがかと思う」と述べた。

 だが、アメリカはプロテスタントで、イギリスはイギリス国教会で、両国におけるカトリック教会は少数派で影響力は弱かった。

 日本人には、カトリック教会もプロテスタントもイギリス国教会も区別が付かなかった。

 昭和天皇は、東條英機首相に対して、不幸にも戦争となったら速やかにローマ教皇庁を通じた戦争終結の方策を検討してはどうかとい提案をした。

 11月3日 参謀総長と軍令部総長は、対米英蘭戦争の作戦計画を昭和天皇に上奏した。

 グルー大使は、ハル国務長官に、対外依存度の強い日本が如何に絶望的な経済制裁に屈服する事なく耐え、日本人のほぼ全員が国益と中国で生活する日本人居留民の生きる権利を守ろうとしているかの、近況報告をした。

 「多くの一流のアメリカ人経済学者が主張する『軍事的強国としての日本は、財政的・経済的資源の締め付けと、その結果として早晩訪れるであろうそれらの消耗枯渇の結果、崩壊する』という理論には、私はいまだ納得できない。この様な考察は無意味なうちに、日本が資本主義制度を採用しているという仮定に基づいている。現在、日本の通商の大部分が失われ、工業生産が甚だしく削減され、国内資源が枯渇してきている事は事実だが、彼らが予想した様な日本の崩壊は生じていない。その代わり日本は、政府の強力な経済統制でこの危機を凌いでいる」

 つまり。軍国日本は、チェコスロバキアの様に戦争を避ける為に国民を裏切り国土を売り渡すようなことはせず、国家的腹切りで一丸となって自殺的戦争を始めるだろうと警告した。

 だが。日本が中国から全面的に手を引くまでは、アメリカの国益に反する様な譲歩はするべきではないと、対日強硬策を提言した。

 国務省極東部は、アメリカの国益の為には中国との関係が最優先課題で、戦争で日本がどうなろうとも関心がなかった。

 ホーンベック国務省顧問「歴史上、自暴自棄で戦争を始めた国はない」

 11月4日 野村吉三郎大使宛の東郷茂徳外相の電文「1、…2、…

 3、日米会談が開始された時、この会談がこれほど長引くと誰が想像したであろうか。我々はある種の了解に速やかに達しうる事を希望し、我々はすでに大いに譲歩し、譲歩に譲歩を重ねてきた。米国はこれに対応せず、最初と全く立場を終始固執した。我が国の朝野には米国の真意を疑う者が少なくない。我が政府はあらゆる屈辱的な事柄に我慢しながら繰り返し誠意を示し、米国に譲るところが極めて大きかった。こうした理由は、太平洋の平和維持のためにほかならない。アメリカ人の中には、我々の一方的な譲歩について誤解しているようであるが、ご承知の通り、それは我々の弱さにあるのではなく、我々の隠忍にもおのずから限度がある。……本大臣は、我々の全ての問題を、米国と平和的に解決できる事を希望する。それが我々との平和維持にとって、また全世界の情勢にとって、いかによりよき影響をもたらす冷静に考える事を衷心(ちゅうしん)から希望する」

 ハル国務長官は、東京からワシントンの日本大使館への、東條首相が和平交渉の為に最後の提案をするという暗号電報の傍受通信の報告を受けた。

 東條首相は、平和を切望する昭和天皇の期待に応えるべく、野村大使に全力で戦争回避の和平交渉に望むようにとの極秘電を送った。

 アメリカ側は、日本国内の好戦勢力に隠れて送られてきた東條極秘電を傍受していた。

 11月5日 企画院鈴木貞一総裁は、大本営政府連絡会議で開戦後に推移する石油量予想を報告した。

 御前会議の席上。鈴木総裁は、「石油需給のバランス試算表」同様に戦争が可能な数値を列べた「物的国防の規模」と言う報告書を提出した。

 企画院が提出する数値全てが、戦争回避派の東條首相や東郷外相、賀屋蔵相らの期待を裏切るものであった。

 永野修身軍令部総長は、蘭印の油田を軍事占領し、その産油量を当てにすれば3年間は戦えるとした。

 東條首相は、戦争を避ける為に日本が譲歩できる条件をまとめて、国策遂行要領とアメリカに対する2種類の要求案(甲案・乙案)を決定した。

帝国国策遂行要領

「1)帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし、大東亜の新秩序を建設する為、此の際米英蘭戦争を決意し左記措置を採る。

 1.武力発動の時期を12月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す。

 2.対米交渉は別紙要領に依り之を行う。

 3.独伊との提携強化を図る。

 4.武力発動の直前、タイとの間に軍事的緊密関係を樹立す。

 2) 対米交渉が12月1日午前零時迄に成功すれば武力発動を中止す。」

甲案

「1)保護主義による排他的ブロック経済体制が改められ通商の無差別原則が全世界に適用されるのであれば、日本は門戸開放の原則を受け入れて太平洋全域及び中国の市場を開放する事を承認する。

 2)日独伊三国同盟の解釈において、自衛権のみだりな拡大をしない事を明確化する。 参戦義務が発生したかどうかの解釈は、同盟国に影響される事なく日本政府が自主的に行う。

 3)中国からの撤退は、防共政策から、日本・中国間の平和条約成立後およそ25年を目途として駐屯する。華北及びモンゴルの一部と海南島に関しては、平和成立と同時に撤兵を開始し、2年以内の完全撤退を完了する。

 4)フランス領インドシナからの撤兵は、日中戦争が解決するか公正なる極東の平和が確立ししだい直ちに撤退する。」

 乙案

「1)日本・アメリカ両国は、仏領インドシナ以外の東南アジア及び南太平洋地域に武力進出を行なわない事を確約する。

 2)両国は、蘭領インドシナにおいて石油やスズなどの必要とする物資の獲得が保障される様に相互に協力する事。

 3)両国は、相互に通商関係を在米日本資産凍結(7月25日)以前の情況に復帰させ、この協定は3ヶ月間有効とする。

 日本は、南部仏印に進駐した部隊を北部に移動させ、北部仏印の駐屯部隊を2万5,000人以下に制限する。

 アメリカは、年間100万トンの航空機用揮発油の対日供給を確約する。

 4)アメリカ政府は、日本・中国の和平に関する努力に支障を与える如何なる行動をしない事。」

 以上の4点が成立すれば。日本政府は、日米間の基本合意がなくても、南部仏印進駐以前の状態に戻して和平交渉の成立の為にやり直す用意がある。

 同情報は、日本国内の情報提供者によってアメリカ側に伝えられた。

 統帥権で守られていた最高軍事機密情報以外の国家機密の大半が、アメリカ側に漏洩していたといわれている。

 大本営は、日米交渉の破綻を想定して連合艦隊に対米英蘭作戦準備を命じた。

 東條英機首相は、ワシントンの日本大使館に、撤兵の問題ではこれ譲歩できない所まで譲歩を重ねたと電報を打った。

 東郷茂徳外相は、素人の野村大使では日米交渉は荷が重いと判断し、和平実現の為にベテラン外交官の来栖三郎を特使として派遣した。

 大本営海軍部は、連合艦隊司令長官山本五十六に対して、大本営命令第一号を発した。

 スターク海軍作戦部長とマーシャル陸軍参謀総長は、ルーズベルトに、米英陸海軍秘密会議での参戦に関しての基本軍事諸政策決定事項を報告した。

 両国軍隊はナチス・ドイツを倒す為に全力を尽くし、ナチス・ドイツが倒れるまでは日本には無制限の攻撃を控える。

 日本との戦争が避けられないとしても、軍事作戦は防衛に徹して、領土保全しながら日本軍を弱らせ、日本経済を弱体化させる事を目的とするべきである。 

 そして、日本に対して先に最後通告を渡さない事。

 ルーズベルトとスチムソンらは、マジック情報で、日本は25日で交渉を打ち切る事を知った。

 11月6日 ルーズベルトは、スチムソンに、日本との間で半年間は戦争が起きない様な条項を盛り込んだ休戦協定案を提起する事を相談した。

 スチムソンは、イギリスは今にも崩壊しそうな危機的状況にある以上、参戦的名目を与えてくれるであろう日本に対して戦争を遅らせるような妥協案を出す事に反対した。

 スチムソン日記「バニーバー・ブッシュがやてきて、全米科学研究開発局の極めて重要な秘密報告を、私に渡した。それは恐ろしいものだった」

 11月7日 野村大使はハル国務長官と会見し、6ヶ月もの交渉が原理原則論の応酬だけで進展しない事に、国内世論はしびれを切らしている旨を告げて甲案を提出した。

 ハルは、暗号電報解読で、甲案の内容を熟知していたが素知らぬ顔で甲案を熟読したが、甲案には大した関心を示さなかった。甲案による交渉は不調に終わった。

 東郷外相は、甲案による交渉を25日までにまとめて調印する様に訓令を与えていた。 

 中立法修正案。介入主義者は戦争をアメリカ大陸に近付けない為の国家防衛法案であると主張し、孤立主義者は戦争をする為の戦争法案として猛反対した。

 ホワイトハウスで。ルーズベルトは、閣僚に対して「アメリカが日本を攻撃した場合でも国民の支持は得られる」と発言し、日本を追い込む為の戦術を協議した。

 参加閣僚は、「アメリカ国民は日本との戦争を支持する」であろうという認識で一致していた。

 スターク海軍作戦部長からハート海軍大将への書簡。「海軍はすでに大西洋で起こっている戦争に加わっているが、アメリカ(議会と国民)はこれに全く気がついていない様だ」

 11月8日 FBIは、「アメリカ政府の上級職員が秘密文書をソ連に提供している」という報告書をホワイト・ハウスに提出した。

 11月9日 ドノバン長官は、弁護士ロヴェルがトムゼン参事官から聞き出した情報をまとめてルーズベルトに報告した。

 「日本がアメリカと戦争するならドイツは直ぐに日本の後に続くだろう。アメリカは太平洋で効果的に戦う事はできない。アメリカは大西洋をガラ空きにして太平洋に総ての海軍力を注ぎ込むわけにはいかないからだ。

 もし、東京と横浜が爆撃されるなら、日本は必ずマニラを爆撃するだろう。

 ロシアが崩壊するなら日本は北樺太を占領するだろう。これは日本の石油事情を改善するだろう。というのも樺太からの石油供給量はかなりなもので、さらに開発する事ができるからだ。

 日本はアメリカ相手に時間稼ぎをしている。これは両国に関して同じで、アメリカもまたこれを利用して日本相手に時間稼ぎをしている。結局、極東に関して日本が呑める条件でアメリカが合意しなければ、日本は今後扼殺の脅威に晒される事になる。日本がアメリカによる扼殺を免れる為に解決を先送りすれば、日本は今よりも自由に振る舞えなくなる。というのも今はドイツが大英帝国とアメリカの注意を引き付けているからだ。もし日本が解決を先送りするならば、アメリカが日本を扼殺するのはかなり容易になる。だから、望むと望まざるとにかかわらず、日本は今アメリカを攻撃せざるを得ない」

 日本が、アメリカの要求に従って、中国に持っている権益の重要部分を放棄する事は有り得ず、このまま解決できなければ石油禁輸が続けば日本の海軍艦艇も民間輸送船も動けなくなる。

 八方塞がり的に追い詰められた軍国日本が、解決する為に行動を起こさず無駄に時間を浪費しても得る所は何もなく、むしろ事態を悪化させ自滅するしかない。

 軍国日本には、死中に活を求めて戦争に踏み切るか、チェコスロヴァキアの様に全面降伏して自国が解体されるのほ傍観するか、二者択一しかなく、名誉重んずるサムライなら屈辱に耐えて生き残るより潔く死ぬ方を選ぶであろうと述べた。

 日本人は、中国人とは違うと。

 11月10日 東郷外相は、グルー駐日大使に甲案の趣旨を説明し、交渉を促進する為に協力を要請した。

 チャーチルの演説。「アメリカが対日戦争に巻き込まれた場合は、イギリスは1時間以内に対日宣戦を布告するであろう」

 11月11日 ルーズベルトは、対日戦準備完了までの時間が確保して欲しいとの陸海軍の要請に従って、日本との開戦を三ヶ月先に延ばす為に暫定協定案をまとめた。

「1)合衆国は経済的関係を再会する─現時点では多少の石油と米─後日、拡大する。

 2)日本はインドシナ、満州国境、南部(蘭印・英領・シャム)の何処にもこれ以上部隊を派遣しない。

 3)日本は合衆国がヨーロッパで参戦しても、三国同盟を行使しない事に同意する。

 4)合衆国はジャップを中国と引き合わせ、話し合いを持たせる。ただし、合衆国は両者の協議に一切、加わらない。」

 中国は、一刻も早く日米全面戦争を開始させるべく、開戦を先延ばしにしようとする暫定協定案に、発狂したが如く猛反対した。

 アメリカもイギリスも、中国人の精神病患者の様な猛抗議に辟易として暫定協定案を断念した。

 東條首相や東郷外相等は、日米全面戦争を回避する可能性があれば、暫定協定案を受け入れる用意はあった。

 ノックス海軍長官とウェルズ国務次官は、国民に、太平洋で最悪の危機が訪れようとしていると警告を発表した。

 11月12日 東郷外相は、クレーギー駐日イギリス大使にも日米交渉への協力を要請した。

 クレーギーは、戦争を回避する為に早速ロンドンに報告した。

 イギリス外務省は、アメリカの参戦を画策するイギリスにとって日米交渉には関心はなかった。日本寄りのクレーギーにいたく失望し、交渉はアメリカに任せてあると回答した。

 アメリカ海軍作戦部暗号解読班(OPー20ーG)のローレンス・サフォード大佐は、ルーズベルトに日本側の暗号電文を全て提出した。

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 11月13日 野村大使は、甲号におけるアメリカ側の反応を東京に伝えた。

 東郷外相は、乙案をアメリカが受け入れやすい様に修正する事を訓令した。

 11月14日 ハル国務長官は、東郷茂徳外相が野村吉三郎と来栖三郎両大使に電送した日本暫定協定案・乙案を、マジック電で日本側の最終案であり、これ以降は開戦しかない事を自覚した。

 東條総理は、南部仏印及び華北以南からの撤退と自動参戦権がない事の表明で三国同盟からの実質離脱という提案で、アメリカ軍の蘭印進駐を阻止し対米戦を回避出来ると判断していた。もし日本提案を受け入れれば、東南アジアにおける対枢軸勢力の後退と共に円経済・金融圏が拡大し、各地の民族独立ナショナリズム運動を煽り植民地を西洋から無秩序的に独立させる恐れがあると警戒した。

 ルーズベルトは、「極東で戦争が起きそうか」との質問に「ノー」と答えたが、「日本との戦争は避けられるか」との質問には現時点では軽率な返答はできないと答えた。


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GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜

GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜

2017-11-03

♯:32─1─東條英機は、戦争回避内閣を組閣し、憲兵隊を使って開戦派・好戦派そして右翼を監視した。1941年10月17日〜No.184〜No.185No.186@        

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗ 

   ・   ・   ・   

 日本軍部は、ユダヤ人の陰謀を警戒し国内のフリーメイソンを弾圧した。

   ・   ・   ・   

 権力の本質とは、人事権と予算配分権である。

   ・   ・   ・   

 西園寺公望「軍服をまとった政治家ほど、愚劣な政治家だよ」

   ・   ・   ・   

 ソ連軍は、日本との戦争が回避されたと分かるや、シベリアの極東軍100万人の内75万人を対独戦に投入した。

 ドイツ軍の敗北とナチス・ドイツの滅亡は、軍国日本の裏切りで始まった。

   ・   ・   ・   

 『フーバー回想録』「近衛が提案した条件は、満州の返還を除く全てのアメリカの目的を達成するものであった。しかも、満州の返還ですら、交渉して議論する余地を残していた。皮肉に考える人は、ルーズベルトは、この重要ではない問題をきっかけにして自分の側でもっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシアに与えようとしたのではないかと考えることになるだろう」

   ・   ・   ・   

 近衛文麿は、日米戦争を回避する為に努力したが、戦争を望んでいたルーズベルトの謀略にはめられた。

 第一級戦犯として告発された為に、自殺した。

 戦争を望んだアメリカ人によって、いいように操られた哀れな人間であった。

 「戦争に私は自信がない。自信がある人にやってもわねばならない」

   ・   ・   ・   

 近衛前首相は、昭和天皇に、アメリカとの戦争を回避する為には非戦論者の東久邇宮稔彦を次期首相にするべきであると内奏した。

 東條前陸相も、軍部内主戦派を押さえて戦争を避けるには皇族内閣以外にないとして、東久邇宮首相案に賛成した。

 木戸内大臣は、戦争を回避する為に東久邇宮稔彦を首相とする皇族内閣を組閣しても、万が一にも戦争となれば、開戦責任が問題となる。皇族が戦争責任を問われると、累が皇室に及び、皇室の安泰が脅かされる恐れがあると危惧した。

 木戸内大臣は、次期首相に非戦論者の東久邇宮ではなく、建前強硬派・本心非戦派の東條英機を推薦した。

 近衛文麿も、皇室を守る為に木戸の意見に賛成し、強硬意見を主張しても内心は開戦反対の東條英機を首班にする事で意見が一致した。

 昭和天皇は、木戸と近衛の東條英機を後継首班とする奏上を裁可し、東條英機による戦争回避に期待をかけた。

 「東條ほど朕の意見を直ちに実行した者はいない」

 「戦争の暗礁に乗り上げさせたのは近衛で、東條の最後の努力を以てしても離礁させる事ができなかった」

 だが、戦争が避けられないとなれば、国家元首として臆病風に吹かれて逃げる事なく、大元帥として毅然に参戦を宣言する決意であった。

 東條英機は、固辞したが、大命とあれば断り切れず、外交努力に打ち込む為に「白紙還元」を求めた。

 昭和天皇は、戦争回避の為に、異例の処置として御前会議決定の「白紙還元」を裁可した。

 昭和天皇は、及川元海相に、海軍としても東條英樹に協力する様に依頼した。

 東條英機は、参内し、顔面蒼白となって首相の大命を拝受した。

 木戸内大臣は、昭和天皇の「対米英戦の回避性につとめよ」という意向を東條に伝えた。

 アメリカが、対日戦を決断して一切の妥協を拒絶していた以上は、誰が首相になっても日米戦争という結果は同じであった。

 東久邇宮を首相にしなかった事は、賢明な選択であった。

 アメリカ国務省の基本的対日政策「日本はなお、日中戦争の仲裁を、アメリカに懇願しているものと了解される。もちろん日本が、中国を満州化しようとする条件を下ろす事はない。アメリカは、‘本の対中国計画を挫折させ、▲劵肇蕁爾戦争を続けている間は日本の軍事力を中国大陸に釘付けにしておくべきである。従って、仲介を拒否して対中国援助拡大・対日禁輸を継続するか、あるいは日本が拒否する事が明らかな条件で仲裁すべきである」

   ・   ・   ・   

 日本政府は、対米交渉と同時に対米英戦争に備え、勅令によって兵役法を改正して27歳まであった徴兵猶予を24歳(医学部は25歳)に短縮した。

 卒業時期も、41年度は12月とし、42年以降は9月に繰り上げとした。

 日本国内の情報は、細大漏らさずアメリカに伝えられていた。

   ・   ・   ・   

 陸軍の軍人官僚エリートの大半は、日中戦争が解決していない現状において、新たに対米英蘭戦争を始める事には反対であった。

 だが、 参謀本部作戦部長の田中新一、作戦課長の服部卓四郎、作戦課兵站班長の辻政信は、強硬派として陸軍を開戦へと引っ張っていた。

 辻政信「アメリカを怖がる事はない。3〜4年も戦争を続ければ戦争を止める。アメリカは婦人優先の国だ。戦争が長引けば、婦人の口から停戦の声が上がる」

   ・   ・   ・   

 10月17日 アイスランド沖で。アメリカ海軍のカーリー号が、パトロール任務中にドイツ海軍潜水艦の魚雷攻撃を受けた。

 ルーズベルトは、対独戦参戦の口実にする為にドイツ軍を挑発して攻撃を誘い、ヤラセを常套手段として情報操作を行い世論を誘導しようとしていた。

 国民世論の8割近くが、参戦反対であった。

 議会も、孤立主義者が大勢を占めて参戦に反対していた。

 大統領には宣戦布告の権限がない為に、ルーズベルトには参戦する為の口実が必要であった。

 日本海軍は、9月4日のグリーア号事件と今回の事件から、米西戦争のメーン号事件と第一次世界大戦のルシタニア号事件の事例を思い出し、アメリカの本心は参戦にあると分析していた。

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 東條英機は、陸軍士官学校での成績は50人中42位であった。

 憲兵とは、軍隊内の法の番人として、国内や戦地で軍隊、軍人、軍属が明治憲法から陸海軍刑法、国防保安法など全ての法律に違反し犯罪を犯していないかを取り締まっていた。

 戦場では、占領地の治安維持、住民の宣撫工作と情報収集、敵軍スパイの取り締まり、戦場の後始末、敵軍の情報収集などで、占領地の言語を自由に話せる事が必修とされた。 つまり、語学堪能者でなければ憲兵には慣れなかった。

 平時に置ける憲兵の職務は、軍事に関する犯罪を取り締まる軍事司法警察と軍機保護及び漏洩防止などの軍事行政警察の二つであった。

 その対象は、あくまでも軍人や軍属であって民間人ではなかったが、重大案件の場合には民間人をも加えた。

 憲兵隊は、特高警察同様に、暴力革命を起こして天皇制度を破壊し日本を共産主義国家に改造しようと陰謀を企むマルクス主義者を厳しく取り締まった。

 東条英機首相は、開戦前は戦争回避する為に好戦派や右翼を、開戦後は戦争貫徹を妨害する和平派や自分を批判する者を、それぞれ憲兵を使って取り締まった。

   ・   ・   ・   

 10月18日 東條英機内閣成立。開戦内閣の全閣僚は、戦争を始めた「平和に対する罪」及び「人道に対する罪」でA級戦犯に指名され有罪判決を受けた。

 東條英機首相は、日米戦回避の為に、対米英協調派の朝鮮系日本人で或る東郷茂徳に外相就任を依頼した

 東郷茂徳は、和平交渉に軍部が横やりを入れない事を条件として引き受けた。

 東條英機首相は、これまで陸軍が自分に都合の良い政策をゴリ押しする為に時の内閣に干渉した事を反省し、主戦派を抑えて外交交渉を成功させる為に陸相を兼務した。さらに、対米参戦を望む右翼を取り締まり暴動を抑える為に内務大臣も兼務した。

 昭和天皇は、戦争回避の最後の望みを強硬派の東條英機大将に託し、9月6日の御前会議の「10月中旬までに対米交渉解決の目処ない場合は対米宣戦」決定を破棄する「白紙還元の御諚」を伝えた。

 昭和天皇は、第一次世界大戦の惨劇を視察してきただけに、最後の最後まで日本の破滅につながる恐れのあるアメリカとの戦争を回避する事を望んでいた。

 東條英機首相も、天皇の平和への希望にそう為に、仏印や中国からの撤兵など譲歩できる限りの譲歩をして対米戦を避けるべく努力を開始した。もし、和平成立した際に逆上した開戦派将校団や右翼がクーデターを起こさない様に内務大臣を兼務した。

 日本が本当にアメリカと戦争できるのかどうかを明らかにする為に、企画院総裁鈴木貞一に「物的国力の規模」を試算するように指示した。 

 東郷茂徳(朝鮮系日本人)は、和平交渉の成立を条件に新たな外相に就任した。東郷は、松岡洋右同様にキリスト教徒であり、東郷夫人はユダヤ人である。日本は、是が非でもアメリカとの絶望的破滅戦争を回避したかった。

 陸軍強硬派や右翼・右派の戦争賛成派やマルクス主義の革新官僚達は、和平工作に奔走する東條英機首相や武藤章軍務局長や木村兵太郎陸軍次官らを裏切り者と罵倒した。

 軍部の主戦派は、避戦外交を進めようとする東條首相を裏切り者と罵ったが、

 だが、内閣を倒閣しようにも東條英機首相が陸相を兼務していてゃ手も足も出せなかった。

 東條英機首相は、昭和天皇の聖慮が非戦で和平にある以上、軍部内の圧力に屈する事なく外交的話し合いを貫いた。 

 開戦時の指導者のほとんどが、日本はアメリカには勝てないと自覚していた。

 東郷外相は、東條内閣が主戦ではなく非戦である事をアメリカに伝えるべく、貴族院議員である樺山愛輔伯爵を密使としてグルー大使に送った。

 樺山愛輔伯爵は、昭和天皇が平和を切望し、東條英機首相が軍部を統制して外交努力をしている事を伝え、陸海軍がアメリカの要求を受け入れられない事情を説明した。

 グルー大使は、ワシントンに対して「天皇は初めて直接的に政治形成にかかわり、アメリカとの合意を望んでいる。今こそ日米交渉を平和裡にまとめる好機と考える」との報告電文を送った。

 日本側は、アメリカ大使館の暗号電文を傍受し、日本の真意が伝えられた事を確認した。

 ルーズベルトは、日本が戦争回避の為の最後の努力に入った事を確認し、その望みがない事を報せ、絶望して戦争を仕掛けて来るように追い詰める為の謀略を続けた。アメリカ軍に、対日戦準備を急がせた。

 「この戦争のカギは太平洋にある」

 アメリカ軍は、中国軍機に偽装した大型爆撃機の大編隊で、宣戦布告前に日本本土を無差別爆撃する「JBー355計画」を準備していた。中国大陸に必要量の爆撃機B−17を配備し終える、42年3月まで日米交渉を継続する様に希望した。

 現代の日本人は、ドイツ軍がモスクワ攻略に失敗する42年春まで、開戦を思い止まるべきであったと言う。それは、歴史が理解できない無知な見解である。

 アメリカは、対独戦に参戦する為に日本との開戦を早い時期に決定し、日米交渉を戦争準備の隠れ蓑にしていた。

 日米戦争は、「自由と民主主義」の世界新秩序建設という平和政策から、避けられない運命にあった。

 日米戦を仕組んだのは、アメリカのユダヤ人資本家とソ連のユダヤ人共産主義者であった。

 マーシャル参謀総長は、ドイツが片付くまで太平洋は守勢に徹するべきで、日本への最後通牒を出すまで交渉を延ばす事を希望した。

 ルーズベルトは、どうしても避けられないのならばやるしかないと答えた。

    ・   ・   ・   

 福留繁「開戦時の海軍大臣嶋田繁太郎大将は、何とかしてアメリカに対してだけは、受け身で起つ工夫はあるまいか、すなわち英及び蘭に対して開戦を宣し、アメリカに対しては彼から開戦し来ったときに初めて武力行動に出るゆき方はないものか、と彼れ自身でも腐心し、軍令部にも研究を要求するところがあった。このことは、嶋田海軍大臣が特に強敵アメリカに対して、大義名分を考慮したからであろう。若し嶋田海軍大臣のいう通りにできたなら、『パール・ハーバーを忘れるな』といったあのアメリカのスローガンは生まれなかったであろうし……」(『海軍の反省』)

    ・   ・   ・   

 10月20日 ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、ホワイト・ハウスのリークで「勝利の計画」を報道した。

 10月21日 東郷外相は、ワシントンの野村大使に日米和平交渉の継続と日米了解案へのアメリカ側対案を求めるよう訓令した。

 グルー大使は、東郷外相に、アメリカは野村大使との会談は事務的会談であって正式な外交交渉とは見なしていないと伝えた。

 蒋介石は、ワシントンに、11月15日ごろ日本軍がタイで攻勢に出る計画があると知らせた。

   ・   ・   ・   

 10月23日 東条英機首相は、対米戦争を避ける外交交渉を進めるに当たって、主要閣僚(嶋田繁太郎海相・東郷茂徳外相・賀屋興宣蔵相)を交えて項目再検討会議を開いた。

 赤松貞雄「東條さんはその後しきりに『天子様は』という語を用いるようになりました。私は総理大臣であり、単に陸軍の代表者ではない、したがってこれからは外交交渉にも力をいれる。と気負った表情でした。陸軍省の軍務局ではこれまでと同様に大臣にはこういう人物がふさわしいといったリストを作成して、首相になるべき人物にわたすわけですが、東條さんは逆にこのリストを受けとりませんでしたね。

 東條さんさんは負けず嫌いの人でした。項目再検討会議に出席する前は『陛下のお気持ちに沿って』と純粋でした。しかし実際にその席で他の閣僚や将校と話し合う段になると、持ち前の強さが前面に出てきて、アメリカなにするものぞ、という考えにとりつかれるのです。実際に東條さんは項目再検討会議を始めると、東條さんは裏切り者との声が陸軍省の内と外で出てきます。大本営の参謀はそういう声の中心にいました」

 憲兵隊は、対米戦開戦派の将校や右翼による東条英機首相暗殺を警戒し警護を強化した。

 東郷外相と賀屋蔵相ら避戦派は、東條首相の了承を得て、大本営政府連絡会議などで対米戦は不可であると主張し、開戦派と大激論を交わし始めた。

 企画院は、「このまま時局が推移すれば、石油の備蓄は2年間で底をつく」と報告した。

 避戦派は、企画院報告をもとに開戦派を問い詰めた。

 10月25日 ブラット提督は、野村大使に「最後の希望は天皇と大統領しかない」と告げた。

 10月27日 海軍記念日の晩餐会で。ルーズベルトは、極秘で入手したとして、偽造された世界地図を公表し、ヒトラーの世界征服の隠謀を訴えた。

 ナチス・ドイツは、アメリカとの戦争を望んでいなかった為に、地図は捏造であると否定して、アメリカに抗議した。

 だが、アメリカの新聞やラジオは意図的にナチス・ドイツの反論を報道しなかった。

 ルーズベルト「私はペテン師で、言葉と行動を一致させた事がない。それどころか、戦争を引き起こすなら、人を欺くことも、嘘を伝える事も私はまったく厭わない」

 10月29日 鈴木企画院総裁は、東郷外相や賀屋蔵相ら戦争回避派に突き上げられ、開戦派の軍部から強い要請を受けて、南方作戦遂行の場合における「石油需給のバランス試算表」を提出した。

 鈴木総裁は、部下が集めてきた根拠の薄い数値を元に戦争が可能なように辻褄を合わせて報告書をまとめた。

 これは、意図的に捏造された嘘であった。

 東條英機首相は、昭和天皇の和平成立の希望を叶えるべく、戦争は不可能という数字をださせるべく鈴木総裁に再試算を求めた。

 開戦派の永野修身軍令部総長は、3年間は戦争を継続できると主張したが、アメリカに勝てるとは確約しなかった。

 10月30日 東条首相は、大本営政府連絡会議で三案を提示し、9月6日の御前会議決定を白紙還元する国策遂行要領の再検討を開始した。

「1)戦争を避け、最後まで現状で行く臥薪嘗胆する

 2)直ちに開戦を決意し、政戦略の全てをこれに集中する。

 3)外交交渉を続けるも、やむを得ざる場合は開戦とする。」

 トムゼン参事官は、ロヴェル弁護士に「アメリカは新年を待たずに私達と外交関係を絶つだろう」と伝えた。

 10月31日 駆逐艦ルーベン・ジェームズ号は、3月からイギリス向け物資の保護を目的として設立された船団護衛部隊に加わり、10月23日にニューファンドランドのアージェンティア海軍基地から、船団護衛の為に他の駆逐艦4隻と共に出港した。

 ルーベン・ジェームズ号は、ドイツ潜水艦Uボートに攻撃されて沈没し、艦長エドワーズ少佐を含む115人が死亡し、44人が救出された。

 ルーベン・ジェームズ号は、第二次世界大戦において最初に撃沈されたアメリカ海軍艦艇であった。

 議会と国民世論は、ルーベン・ジェームス号撃沈の知らせを受けても参戦には反対であった。

 ルーズベルトは、参戦するべく、ドイツ軍を挑発してアメリカ海軍艦艇を攻撃させ、犠牲者を出していたが、全て失敗に終わっていた。

 残る参戦手段は、軍国日本を挑発して攻撃を誘うしかなかった。

 軍国日本には、この罠から逃れるすべがなかった。

 10月末 軍令部第四課は、第一次世界大戦時にドイツ潜水艦の攻撃で撃沈された米英輸送船団の喪失船舶数を参考数値として提出した。

   ・   ・   ・   

 日米戦争の原因は、アメリカのルーズベルトではなく、ソ連のスターリンと中国共産党の毛沢東にあった。

 日米戦争を計画したのは、レーニンであった。

 日本共産党は、コミンテルンの「ソ連と中国共産党を救うべし」との指令に従って行動した。

 日本政府内のエリート革新官僚や日本軍部内のエリート軍人官僚で共産主義に共鳴する隠れマルクス主義者等は、ソ連攻撃の北進ではなく、アメリカとの戦争の為に南進へと誘導していた。

   ・   ・   ・   

 最大の原因は、日本人が支那人を日本人同様に信じ切った事にある。

 第1回南京事件以降、中国で命の危険を感じたら全財産を捨てて身一つで日本に逃げ帰れば良かったのである。

 なまじ数十年間かけて、死に物狂いで苦労して築き上げた商売とひもじさに堪え贅沢せずにあくせくと貯めた私財を、中国に命を賭けて守ろうとした事が日米戦争を引き起こした。

 支那人を友人として信じた日本人が、愚かで馬鹿であったのである。

 歴史を教訓とするなら、日本の歴史で中国に関わらなかった時の方が日本は平和で幸せであった。

 強欲にも、中国で支那人と利益を共有しながら金儲けしようとした事が日本に戦争を引き寄せた。

   ・   ・   ・

 日米戦争の真の原因は、日本が中国と国交を回復した事にある。

 中国の対しては敬して遠ざけ、支那人に対しては友情を持たず親密に近づかない事である。

 その歴史的教訓を忘れた事が、戦前の日本人の失敗である。

   ・   ・   ・   

 問題は、中国と支那人であってアメリカとアメリカ人ではなかった。

 ルーズベルトは、アメリカをより良い方向へ導く大統領として国益を考え、その判断で日本との戦争を決断したのであって、ルーズベルトには罪はない。

 アメリカが戦争に参戦しなければ、ヨーロッパのユダヤ人約1,000万人がヒットラーによって一人残らず根絶やしにされた。

 アメリカの参戦は、ユダヤ人をホロコーストから救出する為の「正しい戦争」「正義の戦争」であった。

   ・   ・   ・  

 日本にとって最大の不幸は、隣りに血に飢えた残忍にして凶悪な中国=中国共産党とソ連=ロシアが、日本で暴力的共産主義革命を起こし、天皇制度を廃絶させ、日本神道などの宗教を消滅させ、共産主義に賛同しない日本人を虐殺しようと陰謀を企んでいた事である。

   ・   ・   ・   

 ソ連のレーニンもスターリンも、共産主義の大義で自国民を大虐殺した。

   ・   ・   ・   

 中国共産党の毛沢東は、人類の歴史上、最高数字の自国民を大虐殺したが正確な人数は不明である。

 日本に不幸をもたらした元凶で今も残っているのが、中国共産党である。

 中国共産党は、本心から日本との友好関係などは望まず、中国の国益ではなく、中国共産党(党員約8,000万人)の党益しか考えてはいない。

 つまり、中国の面子という中国共産党の党益の為には、日本の国益はもちろん日本人の権利などは平然と踏みにじりゴミとして捨て去る。

   ・   ・   ・   

 中国共産党と中国人とは、区別して考える必要がある。

 同時に、中国人の中に支那人気質が強い者は、日本人とは相容れない異質な者である以上要注意である。

   ・   ・   ・   

 軍国日本の真の敵は、国體・天皇制度を廃絶し、日本で暴力的共産主義革命を行い大虐殺を行おうとしたソ連や中国共産党などの共産主義者であって、アメリカやイギリスではなかった。



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2017-11-02

♯:31─8─日米戦争を不可避としたのは、ファシスト中国であり、アメリカとイギリス、そしてソ連と中国共産党であった。1941年10月〜No.182No.183@         

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 ルーズベルトが、軍国日本との戦争を決断した背景には、如何なる戦闘機に襲われても決して撃墜されないというスーパー爆撃機・「空飛ぶ要塞」と呼ばれたB17重爆撃機が完成していたからである。

 その戦略は、日本軍に第一弾を国外のアメリカ支配地に撃たせ、その報復としてB17の編隊で日本本土を空爆して焦土と化して降伏させる、と言うものであった。

 対独戦参戦のみを主張する有識者は、軍国日本への威嚇として、B17編隊によるマニラーウラジオストック間を往復飛行させる案を提示した。

 反日派のルーズベルトは、ファシスト中国・蒋介石の窮地を救う為には軍国日本との戦争は決行する必要があり、軍国日本がB17編隊に恐れをなして開戦を断念しては元も子もないとして却下した。

 だが。空飛ぶ要塞と自慢していたB17は、零戦によって呆気なく撃墜された。

 アメリカは、B17に代わる超重爆撃機B29の開発に取りかかり、撃墜される危険性のない欧州線線に配置した。

 零戦に対抗できる戦闘機や爆撃機が完成するまでの3年間は、太平洋の制空権は日本海軍が支配した。

 ルーズベルトとアメリカ軍の対日楽勝戦略は、誤った情報と判断で最初から失敗していた。

 軍国日本は、最新兵器である航空機において最先端科学技術と精密精巧な生産能力で世界のトップに立ち、大空を支配していた。

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 秋 満州の関東軍憲兵隊は、共産主義者が革命を計画しているとして、農協運動をしていた日本人50名以上を逮捕した。事件は冤罪であったが、憲兵隊は虚偽の証拠をもとにして思想弾圧を行った。治安維持法によって、5名が無期刑となり獄死した。

 戦時統制として、雑誌や新聞における報道は規制され、天皇制打倒を主張する共産主義者や戦争反対を唱える宗教家(主にキリスト教徒)への弾圧は強化された。体制は、人々の自由を奪った。

 昭和天皇は、バチカンと接触して教皇ピウス12世に450万ドルを預け、ローマのバチカン銀行とポルトガルとスペインなどの銀行に皇室財産の一部を預けた。

 豊田外相は、東京の駐日イギリス大使ロバート・クレイギー卿に日米首脳会談実現への協力を要請した。

 クレイギー大使は、協力要請を承諾した。日本側が求める平和会談について、グルー大使と会談し、そしてロンドンのイーデン外相とワシントンのハリファックス卿に日本側の平和に対する希望を伝えた。 

 ルーズベルトは、マクルーダー少将を団長とする使節団を重慶に派遣したが、ナチス・ドイツを先に攻撃し軍国日本をその後にする為に、中国軍と共同で日本軍を攻撃するという話を持ち出さなかった。

   ・   ・   ・   

 汪兆銘政権内の李士群は、自分の秘書である関露が中国共産党のスパイである事を見破ったが、蒋介石・重慶政権の機密情報を提供する代わりに中国共産党の仲介を申し込んだ。

 中国共産党は、関露に対して、日本海軍情報部が上海における情報活動の隠れ蓑に使っている婦人雑誌月刊『女声』に潜入する様に指示した。

 関露は、満鉄上海事務所の中西功の紹介で同雑誌に入社し、日本の金を使って中国共産党の宣伝文や反日記事を雑誌に紛れ込ませていた。

 中国共産党の反日宣伝工作は、単細胞的な日本人では理解できないほどに巧みであった。

 反日的日本人は、何時の時代にも存在し、中国共産党やソ連・共産主義勢力に荷担していた。

 後に。中西功は、中共諜報団事件で逮捕された。

   ・   ・   ・   

 反日派のドイツ保守派とドイツ軍は、同盟国の軍国日本に隠れてファシスト中国への軍事支援を続けていた。

 ヒトラーは、軍国日本と戦っているファシスト中国への軍需物資の輸出を知っていたが、黙認していた。

 ヒトラーも、反日派として日本人を嫌い、親中国派として中国人を信用していた。

 ドイツ人は、キリスト教徒の蒋介石に親近感を持ち、異教徒の昭和天皇を嫌悪していた。

 反日派のナチス・ドイツが、嫌っていた軍国日本と三国同盟を結んだのは対ソ戦略の為であった。

   ・   ・   ・   

 10月 支那派遣軍及び北支那方面軍の現地軍は、これ以上の戦線拡大は不利であると判断して、中国からの撤兵に賛成する旨を、陸軍中央と海軍側に連絡した。

 軍部は、これ以上の軍隊の暴走は無意味であり、破滅につながると憂慮した。

 陸軍内部でも、対米戦の計画を立てていなかった為に、大陸からの撤兵はやむなしと判断した。対米戦の主役は海軍であるから、海軍に対米戦は自信がないと明言すべきであるとして、責任を海軍に押し付けた。

 海軍は、陸軍への面子から、対米戦はできないと明言する事を避けて、責任を近衛首相に負わせようとした。

 ゾルゲは、日本海軍の極秘計画である真珠湾奇襲作戦情報を協力者から入手し、モスクワに伝えた。「日本は、60日以内にパール・ハーバーを攻撃するつもりだ」

 ソ連は、「真珠湾攻撃」の情報をアメリカに知らせた。

 アメリカが同情報をどうしたかは不明であり、真珠湾に警告を発した形跡はない。

 シオボールド少将「ゾルゲの自白のある部分が、ペンタゴンのファイルから削除されていた」

 イッキーズ内務長官「これまでも今も、参戦に至る一番の道は日本を利用する事だと思っています」(ルーズベルト大統領への書簡)

 日米戦争を欲していたのは、日本ではなく、中国であり、アメリカとイギリスであった。一番望んでいたのが、ソ連であった。

 共産主義者は、日米全面戦争が起きる様に日本国内の協力者に指示を与えていた。

 ナチス・ドイツは、第一次世界大戦の敗戦を教訓として、アメリカの参戦を阻止するべく挑発的軍事行動の誘いに乗らないように全軍に命じていた。

 ヒトラーは、むしろソ連・共産主義勢力を殲滅する為にアメリカとの同盟を望んでいた。

 コリアーズ誌は、日本人移民の一世と二世の中で日本に親しみを持つ者は当局の監視下にあると報道した。

 アメリカ軍情報機関は、日系アメリカ人の大半がアメリカ国家に忠誠を誓い、誓わない者はFBIと協力して厳しく監視していると報告した。

 日系アメリカ人は完全に同化し、軍国日本に協力してスパイ活動や破壊工作、反米暴動を起こす心配はないと、分析していた。 

 アメリカ軍には、数千人の日系アメリカ人兵士が存在していた。

 日系アメリカ人の大半が、日本語を話せなかったし、日本語を読む事も書く事も出来なかった。

 イタリア軍は、アルバニアとギリシアに侵攻した。

 10月2日 ハル国務長官は、野村大使に、首脳会談を行う最低条件として、4原則の確認と仏印、中国から撤兵を求める覚え書きを渡した。

「日本は自己の敗北と支那の勝利を認め、満州・支那・仏印におけるこれまでの地歩を徹底的に放棄する事。三国同盟についても、従来日本がほのめかしてきた暗黙の骨抜きとアメリカの大西洋武力介入黙認だけでは不十分である。日独同盟を真っ正面から解消する事」

 4月以降続けていたはずの日米交渉は、アメリカの不動的な原理原則論で一歩も進展していなかった。

 日本が行ってきた説明は、この原則論によって完全に無視され、全てが否定された。

 日米予備交渉は、アメリカ側の成立させようという意思のなさゆえに、だらだらと本交渉にはいれないままに続けられていた。

 軍部は、近衛首相に対して、10月15日を外交交渉の期限とするように迫った。

 アメリカ軍は、大統領の決断に従って参戦準備を行っていたが、準備完了までの時間が稼ぎとして日米交渉を引き延ばす事を望んでいた。

 アメリカは、対日戦の為に総動員を行っていた。

 10月3日 豊田外相は、野村大使に、平和回復を目的とした首脳会談実現の為にイギリスに協力を求めた事を伝えた。

 昭和天皇は、平和回復の為に、首脳会談で合意した協定に直接裁可を与え、好戦的な軍部や議会内右翼勢力の横やりを排除する事に同意していた。

 軍部は、アメリカの首脳会談拒否回答を知るや、近衛首相に10月15日を外交交渉の期限とする様に迫った。

 10月9日 前軍令部総長の伏見宮は、昭和天皇に拝謁し、事ここに到ってはアメリカとの戦争は避けられない以上は戦争を早く始めた方が有利であから御前会議を開催する事を言上した。そして、開戦を決断しなければ陸軍に叛乱が起きる危険があると述べた。

 昭和天皇は、「結局一戦は避けられないかも知れないが、今はその時期ではなく、なおも外交交渉によって尽くすべき手段をとりたい」として、開戦の為の御前会議開催には不賛成であると述べた。

 伏見宮は、未だに昭和天皇が平和を望み米英との戦争に消極的である事を知るや、主戦論を控え、開戦の御前会議開催を求めた言上を取り下げた。

 東京の外務省は、海軍の要請を受け、ハワイ総領事館に暗号通信を送った。真珠湾を座標格子で5つに分け、アメリカ海軍艦艇の停泊情況を報告する様に求めた。

 アメリカ軍側は、同暗号電文を傍受して、日本海軍が真珠湾の停泊情報を得ようとしている事を掴んでいた。

 チャールズ・ウィロビー「アメリカの兵力の位置に合わせ、湾内を座標軸で示す事は精密標準点を定める古典的手法であり、あの場合、軍艦が標的に早変わりしたという事だ」

 軍部の好戦派と中央官庁の革新官僚は、国益を守る為にはアメリカとの戦争をぞさないと右派系報道機関に漏らしていた。

 10月10日 豊田貞次郎外相は、グルー駐日米国大使に対して、日米首脳会談に対するアメリカ側の進捗状況を確かめた。

 グルー大使は、ワシントンからの詳しい報告を得ていなかった為に、個人としては首脳会談に賛成であったが、確答できなかった。

 宮城与徳は、逮捕された。

 ホワイト・ハウスは、東京のアメリカ大使館に必要最小限の情報を流したが、重要な決定事項を伝えなかった。

 10月12日 萩外荘会談。近衛首相は、強硬に主戦論を主張する東條陸相の言葉の中に非戦的意が含まれているとの感触を得ていた。

 東條英機は、昭和天皇に対する忠誠心が誰よりも強いだけに、昭和天皇の戦争回避の希望を叶えたいと思いながら、陸軍大臣の職責からあえて主戦論を唱えていた。アメリカと戦う海軍が「戦争不可」と言えば、その発言で陸軍をまとめようという心づもりはしていた。

 だが、海軍は、決断を近衛首相に預けて逃げた。

 日本海軍は、国益や国民の人命より組織防衛を優先し、戦争すべきかどうかは基本的には政治問題である以上、政治的決断は近衛首相一人が決断する事であるとして責任を回避した。

 及川古志郎「無敵艦隊を呼号してきた海軍が、アメリカとは戦ができないから譲歩しろとは、いまさら言えないではないか。弱腰の非難を海軍が一手に引き受けるのはたまらんじゃないか。外部にも内部にも海軍の立場を失ってしまう」

 日本の真の悲劇は、国家の命運や国民の命よりも、官僚組織の防衛と利権絡みの省益を最優先にするエリート官僚の無責任体質にあった。

 陸軍も海軍も、その組織を支配していたのは現場主義の軍令ではなく予算を司っていた軍政であり、その中枢にいたのが海軍大学や陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリート軍人官僚達であった。

 破滅的対米英戦争を回避したいとうい宮中・陸軍・海軍・政府などの非戦派の努力は、個人的に責任を取りたくないという指導者の逃げ腰で徒労に終わった。

 何時の時代でも。日本の官僚達は、そこにある避けては通れない重大な危機を、個人の責任を問わない無責任体質で、その場しのぎの非決定と問題先送りで日本を不幸に追い込んで行った。

 将来に対する想像力が欠如した日本人官僚が、組織防衛の為に日本に一大悲劇をもたらし、予算獲得にともなう省益を守る為に数百万人を無駄死にさせた。

 日本軍人は、ナチ党の党員でも、ファシスト党の党員でもなく、官僚の一部である。

 10月14日午後 陸軍省の武藤章軍務局長は、東條陸相の密命をおびて、海軍省の岡敬純軍務局長に会って「海軍は和戦について『総理一任』と言っているが、これでは陸軍部内は抑えきれない。なんとか『海軍としては戦争を欲せず』と公式に陸軍に言ってくれないか」と要請した。

 だが。岡軍務局長は、海軍としては「『総理一任』と言うのが精一杯」と返答した。 

 夜 企画院総裁鈴木貞一は、近衛首相を訪れて、東條英機の伝言を伝えた。

 「海相は戦争を欲しないようだが、なぜそれをハッキリ言ってくれないのか。ハッキリ話があれば、自分としても考えなければならない。ところが、海相は『総理に一任する』と、全責任を総理に押し付けている。海軍の肚が決まらなければ、9月6日の御前会議は根本的に覆るのだから、この際、総辞職して新しい内閣で案を練り直すしかない」

 誰もが国力差を知っていただけに、アメリカと戦って勝てないことは分かっていたが、アメリカと戦う海軍が「戦えない」と明言しない限り、対米戦開戦を避けられないかった。

 陸軍としても、これまで強硬な発言を繰り返してきた手前、所管違いの対米戦に口を挟む事ができなかった。

 東條陸相は、海軍が「対米戦不可能」と明言すれば、陸軍は戦争回避を名目として中国からの撤退を考えると打ち明けた。もし、海軍が体面に拘って明言できなければ、先の御前会議を御破算にする為に総辞職するべきであると提案した。

 切羽詰まった状況下で、陸相が単独辞表を出して近衛内閣を瓦解させて事態を悪化させる事は、昭和天皇にいらざる心労をかけるとして避けた。

 陸軍も、また体面に拘った。

 東條英機は、主戦派の軍部を抑えるには皇族を後継首班にするしかないとして東久邇宮稔彦を推薦した。

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 10月15日 ゾルゲ事件。特高警察は、日本国内からソ連に発信されている無線電波を丹念に調べて、ゾルゲを突き止めた。

 ソ連のスパイであるゾルゲと元朝日記者尾崎秀実は、日本を共産主義化して天皇制度を廃止するべく暗躍していた。

 ゾルゲ等は、ソ連を救う為に、日本を北進させず南進させてアメリカと戦わせようとした。

 ソ連・コミンテルンは、日米全面戦争は避けられない段階に入ったとしてゾルゲ・グループを見捨てた。

 近衛文麿は、尾崎秀実をブレーンとして信頼し、その強硬意見に従って対中外交を展開していただけに衝撃を受け、平和を希望してきた昭和天皇の期待を裏切ってきた事に責任感を抱いて辞職を覚悟した。

 敗戦間際。近衛文麿は、昭和天皇の依頼を受け、ソ連に戦争終結の仲介を要請する条件にゾルゲや尾崎秀美を引き渡そうとした。

 ソ連・スターリンは、北海道・千島列島・北方領土・南樺太などを強奪する為に、日ソ中立条約を破棄して対日戦参戦を決断していただけに、ゾルゲと尾崎秀実の引き取りを拒否した。

 ソ連・共産主義勢力は、国際的な如何なる条約や協定も守ろうという意思はなかった。

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 10月中旬 日本外務省は、日蘭会商が暗礁に乗り上げているとして、交渉を一時停止して小林団長を日本に召還した。

 10月16日 近衛首相は、戦争回避の和平交渉を貫く事ができず総辞職した。

 マニラで。フィリピンのアメリカ高等弁務官フランシス・セイヤーは、戦争は近づき枢軸国は撃退されるだろうと語った。

 東京のオットー・トーリシャスは、ニューヨーク・タイムズ紙に、両国関係は「決定的に袂を分かつところに至りつつある」という日本海軍情報筋の話しを送った。

 上海の親日政権である南京政府の機関紙中華日報は、日米戦争は不可避であると報道した。

 誰が見ても、日米戦争が不可避の段階に至ってい事は明らかであった。


















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ビーアド『ルーズベルトの責任』を読む

ビーアド『ルーズベルトの責任』を読む

2017-11-01

♯:31─7─昭和天皇は、戦争を回避する為に、明治天皇の御製を詠み和平交渉成立を切望した。1941年9月〜No.180No.181@            

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 昭和天皇は、国家の平和と国民の安寧を切望し、対米英蘭戦争にも、日中戦争にも反対であった。

 最も恐れたのが、ソ連(ロシア)・コミンテルン・日本共産党など天皇制度打倒を掲げる共産主義勢力による日本侵略であった。

 軍国日本は、天皇制度を守る為に戦っていた。

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 9月頃より、太平洋艦隊司令部は、真珠湾防衛に必要とする偵察機の増派を要請していた。

 ワシントンの軍需物資割当委員会(ハリー・ホプキンズ)は、イギリスへの支援を優先して、太平洋艦隊に約束しても実行しなかった。

 海軍司令部は、太平洋艦隊の度重なる出港要請を許可しなかった。

 ドイツのトムゼン参事官は、ニューヨークの弁護士マルコ・ロヴェルを通じてCOI(アメリカ情報調査局)長官ウィリアム・ドノヴァンと情報交換をしていた。

 ドノヴァンは、トムゼン情報をルーズベルトに報告し、ナチス・ドイツと軍国日本との戦争に備えて情報を収集していた。

 9月 軍部は、対米戦争もあり得る深刻な局面に突入した為に、の御前会議報道の中止を申し込んだ。

 政府は、軍部の圧力に屈して、国民の知る権利を奪った。

 国民は、国の進路がどうなり、自分達の運命がどうなるのか分からなかった。

 新聞各社は、政府や軍部の内部情報を得られない為に、政治家や軍人の間を飛び回って集められる限りの情報を集めて、検閲に引っ掛からない言葉で報道していた。

 フーバーFBI長官は、極東の調査官から、日本軍は真珠湾かフィリピンのクラークフィールドの何れか、あるいは両方を同時攻撃する可能誌があるという警告を受け取った。更に、別のルートからも同様の情報を入手した。

 ルーズベルトは、フーバー長官から日本軍情報を聞いた上で「この事は私以外の誰にも言うな」と釘を刺し、「知らせる必要のある人には私から話す」と話した。そして、ハワイのキンメル提督やショート将軍に伝える必要はないと命じた。

 満州鉱業開発は、満鉄、満州石油、日本石油などの協力を得て47本の油井を掘削したが、遂に石油を得る事ができなかった。

 日本政府と軍部は、満州で石油を見つけ出す事を諦め、採掘を断念して掘削機を南方に運び始めた。

 戦後。満州各地で油田が発見された。

 9月3日 ホワイト・ハウスのスティーブン・アーリー大統領報道官は、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が報じた「太平洋上で、ルーズベルト=近衛直接会談予定」を公式に否定し、会談の為の招待状は届いていないと発表した。

 アメリカは、首脳会談を拒絶した。

 9月4日 アメリカ海軍省は、グリアー号事件を発表した。

 アメリカ海軍は、参戦する為にドイツ海軍を挑発していた。 

 昭和天皇は、杉山参謀総長と永野軍令部総長を召し、近衛首相の立ち会いのもとで、日米戦争を回避する事を希望して外交交渉を優先する様に求めた。

 明日の御前会議の案件について懸念を問い質すべく、近衛首相についで杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長をお召しになった。

 杉山参謀総長と永野軍令部総長は、戦争回避を願う昭和天皇の詰問に対して、統帥部は「外交を主とし、戦争を従とする」事と、外交が不成立となった時に改めて開戦の協議を為て決定すると奉答した。統帥部としても、戦争を好むものではなく、何がなんでも開戦を強行しようとしていない事を誓った。

 昭和天皇は、なをも日米戦争開戦への不安があったが、この日は両総長の説明で納得した。

 9月5日〜11月6日 日本軍約4万人は、湖南省省都長沙を守る中国軍30万人以上を攻撃した。

   ・   ・   ・   

 9月5日 近衛文麿首相は、単身で皇居に参内し、明日開かれる御前会議の内容を昭和天皇に説明した。

 昭和天皇は、外交と戦争準備とどちらに重きを置くのか確かめるべく、杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長を急遽、召された。

 杉山元「日本としては半年や一年の平和を得ても、続いて困難が来るのではいけないのであります。20年、50年の平和を求むべきであると考えます」

 昭和天皇は、苛立つように「ああ、わかった」と大声を発して不満を表明した。 

 永野軍令部総長は、大坂冬の陣での和議で勝てない状況に追い込まれ、夏の陣で豊臣家が滅ぼされた、戦史を述べ、日本は今まさにその状況に追い込まれつつあると説明した。

 絶対に勝てるとは確約できないが、座して死を待つよりは勝ちを信じて撃って出て日本の決意を示さしな、と。

 昭和天皇としては、戦争は避けたいが、やれるだけやって外交交渉が不調に終われば、自主独立国家の存続をかけて「開戦」もやむを得ないと覚悟した。

 昭和天皇は、無辜の国民の命を守る為に平和を切望していたが、国家元首の責任として自衛の為の「戦争」を放棄するつもりもなかった。

 戦争より平和を望んだが、短絡的に戦争を放棄する平和主義者ではなかった。

 軍国日本は、アメリカに追い詰められたとはいえ、負けるかも知れない事を知りながら、日本男児として和戦を主体的に決断した。

 昭和天皇は、専制君主として、単純な平和主義者でも反戦主義者でもなかった。

 英明な君主ゆえに、軍部に騙され、軍部に押し切られ、軍部の暴走を許したわけではない。

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 9月6日・7日 御前会議。

 原嘉道枢密院議長は、戦争回避を切望する昭和天皇に代わって、議案についても質問を行った。

 原議長「戦争が主で外交が従と見えるが、外交に努力をして万やむを得ない時に戦争をするものと解釈をする」と問い掛けた。

 及川海相「第一項の戦争準備と第二項の外交とは軽重なし。しこうして第三項の目途なき場合には戦争の決意まで行うのである。而し之を決意するのは廟議で允裁を戴く事となる」と返答した。

 原議長「本案は政府統帥部の連絡会議で定まりし事ゆえ、統帥部も海軍大臣の答えと信じて自分は安心致しました。……どうか本案の御裁定になったら首相の訪米使命に適するように、且つ日米最悪の事態を免るるよう御協力を願う」

 昭和天皇は、原議長の確認質問に対して及川海相のみが答えて、統帥部の杉山総長と永野総長が返答しなかった事に不満と不信を持ち、異例中の異例として突然発言した。

 「ただ今の原枢相の質問はまことに尤もと思う。これに対して統帥部が何ら答えないのは甚だ遺憾である」とて懐中から紙片を出して、明治天皇の御製を二度読み上げた。

 「四方の海みなはらからと思う世に などあだ波風のたちさわぐらむ」

 メモを持つ手は、緊張で震えていた。

 「朕は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと務めておるものである」

 昭和天皇は、御製を意図的に「荒波」を「あだ波」に替えたといわれている。

 出席者全員が緊張して沈黙し、会議は重苦しい空気に包まれたが、永野軍令部総長が昭和天皇の発言に答えた。

 「統帥部に対するお咎めは恐懼に堪えません、実は先程海軍大臣が答弁致しましたのは、政府、統帥部双方を代表したものと存じ独決しておりました次第であります。統帥部としても勿論海軍大臣のお答え致したる通り外交を主とし、万やむを得ざる場合戦争に訴えるという趣旨に変わりはございません」

 昭和天皇は、「君臨すれども統治せず」の英国流沈黙のルールに立ち戻り、それ以上の発言を差し控えて退席した。

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 昭和天皇は、海軍部内で行われていた「対米戦は敗北」という極秘図上演習結果を知っていた。

 昭和天皇は、官僚的答弁で明言を避けて逃げようとする軍部の曖昧さに激怒して、「原の質問はもっともである。なぜ統帥部は答えないのか!」と一喝した。

 そして、外交交渉で戦争を回避し和平をもたらす事を希望して明治天皇の御製を二度も詠んだ。

 「四方の海みなはらからと思ふ世になだ波風の立ち騒ぐらむ」

 昭和天皇「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述(しょうじゅつ)せんと努めておるものである」

 近衛首相ら政府は、昭和天皇の発言を聖断と利用して議案を白紙還元する機会があったが、好機を見送った。

 軍部は、昭和天皇の希望を無視して、議案を有耶無耶のうちに可決させた。

 東條陸相は、陸軍省に戻るや、緊張した面持ちで部下を集めて「聖慮は平和にあられるぞ」と告げた。

 武藤章陸軍省軍務局長は、昭和天皇の平和への希望発言で、戦争も辞さずの強硬派から戦争回避の慎重派に転向した。

 石井秋穂中佐ら軍務局の高級課員は、武藤局長から「何が何でも外交を妥協せよという御意だ。俺は結局戦争になるものと達観しておるが、天子様に押し付けてはいけない。外交に万全の努力を傾け、天子様がお諦めになって御みずから戦争をご決意なさるまで精出さねばならぬ。俺はこの事を大臣にもいっておく」と申し渡された。

 陸軍省は、如何に和平交渉をしても、アメリカが譲れない条件を日本にゴリ押して無条件で鵜呑みせよとする限り成立しないが、昭和天皇が絶対不戦を望む以上は外交交渉に全力で当たる事になった。

 鈴木貫太郎「もしあのとき、総理が死を覚悟して御聖断を仰いだならば、太平洋戦争は起こっていなかったかもしれない」

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 昭和天皇は、日本が戦争を回避する為に外交交渉を行おうとしているのに、アメリカが頑なに拒否する為に戦争へと追い詰められているという、悔しさがあった。

 そして。戦争の回避が出来なければ、国益を守る為に開戦もやむを得ないとの覚悟を固めた。

 サムライは、命よりも名誉を重んじ、侮辱を受けたら死を覚悟して戦う。それが、武士道であった。

 昭和天皇「私は平和努力というものが第一義になる事を望んでいたので、その明治天皇の御製を引き用したのです」(昭和60年4月15日の記者会見)

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 夜。近衛首相とグルー大使の極秘会談。

 近衛首相は、首脳会談を開催の条件とされたルーズベルトの4原則を無条件で受け入れると、グルー駐日大使に伝えた。

 日本は、アメリカとの破滅的戦争を何としても避ける為の話し合いを望んでいた。

 近衛首相は、話がまとまるまで会談内容は口外しないように依頼した。

 グルー大使は、日米戦争を回避する為に、近衛提案を極秘案件としてルーズベルト大統領とハル国務長官だけに報せた。

 ハル国務長官は、野村吉三郎大使に、近衛首相から極秘提案があった事を打ち明けた。

 アメリカ側は、4原則を発表した当時と今とは状況が違う以上、別の諸原則にも合意する必要があると回答し、首脳会談の前に事務的予備会談の開催を逆提案した。

 ハル国務長官は、報道陣に、日本側が提案してきた調停目的の太平洋会談は知らないと発言した。

 野村大使は、寝耳に水の話で驚き、東京の豊田外相に報告した。

 豊田外相は、グルー大使を呼び出して極秘提案の件を問い質した。 

 アメリカ軍は、日本政府と外務省の狼狽ぶりを暗号解読で知っていた。

 アメリカは、暗号を見ながら対日外交を戦争へと誘導していた。

   ・   ・   ・   

 昭和天皇は、国家と国民を救う為に、戦争を避け平和をの望んだ。

 ルーズベルトは、国益の為に参戦を決断し、日本を戦争へと追い込む為の謀略を仕掛けていた。

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 9月7日 東久邇宮稔彦王陸軍大将は、近衛首相から日米首脳会談に消極的な東條英機陸相の説得を依頼された為に、東條英機に来訪する様に伝えた。

 東條陸相は、東久邇宮邸に参上し、前日の昭和天皇の外交重視発言を踏まえて首脳会談に対する、天皇陛下への忠節と陸軍大臣の職責から強硬な所見を話した。

 『東久邇宮日誌』「東條曰く

 陛下の日米問題に対するお考え、近衛、ルーズベルト会見に関するお考えは良くわかれり。米国の日本に対する要求は、せんじつめて云えば、日本は独伊枢軸より離脱して英米の方にはいれとの事なり。

 若し日本の協力を得て独を撃退したる後、更に日本打倒に向い来るならん。

 ……

 日本が大譲歩をなして日米会談を成立しても、日米関係の平和なるはここ2、3年のみなり、米が軍備完了したるの後は、日本に戦争をしかけてくるならん。

 来年の秋迄は米国は日本に対し勝ち目なし。故にそれ迄はなんとかして日米戦争を避け日本の力を弱めんと努めつつあり。

 陛下の近衛、ルーズベルト会談に対するお考は良くわかりたれば、陸軍大臣としてこの会談が成立するが如く努力するつもりなり。

 東條は近衛、ルーズベルト会談の成功は10分の3位に考えおれり。

 少しでも日米会談成功の望みあればこれを行うを可とす。

 日米会談の不成功に終わりたる場合には、日本は日米国交調整これ程迄に努力せしも終に不成功に終りし事を日本国民に知らしめ、日米戦争の場合、日本国民の奮起と一致団結を要求し得べし、故に近衛、ルーズベルト会談が不成功に終りても、以上の利益あり。

 日米国交調整に関する陛下のお考えは良くわかれり。しかし陛下が日本の不利をしのぎて迄も、如何にしても日米国交を調整せんとお考えになり、東條はその事が国家百年のために不利なりと考うれば、どこまでも諫め申し上ぐべし、それでもお聞きにならなければ辞職するより外なし、これ即ち陛下に対し奉り忠節を完うする事と考うればなり」

 東條英機が、戦争を欲しているルーズベルトの真意をあるていど見抜いていたと言って良い。

 石井秋穂中佐は、参謀本部の意見を聞く為に作戦課長の服部卓四郎大佐を訪れた。

 参謀本部は、対米戦開戦を決意し、戦争を回避する為に外交努力をしようとしている陸軍省の軟弱ぶりを罵倒した。

 服部卓四郎「俺は、もう戦争を固く決意し絶対に変えない。今陸軍大臣のなすべき事は連日連夜でも参内して開戦の必要な理由を言上する事だ。貴様、帰って大臣に具申せよ」

 日本外務省は、御前会期の決定を予想して、ワシントンの野村大使に対して日米交渉の調印期限を今月25日と定めるとの電報を打った。

 アメリカ軍情報部は、電文を傍受し暗号を解読して、話し合いによる和平交渉の破綻が近い事を察知していた。

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 9月8日 杉山元参謀総長は、統帥部の責務として戦争準備を続ける為に、「御前会議の決定に伴う動員計画」案を、昭和天皇に上奏した。

 昭和天皇は、外交重視を求めた自分の意図は関係なく戦争準備が進められる事に不満を持ち、幾つかの文言に注意を与えた。

 9月9日 杉山参謀総長は、昭和天皇の指摘を踏まえて動員に関する上奏を行った。

 昭和天皇は、やむなく裁可した。

 「しかし、動員しても対米交渉が上手くいったら動員は止めるだろうね」

 杉山総長は、交渉が成立すれば最悪の事態は回避すると誓った。

 陸軍は、昭和天皇の許可を得て、遅れていた南方作戦準備に取り掛かった。

 9月10日 東條英機陸相は、戦争忌避という昭和天皇の気持ちに添うべく、陸軍側の条件が受け入れられる形で和平に努力する事を表明した。

 昭和天皇は、軍部に対して、日米開戦となった場合にソ連の動きはどうか聞いた。

 統帥部は、南方作戦発動中は冬季でソ連軍は動けないであろうとの予測を奉答した。

 ハル国務長官も、首脳会談実現の前に両国の意見を聞く必要があり、東京の言う様に調停の為の予備的合意を成立させる前の首脳会談は時期早々であると発表した。

 9月11日9時25分(〜10時30分) 東条英機陸相は、昭和天皇に対米作戦準備に関して奏上した。

 昭和天皇は、6日の御前会議で発言した「戦争忌避」の気持ちは変わらないと伝えた。

 東条陸相は、戦争に備えるという陸軍大臣の職務を果たしているが、戦争を回避する為に交渉妥結に極力努力する旨を説明した。

 大元帥たる昭和天皇は、開戦の可能性がある以上は戦争準備を怠りなく行うべきとは思うが、国家元首としては国民に戦禍の苦しみを与えない為に戦争回避を切望した。

 東条英機も、陸軍大臣の立場として強硬な発言を繰り返していたが、昭和天皇の「平和愛好の精神」を十分理解し、戦争回避の念いを叶えたいと思っていた。

 だが。昭和天皇も東条英機も、国家を武力で守る軍人として、平和を希求する手段が尽き戦争しか残されていないとなれば、迷わず開戦を決断する覚悟は持っていた。

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 9月中旬 FBIは、ポポフ情報であるマイクロドットを解読した。

 フーバー長官は、ニューヨークに行き、FBIニューヨーク支部にポポフを呼んで話を聞いたが、ポポフの素行を徹底して調べ個人的嫌悪を深め信用せず、真珠湾情報を疑った。

 「君ら二重スパイは皆同じだ。ドイツの仲間に売る情報が欲しいだけだろう。それで大金を稼いで、プレイボーイになる」

 マスターマン卿「トライシクルのアメリカへの質問状には……その後起こった真珠湾奇襲に対する、地味だが見過ごされた警告があった。……したがって、FBIは、質問状にあった情報はすべて所持していたのである」

 アメリカ側が、ポポフ情報を信じて真珠湾攻撃に備えていれば、日本海軍機動部隊の奇襲攻撃は失敗していた。

 何故、信用しなかったのか?

 それは謎である。

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 9月17日 連合艦隊司令長官山本五十六は、昭和天皇との食事で、米英との戦争が起きれば帝都空襲の有りうると説明した。

 昭和天皇は、木戸幸一内大臣や東條英機陸相らと、東京が空襲された時に皇太子を何処に避難させるかを話し合った。

 9月18日 日米開戦を望む右翼活動家は、戦争回避の極秘提案を聞いて激怒して、自宅を出ようとした近衛首相を殺す為に襲ったが失敗した。

 グルー大使も、反米的右翼の襲撃に備えて身辺警備を強化し、拳銃を携帯した。

 9月19日 近衛首相は、「英米を敵に回したら、何処から物資を入れる事ができるか」と尋ねた。

 星野直樹企画院総裁は、「英米は民主主義、自由主義の国だから、両国政府は合意しなくとも、民間とは話が付けられる」と返答した。

 革新官僚は、戦争に消極的な空気を払拭する為に、米英両政府と距離を置く中間的資本家から戦略物資は購入できると吹聴して回っていた。

 一部の統制派軍人は、石油獲得の為に蘭印侵攻計画の検討を始めていた。

 隠れマルクス主義者である革新官僚と転向右翼は、軍部に偽情報を伝えながら対米戦へと導いていた。

 9月25日 ホワイト・ハウスは、極秘に戦争計画である「勝利の計画」を完成させた。

 9月29日 グルー大使は、ハル国務長官宛てに、日本政府は本心から首脳会談を切望し、宮中の穏健派が「中国大陸での防共駐兵を放棄する」と譲歩する姿勢を示しているとのる報告書を送った。戦争を回避する為に、アメリカはこの好機を逃してはならないと訴えた。

 日本の国内情報として。昭和天皇と近衛首相は、本心からアメリカとの戦争を回避する為に首脳会談を望んでいる。だが、国内には両国の戦争を望む勢力がいて、平和会談を阻止しようとしている。もし、首脳会談が実現しなければ最悪の事態は避けられないと伝えた。

 「近衛公はルーズベルト大統領との直接交渉にあたって、その遠大な内容のため間違いなく、合衆国を満足させられる様な保証を大統領に提示できる立場にある」

 ルーズベルトとハル国務長官は、近衛首相との首脳会談を受諾するとも拒否するとも明言せず、新たな原則を要求して返答を引き延ばした。

 アメリカ側は、これまで日本政府と合意しても全て軍部によって裏切られてきた経験から、侵略戦争を続けながら平和提案をする昭和天皇と近衛首相を信用しなかった。

 ルーズベルトは、グルー大使の「速やかに、平和を回復する為の首脳会談を開催する」という意見具申を退けた。

 ハル国務長官は、グルー報告書を握りつぶし、平和を回復する為の如何なる行動も起こさなかった。

 ハル「大統領と私は、ワシントンにあって極東問題の顧問らとともに世界中から情報が送られてくる中で情勢を見ていた。我々は日本が侵略と征服の政策に頑なに固執し、これを推進する一方で、合衆国政府がその基本的立場を譲歩しない限り、日本政府が[太平洋で]会談して合意に到達できると真剣に期待して提案しているわけではないと判断した。我々は、事前の審問で日本政府を十分に試した結果として日本がその立場を頑なに譲るつもりのない事を知っていた」

 国務省を支配する親中国派は、日本を追い詰める為の強硬策が推し進めていた。





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ビーアド『ルーズベルトの責任』を読む

ビーアド『ルーズベルトの責任』を読む

2017-10-30

♯:31─6─アメリカの挑発的対日石油輸出禁止指令。大西洋会談。平和的外交解決を目指す近衛の日米首脳会談提案。1941年8月〜No.177No.178No.179@            

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗ 

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 ジョージ・ケナン「我々は、日本の首根っこを押さえておく必要はある。それは石油だ」

   ・   ・   ・   

 ボブ・ウッドワード「アメリカは建国以来、約200回も外国と戦争しているが、そのうち宣戦布告をして開戦したのは4回しかない」(『司令官たち』)

   ・   ・   ・   

 フランクリン・ルーズベルト「日本人なんか四つの島に閉じ込めて、農業だけやらせておけばいい」

   ・   ・   ・   

 スターク海軍作戦部長「(石油)禁輸は日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する攻撃を誘発し、直ちに我がアメリカを戦争に巻き込む結果になるだろう」

   ・   ・   ・   

 日本は、通商条約破棄・石油禁輸・資産凍結の経済制裁で追い詰められ、自主独立国家の名誉を捨てて屈服するか、名誉を守る為に戦うか、の二者択一しか存在しなかった。

 本音では、アメリカとの戦争を何としても回避したかった。

 日本陸軍は、ソ連・コミンテルンの戦争は賛成しても、アメリカとは国力差・軍事差から回避を望んでいた。

 が、軍隊である以上、もし戦うんであればどうするべきかの作戦を立案した。

   ・   ・   ・   

 アメリカは、日本海軍が「英米不可分論」でイギリスと同時にアメリカを攻撃してくると確信していた。

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 8月 海軍は、対米戦を研究してきたが東南アジア海域での軍事行動について研究を怠ってきた為に、南方作戦に必要な情報がなかった。

 ルーズベルトは、参戦準備として1,000万人の動員命令を出し、対日戦を見越してアメリカ在住の日本人リスト作成を国勢調査局に命じた。

 アメリカは、ソ連やナチス・ドイツほどではないが、日本以上に監視社会である。

   ・   ・   ・   

 8月1日 アメリカは、全枢軸国に対して石油禁輸を含む経済制裁を適用すると発表した。

 対日輸出で、食料と綿を除いたが、石油輸出を全面禁止とした。

 だが、日本の在米資産が凍結された為に、日本は食糧を含む全ての物を購入する事ができなくなっていた。

 石油が輸入できなければ、食料を購入しても、輸送船で海外から日本に輸送することが出来ないし、トラックで国内に分配が出来なくなる事を意味していた。

 更に、漁船を動かして魚を獲ることも出来なくなる。

 国内における、食糧の生産量が低下し、食料輸送も滞る恐れがあった。

 石油が輸入できないと言う事は、軍艦や航空機を動かせない以上に、日本人が食べて行く事が脅かされると言うことである。

 軍国日本は、食糧を海外に依存する輸入国であった。

 企画院は、アメリカの石油全面禁輸を受けて、急遽「昭和16年度秋季開戦を想定せる軍部の物的国力判断」を策定した。

 企画院総裁鈴木貞一陸軍予備役中将は、戦争の為には石油と海運力が重要であるとの自説を主張した。 

   ・   ・   ・   

 8月2日 海軍省は、グルー駐日大使に対し、「7月31日夜にアメリカ海軍巡洋艦二隻が豊後水道付近の領海を事前の許可もなく侵犯した」と文書で抗議した。

 同領海侵犯事件は、日本に圧力を加える為にルーズベルトが承認した軍事行動であった。

 米ソ経済援助協定。

 8月7日 豊田外相は、難航している対米和平交渉を打開する為に、近衛・ルーズベルト首脳会談を提案した。

 8月8日 イギリスの合同情報委員会(JIC)は、日本との戦争に備えて「在英の日本大使館と領事館の閉鎖」を協議した。

 アメリカとイギリスは、対日戦開戦へと動き始めた。

 ニューヨーク・タイムズ「もし、日本が危険な包囲網の中にあると思うなら、日本はその包囲網を自ら招いたのだ、とハル国務長官は今日、記者会見で述べた。長官の発言は合衆国と英国、中国、蘭領インドが日本を軍事的、政治的、そして経済的に『包囲』していると日本政府は感じている、と伝えた東京発の記事を受けてのものだった」

   ・   ・   ・   

 8月9日(〜12日) 大西洋会談。ルーズベルトとチャーチルは、「人民の権利」と「自由の四原則」を基にした大西洋憲章に署名した。

 ルーズベルトは、イギリスへの武器供与の見返りとして、在米商業資産の売却、世界各地に持つ関税特権をアメリカに対して撤廃する、イギリス軍がカリブ海に持つ7ヶ所の基地の使用許可、イギリスが保有する金塊5,000万ドルの引き渡し、イギリスが開発した潜水艦の探知(ソナー)技術の提供などを要求した。

 チャーチルは、破滅の関頭に立たされた祖国を救う為に、ルーズベルトの法外な要求を受け入れた。

 「我々は骨だけ残して、身包み剥ぎ取られた」

 「我々は、イギリスという乳牛からミルクを搾った。昔はミルクがいっぱいで出たものだが、もう枯渇しかかっている」

 アメリカとイギリスは、ナチス・ドイツとの戦争に勝つ為に、ソ連・共産主義勢力と同盟を組む事に合意した。

 両国間には、密約は存在しないが、共同戦線という認識は持っていた。

 ルーズベルトは、今後ともナチス・ドイツと戦っているイギリスの要求する戦略物資を供給し、適当な時期に世界大戦に参戦する事を再度約束した。

 そして、日本に対しては、「3ヶ月くらいは奴らを子供の様に操っていけると思う」とチャーチルに話した。

 ルーズベルト「この方針を採用する事によって、戦争に発展しかねない日本による一段の武力侵略の動きを少なくとも30日間は先延ばしにできるとの見方を表明した」

 アメリカは、これ以降、日本を無能で馬鹿な「子供」と見なした。 

 参戦合意を含む軍事関連の同会談録は、意図的に破棄されたという。

 チャーチルは、アメリカを確実に戦争に引き込めること確信したが、日本に戦争を回避する為の警告を発する様に提案した。

 ルーズベルトは、警告を与えることを拒否した。

 タイム誌「ルーズベルト氏の立場は単純明快である。彼は、侵略者を叩きのめす事を委ねられている。そして、侵略者とは日本の事だ。日本がその方針を変えない限り、彼には日本を叩きのめす事が委ねられている」

 ルーズベルトは、人種差別主義者として、日本人を人間以下の下等生物と軽蔑し、過激な差別的発言を繰り返していた。「大西洋憲章は、有色人種の為のものではない。ドイツに主権を奪われた、東欧白人国家について述べたものだ」

 アメリカの陸海軍統合委員会は、極秘で、アメリカ人青年の動員及び国外派兵準備そして日本追い込みについての会合を定期的に開いていた。

 ホワイトハウスの戦争閣僚会議は、日本に最初の攻撃させる為の方策として、日本軍をおびき寄せる為のアメリカ海軍の囮作戦を承認した。

 ルーズベルトは、対ドイツ戦参戦に反対する、上下院議員を落選させるべく選挙運動に干渉し、報道機関に報道規制をかけ、キリスト教会に沈黙を要請した。

 ラジオ伝道師として人気のあるカフリン神父の政府批判を黙らせる為に、デトロイトのムーニー大司教に圧力をかけた。

 フーバーFBI長官も、反政府的個人及び組織への監視を強化し、嫌がらせの逮捕を行い活動を自粛する様に嚇した。特に、在米日本人や黒人やユダヤ人を警戒した。

 アメリカ国民の人権や自由は、表から見えないところで侵害され制限され始めた。

 ルーズベルトは、戦時体制に移行するべく大統領権限を強化し、主要機関をワシントン、ホワイト・ハウスに集中させた。

 チャーチル「ルーズベルト大統領と議論を重ねた大西洋会議以降、本土を攻撃されなくとても、アメリカは極東の戦争に参戦し、必ず最終的勝利を勝ちとり」

 近衛首相は、大西洋憲章がナチス・ドイツを非難して日本に言及していない事から、ルーズベルトはヒトラーを嫌っているが日本はそれほどの悪感情を抱いていないと理解した。そこで、両国の関係を修復し、戦争という破局を避ける為の首脳会談を申し込む事にした。

 昭和天皇も、戦争回避の為に首脳会談を承認し、会談で合意した和平協定は軍部が反対しようとも不退転の決意で裁可すると決めた。

 スターリンは、大西洋憲章の第一条・領土拡大の否定及び第二条・領土変更における当該国の人々の意思を尊重する、に合意した。

 イギリス陸軍情報部(MI2)は、「日本陸軍は、中国軍との戦争を規定して整備されているので、装備が貧弱、西洋の一級国の陸軍には叶わない」と報告した。

 科学者は、民族的疾患から、日本人は視力と平衡感覚に障害がある為に航空機を操縦できないと報告した。

 イギリス軍は、日本軍に対する情報を分析した結果、「日本軍は恐るるに足らない」と判断して、シンガポールや香港の防衛強化を行わなかった。

 日本軍は、戦争の初期に於いて情報戦を有利に展開して、奇襲攻撃を成功させた。

 大西洋憲章「第三条 米英両国は、あらゆる国民が自由に政体を選択する権利を尊重する。両国は主権と自治を奪われた者に、それらが返還される事を望む」

 チャーチルは、対象地域をドイツ軍占領下のヨーロッパに限定し、アジアやアフリカの自国植民地を除外した。

 ルーズベルト「この憲章は、有色人種には適用されない。ナチに主権を奪われた、東欧の白人国家について述べたものだ」

 A・J・P・テイラー「ルーズベルトの邪悪な心を読み解けば、どうやら彼はドイツとイギリス両国の衰退を望んでいる。独力独歩の大国すべてが消滅すれば、アメリカが世界に君臨できる」(『第二次大戦の起源』)

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 ルーズベルトは、民族自決について、「これはナチス・ドイツに占領された東欧に適用される。非白人の民族に適用するものだはない」

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 参戦反対の保守派は、イギリスとナチス・ドイツとの戦争に参戦する事には反対であったが、非白人種の日本との戦争には反対していなかった。

 チャールス・リンドバーグ「この戦争はイギリス・フランスの太郎とドイツ・イタリアの二郎の強大喧嘩だ。我々三郎アメリカは参加するべきではない。身よ、黄色い猿がスキを狙っているではないか」

   ・   ・   ・   

 ポポフは、アプヴェールからアメリカで調査するリストの「質問状」と機密書類を暗号化したマイクロドットを受け取った。

 海軍情報として、アメリカとカナダが海外へ派遣する部隊に関して。

 ハワイ情報として、真珠湾の弾薬庫と機雷貯蔵庫など軍施設やアメリカ艦隊に関する些細な情報。

 ポポフは、FBIニューヨーク支部長フォックスワークに面会し、マイクロドットを渡し、「日本が今年末までに真珠湾を奇襲する可能性がある」と伝えた。

 東京駐在ドイツ空軍武官のグロノー男爵は、イタリア南部の軍港タラントを訪れ、イギリス海軍航空機による奇襲攻撃(40年11月)の成功後を調査し、日本海軍も調査を依頼していた事を知らさた。

 グロノー男爵は、日本の石油備蓄量から、41年末までにアメリカと開戦するだろうと予想した

 ポポフは、グロノー男爵の発言をアプヴェールの同僚から聞き、日本海軍の真珠湾攻撃を予想した。

 だが。フーバーFBI長官は、二重スパイのポポフを信用せず面会を拒否した。

   ・   ・   ・   

 FBI長官フーバーは、真珠湾攻撃情報をルーズベルトに報告した。

 常識ある軍人も権威ある軍事専門家は、真珠湾の地形から航空機による攻撃は有り得ないと結論を出し、日本空軍には不可能を可能にする優秀な航空機はないし、生物学的欠陥から日本人は航空機を操縦できないと報告していた。

 つまり。日本海軍による真珠湾攻撃情報は存在しても、それを信じて防衛体制を強化するだけの科学的根拠がなかった。

 ルーズベルトやアメリカ軍首脳部は、真珠湾攻撃情報を知っていたのは間違いないが、攻撃させる為に見逃していたわけではない。信ずるには足らないと判断していただけである。

 軍事的常識を覆し、不可能を可能に替えた、優秀な日本海軍の実力といえる。

 「日本軍の騙し討ち」と非難される謂われはない。

 「ルーズベルト陰謀説」は、陰謀説を好むマニアの戯れ言に過ぎない。

   ・   ・   ・   

 8月16日 野村吉三郎大使は、東京の外務省にアメリカの戦略予想を極秘電報で送った。

 「裏口で日米戦争が始まった場合、欧州戦線にアメリカを参戦させる期待が高まる。とイギリスは考えている」

 アメリカとイギリスは、極秘暗号電文を傍受していた。

 8月17日 野村大使は、ルーズベルトに近衛首相との首脳会談を提案した。

 ルーズベルトは、野村吉三郎駐米大使に、軍事行動を辞さずという内容の最後通告的警告と平和友好関係を戻すとして首脳会談の受諾を伝えた。

「もし日本政府が武力ないし武力の威嚇によって、隣接緒国を軍事的に支配しようとする政策または計画に従い、今後なんらかの手段をとるならば、アメリカ政府は、アメリカ及びアメリカ国民の正当なる権利と利益を保護し、アメリカの安全を保障する為に必要と思われる一切の手段を直ちにとらざるを得ないだろう」

「近衛公と日本政府が、首脳会談の提議をしてこられたのは素晴らしい事だ。アメリカ政府は喜んで、両国の意見交換の為の適当な時期と場所を斡旋したいと思っている。しかしこの会談開くのに先だって、日本国政府の態度及び計画に関し、従来提示されたよりもさらに明瞭な声明を出していただければ、両国政府にとって有益である。自分は健康上の理由により、飛行機に乗るのを医師から禁じられているので、日本の総理がサンフランシスコかシアトルへ来ていただければどうか」

 近衛首相は、首脳会談を受諾してくれと事に感謝するメッセージを送った。

「まず両国首脳が直接会見し、必ずしも従来の事務的商談にこだわる事なく、大所高所より日米両国間に存在する太平洋全般にわたる重要問題を討議したい」

 ルーズベルトは、野村大使に近衛メッセージへの感動の言葉を述べた。

「このメッセージは一歩前進であり、非常に立派なものであるから期待をかけたい。会談の時期はなるべく早くするのが望ましい」

 近衛首相は、これ以上、両国間の諸問題がこじれるとアメリカとの戦争に発展する恐れがあると危惧し、対米強硬派を押さえて交渉をまとめるには首脳会談以外ないと決断していた。

 昭和天皇も、英米協調派として、アメリカとの戦争を回避する為に首脳会談に期待し、首脳会談で合意した条件には議会や軍部に計る事なく即断で裁可するつもりであった。

 対米強硬派も、本心から国力差のあるアメリカとの戦争を望んでいたわけではなく、これまでの日本の軍事行動を自衛行為と認める合意が、昭和天皇の勅裁で成立すれば不平を鳴らしながらも受け容れるつもりであった。

 つまり。抗日中国による日本人居留民虐殺と略奪に対する、自国民保護目的の正当防衛である主張を承認してくれれば、日本人としての体面・面目がたつと主張したのである。 

 同日夜。ハル国務長官は、野村大使に、事前に事務方による合意の必要性を訴えた。

「両国首脳が会見しても、一方がある点に固執してどうしても話しがまとまらなければ、非常にまずい結果になるので、予め大体の話をまとめておいた上で、両者が会ったときに即最後の決定が下せる様にしておきたい」

 ルーズベルトは、既に日本との戦争を決断していた。

 アメリカ大統領は、強力なリーダーとして独裁官的な権限を持ち、大統領決定に対しては政府も議会も軍隊も反対が出来なかった。

 天皇は、憲法の規定に従って政府と議会の決定を承認するだけの、調整と調和、安定と平穏をもたらすのみの弱いリーダーであった。

 8月18日 ルーズベルトは、連邦議会の指導的立場にある政治家達に大西洋会談の結果を報告すると共に、日本が領土的野望から新たな侵略を始める可能性があり戦争に発展する危険性があると断言した。だが、日本との話し合いが険悪化しても決裂する事はないと曖昧な言葉で言い逃れをした。

 アメリカ軍は、日本軍と戦っている蒋介石への支援物資を本格化するべく、ビルマ公路調査の為に将校団を派遣した。

 8月19日 東京のグルー駐日アメリカ大使は、豊田外相に対して、日本側が政策を変更しない限りアメリカの圧力は強まるであろうと警告した。そして、ワシントンに対して日本の方針変更はあり得ず、両国関係は決裂の可能性が大であると報告した。

 8月23日 MI5のT・A・ロバートソンは、真珠湾攻撃を示唆したポポフ情報をイギリス陸軍総司令部のホッグ大佐に文書として送った。

 ジョン・マスターマン卿「アメリカが戦争になった時、真珠湾が最初に攻撃される事、そしてその攻撃の計画が1941年8月までにかなり進んでいた事をこの質問状が極めて明確に示唆していたというのは公平な推論である。明らかに質問状を正しく評価して、そこから推論するのは我々ではなく当然アメリカの仕事だった。とはいえ、我々の方がその事情とこの人物をよく知っていたのだから、もっとその重要性を強調すべきだった。さらに数年の歳月を重ね、経験を積んでいたから、きっと我々は肘鉄砲をくらう危険を犯してもアメリカの友人達にその書類の重要性を指摘出来たに違いない。……それから得た教訓は疑いもなく、一度そのスパイが申し分のない事が分かった場合、彼に与えられた質問は普通のものよりずっと情報価値が高く、かつ緊急なものである、という事だ」(回顧録『二重スパイ化作戦』)

 8月24日 チャーチルは、日米関係が決裂すれば、イギリスはアメリカ側につくと明言した。

 8月21日 ルーズベルトは、連邦議会で太平洋会談報告を行い、イギリスに対して新しい取り決めやアメリカを戦争に近づける様な約束はしなかったと発表した。

 8月25日 ハル国務長官は、記者会見で、対日交渉で提示している基本原則は1937年以来変わりないと明言し、日本が解決の為の具体的な提案をしたかとの質問については返答を拒否した。

 ルーズベルトは、大西洋艦隊に対して「独伊の敵性軍を攻撃撃破すべし」と、極秘命令を下した。

 8月27日・28日 総力戦研究所は、対米英戦を想定した模擬演習を1ヶ月間続けた結果を踏まえて会議を行い、「対米英戦争は、日本の敗北で終わる」との結論を出した。

 近衛首相、東條陸相など各大臣や陸海軍幕僚などが、会議に出席していた。

 8月28日 近衛文麿首相は、グルー駐日アメリカ大使に、日米間の諸問題を解決する為にルーズベルトとの首脳会談を要請した。そして、東京のアメリカ大使館とワシントン間の外交電文を全て傍受しているとの最高機密情報を打ち明けた。

 グルー大使は、直ちに首脳会談の申し込みが会った事をハル国務長官に報告した。

 グルー「アメリカと日本の間に生じ様としている、まったく不毛の戦いへの動きを回避する為に……政治家としての見識を示して行動する機会がここに提供されています……それによって、太平洋地域の今後の平和への障害となると思われる難題を克服できるかもしれません」

 近衛内閣は、アメリカの妥協を認めない強硬な態度によって八方塞がりであっただけに、ルーズベルトの好意的反応に狂喜して、一刻も早い首脳会談開催を希望した。

 昭和天皇も、首脳会談による話し合い解決を希望し、戦争を回避する為に合意した事項を勅裁して、強硬派若手将校や好戦的右翼を有無を言わせず説き伏せ、大陸からの撤兵を命ずる決意であった。

 軍部も、建て前としては強硬発言を繰り返し不満を言い募ったが、本音では泥沼化した日中戦争を終結させ絶望的な対米英戦争を回避す為に、首脳会談の成立に期待を掛けた。

 だが。対米戦争を望む右翼と一部将校らは、近衛代表団の暗殺を計画し、平和志向で軟弱な昭和天皇の排除を協議した。冒険的拡張主義の彼等は、侵略戦争の勝利と領土拡大の為には、軍事的指導力のある好戦的な皇族を新たな天皇に即位させるべきであると、真剣に考えていた。

 スターリンは、首脳会談を潰す為に、ワシントンの隠れ共産主義者である高級官僚達を焚き付けた。

 野村大使は、両国首脳による太平洋会談の開催を要請する近衛首相の親書を、ルーズベルトに手渡した。

 ルーズベルトは、戦争参加という本心を隠し、アメリカは平和的解決を望み、近衛首相との首脳会談の実現を受け入れるという素振りを見せた。 ワシントンの親中国派高官(大半が共産主義者)は、首脳会談には猛反対し、近衛と約束しても軍部がそれを守るはずがないと反論した。

 ロークリン・カリー「会談を開けば、中国の士気に悪影響を及ぼす」

 モーゲンソー財務長官(ユダヤ人)も、戦争回避につながる如何なる会談にも不賛成であった。

 ルーズベルトは、戦争を切望し、平和の為の如何なる妥協も拒否し、ましてアメリカが戦争回避の為に積極的に譲歩するを気は微塵も無かった。

 ロークリン・カリー「会談は中国との間に築いた友好的な関係を損ねるばかりか、他の友好諸国政府(イギリスとソ連)からの反発を招きかねないので、会談は拒否されるべきだ」(9月13日 大統領へのメモ)

 アメリカ海軍は、大西洋同様の軍事行動を東南太平洋海域にも拡大する事を決定した。

 8月29日 近衛首相が、経済制裁で深刻な状況に追い込まれつつある現状を打開し、アメリカとの和解を希望して、ルーズベルトに首脳会談を申し込んでいるという情報が知れ渡った。

 日本側は、アメリカ側も首脳会談に応じる可能性があるとして、随行員の選考などの準備を開始した。

 ルーズベルトは、近衛首相からの親書について返事を送る事を発表したが、内容と時期については言及しなかった。

 ハル国務長官は、親書の内容は太平洋の諸問題を首脳会談で解決しようという具体的な提案はなく、険悪化している両国関係を修復する友好が目的であって懸案事項を対話で解決しようというものではないと、記者会見で質問をはぐらかした。

 ワシントンは、日米会談は依然として事務的な予備会談の段階であって、東京で報道されている様な基本合意が成立していないと否定した。

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 新聞は、近衛文麿首相とルーズベルト大統領の首脳会談が検討される事を報じた。

 国民世論は、戦争を避ける為に国益を損なう様な外交交渉には猛反対した。

 「戦争も辞さず」の強硬意見を持っていたのは庶民であって、軍部ではなかった。

 庶民は、軍部に騙されていたのではなく、軍国主義者の主体として一部の過激的攻撃的青年将校を積極的に支持していた。

 軍国日本を戦争へと動かしていたのは、庶民が醸し出していた不退転の「時代の空気」であった。

 日本を支配する「空気」とは、誰か独裁者か扇動者が意図的に国民を洗脳して生み出した上からの空気圧ではなく、誰ともわからない庶民が下から醸し出す上昇気流の様な雰囲気の事である。

 




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2017-10-29

♯:31─5─日本軍、南部仏印進駐。1941年7月〜No.175No.176 @                 

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   ・   ・   ・   

 日本軍は、慢性的食糧不足を打開するべく、独立派ベトナム人の協力を得て、南部仏印のメコンデルタ穀物地帯を占領してコメを獲得した。

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 7月 杉山元参謀総長は、総力戦に対応する基本戦略として秋丸機関からの最終報告書を受け取った。

 最終報告書は、日米開戦は長期戦となり国力差から敗戦必死との結論に達していたが、若し戦争が避けられないのであればとしての科学的合理的な南方戦略を提案した。

 同報告書は、対米英蘭戦争の不可を科学的合理的に証明したのではなく、日米の国力差を考慮した上で負けない為に如何にして戦うかの戦略立案であった。

 そして、米英蘭戦争は避けられないとして、戦う為に必要な数値を作り上げて報告した。

 日本陸軍は、1939年9月に、総力戦時代の戦争において経済上の戦争遂行能力(経済抗戦力)抜きでは考えられないとの判断から、国家・国民経済を科学的に測定し、合理的な戦略策定を行う専門部署として「陸軍省戦争経済研究班」を設立した。

 「陸軍省経理局長の監督の下に時期戦争を遂行目標として主として経済攻勢の見地より研究」

 研究対象国は、経済大国のアメリカであった。

 陸軍は、仮想敵国をソ連と定めて研究していたが、アメリカは海軍の対象国として研究してこなかった。

 日中戦争の長期化の原因が、アメリカとイギリスの蒋介石への経済軍事支援である事は明らかな以上、急遽アメリカを研究対象に加えた。

 陸軍や企画院の大勢は、日米の国力差や戦略物資の対米依存などから、対米戦争は長期戦となり勝ち目がなく、アメリカとの戦争は絶対に不可能である、というものであった。

 軍務局軍事課長の岩隈豪雄大佐は、政府や海軍に陸軍の対米経済研究を隠蔽する為に主計課別班との別称を使った。

 秋丸次朗中佐が、満州国から帰国して研究班長となり、戦争経済研究所は「秋丸機関」と呼ばれた。

 秋丸中佐は、人民戦線結成容疑・治安維持法違反で検挙され保釈中のマルクス経済学者で東大経済学部助教授(求職中)有沢広巳に英米班主査への就任を要請した。

 有沢広巳は、総力戦に於ける統制経済や自給体制の専門家として名が知れていた。

 陸軍は、軍国日本が戦争を遂行し勝利を収める為に、治安維持法違反で検挙されたマルクス主義者であっても有能な人材と見れば集め機密作業に従事させた。

 転向組(隠れマルク主主義者)のうち有能な人間は、超エリート革新官僚となって企画院などに配属されていた。

 国際政治班主査に、東大教授の蝋山正道。日本班主査に、東京商科大学教授の中山伊知郎。独伊班主査に、慶応大学教授の武村忠雄召集主計中尉。ソ連班主査に、立教大学教授。南方班主査に、横浜正金行員。

 戦争経済研究班は、陸軍と企画院から日本、アメリカ、イギリス、ナチス・ドイツ、中国の多方面に亘る機密情報の提供を受け、総力戦の為の研究を進めた。

 最終報告書が提出されるまでに、中間報告として約250種の提案を行っていた。

 41年、3月の「経済戦争の本義」。7月の「独逸経済抗戦力調査」「英米合作経済抗戦力調査」

 日本人は、政治家であれ、官僚であれ、軍人であれ、最初は近寄りがたくても親しく付き合うと打ち解けて友人なると無警戒となって機密情報でも「ここだけの話」として打ち明けるようになる。

 情報管理が甘く情報の機密性に疎い為に、国家機密の幾つかがアメリカやソ連に漏洩していた。

 日本は、人間性の甘さゆえに、インテリジェンスやプロパガンダで敗れていた。

 10月後半 陸軍省軍務局軍務課の石井秋穂大佐らは、秋丸最終報告書と9月29日に大本営陸海軍部が正式に決定した対米英蘭戦争指導要領を基にして、「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」を作成した。

 11月15日 大本営政府連絡会議は、対米英蘭戦争終末促進に関する腹案を戦争戦略として正式決定した。

   ・   ・   ・   

 アメリカ政府は、日本との戦争に備えて情報機関を強化する為に、情報調査局(COI)を設立した。

 ドノヴァン長官は、イギリスの社会人類学者ジェフリー・ゴーラーの論文「日本人の性格構造とプロパガンダ」を基にして「日本計画」を作成した。 

 ハロルド・アイクス内務長官は、ルーズベルトに対して、日本への石油輸出を禁止するべきであると進言した。

 ルーズベルトは、「その一手が微妙なバランスを崩し、日本にロシアかオランダの東インドを攻撃させる事になっても、君が今の意見を変えないかどうかいってくれたまえ」とこたえた。

 ホワイト・ハウス内での参戦気運は盛り上がりを見せていたが、国民の79%が参戦をの望んでいなかった為に、ルーズベルトは本音を口には出さず建て前として避戦を公言していた。

 国家の指導者は、決して本当の事は話さない。

 国益を守るという目的の達成の為には、偽情報を流して事実を隠し、真実を伝えず嘘を言って人を騙し、如何なる謀略も平然と行う。

 そして、如何なる犠牲が出てようとも戦争を辞さなかった。

 国家を経営する政治家とは、誠実な仮面をかぶりながら、陰険さと冷酷さが不可欠である。

 それが国家を背負う、真のリーダーである。

 その覚悟な政治家は、政治家として失格であり、政治家としてはその地位にとどめておく事は国家の滅亡につながる。

 アメリカ海軍のポップアップ艦隊は、7月から8月にかけて、日本の委任統治領である南洋群島に接近する海域を航行した。

 アメリカ海軍情報部は、日本の石油備蓄量を来年7月時点で約700万トン、平時消費量の2年分と予想をたてた。

 アメリカ軍首脳部は、日本軍は開戦から2年後には石油備蓄が底をつき、本格的反撃はそれ以降が好ましいと分析した

 ドイツ国防軍情報部アプヴェールのリスボン支部長フォン・カルストホーフは、アメリカのスパイ網を組織する為にセルビア人のドシュコ・ポポフ(コードネームはイヴァン)をスパイとしてアメリカに送り込んだ。

 ポポフは、イギリス内務省管轄の情報機関MI5(情報局保安部)に所属する二重スパイでコードネームをトライシクル(三輪車)であった。

 MI5は、XX(ダブルクロス)委員会を設置し、ドイツ軍スパイの中から約40人をスカウトして二重スパイとして使っていた。

   ・   ・   ・   

 ソ連の極東軍の兵力は、32箇師団で約70万人。戦車は2,700輌。航空機は2,800機。

 関東軍の兵力は、11箇師団で約35万人。戦車は200輌。航空機は560機。

 尾崎秀実は、日本軍がナチス・ドイツの要請を受けてソ連を攻撃しないようにする為に、近衛首相や政府要人らに『シベリア無用論』を説いて廻った。

 1,シベリアは日本の益にならない極寒の地である。

 2,資源的にも石油・ゴムなどは皆無である。

 3,独ソ戦によりソ連が崩壊すれば、シベリアは日本の手に委ねられる。

 7月1日 ルーズベルト大統領は、卑劣なドイツ軍による危険が迫っているが、アメリカは如何なる国とも戦争はしないし、戦争を回避する為の努力をしていると記者会見で明言した。

 ニュ−ヨーク・タイムズ「大統領はヨーロッパで戦闘が開始された1939年9月1日以来ずっと、この国が戦争に巻き込まれずに済むだろうかという質問に同じ回答を繰り返して来た」

 7月2日 御前会議において、ソ連のスパイである尾崎らが示した情報を基にして「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定され、日本は南進策を採用した。

 陸軍は、南進を優先し北進を断念して海軍に譲歩した。

 海軍の南進論は、南部仏印止まりで、その先のマレー半島や蘭印への進出を考えてはいなかった為に、アメリカが対日経済封鎖を強化するとは思ってもいなかった。

 新聞各社は、夕刊一面トップで、御前会議の開催と国策決定を報道した。

 御前会議で決定された国策は、国家最高機密であった為に詳しい内容な公表されなかったが、出席者が内容の一部を談話として発表した。

 談話を発表する者は、国家の命運を担っているという重大な使命感から失言に気を付け、言葉を選んで記者達の問いに答えていた。

 当時の指導者は、失言や暴言を吐いて社会を混乱させないと言う点に於いて、現代日本の無責任にして品格のない政治家に比べて数段優れていた。

 松岡外相は、反対していた南部仏印への進出に同意し、平和的進駐ができる様に仏印政庁との外交交渉を始めた。

 アメリカは、日本国内の情報提供者から御前会議の模様と決定を知らされていた。

 ゾルゲは、日本軍のシベリア侵攻はなくなった事を、ソ連軍参謀本部諜報部に報告した。

 スターリンは、対日戦の為にシベリアに配備していた極東軍主力を、モスクワ防衛と大反撃戦の為に急送するように命じた。さらに、日本とアメリカが戦争するように仕向けるべく、ワシントンとロンドンの協力者に指示を出した。

 中立国アメリカは、イギリスに代わってアイスランドを確保する為に軍隊を派遣して占領し、ドイツ軍を排除した。さらに、オランダなどナチス・ドイツに降伏した国々が所有するカリブ海の島々や戦略要地の植民地を武力占領した。

 日本軍は、中立を宣言しながら軍事行動をとるアメリカに不信感を抱き、アメリカ軍が蘭印に進駐する恐れがあると警戒した。

 ノックス海軍長官は、アメリカ海軍が戦争行為とみなされる輸送船護衛を行っているとの報道を、「真実ではない」と完全否定した。

 7月5日 ルーズベルトは、近衛首相に、日本はソ連を攻撃しないとの約束を求めた。

 近衛は、外交の権限は外相であると返答した。

 7月7日 日本陸軍は、対ソ戦準備として約80万人の大動員令を出した。

 昭和天皇は、日米交渉を成功させるべく、及川古志郎海相を謁見して永野修身軍令部総長への不信をほのめかした。

 「当初仏印出兵に反対の軍令部総長が、部下の進言により決心するかの如き話があるとされ、志に動揺を来しては困る事、また日米交渉に対して冷淡な様子であるとして疑問を呈される」

 7月8日 松岡外相は、日米交渉を好転させるべく、ルーズベルトに日本はソ連を攻撃しないという書簡を手交した。

 7月12日 近衛首相、及川海相、東條陸相、平沼枢密院議長は、日米交渉を進展させる為の試案を決定した。

 松岡外相は、徹頭徹尾、素人の外交交渉に猛反対し、近衛試案に不快感を露わにした。アメリカが参戦を希望している以上は、日米了解案での交渉では行き詰まって戦争になる事は確実であると抗弁した。

 近衛や平沼らは、アメリカとの戦争を避ける為にも、日米了解案とアメリカ提案を考慮して交渉を進めるべきであると説得した。

 松岡は、民間人や素人が外交交渉を行う事に危険性を訴え、ましてや軍人が外交に口を出すのは論外であると罵倒した。

 軍部は、松岡の横暴に激怒した。

 東條陸相は、松岡外相の言う通りアメリカとの戦争は避けられないかも知れないが、それでも最後まで戦争を回避する為に外交交渉を継続する様に説得した。

 総力戦研究所では、研究生らによる模擬内閣が組織され、対英米戦について閣議を行い、戦争を続ける内で石油の備蓄が底を突き、南方からの輸送も遮断され降伏の他に道がないとして、8月に総辞職を宣言した。

 東條英機陸相は、模擬内閣の様子を見学していた。

 7月14日 松岡外相は、オーラルステートメントを拒否する電文をワシントンに打電した。

 7月15日 寺崎アメリカ局長は、松岡外相の承認をえず、松岡最終案の修正案をワシントンに送った。  

 ハル国務長官は、野村大使に、日本側の新たな修正案を検討する事を約束した。

 7月16日 近衛首相は、アメリカの要望を受けて松岡洋右外相を更迭する為に総辞職した。

 松岡洋右「日米交渉は、聖徳太子では成立しない。小村寿太郎侯の様に腹を決めないと」

 ドイツ空軍は、イギリス本土上陸作戦(シー・ライオン作戦,あしか作戦)を発動する前段階として、イギリス本土を空爆するバトル・オブ・ブリテンを開始した。

 無敵と言われたドイツ空軍は、イギリス空軍の鉄壁の守りで大惨敗した。

   ・   ・   ・   

 7月18日 第三次近衛内閣成立。近衛首相は、日米交渉を成功させ戦争を回避する為に、内閣を改造した。アメリカ側が嫌う松岡洋右外相を更迭し、新たに豊田貞次郎海軍大将を外相に起用した。

 スチムソン陸軍長官とノックス海軍長官は、陸海軍合同委員会が作成した日本本土爆撃作戦計画書に連署してルーズベルトに提出した。

 ルーズベルトは、計画書に満足して承認し、準備に取りかかる様に命じた。

 アメリカの対日開戦準備は、マニュアル通りに着実に進行していた。

 7月22日 第二次近衛内閣成立し、松岡洋右が外務大臣に就任した。

 近衛首相、松岡外相、東條英機陸相、及川海相らは、対外政策を協議し、日中戦争と南方問題を同時解決する事を申し合わせた。

 南方問題解決で、1,援蒋ルートがある北部仏印に対して「武力を行使する事もある」という陸軍案を、2,石油確保の為に蘭印に対して「武力を行使する事もある」という表現を削除した海軍案を採用した。石油等の重要物資は、外交的措置として平和的な話し合いで確保する事が確認された。

 戦争計画部長ターナー大将は、日本に戦争を強要するには、日本への全面禁輸措置及び在米日本資産凍結が有効策であると決定した。だが、戦争準備が調わない内に対日強硬措置をとる事は望ましくないとの結論を出した。

 戦準備完了は、来年春頃との見通しを示した。

 大統領の海軍ブレーンは、日本に対する経済制裁は日本軍の新たな南方への軍事行動を誘い自然の流れとしてアメリカが戦争に巻き込まれ恐れがあると、ルーズベルトに報告した。

 スターク海軍大将「経済制裁を科せば、何処かへ出向いていって石油を奪うであろうし、仮に自分が日本人であれば、自分もそうするだろう」

 スターリンは、さらに早い時期での対日戦開戦をアメリカ政府内の共産主義者に求め、さらなる強硬策で日本を破滅的戦争に追い込むように要請した。

 7月23日 野村大使は、ウェルズ国務次官に、仏印政府との合意で日本軍を南部仏印に進駐させる事を説明した。

 ルーズベルトは、蒋介石が提案する中国空軍に供与したBー17爆撃機による日本本土無差別爆撃計画を承認し、陸軍に作戦が成功するように支援をするように示唆した。

 アメリカ軍飛行士の身分をどう偽装するかで、その調整の為に元陸軍情報部長ジョン・マクルーダー少将を派遣る事を決めた。

 7月24日 外交問題評議会の戦争と平和研究プロジェクトは、ルーズベルトに対して、西半球と太平洋地域を支配し自給自足体制を築く為に、軍国日本をあらゆる手段を用いて屈服さえるべきであると提言した。

 イギリスは、アメリカを戦争に参戦させるべく情報戦を仕掛けていた。

 ルーズベルトは、資源を持たない日本に石油を供給してきた事は新たな侵略戦争を抑える為に効果があった、と発言した。

 ウエルズ国務次官は、より明解な表現で日本の脅威を認め、それに対する法的対抗策をとる事を表明した。

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 昭和天皇「先の戦争は油に始まり、油に終わった様なものだ」

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 アメリカ海軍は、日本の石油備蓄量を確かめるべく、西海岸から石油を積み出した日本のタンカーを駆逐艦に追尾させ、、徳山の海軍廠に運び込まれる石油量を計測した。

 ホワイト・ハウスとアメリカ軍は、日本が石油を奪う為にインドネシアに侵攻したら、オランダを救う為に日本軍を撃退する決断をし、参戦の為の戦争準備を着々と進めていた。

 山本五十六連合艦隊司令長官は、希望的観測としての「アメリカ素通り論」があり得ない事を百も承知をしていたが故に、長年の持論である航空機による真珠湾攻撃を決行しようとしていた。

   ・   ・   ・   

 アメリカ海軍情報部は、日本の油送船を監視することで日本の石油備蓄量を約700万トン、平時消費量の2年分と分析した。

 アメリカ軍首脳部は、日本軍は開戦から2年後には石油備蓄が底をつき、本格的反撃は43年以降が好ましいと結論に達し、ルーズベルトに報告した。

 7月25日 アメリカ政府は、在米日本資産凍結の声明を発表し、日本との通商を全面禁止を発令した。

 アメリカの有識者は、前日のルーズベルト発言が過去形で語られている事によって、戦争回避の対日宥和政策から戦争への強硬政策に切り替えられたのではないかと危惧した。

 ルーズベルトは、記者会見で、特定の相手国を挙げる事なく世界情勢でその危険性が高まっている事を、曖昧な表現で認めた。

 ルーズベルト(対日経済封鎖について)「数多くの目的の中でも特に合衆国の金融機関や日本と合衆国間の通商がアメリカの利益や国家防衛を害さない形で利用されるのを防ぐ事を、また、脅迫と征服によって得た資産が合衆国内で換金されるのを阻止する事を、そしてまた、合衆国内での破壊的な活動を防げる事を目指した」

 アメリカ政府は、日本との外交交渉の進展状況について詳しい発表を行っていなかった。

 国務省も軍当局も、関心は、日本ではなくナチス・ドイツであった。

 ワシントンの空気は、外国依存度の強い日本に資産凍結などの経済封鎖を行えば、日本は戦争はおろか日常生活も出来なくなり、戦争をせずとも日本を屈服させられると考えていた。つまり、日本を、中国とは戦争しても、アメリカと戦争する勇気のない愚かな相手と軽視していた。

 だが。中国で布教活動していたキリスト教宣教師や中国・朝鮮を共産主義化しようとしたマルクス主義者は、哀れな中国を救う為に日本の侵略的野望を武力で粉砕する事を希望した。

 介入主義者の大半は、ヒトラーを唯一の敵とし、ヨーロッパの戦争に参加する事を最優先課題として、日本と戦争をしてアジアを解放する事には興味がなかった。

 ルーズベルトは、日本に侵略戦争を停止しアジアに平和を回復させる事を迫るとして、在米日本資産を凍結し、両国の通商を停止させる大統領命令を出した。

   ・   ・   ・   

 7月26日 近衛内閣は、大東亜共栄圏を建設するという「基本国策要綱」を決定した。

 イギリスは、アメリカに追随して在英日本資産凍結を発表した。

 同時に、日英通商航海条約、日印通商条約、日緬(ビルマ)通商条約の破棄を通告した。

 ソ連のスパイである財務省通貨調査局長ハリー・デクスター・ホワイトは、日本の国際貿易を遮断する為に在米日本資産の凍結を提案した。

 アメリカは、国内の日本資産を凍結して日系企業の経済活動を停止させた。

 日本と取引していた日系アメリカ人商会の多くが倒産に追い込まれ、働いていた日系アメリカ人は失業して収入を断たれた。

 官公庁に勤めていた市民権を持つ日系アメリカ人は、法の権利を無視されて解雇されるか、自主退職する様に閑職に追い遣られた。

 同時に。日本国籍を持つ一世や二世の私的資産も全て凍結され、保険会社は医療など全てのサービスを停止した。

 農村部でも日本人住人排除が始まり、地主は日本人農民に貸して農地を取り上げ、種業者は日本人農家への苗木販売を停止した。

 日系アメリカ人は、日本人排斥で性格が苦しくなっても、アメリカで生活する国民として国家に忠誠を誓った。

 一部の日系アメリカ人は、アメリカでの生活に絶望して日本に帰国した。

   ・   ・   ・   

 7月27日 大本営政府連絡会議で、南進において武力行使を棚上げとした「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」が追認された。

 日本軍は、仏印政庁との国際法に基ずく合意に従い、合法的手段として平和的に南部仏印進駐を開始した。

 フランス軍の武装を解除しなかった。

 ベトナム人は、日本軍の進駐でフランス人の差別がなくなり、白人支配から解放されるとして大歓迎した。

 ニュージーランドは、制裁として、対日通商関係の破棄を通告した。

   ・   ・   ・   

 7月28日 蘭印は、日本資産凍結令を声明した。

 同時に、日本との金融協定と日蘭石油民間協定の停止を公表し、全ての在留日本人追放を命じた。

 南部仏印進駐。

 陸軍省軍務局長佐藤賢了「日本軍はすでに北部仏印に進駐していて、それがただ南部に進むだけだった。そして進駐はフランスのビシー政府との協定に基づいてやる事であって、けっして戦争でもなければ侵略でもない。またそこはアメリカの領土でもなければアメリカの植民地でもあい。日本政府はフィリピンの安全は保障している。蘭印に脅威を与える事になるかもしれないが、そこはアメリカの領土ではない。蘭印が平和的手段による日本との経済交渉に応じさえすれば、日本はこれを攻撃する意思はない。蘭印との平和的経済交渉を妨げているのは、オランダとアメリカである。南部仏印にわずかの日本軍が進駐したからといって、それによってフィリピンや蘭印とアメリカとの交通が脅威に晒されるよりも、ハワイにアメリカ太平洋艦隊が駐留している事の方が、はるかに日本に脅威を与えている。だから日本軍が南部仏印に進駐した事によって、アメリカが日本に戦争を仕掛けてくる理由はない」

   ・   ・   ・   

 7月29日 日本陸軍部隊は、南部仏印のサイゴンに進駐した。

 蘭印は、日本との石油民間協定を破棄し、日本への石油輸出を停止した。

 7月30日 昭和天皇は、杉山元参謀総長を謁見して、偽装工作である関東軍特別演習の中止を提案し、予想に反して南部仏印進駐で英米から経済圧迫を受けている事について詰問した。

 杉山元参謀総長は、厳しく叱責を受けて恐懼した。

 昭和天皇は、軍部から南部仏印進駐をしてもアメリカは報復に出ないという説明を受けて裁可した結果に愕然として、軍部に対する不信感をさらに強めた。

 永野修身軍令部総長は、昭和天皇に拝謁し、「対米戦争をできり限る避けたく存じますが、石油の供給が断たれてしまいますと、このままでは二年分の貯蔵量しかなく、開戦となれば一年半で消費し尽くしてしまいますので、この際、むしろ打って出る他ございません」と申し上げた。

 昭和天皇は、「しからば、両国戦争となったる場合に、自分も勝つと信じたいが、日本海海戦の如き大勝は、困難ではないか?」とご下問された。

 永野軍令部総長は、「日本海海戦の如き大勝はもちろん、勝ち得るや否やも、覚束ないところで御座います」と答えた。

 アメリカと戦って勝てるという確信を持っている者は、誰もいなかった。

 昭和天皇は、蓮沼蕃侍従武官長に、永野修身軍令部総長への不信を顕わにして、何としても対英米戦を避ける為の手立てを模索していた。

 『沢本頼雄海軍次官日記』

 昭和天皇は、蓮沼侍従武官長に「前総長は戦争に対して慎重なりしも、永野は好戦的にて困る。海軍の作戦は捨て鉢的なり。持久戦に策はないか」と御下問した。

 蓮沼は、「書類には勝算ありと書きあるに反し算が立たぬ」と奉答した。

昭和天皇は、「成算なきものに対して戦争を始めるのは如何なものか」として永野と海軍の無責任さに不満を漏らした。

 日本の官僚の一部は、出世する為に、上司が望むような書類を書き上げ数値を操作してゴマをすり、国を誤らせ国民に甚大な被害をもたらす事がある。

 日本人はおおにして自己判断をするのが苦手で、事勿れ主義的に責任を取らなくても済むように誤魔化していた。

 この当時の官僚は、国内の空気を読み、このまま進めば戦争になる危険性がある事が分かっていながら偽りの種類を提出していた。

 ルーズベルトは、戦争に発展する危険を覚悟の上で、全海軍艦艇に対して枢軸国軍艦艇に行動を起こす準備を命じた。敵からの攻撃に対する正当防衛として、発砲を事実上許可した。

 アメリカの参戦意思は、強かった。

 7月31日朝 昭和天皇は、アメリカと戦うのが海軍である為、永野修身軍令部総長を召し出し海軍の存念を質した。

 昭和天皇「然らば両国戦争となりたる場合、その結果は如何に。提出したる書面には勝つと説明してある故、自分も勝つとは信ずるが日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」

 永野修身は、「日本海海戦の如き大勝はもちろん、勝ち得るかや覚束ない」と奉答した。

 昭和天皇は、勝つ自信なく戦争を主張している無責任さに驚愕した。

 昭和天皇は、永野修身軍令部総長が退席した後、直ぐさま木戸幸一内大臣に感想を漏らした。

 「かくては、つまり捨て鉢の戦をするという事にて危険なり」

 昭和天皇の本心は、外交による話し合いで戦争を回避する事であったが、軍部がアメリカの妥協を許さない硬直した外交姿勢に苛立っている事を知り、憂慮していた。

 木戸内大臣は、直ぐさま、近衛文麿首相を呼んで協議した。

 「至急陸海軍大臣と国策の根本につき徹底的に議論し、もし意見合わざれば桂冠(辞職)するもやむを得ず、その場合には後は陸海軍をして収拾に当たらしむるの外なし

 日本海軍艦艇は、カムラン湾に入港した。

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 7月の終わりに。アメリカ海軍は、国際法違反を承知でポップアップ艦隊を豊後水道に侵入させた。

 日本海軍は、緊迫した日米関係を考慮して迎撃行動を避け、アメリカ大使館に抗議する事にとどめた。







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2017-10-27

♬:27─13─各国に広がる「南京大虐殺記念日」制定動議可決と日本批判。カナダ。〜No.141           

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 日本の主張は、日本国内限定であり国際社会には通用しない。

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 2017年10月27日 産経ニュース「【歴史戦】カナダ・オンタリオ州で「南京大虐殺記念日」制定の動議可決

 【ニューヨーク=上塚真由】カナダ東部のオンタリオ州議会は26日、旧日本軍が1937(昭和12)年に中国・南京を占領した12月13日を「南京大虐殺記念日」と定める動議について審議し、可決した。中国系の議員が主導し、州議会では制定の意義を強調する意見表明が相次いだ。中国系人口が多い同州で、記念日制定を受けて反日運動などが高まる可能性もある。

 南京大虐殺記念日の制定をめぐっては昨年12月、中国系のスー・ウォン議員が法案を提出。しかし、現地で反対運動が起こるなどして採決には至っていない。ウォン氏は法案を取り下げないまま今回、法的拘束力のない動議に切り替えて提案し、26日に投票を経ずに可決された。

 動議では、12月13日を記念日として定めることで、「オンタリオ州議会は、南京大虐殺の20万人を超える犠牲者を認めて追悼し、遺族に敬意を表すとともに、南京大虐殺やほかのアジアで起きた第二次大戦の残虐行為についても理解を深めるべきだ」などと明記した。

 ウォン氏は議会演説で、「南京大虐殺では占領下で何万人もの女性が性的暴行を受けた。アジアで起きた残虐行為は歴史の授業でめったに取り上げられないが、(制定によって)若い世代に学ぶ機会を与えることができる」と意義を訴えた。他の議員からも、「日本の右派は大虐殺が起きていないと主張しているが、世界中に真実を理解させることが重要だ」などと動議に賛同する意見が相次いだ。

 衛藤征士郎元衆院副議長ら自民党の複数の有志議員は今年6月、記念日制定の動きについて懸念を伝える意見書を州議会に送付していた。」

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 11月4日 産経ニュース「【歴史戦】【「慰安婦」日韓合意】サンフランシスコ市議会委、慰安婦像の受け入れ決定

 【ロサンゼルス=住井亨介】米カリフォルニア州サンフランシスコ市の市有地に設置されている慰安婦像と碑文をめぐり、市議会の委員会は2日、像と碑文の寄贈を受け入れることを決めた。14日の本会議で採決される。

 市議会によると、像と碑文のほか、最低20年間のメンテナンス費用として約20万8千ドル(約2370万円)が、像設置を主導した中国系米国人らの団体から市側に寄贈される。

 像と碑文が設置されたスペースは私有地だったが、先月市側に寄贈され市有地となった。

 同市の姉妹都市である大阪市の吉村洋文市長は、像と碑文の公共物化に懸念を示し、姉妹都市関係を解消する可能性に言及している。」

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 11月4日05:00 産経ニュース「【歴史戦】「南京大虐殺記念日」カナダの別の州でも法案 事件80年で制定の動き拡大、今度はマニトバ州

 カナダ中部マニトバ州の州議会で、旧日本軍が1937(昭和12)年に中国・南京を占領した12月13日を「南京大虐殺記念日」と定める法案を審査する手続きが進んでいることが3日、分かった。記念日制定を目指す動きは、同州に隣接するオンタリオ州議会でも動議が採択されたばかり。今年は南京事件から80年にあたることから、記念日制定を目指す動きが激しくなっている。

 中国国営新華社通信によると、マニトバ州議会の法案を提出したフィリピン系の女性議員は「マニトバ州にいる多くの中国系住民の中には、親族に南京大虐殺の犠牲者がいる人も少なくない。記念日の制定は犠牲者を追悼し、歴史の教訓を学び、悲劇を繰り返さないためだ」と語っている。

 カナダの州議会は、3段階の審議を行う「三読会制」を取り、法案は本会議での一読会と二読会、委員会審査、本会議での三読会の後、州総督の署名を経て州法として発効する。マニトバ州議会は10月26日に記念日制定の法案について二読会を終えたという。

 一方、オンタリオ州では同じ日に同趣旨の記念日制定を定める動議が州議会で採択された。当初は昨年12月に法案として提出され、法案は二読会まで進んだが、委員会で審議されない状況が続いていた。法案を提出した中国系のスー・ウォン議員が業を煮やし、法案可決の実現に向けた機運づくりとして動議を提出したとされる。

 河野太郎外相は「(法的拘束力がない)動議に格下げになった」との認識を示しているが、ウォン議員は「まず動議を可決して、その後に法案の可決を勝ち取る」と中国メディアに語っており、法案の可決になお意欲をみせる。

 7月にオンタリオ州の状況を視察した自民党国際情報検討委員会の原田義昭委員長は「動議をステップアップの材料にして、法案可決を目指す動きが激しくなる恐れがある」と述べ、警戒を強めている。

 オンタリオ州では、10月28日には州都トロントで、中国系団体などが「南京大虐殺文物資料展」を開催しており、南京陥落80周年を前に中国と無関係の第三国で日本をおとしめる運動が活発化している。」

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 11月5日 産経ニュース「【歴史戦】「南京大虐殺記念日」制定法案、加マニトバ州は優先審議せず

 カナダ中部マニトバ州の州議会で、旧日本軍が中国・南京を占領した1937(昭和12)年12月13日を「南京大虐殺記念日」と定める法案の審査手続きをめぐり、早期成立を目指す野党側が同法案の優先審議を求める動議を提出したものの、与党側の反対多数で否決されたことが4日、分かった。州議会は9日に閉会するため、今会期中の法案成立は事実上なくなった。

 ただ、今月下旬には次の会期が始まるため、推進派は改めて法案成立を目指して働きかけを強めそうだ。

 法案を提出した野党の新民主党は、旧日本軍による南京占領から80年となる12月13日までの成立をもくろんでいるとみられ、他の法案に優先して記念日制定法案を審議するよう求める動議を議会に提出していた。

 マニトバ州の隣のオンタリオ州議会では10月26日、同じく南京の記念日制定を求める内容で、法的拘束力のない動議が可決された。オンタリオ州議会も当初、法案成立を目指したが、法案に比べて可決のハードルが低い動議に切り替えた。マニトバ州議会も動議に切り替える可能性があり、予断を許さない状況が続く。」

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2017-10-26

♚:37─9─アジアにおける中国共産党の一帯一路戦略。ロヒンギャ民族問題。スリランカ。〜No.236    

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 中国共産党のアジア侵出・領土拡大という国家戦略が、諸外国内で紛争を引き起こしている。

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 アジア各地にある少数派と多数派の対立・差別そして憎悪による流血事件。

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 2017年11月5日号 サンデー毎日「世界透視術 金子秀樹

 スーチー氏の謎の沈黙

 ミャンマーの少数民族ロヒンギャが民兵や軍の迫害を逃れて、1ヵ月半に54万人もが隣国バングラデシュに逃れた。国連は『前例のない規模の危機』『典型的なエスニック・クレンジング(民族浄化)』だとして、ミャンマー政府の対応を非難している。

 国際社会を失望させたのは、ミャンマーの国家指導者になったノーベル平和賞受賞者アウンサンスーチー氏の沈黙だ。『西側メディアのウソ・ニュース』などという軍の言い訳を丸呑みにし、記者会見で外国の記者に『あなたは人権の擁護者ではないのか』と追求されると『私は政治家です』と開き直った。これはどうしたことだろうか。

 スーチー氏の立場に理解のある西側報道をまとめれば、第一にスーチー氏はミャンマーの多数の人と同様、ロヒンギャが隣のバングラデシュから国境を越えてミャンマー・ラカイシ州に流れ込んだ異邦人だと誤解している。イスラム教徒のロヒンギャは、仏教徒の国ミャンマーでは宗教的にも明らかによそ者に見える。

 確かにロヒンギャに無国籍者が多いことは事実だ。だが、それは35年前にビルマ国籍法が公布されて普通公民、準公民、帰化公民の区分けができた際、約100万人のロヒンギャはいずれでもないと、軍事政権によって不当に国籍を剥奪された結果である。

 バングラデシュとミャンマーの国境は、かつてバングラデシュが英領東ベンガル、ミャンマーが英領ビルマだった1937年に英国が引いた境界線で、この時にベンガル人イスラム教徒の居住地域の一部がビルマ側に入った。それがロヒンギャ居住地区だから、ロヒンギャはベンガル系のビルマ原住民で、異邦人ではない。

 第二にミャンマーの軍政は終わったが、まだ軍が実質的権力を握っている。スーチー氏は軍を制止できないかもしれない。軍がロヒンギャ居住地区を包囲し、民兵が住居を焼き払って追いはらったり銃撃したと報道されても、スーチー氏には『ロヒンギャが自宅に放火して逃げた』という軍の情報しか伝わらない。

 第三に中国問題という難問がある。ロヒンギャはは英領時代から少数派イスラム教徒として差別され、紛争はあったとしても、民族浄化といわれるほどの事件はこれまで起きていない。なぜ今、こんな騒ぎになったのか。そのわけは、なぜ中国だけがミャンマー政府を強く支持するのかを考えると浮かび上がってくる。

 中国は、ラカイシ州のチャウピュ−を起点にミャンマーを縦断し、中国雲南省の都市、昆明に至る石油、天然ガスのパイプラインを建設した。中国のエネルギー戦略、安保戦略上、極めて重要なインフラ。その起点周辺にあるのがロヒンギャ居住地域だ。パイプラインの安全を守るため、中国はその地域をミャンマー軍の直轄地や中国企業の工業団地などにさせたいのではないか。スーチー氏は、真相が分かっても沈黙せざるを得ないだろう」

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 11月2日08:48 産経ニュース「【ロヒンギャ問題】仏教徒・ヒンズー教徒の敵対心「州が乗っ取られる」「世界の同情買っている」

 ミャンマーから治安部隊の掃討作戦を理由に、難民となるイスラム教徒少数民族ロヒンギャが後を絶たない。最大の流出先バングラデシュは、ミャンマーに帰還に向けた行動を要求。「難民発生は、ロヒンギャの武装勢力による治安部隊襲撃が発端」と主張するミャンマーは、アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相が無策ぶりを国際社会から批判され、身元確認作業を行えば難民の帰国を認めることに言及した。両国は10月24日、帰還に向けた協力で一致したものの、解決の糸口は見えない。ともに被害を訴える両国住民の姿を追った。

   ◇   

 ミャンマー西部ラカイン州北部は、大量のロヒンギャ難民を生んできた。8月25日にロヒンギャの武装組織に襲撃された治安部隊が掃討作戦を展開したためだ。国際社会は深刻な人道問題だと解決を訴えるが、同州では、仏教徒やヒンズー教徒らがロヒンギャへの敵対心を深めていた。

 州都シットウェにあるヒンズー教寺院では、455人の同教徒が避難を続けていた。北に約100キロ離れた、バングラデシュ国境に近い主要都市マウンドーで、ロヒンギャの武装組織に襲われ逃れてきた。留守で助かったというカー・ジョー・リーさん(16)は「家族7人全員殺された。どう生きていけばいいのか」と訴えた。

 ミャンマー政府は9月下旬、マウンドーでヒンズー教徒の集団墓地を発見。50人以上が殺害され、190人以上が行方不明とした。

 「近所のイスラム住民が急に暴漢に変貌し『殺せ、殺せ』と叫び出した」。以前マウンドー庁舎脇に住んでいた仏教徒のラカイン族女性は、8月25日未明の様子を語った。庁舎に爆弾3発が投げ込まれたが不発だった。近くの仏教寺院に2日間隠れ、シットウェに家族で避難してきたという。

 25日のマウンドーの警察施設など30カ所以上への同時攻撃で、ARSAが犯行声明を出した。父親がラカイン州出身で、パキスタンで生まれ、サウジアラビアで育ち、過激派ロヒンギャを束ねるアタ・ウラ氏が、指導者とされる。2013年から軍事訓練を始めた、と国軍筋は指摘する。だが、国際テロ組織の関与は確認されておらず、不明な部分が多い。

 ARSAに反抗し殺害されたとみられるロヒンギャの若者の死体が見つかるなど、異常を察した国軍は8月中旬、将兵約1000人をマウンドーに派遣していたが、襲撃を許してしまったという。

 仏教徒が9割を占めるミャンマーで、イスラム教徒は4%ほどだが、マウンドーでは98%を占める。ロヒンギャは人口増でラカイン州南部に勢力を広げた。

 州の国際機関への助言役、ター・プイント氏は、「一夫多妻制とバングラデシュからの不法移民流入で、州全体が乗っ取られてしまう」と主張。ロヒンギャについて「自分の家に火を付け、国軍の乱暴をでっち上げ、世界の同情を買って、さらなる支援を獲得している」と訴えた。(シットウェ 吉村英輝)」

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 11月2日12:32 産経ニュース「【ロヒンギャ問題】60万人、逃げ延びた先の辛酸「目覚めるたび絶望」

 10月18日、ミャンマー西部ラカイン州シットウェのヒンズー寺院で、ロヒンギャ武装勢力に家族を殺害されたという避難民ら(吉村英輝撮影)

 バングラデシュに逃げ込んだロヒンギャ難民は、この2カ月で約60万7千人(国連まとめ)に上る。それ以前の数を加えると、90万人以上との推計もある。ミャンマー国境に近いバングラデシュ南東部コックスバザールの難民キャンプでは、竹とビニールシートで作った仮設住宅に住み、悪臭に悩まされる劣悪な環境での生活を送る。生き延びたという安堵はほとんどなく、家族が殺された怒りと、絶望がキャンプ地を覆っていた。

 「銃弾が夫と子供を撃ち抜いた。血が飛び散り、私も殺されると覚悟した」

 キャンプで暮らすロヒンギャ難民の一人、アノワラ・レグムさん(28)は、うつろな表情で目撃した光景を語った。

 9月下旬のある日の夕方、突然ミャンマー治安部隊の兵士が集落を襲い、農作業中だった夫と8歳の長男を撃った。レグムさんはとっさに次男を脇に抱えて走り続けた。素足で逃げる途中、割れたガラスを踏んだが気にならなかった。「夫と子供が死んだことを悲しむ余裕もなかった」と振り返る。

 その後、国境のナフ川で、金の指輪と引き換えに渡し船に乗り込んだ。小さな漁船に約30人が詰め込まれ、左右に大きく揺れながら、対岸のコックスバザールにたどり着いた。後に出発したボートは転覆して10人が死んだという。

 ナフ川では渡し船が確保できずプラスチック製の容器などに捕まって渡河し、溺死する事案も相次ぐ。

 「ここまで来られて安心している。だが、今後私たちはどうなるのだろうか」とレグムさんは話す。

 8月25日にミャンマー西部ラカイン州で、武装組織「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)が警察施設などを襲撃した後、治安部隊が「テロ掃討戦」としてロヒンギャの集落に攻撃を開始。住民たちは毎日数千人単位でコックスバザールに逃げ込んだ。

 コックスバザールは丘陵地帯で、難民たちは斜面を削ってわずかなスペースに住居を建てて暮らす。雨が降ると丘から住居そのものが滑り落ちることもある。父親が殺されたというアジズアハブさん(25)が住む仮設住宅は屋根がなく、台風のときは雨に打たれながら一夜を過ごした。汚物の悪臭に悩まされ「毎朝、目が覚めるたびに絶望を感じる」と声を落とした。

 大規模なキャンプ地であるクトゥパロンなどには国際機関の支援が及びつつあるが、アジズアハブさんのいる小さなキャンプ地では飲み水にも困る。現地で支援に携わる国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のビビアン・タン報道官は「難民はお金も家財もない。彼らにはすべてが必要なものだ」と話す。

 キャンプで目につくのは子供の多さだ。

 「概算だが難民の50〜60%、30万人以上は18歳未満だろう」と、現地で支援活動に従事するNGO「BRAC」のカリッド・モーシュドさんは分析する。国連児童基金(ユニセフ)は、栄養状態が極めて悪い子供が1万4500人に達すると推定。生後8カ月の乳児で体重が3キロ程度の例もあったという。

 難民のアリフ・ウラさん(55)は「ミャンマー政府はなぜARSAではない普通の民衆を攻撃するのか」と涙を浮かべた。(コックスバザール 森浩)」

   ・   ・   ・   

 ミャンマーでは、多数派と少数派の対立が激しくなり、少数派は多数派も攻撃から逃げるように周辺諸国へ難民として流れ込んでいた。

 特に激しいのは、仏教とイスラム教間の宗教対立であった。

 ミャンマー仏教徒は、仏教国であったインドネシアがイスラム教に乗っ取られた事を教訓として、国教の仏教を守る為に国内のイスラム教排除に暴力を行使し始めた。

 絶対真理を信仰する宗教・宗派は、ひとたび他宗教・宗派の絶対真理に懐疑心・不信感・脅威を感じると自分の絶対真理を正当化して宗教弾圧を行う。

   ・   ・   ・   

 世界の宗教史において、異端者や異教徒に対する陰惨な宗教弾圧・迫害の事例は数多く存在し、虐殺の末に根絶された宗教・宗派は数多く存在する。

 普遍宗教は、他の普遍宗教と激しく対立し、地域的民族宗教を消滅させる。

 中世キリスト教会・イエズス会による、異端審問や魔女狩りとイスラム教に対する十字軍、中南米諸国のキリスト教化成功と日本のキリスト教化失敗。

 白人キリスト教徒は、「隣人愛信仰」の絶対真理から、中南米のインディオを虐殺し民族宗教を消滅させ、日本人を奴隷として売買し日本神道・日本仏教を破壊しようとした。

   ・   ・   ・   

 無宗教無神論を自称する日本人や思考停止的単純細胞的にキリシタン弾圧に憤る日本人には、深刻な宗教対立は理解できない。

 多宗教・相対価値観の日本人は、宗教対立を行う両者との利害関係がないので仲介して対立を解決できる、と考えるのは宗教や道理が理解できない無教養者である。

   ・   ・   ・   

 日本人が、脳天気に宗教対立や人種・民族対立などが理解できないのは、短期間に100万人以上の外国人移民・難民が流れ込んだ経験がないからである。

 平安時代。700人の渡来系新羅人は、日本天皇への忠誠を拒否し、駿河・伊豆地方で叛乱を起こした。

 数万人はいたであろう関東の帰化系の百済人や高句麗人は、日本天皇への忠誠を誓って叛乱に参加しなかった。

 海が、異人種・異民族・異宗教・異文化の大量流入を防いだお陰で、日本は平和を保ち、独自の民族的な宗教・文化・国語・習慣風習で穏やかな生活をおくれていた。

 もし、数百万人の日本天皇と日本国への忠誠を拒否する反日的外国人が短期間で日本に移住してくると、日本は民族性を失って大混乱に陥る。

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 中国共産党政府の安全保障上欠かせない重要案件は、尖閣諸島・沖縄、沖ノ鳥島、北海道である。

 尖閣諸島・沖縄は太平洋に出る為に、北海道は北極海航路の為に、沖ノ鳥島は西太平洋支配の為に。

 それは、アメリカの攻撃から祖国を守る自衛戦略である。

 日本国内には、中国の国家戦略に協力する反天皇反日的日本人が少なからず存在する。

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 理想的自衛戦略は、敵の攻撃を国外・海外で完全に撃破する事である。

 専守防衛として、敵軍を自国の領土・領海・領空に引き込んで撃破するのは幼稚な子供の喧嘩である。

 その意味では、明治以来の日本軍の国防戦略戦術は正しかった。

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 中国共産党・中国軍は、反日派・敵日派である。

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 ウィキペディア。 

 ロヒンギャとは、ミャンマーのラカイン州(旧アラカン州)に住む人々である。現地ミャンマーではロヒンジャ、隣国タイではロヒンヤと発音される。また、ミャンマーではロヒンギャの存在そのものを否定し、バングラデシュの不法移民であるとの主張から、「ベンガル人」と意図的に呼ばれている。

 宗教

 ロヒンギャにとって宗教は大切なものであり、イスラム教が主流である。

 生業

 主に農業で生計を営むが、商人としての交易活動も盛んである。

 

 人口

 ミャンマーにおけるロヒンギャの人口規模は80万人と推計 されるが、政府当局の統計の信憑性が低いと考えられるため正確な数値は不明である。

 民族

 チッタゴンから移住したイスラーム教徒がロヒンギャであるとの学説があるが、英領インドから英領ビルマへ移住したムスリムには下記のように4種の移民が存在しており、実際には他のグループと複雑に混じり合っているため弁別は困難である。

 チッタゴンからの移住者で、特に英領植民地になって以後に流入した人々。

 ミャウー朝時代(1430-1784年)の従者の末裔。

 「カマン(Kammaan)」と呼ばれた傭兵の末裔。

 1784年のビルマ併合後、強制移住させられた人々。

 現在も、ラカイン州では仏教徒であるアラカン人(ラカイン人)とイスラーム教徒であるロヒンギャの間で死者の出る衝突が頻発しているが、次代を期待されるアウンサンスーチーはこの問題についての解答を留保しているため、ロヒンギャ側は不満を露わにしている。そして、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟が政権を取っても状況は変わらず、国連調査団の入国不許可を表明した。

 アラカン人のロヒンギャへの敵意は強く、アラカン人の民族政党・上座部仏教政党であるアラカン国民党(ANP)は、「ベンガル人」追放を公約している。以前に認められていた国籍や参政権などの諸権利も、アラカン人には不法に与えられたものと認識されている。こうした主張の背景には、ラカイン州の中で「ベンガル人」ムスリムのみが不当に国際社会から優遇されているという不満もある。上座部仏教徒住民による、ロヒンギャ支援妨害や、支援車両への攻撃も起きている。

 言語

 インド語派東部語群(マガダ語)ベンガル・アッサム語(英語版)に属するロヒンギャ語を使用、チッタゴン語に近いが、類縁とされるベンガル語との相互理解は難しい。ロヒンギャはミャンマーの公用語であるビルマ語(シナ・チベット語族)を使用しないことも統合に支障を生じる原因となっている。

 正書法が確立しておらず、アラビア文字、ウルドゥー文字、ラテン文字、ビルマ文字等による表記が入り乱れている。1980年代には、モーラナ・ハニフィが、アラビア文字をもとに書法を作成し、これが、ハニフィ(Hanifi)又はロヒンギャ文字と呼ばれているものである。

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スリランカと中国共産党政府の一帯一路戦略

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 2016年12月15日 産経ニュース「スリランカのハンバントタ港、中国企業が株の80%取得へ

 【ニューデリー=岩田智雄】スリランカ政府は14日、中国の援助で建設した南部ハンバントタ港について、スリランカ国営企業の株式の80%を中国国営企業に長期貸与する方針を明らかにした。来年1月初めの合意を目指す。中国は、インド洋周辺で港湾整備を支援する「真珠の首飾り戦略」を進めており、地域への影響力を強めそうだ。

 スリランカのラナトゥンガ港湾・海運相は、中国国営港湾会社への99年間の株式貸与することで、11億2千万ドル(約1300億円)を得ると明らかにした。

 ハンバントタ港はラジャパクサ前大統領が2010年、自身の地元に建設した。今も残る債務13億5千万ドルの大半は、中国輸出入銀行からの年率6・3%の借り入れだ。中国企業に開発を委ねたが、新港は、完成後に沖合に見つかった巨大な岩の破壊が必要になったほか、需要が少なく、現シリセナ政権は運営に苦心してきた。

 中国の新シルクロード(一帯一路)構想に賛同したラジャパクサ前政権が、インフラ整備などで負った中国からの債務は80億ドルに上るとされる。シリセナ政権は前政権を批判し、過度の対中依存を見直してきたものの、財政が逼迫(ひっぱく)する中、港の株式を中国へ引き渡すしかなかったようだ。

 ハンバントタ港では中国に港の運営権を握られ、失業することを懸念した約480人の港湾労働者が政府への抗議運動を続けており、最近では川崎汽船が運航する自動車専用船が4日間、出港できなくなり、海軍がデモ隊を排除する事態も起きた。

 ラジャパクサ前政権下の約2年前、安倍晋三首相のスリランカ訪問時には、中国の潜水艦がコロンボ港に寄港した。インドは、周辺地域での中国軍の活動を警戒している。」

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 2017年6月2日 日経ビジネス「「一帯一路」に対抗する日・インドの戦略構想

 インドを陸海空物流のハブに

 中国が5月中旬、「一帯一路」サミットを北京で開催した。「シルクロード」を再構築する大規模な試みだ。ロシアやインドネシアなどの大統領も集まり、大きなイベントとなった。

 このサミットに、明確に反旗を翻した国がある。インドだ。インドは招待されたにもかかわらず代表を送らなかったばかりか、「一帯一路」構想の問題点を指摘する公式声明を出した。

 そのインドのナレンドラ・モディ首相は5月24日、「アジア・アフリカ成長回廊」という構想を明らかにした。これは日本とインドが協力する構想である。

 インドは中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)や、BRICS首脳会議などの主要メンバー。経済面では、日本や米国だけでなく、中国やロシアとも付き合ってきた国だ。そのインドが、今、中国と対決する姿勢を明確に見せている。

 どうして明確な立場を示したのか。インドが「一帯一路」構想に反対した背景、インドが日本と進めているインド洋周辺の対抗策、日本としてどうするべきなのか。本稿はこの課題を分析する。

 借金漬けにして中国の影響下に

 インド外務省のホームページに、「一帯一路」構想を取り上げたページがある。ここには、本来あるべき経済協力の姿と、「一帯一路」構想がその理想からかけ離れていることが書かれている。どうやら、インドは2つのことを気にしているようだ。

 1つ目は、返済できないような多額のローンを中国が高い金利で貸している点だ。諸国を借金漬けにして中国の影響下に置こうとする、悪意に満ちた計画ととらえているのである。

 例えば、中国がスリランカに建設したハンバントタ港の建設がその例として挙げている。スリランカ政府は、ハンバントタという場所に、中国の協力を得て港と空港を建設した。その際、中国から借り入れを受けた。金利は6.3%。

 ローンは返さなければならない。だがスリランカは80億ドルに及ぶローンを返却するめどが立っておらず、中国に今後99年にわたって運営権を渡す契約に合意することになりそうだ。さらには、同港の敷地内において治安や警備の権限まで中国に認めることになりかねない。

 もし治安や警備の権限を認めた場合、スリランカ政府は、ハンバントタ港の中で何が行われているか把握できない状態に陥る。同港は中国の、中国による、中国のための港になってしまう。

 世界銀行や、日本が主導するアジア開発銀行から国が借り入れをする場合、利率は0.25〜3%である。中国の6.3%というのは非常に高い。インドはこれを見て、帝国主義時代に欧米列強が植民地を作ったやり方と同様だと考え始めている。インドの歴史を振り返ると、英国は、税金を払えない農民の土地を差し押さえることで、インド人を、英国人の支配下においていった。

 インドの領土”で中国軍が道路建設

 インドが反対したもう1つの理由は、インドの領土問題にかかわるからだ。「一帯一路」構想には、「中国・パキスタン経済回廊」が含まれる。中東産の石油をパキスタンで陸揚げし、パキスタン国内を北上して中国へ運ぶルートを指す。

 このルートは、パキスタンが管理するカシミール地域を通過する。この部分の道路を、中国軍が駐留して建設している。インドが自国の領土と主張しているところに中国軍が駐留して道路を建設して使用するというのは、インドにとって譲れない一線だ。

 こうした理由から、インドは「一帯一路」構想との対決を決めたのである。

 しかし、なぜ今、対決を決めたのであろうか。何か代替案をみつけたのであろうか。実は、注目すべき経済構想が実際に動いている。中国ではなく、日本と連携する構想だ。どんなものがあるのか。

 インドと東南アジアを陸路でつなぐ

 まず注目されるのは、インド北東部の道路建設プロジェクトだ。このプロジェクトの趣旨は、インドと東南アジアを陸路でつないで物流を活発化させ、経済を活性化させることにある。ただし、経済的な目的の裏に、安全保障を含めたより戦略的な思惑もある。

 中国が南シナ海で強引な行動を取っている原因の一つとして、東南アジア諸国の態度がはっきりしないことがある。安全保障に不安を覚えつつも、経済面で中国に強く依存していることが一因だ。この中国依存を緩和するのに、インドとの貿易拡大が貢献する。

 さらに、インド北東部には、インドと中国の双方が領有権を主張しているアルナチャル・プラデシュ州(中国名:南チベット)がある。インドは防衛力の増強を進めているが、インフラがないために軍を素早く移動させることができない。もし道路が整備されれば、それがたとえ民生用の道路だったとしても、インド軍の展開を助ける結果になるだろう(関連記事「インドが日本に示した奥の手」)。

 中国に対抗し、スリランカに新港を建設

 次に注目されるのはスリランカのトリンコマリー港の開発だ。日本とインドが協力して同港を建設する計画である。その戦略的背景は何か。

 前述のように、スリランカでは中国がハンバントタ港を建設している。日印は、中国がスリランカで影響力を強め、最終的に中国海軍の拠点を構築することを懸念している。

 そこで日印は、スリランカに中国製よりも優れた港を作り、中国の港の存在意義を低下させて、日印の影響力を維持しようとしているのである。優れた港とは、実際にスリランカの経済に資する拠点となるものだ。そこでトリンコマリー港が候補になった。

 同港は、スリランカ北東部に位置する。天然の良港で、地形上、台風や津波などから守られている。深さは25mもあり、商船も軍艦(例えば空母や大型の原子力潜水艦まで)も利用できる。だから大英帝国時代にはここが海軍の拠点であった。第二次世界大戦のときに、日本の空母機動部隊が爆撃したのもこの港である。しかし、英国が去って以降、スリランカ政府はあまり利用してこなかった。

 そこで日印の計画が浮上した。今年4月、スリランカのラニル・ウィクラマシンハ首相が来日したとき、日本とスリランカの両国は共同声明を発表し、トリンコマリー港の設備整備のために日本が10億円を無償提供することに言及した。

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 7月26日 産経ニュース「中国と新たな合意 スリランカ「軍事利用させない」 港権益貸与

 【ニューデリー=岩田智雄】スリランカが南部ハンバントタ港の権益を中国企業へ長期貸与する計画が、地元の反対運動などにより宙に浮いていた問題で、スリランカ政府は25日、新たな中国側との合意内容を決定した。

 ロイター通信によれば、合意の詳しい内容は発表されていないものの、2つの会社が設立される。一方は港の運用を行い、中国企業が85%の株式を取得し、10年後には65%に減らす。もう一方の会社は治安面での運用を行い、スリランカ側が株式の50・7%、中国側が49・3%を所有する。

 サマラシンハ港湾相は「中国側には、港を軍事目的では使わせないと伝えており、治安面の責任は、100%スリランカ政府にある」と述べた。合意内容は今週中に議会の採決に付される。AP通信によれば、週末にも中国企業と合意文書に署名する。株式の貸与期間は99年。

 中国は、インド洋周辺で港湾整備を支援する「真珠の首飾り戦略」により、ハンバントタ港の建設費をスリランカ政府に貸し付けた。

 しかし、最高6・3%にも上る高金利により、スリランカ政府が債務の返済に窮し、港を所管するスリランカ国営企業の株式の80%を中国国有企業に99年間貸与することで昨年12月、中国側と基本合意した。スリランカは、中国の現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」の主要参加国にも位置づけられている。

 これに対し、地元では失業を懸念する港湾労働者や、経済特区建設による土地買収に反発する市民が政府への抗議デモを展開。インドや日本は、中国の軍事利用につながる恐れがあるとして警戒していた。

 今年4月に訪日したスリランカのウィクラマシンハ首相は安倍晋三首相との会談で、スリランカがハンバントタ港を含む港湾の税関などを完全に管理し、その利用を商業目的とすることの重要性も確認していた。」

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中国外交戦略 その根底にあるもの (講談社選書メチエ)

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AIIBの正体(祥伝社新書)

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2017-10-25

♞:61─3─『台湾人の歌舞伎町 新宿 もうひとつの戦後史』〜No.352No.353           

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 2017年11月号 新潮45「BOOK 山村沓樹

 『台湾人の歌舞伎町 新宿 もうひとつの戦後史』 稲葉慧子、青池憲司

 名曲喫茶、キャバレー・・・彼らがもたらしたもの

 赤裸々な欲望が渦巻き、様々な人種が群れ集う、猥雑で時に危うさを漂わせる街──。新宿・歌舞伎町については多くの著書が書かれているが、本書は、今まで書かれることのなかった視点から描かれた爐發Δ劼箸弔硫良餞貭瓩任△襦昭和20(1945)年4月と5月の空襲で、新宿駅から歌舞伎町(当時の名称は角筈1丁目)にかけての一帯は焼き尽くされた。焼け残ったのは、『二幸』『高野』『三越』『伊勢丹』などのわずかな建物だけ。しかし、敗戦後わずか5日目に、関東尾津組が、この焼け跡に『光は新宿から』のスローガンを掲げて『新宿マーケット』を開設したことはよく知られている。それに続いて新宿駅西口に『新宿西口マーケット』が登場した。ここに集まったのが、若い台湾人留学生たちである。昭和20年には累計20万人を超えていたという彼らの一部は、戦後も日本に残り、牴鯤国民瓩箸靴討瞭淡△鮴犬して闇市で活躍した。

 パチンコ店から焼酎バー、焼き鳥バーと業態を変えながらしぶとく生き抜いた彼らは、更なる飛躍を求めて歌舞伎町に進出する。新宿西口で大規模再開発事業が進められ、立ち退きを迫られたため新天地が必要だったからである。

 角筈1丁目が歌舞伎町という名称に代わったのは昭和23(1948)年4月。敗戦後、いち早く構想された復興計画で、この地に歌舞伎劇場を建てる予定だったためこの町名が選ばれた。しかし、建設制限や物資不足などで計画案は停滞し、歌舞伎座建築は見送られ、一帯はラブホテルが乱立する青線地帯と化していた。

 この歌舞伎町に、昭和28(1953)年から翌年にかけて、『でんえん』と『スカラ座』の二つの名曲喫茶が開店。さらに、歌声喫茶『カチューシャ』がオープンした。いずれも台湾人の留学生兄弟がオーナーだった。

 昭和31(1956)年12月、東宝の小林一三が新宿コマ劇場を建てた頃から、折からの映画ブームもあり、歌舞伎町は若者が集まる一大興行街としての地位を確立していった。そして、この街に若い台湾人たちが、次々に娯楽施設を開設していくのである。『風林会館』『クラブ・リー』『キャバレー・女王蜂』『アシベ会館』『地球会館』・・・。喫茶店も『上高地』『シオン』『ぶるんねん』などが加わった。歌舞伎町に通ったことのある人には、いずれも懐かしい店ではないだろうか。

 台湾人たちは強い同胞ネットワークを持ち、『無尽』による資金調達と独自の金融組織で新事業に挑戦していった。しかし、歌舞伎町の発展を支えた一世たちも、次々と世を去り、今では彼らの証言を聞くことは難しくなっている。本書は、忘れ去られつつある彼らの足跡を、辛うじて書き留めた貴重な記録と言える」

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 中国人=漢族といっても、台湾人(台湾系漢族)と中国人(大陸系漢族)とは違う。

 台湾人は、親日派や知日派が多い。

 中国人は、反日派や敵日派が多い。

 日本人は、孫文の中国国民党には

 日本人は、1972年9月の日中共同声明で中華人民共和国(中国共産党政府)を唯一の正統政府と承認し台湾との友好関係を断つまでは、日本人は孫文が起こした中国国民党(ファシスト中国)に毛沢東の中国共産党よりも強い親近感を持っていた。

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 親日派知日派の台湾人は、朝鮮人とは違って戦友として日本人と共に戦い、戦後は反日派朝鮮人のような殺人・強姦・強盗などの犯罪行為や暴動・騒乱を起こさなかった。

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 1978年の日中平和友好条約以前に日本に誕生した旧チャイナタウンは、親日・知日派台湾人が造った中国人街であった。

 2010年代以降に日本で生まれようとしている新チャイナタウンは、反日派中国共産党・中国軍とつながりのある大陸系中国人達が主体である。

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 日本は、エコノミック・アニマルの本心を隠す事なく、中国大陸での金儲けの為に台湾との信義を捨てた。

 更なる金儲けを求める日本人は、日本国土さえ中国資本に売っても恥じない。

 そうした日本人が、1980年代を境に、2010年頃から増え始めている。

 日本人は、法律や規則を遵守し、信用・信頼を重んじ、約束や契約を守るとは、嘘である。

 もし信義を重んじるのなら、台湾を見捨てる事なく中国共産党政府との国交回復を拒絶してはずである。

 日本人の本性とは、その程度のもので、自惚れるほど優れてはいない。

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 軍国日本が戦った相手は、蒋介石のファシスト中国(中国国民党)であったが、蒋介石の後ろに隠れていたスターリンのソ連と毛沢東の中国共産党が真の敵であった。

 中国共産党は、軍国日本を滅ぼせというソ連・コミンテルンの指示に従い、謀略で日中戦争を引き起こし日本の和平工作を全て潰していた。

 中国共産党ほど腹黒い人間・陰険な組織は存在しない。

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 焦土と化した日本の混乱期・復興期・経済成長期で、ヤミ市から商店街へそして繁華街ヘと発展させたのはヤクザや在日台湾人・在日朝鮮人達であった。

 正直者で真面目な日本人は、家族を養い、家庭を取り戻す為に、世間に恥じない合法的な仕事をする事し頭になかった。

 自分の意思で日本に残った台湾人や朝鮮人・韓国人達は、日本人の差別で最下層の生活を強いられてきた足枷が敗戦で外され、日本人のような家庭・家族や会社・社会というしがらみが一切ない分、己が才能・才覚で自由に活動した。

 日本人は、個人的な富よりも家族や会社を優先した為に貧しく、在日台湾人や在日朝鮮人・韓国人のような野心を膨らませて富を築く事はなかった。

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 当時のヤクザは、「強くを挫き・弱きを助ける」「(日本人の)世の為人の為」「素人に迷惑を賭けない、素人を巻き込まない」という任侠道の博徒であって、アメリカのマフィアの様に覚醒剤や売春を行う現代の反社会的凶悪な暴力団とは違っていた。

 1995年1月17日の阪神淡路大震災頃までは、戦前の任侠道的気質が存在し、炊き出しなどで被災者を助けていた。


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歌舞伎町・ヤバさの真相 (文春新書)

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歌舞伎町のカラクリ (別冊宝島 2125)

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歌舞伎町アンダーグラウンド

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2017-10-24

♯:31─4─内閣嘱託・尾崎秀実(ソ連のスパイ)は、日米戦争を誘発させる為に南部仏印進駐を近衛首相に決断させた。1941年6月〜No.173No174 @       

隠れた名将 飯田祥二郎 南部仏印・タイ・ビルマ進攻と政戦略

隠れた名将 飯田祥二郎 南部仏印・タイ・ビルマ進攻と政戦略

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 日本は、アメリカやイギリスと激しい情報戦争を行っていた。

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 スターリンは、日本とアメリカのスパイに対して両国が全面戦争を起こすように示唆した。

 そして、対独戦に備えて、東京のスパイには日本軍を満州から引き離す為に南進させるように指示した。

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 日本の政府や官公庁さらに軍部内には、ソ連のスパイやスパイに情報を提供する者が少なからず存在していた。

 戦後、彼らは日本社会党や日本共産党などに入党し、GHQ内の共産主義者に協力した。

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 大統領特別補佐官ロークリン・カリー(ソ連のスパイ)は、アメリカ軍機を中国軍機に偽装して日本本土を爆撃する計画の存在を東京のゾルゲを通じて尾崎秀実に伝えた。

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 知米派の松岡洋右は、国力から日本がアメリカと戦争しても勝てない事を知っていた為に、対米戦を避ける為なら対ソ戦の方がまだましであると考えていた。

 松岡外交とは、日本を戦争から救う事、特に対米戦争の回避であった。

 松岡洋右は、ナチス・ドイツから日本に逃げてくる数万人のユダヤ人難民を救う事で日本が救えると信じていた。

 ユダヤ人難民救援は、人道貢献ではなく外交戦術であったが、外交として失敗した。

 松岡洋右は、A級戦争犯罪者として訴追され、病死で靖国神社に祀られたが霊魂としての安息も否定された。

 松岡洋右のユダヤ人難民救援という人道貢献は無価値であると否定された。

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 6月 ルーズベルトは、労働不足で苦境にある軍需産業の要望に従って、黒人団体に生産活動への支援を要求した。黒人団体は、労働者を出す見返るとして軍需産業での人種差別禁止を求めた。

 ルーズベルトは、大統領行政命令として人種差別禁止を命じ、公正雇用実施委員会を設置した。だが、人種差別の保守派の反発を恐れて、黒人の公民権は認めなかった。

 人種差別主義者による、リンチ殺人や暴行や強姦は各地で起きていた。地元の白人警官は、黒人被害を見て見ぬ振りをし、黒人の訴えを無視して白人加害者を無罪放免とした。

 法による正義は白人のみの味方で有り、黒人や有色人種は法の保護の外に放置されていた。

 白人以外は人として認められず、権利は極端に制限されていた。

 黒人の公民権が認められるのは、1964年である。

 蘭印政庁は、アメリカの反日政策を察知して、日本の石油輸出量増要求を拒否した。

 日本は、石油輸入における対米依存度を下げ、東南アジアにシフト使用としたが失敗した。

 スターリンは、アメリカなどからの情報に従って、ドイツ軍の侵攻に備えて国境地帯に301万4,000人、航空機6,000機、戦車1,475輌、大砲3万5,000門を配置した。

 6月6日 イギリス国内の全ての日本企業は、帰国する為に整理を開始した。

 イギリス諜報機関MI5は、ドイツ軍がソ連侵攻の為に軍隊を国境付近に集結させつつある事に関連しているのではないかと予想した。

 6月9日 陸軍は、武力行使を念頭に置いた対南方施策要綱を決定し、海軍との再調整を行った。

 陸軍は、欧州各国の情報網からドイツ軍が大部隊を東方・ソ連国境に移動させているとの情報を掴んでいた。

 MI5は、シンガポール支部から日本諜報機関の活動が活発化しているとの報告を受け、日本軍のマレー半島侵攻に向けの動きと睨んで警戒した。

 6月10日 陸海軍部局長会議に於いて、独ソ戦に対する日本側の対応を協議した。

 陸軍は対ソ戦を主張したが、海軍は南方進出を優先すべきであるとして猛反対した。

 6月14日 アメリカは、ナチス・ドイツとファシスト・イタリア両国の在米資産を凍結すると発表した。

 6月16日 松岡外相は、南部仏印に進出する事は、弱い相手に付け込む卑劣な行為で国際不信を招き、アメリカとの関係に悪影響をもたらすとして反対した。

 6月17日 芳澤団長は、蘭印総督府に対して交渉の打ち切りを通告した。

 6月21日 ハル国務長官は、野村大使に新たな提案文を渡した。

 日米交渉は、両国による新たな提案の応酬ばかりで一行に進んでいなかった。

 アメリカは、全石油製品の許可制を決定し、アメリカに敵対する国に対して石油の供給を遮断するとの命令を発表した。

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 6月22日 独ソ戦の開始。ナチス・ドイツは、ドイツ軍のソ連侵略と共に、日本に対してシベリア侵攻を要請した。

 ソ連軍は、ドイツ軍の猛攻で強固に築いた防衛陣地が破壊され、主力部隊は壊滅し、各地で敗走した。日本軍のシベリア侵攻を恐れたモスクワは、東京のゾルゲに日本軍を北進ではなく南進するように画策する様に指示を出した。

 ゾルゲは、尾崎秀実ら協力者と共に、精力的に日本政府高官や軍部首脳らの間を駆けずり回った。

 松岡洋右外相は、周囲の反対や困惑を無視し、南進すればアメリカやイギリスとの関係が悪くなるとして、日ソ中立条約を破っても北進してシベリアに侵攻すべきであると気炎を吐いていた。

 「時間がたてばソ連の抵抗力が増し、日本は米英ソに包囲される事になる。日本が満州から攻撃に出てスターリンを打っ叩き、ヒトラーに勝たせる。その後にゆっくりと南方へ進出すれば、米英を押さえる事ができる。ところが、先に南方へ進出すれば、米英と衝突してアメリカのヨーロッパ参戦を招く事になり、ドイツが俄然、不利になる。おかげでソ連は生き延び、そのため日独はともに敗北するしかない」

 ソ連スパイである尾崎秀実は、日本軍がナチス・ドイツの快進撃に釣られて東部シベリア獲得の派兵を行わない様に、陸軍の軍人官僚エリートや各官庁の革新官僚らに武力的南進策を吹き込んだ。

 「南方こそは、進出の価値のある地域である。南方には、日本の戦時経済になくてはならない緊急物資がある」

 陸軍軍務局長武藤章少将と軍務課長佐藤賢了は、海軍との協議の末に合意した平和的進駐案を廃棄し、新たに南方施策促進に関する件を決定した。戦争指導班は、6月6日の省部関係課長会議の場で、裏切り的方針転換に抗議した。

 日本陸軍は、ロンドンのポーランド亡命政府の秘密諜報機関の協力を得てヒューント(ヒューマン・インテリジェンス)とシギント(シグナル・インテリジェンス)とオシント(オープン・ソース・インテリジェンス)に務めていた。

 6月23日 ルーズベルトは、何としてでも参戦する為に、ソ連を支持するとの公式発表を行った。

 アメリカは、日本軍のシベリア侵攻を阻止するべく経済制裁を強化して、南方に引き出そうとした。

 6月24日 国務省極東部次長アダムズは、ハル長官に、日本は北進して南進はしない可能性が高い為に制裁を強化すべきであるとの意見書を提出した。

 6月25日 陸海軍は、仏印が航空基地と港湾施設の利用及び駐兵要請に応じない場合には、「武力をもって目的を貫徹する」という強硬な南方施策促進に関する件を決定した。

 軍部は、日本が仏印に進出してもアメリカは抗議しても対抗手段には出ないとの、楽観的観測が支配していた。

 近衛首相らも、中国通として知られた内閣嘱託・尾崎秀実の分析を鵜呑みにして、南部仏印進駐を認めた。

 日米戦争は、この瞬間で決定された。

 ルーズベルトは、日本との戦争を人種間戦争にしない為に、人種差別を否定する大統領令8802号を発表した。

 この大統領令によって、第二次世界大戦は民主主義と全体主義・ファシズムの戦いとされた。

 それは誤魔化しに過ぎず、民主主義陣営に全体主義のソ連・共産主義陣営が参加していた。

 アメリカは、日本と戦う為に、非白人の中国やアジア諸民族を味方に付けていた。

 アメリカによる、軍国日本と戦う為の対日包囲網は着々と進められていた。

 イッキース内務長官は対日全面石油禁輸を訴えたが、ルーズベルトはその時ではないとして許可しなかった。

 6月26日 アメリカ政府は、日本軍と戦う蒋介石に戦闘機269機と爆撃機66機を供与する事を決定した。

 重慶政府は、対日戦争勝利の為にさらなる軍事支援をアメリカに要請する事を決めた。

 MI5にリスボンから、「日本公使は、日本は石油を狙って蘭印侵攻を検討している」という情報がもたらされた。

 6月27日 蘭印総督府は、日・蘭為替協定を停止して、日本資産を凍結した。

 日本からの輸入と、蘭印からの日本、満州、日本軍支配地の中国への輸出を遮断に近い制限を行った。

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 軍部は、ド・ゴールがの亡命臨時政権仏印の施政権をアメリカに委託する事を恐れ、ヴィシー政権の支配下にあるうちに南部仏印への侵攻作戦を急いだ。






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昭和天皇の妹君―謎につつまれた悲劇の皇女 (文春文庫)

昭和天皇の妹君―謎につつまれた悲劇の皇女 (文春文庫)

2017-10-23

♣:104─1─反日派中国共産党に味方して日本の保守派政府を非難する日本人達。鳩山由紀夫。〜No.583No.584No.585         

旧題名、「ホロコーストに関して、天皇とA級戦犯に幇助罪が成立するのか?」第3代目

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 反日派中国共産党の発言は、結党以来信用できない。

 事実。中国国歌は抗日戦争勝利の軍歌である。

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 親日派や知日派は少なく、反日派や敵日派は多い。

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 2017年10月22日 産経ニュース「【衆院選】与党勝利は「漁夫の利」 中国、改憲の動き警戒

 自民党が22日の衆院選で過半数獲得を確実にしたことについて、中国メディアは「野党勢力が団結できずに『反安倍票』が分散し、自民党が漁夫の利を得た」(中国の通信社、中国新聞社)と分析した。自民党が希望の党などと協力し、憲法改正を進める恐れがあるとして警戒感をあおっている。

 インターネットメディアの澎湃新聞は、安倍晋三首相が選挙期間中、改憲にほとんど触れなかったと指摘。「選挙の時は有権者の関心が高い経済や安全保障について演説し、勝った後に再び改憲を推進しようと考えているからだ」と批判した。

 国営通信、新華社は、希望の党と日本維新の会は、外交・安保政策で自民党との明確な違いはないと強調した。両党について「自民党の補完勢力であり、第2自民党だ。自民党がこの選挙を機に改憲のたくらみを加速させる動きを警戒しなければならない」との専門家の声を紹介した。(共同)」

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 10月23日06:00 産経ニュース「【中国共産党大会】習近平主席を礼賛、持ち上げ、日本批判…鳩山由紀夫元首相が中国紙に語ったコト

 米軍普天間飛行場の移設に反対しキャンプ・シュワブ前で座り込みをする鳩山由紀夫元首相=9月29日、沖縄県名護市

 中国・北京で5年に1度開かれる中国共産党大会が18日開幕した。党の宣伝部門は今夏以降、官製メディアを総動員して習近平指導部を礼賛し“人民に熱烈に支持される共産党”を演出してきたが、そうした世論戦に一役買った日本の政治家がいる。鳩山由紀夫元首相(70)だ。

 300万部以上の発行部数を誇る国営新華社通信傘下の日刊紙「参考消息」は10月11日付の紙面で、鳩山氏のロングインタビューを掲載した。企画のタイトルは「党大会特別報道 中国はなぜ自信があるのか」。鳩山氏の「中国政府の改革の勇気は高い評価に値する」との言葉が主見出しで踊っている。

 習指導部による5年間の内政・外交への評価を同紙記者に問われた鳩山氏は「習近平(国家)主席は就任以降、強力な執政能力を示してきた」と称賛。外交面で最も印象深いのは現代版シルクロード構想「一帯一路」の提唱だと言及し、同構想は「世界平和に貢献するだろう」と無邪気に持ち上げた。中国の膨張路線を体現する「新植民地主義な手法」として周辺国には根強い懸念があるのだが、そうした視点は鳩山氏には全くないようだ。5月に北京で開かれた一帯一路の関連フォーラムに出席した際、開幕式での習氏の演説を聴いて「非常に感激した」と感想を述べている。

 中国外交に関連して鳩山氏は「21世紀は米国と欧州が衰退すると同時に、中国が台頭する時代だ」と持論を展開。続いて「実るほど頭を垂れる稲穂かな」との日本のことわざを持ち出し、「大国は実力を盾にして周辺国に優越感を示しがちだ」と言及する。ここで中国側の言動にクギを刺すのかと思いきや「中国の大国外交はそうではない。まさにことわざ通りだ」と逆に持ち上げてみせた。

 人権問題やチベット・ウイグル問題、領土問題などに絡んで、経済力と軍事力を背景に周辺国などへあからさまな圧力をかけるのは、もはや習外交の“お家芸”と化しているのだが。

 日中関係に関しては「安倍晋三首相は『中国脅威論』を宣伝しつつ、安全保障環境を整えてきた」と安倍政権を批判し、日本側が両国関係を不正常にしているとの考えを示した。さらに「日本は歴史問題を含む多くの問題の解決に力を尽くすべきだ」と主張する。

 悪いのはすべて日本というわけだ。 

 さらに鳩山氏は日本外交のあり方についても持論を展開。「政治大国や軍事大国になろうと努力するべきではない」としつつ「外交上で国力を示すべきだ」と訴える。だが政治力や軍事力の背景を持たないまま強力な外交力を発揮せよというのは無理難題である。

 「日本は防衛力の向上に努めるべきではなく、各国民の価値の向上に尽力すべきだ」との発言は、もはや記事の中国語訳が正確なのかを疑うレベルだ。限りある予算の中で最大限、防衛力の向上に努めるのが国家の務めではないのか。

 鳩山氏はインタビューの中で、日米関係について「日本は本来独立した国家であり、なにもかも米国に追随するのではなく自らの観点と政策の方向性が必要だ」と主張する。この点は全く同感だが、鳩山氏は「日米関係や日米安保の相対化」を進め、日本が米中間でバランスをとるべきだと続ける。要はもっと中国に接近しろと言いたいのだろう。

 もしかすると鳩山氏は取材の中で、中国に対して苦言を呈する内容も発言したのかもしれない。ただ結果的に、習指導部礼賛のプロパガンダとして利用されたことは間違いない。

 かつて北京の有識者が鳩山氏を評して語った言葉を思い出す。「彼の考えは中国にとって耳に快いことばかりだが、日本の中ではまったく支持されておらず中国側の誤解を生みかねない。日中関係にとってマイナスだ」(中国総局 西見由章)」

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 10月23日22:32 産経ニュース「【衆院選】「平和発展の道を」 中国外務省が改憲を牽制

 中国外務省で記者会見する耿爽副報道局長=23日、北京(共同)

 中国外務省の耿爽報道官は23日の記者会見で、衆院選で与党の自公両党が憲法改正の発議が可能となる3分の2以上の議席を獲得したことについて「日本が引き続き平和的発展の道を歩み、地域の安定に建設的な役割を果たすよう希望する」と述べ、改憲の動きを牽制した。耿氏は「中国側は中日関係の発展を重視しており、日本が実際の行動で両国関係を安定的に改善させるよう望む」とも述べた。

 一方、中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報は23日付の社説で、安倍政権が「選挙前よりも勢いを増したようだ」と言及。改憲を後押ししている日本側の安全保障への懸念は実態にそぐわないと主張した上で、安倍首相が日中関係の実質的な改善に尽力し、中国側も安倍氏をそうした方向に向かわせることが双方にとって重要だと論じた。(北京 西見由章)」 

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 11月4日 産経ニュース「【中国共産党大会】習近平主席を礼賛、持ち上げ、日本批判…鳩山由紀夫元首相が中国紙に語ったコト

 米軍普天間飛行場の移設に反対しキャンプ・シュワブ前で座り込みをする鳩山由紀夫元首相=9月29日、沖縄県名護市

 中国・北京で5年に1度開かれる中国共産党大会が18日開幕した。党の宣伝部門は今夏以降、官製メディアを総動員して習近平指導部を礼賛し“人民に熱烈に支持される共産党”を演出してきたが、そうした世論戦に一役買った日本の政治家がいる。鳩山由紀夫元首相(70)だ。

(※10月23日にアップされた記事を再掲載しています)

 300万部以上の発行部数を誇る国営新華社通信傘下の日刊紙「参考消息」は10月11日付の紙面で、鳩山氏のロングインタビューを掲載した。企画のタイトルは「党大会特別報道 中国はなぜ自信があるのか」。鳩山氏の「中国政府の改革の勇気は高い評価に値する」との言葉が主見出しで踊っている。

 習指導部による5年間の内政・外交への評価を同紙記者に問われた鳩山氏は「習近平(国家)主席は就任以降、強力な執政能力を示してきた」と称賛。外交面で最も印象深いのは現代版シルクロード構想「一帯一路」の提唱だと言及し、同構想は「世界平和に貢献するだろう」と無邪気に持ち上げた。中国の膨張路線を体現する「新植民地主義な手法」として周辺国には根強い懸念があるのだが、そうした視点は鳩山氏には全くないようだ。5月に北京で開かれた一帯一路の関連フォーラムに出席した際、開幕式での習氏の演説を聴いて「非常に感激した」と感想を述べている。

 中国外交に関連して鳩山氏は「21世紀は米国と欧州が衰退すると同時に、中国が台頭する時代だ」と持論を展開。続いて「実るほど頭を垂れる稲穂かな」との日本のことわざを持ち出し、「大国は実力を盾にして周辺国に優越感を示しがちだ」と言及する。ここで中国側の言動にクギを刺すのかと思いきや「中国の大国外交はそうではない。まさにことわざ通りだ」と逆に持ち上げてみせた。

 人権問題やチベット・ウイグル問題、領土問題などに絡んで、経済力と軍事力を背景に周辺国などへあからさまな圧力をかけるのは、もはや習外交の“お家芸”と化しているのだが。

 日中関係に関しては「安倍晋三首相は『中国脅威論』を宣伝しつつ、安全保障環境を整えてきた」と安倍政権を批判し、日本側が両国関係を不正常にしているとの考えを示した。さらに「日本は歴史問題を含む多くの問題の解決に力を尽くすべきだ」と主張する。

 悪いのはすべて日本というわけだ。 

 さらに鳩山氏は日本外交のあり方についても持論を展開。「政治大国や軍事大国になろうと努力するべきではない」としつつ「外交上で国力を示すべきだ」と訴える。だが政治力や軍事力の背景を持たないまま強力な外交力を発揮せよというのは無理難題である。

 「日本は防衛力の向上に努めるべきではなく、各国民の価値の向上に尽力すべきだ」との発言は、もはや記事の中国語訳が正確なのかを疑うレベルだ。限りある予算の中で最大限、防衛力の向上に努めるのが国家の務めではないのか。

 鳩山氏はインタビューの中で、日米関係について「日本は本来独立した国家であり、なにもかも米国に追随するのではなく自らの観点と政策の方向性が必要だ」と主張する。この点は全く同感だが、鳩山氏は「日米関係や日米安保の相対化」を進め、日本が米中間でバランスをとるべきだと続ける。要はもっと中国に接近しろと言いたいのだろう。

 もしかすると鳩山氏は取材の中で、中国に対して苦言を呈する内容も発言したのかもしれない。ただ結果的に、習指導部礼賛のプロパガンダとして利用されたことは間違いない。

 かつて北京の有識者が鳩山氏を評して語った言葉を思い出す。「彼の考えは中国にとって耳に快いことばかりだが、日本の中ではまったく支持されておらず中国側の誤解を生みかねない。日中関係にとってマイナスだ」(中国総局 西見由章)」

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 11月6日 産経ニュース「【タックスヘイブン】「パラダイス文書」で判明、中国企業と連携で石油資源開発も 鳩山由紀夫氏「名誉会長」の企業

 鳩山由紀夫元首相(酒巻俊介撮影)

 【上海=河崎真澄】国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が入手した「パラダイス文書」に基づく調査で、鳩山由紀夫元首相が名誉会長に就任していたことが判明した租税回避地、英領バミューダ諸島に登記された香港企業。この企業は中国国有企業と連携してアフリカを舞台に石油資源開発を手がけていることが分かった。

 2013年3月21日に鳩山氏を「名誉会長兼上席顧問」に任命したのは、バミューダに登記した企業ながら香港で上場している「凱富能源集団(ホイフー・エナジー・グループ)」。同年には中国国有企業の傘下とみられる「中油資源」を買収。前後して中国国有の石油企業などと共同でアフリカでの油田やガス田の開発と、資源関連の金融ビジネスを拡大させている。

 凱富能源の株式の約70%を握るオーナーの許智銘会長は同年、中国の国政助言機関である全国政治協商会議(政協)で全国委員を務めたほか、その後、香港の親中派経済団体、香港中華総商会の幹部職も委嘱された。

 親中派として知られる鳩山氏を招き入れることで、中国当局や国有企業との関係構築に加え、ビジネス先のアフリカでは、名誉会長に任命している「日本の元首相」の肩書を“利用”しているもようだ。

 凱富能源はさらに、同じくタックスヘイブンの英領バージン諸島(BVI)に100%出資子会社「カール・トムソン」をもっている。税率が低い香港と複数の英国領タックスヘイブンを活用し、中国国有企業による海外石油ビジネスや資金調達、資産管理などを支援している可能性がある。

 鳩山氏は16年、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)の顧問に相当する国際諮問委員会の委員にも就任している。」

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2017-10-22

♯:31─3─日本海軍情報班は、ロンドン外務省から東京のイギリス大使館への極秘電文を傍受し、暗号を解読して、解読文を松岡外相に見せていた。1941年5月〜No.170〜No.171〜No.172@         

対日経済戦争1939‐1941

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 5月 中立国デンマークは、侵略してきたドイツ軍に一日で降伏した。

 イギリス軍は、デンマーク領アイスランドがドイツ軍に占領される前に強襲して軍事占領した。

 ハンナ・アーレントン「デンマークにのみユダヤ人共同体が逃亡したのは、デンマークにはドイツ人に同胞を譲り渡すようなユダヤ人長老グループが存在しなかったからである」

 タイとフランスは、軍国日本の立ち会いの下で、東京で平和議定書に調印した。

 軍国日本は、見返りとして南部仏印への平和進駐を認めさせる、仏印共同防衛協定を締結した。

 日本軍の南部仏印進駐は、タイ・仏印国境紛争の再発防止と共産主義勢力の活動を監視する目的もあった。

 日本は、仏印における貿易決済に第三国通貨を使わないという日・仏印経済協定の仮調印を行った。

 蘭印総督府は、日本に対して、石油やゴムなどの重要物資を日本経由でナチス・ドイツに再輸出しない保証を求めた。

 松岡外相は、祖国を防衛できず逃げだした亡命政府が日本に保証を要求する事は不遜であると激怒した。

 重慶政権の国際諜報機関に所属している青山和夫(本名・黒田善治)ら日本人共産主義者は、コミンテルンや中国共産党と連絡を取り、日本国内の転向組と情報をやり取りし、ユダヤ系国際報道機関に日本軍は南方への侵略を企んでいるとの偽情報を流していた。

 アメリカは、こうした偽情報を真実と判断して、日本との戦争を想定して対日制裁を強化した。

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 ソ連情報機関幹部ヴィタリー・パヴロフは、財務省のナンバー・3の高官であるハリ−・デクスター・ホワイト次官補とワシントンで極秘に会い、軍国日本の対ソ攻撃を回避する為に、日本軍が仏印等へ南進しなければならないようにアメリカの対日強攻策で追い詰める事を依頼した。

 スターリンは、ナチス・ドイツと軍国日本と同時に戦う二正面作戦を回避する為に、ルーズベルト周囲にいる共産主義者を使って日米の妥協成立を阻んでいた。

 国務省の極東外交方針は、ジョセフ・グルー駐日大使の「戦争を回避する為に軍国日本と妥協すべき」という宥和策と、スタンレー・ホーンベック国務長官特別顧問の「アジアの平和と安定の為には蒋介石を勝たせる必要があり軍国日本とは如何なる条件ても妥協すべきではない」という強攻策で揉めていた。

 両者の共通する点は反共産主義で、国務省内の親中国共産党派を敵視していた。

 親中反日派のルーズベルトは、個人としても、大統領としても、軍国日本との戦争を回避する為に譲歩して妥協する意思はなく、昭和天皇が満州事変以来の軍事行動の非を認め謝罪して来ない限り話し合う気はなかった。

 昭和天皇と軍国日本を破滅に追い込むという点で、スターリンもルーズベルトも利害は一致していた。

 ワシントン、ルーズベルト政権内部の共産主義者は、アメリカの対日強硬方針が宥和策にならいようたえず軌道修正していた。

 アメリカ人共産主義者達は、共産主義の正義と平和を守る為ならば日米戦争もやむなしと考えていた。

 日本人共産主義者も、ソ連との戦争は反対であったが、アメリカとの戦争には反対しなかった。

 エレン・シュレッカー「冷戦後期のソ連スパイと異なり、1930年代と40年代にモスクワに情報を流した人々は、お金の為ではなく政治的理由に基づいて行動していた。……共産主義者として、こうした人々が伝統的な愛国心の形に囚われていなかった点を理解する事が重要である。彼らは国際主義者であり、その政治的忠誠は国境を超えたものであった」

 軍国日本を追い込んだのは、ルーズベルトやスターリンの陰謀ではなく、アメリカの国策であり、ソ連の戦略であった。

 戦争回避の妥協の道を閉ざされた軍国日本が、万策尽きて最後の一線である日本天皇の名誉を守る為に戦争を決断したのは、愚かな事か、正しい事だったのか。

 皇国史観で忠君愛国教育を受けた当時の日本人は「是」とし、戦後平和史観で国民主権教育を受けた現代の日本人は「非」と断じている。

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 5月3日 松岡外相は、日米了解案ではなく独自の松岡3原則で交渉を行う旨を伝えた。

 アメリカは、暗号解読で、日米了解案とは別の交渉提案であるて松岡三原則を知り困惑した。

 5月〜6月 中原会戦。日本軍は、少数精鋭で、大軍のファシスト中国軍に対して連戦連勝で負け知らずであった。

 山西省南部。国民党軍26個師団約18万人と日本軍北支那方面軍6個師団約4万人が対峙し、日本軍は情報戦と謀略戦を仕掛けて中国軍を混乱させて倍する中国軍を撃破した。

 国民党軍の被害、戦死4万2,000人、捕虜3万5,000人。

 日本軍の被害、戦死673人、負傷2,292人。

北支那方面軍司令官の多田駿中将は、麾下の各兵団に対して今後はゲリラ戦を行っている中国共産党勢力を殲滅する為の討伐作戦と治安工作を行うように命じた。

 中国共産党は、日本軍や国民党軍の攻撃から逃げるようにして開放地区を広げ、民衆を味方に引き入れる為に地主か土地や資産を奪って分配した。

 小谷賢(防衛省防衛研究所)「陸軍は明治の頃から、中国で情報収集を続けてきました。日中戦争当時も、支那派遣軍の情報部や占領地の憲兵隊、部隊に属さない『特務機関』などが各地で諜報・工作活動をしていた。そうした人的情報に加え、通信傍受で得た情報を作戦に役立てた例もあります。1941年5月〜6月の『中原会戦』は、通信情報を上手く作戦に結び付け、数的不利を覆して日本軍が勝利した好例です」

 「日本軍の情報運用は、戦術面では確かに優れていた。それぞれの戦場では情報部門と作戦部門の連携もできていました。そのことが、日中戦争で戦いを有利に進められた要因でもある。しかし、集められた情報を総合的に分析し運用する戦略的な視点が欠けていた。背景には、日本軍での情報部の地位の低さに始まり、情報集約機関の不在と、横の連携を取ろうとしない各組織に縄張り意識などがあります」

 5月6日 ルーズベルトは、日本軍と戦っている中国を武器貸与法の対象国に加え、中国軍を支えた。

 5月7日 岩畔大佐は、東條陸相に、アメリカ側は日米了解案に同意しない松岡外相に不快感を表していると報告した。

 5月9日 中国問題担当のカリー大統領補佐官は、蒋介石から託された日本本土奇襲爆撃計画(JBー355計画)案をルーズベルトに提出した。

 5月12日 松岡外相は、素人が作成した日米了解案を破棄し、正式な交渉提案としての松岡修正案をワシントンに送った。

 ハワイ・ホノルルの喜多総領事は、松岡外相宛に、真珠湾内のアメリカ太平洋艦隊碇泊情報を送った。

 アメリカ軍は、ホノルルから東京に送られていた電文を全て傍受していた。

 5月13日 ベルリンの日本大使館付き陸軍武官は、杉山参謀総長に、独ソ戦が近いと報告した。

 アメリカ海軍は、ドイツ海軍との戦争に備えて、太平洋艦隊の一部を大西洋艦隊に編入した。

 5月14日 スターク海軍作戦部長は、各海軍区の司令官に対して輸送船護衛に向けての計画を進めているとの文書を発送した。

 5月15日 ルーズベルトは、日本と戦争をする際、開戦前に日本本土を空爆する計画を承認した。

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 5月17日 アメリカのSF小説家ロバート・A・ハイライトは、原子爆弾を戦争で使用する短編小説を、アスタウンディング・サイエンス・フィクション誌に発表した。

 「この恐ろしい兵器を使わず、手をこまねいて待つのは意味が無い。そのうち他の者が同じ兵器を完成させ、使うであろう。世界を巨大な墓場に変えない為の唯一のチャンスは、我々がこの力を思い切って最初に使う事ーそして、優位に立つ、その優位を保つ事なのである」

 アメリカ陸軍情報部は、核兵器や原子力エネルギーに関する全ての情報を封印した。

 原子力関連用語一の字でも、一言でも、監視を強化した。

 だが。科学に興味がある者やSF小説愛読者の間で、新型大量破壊兵器を知らない者はいなかった。

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 5月18日 ニューヨークやカリフォルニアなどの諸州で、親ナチス派ドイツ市民169名がスパイ容疑で逮捕された。

 5月19日 ホーチミンは、OSSの支援を受けて、反日反仏民族解放のベトミンを組織した。

 5月23日 日本海軍情報班は、ロンドン外務省から東京のイギリス大使館への外交電文を傍受し、暗号を解読した。

 海軍は、解読文を松岡外相に見せた。

 5月24日 ドイツ戦艦ビスマルクは、イギリス戦艦フッドを轟沈した。

 5月27日 ルーズベルトは、参戦への布石として国家非常事態宣言を行い、防衛を目的として南北大西洋でのパトロール活動を強化すると発表した。

 ドイツ戦艦ビスマルクは、イギリス艦隊に追い詰められて撃沈された。

 5月29日 ルーズベルトは、傀儡国家フィリピンに対して、仮想敵国・日本への原料輸出を禁止する様に命じた。日本は、自衛行為がアメリカへの敵対行為と勘ぐられないように、細心に注意を払っていた。だが、アメリカでは明らかなる反日運動が行われていた。日本は、重要な物資の大半をアメリカに依存していただけに、アメリカの誤解を解くべく説得に全力を上げていた。アメリカは日本を必要としなくても、日本はアメリカを必要としていた。ソ連・中国・共産主義者は、それゆえに日本とアメリカを対立させ、両国を戦争させる為に謀略を重ねていた。

 アメリカの傀儡国家フィリピンは、日本の傀儡国家満州より自由はなく民衆の権利も少なかった。ソ連の傀儡国家モンゴル人民共和国は、地獄に近かった。

 5月31日 ハル国務長官は、新たな提案を野村大使に手渡した。



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日本人と日本文化―対談 (中公文庫)

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2017-10-21

♩:05─4─ロシアとの戦争に備えての悲劇。北海道月形町・囚人道路(鎖塚)。青森・八甲田雪中行軍遭難事件。〜No.23       

北の螢 [DVD]

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 日本は、北から侵略してくるロシアから母国日本を守るべく、国民に犠牲を強いても軍備強化を強行していた。

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 明治時代の日本人が1流であったとすれば、昭和前期の日本人は3流であったが、1980年代、2010年以降の日本人は評価不能の4流以下・・・。

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 明治時代の日本人は、母国日本を守る為に、国土を守る為に、家族や友人を守る為に武器を取って戦争に出征し、敵・侵略者と戦った。

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 日本は、武力でロシアから母国を守ろうとした。

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 侵略軍の手から母国日本を守るために武器を持って戦おうとしない日本人に、彼らをとやかく言う権利はない。

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 日本陸軍は、ロシア艦隊が日本艦隊を全滅させ海岸線を支配した時を想定し、内陸に安全な輸送路確保する必要を痛感していた。

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 ウィキペディア。

 鎖塚(くさりづか)は、北海道で行われた苛酷な囚人労働を物語る遺跡である。

 囚人道路

 明治時代の北海道では南下政策をとるロシアとの対抗上軍用道路が急ピッチで建設された。札幌から大雪を越え網走市に達する中央横断道路(北見道路。端野まではほぼ、後に開通した石北本線に沿っている)もその一つである。この道路は釧路集治監網走分監(現:網走刑務所)と空知集治監の囚人約1,000人を使役して建設され囚人道路と呼ばれた。明治政府は年内に160Kmを完成させよと典獄に厳命し、石狩北見間が1891年5月着工、12月には完成した。一方、劣悪な環境と深夜に及ぶ苛酷な労働によって、212名に上る囚人が死亡した。逃亡しようとしたものは「タガネ」を用いて罰した(耳に穴を開け、足と耳とを鎖で結ぶ)。

 鎖塚はこのようにして死んだ囚人工夫の上に土をかぶせてできた土まんじゅうで、かつては多く見られたが、開拓と共に減少した。それでもなお北見市端野町緋牛内では、囚人道路が国道39号に出る手前に三基が残っている。囚人は二人ひと組で足を鎖に結ばれ、場合によっては死ぬ時も鎖を付けたままであった。従って、これらの土まんじゅうからは人骨と同時に鎖が出土する。鎖塚の名はここに由来する。

 なお、囚人道路の経路は、上川〜北見峠〜遠軽〜佐呂間町栄〜丸山峠〜留辺蘂〜北見〜緋牛内〜卯原内〜網走である。国道および道道として改良・現存している(国道333号〜道道103号〜国道39号〜道道104号)。

 慰霊碑

 開道100周年に当たる1968年、当時の端野町長であった中澤廣は同地に鎖塚の由来を記した立札を設置、5年後に地蔵尊を建立し囚人達の供養に努めた。1976年10月17日、鎖塚慰霊奉賛会によって鎖塚供養碑が建立され、鎖塚保存会も結成された。

 北海道の夜明け

 囚人労働は北海道各所で行われ、命を落とした中には思想犯とされた自由民権派の思想家もいた。また、後のタコ部屋労働の母体ともなった。鎖塚、常紋トンネルやイトムカ鉱山でのタコ労働を題材に、小池喜孝は第29回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書ともなった児童生徒向けの本である、『北海道の夜明け-常紋トンネルを掘る』(1982年、国土社)を著わした。

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 北海道月形町

 月形歴史物語

 開拓の基盤を作った囚人道路

 月形潔の跡を継いで二代目典獄となったのは、長州藩出身の安村治孝やすむらはるたかでした。安村は、1844(弘化元)年長門国阿武郡萩江村(現・山口県阿武町)生まれ。明治になって奥羽鎮撫総督府、兵部省、東京府、警視庁などに奉職しました。警視庁の時代には、小隊長として西南戦争(1877年)に出陣しています。このとき敵の総大将西郷隆盛と、最後の城山(鹿児島市)の戦い(1877年9月24日)で組み合って死闘を演じた、といった伝説の持ち主でもあります。人は安村を、小兵であったが酒豪にして豪胆の人であったと語り継ぎました。その後市ヶ谷囚獄で署長に就きましたが、当時毒婦と騒がれた凶悪殺人犯、高橋お伝の打ち首の検視(1879年)を務めたことでも知られます。

 1883(明治16)年に安村は集治監典獄となり、1885(同18)年8月、月形村に赴任しました。この直前の7月、彼の月形での針路を決定づける出来事がありました。時の最高実力者である伊藤博文(この年の12月に初代内閣総理大臣就任)の側近であった太政官大書記官金子堅太郎が、北海道各地を視察した上で政策を建白したのです。当時の北海道は、開拓使が廃止されたあと三県一局(札幌、函館、根室県と、農務省事業管理局)の行政区分となり、縦割り行政の弊害や、大蔵卿松方正義が行った緊縮財政(松方デフレ)などによって、開拓の諸事業は停滞していました。金子来道の目的は、そうした状況の打開にありました。

 米国ハーバード大学法学部を卒業し、のちに大日本帝国憲法(1889年発布)の起草にも関わった金子は、このときの調査でまとめた「北海道三縣巡視復命書」の中で、札幌農学校や豊平館、葡萄酒製造、師範学校などを 「最モ殖民地ノ急務ヲ鑑ミザルモノト云フベキナリ」と指摘し、北海道には過ぎたるもの、と決めつけています。さらに注目すべきは、囚徒の使役に関する一節です。金子は、「囚徒らは道徳にそむいている悪党であるから、懲罰として苦役させれば工事が安く上がり、たとえ死んでも監獄費の節約になり、一挙両得である」という意味の主張をしました。

 1886(明治19)年1月、三県一局が廃止されて北海道庁が設置されると、樺戸集治監は道庁長官の指揮下に入ります。この時点で北海道には、市来知いちきしり(現・三笠市)に空知そらち集治監、標茶しべちゃに釧路集治監ができていました。同年4月、北海道庁初代長官岩村通俊は安村に、市来知と忠別太ちゅうべつぶと(現・旭川市)のあいだ約88キロを結ぶ上川仮道路の開削を命じました。現在の国道12号の前身です。岩村もまた、囚人に対して月形や金子と同じ考えを持っていました。翌87年5月には、全道郡区長会議において全道基幹道路の計画が発表されました。そこには、第一に札幌を起点として空知・上川から釧路・根室にいたる道路、第二に樺戸から日本海側の北増毛にいたる道路、第三に釧路から網走に至る道路の新設がうたわれていました。上川道路は、第一の計画の一部です。工事の主役は、樺戸、空知、釧路、各集治監の囚徒たち。こうして千古斧鉞せんこふえつの原始林や人跡未踏の湿地をぬって、日本の土木工事史上もっとも苛烈な囚人道路の工事が着工されました。

 上川道路は空知集治監との共同事業となりました。石狩川の大支流である空知川を境に、そこから忠別太までは樺戸集治監が、空知川から市来知までは空知集治監が担当します。作業は200人の囚人を一団として、3里ごとに外役所を設けながら突貫作業で進められました。夜も眠れぬほどおびただしい糠蚊ぬかかやブヨが襲来するなか、クマやオオカミにおびえながら全て人力による工事が進められます。満足な食料も与えられず劣悪な衛生環境もあってケガや病人が続出しました。石狩川のカムイコタンはとりわけ難所続きのために、現場からはたまらず迂回の願いが出ましたが、安村典獄は頑としてゆずらず、ひたすら突き進めと指示を出し続けました。そうして上川道路は、わずか4カ月あまりで仮道が全線開通。そんな条件下で翌1887(明治20)年から本工事が行われ、正確には記録もない数の犠牲者を出しながら、3年ほどで開通しました。

 上川道路ができると次はオホーツク方面、旭川から北見峠を越えて網走へと北見道路の工事が進められます。明治政府には、近代国家建設のために北海道開拓を一刻も早く進め、北方からのロシアの脅威に備える必要がありました。この工事もまた空知集治監と共同で進められ、1890(明治23)年に釧路集治監分監として設置された網走囚徒外役所(最寄村・現網走市)からも多くの囚徒が動員されました。樺戸の囚徒たちは主に橋や舎屋の建設に当たりました。

 全長217キロ以上に達したこの道は、上川道路にも増して難工事の連続。囚人労働史上最も悲惨な事例とされています。ここでも200人を一団として3〜4里を一区域としましたが、割り当てを早く終えた組に次の工区の選択権を与えるという方法が取られました。結果、空知と釧路の各組の看守間で激烈な競争が起こったのです。囚人たちは夜明け前に叩き起こされ、逃走防止のために二人一組の連鎖をかけられました。看守たちはピストルとサーベルで威嚇します。あげくに寒さや食糧不足から水腫病が大量発生。北見ではわずか半年間に、出役した1,150人のうち900人以上が発病して180人以上が死亡。逃走を企てて斬殺される者も続出しました。屍はしばらく、風雨にさらされるままにされたといいます。やがて土がかぶせられましたが、のちにそうした「土まんじゅう」が掘り返されると、土に帰りつつある骨と共に、まだ原型を保った鉄の鎖が出てくるのでした。

 安村は1889(明治22)年1月から、樺戸、雨竜、上川三郡の郡長を兼務することになり、監獄の責任者に加えて地域の行政のトップともなります。この時期上川道路や網走道路のほかにも、樺戸と市来知を結ぶ樺戸道路、月形と増毛を結ぶ天塩道路などが樺戸集治監の囚徒たちの手で開かれていきました。

 安村典獄の在任期(1885〜1891)は、北海道開拓の最初の屋台骨となる幹線道路が急ピッチで開かれた時代であり、 その大部分を担ったのは、「赤い人」、すなわち集治監の囚徒たちでした。

 1891(明治24)年に上川の永山、翌年には東旭川、93年には当麻に、それぞれ屯田兵400戸ほどの入植がありました。上川以北にようやく開拓の斧が下ろされるようになったのです。それを可能にしたのは、囚徒たちが命と引き替えるように造った上川道路でした。札幌と旭川が鉄路で結ばれたのは、1898(明治31)年のことにすぎません。札幌の月寒で編成された陸軍第7師団が旭川に進出したのも、鉄道に先がけて囚徒によって拓かれたこの道があり、旭川が道北の中心地として歩み始めていたからなのです。北見、網走地方においても、屯田兵や開拓団が入るための最初のインフラを整えたのは、同様に集治監の囚徒たちでした。

 私たちはこの事実と意味を、決して忘れてはならないでしょう。過酷をきわめた労働によって今日の北海道の礎いしずえを築いたのは、樺戸をはじめとした集治監の「赤い人々」だったのです。

囚人道路 (講談社文庫)

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 ウィキペディア。

 八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が発生した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。

 雪中行軍

 日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、それに向けて準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。対ロシア戦は2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。

 雪中行軍には青森から歩兵第5連隊210名が、弘前から歩兵第31連隊37名と民間の新聞記者1名が参加した。うち青森歩兵第5連隊が遭難した。

 行軍の目的

 青森歩兵第5連隊は、冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際「青森?田代?三本木?八戸」のルートを使ったソリでの物資輸送が可能かどうかを調査することが主な目的であった。最大の難所である青森〜田代温泉間の雪中行軍演習が片道約20Km、1月23日より1泊2日の予定で計画された。行軍ルートは田代街道、現在の青森県道40号青森田代十和田線である。

 弘前歩兵第31連隊の計画は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実行してきた雪中行軍の最終決算であった。「弘前?十和田湖?三本木?田代?青森?浪岡?弘前」の総距離224Kmのルートで1月20日より11泊12日の行程であった。

 なお、両連隊は、日程を初め、お互いの雪中行軍予定を知らずに計画を立てた。ただし、弘前連隊の行軍予定については東奥日報が1月17日発行の紙面上で報道していたことから、青森側には行軍予定の重複に気付いた者がいた可能性がある。

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 朝日新聞

 八甲田雪中行軍、「七勇士」に光 遭難事件から115年

  中野浩至2017年5月22日12時09分

 「青森市の八甲田連峰で、旧陸軍青森第5連隊の将兵199人が命を落とした雪中行軍遭難事件。旧陸軍によって、別ルートで八甲田越えした弘前第31連隊の成功は封印されたが、命がけで弘前隊を道案内した7人の地元の村人は「七勇士」と呼ばれ、ひっそりたたえられてきた。遭難事件で、最後の遺体が発見されてから28日で115年。7人の功績に改めて光を当てようという動きが出ている。

 「ずっと先頭に立たされていましたが、雪をこいで進むことは100メートルも続きません」。1902(明治35)年に雪中行軍が実施されたのと同じ1月下旬、青森県十和田市の市民図書館で、紙芝居「七人の勇者」が上演された。39人(38人説もある)が参加した、弘前隊の道案内を務めた地元の若者7人の功績を描いたもので、地元の研究家らが2年ほど前に立ち上げた「八甲田山雪中行軍を語り継ぐ会」が演じる。

 弘前隊は、遭難した青森隊が出発した3日前に弘前市を発った。十和田湖を経由する反時計回りのコースをとり、区間ごとに地元住民に道案内させた。難航が予想された八甲田連峰の横断には、ふもとの十和田市から20〜30代の猟師ら7人が同行。11泊12日全224キロの行軍を一人の死者も出さずに完遂させた。

 語り継ぐ会は、事件研究の草分けで、新田次郎が小説「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」の執筆にあたって取材協力を求めた小笠原孤酒(こしゅ)の資料を整理しながら、地元で語り継がれてきた7人の功績の再評価を進める。

 蛯名隆会長(62)によると、猛吹雪のなか7人は常に先頭を歩いた。隊が露営を余儀なくされた時は、空き小屋を見つけて兵士らに暖を取らせた。中には、その後亡くなるまでの十数年間、凍傷による障害を負い続けた人もいたという。

 蛯名会長は「7人がいなければ、弘前隊も青森隊と同じ運命だったかもしれない」と話す。

 しかし、旧陸軍により遭難した…」

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

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2017-10-20

♯:31─2─中立国のアメリカは、ファシスト中国が軍国日本に勝利する為に極秘で全面支援していた。日ソ中立条約。1941年3月〜No.168No.169@         

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗ 

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 アメリカは、日中戦争に参戦して軍国日本と戦っていた。

   ・   ・   ・   

*軍国日本は、戦前、世界の非常識としてユダヤ人難民を助け、敗戦後、時効無き戦争犯罪者として処断された。

 ユダヤ人難民は、神戸のユダヤ人共同体を頼って日本に上陸していた。

 小辻節三は、ユダヤ専門家として、松岡洋右外相の支援を受けてユダヤ人難民の世話をしていた。

 小辻「私の上司である松岡洋右総裁は周りから誤解されやすい人物であった。小柄で恰幅がよく、濃い髭を蓄え、いかにも傲慢そうに見えたが、実は心の優しい人物であった」

 松岡洋右は、ユダヤ人難民を安全な国に出国できるように、日本独自の方策を模索していた。

 松岡洋右「私は反共産主義を支持するだけで、反ユダヤ主義を支持する気はない。この二つの問題は全く違う意味の問題で、これを日本政府は正しく認識するべきだ」

 広田弘毅も、外交官の長老として、ユダヤ人難民の身の上を案じていた。

 近衛文麿首相も、ユダヤ人難民の日本通過を容認した。

 ヨーロッパ諸国の各日本大使館でも、ユダヤ人難民に対して通過ビザを発給していた。

 日本軍部も、ナチス・ドイツのユダヤ人問題解決の要請を無視して、ユダヤ人難民の安全に協力していた。

 当然、東條英機陸相も、ユダヤ人難民に便宜を与えていた。

 東條の部下である木村兵太郎と武藤章も、軍人として上官の命令に従って行動していた。

 上海や南京の陸軍部隊に影響力のある松井石根は、上海日本租界にユダヤ人難民を大量に受け入れ、現地部隊に彼らの面倒を見るように示唆していたと、言われているが、確証がない。

 だが。多くの国が、ユダヤ人難民の引き取りを渋る、中には拒否する国もあった。

 ユダヤ人には、日本人とは違って、民族的団結心がなかった。

 ユダヤ人共同体ごとで行動し、別の共同体に対しては冷酷で、貧しく学歴のないユダヤ人は見捨てた。

 ホロコーストで虐殺されたのは、中欧や東欧の貧困層の東方ユダヤ人で、西方のユダヤ系国際資本と関係のある富裕層や西欧やアメリカの有力ユダヤ人の家族は殺されなかった。

 身の安全が保証された上流階級のユダヤ人は、自分が生き残る為ならば下層階級の東方ユダヤ人をナチス・ドイツに引き渡した。

 ドイツ人有力者と結婚しているユダヤ人とその子供は、ヒトラーの許可で助けられていた。

 アメリカやイギリスのユダヤ人団体は、外国の貧しいユダヤ人を嫌って助けようとはしなかった。

 世界中の人種差別主義者や反ユダヤ主義者は、ユダヤ民族の世界征服を信じ、逃げてきたユダヤ人難民をヒトラーのもとに送り返し、ホロコーストで殺されるのを傍観していた。

 日本を通過した東方ユダヤ人難民1万2,448人中2,500人は、正規な通行ビザを持っていなかった。

 彼らは不法上陸者であったが、日本の警察や憲兵隊はわざと見逃して、神戸のユダヤ人共同体に身柄を引き渡した。

 日本の警察や憲兵隊は、ユダヤ人難民の弱みに付け込んで所持金を奪おうとする日本人を取り締まった。

 さらに多くのユダヤ人難民が、国家元首・昭和天皇の庇護を求めて日本に向かっていた。

 日本に来て安心したユダヤ人難民は、出国するまでの間、日本国内を観光し、温泉につかって疲れを取り、心温まる日本人の持て成しで寛いだ。

 松岡洋右「ドイツとの関係は面倒な事になるかもしれない。・・・だが、今、ユダヤ人を助けておけば、アメリカとの戦争を回避できるかもしれない。それは日本に有益な事だ」

 靖国神社・A級戦犯達の親ユダヤ的行動は、皇道・大家族主義の八紘一宇精神にもとずく人道的支援であり、昭和天皇の御稜威・大御心であった。

 軍国日本の基本姿勢は、パリ講和会議で主張した人種差別撤廃であった。

 一部の日本人は、人種差別主義者や反ユダヤ主義者として、ユダヤ人の陰謀を信じ、邪悪なユダヤ人を殲滅する為のホロコーストを容認している。

 だが。大半の日本人は、お人好しとして、神道的「惻隠の情」を持ち、苛められ、虐げられている弱い人を放ってはおけないという、「已むに已まれぬ心」を持っていた。

 アミッシュノーバ老師「ナチスは、他の民族に激しい憎しみを抱いているのです。どうか、ヨーロッパに出ている書物をドイツ語の原文で読んでください。ロマ民族も黒人もスラブ人も日本人も、劣等民族の中に含まれているのです」

 「ナチスは、ドイツ民族以外の存在は認めないのです。ナチスはユダヤ人を地球上から抹殺したら、次はあなた方日本人を抹殺しようとするんです。その事に何故気づこうとしないのですか」

 松岡洋右は、ヒトラーの日本民族を蔑視している人種差別の本心を見抜いていた。

 A級戦犯は、政治家・軍人・外交官として時局を見誤って戦争に誘い込まれたが、人間としてユダヤ人難民をホロコーストから救った。

   ・   ・   ・   

 松岡洋右は、死期が近づいた晩年にキリスト教に改宗し、キリシタンとして死んだ。

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 ヒトラーは、白人の物真似をしてドイツ民族と対等意識を持つ日本人を軽蔑し、世界文明を築いた中国とインドに関心を示していた。

 オカルトに傾倒し始めるや、その傾向は病的に強くなっていた。

 ヒトラーは、日本人よりも中国人に親近感を抱いていたがゆえに、中国にドイツ軍事顧問団を派遣して抗日戦争に協力し、日本軍を攻撃する為の大量の武器弾薬を送り続けていた。

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 昭和天皇やA級戦犯達は、ユダヤ人難民を助ける事で、アメリカとの関係改善に利用しようとしていた。

 利用ができないと分かるや、アメリカとの戦争に備え、国内の全てのユダヤ人難民を戦渦に巻き込まない為に、強制的に上海の日本租界に輸送した。

 サムライ日本は、ユダヤ人難民を人間の盾に利用する事を恥とし、ナチス・ドイツの弾圧から逃れてきたユダヤ人難民がさらなる苦境に追いやられるのは不憫と感じた。。

 軍国日本の強制措置で、ユダヤ人難民は戦火から逃れて助かった。

 昭和天皇とA級戦犯は、少人数であったが、ユダヤ人難民をホロコーストから救った。

 これは、歴史的事実である。

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 戦後の日本は、この事実を知った上でなを、数万人のユダヤ人難民を助けた人々を戦争犯罪者と断罪し、死者への尊厳を認めず、魂の慰霊を拒絶する為に靖国神社から追放すべきと訴えている。

 A級戦犯は、世界の常識を無視して人道的行動を取ったにも関わらず、人間としての人格を否定さ、死後の尊厳はおろか、魂の安らぎさえも奪われようとしている。

 現代の人間社会、特に日本社会は、惻隠の情の欠片もない、かくも非情にして、醜く、酷たらしい、恐ろしい社会である。

 現代の日本人は、口では大層な御託を並べても「言霊」を持たない無味乾燥の巧言令色にすぎず、昔の日本人のような純朴な「心」も誠実な「まこと」も気高き「志」も毅然とした「気概」も持ってはいない。

 不利と分かっていても、正々堂々と、負けても悔いを残さないという、逃げ出さず喧嘩する闘争心がない。

   ・   ・   ・   

 東京裁判は、ユダヤ人難民を助けたという事実を闇に葬って、東條英機や松井石根や板垣征四郎らをホロコーストを行ったナチスと同罪として、リンチ的縛り首にした。

 縛り首とは、殺人鬼などの重罪犯か馬泥棒に行う死刑であって、首相や大将などかって国家の指導者であった者に行う処刑ではなかった。

 国際世論は、A級戦犯が祀られている靖国神社を廃止すべきであるという、中国や韓国などのアジア諸国の訴えを正当であると容認している。

   ・   ・   ・   

 ソ連のスパイである財務省のホワイトは、スターリンの指令で日米全面戦争を起こさせるべく、ユダヤ人のモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルトに対日強硬策を提案していた。

 ルーズベルトは、外交問題で、ハル国務長官より幼なじみのモーゲンソー財務長官の意見を尊重しその提案に従っていた。

 ロクリン・カリーは、国民党への軍事経済支援を遅らせる為に、ルーズベルトに対して、蒋介石を批判し毛沢東を褒めた。そして、スターリンは領土的野心はなく、占領している外モンゴルの支配権を中国に返還するとの偽情報を吹き込んでいた。

 国民党政府がファシストから民主主義に促する為に、オーウェン・ラティモアを政治顧問に推薦するように進言した。

 ルーズベルトは、ハル国務長官より、スターリンの指示で動いているカリ−、ホワイト、ラティモアらの意見を優先して聞いて対日強硬外交を行っていた。

   ・   ・   ・   

 3月 陸軍は、北部仏印進駐やタイ仏印国境戦争から、南方に於けるジャングル戦に備えた訓練を開始した。

 ルーズベルトは、アメリカが局外中立であるにもかかわらず、日本軍と戦っている抗日中国に対して武器貸与法を適用し、日本が戦争できない様にする為の経済制裁を強化する事を決めた。

 ロバート・ジャクソン司法長官は、中立国アメリカが交戦国であるイギリス、ソ連、中国に武器を貸与する事は国際法違反に当たらず、国際法は第一次世界大戦を経て変化したので廃棄すべきであると主張した。

 イギリスは、蒋介石と軍事協定を結び、抗日中国軍に軍需物資を優先的に供給する事を約束した。

 3月8日 アメリカ議会は、武器貸与法案を可決し、大統領命令で戦争当事国に武器弾薬などの戦争必需品を供給する権限を認めた。そしてその代金は、アメリカ国民と投資家が一時立て替えるとした。

 同法案は、連合国陣営の戦争当事国への武器貸し出しは戦争行為ではなく、ジョンソン法や中立法を逸脱するものではないと認定した。

 ルーズベルト「こうした援助は戦争行為にはあたらない。たとえ独裁者が一方的にそう非難しても」

 武器貸与法に反対する一部の議員は、特定の交戦国に武器を供給する事は「公然かつ完全なる戦争を意味する」と断言し、合衆国憲法や戦時国際法を踏みにじる反逆行為であると告発した。

 ルーズベルトは、対中軍事援助を本格化する為に、ソ連のスパイであるラフリン・カリー大統領補佐官を中国に派遣した。

 宋子文は、蒋介石の代理として対日戦の為の軍事支援を要求した。

 1,700機の戦闘機と300機の爆撃機からなる空軍支援。

 2,30箇師団分の近代兵器。

 3,ビルマ経由で重慶に至る軍事用鉄道建設と通信の改善。

 アメリカ海軍は、大西洋艦隊強化として、真珠湾の太平洋艦隊から戦艦3隻、空母1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦18隻に大西洋への移動を命令した。

 同様に、真珠湾周辺基地に配備されていた戦闘機の50%を、ミッドウェー諸島やウェーク島に移動させる様に命じた。

 真珠湾の陸海軍司令部は、防衛力の弱体化を埋める為に、航空防衛強化としてレーダー設備の充実と長距離偵察機の増派を要請した。

 ワシントンは、現地司令部の警戒体制強化案を却下し、防空能力を最低限まで縮小して偵察能力を制限した。

 3月9日 日系アメリカ人市民同盟は、ロサンゼルス市議会に対してアメリカに忠誠を誓う誓約書を提出した。

 3月11日 中立国アメリカは、ファシズムと軍国主義と戦う全ての国に武器を供給できるようにする「武器貸与法」を成立させ、自由と民主主義と敵対する国への物資及び資金提供を禁止した。

 ソ連と中国国民党政権は、自由と民主主義陣営の一員と見なされ、アメリカから武器と資金の提供を受けた。

 3月15日(〜21日) ルーズベルトは、日本に軍事威圧を掛けるべくポップアップ艦隊の派遣を認めた。

 「自分はそれらポップアップの巡洋艦があそこやここで飛び出し行動を続けて、ジャップに疑念を与えるようにしたい。そのため巡洋艦を1隻か2隻失っても気にしないが、5隻や6隻も失う羽目には陥りたくない」

 巡洋艦4隻と駆逐艦12隻からなるポップアップ艦隊が、日本の領土に接近し太平洋中部から南部を航行した。

 3月21日 日系アメリカ人市民同盟は、国民の義務としてアメリカ防衛に協力す事を明らかにする為に、陸海軍の情報機関担当者との会合を開いた。

 アメリカの日系新聞は、日本留学から帰って来た帰米者に対して、アメリカに不利になる様な行動や言動を慎む様に訴えた。

 日本に留学した日系二世は極ほんのわずかで、大半が日本を知らなかったし、日本語が話せなかった。

 3月30日 連邦議会に、護送を禁止する共同決議案が提出された。

 アメリカの報道機関は、マディソン・スクエア・ガーデンで開催された反ドイツの戦争支持集会は盛況であったと報じた。

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 4月 軍令部は、空母航空機部隊の練度に注目し、戦艦から独立した主戦兵力として生かす事決定した。

 世界で初めての、空母を集中化した航空艦隊が誕生した。

 諸外国の海軍は、依然として、大艦巨砲主義による艦隊決戦思想が主流となっていた。

 日本海軍は、その常識を破り、異端とも言うべき航空艦隊決戦思想を採用して機動部隊を編成した。

 主力軍艦建造は、大和型二番艦の武蔵で戦艦を中止して、三番艦以降は空母とした。

 問題は、熟練パイロットの育成であった。

 蒋介石とカリーは、日米開戦前に日本本土の諸都市を無差別爆撃するというJBー355計画案に合意した。ルーズベルトは、7月23日に日本空爆計画を承認してサインをした。アメリカは、中国を救う為に日本との戦争を決断した。

 アメリカ、イギリス、オランダ三ヶ国は、日本との戦争を想定した対日攻撃計画を話し合うべく、シンガポールに軍事専門家を派遣して秘密公式会談を開いた。

「・中国の沿岸部と仏印に複数の対日工作組織を作り、日本軍の通信・軍事施設への攻撃を行う。

 ・親日的タイに対日工作組織を作り、両国の関係を悪化させる為に日本人暗殺を行う。

 ・フィリピン駐屯のアメリカ軍を増強して、東南アジアの資源資源地帯との海上交通網に軍事的威嚇を加える。

 ・我が方に重大な損害を招く事なく、日本を甚大な被害をあたえる様に準備を整える。

 ・その他。」

 軍国日本には、三国と戦争をする意志はなかった。

 スターリンは、コミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフに対して、敵対勢力との戦いに於いて現地の実情に有った革命路線を採用する様に指示を与えた。

 中国共産党は、アメリカからの支援を増やす為に、共産主義色を薄め小作人解放など農村改革を目指す農民党であると偽った。

 親中国反日派であるジョン・サービスやジョン・デービスらプロテスタント宣教師の息子達は、国務省内のチャイナ・ハンズと呼ばれる中国専門外交官達と協力して中国共産党に有利な政策をルーズベルトに提言していた。

 コミンテルンは、何が何でも軍国日本を戦争に追い込むべく陰謀をめぐらし、日本国内の隠れマルクス主義者(革新官僚・統制派軍人・転向右翼)に南進を加速するように指示した。

 日本を戦争に追い込んだのは、共産主義者であった。

 コミンテルンのアメリカ局次長パブロフは、ワシントンのレストランで財務省高官ハリー・デクスター・ホワイトと会食し、アメリカと日本が戦争する様に追い込むよう指示した。

 スターリンは、西でヒトラーと戦争するにあたって、東の軍国日本を遠ざけるべくアメリカ国内のスパイに日米開戦の謀略を命じた。

 延安の中国共産党政権は、東トルキスタンのイスラーム問題を集中討議して『回回民族問題』というパンフレットを発表した。

 東トルキスタンの隣の西トルキスタンにも多くのイスラームが生活していた。

 ソ連は、日本陸軍のイスラム工作で東トルキスタンが独立する事は、連邦解体の危機につながると警戒していた。

 ウィグル人やモンゴル人らは、ソ連と中国の支配から独立する為に日本との提携を希求していた。

 ソ連と中国の非人道的抑圧に苦しむ少数民族にとって、弾圧と抑圧から民族の誇りと尊厳を取り戻す為には軍国日本は希望の光であった。

 ソ連と中国共産党は、多民族国家として、日本陸軍が進めている防共回路構想を阻止すべく、日本をアメリカとの戦争に追い遣るべく陰謀をめぐらせた。

 多神教を信奉する日本には、イスラム教を否定し禁止する意思はなく、反宗教無神論のマルクス主義を封じ込めるという目的で、ウィグル人、モンゴル人、チベット人ら少数民族と共闘できる確信していた。

 アメリカ海軍無線監視傍受局は、日本外務省が新しい暗号書を在外公館に配布する為に急使を派遣するという暗号を解読し、その詳しい旅行の日程も掴んだ。

 アメリカ軍は、情報士官を税関吏に変装させて、日本の密使に接近して暗号書の写真撮影に成功した。

 日本側は、情報の機密性に無頓着で、簡単に盗まれていた。

 戦時中の昔も、平和な現代においても、日本人は情報の重要性が理解できなかった。

 そして、情報戦において軍国日本は大敗北を喫した。

 4月3日 アメリカ軍は、目の前に迫っている対ドイツ戦への参戦準備を着々と進めていた。

 スターク「今後どうした事態が起きるのか、またそれがいつ起きるのか、という事に関して何ら内部情報を得ていない事を付け加えておきます。ただし、当時と同じように、私には問題は参戦が、いつ、の事になるか、という時間の問題だと思われます」(各司令官への手紙)

 アメリカ海軍は、ルーズベルトの命令に従って一艦隊を南西太平洋に派遣したが、太平洋艦隊の一部の大西洋に移す前に日本にはったりをかますのが真の目的であった。

 艦隊派遣を強く要請したのは、日本に脅しをかけ外交交渉を有利に導こうとしたハル国務長官であったという。

 4月6日 ワシントン。岩畔陸軍大佐とドラウト神父は、日米交渉の為の原則的協定書岩畔修正案を作成して、野村駐米大使に提出した。

 日米和平交渉に、悪影響をもたらした素人の民間外交の始まりである。

 日本を戦争へと追い込んだ、最悪な外交交渉が始まった。

 4月13日 日ソ中立条約。

 中立条約とは、一ヵ国が他国と戦争状態になっても中立を守る。

 不可侵条約とは、二ヵ国間で相互に戦争を忌避する。

 中国共産党は、窮地に陥っていただけに同条約の締結を歓迎した。活動資金を得る為に、上海・広東・香港の秘密結社や犯罪組織を通じて大量のアヘンを日本軍占領下で売りさばいた。ソ連軍は、抗日中国軍に参加させていた部隊を、モスクワ防衛の為に撤退させた。ソ連による、中国軍への軍事支援は縮小された。日本陸軍は、中国共産党軍への攻撃を警戒に切り替え、国民軍への攻撃に主力部隊を振り向けた。

 ソ連軍は、極東を犠牲にしても精鋭部隊の大半をモスクワ防衛と大反攻作戦の為に、シベリア鉄道を西へ輸送した。日本軍がシベリア侵攻を実施しても、それ以上の西進は不可能である事はわかりきっていた。さらに、近日中にアメリカが日本を攻撃する手はずになっていた為に、日本軍は恐るるに足る相手ではなかったのである。日本は、国内外に敵を抱えて身動きがでず、否応もなく戦争へと追い詰められていた。

 アメリカは、ソ連軍が対中軍事支援から手を引く事を懸念して、協定に従ってソ連支援の軍需物資をシベリア鉄道で途切れることなく送り続けた。

 日本陸軍は、ソ連との中立条約に従って、ナチス・ドイツの激しい抗議を無視して黙認した。

 インテリの日本人共産主義者は、転向を誓って帰国した。彼らの大半が、地方の裕福な資産家や有力な名家の出身者で、高学歴で外国語を自由に話せた。警察当局の監視下に置かれたが、都市の諸団体、地方の各役場、小学校などの教育現場や各研究機関、新聞社や雑誌社などに就職した。戦争が長期化するや、日本は人材不足に陥り、彼らを戦争勝利の為に利用するしかなかった。彼らの使命は二つ、一つは日本国内でのサボタージュであり、もう一つが国外での日本軍の残虐性を強めて国際世論を日本批判を助長する事であった。1946年1月4日の公職追放で、彼らは知的エリート集団として第一線に出て、戦後日本の政治、経済、教育、報道など多方面をリードした。

 チャーチル首相から松岡外相への書簡「アメリカの鉄鋼生産は、年7,500万トン、イギリスは1,200万トンあります。ナチス・ドイツが敗れたら、日本の生産量700万トンでは単独で両国と交戦するには不十分と判断する」

 中国共産党は、実力もない虚勢を張って、抗日戦で日本軍と戦い、国内内戦で国民党軍と戦うという、無謀な両面戦を行う事で自ら窮地に追い込まれていた。

 毛沢東は、滅亡を回避する為に日ソ中立条約を歓迎し、日本軍とは戦わず、日本軍及び傀儡汪兆銘南京政権の占領できない地域を支配していった。

 1937年時点で中国共産党軍数万人、支配地人口150万人であったのが、1945年8月には中国共産党軍100万人以上、支配地人口1億人以上(中国総人口約4万5,000人)と膨れ上がっていた。

 中国共産党情報機関最高幹部・潘漢年のスパイ網は、蒋介石重慶政権や汪兆銘南京政権はもちろん日本軍や満州帝国内まで及び、数多くの工作員を送り込んでいた。

 日本軍や満州国に対しては、日本人共産主義者や反日派朝鮮人が担当していた。

 中国共産党軍は、武器調達を、ソ連やアメリカ以外に南京政権を通じて日本軍から購入していた。

 南京政権及び日本軍から大量の武器を調達する為の潤沢な資金は、香港の支援組織を通じてアヘンを売って得ていた。

 日本軍は、中国共産党の資金獲得と武器購入を黙認した。

 アメリカ軍情報機関は、華北などでの、日本軍と中国共産党の不可解な蜜月関係を報告していた。

 蒋介石も、軍国日本敗北後に起きる中国共産党との内戦に備えて、日本軍との本格的戦闘を極力避け、主力部隊を温存させる為に適当に戦って後退する様に命じていた。

 アメリカは、軍国日本との戦争に勝つ為に、国民党と中国共産党に対して積極的攻勢に出る事を期待して軍事支援を続けていた。

 国民党と中国共産党は、アメリカの軍事支援を受け取も、中国戦線の日本軍が優勢な内は軍隊を動かし気はなかった。

   ・   ・   ・   

 スターリンは、松岡洋右外相に、日ソ中立条約締結の見返りとして北方領土を含む全千島列島の譲渡を要求した。

 松岡洋右外相は、千島列島は樺太・千島交換条約で日本領土となり、北方領土4島は江戸時代から日本の固有領土であったとして拒否した。

 アメリカは、日本の外交暗号電報の傍受してソ連側の千島列島への領土的野心を知っていた。

   ・   ・   ・   

 4月14日 野村吉三郎駐米大使は、ワシントン市内のウォードマン・パーク・ホテル内のハル国務長官の私邸を訪れ、ハル国務長官と日米交渉を始める。

 日本政府も、軍部も、日米の国力差から対米戦は不可能とである事を知っていただけに、戦争を回避する為の日米交渉の成功に期待した。

 日本海軍は、アメリカに不信感を抱かせない為に、南洋委任統治領となっているマーシャル諸島の要塞化を控えていた。

 アメリカ海軍は、日本との戦争を想定して太平洋上の島嶼群を要塞化し、何時でも日本と戦争が出来る様に必要な戦略物資を集積していた。

 4月15日 ルーズベルトは、陸海軍の予備役航空士や退役軍人を民間の志願者としてアメリカ義勇部隊結成を承認し、抗日戦やイギリス軍に参加する事を許可する極秘の大統領令に署名した。

 4月16日 ハル国務長官は、野村大使に、日本政府が日米了解案を踏み台として外交交渉を始めるとの正式な訓令を求めた。

 ベルリンの大島大使は、リッベントロップ外相の情報として、東京に独ソ戦の可能性が大であると報告した。

 4月17日 ハル国務長官は、野村大使にハル四原則を手渡し、会談を開始する事に合意した。

 日本側は正式な外交交渉と解釈したが、アメリカ側は交渉の前に事務的話し合いと認識した。

 4月18日 野村大使は、日本側の体面が立つ有利な条件を網羅した民間人作成の岩畔修正案を「日米了解案」として東京に打電した。

 胡適駐米中国大使は、ハル国務長官に、日本の侵略を黙認する様な案は受け入れられないと抗議した。

 ハル長官は、ナチス・ドイツとその同盟国に有利な協定は結ばないと確約した。

 アメリカ軍は、日本の外交暗号を解読していた。

 4月19日 日本陸軍は、これ以上の戦争は不可能であるとの判断の上で、日米了解案での和平交渉の開始に同意した。

 4月21日 アメリカ・イギリス・オランダの三ヶ国は、シンガポールで、南進してくる日本軍に対してどの時点で軍事行動を起こすかの基本方針を決める第二回会議を開催した。

 三ヶ国は、日本との戦争は避けられない事実として協議を始めていた。

 アメリカの新聞「日本軍、漢陽河畔において、武器を持たない中国人捕虜1,000人虐殺した」

 抗日中国謀略班は、欧米諸国の新聞や雑誌に事実に反した捏造記事を洪水の様に掲載していた。

 4月22日 松岡外相が、欧州訪問から帰国したが、日米了解案が素人の民間人が書き上げられたモノである事に不快感を表した。

 4月26日 ルーズベルトは、蒋介石に対して対日戦を継続させる為に4,500万ドル相当の資金援助を与えると回答した。

 アメリカ陸軍は、中国空軍にいるシェンノートに正規の陸軍航空兵を送る事を確約した。








   ・   ・   ・ 

ハル回顧録 (中公文庫)

ハル回顧録 (中公文庫)

ルーズベルト秘録〈上〉

ルーズベルト秘録〈上〉

ルーズベルト秘録〈下〉

ルーズベルト秘録〈下〉

  

2017-10-19

♯:31─1─アメリカとイギリスは、日本外務省の暗号電報を傍受し解読して、軍国日本の軍事行動を知っていた。イギリス軍の炭疽菌爆弾開発計画。1941年1月〜No.166No.167@               

危機の指導者チャーチル (新潮選書)

危機の指導者チャーチル (新潮選書)

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗ 

   ・   ・   ・ 

 ジュディス・ハーマン「苛めは反発を呼ぶが、徹底した残忍な殺戮や拷問の恐怖は逆に従順さを生む」(『心的外傷と回復』)

   ・   ・   ・   

 市場原理主義の国際社会は、正義の為ではなく金の為だけに動いている。

 国際経済は、4億人の中国市場の為にファシスト中国と中国共産党を資金援助と軍事支援を行い、約7,000万人の日本市場を切り捨て軍国日本を滅ぼそうとした。

 国際社会は、「カネ」で動いていた。

   ・   ・   ・   

 スターリン「国際条約は、破る為に締結する」

   ・   ・   ・   

 ビスマルク「国家は、敗戦によっては滅びない。国民が、国家の魂を失ったときに滅びる」

   ・   ・   ・   

 アメリカは、グアテマラで梅毒による人体実験を行い83名の現地住民を惨殺した。

 人種差別主義者のアメリカ人は、現地住民の目や脳に梅毒菌を注射し、苦しもがきながら死んで行く経過を観察した。

 非白人に対する人体実験は、キリスト教列強諸国でも行われていた。 

   ・   ・   ・   

 ジョン・ダワー「(昭和天皇の戦争責任について)国家の最高位にあった人物がつい最近の出来事に責任を負わないで、どうして普通の臣民が自らを省みるか」

   ・   ・   ・   

 昭和天皇は、憲法が定める権限に従って、補弼である政府が決定し上奏した案件に対して不満があっても裁可した。

 不満な点に対しては直接意見を述べる事はせず、説明を聞くとして御下問し、裁可する事に躊躇いがある時は関係者を何度でも呼び出して御下問した。

 政府関係者は、昭和天皇が裁可せず御下問を繰り返す事で昭和天皇の真意を組み、再度協議し新たな決定案を上奏した。

 昭和天皇は、それ以上の意見表明としての御下問をせず、新たな決定案を裁可した。

   ・   ・   ・   

 日本軍部は、統帥権で日本政府と切り離されていた。

 行政府の首相や外務相ら主要閣僚、立法府・議会や司法・裁判所は、軍部の機密軍事情報を一切知らされていなかった。

 日本政府の機密国家情報はアメリカなどに筒抜けであったが、日本軍部の作戦や装備などの機密軍事情報は統帥権で守られていた。

 もし。統帥権がなければ、日本軍の全ての作戦計画が連合軍にバレて、開戦と同時に大敗北していた。

 つまり、真珠湾奇襲攻撃は成功しなかった。

   ・   ・   ・   

 日本国籍を持った日本人は、本人の意志に反して強制的に徴兵され、イヤイヤ戦場へ送られ殺し合いを強要された。

 強制による徴兵を拒めば犯罪者として逮捕された。

 だが、日本国籍を持つ朝鮮人には、国民の義務としての兵役は免除され、自由意志による志願制が採用されていた。

 日本国籍朝鮮人は、日本の戦争には参加していなかった。

   ・   ・   ・   

 イギリスは、ドイツ軍の侵攻から祖国を守り、ナチス・ドイツに甚大な打撃を与えるべく極秘でバイオ兵器開発を始めた。

 炭疽菌もしくはリシンを仕込んで針3万本を爆弾に詰め込んで、ヨーロッパに落とす計画を進めた。

 アメリカ軍とイギリス軍は、共同でバイオ兵器の研究を極秘で進めた。

 オックスフォード大学は、殺傷力の高い炭疽菌、ヴォリューム1457を開発させてバイオ兵器を完成させた。

 炭疽菌爆弾投下実験は、1942年にグリュナード島で行われ、数日後、島にいた羊など動物は全て死亡して成功した。

 連合軍は、炭疽菌爆弾投下を「ベジタリアン作戦」として準備を進めた。

 カナダは、1943年頃からバイオ兵器爆弾製造の為に大量の炭疽菌培養を本格化させた。

 チャーチルは、50万発の炭疽菌爆弾の開発を命じた。

 カナダは、1944年8月までに全人類を30回以上絶滅させるだけの威力がある、700億人分の致死量に相当する炭疽菌培養に成功し、その後の研究をアメリカ軍に引き渡した。

 チャーチルに送られた炭疽菌爆弾は、約5,000発のみであった。

 ベジタリアン作戦は、途中で頓挫し実行されなかった。

 ドイツ軍は、ヒトラーの毒ガス兵器・細菌兵器開発禁止命令に従って研究を断念していた。

 アメリカは、生物兵器開発に出遅れていた為に、世界でトップクラスの能力があった日本陸軍731部隊の最近開発データが是が非でも欲しかった。

 科学技術力を持っている国は、表向きはジュネーブ議定書(1925年批准)に従って生物・化学兵器の放棄に署名していたが、裏では極秘に研究・開発し生産して保有した。

 国際法で正式に制限されたのは、1972年の生物兵器禁止条約と1993年の化学兵器禁止条約からである。

   ・   ・   ・   

 1941年 八木秀次は、電探(レーダー)として軍事利用できる超短波受信用の指向性アンテナの特許更新を申請した。

 商工省と特許局は、軍事利用できる可能性を無視して、特許の取り消しを通告した。

 日本の官界や学界では、明治以来、国際派が主流をなし、日本の民族的独自性を完全否定する西洋礼賛志向が強く、民族的独創を切り捨てて欧米的発想を取り入れる事を最優先としていた。

 日本技術で世界技術を凌駕していたのは、造船と航空の分野であった。

   ・   ・   ・   

 陸軍中野学校は、参謀本部直轄の軍学校となり、卒業生を東南アジアやヨーロッパなど世界中に送り出した。

 日本のスパイは、欧米のスパイに劣らず優秀であったといわれ、東南アジア諸国の独立は彼らの活躍によるところが大きいといわれている。

 日本軍の諜報活動が劣っていたわけではなく、非白人という人種の壁が越えられなかっただけである。

 世界を支配していたのは白人キリスト教徒であり、日本軍が戦った相手は白色人種諸国であった。

   ・   ・   ・   

 軍令部は、連合国軍の暗号無線を傍受・分析するべく大和田通信隊を強化するべく、大幅な増員を図った。

 太平洋戦争初期段階では、陸海軍の諜報部隊は連合国軍の暗号通信を傍受し解析していた。

 アメリカ軍は、日本軍への反撃戦を開始するにあたり、暗号通信を日本軍に解析されない為に、巨費を投じて最新の暗号通信機器を揃え、優秀な人員を大量に諜報機関に配置した。

   ・   ・   ・   

 アメリカ・インディアンのラコタ族の聖地であったラシュモア山に、アメリカ大統領の巨大な彫像が完成した。キリスト教会は、少数民族を改宗させる為に、民族宗教の聖地を破壊し、宗教儀式を消滅させる為に英語のみを教えた。白人は、非白人を人と認めていなかった為に、人として敬意を払うことはなかった。それは、日本人に対しても同様であった。

 中国共産党は、国民党政府の行政機関が消滅した農村部に政治局員を派遣し、労せずして支配した。中国共産党は、表向きに、華北の農村部で日本軍による横暴な食糧略奪が行われていると宣伝しながら、裏では、国民党軍を弱体化させる為に日本軍に食糧を供給した。

 中国共産党は、延安に対日プロパガンダ放送を行う為のラジオ放送局「延安新華公播電台(現・中国国際放送)」を開局し、日本語放送を開始した。

 日本人女性(夫は中国人)の延安ローズが、日本軍に対して厭戦気分を誘う謀略放送を行った。

 中国共産党は、日本人兵士捕虜や拉致した日本人居留民を横暴な天皇と日本軍国主義者の被害者として洗脳し、戦後の民間交流に利用するべく日中友好人士に育成した。

 初頭から、アメリカ軍は日本外務省の暗号電文を全て傍受し解読していた。その写しは、ルーズベルト大統領、ハル国務長官、マーシャル陸軍参謀総長、スターク海軍作戦部長、スチムソン陸軍長官など少数の者のみに提出されていた。 彼等は、国家の指導者として、イギリスに味方してヨーロッパ戦争に参戦する事は国益であると信じていた。

 参戦という国家戦略の為に、日本を利用しようとした。

 ルーズベルトは、民主主義を標榜する合衆国憲法の規定する正規な手続きで、国民の直接選挙で選ばれた大統領である。

 アメリカ軍は、対日開戦に備え、ルーズベルト大統領の許可を得て、戦闘機や爆撃機などの多数の軍用機と必要な地上整備員をイギリス領ビルマに送り込んでいた。

 元旦 スチムソン陸軍長官は、反日派の急先鋒として、ニューヨーク・タイムズに対日強硬論の文書を投稿した。

「過去3年にわたって、アメリカの資源である、特に石油と鉄屑が、日本の極東に於ける悪業を助けてきた。これらの資源について供給源がほかにないから、その責任はアメリカにある。アメリカ国民は日本が中国に対して進めている侵略に、一致して反対しているが、もし、アメリカが悪業を阻止する為に、何か手段を用いたら、日本と戦争を戦う事になると思って、恐れている。それは、何の根拠もない。もしアメリカが、日本による中国に於ける戦争を、止めさせようとするならば、日本が戦争を行なうのに必要としている資材や、資源の供給を停める事である」

   ・   ・   ・   

 ドイツ人理論物理学者クラウス・フックスは、ソ連のスパイである。

 フックスは、ドイツからイギリスに亡命してイギリスの原爆開発に深く関わり、後に、アメリカのマンハッタン計画に参加した。

 イギリス人物理学者アラン・ナイ・メイも、ソ連のスパイであった。

 ナイ・メイは、カナダ・モントリオール研究所で原子炉建設に関わりながら、原子力情報をソ連に流していた。

 マンハッタン計画にも、多くのソ連スパイが潜入していた。

 有名なのが、ローゼンバーグ夫婦であった。

 世界中のインテリ達は、共産主義に人類の明るい未来を夢見て、資本主義と自由主義に絶望した者はソ連のスパイになった。

 共産主義者には、下層階級の労働者や農民ではなく、上流階級で高学歴のインテリがなっていた。

   ・   ・   ・   

 日本陸軍情報部は、「ドイツ軍は、上陸用舟艇が確保できない為に、イギリス本土上陸作戦の成功の確率は低い」と作戦部に報告した。

 陸軍の超エリート集団である作戦参謀は、自分の作戦に支障を来す恐れのある却下し、自分に都合の良い情報のみを採用して部隊を動かしていた。

 情報軽視は、陸軍や海軍だけではなく日本全体に及んでいたと言われている。

 つまり。日本人は、自分の部署を聖域化し、他の部署を排除して、自分の得た情報は自分だけ情報として共有する事を拒絶する。

 不都合な事実は認めず、無かったものとして破棄した。

   ・   ・   ・   

 戦前の大日本帝国憲法は、強力なリーダーシップを持った独裁者を出さない為に、一人の人間に全権力が集中しないように幾つもの合議機関を設けている。

 つまり、最終的責任者がいない無責任な政治システムである。

 突き詰めれば、全ての国民が政府の決定を自分のものとして納得して行動を取る事を強要されていた。

 責任ある独裁者の決定に、無批判で盲目的に従って動けば良いのであればこれほど気楽はない。

 もし、失敗すれば全ての責任を独裁者に押し付けて逃げれば良いのであるから。

 ドイツの戦後処理は、戦争責任とホロコーストの罪をヒトラーとナチ党に押し付けて、国民は洗脳され騙された被害者であり無罪であるとした。

 イタリアも、同様にムッソリーニとファシスト党に全責任を擦り付けた。

 だが。日本の戦争責任は、両国とは違って、国家と国民に責任があるとされた。

 その原因は、強力なリーダーシップを持った独裁者を出さず、全責任を全国民が負うという大日本帝国憲法にあった。

 良かれ悪しかれ、日本国民は、国家の決定に責任を持って従う義務が負わされていた。

 これほど過酷な憲法は存在しなかったが、一寸でも気が抜けないという極限的最悪な東アジア情勢の中にあってはやむを得なかったといえる。

 総理大臣には、政府のトップとしての決定権がなく、省庁の官僚の指示で動いている各閣僚の意見を調整して内閣の方針を決めるだけの存在であった。

 官僚で最大の力を持っていたのは、陸軍官僚であった。

 陸軍官僚の意見に従わない総理大臣に対して、操り人形の陸軍大臣を辞職させ、次期陸軍大臣を出さずに総辞職に追い込んだ。

 戦争責任を追及されて自殺した近衛文麿も、A級戦犯としてリンチ的縛り首にされた広田弘毅も、その被害者に過ぎない。

 日本の内閣は、陸軍官僚の横暴で1,2年で交替していた。

 昭和天皇は、軍部の横暴に不快感を露わにして、新たに組閣する総理大臣に軍部を押させ、憲法に従って政治を正して欲しいと希望を述べていた。

 国民の選挙で当選していた政治家は、憲政を守る為に政府を支える責任があったのに、むしろ軍部と結託していた。

 総理大臣は、成りたくて成るのではなく、元老や重臣達が適当な人物を総理大臣候補として天皇に推薦した。

 昭和天皇は、憲法の規定に従って、推薦された人物に組閣の大命を下した。

 総理大臣には、協力な支持母体がない為に、政策の失敗や軍部の突き上げや議会での責任追及で、いとも簡単に総辞職して逃げた。

 昭和天皇は、最終決定権者として、美濃部達吉の「天皇機関説」を支持していた。

 「国體明徴声明」には不満を持ち、天皇親政を目指す昭和維新運動には反対し、天皇を現人神として神格化する事には反対であった。

 そして、日本軍の大陸侵攻には賛成し、アメリカとの戦争には反対であった。

 伊藤博文「欧米には宗教(一神教のキリスト教)なるものがあり、これが基軸となって国民の心が一つにまとまっている」

 「日本にも仏教はあるが、昔ほど隆盛はなく人心の拠り所にはなっていない。神道も同様である。唯一、皇室だけが人心の拠り所となっている」

 「だから、憲法草案においては君権を基軸に据えている」

 万世一系の男系天皇(直系長子相続)は、日本を分裂させ内戦で崩壊させない為の最善の方法であった。

 日本国民は、総理大臣が誰であれで、政府がどう政策を決定しようと、天皇が裁可して命令を発すればそれに従った。

 日本の戦争責任とは、全ての日本人が負うべきものである。

 日本に突きつけられている戦争犯罪に対する責任は、靖国神社のA級戦犯ではあく、日本民族全体に問われている。

   ・   ・   ・   

 コミンテルンは、タイ仏印領土紛争が拡大する事を期待し、各地の共産主義者に解放区の拡大を指示した。

 松岡洋右外相は、アメリカやイギリスの介入を阻止すると共に共産主義勢力の拡大を食い止めるべく、両国に停戦を申し込んだ。

 仏印は本国の支援が期待できず、タイも単独で勝利は望めないとして、軍国日本の斡旋を受け入れた。

   ・   ・   ・   

 駐米ドイツ大使館のハンス・トムゼン参事官は、ベルリンに、アメリカは日本政府とワシントンの日本大使館との間の暗号電報を傍受し解読している可能性があると報告した。

   ・   ・   ・   

 アメリカ軍は、対日戦に備えて、太平洋地域の25ヶ所に通信傍受施設を設置し、日本の外務省と海軍及び陸軍の暗号電報を傍受して最新の暗号解読技術で解読していた。

 だが。機密漏洩を避けるべく、日本語の独特なニュアンスを理解して翻訳できる日系アメリカ人兵士を使用せず、日本人の思考が分からないアメリカ人兵士に翻訳を任せた。

 当然の事ながら、日本とアメリカでは常識も価値観も全てが異なる以上、分かり合えない。

 人の好い日本人は、アメリカ人も日本人同様に戦争を好まず、回避するであろうと勝手に思い込み、誠心誠意、胸襟を開いて話し合えば分かり合えるであろうと確信していた。

 だが、アメリカは分かり合えない事を知っていた。

 暗号解読を行っていたアメリカ人軍兵士は、日本人的な考えではなく、アメリカ人的な考えでアマリカ的な表現で意訳した。

 日本からすれば大半が誤訳であったが、アメリカからすれば分かりやすい訳文であった。

 日本語の遠回しな言い方である「戦争を辞せざる覚悟をもつて」は、ストレートな表現を使う英語では「我々は戦争をする事を決定した」となる。

 日本の暗号電報や政府決定公文書は、日本人向けであってアメリカ人向けではない以上、日本人しか分からない日本語の言い回すで書かれてていた。

 日米外交の失敗とは、暗号電報も、政府公文書も、全て日本語で書いた事である。

 日本人は、取り越し苦労的に、言葉尻から相手の真意を自分に都合が良いように歪曲して深読みする。 

 アメリカ人は、文面を自分に都合が良いように歪曲せず、相手の真意を酌み取る事なく素直に読み解いた。

   ・   ・   ・   

 ラダ・ビノード・パール「欧米諸国は日本が侵略戦争を行ったと非難する事で、自らのアジア侵略の正当性を誇示するとともに、日本のアジアにおける17年間の全てを『罪悪』であったと烙印する事が目的であった」

   ・   ・   ・   

 1月 日蘭会商の再開。日本側は、交渉を妥結させる為に、380万トンの石油要求量を200万トンに引き下げた。

 蘭印総督府は、石油輸出量で合意したが、ゴムとマンガン鉱の輸出量を削減した。

 日本政府は、国防戦略の充実を図る為に、各官庁の優秀な中級幹部と陸海軍将校をを集めて総力戦研究所を設立した。

 イギリスとオランダは、植民地から軍国日本に対し、石油、ゴム、米などの軍需用物資に転用される恐れのある品目の輸出を禁止した。

 連合艦隊司令長官山本五十六は、及川古志郎海相に日米交渉による戦争回避を切望すると共に、開戦劈頭で真珠湾を航空機で奇襲攻撃する計画案を提出した。

 「日本が必要とする太平洋の天然資源を確保できると思われる6ヶ月間より長く戦うというなれば、アメリカ太平洋艦隊に奇襲を仕掛け、少なくとも6ヶ月、できればそれ以上、艦隊の活動を鈍らせてしまう以外に道はない」

 日本海軍は、日露戦争後、アメリカ海軍との艦隊決戦に備えて強化をはかっていた。海軍の重鎮である山本権兵衛は、天然資源を海外に全面に依存し、主力輸出品である生糸を欧米の植民地で何とか売って経済は支えている実情を踏まえて、海軍部内を「対米避戦」で統制していた。

 アメリカは、対独戦に参戦する為に日本を戦争に暴走する様に、中国や中南米で日本製品のボイコット運動と排日運動を煽り、各地の天然物資が日本に輸出できない様に妨害していた。

 ロイター通信は、アメリカ軍がグリーンランドを占領しつつある事を報じた。

 連合艦隊司令長官山本五十六は、及川古志郎海相と大西瀧次郎作戦部長に、対米英戦の開戦と共に真珠湾攻撃を奇襲するという極秘計画を打ち明けた。

 アメリカとイギリスの軍情報機関は、イタリアの日本大使館付き駐在武官への「タラント軍港の地形その他の資料を送れ」という暗号電文を傍受した。

 スターク海軍作戦部長は、真珠湾の太平洋艦隊司令長官に対し「真珠湾への奇襲に備えよ」という命令を発した。

 だが。大半の将校が、真珠湾の水深が12〜15メートルしかないので魚雷を使えない以上、日本軍の攻撃は不可能であると認識していた。

 軍艦は爆弾ではなく魚雷でしか沈められず、魚雷は50メートルの水深がなければ使用できないと言うのが、軍事常識とされた。

 タラント軍港攻撃は、優秀なイギリス空軍であったがゆえに成功したのであって、二流以下の日本空軍で近視的な視力障害を持つ日本人パイロットでは絶対に不可能である、と言うのが支配的な見解であった。

 皖南事件。 

 1月6日 ルーズベルト大統領は、一般教書演説で、平和を愛する国家として、枢軸国と戦う民主主義諸国に武器弾薬や軍需物資を供与しうる計画案を連邦議会に通告すると発表した。

 共和党員や孤立主義者は、国際法の通念からして中立国が戦争当事国に武器弾薬や軍需物資など戦争必需品を供給する事は戦争行為にあたり、国外の戦争に参加しないという中立法やジョンソン法に違反するとして猛反対した。

 武器貸与法案は、国論を二分して大論争となった。

 ホイーラー上院議員(民主党)「いまだかって、合衆国の連邦議会が大統領から国際法に違反せよ、と求められた事はなかった。いまだかって、この国が外交政策遂行するにあたって二枚舌外交を使った事はなかった」

 1月7日 連合艦隊司令長官山本五十六は、及川海相に、開戦劈頭に真珠湾奇襲攻撃を行うという計画を進めているとの手紙を送った。

 この後。真珠湾奇襲攻撃計画は最高機密とされ、その真相は極一部の幹部のみが知るだけであった。

 軍令部は、荒唐無稽で博打的作戦で成功は望めないとして、10月頃まで同意しなかった。

 東條英機陸相は、「戦陣訓」(当時の畑俊六陸軍大臣が発案)を発表した。

 支那派遣軍は、神聖な武器を持っての逃亡と軍事機密の漏洩、そして敵軍に加わって国家元首・昭和天皇と皇軍と生死を共にした戦友に銃を向ける、元日本軍兵士の存在に困惑した。

 現地参謀部は「俘虜に関する教訓」を発表し、敵の捕虜になるより名誉の戦死を選ぶ様に再教育をし、捕虜となった者は敵前逃亡とみなして処断するとした。

 日本軍は、世界にも類のない非人道的命令を下し、全日本軍兵士に何が何でも戦死する事を強要し、生きて捕虜になる事を厳禁とした。

 「我が国民教育ないし社会教育の欠陥か、我が国古来の伝統を蝕みつつあるのを認む」

 非人道的軍隊教育として、人格無視の鉄拳制裁によるしごきで人間性を消失させた。その為、他国の軍隊以上に、怪我で死亡する者や自殺する者のが後を絶たなかった。

 日本軍は、責任の所在を誤魔化す為に、不名誉の死を隠蔽し、事故死や病死として処理した。

 伝統的に命を軽視する文化を持っ日本は、日本人の命を赤紙一枚、一銭五厘と軽んじていた。

 抗日中国軍に参加した元日本軍兵士は、軍国日本の大陸侵略と戦った人民の英雄と讃えられた。

 皇軍・日本軍は、前の敵はもとより、後方の敵と、内なる敵と、四面楚歌で戦っていた。

 それだけに、真実を隠蔽し、情報操作を行い、敵軍に味方して大元帥・昭和天皇に銃を向ける元日本軍兵士の存在を隠し通した。

 軍国日本は、大本営発表で徹底して情報を統制し、憲兵隊や警察を総動員して真実を語る者を厳しく監視した。

 戦時下の日本には、報道の自由はなく、日本国民には知る権利がなかった。

 アメリカ軍は、すぐ死にたがる命軽視の日本軍とは違って、戦闘中・戦闘外いずれにおいても傷つき自力で脱出できないアメリカ兵の救助は攻撃同様に重要な任務とし、被害を承知で陸海空軍合同救助部隊を編成していた。

 アメリカ政府は、国家の責任と国民への義務として、窮地にある同胞を見殺しにはせず、相手に如何なる犠牲を与えようとも万難を排しても国民の救援に向かう。

 キリスト教は、絶対神への信仰にもとずいた、他人や家族への自己犠牲を尊んだ。

 自分の命が大事で他人を見殺しにする人間は、人間のクズとして軽蔑し、人ではないとして差別した。

 まして、自分の利益の為に窮地にある同胞を裏切り敵に売る者を最も嫌った。

 1月中頃 山本五十六は、主要幕僚を任命し、春秋湾奇襲攻撃構想を打ち明けた。

 1月21日 ルーズベルトは、記者会見で、イギリスへの戦略物資の輸送にアメリカ軍艦を派遣しない事を発表し、「護送は発砲を意味し、発砲は戦争を意味する」との見解を明言した。

 1月27日 グルー駐日アメリカ大使は、東京の駐日ペルー公使シュライパーや日本人情報提供者から、日本軍がハワイの真珠湾を大規模に奇襲攻撃を計画している事を聞き、ワシントンに通報した。

 「駐日ペルー公使が当方の館員に語ったところによれば、ある日本人を含む複数の情報源から、日本がアメリカと紛争に至った場合、全軍を挙げて真珠湾に奇襲攻撃をかける計画を持っていると聞いた。

 その計画は荒唐無稽に見えるが、多くの情報源から聞いたので伝える気になった」

 国務省は、同情報を信憑性はないとしたが、一様は海軍側に伝えた。

 駐日ペルー公使は、横浜のペルー領事館の日本人通訳と東京帝国大学の吉田教授からの情報として、日本海軍の真珠湾攻撃計画の可能性をグルー大使に伝えた。

 アメリカ大使館付き海軍武官スミス゠ハットン少佐は、観光を名目として瀬戸内海から九州方面を旅行し、日本海軍艦艇の動きを偵察した。

 軍国日本は、経済全般でアメリカに大きく依存している為に、アメリカとの友好関係を保つべく最重要レベル軍事機密情報以外での情報収集は大目に見ていた。

 ワシントンにあるアメリカ海軍無線監視傍受局は、太平洋に設置した25箇所の無線傍受局が傍受した日本海軍暗号29種の内解読できた暗号から、各地の艦艇や日本国内外の海軍基地の動きと、ワシントンの日本大使館勤務の海軍武官専用暗号から情報収集を行っていた。

 日本海軍の暗号の幾つかは、アメリカ軍によって解読されていた。

 蒋介石は、安徽省で中止命令を無視して勢力拡大を図る新四軍を、包囲して皆殺しにした。中国共産党への制裁として、軍費や武器弾薬の供給を打ち切り、延安一帯を経済封鎖した。

 蒋介石は、国民党軍内の隠れ共産主義者の協力でアヘンの密売を続けた。

 スターリンは、毛沢東の窮地を救う為に、ワシントンのスパイを動員してアメリカ政府から蒋介石に圧力を加えた。

 ハワイ諸島の商店主達は、真珠湾が太平洋艦隊の母港となって多くの水兵が上陸して豪遊することに歓迎した。だが。長期間、艦艇の多くが海上演習として出港していては商売上具合が悪いと不満を抱き、ワシントンに対してなるべく港を開けずに停泊する様に要請した。

 ルーズベルトは、太平洋艦隊に対して、週末はなるべく出港せず真珠湾内に停泊する様に命じた。同様に、航空部隊も数カ所の飛行場に集中させ、大半の航空機を無防備に滑走路脇に並べた。

 水兵や航空隊員らは、週末事に基地周辺の飲み屋に繰り出し、酔っ払うと陸軍兵士と喧嘩騒ぎを起こしていた。

 1月28日 ジョーンズ商務長官は、下院銀行通貨委員会で、「我々は、戦争に参加しているのだ。少なくとも戦争に参加しかけているのだ」と証言した。

 1月29日(〜3月27日) アメリカとイギリスの両国軍は、ワシントンで、大西洋と太平洋における戦争でどう共同行動をとるべきかに関する第一回会議を行い、報告書をまとめた。

 1月31日 オランダ政府は、アメリカの対日強硬政策に同調して、日本に「蘭印は大東亜共栄圏外にある」と通告した。

 タイとフランス両国は、停戦協定に調印した。

 松岡外相は、平和を快復する為の10ヶ条の提案を行った。

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 2月1日 ルーズベルトは、日本との戦争の為に、対日戦に消極的な太平洋艦隊司令長官のリチャードソン大将を解任してハズバンド・E・キンメル少将を大将に昇進させ新たな司令長官に任命した。

 スターク作戦部長は、日本軍による真珠湾攻撃はありえないが、そういう情報があったとキンメル司令長官に伝えた。だが、日本軍による攻撃を想定した警戒態勢の必要性を示唆しなかった。

 2月3日 ハルは、ルーズベルトの指示に従って、国務省内に戦後の対日政策を考える「特別研究部」(SR)を新設した。

 2月11日 野村吉三郎海軍大将は、駐米大使としてワシントンに着任した。 

 ルーズベルトは、日本との緊張が高まるなか、一部の艦隊をフィリピンに派遣する事を命じた。

 スターク部長は、フィリピンでは日本海軍との間で不測の事態が発生する危険があるとして、日本軍の南進抑止が目的であれば蘭印に派遣するべきであると反対した。

 新たに司令長官となったキンメル大将も、大統領が公の場で戦争への参戦を否定するばかりで、戦争をするのか平和を維持するのかその真意を測りかねていた。再三再四、ルーズベルトの腹の内を問う手紙をワシントンのハロルド・R・スターク海軍作戦部長に出していた。

 スターク大将も、明言を避け煮え切らないルーズベルトの態度にイライラとしていたが、戦争に備えるのが軍人の本文として戦争計画に関する指示を与えた。

 軍当局にとって、太平洋と大西洋の二正面戦争を強いられ事が最大の問題であった。

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 民間の憲法学者鈴木安蔵は、ハーバード・ノイマンがハーバード大学の博士論文で執筆した、「日本の近代化への過ちは人民抑圧の天皇制度を存続させた為であるから真の民主的近代国家になるには天皇制度を打倒するしかない」という『日本における近代国家の成立』を高く評価する論文を東洋経済新報社刊『現代の本文明史』の附録[月刊]現代文化第5号に投稿した。

 ノーマンは、日本はもとよりアジア全体に戦争を引き起こし平和を打ち砕いて混乱をもたらし、罪もない人民を殺戮して地獄の様な惨劇を生み出している諸悪の元凶は封建的天皇制度にこそあると糾弾していた。

 よって。邪悪な侵略戦争を命じている天皇制度を放置する事は、世界平和の為にならず、人類の不幸であるから廃絶するべきであると。

 これが、アメリカの保守層に支持された「ノーマン理論」である。

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 ウィキペディア

 エドガートン・ハーバート・ノーマン (1909年9月1日〜1957年4月4日)は、カナダの外交官。日本史の歴史学者。日本生まれ。ソ連のスパイの疑いをかけられ自殺した。

 生い立ち

 在日カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンの子として長野県軽井沢町で生まれる。父ダニエル(1864年 〜1941年)は1897年に来日し、1902年から長野市に住み、廃娼運動、禁酒運動に尽くしたが、ハーバート自身はシェリー酒を嘗めながら雑誌を読むタイプだった。その後カナダのトロントに移り、父と同じトロント大学ビクトリア・カレッジに入学、この頃より社会主義への傾倒を始める。

 1933年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。歴史学を研究し1935年に卒業。このころは左翼系の学生活動にのめりこみ、共産主義系の数々の学生組織で活動する。その後ハーバード大学に入学し、軽井沢の教会を通じて両親同士が知り合いだったエドウィン・ライシャワーのもとで日本史を研究しつつ、学友で「社会主義者」を自称した都留重人などと親交を結ぶ他、学友を社会主義活動へ勧誘し続けた。英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者と断定。

 外交官

 1939年に同大学を卒業し、カナダ外務省に入省、1940年には東京の公使館へ語学官として赴任。公務の傍ら、東京帝国大学の明治新聞雑誌文庫を頻繁に訪ね、近代日本史の研究を深めるとともに、羽仁五郎に師事して明治維新史を学ぶ。また、丸山真男らとも親交を深めるなど、充実した日々を送っていた。しかし1941年12月に日本とカナダ間で開戦したために、日本政府によって軟禁状態に置かれ、翌年日米間で運航された交換船で帰国する。

 GHQ

 第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)9月、アメリカからの要請によりカナダ外務省からGHQに対敵諜報部調査分析課長として出向し、同年9月27日からの昭和天皇とマッカーサーのGHQ側通訳を担当した。マルクス主義の憲法学者鈴木安蔵らに助言して憲法草案要綱作成を促すほか、GHQ指令で釈放された共産党政治犯の志賀義雄や徳田球一らから反占領軍情報を聞き出すなどした。また、政財界・言論界から20万人以上を公職追放した民政局次長のケーディスの右腕として協力したほか、戦犯容疑者調査を担当し、近衛文麿と木戸幸一をA級戦犯に指名し、起訴するための「戦争責任に関する覚書」を提出した。連合国軍占領下の日本の「民主化計画」に携わるかたわら、学者としても、安藤昌益の思想の再評価につとめ、渡辺一夫・中野好夫・桑原武夫・加藤周一らと親密に交流した。特に重要なのの1946年にGHQが戦前の日本の政党の活動を禁止した中で日本共産党だけはノーマンの助言でこの禁止を受けなかった。これが学生時代の左翼活動と相まってその後のソビエトスパイの容疑に大きく影響する。

 1946年8月には駐日カナダ代表部主席に就任する。その後1951年9月にはサンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表主席随員を務め、その後カナダ外務省本省に戻る。

 スパイ

 その後、第二次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。そのようなアメリカからの圧力から逃れさせるべく、1953年には駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、その後1956年には駐エジプト大使兼レバノン公使に栄転する。同年に起きたスエズ動乱勃発では、盟友のレスター・B・ピアソンを通して現地の平和維持と監視のための国際連合緊急軍導入に功績を残し高い評価を得た。しかし、都留重人を取り調べたFBI捜査官によるアメリカ上院における証言によって「共産主義者」との疑いを再度かけられ、1957年4月4日に赴任先のカイロで飛び降り自殺を遂げた。

 最近では冷戦崩壊後における「ベノナ」などの機密解除や、当時の関係者の記録などからソ連のスパイであったという疑いが確実となっている。実際に学生時代に共産主義者であった事実は確定しており、学者としても、進歩的・左寄りの論調を主張した事実はあるが、ベノナも含めてノーマンがスパイであったとの証拠は見つかっていない。またカナダ政府は生前からノーマンのスパイ説を否定し続けており、なお、カナダ外務省はノーマンの「功績」を称えて、2001年5月29日に東京都港区赤坂にある在日カナダ大使館の図書館を、「E・H・ノーマン図書館」と命名した。

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 2月27日 衆議院本会議。立憲政友会正統派の植原悦二郎代議士は、前年40年10月に発足した大政翼賛会について発言し、大政翼賛会幹部にマルクス主義系知識人エリートが多く参加して国内外の方針を決定していると指摘した。

 風見章などの革新官僚(マルクス主義者)や転向組役人(隠れ共産主義者)や革新系知識人らは、統制組織・大政翼賛会を通じて日本をソ連のような共産主義国家にしようとしているのではないかと疑問を発した。

 統制体制に反対する非翼賛系議員は、植原議員の発言に賛同する拍手をおくった。

 植原「私は翼賛会の現状に対して反対する少なくとも3つの理由を持っています、

 その一つは日本の赤化であります、何と言っても翼賛会組織はソ連のボリシェヴィキ又はドイツのナチに酷似しておるものであります、しかもこの組織内には奇矯過激なる言語を敢えてする者が多数存在しております、革新なる美名をかりてソブエトの赤化組織をわが国に移植せんと計画しておる者も存在するのではないかと疑はるる事実があるのであります。国民再組織なる奇怪なる標語も、この間に発生せられております、国家の前途を想う者にして、誰がこの事実を看過することができましょうか。翼賛会は果たして赤化の温床にあらざるか、私共は疑問を抱くものであります……大政翼賛会は政府と表裏一体といいながら、中央に於いても翼賛会の幹部は政府と全く異った外交政策を掲げ、又経済翼賛と称し、社会主義、共産主義に類する言辞を弄しておる、しかも彼等の言説は常に他を排撃し、彼等の一団以外に日本を愛する者がなきが如き口調を羅列している……」





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長江文明の探究―森と文明の旅

長江文明の探究―森と文明の旅

2017-10-18

♚:35─1─悲惨なインドネシアの歴史。ウィキペディア。〜No.220         

オランダ東インド会社 (講談社学術文庫)

オランダ東インド会社 (講談社学術文庫)

 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 

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 華僑・華人らは、オランダの植民地経営に協力し、東南アジア経済を支配して巨万の富を稼ぎ、中華儒教で現地人を奴隷のように扱った。

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 インドネシア共和国、通称インドネシアは、東南アジア南部に位置する共和制国家。首都はジャワ島に位置するジャカルタ。

 東西に非常に長く、また世界最多の島嶼を抱える国家である。赤道にまたがる1万3,466もの大小の島により構成される。人口は2億3,000万人を超える世界第4位の規模であり、また世界最大のムスリム人口を有する国家としても知られる。

 島々によって構成されている国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、東ティモールのティモール島、マレーシアのカリマンタン島、パプアニューギニアのニューギニア島の3国だけである。

 海を隔てて近接している国家は、パラオ、インド(アンダマン・ニコバル諸島)、フィリピン、シンガポール、オーストラリアである。

 歴史

 詳細は「インドネシアの歴史」を参照

 王国時代

 のちにインドネシアとなる地域に住んでいたマレー系の人々は、紀元前1世紀頃から来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀頃から王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国、クディリ王国、シンガサリ王国、マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。

 オランダ統治開始

 詳細は「オランダ領東インド」を参照

 16世紀になると香辛料貿易の利を求めてポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航し、17世紀にはバタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。

 オランダ人は18世紀のマタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀のアチェ戦争によりスマトラ島のほとんどを支配するようになる。この結果、1799年にオランダ東インド会社が解散され、1800年にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島のすべてがオランダ領東インドとなり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。

 ただし、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は1795年にフランス革命軍に占領されて滅亡し、バタヴィア共和国(1795年ー1806年)、ホラント王国(1806年ー1810年)と政体を変遷した。インドネシアは、1811年から1815年のネーデルラント連合王国建国まで英国領であった。

 1819年、イギリスのトーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてイギリス東インド会社の勢力下に獲得したことにオランダが反発し、1824年、イギリス・オランダ両国が英蘭協約を締結。オランダ領東インドの領域が確定した。

 独立運動

 オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識が芽生えた。ジャワ島では、1908年5月20日にブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上を図る活動に取り組んだ。設立日である5月20日は「民族覚醒の日」と定められている。

 1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。この地の民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年のスカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の「青年の誓い」である。

 インドネシア国民党の運動は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、「青年の誓い」では唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・インドネシア語が高らかに宣言された。しかし、インドネシア共産党は1927年末から1928年にかけて反乱を起こしたことで政府により弾圧され、スカルノやハッタが主導する民族主義運動も、オランダの植民地政府によって非合法化された。スカルノらの民族主義運動家はオランダにより逮捕され、拷問を受けた末に長く流刑生活を送ることになり、以後の民族主義運動は冬の時代をむかえることになった。

 民族

 「インドネシア諸族」も参照

 ダヤク人

 大多数がマレー系で、彼らが直系の祖先であり、原マレー人と新マレー人の2種類に分けられる。原マレー人は、紀元前1500年頃に渡来した。原マレー人は先住民よりも高度な文化を持っていた。原マレー人は後から来た新マレー人によって追われていくが、ダヤク人、トラジャ人、バタック人として子孫が生存している。新マレー人は、マレー人、ブギス人、ミナンカバウ人の祖先であり、紀元前500年頃に渡来した。渡来時には青銅器製作の技術を獲得しており、数百年後には鉄器を使用し始める。彼らの使用した鉄器がベトナム北部のドンソン地方で大量に発見されていることから「ドンソン文化」と呼ばれる。

 ほかに約300の民族がおり、住民の内、ジャワ人が45%、スンダ人が14%、マドゥラ人が7.5%、沿岸マレー人が7.5%、その他が26%、中国系が約5%となっている。

 父系・母系を共に親族とみなす「双系社会」であり、姓がない人もいる(スカルノ、スハルトなど)。

 なお、2014年末の法務省の統計によると、3万人を超える数のインドネシア人が日本にも住んでいる。

 言語

 詳細は「インドネシアの言語」を参照

 公用語はインドネシア語であり、国語となっている。会話言語ではそれぞれの地域で語彙も文法規則も異なる583以上の言葉が日常生活で使われている。インドネシア語が国語と言っても、日常で話す人は多くて3,000万人程度で国の人口比にすると意外と少ないが、国語になっているため第2言語として話せる人の数はかなり多い。また、首都ジャカルタに出稼ぎにでる人も多い為、地方の人でもインドネシア語は必須であり、話せないと出稼ぎにも影響が出てくる。

 インドネシア語識字率:88.5%(2003年)

 インドネシア語、ジャワ語、バリ語などを含むオーストロネシア語族の他に、パプア諸語が使用される地域もある。

 宗教

 詳細は「インドネシアの宗教(英語版)」を参照

インドネシアの宗教

 イスラム教 87.2%

 プロテスタント 7%

 カトリック 2.9%

 ヒンドゥー教 1.6%

 仏教 0.72%

 儒教 0.05%

 その他 0.5%

 憲法29条で信教の自由を保障している。パンチャシラでは唯一神への信仰を第一原則としているものの、これはイスラム教を国教としているという意味ではない。多民族国家であるため、言語と同様、宗教にも地理的な分布が存在する。バリ島ではヒンドゥー教が、スラウェシ島北部ではキリスト教(カトリック)が、東部諸島およびニューギニア島西部ではキリスト教(プロテスタント、その他)が優位にある。

 2010年の政府統計によると、イスラム教が87.2%、プロテスタントが7%、カトリックが2.9%、、ヒンドゥー教が1.6%、仏教が0.72%、儒教が0.05%、その他が0.5%となっている。

 イスラム教徒の人口は、1億7,000万人を超え、世界最大のイスラム教徒(ムスリム)人口を抱える国となっている(世俗主義を標榜しており、シャリーアによる統治を受け入れるイスラム国家ではない)。ただし、イスラム教はジャワ島やスマトラ島など人口集中地域に信者が多いため、国全体でのイスラム教徒比率は高いが、非イスラム教徒の民族や地域も実際には多い。カリマンタン島やスラウェシ島ではちょうど、イスラム教徒と非イスラム教徒の割合が半々ほど。東ヌサトゥンガラから東のマルク諸島、ニューギニア島などではイスラム教徒比率は一割程度である(それもジャワ島などからの移民の信者が大半である)。またイスラム教徒多数派地域であっても、都市部や、スンダ人、アチェ人地域のように比較的、厳格な信仰を持つものもあれば、ジャワ人地域のように基層にヒンドゥー文化を強く残しているものもあり、また書面上はイスラム教徒となっていても、実際にはシャーマニズムを信仰している民族も有る。

 なお、信仰の自由はあるといっても完全なものではなく、特に無神論は違法であり、公言をすると逮捕される可能性もある。

 イスラーム

 ナフダトゥル・ウラマー

 ムハマディア

 ジュマア・イスラミア

 プサントレン

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 オランダ領東インド諸島、通称オランダ領東インドは、かつてオランダが宗主国として支配した東南アジア島嶼部に存在した植民地国家、あるいはその領域をさす名称である。その支配領域は、ほぼ今日のインドネシア(2005年現在)の版図にあたる。総督府所在地はバウテンゾルグ(現在のボゴール)にあった。

 オランダによる、現在のジャカルタ占領から始まった東インド支配については「300年(または350年)におよぶ植民地支配」という呼び方があるが、今日のインドネシアの版図をあらわす「サバン(スマトラ島最西北部にある町)からムラウケ(ニューギニア島最東端の町)まで」の領域をオランダがほぼ完全に掌握したのは20世紀初頭のことである。

 英語では「Dutch East Indies」と表記する。戦前の日本では漢語表記の「蘭領東印度(らんりょうとういんど)」から「蘭印」の略字がよく用いられた。

 略史

 交易の時代の東インド

 オランダ人がこの海域に到来するようになったのは16世紀末のことである。ポルトガルの植民地などで働いたオランダ人リンスホーテンの情報により、1596年、オランダのハウトマンの船団がスンダ海峡に面したジャワ島西北岸のバンテン港に到達した。

ハウトマンは、胡椒交易で繁栄していたバンテン王国とのあいだで交易関係を築くこと目論んだが、結局その試みは失敗し、暴力的略奪と住民殺害によってわずかの香辛料を本国に持ち帰るだけに終わった。

 しかしオランダ人にとって、マダガスカルからインド洋をこえてジャワに到る新航路を開設したことの意義は大きく、彼の帰還によってオランダでは東方航海への関心が高まった。

 オランダ東インド会社

 詳細は「オランダ東インド会社」を参照

 1598年、オランダはバンテン王国によってバンテンに商館を設置することを許可され、さらに東方貿易を一元化するため、1602年、「オランダ東インド会社」(Vereenigde Oostindische Compagnie、以下VOCと略す)を設立、1609年には、この商館における活動を統括する「東インド総督」を置いた。

 しかし、VOCは、バンテンでは王国に警戒されて思うような交易上の成果をあげることができなかったため、1619年、バンテン東方に位置するジャヤカルタ(現在のジャカルタ)に新たに商館を設置、この地を「バタヴィア」と改めて、オランダ東方貿易の拠点として、都市建設をすすめていった。VOCはその後、マルク諸島での香料独占をはかるため、アンボン島でのポルトガル人排除、バンダ諸島征服などによって、貿易独占の達成に成功した。

 このようにVOCは、当初、港と商館を中心とする交易独占によって利益をあげていたが、17世紀後半からジャワ島内陸部へと進出し、領土獲得に熱意をみせるようになった。すなわち、獲得した領土で当時の有力商品であるコーヒーなどを栽培し、これを輸出することで利益をあげるためである。いわゆる「点と線」の支配から「面」の支配への転換をはかろうとしたのである。

 VOCは、ジャワ島内部の王朝間での戦争や、各王家内での後継者争いなどに介入することで、17世紀後半にはマタラム王国を衰退させ、そして1752年にはバンテン王国を属国とすることに成功した。しかし、領土獲得のために要した莫大な戦費と、会社自体の放漫経営のために、VOCの経営は悪化し、1799年、VOCは解散することになった。その後を引き継いで植民地経営にあたったのは、すでに本国オランダを占領していたフランスの衛星国となったバタヴィア共和国である。

 イギリスの統治

 東インドの領土、財産、負債などの一切をVOCから受け継いだオランダ政府であったが、19世紀初頭、フランス革命以降のヨーロッパ政局の混乱の波に襲われた(ナポレオン戦争の項を参照)。オランダ本国はフランスに併合され、また、オランダの海外領土はイギリスの統治をうけることになったのである。

 1811年から1816年まで、ジャワ島の植民地経営にあたったのは、東南アジアにおけるイギリスの植民地経営に中心的な役割を果たしていたラッフルズである。そのラッフルズのジャワ島経営は短期間に終わったが、彼のもとで開始された土地測量や税制改革は、その後のオランダによる植民地経営にも一部引き継がれた。

 1814年、オランダとイギリスのあいだで締結されたロンドン条約では、オランダがスマトラ島を、イギリスがマレー半島を、それぞれ影響圏におくことを相互に承認した。今日のインドネシア・マレーシア間のマラッカ海峡に大きな国境線が引かれることになったのは、この条約に端を発し、1824年の英蘭協約で確定したものである。

 強制栽培制度の時代

 1820年代から1830年代にかけて、オランダは深刻な財政危機に直面した。フランスの七月革命の影響等で1830年にベルギーが分離独立したため、オランダ本国は有力な工業地帯を失った。また、東インドでは、1825年にジャワ島のマタラム王家のディポヌゴロをリーダーとする反乱(ジャワ戦争)が起こり、同時期にスマトラ島でも、イスラーム改革派(パドリ派)と反パドリ派の対立に端を発するパドリ戦争が起こったため、軍事費が増大した。

 こうしたオランダ本国の財政状態を改善するため、東インドに導入されたのが東インド総督ファン・デン・ボッシュによる「栽培制度」(日本では「強制栽培制度」と訳されることが多い)である。これは、現地住民に指定の農作物を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げるというものであった。指定栽培されたのは、コーヒー、サトウキビ、藍(インディゴ)、茶、タバコなど、国際市場で有望な農産物である。東インド植民地政府は、農産物をヨーロッパなどへ転売して莫大な利益をあげた。

 この制度はオランダ本国の財政赤字を解消しただけでなく、産業革命期に入りつつあったオランダのインフラ整備にも大きく貢献した。しかし、同時に、オランダ経済の東インドへの依存度を高めることにもなった。

 この制度は、栽培を強制された住民には大きな負担となった。収穫された農作物は、植民地政府の指定する安い価格で強制的に買い上げられた。さらに、従来稲作をおこなってきた水田で、アイやサトウキビなどの商業作物の栽培が強制されたため、凶作が重なると深刻な飢饉を招くこともあり、餓死者も出た。一方、この制度の施行期間中にジャワ島の人口がほぼ倍増したことを指摘して、暗黒面だけを強調するのは妥当ではないとする意見もある。

 自由主義政策の時代

 1854年に施行された蘭印統治法によって、強制栽培制度はかなり緩和され、それに続く自由主義政策の諸法規により、事実上廃止されることになったものの、強制栽培制度による現地住民の苦役と飢餓の実態は、小説『マックス・ハーフェラール Max Havelaar 』によって告発された。東インドで勤務した経験を持つオランダ人エドゥアルト・ダウエス・デッケルが、ムルタトゥーリの筆名で1860年に発表したこの作品は、オランダ文学の古典とされる。この小説はオランダ本国で大きな反響を呼び、強制栽培制度を非難する声が高まった。このため、1860年代以降、同制度は国際競争力のなくなった品目から順に、廃止されていった。

 また、農作物に代わる新たな産物として、産業革命による石油資源の国際市場における重要度の高まりを受け、油田の開発が始められた。1883年、スマトラ島東岸での試掘が許可され、1885年に採掘に成功した。試掘に当たったロイヤル・ダッチ社は、今日のロイヤル・ダッチ・シェルの前身である。

 倫理政策の時代

 自由主義政策時代の末期になると、現地民の窮迫ぶりはいっそう目立つようになった。現地民の生活状態の悪化は、オランダ製品の購買力を減少させることになり、オランダ資本にとっても好ましくなかった。また、人道上の理由もあり、オランダ本国ではようやく従来の自由主義を改めて現地民の福利向上をはかるべきだという声が強まってきた。

 こうして、19011年以降、倫理政策と呼ばれる政策がとられるようになる。倫理政策時代には、給料の安い現地民の下級職員を植民地支配の道具として利用することを目的に養成するため、初等、中等学校が新設された。また、医師学校、官吏養成学校なども設けられオランダの大学に留学する者も漸次に増加してきた。

 倫理政策により、レヘント(蘭: regent。オランダによる植民地統治のための現地民)は、人民から、世襲的な権力と威信を無視され、突如として一般人民同様の取り扱いを受けるようになり、結社の自由も緩和され比較的短期間に諸組織(ブディ・ウトモ)、とりわけイスラム諸組織加入者が数百万に増加した(サレカット・イスラム)。こうしてインドネシアに知識層、半知識層が生れ、現地民の組織化も進行し、民族自立の旗印が掲げられるようになったが、依然としてインドネシア人による自治は許されず、オランダによるオランダのための過酷な植民地支配は続いた。

 オランダ領東インドの終焉

 1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発し、1940年5月15日にはドイツの侵攻をうけて宗主国オランダは降伏し、王室などはイギリスへ逃亡し亡命政府を創設した。以後、第二次世界大戦終結の直前までオランダ本国はドイツの占領下におかれた。 一方、オランダ本国が降伏した後も、蘭印はオランダ亡命政府傘下であり続け、在東インド植民地軍による統治が続いていた。このため戦略物資の調達を巡り、1930年代および1940年前後には日本と現地政府の間で日蘭会商が行われた。オランダ領東インドへは、1942年2月末に日本軍が侵攻した。10日ほどの戦闘の後、在東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡した。以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれた。「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了したのである。

 詳細は「蘭印作戦」を参照

 その後日本軍は、これまで東インド植民地政府によって弾圧され続けていたスカルノとハッタなどの民族主義運動の活動家と協力体制を取り、さらにインドネシア人を軍政府の高官に登用したほか、「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁するなど、インドネシア人を差別し弾圧したオランダ人とは異なった政策を取った。なお、日本政府及び日本軍は、スカルノやハッタらが求めた早急な独立こそ認めなかったものの、1943年10月には、日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本軍政下ではあったものの、インドネシア人はこれまでのオランダ統治下では決して得ることのできなかった権限を得ることとなった。

 その後日本政府は、1944年9月3日にインドネシアの将来的な独立を認容する「小磯声明」を発表、さらに1945年3月には「独立準備調査会」を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させ、8月7日にはスカルノを主席とする「独立準備委員会」を発足させた。

 しかし、8月15日に日本が連合国に降伏したために、独立が反故になるかと思われたものの、8月17日にはスカルノとハッタが「民族の名において」インドネシアの独立を宣言した。オランダはその独立を認めず、東インドを再植民地化しようとしたが、武装勢力(正規軍・非正規軍を問わず。極一部には帰国の足を断たれた旧日本軍の南方方面軍の残存兵力も含まれた)との武力衝突が頻発した。なお、前述の郷土防衛義勇軍は、武装勢力の中心を担うこととなった(その上に、独立後は初期のインドネシア国軍の一部を構成することとなった)。かつて「オランダ領東インド」と呼ばれた領域は「インドネシア」として生まれ変わった姿で、オランダの再来を拒んだのである。本土が荒廃し国力が低下したオランダは、もはや独立戦争を戦い抜く事が出来ず、戦争は4年の歳月を経て和平合意に至り、インドネシア連邦共和国の成立が承認された。

詳細は「インドネシア独立戦争」を参照


   ・   ・   ・   

インドネシア石油戦争の歴史

インドネシア石油戦争の歴史

概説インドネシア経済史 (有斐閣選書)

概説インドネシア経済史 (有斐閣選書)

2017-10-17

♚:38─1─ベトナムの歴史は戦争の歴史。人類の歴史には正義の戦争・正しい戦争が存在する。ウィキペディア。〜No.238          

ベトナムのことがマンガで3時間でわかる本 (アスカビジネス)

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 

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 ベトナムへの最初の侵略は、中華帝国・漢王朝の武帝であった。

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 ベトナムの隣国は、北の中華帝国・中国と西のカンボジアであり、陸続きであった為に戦争が絶えなかった。

 特に、中華帝国・中国は大軍で侵略し、北部を占領し領土にしたり属国・保護国にして支配していた。

 近代なってからは、南の海からフランスが侵略してきて植民地にした。

 現代では、東の海からアメリカが攻撃していた。

 そして又、中国共産党政府が侵略してきた。

 ベトナムの歴史は、外敵の侵略から祖国を守る防衛戦争であり、植民地支配に対する抵抗闘争と独立戦争であった。

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 ベトナムにとって、中華帝国・中国は敵であり侵略軍であったが、軍国日本は味方であり救援軍であった。

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 ウィキペディア。

 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。

 歴史

 紀元前207年に南越国が成立し甌?を併合。

 北属期

 詳細は「北属期」を参照

 北部 - 紀元前111年の漢・南越戦争で漢の武帝が遠征し南越国が滅亡。第一次北属期(en、紀元前111年 - 39年)に入り、交州(交趾郡、日南郡等9郡)と呼ばれた。40年チュン姉妹が蜂起したチュン姉妹の反乱が起こるが、後漢に制圧され第二次北属期(en、43年 - 544年)が始まる。6世紀の終わりごろ隋 (581-618) が中国を統一しベトナムに「交州総督府」を設けた。544年に李賁が前李朝を興し独立。602年、隋李戦争で隋が前李朝に侵攻し、第三次北属期(en、602年 - 938年)に入る。次代の唐 (618-907) に引き継がれ「安南都護府」となる(安南(アンナム)という呼称のはじまり)。755年に唐で安史の乱が起こると支配は動揺し始め、南詔がハノイの安南都護府を占領した(862年 - 866年)。

 中部 - 192年、オーストロネシア語族系統の古チャム人(後のチャム族)が日南郡でインド化されたチャンパ王国を形成して後漢から独立。734年に平群広成らの乗る遣唐使船第3船が暴風雨で難破し、崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕縛された。後に脱出して長安に戻り、渤海経由で日本に帰国した。

 南部 - 扶南国(1世紀 - 6世紀)、真臘(6世紀 - 8世紀)。

 越人王朝の形成

 北部 - 唐末五代の混乱で中国の支配が後退すると939年の白藤江の戦いで最初の民族王朝呉朝が成立(北属期終る)。965年に十二使君の乱が起こり、966年に丁朝が成立。980年に黎桓が前黎朝を興し、981年の白藤江の戦いで宋軍を追い返すことに成功。1001年に李朝の成立。宋は「安南国」を朝貢国として承認した。1054年国号を大越としたが、19世紀に至るまで中国は「安南」と呼んだ。国内では「大越」(ダイベト、大いなる「越」)であった。昇竜(タンロン、後のハノイ)に遷都。以後越人の王朝「大越」は南のチャンパと抗争を繰り返した。1225年、李朝との婚姻から陳太宗へ譲位させることに成功し、陳朝が成立。

 中部 - チャンパ王国

 南部 - クメール王朝

 モンゴルのベトナム侵攻

 13世紀にクビライは3度に渡るヴェトナム侵攻(元越戦争)を行った。1258年、第1次元越戦争。1283年、第2次元越戦争。1287年、第3次元越戦争。1288年の白藤江の戦いで敗北した元軍は敗走した。

 第四次北属期

 14世紀に陳朝の都昇龍(タンロン)を2度攻略した制蓬峩(チェーボンガー、Ch? B?ng Nga)の死後、チャンパ王国では羅皚による王位簒奪が起こった。陳朝に代わった胡朝がチャンパ王国へ逆侵攻すると、羅皚の子である巴的吏が明の永楽帝に援軍を求めて干渉戦争明胡戦争(明・大虞戦争)が起こり、1407年に胡朝は滅亡。第四次北属期(1407年-1427年)となり、明よって「交阯」(Jiaozhi、Giao Ch?、交趾)との地名で呼ばれた。

 南進時代

 藍山蜂起(1418年 - 1428年)で明軍を追い出した黎利(レ・ロイ)により後黎朝が起こる(1428年 - 1788年)。地方王権の緩やかな連合体という形態だったチャンパ王国にはヴィジャヤとパーンドゥランガの2つの核となる地域があったが、1471年に後黎朝の侵攻(チャンパ・大越戦争)によりヴィジャヤが滅亡した。

 黎朝帝室が衰えると権臣の莫登庸による簒奪王朝莫朝が権力を掌握。黎朝復興勢力と莫朝が紅河を挟んで向き合う南北朝時代の戦乱を経て後黎朝は復興したが、北部は帝室を牛耳る東京鄭氏が支配し、中部には広南阮氏による半独立政権が成立し、両者の間で鄭阮戦争が起こった。このころ日本は広南阮氏と交易し、ホイアンに日本人町ができ来遠橋などが建てられた。

 広南阮氏は、1611年からパーンドゥランガの領土を侵食し始める。鄭阮戦争の難民がメコンデルタへ流出すると、カンボジアのチェイ・チェッタ2世(在位:1618年-1628年)は、プレイノコール(英: Prey Nokor、現ホーチミン市)に難民を受け入れ及び徴税のために税関事務所を建設することを許可した。これによってメコンデルタのベトナム化が進行したことで、広南阮氏の南下を呼び込む結果になる。1681年、ダナン沖に明朝遺臣を名乗る楊彦迪(ユオン・ガン・ディック、D??ng Ng?n ??ch)、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Tr?n Th??ng Xuyen)らの率いる50隻余の艦隊が出現し広南国への亡命を申し出ると、広南国はメコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった。

 1693年に広南阮氏の武将阮有鏡がパーンドゥランガを征服した。1708年に現在のキエンザン省・カマウ省に勢力を伸ばしていた?玖の半独立国「港口国」がカンボジア王を裏切り広南阮氏に朝貢するようになる。広南阮氏は、阮福濶の時代にカンボジア領であったメコンデルタ下流のクメール人居住領域の併合を行う。

 西山朝

 1771年に西山阮氏による西山党の乱が起こり1777年に広南阮氏を滅ぼした。1785年にシャムの支援を受けた広南阮氏の残党・阮福暎がメコンデルタ地帯に攻め込んだが(ラックガム=ソアイムットの戦い)、阮恵(グエン・フエ)率いる西山阮氏はこれを撃退した。阮恵は軍を北に向け鄭氏もまた滅ぼし、西山朝が成立した。1789年には、北部にかろうじて存在していた後黎朝の昭統帝が清の乾隆帝に援軍を求めて始まった干渉戦争のドンダーの戦いでも阮恵が勝利し、後黎朝も滅んだ。阮福暎は、フランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌを始めとする外国勢力やチャンパ遺臣の助けを得て西山朝と戦った。

 阮朝

 ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かれた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されている。

 西山朝に内紛の兆しがみえると、阮福暎が1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝(1802年 - 1945年)を興こした。1830年代には港口国が阮朝の支配下に入り、チャンパ遺臣の自治領も完全に阮朝に吸収され、現在の統一国家ベトナムの形がほぼ完成する。

 フランス植民地支配

 1847年4月15日、フランス軍艦がダナンを砲撃し、フランスの侵略が始まる(ダナンの戦い)。1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊、ダナンに進行(コーチシナ戦争、1858年-1862年)。1862年6月、第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を割譲。1867年6月、フランス領コーチシナ成立。1874年3月、第2次サイゴン条約でフランスに紅河通商権を割譲。1882年4月、フランス、ハノイ占領。

 1883年6月、トンキン戦争(1883年6月 - 1886年4月)が勃発。8月、癸未条約(第1次フエ条約、アルマン条約)でアンナンとトンキンがフランスの保護領となる。1884年5月、天津停戦協定(李・フルニエ協定)を締結。6月、甲申条約(第2次フエ条約、パトノートル条約)でベトナムは清への服従関係を絶つ。

 1884年8月、清仏戦争(1884年8月 - 1885年4月)が勃発。1885年6月、天津条約で、清はベトナムに対する宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。1887年10月、フランス領インドシナ連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)の成立(フランスによる植民地化)

 反仏独立運動

フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者としてホアン・ホア・タム(黄花探/通称:デ・タム)などが知られる。

 1904年、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デが維新会を結成。1905年、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて、大日本帝国に来日(東遊運動)。1907年、en:Gilbert Tr?n Chanh Chi?uとFrancois-Henri SchneiderらによってL?c T?nh Tan V?n(六省新聞、1907年 - 1908年)がサイゴンで発行される。1912年、広東でベトナム光復会を結成。

 1913年、Nguy?n V?n V?nhとFrancois-Henri Schneiderらによって初のクオック・グー新聞の?ong D??ng t?p chi(東洋雑誌、1913年 - 1919年)がハノイで発行される。1916年、コーチシナ蜂起。1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織。1923年、Di?p V?n K?によってクオック・グー新聞Dong Phap Th?i Bao(東法時報、1923年 - 1928年)がサイゴンで発行される。1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党(インドシナ共産党)を設立。1930年に、イエンバイ省でグエン・タイ・ホックらベトナム国民党によるイエンバイ蜂起、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエト(ベトナム語: Xo Vi?t Ngh? T?nh、Nghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。

 1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。

 国民

 憲法第5条に「ベトナム社会主義共和国はベトナムの地に共に生活する各民族の統一国家である」と、多民族国家であることを規定している。ベトナム政府が公認しているだけでも54の民族がいる。ベトナム国民は、身分証明書を一定年齢以上に達すると発給され、身分証明証には民族籍を記入する欄が設けられている。

 民族構成

 詳細は「ベトナムの民族一覧」を参照

 ベトナムでは公式に認められている民族が54あり、そのうちキン族(ベトナム族)がもっとも多く、全人口の85%から90%を占める。キン族の言語であるベトナム語はムオン族・セダン族などと同じオーストロ・アジア(モン・クメール)語族に属する。ムオン族はホアンビン省、タインホア省の山間部に住み、ベトナム語のゲアン方言などとの近似性が指摘されている。

 その他に少数民族としてホア族(華人)、タイ系のタイー族・ターイ族・ヌン族、クメール族、ムオン族、モン族(ミャオ族)、ザオ族などがある。少数民族のうち、ホア族とクメール族以外の大半は山地に住む。

 言語

 言語はベトナム語(越語)が公用語である。その他にも、漢字文化圏の影響で華語(主に広東語、台湾語、北京語)、クメール語なども使われており、フランス領インドシナ時代の影響から、少数のエリート層や高齢者の間ではフランス語が理解できる人もいる。また、ソビエト連邦など共産主義国とのつながりがあったため、ロシア語を理解できる人もいる。ただし、最近の若年者の教育は英語教育が一般的になり、町の看板などを見渡してもベトナム語以外では、欧米人観光客向け(観光客相手に生活していく上でも、英語ができないと生活が成り立たないため)に英語が目立つのが、現在の状況である。

 人名

 詳細は「ベトナムの人名」を参照

 主要民族であるキン族を中心に、ベトナムの人名の多くは、漢字文化圏に属しており、人名も漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字(まれに三字)の名からなる構造は中国と共通している。婚姻の際には基本的に夫婦別姓となる。しかし各字の機能は漢名とは異なっており、名のうち一字目は「間の名」(ten ??m、ミドルネーム)と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の輩行字、朝鮮の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上や目下に対しても、呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、間の名は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはほとんどない。

 名付けに使われる語は必ずしも漢字由来のものに限らず、庶民の間では固有語による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には、上記の説明にあてはまらない固有のシステムをもつものがある。

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 フランス領インドシナ(フランスりょうインドシナ、フランス語: l'Indochine francaise、ベトナム語: ?ong D??ng thu?c Phap / 東洋屬法, 中国語: 法属印度支那)は、1887年から1945年まで、大日本帝国により占領された一時期を除きフランスの支配下にあったインドシナ半島(インドシナ)東部地域である。現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当する。仏印(ふついん)とも略する。

 成立までの歴史

 総督府の設置

 詳細は「エルネスト・コンスタン」を参照

 1887年10月17日、インドシナ総督府が設置され、海軍植民地省の一元的管轄下にアンナン・トンキン保護国とコーチシナ植民地を統括した。1899年4月15日にはフランス大統領令でラオスを編入し、インドシナ連邦が成立した[1]。以下に各地域の成立史を記述する。

 コーチシナ植民地

 詳細は「コーチシナ戦争(英語版)」および「en:Conquest of Cochinchina」を参照

 フランス領インドシナ植民地の起源はナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的に1858年に遠征軍を派遣したのに始まる。遠征軍はまずベトナム中部のダナン(ツーラン)に上陸、ついでサイゴンに転じた。その後アロー戦争のために一時的な大規模撤兵があったが、1861年に再度フランス艦隊はサイゴンに上陸し、コーチシナ一帯を攻略した。1862年6月5日、フランス政府と阮朝はサイゴン条約を締結。阮朝はコーチシナ東部3省(ビエンホア、ジャーディン(サイゴン周辺)、ディントゥアン(現在のミトー)、プロコンドール島を割譲し、またダナンの開港、布教の自由、カンボジアへの自由通行権など認め、これがコーチシナ植民地の始まりとなった。フランスは海軍植民地省の管轄下にコーチシナ総督を設置した。

 カンボジアは1863年の条約でフランスの保護国となったが、それによりコーチシナ西部の3省(チャウドック、ハティエン、ヴィンロン)はカンボジア保護国とコーチシナ東部植民地に挟まれる状態となっていた。1867年6月にフランスは東部3省の警備上の不安を解消するために西部3省を攻略し、6月25日にこれを植民地として一方的に宣言した。このコーチシナ6省およびコプロコンドール島がコーチシナ植民地である。

 フランス保護領カンボジア]

 詳細は「en:rench Protectorate of Cambodia」および「フランス保護領カンボジア」を参照

 カンボジアは、ベトナムとタイに侵略されつつあった(第一次泰越戦争、第二次泰越戦争)。1863年8月11日にフランスはタイからの保護を名目にノロドム国王に保護国条約を結ばさせ、1865年4月1日にはカンボジアの保護権をタイに認めさせた。その後1867年のフランス・タイ条約、1884年の新条約にてノロドム王は実権を完全に失い、フランスの保護国となった。

 ベトナムの保護国化

 1882年にフランス軍がトンキン地方を占領し(トンキン戦争)、1883年の癸未条約(第一次フエ(ユエ)条約)・1884年の甲申条約(第二次フエ(ユエ)条約)によってベトナム(フランス保護領トンキン、フランス保護領アンナン)を保護国化すると、ベトナムの宗主国である清国の介入を招き、清仏戦争(1884年 - 1885年)が勃発した。フランス軍はトンキン各地で清朝軍と戦う一方、海軍が中国沿岸部を攻撃したため、清国は1885年の天津条約によってベトナムに対する宗主権を放棄した。この年が暮れる頃から、インドシナ銀行がその既得権をめぐりソシエテ・ジェネラルと政治を争った。

 1886年フエに阮朝宮廷を置いたままアンナン、トンキンはフランスの保護国とされ、フランス外務省の管轄下でそれぞれ理事官が駐在した。南部のコーチシナはフランスの直轄地であり、フエの阮朝宮廷が中部のアンナンの行政を支配し、阮朝から任命されたハノイ総督が北部のトンキンの行政を支配する形であったが、いずれも形式に過ぎず、実際にはトンキン・アンナンに配置されたフランス人理事官が実質的にコントロールしていた。名目的な保護国の形を残した巧妙な支配といえる。

 ラオス

 1872年頃よりラオスは複数のチン・ホー族(赤旗軍、黄旗軍、Stripe Flags、黒旗軍)による来襲を受けていたが(ホー戦争)、宗主国のタイは自国を守るのに精一杯で、国王ウン・カムがフランスのオーガスト・パヴィに守られるという事件が起こった。1888年にフランスがタイ保護領シップソーンチュタイ(ディエンビエン省、ライチャウ省、ソンラ省)を保護国化した。

 併合を不服としたタイは、1893年に仏泰戦争を起こしたが、フランス保護領ラオス(旧ルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国)の併合が確定した。この結果、シャン州に進出していたイギリス領インドと領土を接することになり、雲南問題が発生したが、1896年にシャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言を発表して戦争を回避した。

 1889年、シエンクワーン王国(シエンクワーン県、ゲアン省)が、フランス保護領ラオスのルアンパバーン王国とフランス保護領トンキンに分割併合された(地図には描かれていない)。

 植民地の経営

 フランス領インドシナでの搾取構造を描いた絵画。カントーのホー・チ・ミン博物館にて。

 詳細は「ポール・ドゥメール」を参照

 インドシナにおけるフランスの植民地支配を完成させたのは、1897年から1902年にかけてインドシナ総督に就任した大物政治家ポール・ドゥメールである。ドゥメールはインドシナ連邦の財政と行政機構を整備し、強権的な手段によって同化政策を推進した。その後、ポール・ボー総督やアルベール・サロー総督らはフランスの文明的使命を正面に掲げ、教育の普及や富の増大、医療救済制度の充実、現地人の公務員採用などを通じて「精神の平定化」をめざす協同政策に転換した。

 インドシナ植民地に対するフランスの投資は当初、ホンゲイ炭鉱(現ハロン市)を中心とする鉱山業に集中した。メコンデルタや紅河デルタでは欧州人大地主による米作プランテーションも広く行われ、ハイフォンから輸出される石炭や米が植民地経済を潤した。一方、フランスからは主として繊維製品が輸入された。

 インフラ建設としては昆明とハノイを結ぶ?越鉄路(雲南-ベトナム鉄道、1910年)やハノイとサイゴンを結ぶ南北縦貫鉄道(1899年着工、1936年完成。海運と競合したためさほど役にたたなかったが)さらに道路建設が積極的に推進された。

 独立運動

 ベトナム

 初期の独立運動としては、即位の翌年に抗仏勤皇大蜂起の檄を発し王都を脱出し、各地で抵抗を続けた阮朝8代皇帝の咸宜帝と、それを支えた大臣の尊室説、咸宜帝に呼応し、北中部のゲアン・ハティン・タインホア・クアンビンでゲリラ活動を展開し、勤皇独立運動の先駆けとなったファン・ディン・フンとカオ・タン、北部バクザン省に根拠地を築き、大都市ハノイを幾度も脅かした安世起義の指導者ホアン・ホア・タムなどが存在する。

 1904年には、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デ侯が中心となり、ベトナム維新会を結成した。ファン・ボイ・チャウは翌年に反仏独立の支援を求めて来日(東遊運動)したが、フランスとの衝突を恐れる明治政府の意向により、日本がベトナムに強く加担することはなかった。チャウは1909年に日本から追放されると、1912年に広東でベトナム光復会を結成した。同時期の活動家としては、暴力革命と他国への支援要求に反対し、国民教育及びフランスの民主主義思想への訴えによる国土解放を主張したファン・チュー・チンがいる。

 1916年、コーチシナ蜂起が起きた。

 1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織。

 1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党(インドシナ共産党)を設立。

 1930年、イエンバイ省でグエン・タイ・ホックらベトナム国民党によるイエンバイ蜂起(英語版)、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエトの蜂起。

 1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。

 第二次世界大戦

 詳細は「仏印進駐」および「第二次世界大戦下のフランス領インドシナ」を参照

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 フランス植民地帝国(仏:Empire colonial francais)は、16世紀から20世紀にかけてフランスが海外に建設した植民地の集合体である。この場合の「帝国」とは、フランス本国の政体が王政・帝政・共和政のいずれであるかにかかわらず、海外の多民族の領域を支配したことを指す。

 最初の植民地帝国

 「フランスによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

 フランスの最初の海外進出は16世紀初め、フランソワ1世の時代に行われたジャック・カルティエの北米大陸カナダ・セントローレンス川探検以降のヌーベルフランス領有宣言からである。この頃、フランスの漁民も北米のニューファンドランド島周辺海域にしばしば出漁していた。しかし16世紀後半のユグノー戦争による国内混乱のため海外進出の企ては一時頓挫した。

 第二の植民地帝国

 ナポレオン戦争後ブルボン・フランスが復活したため、多くのフランス植民地はフランスに返還された。西インド諸島のグアドループとマルティニクを始め南米の仏領ギアナ、セネガルの交易拠点、インド洋のレユニオン及びインドのポンディシェリなどである。しかし第二のフランス植民地帝国の真の始まりは1830年から17年間続いたアルジェリアの征服であった。ナポレオン3世はアメリカの南北戦争に乗じてメキシコに保護国を樹立しようとしたが、アメリカ内戦の終結により失敗に終わった。ナポレオン3世はまたサイゴンを首府とするコーチシナを直轄植民地とし、カンボジアも保護国として組み入れた。

 フランスの植民地の大部分が獲得されたのは普仏戦争(1870年 - 1871年)後のことである。コーチシナの基地からフランス人は1883年にトンキンとアンナンを獲得し、フランス領インドシナを形成した。1893年にはラオス、1900年には中国南部(清)の広州湾租借地もこれに加えられた。1881年にはチュニジアを保護国としている。

 20世紀始めまでにフランスはアフリカ北部、西部、中部に次第に植民地を拡大していった。この一連の動きをアフリカ横断政策といい、アフリカ西岸から、東岸のジブチまでを接続することを試みた。同時期にイギリス帝国が取ったカイロからケープタウンを結ぶアフリカ縦断政策と対立し、スーダンでファショダ事件を引き起こした。結局ドイツの進出に対抗するために、フランスが譲歩し英仏協商でスーダンにおけるイギリスの優越権を認めた。また、イギリスはモロッコに対するフランスの優越権を認めた。

 この広大な植民地には現代のモーリタニア、セネガル、ギニア、マリ、コートジボワール、ニジェール、チャド、中央アフリカ共和国、コンゴ共和国、マダガスカル、ジブチが含まれる。1911年にはモロッコも保護国とされた。第一次世界大戦では約55万の植民地兵がフランス戦線に動員され、特に勇猛なセネガル兵は最前線に送られて数万の戦死者を出した。また人手不足となったフランス国内に植民地は20万人以上の労働者を送っている。大戦後にはオスマン帝国領であったシリアとレバノン及び元ドイツ植民地であったトーゴとカメルーンを獲得した。

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人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

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物語 ヴェトナムの歴史―一億人国家のダイナミズム (中公新書)

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ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー

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