Hatena::ブログ(Diary)

西野神社 社務日誌

2007-02-21 厄祓い

厄祓いの授与品

元日から節分にかけての時期(年始)は、どの神社でも「厄祓い」の御祈祷が集中します。厄祓いというのは、厄年に当たっている人がその年(歳)の厄を祓うために神社で受ける御祈祷のことで、当社においても元日から節分にかけての時期は、家内安全の御祈祷とともに厄祓いの御祈祷が集中しました。今はもう大分落ち着きましたけど。

貼付の写真が、当社で厄祓いの御祈祷を受けた方にお渡ししている授与品です。左から、厄除け祈願の木札、当社の栞(西野神社の由緒や祭事暦等が記された案内)、今年の干支の布巾、お守り、福豆、湯呑みですが、授与品の内容は時期によって多少変動します。ちなみに、御祈祷にかかる時間は概ね15分弱程度です(但し参列者が多い場合の御祈祷はもっと時間がかかることもあります)。

厄年というのは、体力的にも家庭環境的にも転機に当たり特に災難や厄難を受けやすいと云われている年齢のことで、地域や社寺によって若干異なっていることもありますが、大抵、男性数え年の25歳・42歳・61歳、女性は数え年の19歳・33歳・37歳が古来から「本厄」とされており、それら本厄の中でも特に男性の42歳と女性の33歳については「大厄」と云われています。厄年の前年は「前厄」、厄年の翌年は「後厄」といって、前厄・後厄もそれぞれ厄年とされていますから、つまり厄年は、前厄・本厄・後厄と3年続くという事になるのですが、前厄と後厄の具体的な範囲についての解釈は、地域や社寺によって異なります。

全ての本厄、つまり男性の25歳・42歳・61歳と、女性の19歳・33歳・37歳、それら全てに前厄と後厄があると解する場合、男性は24〜26歳・41〜43歳・60〜62歳までの9年間、女性は18〜20歳・32〜34歳・36〜38歳までの9年間が全て厄年といえます。しかしこの場合、女性は30代の大半が厄年ということになってしまいます。一方、前厄と後厄は大厄の前後のみにあると解すると、男性は25歳・41〜43歳・61歳の5年間、女性は19歳・32〜34歳・37歳の5年間が厄年となり、前者の解釈よりは厄年の年数が減ることとなり、当社では主にこちらの解釈を採っております。

ところで、男性の42歳と女性の33歳がなぜ大厄とされているのかというと、42歳と33歳はそれぞれ「死に」と「散々」に通じるという語呂から特に用心や注意が必要と云われてきたことに因る所が大きいのですが、それだけではなく、語呂以外でも、男性の42歳や女性の33歳は社会における重要な年回りでもあり、例えば古来は、祭祀組織の成員として加入が認められるなど村落社会においては一定の役割を与えられる歳であり、現在であれば、男性の40代前半といえば中間管理職になって責任ある立場になることが多く、仕事のストレスが溜まって体調が崩れやすくなる年頃であり、女性の30代前半から半ばにかけては、子供の世話に追われたり夫婦間の会話が減ったり自分はもう若くないと感じ始めるなど、やはりストレスが溜まりやすくなることが多い年頃に当たります。

医学的にも、男性の42歳は免疫力低下、女性の33歳はホルモン分泌量の変化が生じやすいとの報告があり、体調不良が起こりやすい年齢でもあります。実際、男性は働き盛りの40代前半で突然ガンや高血圧糖尿病などで倒れる事例が少なくなく、歴史をひもといてみると、数え年の41歳から43歳にかけては不幸な死を遂げている戦国武将が多いことにも気付かされます(石田光成、細川政元、三好長慶今川義元など)。

つまり、厄年というのは「42→死に」「33→散々」という単なるダジャレではなく、丁度その年頃は社会的にも周囲の人々から注目される年齢に当たり、また体調の変わり目でもあり、そのため人生の節目や曲がり角となることが多いという、遠い祖先からの生活に学んだ知恵や教訓が込められているのです。

ところで、時々、前厄・本厄・後厄と3年間続けて厄祓いの御祈祷を受けなければならないんでしょうか、と訊かれることがありますが、本人が気になるのであれば、やはり3年間続けて御祈祷を受けた方が良いでしょう。ただし、厄祓いの御祈祷は本厄の年しか受けないという方もおりますし、前厄の厄祓いの御祈祷を受けただけで厄は全て祓われたと解釈する方も中にはおられます。神社としては、「気になるのであれば3年間続けて受けた方が良いと思います」とは言いますが、「厄祓いの御祈祷は必ず3年間続けて受けなければいけません」とか「そうしないと良くありません」とは決して言いません。厄年をどう過ごすのか、厄年をどう解釈するのか、というのは後述するように本人の考え方や解釈による所も大きく、そもそも御祈祷は、受けることを強制したりするようなものではないからです。

本来は、気がついたら厄年はもう過ぎていた、昨年もしくは一昨年で終わっていた、しかし振りかってみると、厄年とされた年に特に悪いことは何も起こらなかった、というのが最も望ましいのです。しかし、今年は厄年に当たっている、と気付いてしまったのであれば、やはり厄祓いの御祈祷を受けた方が良いでしょう。もし何か悪いことが起こったときには、やっぱり御祈祷を受けておけば良かった!と後悔することになるかもしれないからです。

また、幸い当社にはそのような相談が寄せられたことはまだ一度もありませんが、ときどき、「今年は厄祓いの御祈祷を受けたのに、なぜか良くないことが起こった」と言う人もおられるようです。これは何も厄祓いの御祈祷に限ったことではなく、例えば交通安全の御祈祷を受けたのに交通事故に遭ってしまった、あるいは、家内安全の御祈祷を受けたのに家族が病気にかかってしまった、などというような場合も同様なケースといえるでしょう。

しかしこれはその人の考え方、解釈の問題で、例えば私は、今月12日付の記事「私が神主になった経緯」の中で詳しく述べましたように、神主になる前、当時滞在していた愛知県内でバイクを運転中に交通事故に遭いました。一ヶ月以上の入院と全身麻酔を伴う大規模な手術、そして退院後も数ヶ月のリハビリが必要な、大きな交通事故でした。

私はツーリング中はよく神社仏閣に立ち寄って参拝していましたし、当時は自分のバイクにも某神社の交通安全ステッカーを貼っていました。そうであるにも関わらず、あのような大きな交通事故に遭ってしまったのは、神様に守られていなかったからなのでしょうか。神社仏閣に参拝したことも結局意味はなく、バイクに貼っていた交通安全ステッカーにも効き目はなかったということだったのでしょうか。もし、事故に遭った当時そのように考えていたとしたら、私は間違いなく、神主にはなっていなかったはずです。私は逆に、「これだけの大きな事故にも関わらず、足の骨一本の骨折だけで済み、何ら後遺症が残らなかったのは奇跡としか言い様がなく、これは目に見えない力の御加護があったに違いない」と思ったのです。

神様にお祈りしたのに悪いことが起きると、神様の御神威や御利益を疑う人がいます。しかし、未来は常に「良いこと」と「悪いこと」という二つの選択肢しかないわけではなく、残念なことにときには、「悪いこと」と「もっと悪いこと」という二択しかない厳しい未来だって有り得るのです。自分が悪いことに遭った、と思っていても、実はそれは、もっと悪いことを避けるために必要な出来事だったのかもしれません。

先程の私自身の事故を例にとっていうと、私はあの事故により確かに大怪我を負い、バイクも廃車にせざるを得なくなりましたが、しかし、もしあの時事故に遭っていなければ私はその後もバイクには乗り続けていたはずで、あの後さらに沖縄渡り、その後は日本海側を北上して札幌に帰ってくる計画を立てていましたから、そうすると、沖縄もしくは日本海側でもっと大きな事故に遭っていた可能性もあります。それこそ命を落とす程の事故に遭っていた可能性だって低くはありません。言い方は不適切ですが、壁や天井が付いている四輪車の安全性に比べると、バイクなんてのは棺桶に跨って乗っているようなものですから。

「人間万事塞翁が馬」の故事にも示されているように、目先の一事を以ってそれが“良い”とか“悪い”とかは軽々には判断できないのです。

(田頭)