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西野神社 社務日誌

2007-05-18 柳川熊吉

碧血碑

明治2年の今日(5月18日)、榎本武揚率いる旧幕府軍が新政府軍に降伏して五稜郭を開城し、箱館戦争が終結しました。

これにより、慶応4年1月の「鳥羽伏見の戦い」から始まった一連の戊辰戦争は、北海道に於いてついに終結を迎えました。そして、戊辰戦争以降の日本は、政府国民共に一致団結して近代国家となるべく懸命に邁進し、紆余曲折を経ながらも、今日の日本を築き上げていきました。戊辰戦争は、日本が近代国家に生まれ変わる過程において、不幸にしてどうしても避ける事のできなかった“産みの苦しみ”ともいえる戦争でした。“旧幕府軍と新政府軍との戦い”と表現すると、何だかかなり大昔の話のようにも聞こえますが、たかだか今から140年程前の話です。

ところで、箱館戦争に関しては決して忘れてはならない人物がいます。箱館戦争というと、新選組の土方歳三、遊撃隊の伊庭八郎、額兵隊の星恂太郎などの勇将ばかりが注目されがちですが、今日取り上げるのは彼らではなく、箱館戦争終結直後の箱館(現在の函館市)に於いて男気を見せて人々を感動させた、柳川熊吉です。今日は、柳川熊吉と箱館戦争との関わりについてお話させて頂きます。


箱館戦争終結後、新政府軍兵士達の遺体は直ちに丁寧に葬られたのですが、敗者となった旧幕府軍兵士達の遺体は街のあちこちに放置されたまま、いつまで経っても葬られませんでした。これは会津戦争においても見られた現象で、ようは新政府軍による“見せしめ”行為でした。明治新政府にとっては旧幕府軍はあくまでも逆賊・反乱軍であり、その反乱に対しての見せしめ、報復として、住民達に対して、旧幕府軍兵士の遺体を弔う事を一切禁止したのです。箱館の住民達も政府からのお咎めを恐れて、放置されている遺体に対して「気の毒に」とは思いつつも、せいぜい道を歩く度にそれらの遺体の前で手を合わせる事位しかできませんでした。

このような状況に、「死ねば皆仏、官軍も幕軍もあったもんじゃねぇ。奴らの腐った根性が許せねぇ!」と真向から異を唱え、お咎めを恐れて誰もが手を出せない状況にあった中、打ち首を覚悟して数百名もの幕軍戦死者の遺体を収容し埋葬したのが、柳川熊吉でした。熊吉は江戸浅草出身で、町火消・侠客として名を轟かせた新門辰五郎の身内であったとも云われており、箱館に来てからは、請負業(現在でいう人材派遣業)を営んだり、料理店を経営したり、火消として火事場で活躍する一方、箱館きっての侠客としても名を知られ、榎本武揚ら幕臣とも交流を持っていました。

幕軍戦死者の遺体埋葬を決意した熊吉は、早速、町中の寺を歩いて遺体収容を願い出たのですが、どのお寺も、新政府からの報復を恐れて熊吉の願いを承諾はしませんでした。しかし、日蓮宗の実行寺の住職・日隆だけが熊吉に賛同したため、熊吉は日隆と共に、人々が寝静まった夜に幕軍兵士の遺体収容・埋葬を行う事にしました。

熊吉は、自分がこれからとる行動が「お上の方針に真向から背く事になる」とはっきり自覚していたため、子分達にそのとばっちりが及ばないよう、凡そ600名の子分達に盃を返して子分達との縁を切り、その上で、暗闇の中で実行寺の住職日隆と共に黙々と遺体の収容・埋葬を行いました。ところが、それから2・3日も経つと、どこからともなく遺体の収容・埋葬を手伝う人々が現れ始め、その数は夜毎増えていきました。近隣の住民や、熊吉から縁を切られたはずの子分達が、熊吉の勇気ある行動に心を動かされてその行動を手伝うようになっていったのです。そのため熊吉達は数日間で、町中に放置されていた全ての幕軍戦死者の遺体を葬る事ができました。

そして、遺体を収容し終えて熊吉が実行寺で墓参りをしていた最中、新政府の役人達がその場に踏み込み、熊吉は政府の命に背いた罪により直ちに総督府に連行され、執拗な取調べを受けました。それは、遺体の埋葬に関係した者達を根こそぎ捕まえるための尋問であり、当然首謀者である熊吉には重い刑が待っていました(打ち首となる事はほぼ確定していました)。しかし熊吉は頑として、769人の遺体は全て自分一人で葬ったと言い張りました。「一人でそんな数の遺体を葬れる訳ないだろ!」と何度尋問されても、「うそではありません」「間違った事をしたとはこれっぽっちも思っていませんから命乞いも致しません」と毅然と答え続けました。

新政府軍の薩摩藩士・田島圭造は、熊吉のその男気に惚れ抜き、「これからの日本のために、こういう男を死なせてはならん」と考え、熊吉への打ち首を取り止めさせました。そして熊吉は、無罪釈放となったのです。

明治4年、熊吉は函館山中腹に土地を買い、幕軍戦死者の遺体を実行寺からその地に改葬しました。そして、明治7年に政府が賊軍とされた戦没者への祭祀を許可したことを受けて、翌8年5月、熊吉は、旧幕臣の榎本武揚や大鳥圭介らの協力の下、遺体の埋葬地に慰霊碑(写真参照)を建て、これを「碧血碑」(へっけつひ)と名付けました。この碑名の「碧血」とは、「義に殉じて流した武人の血は、三年経つと碧(みどり)に変わる」という中国の故事から来ています。題字は大鳥圭介の筆とも言われていますが、定かではありません。

碧血碑の裏側には「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」という文字が刻まれていますが、これは、「明治辰巳、実に此事有り、石を山上に立てて以て厥の志を表す」という意味で、もっと分かりやすく言うと、「明治2年、此の事は実際にありました。山上に石を建てて悲しみの気持ちを表します」という意味です。箱館戦争について具体的に書く事を避け、あえて「此の事」と表現をぼかしたのは、政府から祭祀の許可があったとはいえ、まだ政府に対しては遠慮が必要であったという当時の情勢を表しています。

晩年の熊吉は、碧血碑の傍で静かな余生を過ごしながら「墓守」として碑を守り、幕府最後の将軍・徳川慶喜が亡くなった年と同じ大正2年に、88歳で波乱に満ちた生涯を閉じました。熊吉の孫で碧血碑会長を務めた柳川徳蔵回顧談によると、熊吉の死に際の言葉は、「今、何時だ。そうか、潮の引け時だな。人てぇものは、潮が引く時に死ぬもんだ。じゃ、これで行くよ、あばよ」だったそうです。「これで行くよ、あばよ」が最期の言葉とは、いかにも熊吉らしい最期であったと言えます。

(田頭)

NSNS 2017/12/29 12:48 いままで知りませんでした。知った瞬間感動で涙が止まりませんでした。本当の偉人とはこういう人の事を言うのですね。今度函館にお参りに行きます。

田頭田頭 2018/02/07 15:45 >NS様

コメントありがとうございます!
今後も、こういった、あまり知られてはいない郷土の偉人を掘り起こし改めて記事にまとめる、といった事が出来れば良いなと思っています。

田頭田頭 2018/02/27 11:42 この記事「柳川熊吉」の本文中には、以下の記述があります。

『箱館戦争終結後、新政府軍兵士達の遺体は直ちに丁寧に葬られたのですが、敗者となった旧幕府軍兵士達の遺体は街のあちこちに放置されたまま、いつまで経っても葬られませんでした。これは会津戦争においても見られた現象で、ようは新政府軍による“見せしめ”行為でした。明治新政府にとっては旧幕府軍はあくまでも逆賊・反乱軍であり、その反乱に対しての見せしめ、報復として、住民達に対して、旧幕府軍兵士の遺体を弔う事を一切禁止したのです。』


私がこの記事をアップした平成19年当時、世間一般では概ねそのように理解・認識されていたのですが、現在(平成30年)は、状況が変わってきています。
昨年(平成29年)、会津戦争で戦死した会津藩士のうち少なくとも567人が、藩の降伏から10日ほど後に埋葬され始めたとする史料が、会津若松市内で発見されたのです。
この、埋葬を裏付ける史料の発見により、「戦死した会津藩士の埋葬を新政府軍が許さなかった」とされてきた従来の定説は覆ったとも言われています。

なお、この件に関しては、昨年11月3日に私がアップした以下の記事「戊辰戦争の遺恨と和解への動き」も御参照下さい。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20171103