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西野神社 社務日誌

2007-07-13 北海道空襲

最近は北海道民でも知らない人が多いようですが、戦争中は、ここ北海道に於いても米軍機による空襲が行われました。米海軍第38高速空母機動部隊が、終戦の丁度一ヶ月前に当たる昭和20年7月14日、15日の両日に亘り、根室釧路函館室蘭など道内38市町村を空襲し、この「北海道空襲」により2千人以上もの道民(非戦闘員)が亡くなりました。

正規空母7隻と、重巡洋艦を改造した特設空母6隻、計13隻を主軸に編成された機動部隊が、道南から幌別沖約30kmの洋上に展開し、空母一隻から平均百機以上、一日の発進総数約1,500機で2日間に亘って北海道空襲を行ったのです。その忌まわしい北海道空襲から明日で丁度62年経つ事に因み、今日は、道民からも忘れられつつあるこの「北海道空襲」について書かせて頂きます。

《概略》

当時、日本海軍の連合艦隊は既に全滅し、国内では制海権も制海権も米軍に奪われ、米軍機を迎撃できる戦闘機は国内にはほとんど残っていませんでした。5月には日本の同盟国であったドイツが連合国に降伏し、6月末には日本軍は沖縄で惨敗し、戦争は最終局面に入っており、この時の日本はダウン寸前のボクサーのように打たれ放しの状態であり、日本側に反撃らしい反撃は何らできませんでした。

「北海道空襲」とはそういう時期に行なわれた空襲であり、被害の程度に差こそあれ、「東京大空襲」など他地域で行なわれた空襲や、広島長崎への原爆投下同様、これは日本人(非戦闘員)に対しての米軍による一方的な殺戮に他なりませんでした。

米軍側の記録によると、北海道内の攻撃地は「函館、室蘭、苫小牧、小樽、旭川、釧路、根室、帯広、森、長万部、白老、浦河、島松、岩内、深川、下富良野、上富良野、士別、池田、留萌、妹背牛、白糠、川合、勇留島、津軽海峡、内浦湾、石狩湾、根室湾、積丹半島、襟裳岬、弁慶岬」と記されていますが、実際にはここに記されている場所以外でも空襲は行われており(網走、本別、厚岸など)、そういった、本来の攻撃予定地以外での空襲は、搭乗員の判断で行った任意攻撃である可能性もあります。

なお、本州四国九州に対する空襲は、一部には艦上機や戦闘機による攻撃、艦砲射撃などもあったものの、その主力はマリアナ基地から飛来するB29による爆撃でしたが、B29の爆撃した北限は青森市までで、北海道に対する空襲の主力は艦上機でした(但し後述するように室蘭では、大規模な艦砲射撃も行なわれました)。北海道ではB29は偵察のみで爆撃には参加しておらず、この点が、北海道と道外の空襲の大きな違いといえます。

《根室》

根室は北海道と千島列島との連絡の要地であり、北太平洋を防備する日本軍の重要な前線補給基地でもあったため、米艦上機は14日、まず北千島への補給路を断つべく北千島方面に向かうタンカーや輸送船を次々と攻撃し沈没させ(輸送船とはいっても、乗組員ごと国に徴用された漁船が大半を占めていたようです)、翌15日は、午前5時から午後4時半までの11時間半に亘って、艦上機延べ250機により根室市街地への爆撃と銃撃を行いました。

当時の根室には日本軍の飛行機は一機もなく、高射砲もなかったため、米艦上機に只管蹂躙され続け、絶え間ない機銃掃射のため消火作業もできず、市街地は19時間にも亘って燃え続け、一面の焼け野原となりました。3,500戸のうち7割に当たる2,457戸が焼失し、陸上では199人、港内外での船舶攻撃では170人、合わせて369人もの人々が犠牲となり、この空襲により根室はほぼ全滅しました。

《釧路》

釧路は、14・15両日に延べ140機による米艦上機の銃爆撃を受け、焼失倒壊家屋1,618戸、罹災者6,211人、死者183人、負傷者273人という甚大な被害を出しました。

釧路市消防沿革史」によると、『(7月14日午後2時40分)再度大挙来襲、入レ代リ立チ代リ、市内上空ヲ旋回、爆撃ハ間断ナク既ニ二時五十分頃火災発生セルモ如何セン上空低空ニ抑圧サレ、執拗ナル銃撃ハ熾烈ヲ極メ四―五十メートルノ低空銃撃ハ(消防車に)全ク出動ヲ不可能タラシメタリ』と当時の様子が記録されています。

釧路空襲を調べている写真史家の桑島洋一氏によると、「悲劇だったのは、空襲の時は決して防空壕から出るな、という当局からの命令を守ったため、多くの市民が防空壕の中で焼死した事です。防空壕といっても多くは手掘りで土中に穴を作り、トタン屋根を被せ土盛りした、現在のシェルターとは大違いのものでした。それと、たまたま14日は市内厳島神社の宵宮祭。楽しい団欒の日が永遠の追悼の日になったのでした」との事です。

《室蘭》

室蘭は北海道を代表する工業都市であると同時に、重要な軍需工場群を持つ都市として「重要都市」に指定されており、特に日鋼室蘭の第六工場は、射高2万mの最新鋭の高射砲(制空権を失っていた当時の日本にとって、事実上B29に対して唯一威力を発揮していた武器)を生産できる国内唯一の工場であった事から、室蘭は、米軍機動部隊にとっては重要で格好の攻撃目標となっていました。

そのため室蘭は、まず14日に艦上機により空襲され、翌15日には艦砲射撃をされ、北海道内の空襲では死者数、焼失家屋数共に最大の被害を出す事となりました。

14日、米軍機500機が室蘭に来襲し、室蘭港に停泊していた艦船や航行中の船を次々と大破・沈没させ、更に室蘭市内に機銃掃射の雨を降らせました。そして翌15日は、午前9時37分から10時37分までのきっちり1時間、6隻の戦艦と、巡洋艦や駆逐艦などの10隻が、幌別沖約30kmの洋上から室蘭に対して一斉に艦砲射撃を行い、この1時間の攻撃で427人もの市民が犠牲となりました。

戦時災害罹災状況調査書」によると、室蘭市内の空襲での被害状況は、被災世帯1,941世帯、被災人員8,227人、死者436人、重軽傷者49人とされていますが、この死傷者数は一般市民のみで軍人は含まれていないため、実際にはもっと多くの犠牲者が出たと推察されています。

《函館》

函館は、北海道と本州とを青函連絡船で繋ぐ“北海道の玄関口”であった事から、米機動部隊の重要な攻撃目標とされ、特に、北海道と本州を結ぶ大動脈であった青函連絡船に攻撃が集中し、連絡線のうち8隻が沈没、4隻が大破し、350人もの乗組員が犠牲となりました。

14日、第四青函丸が上磯の葛登支岬沖で、津軽丸が上磯の矢越岬沖で、翔鳳丸、飛鸞丸、第二青函丸が青森港外でそれぞれ沈没し、松前丸は七飯浜沖で座礁・炎上し、第三青函丸は福島沖で、第六青函丸は知内沖で、第十青函丸は函館港外でそれぞれ沈没もしくは大破し、第七青函丸と第八青函丸も大破しました。そして、14日は無傷だった第一青函丸も、15日、再度来襲した19機の米艦上機の攻撃により、下北半島三厩沖で撃沈され、青函航路は完全に壊滅してしまいました。

当時は、北海道の石炭京浜工業地帯の燃料をまかなっており、青函ルートが壊滅した事は日本にとって戦争を継続する生産力の根源が無くなってしまった事を意味し、この空襲は日本の敗戦を決定付けました。

《苫小牧》

14日午前9時、米艦上機十数機が苫小牧を空襲し、本町一円を機銃掃射すると共に、王子製紙工場、勇払大日本再生製紙工場、錦岡方面にも爆弾や焼夷弾を投下しました。翌15日にも午前6時から、前日同様本町一円に、米艦上機18機が約1時間半に亘って機銃掃射を行いました。苫小牧の空襲での死者は4名と記録されています。

《旭川》

国策パルプと松岡木材が攻撃されて一部炎上し、駅にあった貨車も攻撃され、飛行機2機が爆破されたという記録が残っていますが、被害状況の詳細は不明です。

《本別》

十勝管内の本別町も米軍機の空襲を受け、市街地は3日間に亘って燃え続け、被災者1,900人、死者40人を出しました。本別町がなぜ米機動部隊に攻撃されたのかについては、帯広が雲に覆われて見えなかった事に加え美里別川と本別川とが合流する地形が帯広と似ていたため帯広と誤認されたとか、鉄道の分岐点がある池田と間違われた、といった諸説がありますが、はっきりはしていません。

《札幌近郊》

札幌では丘珠飛行場手稲などが攻撃され、小樽の在港船舶なども攻撃されましたが、札幌・小樽の市街の被害は少なく、むしろ、その迂回点となった石狩町(現・石狩市)が米軍機三十数機に銃爆撃され大きな被害を出しました。

「戦災記録簿」によると、15日の午前8時頃、石狩の花畔(ばんなぐろ)地区で米艦上機の機銃掃射により牛や馬が撃たれ、午後3時頃には約30分間に亘って河口の本町地区や八幡地区が空襲され、250キロ爆弾三十数発や小型爆弾が投下され、機銃掃射もあったと記録されています。

(田頭)

そのみちそのみち 2018/01/21 19:37 ブログ拝見させていただきました。
以前、学校の先生が話してくれた戦争の話しをブログの記事にしようとしています。
詳しい情報がないか検索してこちらにたどり着きました。よろしければこの記事のリンクを貼らせていただきたいのですがよろしいでしょうか?

田頭田頭 2018/02/07 15:40 >そのみち様

はじめまして。返信が遅くなってしまい、申し訳ありません。
この記事が、そのみちさんがブログの記事を書くに当たって少しでも参考になれば、私としても幸いです。
リンクは御自由にどうぞ!