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西野神社 社務日誌

2008-03-08 宮中三殿

宮中三殿 宮中三殿

天皇陛下が御先祖や神々に深謝され国家の安泰・国民の福祉・世界平和などを祈念される、「宮中祭祀」もしくは「皇室祭祀」と称される一連の祭祀は、皇居内に鎮まっておられる宮中三殿や神嘉殿、各地の山陵(天皇、太皇太后皇太后皇后の山陵、御陵、皇族方の陵墓)において執り行われますが、その多くは、宮中三殿で斎行されています。

宮中三殿とは、皇室の御祖神(みおやがみ)である天照大御神をお祀りする「賢所」(かしこどころ)、歴代の天皇・皇族の御霊をお祀りする「皇霊殿」(こうれいでん)、天神地祇(てんしんちぎ)・八百万神(やおよろずのかみ)をお祀りする「神殿」(しんでん)の三殿の総称で、更に新嘗祭が行われる神嘉殿(しんかでん)が、この三殿と一体になって建っています。

宮中三殿は吹上御苑の東南に南面して建てられており、賢所を中央に、その西に皇霊殿、東に神殿が建てられ、各殿とも入母屋妻入、向拝を付した素木造で、正面には木階があり、その前面には石階が付されています。また、内部は内々陣、内陣、外陣に分かれており、それ以外の部分も含め社殿としての構造は三殿とも同様ですが、中央に位置する賢所は、その左右に位置する皇霊殿や神殿よりも一尺高く造られています。

今日は、これらの三殿について、簡単に解説をさせて頂きます。なお、宮中三殿のうち賢所は古代から宮中で奉斎されてきましたが、皇霊殿と神殿は、明治維新以降の宮中祭祀制度の再編成によって新たに宮中に遷座・奉斎されたものです。


◆賢所(かしこどころ)

三種の神器(八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉)の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を依代として皇祖・天照大御神一柱を奉斎する御殿で、「畏(おそ)れかしこむべき所」という意味から「賢所」と称されています(但し、八咫鏡の実物は伊勢の神宮に奉安されており、賢所に奉安されている八咫鏡は後述のように実物の分身として模造された御神鏡です)。

天照大御神は、御自身の御孫に当たられる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が葦原中国日本の国土)を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に天降られる時、「皇孫を中心として地上に建てられるべき国が末永く栄えていくように」との御言葉をお示しになり、八咫鏡をお授けになって、「この鏡を我が御魂として祀り国の繁栄を祈念するように」と御命じになられました。歴代の天皇はこの御教えを守り、皇居の中に御神鏡(八咫鏡)をお祀りして、只管国の発展を祈念し続けられました。これが賢所の始まりで、宮中に賢所が鎮座される事は、日本書紀に見られる所謂「同床共殿の神勅」により明らかです。

第十代崇神天皇の御代には、世の乱れと共に神威を畏れて御神鏡は同床共殿ではなく豊鍬入姫命に託けて皇居の外でお祀りされるようになり、そして次の垂仁天皇の御代には、倭姫命は更に良い鎮座地を求めて近江美濃の国を経て伊勢の国に至り、そこで天照大御神のお示しを受けて御神鏡は伊勢の地(五十鈴の川上)に奉斎されました。これが伊勢の神宮の始まりで、国家の発展に伴い天照大御神は宮中にお祀りされるに留まらず、伊勢の地で広く国民全体からの崇敬を受けられるようになったのです。そして、御神鏡が伊勢の地に御遷座された事に伴い、それに代わる新たな御鏡を造って宮中にお祀りし、これが現在に連なる賢所の始まりと云われています。

賢所は、平安時代には、中国で鏡を出す所の名である温明(うんめい)という言葉に関連して「温明殿」と称されたり、また、内侍(ないし)と云われた女官が近侍して奉仕した事から「内侍所」とも称されました。天徳4年(960年)、寛弘2年(1005年)、長久3年(1042年)には火災等の御被害も受けられましたが、畏み奉斎の伝統は継承され、明治2年3月、東京への遷都に伴い、賢所も京都御所から東京の皇居へと遷座されました。

なお、賢所(かしこどころ)の名称は、その奉斎御殿や、そこに奉斎されている御神体御自体の事を指しますが、宮内庁が用いる賢所(けんしょ)という名称は、三殿を含む御構内一帯を指します。


◆皇霊殿(こうれいでん)

初代神武天皇はじめ歴代の天皇、皇后、皇妃、皇親の御霊が奉斎されている御殿で、明治2年12月に竣工した神祇官神殿に奉斎されていた皇霊が明治4年9月に宮中に遷座されたのがその始まりです。

皇室の御先祖の陵墓は、大和周辺、京都の泉山、東京都下の多摩陵武藏野陵など各地に散在しておりますが、これらの陵墓が一般の“お墓”に当るものだとすれば、皇霊殿は、皇居の中に設けられた皇室の“祖霊舎(みたまや)”に当るものといえ、崩御・薨去の1年後に合祀されます。

中世には、京都御所御黒戸に歴代天皇の御尊を安置して女官らが仏式で奉仕し、また、神祇伯白川家では八神(神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神)と共に歴代天皇の皇霊が神式で奉斎されていましたが、明治2年、明治天皇は祭政一致の叡旨を以って国是の確立を御奉告の御趣で、天照大御神はじめ天神地祇八百万神、また神武天皇はじめ歴代天皇の御神霊を神祇官に設けた霊代に招き祭り御拝になり、これが、明治維新以後、歴代天皇の皇霊が神式で奉斎された最初と見られています。

同年12月、神祇官(明治4年に神祇省に改変)に仮神殿が建てられて、その中央の座に八神、東の座に天神地祇、西の座に歴代天皇の皇霊がそれぞれ奉斎され、そして明治4年、前述のようにその神祇省神殿から歴代天皇の皇霊が、宮中の賢所へ、相殿の形で奉遷され、これが現在の皇霊殿となりました。

当初は賢所と合わせて「皇廟」と称され、歴代天皇の御霊のみお祀りされていましたが、明治10年1月の元始祭の日に、皇后以下皇族の御霊も合祀されるようになり、そして、明治33年4月に公布の皇室婚嫁令に「皇霊殿」と記されるようになって以降、一般にも皇霊殿と称されるようになり、またそのように記されるようになりました。

ちなみに、京都御所御黒戸にあった歴代天皇の霊牌や仏像等は、明治6年、皇室の菩提寺である東山泉涌寺(真言宗泉涌寺派総本山)に移され、現在は同寺にて奉祀されています。


◆神殿(しんでん)

天神地祇八百万神が奉斎されている御殿で、明治5年3月に神祇省の廃止と共に宮中に遷座したのがその始まりで、三殿の中では最も後に成立しました。

前項で記しましたように、明治2年6月、明治天皇は国是の確立を、天照大御神はじめ天神地祇八百万神と、神武天皇から孝明天皇に至るまでの歴代天皇の皇霊に御奉告のため、神祇官に霊代を設け招き祭らしめられ、御拝されました。そして同年、神祇官に神殿を設ける事が決まり、同年12月に仮神殿が竣工し、その中央の座に八神を、東の座に天神地祇を、西の座に歴代天皇の皇霊がそれぞれ奉斎され、鎮座祭が斎行されました。

明治4年8月、神祇官が廃され神祇省が置かれ、それに伴い神祇省に継承された神殿(西の座)に奉斎されていた歴代天皇の皇霊は宮中賢所に奉遷されましたが、八神と天神地祇は引き続き神祇省の神殿にお祀りされました。しかし、翌5年に神祇省が廃止され新たに教部省が置かれる事になり、そのため同年3月、神祇省神殿に奉斎されていた八神と天神地祇を宮中に遷し仮に賢所拝殿に奉安せしめ給う旨仰せ出され、それを受けて同年4月、神祇省の神殿に奉斎されていた八神と天神地祇、及び京都の神祇伯白川家、神楽岡吉田家斎場、有栖川宮家の旧邸と新邸にそれぞれ鎮座されていた八神を、御羽車に移し、賢所拝殿に奉遷しました。

翌5年、八神と天神地祇の両座を合祀して一座とし、「神殿」と改称され、これによって現在の宮中三殿の原型が成立しました。


◆備考

宮中三殿の配置は下図のようになっており(図はクリックすると拡大表示されます)、上位・下位の関係で見るならば、その序列は賢所・神殿・皇霊殿の順になりますが、前述のように三殿の成立した順番は賢所・皇霊殿・神殿という順になるため、三殿で斎行される祭祀もその順に従って行われています。

宮中三殿

なお、宮中三殿で行われる各祭事については、以下の記事を御参照下さい。ちなみに、以下の記事には掌典長、掌典、内掌典といった役名が登場しますが、これは簡単に言うと、掌典長は宮廷内において神事を司る、神社でいう所の「宮司」に、掌典は禰宜や権禰宜といった「神職」に、内掌典は「巫女」にそれぞれ相当します。いずれも、現在は宮内庁の職員(国家公務員)ではなく、天皇家の私的使用人という位置付けになっています。

▼1月の宮中祭祀

http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070113

▼2〜3月の宮中祭祀

http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070201

▼4〜6月の宮中祭祀

http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070402

▼7〜10月の宮中祭祀

http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070704

▼11〜12月の宮中祭祀

http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20071102


(田頭)

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神道者神道者 2011/09/23 10:00 おはようございます。

少々お尋ねしたいのですが、神祇伯白川家では歴代天皇の皇霊が神式で
奉斎されていましたということですが、これはどのような資料に載っているのでしょうか?
お教示お願い致します。

田頭田頭 2011/09/29 10:33 >神道者様

申し訳ありませんが、この記事を書いたのは今から3年半も前の事なので、どの資料を参考にして書いたのか、はっきりとは覚えておりません。
資料が確認でき次第、改めて報告させて頂きます。

神道者神道者 2011/10/01 08:05 >田頭様

ありがとうございます。
お手数をお掛けしてすみません。
明治以前の宮中祭祀を内侍所の祭祀に限定してしまうと
明治以降に新しい祭祀が創出されたように感じますが、
神祇官の祭祀が継承されたと考えれば、そうではありません。
神宮などでは元日は大御神様に対する拝賀式が行われていたので、
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/hyakuwa/journal.asp?record=1
それが歳旦祭になったと考えられますし、元始祭は宮中三殿鎮座記念の例祭です。

紀元節祭は宮崎神宮などの神武天皇を祀る神社祭祀を取り入れたものと言えます。

宮中祭祀ではないですが、首相の伊勢参拝なども、戦後に佐藤首相が始めたというものでなく、
戦前は首相就任と新年に参拝し、戦後は鳩山一郎首相が再開し、佐藤首相以降、歴代首相が参拝したということです。
江戸時代は将軍の代わりに代参があったみたいです。
私は神前結婚式などは明治以降にキリスト教結婚式の影響で始まった
新しいものかと思っていたのですが、
http://www.asakusajinja.jp/shinzen/yurai.html
によると、「現在の神前結婚式は、家庭における婚儀の形や諸礼家の作法を集大成し我が国の伝統的な考え方を継承したものとなります。」ということですし、

http://www.ogasawara-ryu.com/jp/om15.html

小笠原流でも神事に関係しています。(愛敬の守袋など)
高砂なども能ですが、内容は神事とも言えます。
以前、明治時代の神職の方の本で、古語拾遺に「神官の頭に召して(今の神祇伯である)王族・宮内・禮儀・婚姻・卜筮の事を司らせ、 」とあるので、神前結婚式は理に叶っているという記述を読んで
断絶した伝統を復古させるといっても観念的、イデオロギーの所産ではないかと感じたのですが、
時代による変遷はあっても、文化というのは継承されていくものだと思いました。

田頭田頭 2011/10/01 12:38 >神道者様

大変勉強になりました。
いろいろ詳しく教えて下さり、どうもありがとうございます。

神道者神道者 2011/10/03 13:11 >田頭様

いえいえ恐縮です。
長文失礼致しました。
これからも宜しくお願い致します。