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西野神社 社務日誌

2008-05-16 中島三郎助という漢の生き様

中島三郎助

139年前の今日(明治2年5月16日)、箱館政権(蝦夷共和国)に於いて「箱館奉行並」として閣僚の任にあった中島三郎助(写真参照)とその息子二人が、壮絶な戦死を遂げました。現在、函館市にある中島町という地名は、この地で戦死した中島三郎助親子に因んで名付けられたものです。

三郎助は浦賀奉行所の与力だった34歳の時、浦賀に来航したペリーの艦隊に小舟で乗り付け大胆にも「副奉行」と称して談判し、そして、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争に於いて、終戦を迎えるその二日前に戦死しました(享年49)。つまり、三郎助は「幕末」という大激動の時代の“始まり”と“終わり”の現場に、奇しくも当事者として立ち会ったのです。

三郎助は優秀な技術者(造船学、航海学、蒸気機関学、砲術などの専門家)であり、外交や海防問題に造詣の深い有能な官吏(幕臣)でもあり、また、幕末という激動の時代を真っ直ぐに生きた軍人(剣術家、砲術家、海軍士官)でもあり、そして、三郎助が戦死する数日前に箱館で壮烈な戦死を遂げた土方歳三と共に、己の信義に殉じた“最後のサムライ”の一人でした。三郎助親子や土方ら“最後のサムライ”達が歴史の表舞台から退場して「幕末」という時代が終わった事により、日本は、近代化の第二章へと入っていったのです。

今日は、箱館政権の閣僚・武将として北海道(主に箱館)で活躍しながら、榎本武揚や土方らに比べるとイマイチ知名度が低いため、残念ながら北海道の人にもその存在をあまり知られていない中島三郎助という人物を紹介させて頂きます。

三郎助を知っている道民でも、三郎助についてはただ「箱館で戦死した榎本軍の武将」としてしか認識していない事が多く、技官として日本の近代化の一躍を担った三郎助の功績についてはあまり知られていないようなので、中島三郎助とは、箱館に死地を求めてそこで生涯を終えたというだけの悲運の一武将ではなく、海外の事情に明るく外交交渉にも長け、造船や海防についての技術者としての立場から日本の近代化に尽した開明的な人であった、という事を今日の記事から少しでも分かって頂ければ幸いです。

ちなみに、昭和63年に放送された日本テレビの年末時代劇スペシャル『五稜郭』では若林豪さんが、平成14年に放送されたテレビ東京新春ワイド時代劇壬生義士伝新選組いちばん強かった男〜』では夏八木勲さんが、それぞれ三郎助を演じていました。いずれも渋い俳優さん達で、なかなかいい味を出していました。


◆モリソン号事件

中島三郎助は、文政4年(1821年)、浦賀奉行所与力・中島清司の三男として、奉行所の役宅(現在の神奈川県横須賀市西浦賀町)で生まれました。三郎助は将来の与力候補生としての教育を受け、武術については、槍術の宝蔵院高田流に6歳で入門し10歳で目録(合格点)を貰い、また砲術は幕府鉄砲方の田付流に入門して後に高島流砲術を学び、そして剣術は天然理心流・北辰一刀流を学びました。学問の方は、浦賀の僧侶か漢学者の下で学んだようで、俳句和歌漢詩の素養も身に付けました。

天保6年、三郎助は14歳の時に浦賀奉行所の与力見習いに取り立てられ、その2年後、モリソン号事件が起こりました。アメリカの商船モリソン号が、日本に対して開国と通商を求めるため、日本人漂流者7人を“手土産”として乗せて日本へと来航して来たのです。しかし、当時の日本はまだ鎖国中であり、異国船の扱いについては「無二念打払令」が生きていましたから、浦賀奉行所は幕府に対応を伺う事なく、無二念打払令に従ってモリソン号を砲撃しました。

この砲撃により、沈没や大破こそしなかったもののモリソン号は日本側との交渉を諦めて退去していきました。この事件の後、三郎助は奉行から白銀2枚の褒美を貰っているので、三郎助はその砲術の腕前を見せたのでしょう。この後、三郎助は17歳で、従妹に当たる15歳のすずと結婚しました。

天保9年、諸外国からの開国への圧力が切実なものとなってきた事から、危機感を強めた幕府老中の水野忠邦は、江戸湾一帯と相模海岸線の検分を行い、また、海防も重視して砲術の検分も行いました。この砲術検分では、三郎助は全弾を標的に命中させ、この時もやはり白銀2枚の褒美を貰っています。まだ若い与力見習いではありましたが、三郎助は浦賀奉行所の他の砲手達と共に、現実の船(モリソン号)を目標に撃った事のある、日本で唯一の実戦経験のある砲手として、既に砲術のエキスパートと見なされていたようです。

天保10年、異国船への対応方針が改められてかつての「薪水給与令」に戻され、問答無用の打ち払いという方針は廃止されました。モリソン号来航時の日本の対応(問答無用の打ち払い)が海外では衝撃をもって受け止められた事から、幕府は強硬策を取る事により招きかねない軍事的リスク(報復)を本気で心配し始め、その対応を改めたのでした。


◆マンハッタン号とコロンバス号の来航

弘化2年(1854年)、日本人漂流者を乗せたアメリカの船が、また江戸湾に入ってきました。捕鯨船マンハッタン号で、この時は浦賀奉行の土岐丹波守が与力や通詞と共に直接同船に乗り込んで船長のクーパーと交渉し、奉行所が漂流者を引き取りマンハッタン号に薪水を給与する事でクーパーを納得させ、すぐに同船を退去させました。

幕府はマンハッタン号来航の後、次々と浦賀に来航してくる異国船に益々危機感を募らせ、海防のため新しく台場を築造する事を決めました。それを受けて、この時の浦賀奉行大久保因幡守は、三郎助と合原操蔵に、この台場に供える大砲の製作を命じました。大砲の製作を命じられる事からも、この頃三郎助は、砲手としてだけではなく、奉行所の技術担当官吏としても確固たる地位と評価を得ていたのでしょう。三郎助と操蔵は、二ヶ月程でこの大砲を完成させました。

弘化3年、また異国船が浦賀沖に現れました。今度は商船ではなく軍艦でした。日本に開国を促せというアメリカ本国からの指示を受けて来航した、アメリカ東インド艦隊のコロンバス号とビンセント号で、コロンバス号は全長75m、砲83門を積む乗員800人の巨大軍艦で、その大きさは先に来航したモリソン号の比ではなく、一方のビンセント号は、大きさはコロンバス号の半分程でしたが、それでも砲24門を積む強力な軍艦でした。

浦賀に投錨したこの2隻の軍艦に対し、浦賀奉行所は漁民や問屋の小舟を全て繰り出して軍艦を取り巻いて身動きができないようにし、三郎助は番船に乗り込んで不測の事態が起きないよう警備に当たりました。艦隊司令官ビッドルとの交渉は三郎助の父・清司が務め、交渉の結果、コロンバス号とビンセント号はそれ以上浦賀に留まる事を諦めて、退去していきました。しかし、次にアメリカの船がやってくる時はこのような平和的な開国要求では済むまいと誰もが感じており、幕府は益々危機感を募らせました。


◆マリナー号の来航

嘉永2年(1849年)、三郎助の父・清司が与力を退役し、三郎助は29歳でその後を継ぎました。与力となった三郎助は、幕府が大型船の建造を許可しない以上、海防のためには奉行所所属の和船を改造して大砲を搭載するしかないと考え、当時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄に、警備船下田丸を洋式に改造する事を建議しました。

同年、今度はイギリスマリナー号が浦賀に来航し、奉行に面会を求めてきました。奉行の氏栄は、三郎助の提案を採り入れて船の建造を行う事を決めていたため、交渉のためマリナー号に乗り込む時、三郎助や浦賀の船大工達も同行させ、三郎助や船大工達は、マリナー号のマンセン艦長の許可を得て艦内を見学し、その構造を細かく見分しました。

そして、マリナー号退去の後、浦賀奉行所がマリナー号を参考にして建造した船が「蒼隼丸」(そうじゅんまる)です。三郎助が直前に下田丸の改造を提案している事や、この後、三郎助が洋式帆船鳳凰丸の事実上の建造責任者となっている事から、この蒼隼丸の建造についても、三郎助がその責任者であったと推定されています。


◆ペリー来航

嘉永6年(1853年)、ついに、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官のマシュー・カルブレース・ペリー提督率いる4隻の軍艦(所謂黒船)が、浦賀沖に来航しました。(その伏線となる出来事は多々あったものの)日本に於ける幕末期の混乱は、このペリーの来航から始まったと言っても過言ではありません。

この時、三郎助は浦賀奉行所の応接掛に任命されており、現場の責任者として直接異国船と交渉する立場にありました。早速三郎助は、通詞の堀達之助と共に番船に乗って、艦隊中最も大きな船であるサスケハナ号に近付いて浦賀から退去するように勧告しましたが、ペリーはこれに全く応じず、幕府の相応の地位の役人が来ない限り、一切の問答をしないという姿勢を示しました。

やむなく三郎助は、アメリカ側が求める“相応の地位の役人”のフリをする事にし、独断で「自分は副奉行である」と言って乗艦許可を求め(実際には副奉行という役職はありませんでした)、通詞の達之助と共にサスケハナ号に乗艦しました。三郎助に対して、アメリカ側はペリーの副官コンティー大尉が応対し、コンティー大尉は「合衆国フィルモア大統領から日本国皇帝へ国書を奉呈するために日本に来航した。相当の役人を当艦へ派遣されたい」と述べました。これに対して三郎助は、「日本の国法では、外交交渉は全て長崎で行う事になっている。まずは艦隊を長崎へ回航するように」と求めましたが、アメリカ側は強硬で、「ここで高位の責任者に国書を手渡す。ここで受け取れないというのであれば、こちらから直接江戸に出向いて高官に手渡す」と主張しました。

押し問答の末、三郎助は一旦退艦して浦賀奉行の氏栄に成り行きを報告しますが、氏栄からは「もう一度行って退去を求めてこい。交渉は全て長崎で行うから長崎へ回航せよと伝えよ」と指示されます。既にその通告は先方に拒否されているのですが、とりあえず三郎助は再びサスケハナ号に乗艦し、その通告を繰り返しました。

それに対して、コンティー大尉も先程の見解を繰り返し、両者の溝は埋まりそうになかったため、とにかく三郎助は時間稼ぎを狙う事にしました。もし江戸湾にペリーの艦隊が入った場合、江戸湾を警備している諸藩の警備部隊は艦隊に対して迷わず砲撃を開始するはずで、そうなれば艦隊からの反撃に遭い、その場合日本側に勝ち目はないであろうと、三郎助は海防・砲術の専門家として冷静に分析していたからです。三郎助は、「明日改めて回答致したい。明朝まで時間を戴きたい」と言い、とりあえずその場はコンティー大尉を納得させて退艦しました。

この後、幕府老中の阿部正弘は丸一日協議した末に国書を受理する事を決め、浦賀の隣の久里浜に於いて、国書受理の式が行われました。式が終わると、アメリカ側はこの式典に至るまでの交渉の現場担当者達を船に招待し、三郎助もその招待者の中の一人として艦内を見学したのですが、この時の三郎助は、数日前に「副奉行」を名乗った割にはアメリカ側に対して技術者的な振る舞いを多く見せてしまったようで、ここぞとばかりに艦内をくまなく見学し、蒸気機関の動く様を熱心に観察し、艦内各所の寸法まで測り、アメリカ人の船員達を質問攻めにしたそうです。

当時のアメリカ側の記録でも、この時の三郎助は船体構造、搭載砲、蒸気機関を入念に調査した事から「まるで密偵のようだ」と記されています。既に浦賀奉行所で洋式船建造の担当者という立場にある以上、三郎助が技術者として船の構造や蒸気機関、武装等についての知識や情報を得ようするのは当然の事だったのでしょう。


◆鳳凰丸の建造

ペリー艦隊が去った後、三郎助は浦賀奉行所の組与力という立場から、幕府に意見書を提出しています。その中で三郎助は、打払令の停止はこの上ない仁政であるとし、国際的な情勢、軍事技術の発展に触れた後、日本でも蒸気機関による軍艦を建造して国際情勢の調査に海外派遣すべきとし、また江戸湾の防備計画としては、羽田沖の浅瀬などに台場増設の位置を具体的に提案し、相模から江戸湾内海にかけては全て大名家を封じて砲台を築かせ、軍艦数十隻を繋留させて警備に当たらせるよう主張しました。

その後、幕閣から浦賀奉行所に覚書が届き、大型軍艦の建造が可能かどうかを打診されました。次々と日本に押し寄せて来る異国船、強大な海軍力を背景としたペリーの威圧的な要求、三郎助の意見書などにより、幕府としても、強力な軍艦がなければもはや日本は守り切れない事を痛感していたのです。この打診に対して、浦賀奉行所は早速軍艦建造の具体案を提出し、幕府はこの提案を了解しました。これにより、徳川家光により寛永12年(1635年)に定められて以降ずっと守られてきた大型船建造禁止令が廃止され、幕府は浦賀奉行所に対して大型船の建造を命じました。

三郎助は幕府から大型船の建造を命じられる前から、既に大型軍艦や蒸気船建造のための準備にとりかかっており、幕府から建造を命じられると、建造の責任者として直ちに浦賀湾の奥でこの船の建造にかかりました。この船が、後に鳳凰丸と名付けられる事になる日本最初の洋式帆船です(マリナー号を参考にして先に建造された蒼隼丸は、まだ和船の構造を残した帆船だったため、洋式帆船とは見なされていません)。


◆ペリーの再来航

嘉永7年(1854年)、ペリー艦隊が再来航しました。今度は7隻の艦隊で、しかも幕府の目算より2〜3ヵ月も早い来航で、鳳凰丸もまだ建造途中でした。再来航したペリー艦隊は大胆にも江戸湾に入り、現在の横浜市金沢区乙舳沖の辺りに投錨しました。今回も、三郎助に艦隊との交渉が命じられ、三郎助は奉行所支配組頭の黒川嘉兵衛と共に艦隊のポータン号に乗艦し、艦隊に対して浦賀沖へと戻るよう交渉しました。

この時も、交渉の休憩時、艦内を案内された三郎助はここぞとばかりに貪欲に艦内を見学して周り、甲板の巨砲の寸法を詳細に測って図表を描いたり、釣り糸で艦内の各所の長さを測るなどしたそうです。アメリカ側としても、さすがにこの時点ではもはや三郎助の事を「副奉行」だとは思っていなかったでしょう(笑)。

しかし、この会談の途中で三郎助は応接掛の職を解かれます。三郎助を浦賀へと戻し鳳凰丸の建造に専念させるためです(このペリー再来航の時の働きに対して後に三郎助には白銀15枚が与えられていますから、失態による解職でない事は明らかです)。そして、日米和親条約締結から1ヶ月後の嘉永7年5月、ついに鳳凰丸が完成し、三郎助は同僚の佐々倉桐太郎と共に艦の副将に任命されました。

また、この時期三郎助は、明神崎台場の青銅製大砲の鋳造修理も同時に行っており、三郎助の技術者としての守備範囲は相当広かった事が窺えます。一奉行所の与力でありながら、造船技術者、海防問題の専門家として三郎助は既に著名な存在であり、長州藩士の桂小五郎(後の木戸孝允)も、洋式造船術と西洋兵学を学ぶため、この頃、三郎助の元を訪れています。


◆長崎海軍伝習所で学ぶ

日米和親条約が締結された時点から、幕府は海軍の創設に着手し、オランダがそのための教育に手を貸す事を申し出たため、幕府はこの申し出を受け入れて、オランダから実習船として蒸気船の提供を受け、またオランダから教官団も受け入れ、安政2年(1855年)長崎に海軍伝習所を創設しました。

早速伝習生の選抜が行われ、浦賀奉行所からは鳳凰丸建造の責任者であった三郎助と佐々倉桐太郎、鳳凰丸建造に関わった船大工の熊蔵と長吉などが選抜されて長崎へ派遣されました。この長崎海軍伝習所一期生の中には、後に幕府の代表として西軍の西郷隆盛と交渉し、江戸城無血開城させた勝麟太郎(勝海舟)もいました。

長崎海軍伝習所は、現在の長崎県庁が建っている場所に設けられ、第一期伝習生は170人(正規伝習生60人、水夫・火夫要員50人、員外聴講生20人、佐賀藩の聴講生40人)で、三郎助は正規伝習生(仕官待遇伝習生)として、航海術、造船学理論、蒸気機関学理論、操作訓練、天測実技、地理地文学築城理論、洋式砲術、鼓手訓練、操帆訓練、船具運用、オランダ語、士官心得、下士官心得、初歩医学、西洋乗馬術などの課目を学びました。

なお、榎本武揚も長崎海軍伝習所の出身ですが、榎本は、一期目は員外聴講生として学び、二期目から正規伝習生として学んでいます。また、三郎助が在籍していた当時の長崎海軍伝習所の総監(校長)は永井尚志で、永井は後に榎本軍に参加し、榎本政権下の閣僚の一人(箱館奉行)として京都政権軍と戦いました。平成16年に放送されたNHK大河ドラマ新選組!」では、永井の役は佐藤B作さんが熱演していました。

安政5年(1858年)、三郎助は伝習所を修了し、長崎から江戸までの卒業航海を無事に終了させた後、浦賀へと戻って与力職に復職しましたが、その翌月には、江戸(現在の東京都中央区築地)に新設された築地軍艦操練所の教授方に任命されたため、浦賀を離れて海軍の教官として江戸に赴き、築地の軍艦操練所にて生徒達に軍艦の操練術などを教えました。その後、同操練所の「教頭」の地位に当たる教授方頭取手伝に昇進しました。この時、三郎助は40歳でした。

ちなみに、安政4年3月に、総監の永井をはじめ多数の伝習生が長崎海軍伝習所から築地軍艦操練所に異動したため、長崎の伝習生は大幅に減少し、長崎海軍伝習所は安政6年に、その使命を終えて閉鎖されました。


◆ドッグの築造と咸臨丸の修理

三郎助が築地軍艦操練所の教授方となって半年経った頃、オランダから回航されて長崎海軍伝習所で実習船として使われていたスクリュー式蒸気船の咸臨丸に修理の必要が生じ、鳳凰丸建造の実績を持つ浦賀奉行所がこれを担当する事になりました。勿論、その担当責任者には三郎助が任命され、三郎助にとってもこれは伝習所で学んだ造船術を生かす絶好の機会であり、三郎助は日本初となるドライドッグを浦賀に築造し(現在は住友重機械工業敷地内)、そこで、咸臨丸の船底の修理とコーキング(経年劣化でできたひび割れなどを埋める作業)を無事に完了させました。

そして、浦賀で修理を終えた咸臨丸は、安政6年、「日米修好通商条約批准交換使節の特使代理を、乗組員が全員日本人の日本の船で送り届け、日本人が初めて自分達だけの力で太平洋を渡った事を世界にアピールする」という意図のもと、アメリカへと派遣されました。この時特使代理に任命されたのは、永井の後に長崎海軍伝習所の総監を務めた木村摂津守で、咸臨丸の艦長は、伝習所で三郎助と同期であった勝麟太郎が務めました。

ちなみに、太平洋横断を成し遂げた後、咸臨丸は榎本率いる徳川海軍の一艦として戊辰戦争に参戦するものの、その頃の咸臨丸は、蒸気機関が撤去されただの帆船となっていたため(酷使が祟って蒸気機関の疲弊が激しく故障を頻発していたため撤去されていたのです)、艦船としての機能は他艦に比べて大幅に劣り、そのため品川沖を出航した後、銚子沖で暴雨風に遭った際には本隊と逸れて下田港に漂着し、清水にて京都政権軍に拿捕されてしまいました。明治新政府に接収された後は、開拓使の輸送船として使われましたが、明治4年、仙台藩片倉氏の旧臣達を移住させるため北海道・小樽へ航海中、木古内町和泉沢沖で暴風雨に遭って遭難し、沈没しました。


◆多忙を極める三郎助

文久元年(1861年)、築地軍艦操練所の教授方頭取手伝の職を健康上の理由から辞した三郎助は、浦賀奉行所へ戻りました。この時期、国内では桜田門外の変、生麦事件などが起こり、また、朝廷からの再三の求めに応じて、幕府は今更その実行は不可能と知りながらも攘夷(外国を撃退して鎖国を通そうとする排外政策)の方針を決定するなど、日本は混迷の激変期にありました。

三郎助は、幕府の攘夷決定に対しては上申書を提出し、その方針に明確に反対しています。三郎助は、海外貿易による物価の高騰によって市民生活が窮迫している事、列藩が殺気立っている事を認めた上で、横浜に限っての貿易停止と一時鎖港、貿易総額の制限などを提案し、海陸二軍不十分なまま攘夷を実行する事は民衆に対しても外国に対しても十分な仁徳とは言えない、と主張したのです。これは、朝廷に対しては攘夷を約束せざるを得ないにしても、まずは時間を稼げ、という事でした。

浦賀や横浜で外国の軍艦に自ら乗り込んで直接外交交渉を行い、また、長崎では外国教官指導の下洋式の先進教育を受けるなどして諸外国の実情を知っていた三郎助にとって、攘夷などは非現実的な暴論としてしか捉える事はできなかったのです。

文久3年、三郎助は浦賀港先端部にある館浦の台場築造の総監督に任命され、また、そのすぐ後にはこの台場のための大砲の鋳造も始まり、三郎助はこの監督も行い、更に同時期、浦賀港奥に幕府の石炭置き場が開設され、三郎助はこの石炭置き場の取り扱い担当者にもなりました。この時期の三郎助は、一与力の身分でありながら、幕府の採るべき重要な方策を進言したり、国防上必要な軍艦の建造や砲台の築造を命じられるなど幕府の枢要な国務に携わっており、多忙を極めていたといえます。

この後、三郎助は軍艦頭取手伝から軍艦頭取に昇進し、同時に家格も御家人から旗本へと昇格しますが、慶応2年、三郎助は46歳でそれらの役職を辞し、奉行所の与力も辞して長男の恒太郎に後を継がせ、隠居に入りました。既に中年となっていた三郎助にとって、限界を超えたその激務には、肉体的にも耐えられなくなっていたのかもしれません。しかし、隠居したからといって、三郎助が穏やかな余生を送る事はできませんでした。また三郎助自身も、その性分から、激しく傾きつつあった幕府をただ黙って見ている訳にはいかなかったのです。

慶応3年(1867年)、オランダで建造されていた幕府の新鋭艦開陽丸が、長崎海軍伝習所でニ期生として学んだ後オランダに留学していた榎本武揚によって、オランダから回航されてきました。開陽丸は全長80m、総排水量2,600t、定員は400人で、蒸気機関一基と砲26門を備えた当時最新鋭の軍艦で、この当時のアジアでは間違いなく最大最強の軍艦でした。

幕府はこの開陽丸の配備をもって艦隊を編成し、従来の軍艦組を正式に徳川海軍とし、軍艦奉行の上に海軍奉行という役職も設けました。そして、新たに艦隊司令官となった、長崎海軍伝習所一期生(三郎助と同期)であった矢田堀景蔵は、三郎助に対して海軍に戻ってきて欲しいと懇請し、それを受けて三郎助は再び海軍に戻り、徳川海軍の士官となりました。


◆死地を求め北へと向かう

慶応3年(1867年)、薩長岩倉具視らが中心となって「王政復古クーデター」が起こり、徳川慶喜の官位が剥奪され、更に徳川家の領地も没収され、幕府は事実上崩壊しました。翌慶応4年1月には戊辰戦争の第一幕となる鳥羽・伏見の戦いが始まり、この時岩倉は、薩長らクーデター側に対して「錦の御旗」を提供し官軍を名乗らせたため、それまで中立的であった諸藩は一斉に薩長側に付き、劣勢となった幕府軍大阪への退却を余儀なくされました。

結局、慶喜は薩長らの西軍に全面降伏し、江戸城も放棄して、それまでの四百万石という資産を没収され七十万石に減封された上で駿河へと移封されました。幕府が完全に崩壊した事を受け、徳川海軍の事実上の司令官の地位にいた榎本は、徳川家臣団による蝦夷地開拓の許可を新政府に嘆願しますが、結局これは拒絶され、そのため榎本は、奥羽越列藩同盟と合流するため艦隊を率いて品川沖を脱走しました。この時三郎助は、浦賀奉行所の与力であった二人の息子、恒太郎と英次郎や、かつて浦賀奉行所で三郎助の配下であった者達と共に開陽丸に乗り込み、この脱走に参加しました。

この脱走に当たって、三郎助は出陣の理由と決意を以下のように記しています。『慶応四辰年 将軍辞職ノ挙ニ乗シ 王側ノ奸悪恐多クモ冤罪ヲ負ハシム。此ニ於テ 北軍同盟ノ諸侯公会ヲ助テ義兵ヲ起シ 実ニ天下騒乱 戦国ノ世トナル。因テ三郎助 恒太郎 英次郎三人 主家報恩ノ為ニ出陣スル也

この並々らぬ決意からみても、三郎助が楽観的な観測をもって榎本軍に加わった訳でないのは明らかで、そもそも、国際情勢も知らずにただ攘夷や天誅を叫んで外国人達を襲撃していた一部の志士達とは違い、海外の情勢にも、また、その中での日本の置かれた立場についても熟知していたリアリストの三郎助にとっては、榎本艦隊の行く末もある程度は見通していたはずで、それを分かった上であえて開陽丸に乗艦し蝦夷へと向った以上、三郎助の中では、再び生きて浦賀の土を踏む事はあるまいとの覚悟を決めていたと思われます。

ちなみに、この時の開陽丸の艦長は、長崎海軍伝習所二期生の澤太郎左衛門で、澤は、長崎海軍伝習所が閉鎖された後、同期だった榎本と共に幕府が募ったオランダ留学生に選ばれ、オランダから帰国後も榎本と行動を共にし、箱館政権下では開拓奉行を務めました。

明治元年10月、榎本軍は北海道の鷲の木に上陸し、陸上部隊を進発させ、同月中に箱館を占拠し、箱館市街地にあった様式要塞の五稜郭に於いて、自治政府(箱館政権)を樹立しました。しかし、榎本軍の海軍力の中核を成していた開陽丸は、江差攻略戦の最中に座礁し沈没してしまいました。これは榎本軍にとって取り返しがつかない程の大きな痛手で、開陽丸の沈没によって、強力な海軍力を背景に京都政権と対峙して列強の調停を引き出そうとしていた榎本の構想は頓挫する事になり、そして、それまで榎本軍を交戦団体と認めて中立を保っていた欧米各国も、開陽丸の沈没を知ると中立を放棄しました。もはや戦争は避けられない情勢になりつつありました。

三郎助は、箱館政権では平時に於いては「箱館奉行並」を、戦時に於いては「軍艦頭並」と「砲兵頭並」の役を務め、かつて蝦夷島防備を命じられた津軽藩が築造した、五稜郭南側にある要塞・千代ガ岱陣屋(五稜郭の支城の役割を担っていた、大砲5門の砲台)の守備隊長として、浦賀奉行組を直接の配下として戦いに備えました。


◆サムライとして死す

明治2年4月9日、ついに京都政権軍は蝦夷の江差北方から上陸を開始し、それを迎え撃つ榎本軍との戦闘が本格的に始まりました。激戦の末、4月末には榎本軍は全部隊が箱館平野に追い詰められ、翌5月11日には、京都政権軍は五稜郭に向かって進撃を開始し、榎本軍に対して最後の総攻撃が始まりました。

この日、土方歳三は一本木で戦死し、千代ガ岱陣屋も攻撃を受けて三郎助は腹部に敵弾を受けました。また箱館湾にあった榎本軍の残存艦隊も、京都政権軍の軍艦と湾内で激しく砲を撃ち合うなど、箱館各所で戊辰戦争最後の激戦が繰り広げられました。腹部に被弾した三郎助は、病院に入るよう周囲から勧められますが、「この地は我が埋骨の地なりと早くに定めておる」として頑としてそれを受け入れずに戦い続けました。

そして、新選組が守っていた弁天台場も降伏し、いよいよ五稜郭への攻撃も間近となった5月15日、榎本は千代ガ岱陣屋から将兵を全員五稜郭に引き揚げる事を決めましたが、三郎助はこれを拒否し、徹底抗戦を主張して千代ガ岱陣屋に留まりました。榎本は、千代ガ岱守備隊全員の討ち死にを心配し、三郎助の息子のうち一人だけでも五稜郭に入れようとするものの父子三人にきっぱり拒絶されたと伝えられています。

5月16日午前3時頃、京都政権軍は千代ガ岱陣屋に猛攻撃をかけ、三郎助は砲隊五十余名と共に激しい戦闘を展開し、もはやこれまでと悟った三郎助は、大量の火薬を詰めた大砲に跨り、引き寄せた敵もろとも自爆せんとしましたが、雨のために点火が成らず、やむなく三郎助は白兵の接戦に出る事にし、長男恒太郎(この時22歳)、次男英次郎(この時19歳)と共に刀を抜いて敵部隊に突入し、壮絶な戦死を遂げました。戦死する前日に三郎助が詠んだ句は『郭公(ほととぎす)我も血を吐く思ひかな』と伝えられています。

その翌日、榎本は降伏勧告の受け入れを決定し、5月18日の朝、榎本は他の3人の首脳と共に京都政権軍の陣屋に出頭して薩摩黒田清隆(後の第2代内閣総理大臣)らと会談して正式に降伏を表明し、五稜郭を明け渡しました。


こうして、日本の近代化の道筋を巡って国内を二分した内戦は終結しました。「幕末」の初めと終わりの現場に遭遇するという奇しき人生を送った三郎助は、技官として、幕臣として、そしてサムライとして真っ直ぐに生き貫きました。彼もまた、日本の近代化に殉じた熱き漢(おとこ)の一人でした。

昭和6年、中島父子を記念して、千代ガ岱陣屋付近の土地が中島町と名付けられ、現在、函館市中島町には「中島三郎助父子最期の地碑」が建っています。また、浦賀では毎年1月に「中島三郎助まつり」というイベントが盛大に行われています。

中島三郎助は、宝蔵院高田流、天然理心流、北辰一刀流など武士としての槍術・剣術を備え、特に砲術に関しては砲手、大筒鋳造、砲台建設に至るまでの専門技術を備えたスペシャリストで、また、蒼隼丸や鳳凰丸を建造したり、浦賀にドックを造って咸臨丸の修理を行うなど、海洋国家日本の造船・操船の第一人者としてその礎を築いた先駆者でもあり、そして、ペリーの黒船に初めて乗り込んで直接交渉をするという、日本外交史に貴重な役割も果たした一人でした。このような凄い人物が、全国的にはあまり知られていないのは残念です。


参考文献 …… 『幕臣たちと技術立国 ―江川英龍・中島三郎助・榎本武揚が追った夢』佐々木譲著(集英社新書)

(田頭)

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私の先祖をありがとう!私の先祖をありがとう! 2009/10/08 17:59 来年は浦賀に行きます。中々先祖様に会う機会が無かったが、これでやっといけます。詳しく書いていただいてありがとうございました。

田頭田頭 2009/10/09 06:28 >私の先祖をありがとう!様

コメントありがとうございます。中島三郎助の御子孫なのですね!
浦賀へ行ったら、是非、御先祖様所縁の地を巡って来て下さい。

私としては、いつか中島三郎助の生涯が、NHKの大河ドラマとして製作・放映される事を密かに期待しています。

いすずいすず 2010/01/22 21:42 はじめまして。
函館に来て2年。
こっちに来て、初めて「中島三郎助」という名前を聞きました。
特に興味もなく聞き流していたのですが、
中島町であるイベントをやらせて戴き
「中島町って温かいな」という感謝の気持ちが芽生えました。
そしたら「中島町」って、中島三郎助さんから名前を戴いてるっていうじゃありませんか。
「これは調べないと!」と初めて想い、検索して、ここへたどり着きました。

正直、あまりの情報量に面食らったのですがw
・・・読んで良かったです。
感動しました!

こんなに詳しい情報を読ませて戴き、ありがとうございます!!
感謝します。

田頭田頭 2010/01/24 20:12 >いすず様

はじめまして。コメントありがとうございます。
中島三郎助の生き様に感動して戴けるとは、この記事を書いた私としては嬉しい限りです!こちらこそ、どうもありがとうございます!

ちなみに、中島三郎助と同じく幕臣という立場から「義」を貫いた、小栗上野介忠順の生き様を描いた「天涯の武士」というマンガも、過去の記事(下記URL)で紹介させて頂いた事があります。もし宜しければ、こちらの記事も是非併せてお読み下さい。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20080527

ところで、いすずさんのブログ読ませて頂きましたが、HACで奥尻に行かれたのですね。
奥尻は、私もいずれ行ってみたいと思っています。まだ一度も行った事ないんですよ。
ちなみに、私の人生初のプロペラ機体験は、函館から丘珠行きの便でした。

後藤後藤 2010/09/04 18:03 初めまして。
私のご先祖さまは中島隊の一員だった福西周太郎のようです。
祖母からは「福西」「直参」「浦賀奉行所」「五稜郭で討死」「お墓をすぐ建てることを許されなかった(朝敵になったため?)」ということを聞いていたのでそのあたりで検索をかけた所、ここに辿り着きました。
福西家はどうやら中島家と遠縁だったようですね。
僅かながらも同じ血流るる者として、胸張って頑張りたいと思います。
とても詳細な情報、ありがとうございました!

田頭田頭 2010/09/06 06:57 >後藤様

中島三郎助と血縁のある方からコメントを戴く事ができ、とても嬉しく思います。どうもありがとうございます!
中島三郎助については、機会があればまた書いてみたいなと思っています。

今年は函館に旅行に行きたいなと思っているので、その時は、中島町の「中島三郎助父子最期の地碑」へもお参りしに行くつもりです。

森 2011/07/01 12:30 テレビで中島三郎助の映像がでてきて、彼の顔を見て何故か興味が湧き、彼について調べ始めたところこのサイトを見つけました。
感動しました。自分は明治維新にうといですが、中島はとりあえず凄まじい人だと思いました。幕末の始まりと終わりに携わったこと、黒船に自ら小舟をこいで乗り込んだこと、、彼がやった全てが堂々としていて格好良すぎます!しかも蒸気機関を見ただけで仕組みが理解できてしまうという頭の良さ!彼は正に天才だと思います。これほどデカイ男が現代にいないのが残念です。
このような記事を書いて頂きありがとうございました!今日から中島三郎助は自分が尊敬する人物の一人です!

田頭田頭 2011/07/02 16:15 >森様

そのように言って戴き、私としても大変嬉しく思います!
確かに中島三郎助は天才だと思います。仰るようにスケールも大変デカく、その生き様は本当にカッコイイです!

次回(平成23年7月6日午後10時から)放送のNHK「歴史秘話ヒストリア」では、ついに中島三郎助が主役として取り上げられます。
「世にも数奇なラストサムライ 〜幕末 いつも“そこ”にいた男・中島三郎助〜」というタイトルで放送されるそうで、私としてはとても楽しみにしています!

堀 2011/07/05 10:20 私も明日の放送を楽しみにしています。実は私は三郎助の末子「与曾八(海軍中将)」の娘の孫です。三郎助は曽々祖父になります。今までも色々な小説を読んだりして、それなりご先祖様を知る努力はしておりました。昔、父に聞いたのですが、清水次郎長が与曾八のスポンサーになり教育費を出したとか、与曾八の妹?が木戸孝允の養女になったとか…当時は興味が無かったのですが…最近、こちらの方も気になっております。詳しい史実を読ませて頂きありがとうございました。

田頭田頭 2011/07/06 05:00 >堀様

中島三郎助は曽々祖父に当たられるのですね!
今日の放送は私も楽しみにしています。研修のため私は今日から伊勢に行きますが、勿論タイマー録画します。

伊藤伊藤 2013/06/01 13:22 はじめまして。一昨年に放送された歴史ヒストリアで取り上げられる人が私のご先祖様だと祖母に教えてもらい観たのが始まりでした。顔を見ると私の叔父やひいおじいちゃんにそっくりで驚いた覚えがあります。笑
今回このように取り上げて下さりありがとうございます、知識が深まりました。ご先祖様のことが知れてとても嬉しく思います。こんなにすごい人なのに知名度が低いのが残念でなりません。これから上がっていくことに期待してます。笑

田頭田頭 2013/06/03 10:20 >伊藤様

はじめまして。
こちらこそ、コメントを戴き、どうもありがとうございます。
私も、今後中島三郎助の知名度が上っていく事を期待しています!

個人的には、中島三郎助所縁の地である函館と浦賀でそれぞれ行われている中島三郎助まつりにも、一度は是非行ってみたいなと思っております。

函館市中島町の中島三郎助祭
http://www.nakajimarenbai.com/event/sabu.html
http://www.hakodate150plus.com/staff/2010/05/post-102.html

横須賀市浦賀の中島三郎助まつり
http://www5a.biglobe.ne.jp/~myms-s/stewposter08.htm
http://yokosuka.keizai.biz/headline/719/
http://koia.web.fc2.com/uraganaka.html

伊藤伊藤 2013/06/26 20:58 返信ありがとうございます!
私も行ったことがないのでいつかは絶対行ってみたいと思っています。
サイト紹介ありがとうございます。見てたら今すぐにでも行きたくなるような内容でとても参考になりました。

はるかはるか 2015/05/07 09:11 先だって函館に行きました。五稜郭から中島三郎助親子の最期の地まで歩きました。ふと、三郎助はどんな思いで五稜郭を後にしたのだろうかと考えてしまいました。先日、横須賀に行くことがあり、三郎助の話を聞きました。三郎助のエピソードが「浦賀奉行所」西川武臣著(有隣新書)に紹介されているというのです。わずかなページではありましたが、あの時代に生きた人の、どうにもならない(できない)熱い思いに触れた気がしました。五稜郭に残っていれば・・・と思ってしまうのはいけないことでしょうか。

田頭田頭 2015/05/11 16:29 >はるか様

五稜郭に残っていれば…、との事ですが、確かに五稜郭に残っていれば三郎助が千代ガ岱陣屋で戦死する事は無かったかもしれませんが、しかし当人が箱館での戦争に死地を求めていた以上、仮に五稜郭に残っていたとしても、残念な事ではありますが結局違う場所で戦死していたのではないか、という気がします…。
もし、三郎助が戊辰戦争を生き抜いていたとしたら、間違いなく、明治政府にとって三郎助は何としても欲しい人材だったでしょうね。

しかし、私は決して戦争で死に急ぐ事を良しとしたりそれを褒め称えたりしているわけではありませんが、結果的に、三郎助は箱館戦争で戦死した事により、その生涯は伝説となり、彼は英雄になったのだとも思います。
これは土方歳三についても同じ事が言えますが、史実では箱館戦争で戦死した土方が、もし戦死せずに明治の世も生き抜いていたとしたら、土方の人気は今程は高くはなかったはずです。

榎本武揚に対しても、日本の近代化に貢献した有能な官僚であったという評価がある一方で、幕府に殉ぜず「二君に仕えた」、サムライらしくない、というマイナス評価もありますが、榎本だって、もし五稜郭で戦死していたとしたら、恐らくは「ラストサムライ」として大いに男を上げた事でしょう。
もっとも、榎本は明治の世で大いに活躍し、しかもそれは日本の国益にも直結する内容だったので、榎本が戦死したり自刃したりしなかったのは日本のためにも良かった事だと思いますが。