西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

広島人の心意気・西野神社祭

さっぽろ文庫68

平成6年に北海道新聞社から刊行された「さっぽろ文庫68 札幌まつり」(札幌市教育委員会編)という本(写真参照)の中に、「広島人の心意気・西野神社祭」と題された、当社の秋祭りの様子について記された文章が掲載されていました。

秋祭りの様子がかなり具体的に、詳しく紹介されておりましたので(秋祭りとは関係ありませんが当社で行っている人形供養についても取り上げられていました)、以下にその項の全文を紹介させて頂きます。

旧国道、手稲東十字街から手稲山の南西部に向かって真っ直ぐ行くと、道は二股に分かれる。左の道は、福井地区を通り深山幽谷そのままの盤渓方面へぬける左股線。しかし、西野神社へ行く道は、右の道路を行かなくてはならない。この道路が右股道路といって、平和の滝方面につながっている西野神社の参道なのである。

西野地区は、今からおよそ一〇八年前、明治十八年(一八八五)広島県人の入植で始まった。隣接する西野(旧手稲東)や宮の沢地区とともに、旧手稲の歴史を語るときには欠かすことのできない地域なのである。それは、琴似地区が、屯田兵による官移民の開拓であるのに対して、西野地区は民間人の移住による自移民開拓の代表的な苦闘の歴史を持った地域の一つだからである。

この参道は、かつて明治から大正へかけて造材を運ぶ荷駄の列が往来し、文字通り西野奥地の開拓の命脈であった。それは、この地を支え、今日の繁栄の土台を築いた古老たちにとって、いまもなお大きな誇りとなっている。

この西野神社の祭礼の特色として、秋の例大祭は、子供相撲、神輿渡御、出店などは他の祭りと変わらないが、春の三月三日、ひな祭りを過ぎたあとの日曜日に、人形供養が行われるとがあげられる。この日は、日本人形、ひな人形だけでなく、動物のぬいぐるみなどを含め、すべての人形の魂を供養するのだそうである。

社殿は、昭和四十二年に新しく造営され、同五十年の創建九〇周年のときに立派な神輿が造られた。神社は道路より高く側面に位置し、縁日の会場は社殿を見上げるように、境内の広場にまとめられている。出店のあるところは、少し奥まったところにあり、周囲が木々にかこまれ、こぢんまりとした雰囲気である。出店は、一六、七店ばかり、木もれ日の中に円形に並んでいる。

小さな子を連れた若い夫婦、おじいちゃんに手を引かれた女の子、めだって子供が多いように感じられたのは筆者だけではなかった。「西野も人が増えてきたなぁ。昔はじじ、ばば、それに顔見知りの者ばかりだったのに」と、縁台に腰をおろし、タバコをくゆらせている老人がつぶやく。

紙ねんどか何かで、思い思いの作品づくりに熱中する子。たべものを口いっぱいにほおばりながら、狭い円形広場の中をかけずり回る子。繁華街の雑踏になれているはずの現代っ子も、祭りの気分はまた違うのだろうか、みんな緊張感と解放感が、ごちゃまぜになったような顔をしている。

ジャンボ・フランクフルト、焼き鳥など食べ物の出店の中に、ひときわめだつ出店があった。“広島風お好み焼き”の店である。広島県は、お好み焼きの本場であることを思い出した。キャベツをベースに、何でもかんでもたべられるものはみんな一緒にして力いっぱい押しつけて焼く独特のお好み焼きは有名である。

そういえば、西野はかつて優秀な“西野米”がとれた米どころでもあった。手稲山麓に沿って走っている道路も、“広島開墾”にあやかって広島通りと呼ばれている。これもそんなに古い話ではないのである。昭和四十年代の初めまでは水田地帯であったのだ。

「おじいちゃんに手を引かれた女の子」「思い思いの作品づくりに熱中する子」「たべものを口いっぱいにほおばりながら」「みんな緊張感と解放感が、ごちゃまぜになったような顔をしている」など、お祭りの縁日に集まる子供達の描写はなかなかリアル・秀逸で、思わずその情景が目に浮かんでくるようです。

なお、文中で述べられている「縁日の会場は社殿を見上げるように、境内の広場にまとめられている」様子については、以下のページに掲載の写真を御参照下さい。

http://nishinojinja.or.jp/photo/190916a.htm

また、文中で述べられている「ひな祭りを過ぎたあとの日曜日」の人形供養祭の様子については、以下のページの写真を御参照下さい。

http://nishinojinja.or.jp/photo/200309.htm


(田頭)

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