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西野神社 社務日誌

2009-04-17 北海道神宮の御祭神候補になった阿倍比羅夫

島義勇

北海道鎮守」「蝦夷国 新一の宮」とも称される、札幌市中央区の円山に鎮座する北海道神宮が、四十数年前まで「札幌神社」という社名であった事を知る人は最近ではすっかり少なくなりましたが、昭和39年に明治天皇が四柱目の御祭神として御増祀されるまで、北海道神宮は、札幌神社の名で札幌市民から親しまれ崇敬されていました。

その札幌神社の創建は、明治2年9月1月に、東京の宝田町(現在の皇居外苑)に置かれていた神祇官(古代の律令制で設置された祭祀を司る機関で、明治政府の発足と共に再興されました)の庁舎で斎行された「北海道鎮座神祭」にまで遡る事ができます。戊辰戦争終結後、政府蝦夷地を北海道と改称し、北海道の開拓と行政を担当する「開拓使」という新たな機関(省と同格の中央官庁の一つ)を新設したのですが、開拓使長官以下の官吏を現地に赴任させるのに先立って、まずは東京にて、北海道鎮座神祭を斎行したのです。

この神祭の趣旨は、その時に奏上された祝詞宣命によれば、「叛徒(旧幕府軍)の平定を告げて、北海道に浦安な平安を願い、荒ぶる神の働きが帰攘される事を希求し、五穀作物の繁栄を願い、官人の北海道差向を告げる」もので、祝詞の内容としては神社の創建を奏上している訳ではないものの、この神祭は、北海道の開拓と北海道に於ける神社創建の出発点に位置付けられる、極めて重要な神事でした。

そのため、当日は勅使(天皇陛下のお遣い)として宮内権大丞四辻公賀の差遣があり、また開拓使からは長官の東久世通禧以下23人の官吏らが参列し、斎主は神祇伯中山忠能が務めました。そして、この神祭で明治天皇の勅旨により降神されたのが「開拓三神」と称される、大国魂神(おおくにたまのかみ)・大那牟遅神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)の三柱の神様でした(現在北海道神宮本殿でお祀りしている御祭神四柱のうちの、明治天皇を除く三柱です)。

そして神祭の後、開拓三神の御霊代(御神体)は神祇官から開拓使に奉斎され、明治2年9月20日、北海道に赴任するため、東久世長官や、開拓使判官の島義勇(しまよしたけ)らが開拓三神を奉じて英国船テールス号に乗り、東京を出発して函館へと向いました。函館到着後、東久世長官はその地に留まったものの、島義勇は開拓三神の御霊代を背負って函館から更に先へと進み、大変な困難を極めながらも陸路(人馬も入れざる悪路)や海路を使って、本府建設のためまだ未開の地であった札幌へと向いました。こうした経緯を経て開拓三神が札幌の円山の地に御鎮座されたのが、札幌神社創建の由緒とされています。今日の記事の冒頭に貼付の写真が、開拓三神の御霊代を札幌に奉斎した、その島義勇です。

その後、札幌神社は急速に発展していき、それまでは名称も確定はしていなかったのですが明治4年には勅旨により「札幌神社」の社号を賜り、同時に国幣小社に列され、その後、官幣小社、官幣中社と社格が上がっていき、明治32年には最上位の社格である官幣大社に列格されました。

なお、ちょっと本論からは外れてしまうのですが、札幌神社における戦後の大きな出来事として、明治天皇の御増祀と北海道神宮への名称改称の件を取り上げない訳にはいかないので、その件についてもここで少し触れさせて頂きます。戦後、札幌神社の崇敬者達から「明治天皇の大御心により創立された神社なので、是非明治天皇もお祀りしたい」「社名を札幌神宮もしくは北海道神宮にしたい」という声が上がるようになり、昭和29年、札幌神社総代会は「祭神増加並神宮号に御改称の件」を審議し、満場一致でそれを承認し、翌30年、その件が神社本庁に申請されました。

こういった動きを受けて同年5月、東京の明治記念館に於いて、宮内庁掌典職、神社本庁、明治神宮北海道神社庁、札幌神社などの関係者が集まって協議を行ない、札幌神社に明治天皇を御増祀申し上げ、併せて北海道神宮と改称する方針が正式に決定されました。

ちなみに、ここでは細かい事は省きますが、例えば「札幌神社」から「北海道神社」へと改称する場合は比較的簡単な手続きで済むのですが、「神社」から「神宮」へと社号を変更する場合、その審査や手続きはかなり面倒で、容易に変更は認められません(但し単立の神社の場合は“言ったもん勝ち”なので関係ありませんが)。本来は、天皇や、皇室の祖先神を御祭神とする、皇室と深い関わりのある特に格式の高い神社のみが「神宮」を名乗る事ができ、終戦までは、神宮号を名乗る場合には勅許(天皇陛下のお許し)が必要だった程でした。ですから、札幌神社が北海道神宮へ改称する事が認められたのは、明治天皇を御増祀する事と不可分であり、逆に言えば明治天皇の御増祀がなければ、恐らく今でも札幌神社という社名のままであったろうと思います。しかし、そういった事情があったにせよ、とにかく神宮号への改称を神社本庁などが認めたのは、やはり特例といえる出来事でした。

こうして昭和39年、明治神宮から御霊代の奉納を受けて明治天皇の御神霊が奉斎され、御霊代は神社本庁神殿に於いて修祓を受けた後、神社本庁統理、明治神宮宮司らと共に6台の車に分乗して宮中に伺候し、宮中に於いて天覧を賜った後再び神社本庁へと戻り(当時の記録によると、この時、神社本庁正面玄関には古屋総長を始め職員全員が整列して奉迎したとの事です)、神殿にて仮奉安の儀と承認書の伝達式が執り行われ、翌日、御霊代は札幌神社の宮司に奉戴されて神社本庁を出発し、羽田発の全日空機で北海道へと向い、北海道到着後は直ちに札幌神社本殿に奉安されました。そしてその翌月、明治天皇御鎮座祭が盛大に挙行され、札幌神社は北海道神宮へと改称され、現在に至っています。

ところで、神祇官が東京で斎行した北海道鎮座神祭では、前述のように大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の三柱の神様を「開拓三神」として鎮斎し、その「開拓三神」がそのまま札幌神社の御祭神となられたのですが、大変興味深い事に、神祭が斎行される前月に前述の島義勇によって神祇官に出された意見書には、鎮斎すべき御祭神は「大国魂神・大那牟遅神・少彦名神」ではなく、「大名持神・少彦名神・阿倍比羅夫」と記されており、大名持神と少彦名神の二柱に加えて、古代7世紀(飛鳥時代)の武将・阿倍比羅夫(あべのひらふ)を配祀する試案が示されていました。

日本書紀」巻二十六にもその記述がある阿倍比羅夫は、越国(北陸)に勢力を持っていた実在の武将で、北海道とも歴史的に浅からぬ関わりのある人物(名前を持つ人物としては北海道の歴史に登場する最初の人物)であった事から、島義勇は阿倍比羅夫を御祭神の候補として挙げたのでしょう。

日本書紀によると、まだ「蝦夷が島」という地名すらなかった飛鳥時代(大化の改新から間もない頃)、阿倍比羅夫は、朝廷の命により水軍を率いて東北や北海道などに遠征し、秋田・熊代の蝦夷を降伏させ、北海道には役所を置くなどし(役所が置かれた場所については、余市説、勇払説などがあります)、その後は中大兄皇子(後の天智天皇)の命により百済救済軍の将軍として白村江で唐・新羅連合軍と戦うなどしました。しかし、結局神祇官は、島義勇の構想した、開拓使側から出されたこの試案は採用せず、「大国魂神・大那牟遅神・少彦名神」を開拓三神として奉斎したのです。

残念ながら今では、阿倍比羅夫の名を聞いた事もないという北海道民も少なくはありませんが、明治13年に初めて北海道(小樽〜札幌間)を走った幌内鉄道の蒸気機関車の1号機が「義経」、次いで2号機が「弁慶」、3号機が「比羅夫」と命名されている事からも、当時の道民にとっては、北海道に渡ったという伝説のある源義経や弁慶と共に、阿倍比羅夫も、北海道には馴染みが深い人物と認識されていたようです。

また、JR函館本線倶知安駅の西隣には比羅夫駅という駅がありますが(無人駅ですが、駅舎は民宿を兼ねており、季節によってはホーム上でバーベキューが楽しめるそうです)、この駅名の由来も、阿倍比羅夫がこの地にまで遠征したという話(阿倍比羅夫の乗馬の蹄跡が残っているとも伝えられています)が元になっており、この例以外にも、旧国鉄最初の青函連絡船の名が「比羅夫丸」と「田村丸」であった事など、当時、阿倍比羅夫は、北海道民にとっては今以上にずっと身近な存在だったようです(ちなみに「田村丸」の名は、東北蝦夷征討の征夷大将軍坂上田村麻呂に由来します)。

通常、神社の本殿は南か東に向って建っているのですが、北海道神宮の場合は珍しく北向きに建っており、これは、創建当時日本にとって大きな脅威とされていた北方(ロシア)への睨みを効かせるためにあえてその向きに建てられたも言われているのですが、そのように国防を強く意識していたのであれば、北海道所縁の人物で、しかも武将であった阿倍比羅夫を、本殿でお祀りする御祭神に加えても良かったのでは、と個人的には思わなくもないです。なぜ阿倍比羅夫を札幌神社の御祭神とする案が採用されなかったのかは不明ですが、個人的には、御本殿での配祀が無理なら、せめて摂末社にでもお祀りして戴きたかったですね。

ちなみに、阿倍比羅夫を配祀する試案を示した、開拓使判官の島義勇は、その後、札幌の都市建設のため一気に多額の費用を費やした事や、開拓使の東久世長官と対立するなどしたため、志半ばで解任されてしまいますが、判官職の解任後は秋田県の初代権令(知事)を務めるなどし、そして明治7年、佐賀の乱(佐賀県で起こった、政府に対する大規模な士族反乱)の首謀者の一人として、元佐賀藩士の江藤新平(征韓論に端を発した明治六年政変で政府を下野した初代司法卿で、特に司法制度警察制度の整備に功績を残しました)と共に斬首刑に処されるという悲劇的な最期を遂げました。

しかし明治22年、島義勇は勅令第12号(憲法ヲ発布スルニ当リ大赦ヲ行ハシムルノ件)により大赦となり、大正5年には、生前の勲功に対し従四位を贈られ、現在では、北海道の開拓と札幌の建設に多大な貢献をし札幌神社創祀にも大きな功績のあった人物として、北海道神宮末社の開拓神社(北海道の開拓に偉大な業績を果たした功労者三十七柱をお祀りする神社)で、御祭神のうちの一柱としてお祀りされています。また、北海道神宮の境内(神門の近く)と、札幌市役所ロビーには、それぞれ島義勇の全身像も立てられています。「阿倍比羅夫を配祀する」という島義勇の案は採用されず、その案を構想した島義勇本人が、不名誉で悲劇的な死を経た後に、今北海道神宮の境内で御祭神としお祀りされているのは、歴史の皮肉といえるかもしれませんね。

なお、北海道神宮と西野神社との関係については、一昨年12月28日付の記事を御参照下さい。


(田頭)

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まさかずまさかず 2009/04/18 21:56 北海道神宮は私の崇敬神社の一つであり、今回の記事を拝見し阿倍比羅夫がご祭神の候補に挙がっていた事は知りませんでした。
島判官義勇様が開拓三神の御霊代を奉じて、現在の北海道神宮を創建されたからの歴史しか、多くの崇敬者は知らないと思いますよ。私は北海道神宮の参拝時に必ず末社の開拓神社も参拝します。道民の一人として、北海道発展の礎を築かれた、ご祭神に謹んでお礼を申し上げています。

マー君マー君 2009/04/19 02:59 神宮号御改称は本当に大変なことだったでしょうね。かく言う私の父及び母方の祖父は淡路島のイザナギ神宮の神宮号御改称に祖父は権宮司として、父は権禰宜として携わったことがあるので、その折りの苦労話なんかを多少は聞いたことがあります。祖父が亡くなってから十年以上が経ち、淡路島内の神職でもイザナギ神宮の社号改称の経緯を知る人が少なくなり、祖父がどんな活動をしたのか聞かせてもらえる人もいなくなりつつあり寂しい限りです。田頭さんの記事を読み、父が元気な間にイザナギ神宮の社名改称の折りの話を一度詳しく聞いておこうと思いました。

田頭田頭 2009/04/19 11:36 >まさかず様

私も、北海道民の一人として、また、北海道開拓のため広島県から江別に入植した屯田兵の子孫として、北海道神宮や開拓神社を崇敬しております。
特に、北海道の開拓に心血を注いで偉大な業績を遺された方々を御祭神としてお祀りしている開拓神社には、親しみを感じています。
社務などで北海道神宮の社務所や北海道神社庁の庁舎に行く機会は時々あるのですが、開拓神社にまで行く機会はなかなかないので、近いうちに、開拓神社に一度ゆっくりお参りに行って来ようと思います。

田頭田頭 2009/04/19 11:44 >マー君様

恥ずかしながら、伊弉諾神宮がかつて伊弉諾神社という社号であった事、マー君さんのコメントを読んで初めて知りました。
そもそも伊弉諾神宮にはまだ一度もお参りした事がないので、淡路島に行った際には、是非立ち寄ってお参りさせて頂きます!

今年の夏は京都と神戸に行きたいなと思っていますので、時間的に可能であれば、その際に明石海峡大橋を渡って淡路島まで行ってみたいです。

マー君マー君 2009/04/20 01:30 田頭さん…僕は逆に、北海道神宮が札幌神社だったっていうのを、最近になって知りました。父から戦後に神宮号御改称が成ったのはイザナギ神宮だけって教え込まれた為、北海道神宮は戦前から神宮号の社だと思ってましたから……(苦笑)。僕も東北・北海道方面には行ったことが無いので、お金を貯めて時間を作って北海道神宮にお参りに行きたいです。

田頭田頭 2009/04/20 10:17 >マー君様

西野神社は、北海道神宮からだと車で10分程の距離なので、北海道神宮へお参りの際は是非当社へもお立ち寄り下さい!

マー君マー君 2009/04/21 14:51 祖父は函館八幡宮にも勤めてましたから、北海道に行く機会があれば、函館八幡宮にも行ってみたいのですが、函館・札幌間は移動にどれぐらいかかりますか?祖父は多賀大社の雇員を皮切りに岩木山神社、函館八幡宮、兵庫県は播磨の一宮伊和神社、生田神社などの神職を歴任し、最後にイザナギ神宮に禰宜で着任してます。その後、戦後の動乱期に淡路島民の心の寄りどころである、イザナギ神宮の発展に尽力した功績が認められ、本庁から功績状を賜ったり、当時の一宮町から町民栄誉賞なども貰った、自慢の祖父です。

田頭田頭 2009/04/21 20:28 >マー君様

マー君さんのお爺様は、北海道にも所縁のある方で、しかも、神社の発展に多大な功績を遺された、とても立派な神職さんだったのですね!

私は社家の出身ではなく、父も祖父も会社や公社に勤めるサラリーマンでしたが、私の4代前の先祖は神職で、明治時代中期頃に、北海道の石狩や空知などのいくつかの神社で奉仕をしていたようです。
このブログによくコメントを付けて下さるまさかずさんからの御指摘で私も初めて知ったのですが、北海道神社庁のサイト(http://www.hokkaidojinjacho.jp/top.html)内にある「管内神社データベース」の「幌内神社」のページ(http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/05/05019.html)には、その先祖の名も記されていました。

ところで、札幌〜函館間の所要時間は、JRの特急を使った場合、約3時間10分〜3時間半で、高速バスを使った場合は約5時間です。
札幌市民の一般的な感覚で言うと、札幌〜函館間は、普通、日帰りで往復するような距離ではありません。