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西野神社 社務日誌

2017-08-15 終戦へと導いた鈴木貫太郎と阿南惟幾

今日は、72回目の終戦記念日です。
戦争で亡くなられた英霊をお祀りする東京靖國神社全国の護国神社には、いつもにも増して多くの参拝者が訪れ、また、日本武道館では今年も例年通り、天皇皇后両陛下をお迎えして全国戦没者追悼式政府の主催により開催されました。
同追悼式には、安倍晋三内閣総理大臣や各界代表者、全国各地の遺族ら約6,400人が参列し、正午には、参列者全員により、約310万人の大東亜戦争戦没者(軍人・軍属約230万人と民間人約80万人の御霊)に対して1分間の黙祷が捧げられました。

黙祷 政府広報

私も今日は、お昼休みの時間帯に、当社にて黙祷を捧げ、72年前の今日終結したあの戦争で戦場に斃れられた御霊(みたま)、戦禍によって命を落とされた御霊に、謹んで思いを致しました。


ところで、終戦の日の度に私が毎年思い返すのが、昭和天皇から戦争の幕引きを託され、その大任を見事に果たして昭和20年8月15日、終戦と同時に内閣総辞職をして退陣した、日本史上最高齢の首相鈴木貫太郎です。

鈴木貫太郎については、丁度10年前の今日・平成19年8月15日にこのブログにアップした記事で、かなり詳しく紹介させて頂きましたので、鈴木貫太郎ってどんな人だったっけ?という方は、是非その記事(以下のURL)を御覧下さい。鈴木内閣の足跡を辿ってみると、日本が終戦を迎えるに至った道程がよく分かります。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070815

鈴木貫太郎


ところで、世界史・日本史・郷土史などのいずれでも、歴史というものを振り返ってみると、「この人はまさにこれをやるために生を受けたのだな」「この人の生涯はこれを為すためにあったんだな」としか思えないような人が、たまにいます。

例えば、歌舞伎の演目「義経千本桜」や、「判官贔屓」と称される同情や哀惜の心情などで有名な、あの源義経は、その典型的な人物だと思います。
彼は、残念ながら戦略家(政治家)としてのセンスは著しく乏しかったように思えますが、戦術家(現場での一軍の指揮官)としては、古代から現代に至るまでの日本全史を通してみても、一二を争う程の優秀な逸材であり、壇ノ浦で平氏一門を滅亡させるまでは、まるで神がかったかのような、実に華々しい大活躍をしました。まさに英雄とはこうあるべし、とでもいうような、本当に目覚ましい活躍でした。
ところが、その壇ノ浦までの活躍を以て、義経は実力も運も全て使い果たしてしまったのか、その後については、やる事なす事全部ダメ、全てが裏目に出て、気の毒な程に運にも見放され、皆さんも御存知のように、その最期は悲惨でした。
歴史が義経に与えた使命は、鎌倉幕府成立から江戸幕府崩壊に到るまでの700年近くにも及ぶ武家政権が成立するための下準備として、「当時の中央政権であった、貴族化していた平氏一門を倒す事」であり、その使命を果たした後は、早々と歴史の表舞台から姿を消した、という感じです。

平成13年にNHK大河ドラマの主人公として取り上げられた、鎌倉幕府第8代執権の北条時宗も、その典型のひとりだと思います。
彼は、当時世界最大最強の国家であったモンゴル帝国大元朝)が、日本を含む周辺諸国へと圧力を強める中、事実上の最高権力者といえる幕府執権のポストに就任し、若くして我が国の舵取りを任されます。そして、執権として在任中、二度にも亘り元寇、即ち、モンゴル帝国による我が国への軍事的侵攻がありましたが、時宗は武家政権の統率者としてそれらをいずれも退け、当時としては我が国始まって以来ともいえた未曾有の国難に、判断を誤る事無く適切に対処しました。
しかしその後の時宗は、元寇への対処で全ての生命力を使い果たしたのか、僅か34歳(満32歳)で病没し、歴史の表舞台から早々と姿を消してしまいました。
まさに、元寇に対峙するための生涯で、そのために命を全て使い切ったかのような生き様でした。

私は、鈴木貫太郎も、実はそういった“特別な使命を持って生まれてきた人”のひとりだったのではないかなと感じています。
彼に与えられた使命とは、「第二次世界大戦を終戦に導く」という、戦争の幕引きであり、彼の生涯を振り返ってみると、その使命を果たすまでは死ぬ事も許されず、どんな危機に遭っても不死鳥の如く何度でも蘇り続けた、という感すらします。
3歳の時に暴走馬に全力で蹴られますが生還し、海軍入隊後も、夜の航海中に海に落ちるなどの重大な事故に遭遇しますが奇跡的に生還し、二・二六事件では、襲撃対象のひとりとされて左頭部・左胸・左脚付根の3箇所を撃たれていずれも命中し、一時は意識を失い心臓も止まりましたが、奇跡的に息を吹き返し、終戦の日となった8月15日には、一部の陸軍軍人達が彼を殺すべく総理官邸と自宅を襲撃しますが、警護官に間一髪で救い出され、ここでもやはり生還しました。
そして、「第二次世界大戦を終戦に導く」という大役を為し遂げた後、終戦から僅か3年後の昭和23年に、81歳にて静かに息を引き取りました。
鈴木貫太郎の生涯も、こうして振り返ってみると、かなり神がかっているように思えてしまうのです。


鈴木貫太郎については、もうひとつ、述べておきたい事があります。阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣とのエピソードです。
私は、丁度10年前にアップした前出の記事の中でも阿南陸相については取り上げましたが、あの記事の中では、主に、鈴木首相とは閣内で意見が対立する事が多かった人物、という取り上げ方でした。
しかし実際には、阿南陸相の強硬な主戦論は建前で、本心では鈴木首相の方針に同意していた、むしろ、阿南陸相はこの内閣は何としても守らねばならない、と考えていたようです。

もし阿南陸相が、鈴木首相に対して本当に敵対的で、本心からの抗戦論者であれば、自らが陸相を辞任する事で内閣を総辞職に追い込む事が可能でしたが、それはついに最後までしなかったからです。
諸説はあるものの、今日では、阿南陸相の強硬な主戦論は、陸軍から内閣打倒を引き起こさせないための作戦だった、とする見方が有力です。

以下の二重鉤括弧内の緑文字は、Wikipediaの「鈴木貫太郎」のページからの転載です。阿南陸相は梅津美治郎参謀総長と共に戦争の継続と本土決戦を強硬に主張しますが、御前会議で昭和天皇の聖断が下された事により、最後には陸相として終戦の詔書に同意しました。以下は、その直後の様子を描写したものです。

1945年(昭和20年)8月14日の御前会議終了後、陸相・阿南惟幾は紙に包んだ葉巻たばこの束を手に「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、お助けしなければならないはずの総理に対し、いろいろご迷惑をかけてしまいました。ここに慎んでお詫びいたします。ですがこれも国と陛下を思ってのことで、他意はございませんことをご理解ください。この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参いたしました」と挨拶にきた。

鈴木は「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。我が国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本はかならず再建に成功します」と告げた。阿南は静かにうなずいて「私も、そう思います」と言って辞去した。鈴木は迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいた。その数時間後、阿南は割腹自決した。

阿南は鈴木の侍従長時代の侍従武官であり、そのときから鈴木の人柄に深く心酔していた。表面的には閣議や最高戦争指導会議で、鈴木と対立する強硬意見を言うことの多かった阿南であるが、鈴木への尊敬の気持ちは少しも変わらず、陸軍部内の倒閣運動を押さえ込むことに見えない形で尽力したりしている。

自分の意見と正反対の方向すなわち終戦の方へ流れがすすみはじめた頃、陸士同期の国務大臣・安井藤治に阿南は「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う」と言ったという。この阿南の鈴木への深い敬意が、潜在的ではあるが、終戦への流れに大きな役割を果たしたといえる。


阿南陸相は、会議での強硬な発言とは裏腹に、もはやポツダム宣言受諾しか道は無い事は分かっていたのでしょう。
しかし、「もう勝ち目が無いので降伏しましょう」では主戦論者が多い陸軍が収まるはずはなく、それを不服として陸軍の一部が内乱でも起こせばそれこそ国を破滅させてしまう事になるため、それを何としても防ぎ、秩序を以て軍を解体へと導くために、阿南陸相は命を懸けていたのでしょう。
そして最後は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記した遺書を遺して、ポツダム宣言の最終的な受諾返電直前の8月15日早朝に陸相官邸で自刃しましたが、それも、陸軍の内乱を防ぎ軍を穏やかに解体するには、玉音放送と、陸軍の代表者である自分の自刃しかないと見極めての事だったと思われます。

阿南陸相が自刃したと聞いた鈴木首相は、「真に国を思ふ誠忠の人でした」と評し、東郷茂徳外相も、「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながらに語ったと云われています。
ちなみに、日本の内閣制度発足後、現職閣僚自殺(自決)はこれが初めてで、その後も、平成19年に安倍内閣に於ける松岡利勝農水大臣まで、その例はありませんでした。


普段は、日々の仕事や家事等に追われて何かと忙しく、七十数年前の激動の時代を振り返る機会などはほとんど無いという方も、せめて、8月15日というこの特別な日には、過去の日本を振り返り先人達の尊い犠牲に哀悼の念を捧げ、そして、当時、使命を持って、命かを懸けて、我が国を守った人達がいたという事に、思いを馳せるべきかと思います。


(田頭)

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はなはな 2017/08/18 06:43 はじめまして。勉強になるblogを有難うございますm(__)m15は、近所にある三ヶ根観音に行ってきました。沢山の慰霊碑があり、早くまともな国になりますように。そうつくずく思いました。

田頭田頭 2017/08/30 11:06 >はな様

コメントありがとうございます。
三ヶ根といえば、殉国七士廟がある所ですよね。
まだ行った事が無いので、私もいずれお参りに行ってみたいと思っています。