Hatena::ブログ(Diary)

庭仕事

2017-07-29

萩原健太郎『東京喰種 トーキョーグール』

f:id:niwashigoto:20170523214515j:image

特訓シーンがあるだけでまず100万点(偉そうですみません)。しかもそこにかっこよさだけでなく笑いもある。

そして、真戸さん役の大泉洋がくそかっこよくて最高(ドーナツのセリフまじやばい)。

自分は大泉さんを、パパパパパフィーで知った(古いな!)ので、そのイメージがどうしてもぬぐえなかったのだけれど、例えば『探偵はBARにいる』や『アイアムアヒーロー』なんかを見て、本来は(って言っちゃあ失礼ですが)この人は2枚目寄りの俳優なんだなということがわかってきていての、本作。がっつり魅了されました。

(今ふと調べたらハガレンでショウ・タッカー役やるんですか!またマッドサイエンティストじゃないっすか!見たい!)

戦闘のロケーションも良かったです。原作通りなんだろうけど、水辺(川にしたのは正解でしょう)を舞台にしたり、ちゃんと戦闘が夜にあったり。雨が降るシーンもよかったけれど、これは昼だった(夜でしょう、そこは)。

刑事物定番の、監視カメラで人探し、からの「ここを拡大しろ」があるんですが、その時のインターフェースのデザインがちゃんとしてて(箇所指定する枠に数値付いてたり、拡大時にメッセージ出る別ウィンドウ立ち上がるのとか)良かった。あまりひどい言い方はひかえますがくそ邦画(ひかえられてない)は必ずこういうところで雑さを露呈するので、そういうのが無いだけでも良い。

主人公金木と敵対する喰種2人(2体?)とも眼鏡をかけてることが気になって原作愛読者に質問したところそれは原作通りとのことだった。攻撃的喰種は証としての瞳を隠す。それを相対するものとして、ファーストカットの、金木のむき出しの瞳のあまりにも生々しく眼をそむけたくなるほどの長いクローズアップがある。ただ、瞳のイコノグラフィを突き詰めるならば。終盤の戦いでの、亜門と金木の間に涙の「交感」があっても良かった、けど、それだとあまりにも意味を持ちすぎるのだろうか。

2017-07-28

アレックス・カーツマン『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』

f:id:niwashigoto:20170515175701j:image

感想をまとめると一言、「2017年ベスト1」。もう2017年は本作と、あとトランスフォーマーだけ見たらいいかなあ………………ああ、スター・ウォーズ、そんなものもあったっけ……(遠い目で)。

トムは絶対に間違えない、何故なら"映画の神"だから……ってガンギまったことを言ってしまってるけど、本当に"神"になっちゃうんだからもうしょうがない。

スピルバーグが、『マイノリティ・リポート』『宇宙戦争』で見出した機能としての"vacant"、つまり"見る"人、そして同時に"魅入られる"人、であるところのトムの本領発揮。「瞳」のモチーフはもちろんのこと、全編にわたってトム演じるニックは、過去と未来が入り組んだ映像=ビジョンを見させられ(2種のビジョン、だからこそ瞳は分裂する)、それに魅入られて(呪われて)、行動し続ける(だから彼は逃走することができず、常に元凶へ引き寄せられてしまう)。

そして、再生(reborn)と反復(過去と現在)の物語というモチーフも一貫しまくってるのに痺れた。太古の昔の出来事と同じことを繰り返そうとするために現代に蘇る古代エジプトの王女。

しかし近年のトムの、女性の望みを叶え、自らの身を捧げ、自身は何も得ず、物語世界から立ち去る("立ち去る"男としてのトム・クルーズ!)ことで映画を終わらせる、という雛形への一貫した強いこだわりはつくづくなんなんだろうか。

さらに、今作を見て考えたところ、それだけではなく、トムは女性たちからまず何かを(直接的ないし間接的に)奪取し、その後に別の形、別の質、別の量でそれを返還する、という要素があることに気づいた(過去作もこれに当てはまるものがあるのでは)。

そして、本作がまさに奪取と返還の物語になってる。

十字軍古代エジプトからイギリスに持ち帰ったもの(現実として、大英博物館なんて「奪取」御殿じゃないですか)、そして現代でニックがジェニーから盗んだメモが、それぞれ物語の発端となる。

つまり、主要登場人物の女性2人とも、所有物を奪われている、ということになる。

そして、まわりまわってそれらは元の持ち主へ返却されることになる(しかしそれは、前述の通り奪ったものをそのまま返すというわけにはいかないのだけれど)。

ともあれ、本作に対する態度が、自分にとって分水嶺になりそうだ(何の?)。

2017-07-23

買った本

オリバー・ストーン、ピーター・カズニック『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 2 ケネディと世界存亡の危機

オリバー・ストーン、ピーター・カズニック『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 3 帝国の緩やかな黄昏

小川さやか『「その日暮らし」の人類学〜もう一つの資本主義経済〜』

浅井蓮次、沢田新『バイオレンスアクション』2巻

柴崎友香『週末カミング』

週末カミング (角川文庫)

週末カミング (角川文庫)

2017-07-18

ディーン・イズラライト『パワーレンジャー 』

f:id:niwashigoto:20170807133236j:image

最近こういう感じの選曲が多いけど、本編で使われることってまー無くて、でも今作はありました。

序盤の、外から(『宇宙戦争』のような)ではなく車の中から周囲を延々映し続ける擬似長回しシーンがあるんだけどあれはなんなんだろう、と考えてたんだけど、監督のディーン・イズラライト、南アフリカ出身(ブロムカンプ!)で、ジョナサン・リーベスマンのいとこらしく(リーベスマンもヨハネスブルグ出身らしい)、その流れとしての映像のセンスなのかな、とちょっと思ったりした。

採石場という舞台の正統さを存分に感じられた。もちろんどんな映画だってそうなのは当然なんだけど、本作はまず、「場所」のイメージによって統合されている。金鉱と岩山と洞穴からと、海底と船と港から、の2つの領域にある場所群からの動きが、一つの小さな町(のドーナツ屋)でぶつかる、というストーリーの流れもそうだ。

そして、落下する/沈む("落ち"こぼれる、そして「死」)こと、と、底から上昇する(復活する、蘇る)、という2つの動きが、レンジャーに選ばれた彼らには、その始まりから最終決戦まで、ついてまわることになる。

それにしても、世界の危機と小さな日常の問題との並列が極めて"戦隊"的だなと。

追記としてですが、最近加藤幹郎『映画ジャンル論』を読んているので、それを踏まえて思い返してみると、本作には西部劇みがあったな(牛、金鉱山、荒野を走る列車、小さな町での"決闘")。

2017-07-11

ダニエル・エスピノーサ『ライフ』

f:id:niwashigoto:20170807120231p:image

えー、見て色々思ったことをツイッターにつつつと書き連ねてたんですが、宇多丸さんも同じこと言ってたので、まぁあれっすね。誰しも思うことってことですね。

宇宙ステーションISSの乗組員たちは、冒頭の変則的ラストミニッツレスキューのシーンから一貫して、「窓」越しに「見る」行為を強いられ、「観客」となるしかない。登場人物と映画を見る我々は重なり合う。

では、観客が窓=スクリーンの中に見るものとは何なのか。

それは未知のものであり、名付けられる子どもであり、誕生する"生命"だ。「そいつ」は、自分を見る観客の真似をし、いつしか観客から全てを奪い取り、観客を超えようとする。

その過程の中で、「そいつ」はスクリーンから出ようと蠢く。そして閉じ込められようとも幾度も脱出する。

本来ならばそれは不可能なことのはずだ。だがしかし……。

観客は常に、スクリーンの中のものに魅入られる。"規則"を破って、目の前を覆うスクリーンを引き剥がし、自らをその向こう側へ投入してしまうと共に、「そいつ」を自分の身体に引き寄せてしまうだろう。「そいつ」は、観客にまとわりつき、内部へ侵入し、乗り物のように使いこなし、移動し続ける。

そして最後には、スクリーンから我々の側(つまり我々の住むこの世界、「地球」)へと侵入が許されてしまうことになる。

"生命"を、乗組員たちが、まさしく「命のリレー」で守り繋いで、しかるべき場所へ届けることになった本作の結末はどういうことなのか?と言えば、「憎しみ」が排除され、「生きようとする意志」が残った、ということかもしれない。レベッカ・ファーガソンの役柄が検疫官なの、非常に示唆的だ。"生命"は疫病ではない…

チャド・スタエルスキ『ジョン・ウィック:チャプター2』

f:id:niwashigoto:20170807113115p:image

前作に引き続き、そして前作よりも徹底して描かれる貸与と借用、贈与と授与。「借りたものは返そう」、そして「やられたらやりかえそう」。その世界を貫くのが、共通通貨としてのゴールドコイン。これらが象徴するのがつまり、assasinたちの"社会制度"だ。

そして(無論殺し屋の、ということだけれど)、ルールが無ければ動物だ、と劇中で語られるんだけど、ではルールを守ればどうなるか、と言えば、そこにあるのは現代社会ではなく、近代、もしかすると前近代的な世界。現代の貨幣制度は無視され("700万ドルで7発")、道徳より誇りが選ばれる。

そこでジョン・ウィックは、どんな言語にも通ずるだけでなく、優れた殺しのテクニック、所作をuniversal languageとして使いこなし、国境を越える(とはいえ、キアヌの鈍重な、相手の体に当たって振りぬかず、はねかえるようなアクションは、どちらかといえばスムーズな発話というより吃音を思わせたりもするのだけど)。

銃ないし銃撃戦は、離れた距離を保っているはず者たちをふいに結びつけてしまうものだ。

その現象が、本作ではともかく頻発している、というかほぼその状態を維持していると言える。銃撃戦がまるで、殴り合いの近接戦のように演出されている。それはべたべた触るような過剰な接触のようだ。そこからさらに発展して、最早銃弾を放ちあうことは、コミュニケーション、会話の域に達する。彼らは拳でわかりあう…だけでなく、弾丸でわかりあうのだ。一番笑ったのは、ジョンとカシアンの地下鉄でのシーン。離れた2人が、まるでカップルが横並びに歩いて肘や指で互いをつつき合っているかのようにこそこそと撃ち合う!

そういう意味で、直木三十五『日本剣豪列伝』や勝小吉『夢酔独言』、山田風太郎作品の読後感に近いものがあった。日本の前近代的世界で、(現代からみれば)異常な規範にのっとって動き、暴力の応酬を繰り返す剣客たちや忍者たちの世界。

ということで(どういうことで?)キアヌは忠臣蔵もやったことだし、チャド・スタエルスキー監督と、『柳生忍法帖』で十兵衛とか、『伊賀忍法帖』の笛吹城太郎なんかをやったらいいんじゃないかと思う(47RONIN見てないけども…)。

さらに言えば、前近代的なファンタジーの世界でジョンが、ルールを破ってしまえば、そこから放り出され、目の前に広がるのが現代、なのかもしれない。安息の地のない、ルールのない、無法地帯で、監視され追跡され続ける。というのが続編で描かれるということかな(この写真のルビー・ローズ、まるで「チャプター3で会いましょう」と言っているようですね)。