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庭仕事

2018-08-03

クリストファー・マッカリー『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』

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ローグネイションと今作は真の意味で2部作(直結してるという意味ではない、けど、2本を続けて1つの作品としても遜色ない)なので、さしずめ"fall nation"とでも言えばいいのかな…とか考えてた。


ちょっと…完全に動揺してしまった。ここまでの美しい、様々な光がデザインされた、完成度の高い構図の、パーフェクトなカメラ位置の画が乱発されるとは思いもせず…尋常じゃないな。

街灯や室内の明かりの、光の滲み方(J・J・エイブラムスフレアをちょっと思い出すが、あれより確実にナチュラル)も印象深いんだけど、びびったのは輸送機の中のカット。外からではなく中から、あそこまで引いて全体をとらえた画はなかなかないんじゃないか。というのも、あそこには2人の男しかなくて、しかもその2人のやりとりを見せれば本来は十分なはずなのに(激しい格闘も、他にとらえるべきアイテムもないーー巨大な恐竜や、古代の遺物を運んでるわけでもないーーから)、顔もわからないサイズまでカメラが引いてある。それによって強調されるのは、飛行機内部のメカニカルさ、その全体の意匠や細部の質感。それは短いカットなんだけど、目を惹く美しさすらあった。

そして、予告でも使われてたトイレ(白い陶器、鏡)にしろ、最後の「村はずれの家」(古びた床板、縄)にしろ、ベルリンロンドンの石造りの空間(暗闇と閃光、銃撃音)にしろ、格闘シーンを描く場所は、ある種の美的センスによって統一されてる。例えば、ゴーストプロトコルの同種のシーンはどこを舞台としていたかを考えるとわかりやすい(ブルジュ・ハリファや立体駐車場)。そこからローグネイションでは古い都市、その地の構造物を舞台とすることが増えた。

そして今作では、ゴーストプロトコルにさえあったような、(虚構であるにせよ)先端テクノロジーが使われた攻略の対象物(システムそのものや建築物)すら登場しない。

さらに作中使用されるガジェットも古典的なもの(もしくは古典的な装いをしたもの)にとどまっている。

なので必然的に、ますますクラシックな画作りに向かうことになるのだが、それと接続されるのが、異常で過剰なアクション、繰り返し行われるその場その場での"solution"の"figure out"(なんどこのセリフが使われるだろう)なのだから、ますます全体が歪なものになっている。

おそらくその、崩れた全体のバランスをある程度統一する機能として、ある物語が流入されるのだけれど、しかしそれがよりによって『オデュッセイア』で、本作によって、イーサン・ハントはオデュッセウスであるということが唐突に提示されてしまうのは、さすがに呆然とした(オデュッセイア読んだことないから適当言ってますけど)。

読んでなくともオデュッセイア貴種流離譚であることは知ってる。つまり、今作のみならずシリーズ全体を、イーサンの帰還の旅と再定義するということなのか(しかし、彼はどこへ帰り着くのか?)。

そして、少なくともオデュッセウスを待ち続ける妻ペネロペがいるのも知ってる。それがジュリアってことなんだろう。ならばその舞台をお膳立てした(って理解であってんだよな?)レーンがホメロスなのか???

2018-08-01

テイラー・シェリダン『ウインド・リバー』

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この映画は、2つの顔によって挟まれている。


冒頭から矢継ぎ早に現れる「死体」たち。その後も、本作では戦争もテロ猟奇殺人も起こらないのだが、最終的には数々の死体が登場する。そしてそのなかで唯一、我々観客がたっぷりと時間をかけて「死に顔」を見ることになるのはある女性だ。それはこの映画で最初の、「人間の」死体だ。

なぜ彼女の顔だけが、我々の前に表れなければならなかったのか。この問いへの、ある種の回答が、映画の終盤に描かれる。それが、死んでないにもかかわらず死化粧を施したある人物の顔(death mask)だ。

この2つの顔が通じ合い、重なり合う。誰にも看取られることなく死を迎えてしまった女性の代わりとして、その死を深く悼む男性の顔が現れる。そのことで、雪に埋もれ、凍って、目を見開いて息絶えた死者の姿(と顔)が、惨たらしいだけのものではなくなる。

たとえ死に際の状況がどうであれ、遅くなろうともきちんと存在を尊ばれ、丁寧に受け入れられ、悼まれる死を描くために必要な演出として、反復されるdeath maskはあるのではないかと思う。

それは、寒々しさを感じさせる獣たちの死(しかし彼らもまた尊ばれる存在であることは、その死を見届ける者の振る舞いでわかる)とも、最後に待ち構える凄惨な制裁によって顔を血だらけにする「哀れ」な男の死とも異なるということを示している。


そして、その2つの顔の間を繋ぐものもまた、2つある。


1つは、ジェレミー・レナー演じる「ハンター」ランバートの迷いの無い挙動と視線である。

今作には、アメリカ映画に必ずあると言ってもいい車中での会話シーンが無い(と言いながら実は、1つだけ変則的な車中の会話シーンがあるんだけど、これは『ボーダー・ライン』見てる人ならニッコリするものです。テイラー・シェリダンの作家性でしょうか。『最後の追跡』はどうなんでしょう……。あとちなみにあの人の出演――って伏せなくてもいいのかもな。公式サイトにも出てるから――にも思わずニッコリです)。なぜなら登場する主要な人物は皆1人ずつ自分の車に乗って移動するから。乗り合うものとしてスノーモービルが登場するが、そこで会話など到底できない。会話できるほどゆっくり走れば、ランバートも実際述べる通り、吹雪に埋もれてしまうことになるだろう。

もちろん、車から降りての野外での会話も、天候や寒さによって困難なものでしかなく、ではそこから室内に近づいた玄関というフィールドではどうかといえば、異なる力がぶつかり合い不穏さが漂い、争いや暴力を発動してしまうことになる。

そしてその困難さを解消し、不安定さを埋め、不均衡さを平定するのは、ランバートのスピードと物言わぬ視線と銃弾だ。象徴的なのは、ほぼ唯一と言っていいサスペンス的シーンである石油掘削場の監視員たちとの一連の攻防とその結末だろう(しかし、ここの演出だけを見ても――「左に立て!」や、無線から「離れろ!」のシンプルさとスピード感、"これでいい"という強い意志を感じた――テイラー・シェリダンのただならないセンスを感じた)。


では、野外でも玄関でもない、室内はどうだろうか。そこを「担当」するのは、もう一人の主人公、もう1つの繋ぎだ。

エリザベス・オルセン演じるFBI捜査官ジェーンは本作の中で、ある時は、この映画には登場しない若い女性(彼女について細かく語られることはないが、その服を手渡して少ない言葉を発する彼女の母親の描写からして、何らかの事情があると類推してもよいのではないか……)の服を身にまとい、またある時は、いささかバランスを欠いたといえる長い(主体が不在である奇妙な)回想シーンの編集によって事件の被害者の女性と重なり合い、そして終盤の、おそらく今作で初めてといえる気軽で微笑ましいやり取りによってランバートの娘に(本編全体を通して、でもあるが)遂に成り代わることになるだろう(娘の代わりに父の慰めを受け入れる)。彼女は全編にわたって、不在の娘たちの代理として行動している(そもそも彼女も、本来存在する保留地に詳しい人間の代理としてやってきた風である)。そして彼女という代理人が、室内に侵入することで、人々の感情や欲望とそれに伴う言動がさらけ出されるが、それを彼女は真に理解することはできない。だがそうであるがゆえに(非当事者であるがゆえに)、彼女だけが室内で行動し会話することが許されているのではないかと思う。

最後には、被害者の女性のある行動について「真摯」に「驚く」こと(なぜそれができるかといえば、彼女が女性の代理となりえたから)で、彼女は、代理ではなく彼女自身として、「生き延びる」(それを「成長」と言い換えてもいいかもしれないし、当事者となった、と言えるかもしれない)。


当然本作からは、『スリー・ビルボード』を思い出してしまうわけで。欠損は決して回復しないこと、制裁を「ずれる」しかない(真の対象を裁くことなどできない)こと。

では、エンドクレジットにはある人物の名前とともにはっきりと「THE WEINSTEIN COMPANY」という文字が映し出されること(この疑問は、決してこの映画だけのことではないが……)はどういうことか?なぜ、この映画のある登場人物は、自分のある行為を「明言」させられるのか?しかもそれを、よりによって「男らしく」言うようにと半ば強要されるのだけれど、それは一体なんなのか?

2018-07-21

佐藤信介『BLEACH』

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シネスコで、町の全景や、屋上の空含めた画などがとてもよく、それを見せたいがためか、登場人物もやたらと屋上に行く。自由が丘っぽい最後のバスロータリーのシーンも、左右に広く人物や物を動かしていて画がキマっていた。

そしてとにかく、説明が最小限なのが好感持った。最近の映画にありがちな冒頭のナレーションとテロップの説明とかもないし、作中人物の異能力の仕組みも解説なく使われる。でもそれでいい。原作知ってる人は言わずもがな、知らない人でもそういうもんだと思って見るわけで。

さらに、杉咲花さん、完全にできあがりすぎている。極まりまくった虚構度の高さ(かっこよさ、外連味)と、それでもなおこちらに伝わってくる圧倒的リアリティがすごい。この人はたしかにこの世に存在しこのように考え発言し行動・運動すると強く感じる。そんな彼女がやたらめったら動き回る、異様に充実した特訓シーンに、特訓映画ブームの機運高まってきたのでは…?と思った(サンプル数少なすぎですが)。ほとんど今作では描かれなかった、実際に死神を代行する描写の代わり(代行!)なんだろうけども。

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しかしあれほどいくつもチャンスがありながら(というか自分も、今作品を見てあらためて気づいたんだけど)全くと言っていいほどホラーではなかったの、そのすっぱりと切り捨てた潔さが興味深い(原作も初期はホラーみがあったよな)。

例えば、不気味な少女が登場し、彼女からさらに巨大な怪物が現れるというの、いかようにも見せ方はあったと思うんだけど、恐怖や気持ち悪さを必要以上にあおらない(例えば音響効果とか、映像的なエフェクトとか)描写になっていたように感じた。部屋の幽霊の登場や、一護の回想のカットの恐怖ではなくむしろ幻想的な雰囲気とか。

そもそも幽霊を映画に登場させることに全く恐れがない…って言い方が正しいかわからんが、躊躇がないって感じがする。…と考えて、そもそもこの作品での幽霊が、恐れる者として、人間にとって完全に他者として描かれてないからだな(人間の延長線上にいる)と気づいた。


それにしても恋次白哉の今作品での言動(原作でもあそこまでしてたか?と考えるとあそこまでではなかったかなーという気がする)、人間への差別的思想は、原作が実は内包していた血統主義一護はなるべくして死神になった)を強調することになったと言える。ならルキアの出自についても…とは思うけどそれは次か。あと雨竜の口ぶりもそうだしね(あいつはもともとそうか)。


あと、別に欠点ではないが、気になったのは、制服が似合ってる似合ってないの次元を超えている真野ちゃん(だがそれにいささかの問題もないのですが)、戦闘シーンで流れるミクスチャーロックのセンスの久保先生っぽさ(原作準拠?)、今作の中でも最大級に虚構度の高いキャラクターである(だからこそ演じるのも扱うのもかなり難しい)白哉の登場のさせ方(一護の前に初めて現れる場所の抜けた感じ――恋次はまあまあカッコいい場所だったのに――、ロータリーに出てくる時の背景の看板)かなと。

2018-07-05

リチャード・リンクレイター『30年後の同窓会』

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リンクレイター、あんたって人は……つくづく良い映画を撮りますね〜そしていささかもぶれることなく反米映画作家であると。ただ、今作はその反米っぷりがあまりにもあからさま、直接的なのに少し動揺した(『6才のボク〜』の時の立て看板も露骨ではあったけど)。

しかし、リンクレイターの映画において、「否定」の言動がそのまま機能することはなく、多くの登場人物たちは否定を口にしながらも結果的には肯定の身振りをとってしまう。帰るといいつつ帰らない、やらないといいつつやる、買わないといいつつ買う、聞かないといいつつ聞く、言わないといいつつ言う、嫌いといいつつ好き……。

リンクレイターの登場人物たちは「素直じゃない」。だけど何かの拍子に、ふとあまりにも直截的な素直さが露呈する瞬間がやってくる。

じゃあどうして素直じゃないんだ、と言えば、『ローガン・ラッキー』のこれだからとしか言いようがない。

そして、女性の描き方見て、リンクレイターって本質的に「男の子」の映画作家なのかなと思った。マッチョではない、マッチョさを描いてもどこかそれを避けるような身振りが入ってくる感じ。男の子は素直じゃない……。

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登場する幾つかのバー、ダイナーを見るだけで(cold pizzaにうまいビール)、ああこの映画ではアメリカの「場所」をしっかり表象しようとしてるんだなと感じる(ブライアン・クランストン演じるサルがNYで放つ「この小便の臭い!これがこの街の臭いだよ!」というセリフ!)。それはジャームッシュもソダーバーグもそうだ。某映画と違って……。

2018-05-01

ルカ・グァダニーノ『君の名前で僕を呼んで』

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冒頭強調されるのは、ドタバタとした足音、過剰にすら思えるドアを閉める音。アメリカからやってきたオリヴァーが、そのドアの音にビクッとするちょっとした描写もある。その音は、その後この家の中で、人物の動きを姿を見せずに描く手段となる。人々は他人の動きを音で知る。

その大きい音は、見えないものを描こうとするのではなく、(後から)見えるものをより強固なイメージとする方へ働きかけてくる。

この映画は全編にわたって、直截であるし、何も隠していない。見せるもの、描くことを、複数のイメージを使ってより明らかに、詳らかにしようとしている。

例えば、ラコステラルフローレン、(多分)ブルックスの半袖ボタンダウンコンバースカシオウォークマン、卓上のヌテラ、トーキングヘッズのTシャツ、といった「商品」たち(全てを無化する感想としては、「おしゃれ」、ということなんだけれど)。

さらに、丁寧な"種明かし"。例えば、主人公2人がお互い、映画の中のどこで気持ちを伝えてた?とか、彼ら2人の間に起こったことについて両親は知ってる、など。画で見ていたらわかることを、わざわざセリフでしゃべらせる(言葉にする)。

もちろん、セクシャルさについても、ぐちゃぐちゃに破られた殻から溢れ出る半熟卵、一息に飲み干されるアプリコット・ジュース、と、アミハマさん演じるオリヴァーの「感じ」(さながら"水も滴る"といったところか?)は、露骨すぎるくらい直截的に描かれる。あとは、あの、すぐ復活した……みたいなシーン。2人が気を許しあって、ちょっとした遊びもできるくらい、みたいなことなのはなんとなくわかるが、それにしても……。

そして終盤、どこで終わってもいい、と思えるようなシーンがあまりにも続く。息が詰まりそうな緊迫感、切迫感に満ちている。これでもか、というくらい「終わり」の気配を見せ、ようやく映画は本当に終わる。

では、あからさまであること、あからさまに全てを示すことは一体どういう意味はあるのか、どういう機能を果たしているのか、と考えると、当然、あからさまさそのものを提示することが目的だ、と思いつくわけで、そうなると、その反面の、隠すこと、も同時に際立ってくる。「隠蔽」を「明示」する……。

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あと、これは別にどうでもいいんだけど、80年代の話って感じが全然しなかったな。ティモシー・シャラメくんはどう見ても現代の(価値観の)美少年じゃないですか?