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庭仕事

2017-05-20

買った本

サミュエル・ベケット『蹴り損の棘もうけ』

蹴り損の棘もうけ

蹴り損の棘もうけ

横尾忠則保坂和志磯崎憲一郎アトリエ会議』

アトリエ会議

アトリエ会議

2017-05-19

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』

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ヨハン・ヨハンソンスコア、めっちゃ良い!ヘプタポッドのテーマみたいなんが流れた瞬間良くてアガった。

D

大好きなヨンシーっぽいです。あと、作中、別の場所で起こることをテレビ放送で処理する感じ、「ド」のつくSF感あってニヤついてしまった。ドSF映画。

"挿入"というモチーフについて考えたい。

まず、宇宙船(かもよくわからない物体)へ繰り返し入っていく人々の姿が思い浮かぶ。

そして、気づかぬうちに、言葉が、聴覚や視覚を通して人間の中に入っていくというイメージ。さらに学んだ言葉を使うことによって、使い手は、知らぬうちに自身の思考を、その言葉が構築する枠組みによって支配されることになる。

劇中ある人物によって為される"嘔吐"は、言葉の形で提示されたその枠組みへの拒否反応と言える。では、そこで"吐かない"ということが何を意味するのか。この嘔吐をしない人物は、拒否せずに受け容れている、ということになる。

そして、おそらくそれだけではなくて、実はすでにこの人物には、「ファーストコンタクト」よりも前の段階で、その枠組みが挿入されてしまっている。

それが、この作品のある仕掛けだ(原作未読なので、文章ではどのように処理しているかを実際に読みたくはなる)。

ともかく最初10分の展開がスピーディーで良い編集なのだけれど、見終わりよく考えてみれば、その冒頭に含まれるあるシーンが実は、その仕掛けに基づいたものだったということを考えると、ではなぜそのシーンが、言ってしまえば、まだ何も起こっていない段階にあるのか、と疑問に思い、いやむしろそうではなくて、この時すでに、先述の"挿入"は為されていた、と考えればしっくりくる(無論、「いつからか?」という疑問は、それを作品中で為すキャラクターたちの性質や能力を加味するならば、愚問でしかない)。ある人物は、その外部からの"到来者"に従って(促されて)、徹頭徹尾行動しているのだ(フォレスト・ウィテカー演じる軍人の、ある種の従順さ・丸めこまれ具合すらそれに属しているのでは、というのは無理矢理すぎるが)。

それに加えて、冒頭から続くヘリの中での会話のシーンで語られる内容も、そのこと(すでに受け容れてしまっているということ)に、作中人物として「自覚的」である、と考えれば、その裏付けを提示している、と理解することもできると思う(ちなみに、本当に、この段階で、そこで真実が語られてしまっていることに驚いてしまったので、かなり強引にひきつけました…)。

そして、翻って考えると、この仕掛けは、もっと見えにくい形で、現実世界にもあって、我々もそれに従わざるを得ない(そして、それが「人生」なのだ)、と言えるかもしれない。

つまり、作中の人間たちと、我々観客も同じ状況に置かれている、と考えてみることができる。

さらに、エイリアンたちを、"映画"である、と置きかえてみる。かつ、コミュニケーションというものを、双方向のやりとり、ということだけで理解するのではなくて、(無数の回答を持つことが可能な)解釈という行為であるとも捉えるならば、スクリーンに映写されたあらゆる物体や言語と観客の間で起こっていることが何か、の定義も変わる。そして、彼らがそこで、示すものは結局のところ何か、この作品ではある答えを提示している(それは"恐ろしい"ほどに"正しい"ものだ)。

ちなみに、そのある仕掛けには、映像によって描くにあたって、少し引っかかるところがある。簡単に言ってしまえば、時間が流れていること、を本来ならばある程度はっきりとした視覚的な形で、人間の姿によって示す必要があるのに、そうはなっていないように見えてしまう。しかしそれこそが、映画(この2文字に"ハリウッド"とルビをふっても良い)的虚構である、と自分で思えてしまえばこれ以上は何も言いません…(…ただ、その虚構に浸かりきってない人にとってはどう思うのか…) 。

2017-05-18

買った本

ハロプロ スッペシャ〜ル 〜ハロー! プロジェクト×CDジャーナルの全インタビューを集めちゃいました!〜 (CDジャーナルムック)』

2017-05-13

ジェームズ・ガン『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』

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ともかく魂消た…マーベル映画史上最も、みたいなこと言われてるからまたまた〜って思ってたらもしかしたらそうかもと思えるくらい大傑作。カート・ラッセル出演には、ウィンターソルジャーのロバート・レッドフォード、というキャスティングの妙を思い出す。

本作は、"偶然"と"子ども"の映画と言える。そしてその点で、『ゲンロン0 観光客の哲学』と同じ、と言えると思うので、その内容をベースにして考えた。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

今回モチーフとして頻出するのは"家族"だ。

家族は、偶然(の出会い)によって作られ(始められ)る、と言える。

また、子どもは親を選べないし、親も子どもを選べない。偶々その親に、偶々その子どもが生まれただけだ。

家族という集団は、偶然によって生まれるがゆえに、いかなるトラブルにも対応し、乗りこなしてしまう。逆に、もし仮に、必然を狙って作られた家族というあり得ない存在("非家族")があれば、それらは緊急事態に弱く、脆いだろう。

さらに今作では、仕組まれた"デザイナーベビー"と"orphan"(こちらの単語は作中でも使われる)の、どちらが真の意味で"子ども"足りうる?という問いも提示されていると思う。どちらも確かに、一見「正当な」親子関係の中には存在しない。ではこの問いも成立しないのだろうか。しかし、家族の真の「正当さ」「真っ当さ」が"偶然"であるとするならば、おのずと答えは出るだろう(そして、作中のある登場人物は、自身をその「真っ当な」位置に配置する)。

そして、子どもとは常に後から生まれる者であり、他者である。彼らに先行する=親は、彼らを理解不能の存在とするしかない、ということだ。

だが、それでも彼らは理解不能他者同士であるがゆえに、お互いを知り接近したいと願うだろう。そして親子関係とは、決して相手を操作し思うがままに動かすことではないし、そもそもそれは不可能だ。そこには、様々な形に「抑えきれなさ」がある。

この映画の諸々(例えば、ヨンドゥの行動)は全て、(抑制不可能なものとしての)"意志"と"偶然"によって引き起こされてる、と理解する必要がある(というかそうすれば全てわかる)。

せずにいられない/言わずにいられない/殺さずにいられない/許さずにいられない、そして何より「愛さずにいられない」(偶然であるがゆえに、むしろ、偶然であるからこそ)。そして、その結果、どうなろうと、「知ったこっちゃない」のだ(破天荒さ)。

ところで、劇中で使われるポップソングがまとめられたAwesome mixとは、その脈略のなさがゆえに、要するにラジオエアチェックした好きな曲だけを入れたテープ、であると言える。その音楽との出会いもまた偶然でしかない。その意味で、スターロードは、レコードと映画、ではなくて、ラジオとテレビ(『ナイトライダー』に『チアーズ』)の子なのだなと…まぁでもケビン・ベーコンは知ってるのだけれど(しかしカート・ラッセルは知らない!)。

以下は補足として。

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クリス・プラット、今回のスターロードのキャラクター造形のせいもあるのだけれど、いつにもまして繊細であったり弱々しさを露わにする表情で…前より髪もクルクルになってる気も…。

あと、劇中のある葬儀が、フューリーとペギーのそれと違い、例えば戦いの契機として「機能」するのではなく、あくまで本来の死者への追悼の儀式として描写されていることに衝撃を受けてしまった。

2017-05-12

M・ナイト・シャマラン『スプリット』

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それにしても、今回は、撮影が異様なことになっている。ファーストカットの不気味な緩やかさのあるドリーズーム、多用される人物の顔のクローズアップ…と考えた時に恐ろしい名前が浮かんだ…ヒ、ヒッチコ…やめておこう。

そして、なんといったらいいのか?多分、これまでのシャマラン作品とは違う感触・質感の映像のような気がするんだけど…見てる最中アレ?とずっと思っていて(特にカウンセリングのシーン)、でもそれをどう言ったらいいのか見当つかない。

めちゃくちゃ安直かつ曖昧な言い方(しか現時点ではできないの)だけど、おもしろいとかつまらないを強制的に一旦脇に置かされるようだ…(シャマランはいつもそうだよ、って言われればまぁそうっすね…という感じなんですが…今回はまたそれとは違うんだよな…)。真の意味で、これだけで何をどうこう言えないと(「これで終わりではない」と)思えてしまう。そして、そうであるがゆえに、この物語は終わりにあるシーンがあり、「これで終わりではない」のだ(同語反復)。その理由について考える。

シャマランが常に、フィクション/作り話/虚構が、現実/世界と奇怪な形で関係を結び「救済」(カッコ付きなのは、それが既存のそれにとどまらないこともあるから)する、ということを語ってきた作家であるとしてみる。

今作のフィクションとは、主人公の一人である、ジェームズ・マカヴォイ演じる男の身に起こっている「多重人格」という現象(とあえて言う)と、彼が引き起こす事件に巣食う論理(なぜ少女たちは拉致監禁されたのか?)だ。それは決して、嘘偽りである、ということではなく、男が自身の治癒のために作り上げたストーリーである、という意味において。

そして、今作で、現実/世界として現れるものは、終盤まで隠蔽されている(ということを、我々はそれが現れてから知ることになる)。

それはまず、ある過去・事実が、アニャ・テイラー=ジョイ演じる少女に残した「徴」だ。それは、解釈が一切不要でありまた不可能な、みたままのもの、そのもの、でしかない。

それからもう1つ、物語の主要な舞台となるある場所だ(しかし、それにしてもシャマランの舞台設定のセンス――どんな場所でストーリーが紡がれるのか?――はやはり尋常じゃないかつ奇妙すぎるということを改めて認識できた)。その場所が、監禁が行われた空間の"正体"であり、その外部を覆い尽くす"世界"である。

では、同監督の他作品同様、圧倒的な強度を持ってしまうフィクションによって、他者たる現実が浸食される様子が描かれることになるだろうか。

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確かに、そう思えるようにストーリーは進行する(偽装されている、と言ってもいい)。

だが、驚くべきことに、終盤の展開で、姿を現す事実/現実/世界が、(歪んだ形で)勝利を収めてしまうように見てとれる。

それは、少女の持つ「徴」と、虚構にその身を変容させられる男との対峙の、一先ずの結末がまず示している。

その後の少女の前には、自らに「徴」を刻んだ存在(彼女が内包されてしまっている現実世界であり過去)が登場してしまうことが暗示される(劇中の、回想で語られるある挿話――嘘はばれ、救いにはならない――も思い出したい)。

さらに、明らかになる、物語の舞台である場所の性質/特性/状況が、そこを起点としていた全ての出来事(監禁や、暴力の振るわれ方の造形描写)や要素("檻"や"鍵")の、上位概念である「元ネタ」と解釈できてしまう。

もしかすると、男の身に起こるある(生成)変化の「モデル」ですら、そうなのではないかと思えてしまう。

こうして考えていくと、最終的には徹底して、現実世界が優位に立ってしまっている。

そして、それで終わりなのか?という問いが立ち現れる。今作に、あの、虚構が現実との境目を侵犯し融解してしまうような「救済」は無いのか?

シャマランが、映画作家として培ったものは、それに対しての回答として、ある衝撃的なカットを付け加えるだろう。それは…言ってしまえば、「救済」の象徴だ。それが、無論「終われない」のだ、と示している。

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以下は、追記として。

実は、少女の「徴」と男の「虚構」は、両者とも"傷"、スティグマと称されてしまう類のものとして、相通じている。

それは同じもので、2人の人物の上に、まるで本来は一つのものが両者にまたがって、それぞれの上に形を変えて姿を表しているように錯覚すらしてしまう。

脱線するが、その「錯覚」が、(カットバックという手法と相まって)作劇上のトリックでありtwistになるという「下品」な発想をしてしまって反省している(「本当に"on the move"するのは何者か?」なんて、考えてしまったので)。

自戒を込めて言うが(毎回言ってるけど)、これだけファンだと自称してるにも関わらず、毎回、シャマラン作品が"そのまま"であること、"見たまんま"であること、を忘れてしまって("何かある"と思ってしまって)、見終わってそのことに気づくのだ…。