松田卓也2045年問題 コンピュータが人類を超える日』買って読み終えた。

技術的特異点のこととは別に、後半の筆者の未来予測、論理的すぎてその通りと言うしかない。
《貧富の差が広がる限り、コンピュータの進化がもたらす果実を味わえるのはごく一握りのお金持ちです。そうならないためには、人間が政治の力で状況を変えていくしかないのです。今後、政治の重要性はますます高まるに違いありません。とはいえ、裕福な力のある一部の人々からの圧力、そして自分には不利になるのにそのことが理解できずに不合理な選択をする庶民、これらが作用して、お金持ちである既存の権力者層が政治権力を握り続ける可能性は否定できません。》(p189)でも、合理性の行き着く先が原子力発電か…。
《人類が生存するために、大虐殺をするという矛盾した状況に陥るかもしれません。意図的な人口削減策をよるのではなく、資源を取り合って各国が戦争になり、一国の中でも富裕層と貧困層の間で暴動や内戦が起きて、人口が減るという危険性が高いでしょう。その結果、新たな江戸時代である縮小社会ではなく、文明が崩壊した「再石器時代」に転落する懸念も否定できません。》(p209)
こういう考え方を基に『エリジウム』が作られたんだな。
今後の人類が、どこの時点にせよ、間違いなく頭打ちになる(「増え続ける」ことによって)、そこのブレイクスルーを進化するコンピュータに委ねる、というか、先の保証のない先進技術を賭ける。しかない。無論ギャンブルなので失敗、それもとてつもない、するかもしれない。
それにしても、デ・カリスの発想はんぱない。文字通りの全てがコンピュータ化する、コンピュータ内に収まる、内包される、というのはつまり、全ての事象が情報と化するということなのか。