ジェームズ・ガン『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』


ともかく魂消た…マーベル映画史上最も、みたいなこと言われてるからまたまた〜って思ってたらもしかしたらそうかもと思えるくらい大傑作。カート・ラッセル出演には、ウィンターソルジャーのロバート・レッドフォード、というキャスティングの妙を思い出す。

本作は、"偶然"と"子ども"の映画と言える。そしてその点で、『ゲンロン0 観光客の哲学』と同じ、と言えると思うので、その内容をベースにして考えた。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

今回モチーフとして頻出するのは"家族"だ。

家族は、偶然(の出会い)によって作られ(始められ)る、と言える。

また、子どもは親を選べないし、親も子どもを選べない。偶々その親に、偶々その子どもが生まれただけだ。

家族という集団は、偶然によって生まれるがゆえに、いかなるトラブルにも対応し、乗りこなしてしまう。逆に、もし仮に、必然を狙って作られた家族というあり得ない存在("非家族")があれば、それらは緊急事態に弱く、脆いだろう。

さらに今作では、仕組まれた"デザイナーベビー"と"orphan"(こちらの単語は作中でも使われる)の、どちらが真の意味で"子ども"足りうる?という問いも提示されていると思う。どちらも確かに、一見「正当な」親子関係の中には存在しない。ではこの問いも成立しないのだろうか。しかし、家族の真の「正当さ」「真っ当さ」が"偶然"であるとするならば、おのずと答えは出るだろう(そして、作中のある登場人物は、自身をその「真っ当な」位置に配置する)。

そして、子どもとは常に後から生まれる者であり、他者である。彼らに先行する=親は、彼らを理解不能の存在とするしかない、ということだ。

だが、それでも彼らは理解不能の他者同士であるがゆえに、お互いを知り接近したいと願うだろう。そして親子関係とは、決して相手を操作し思うがままに動かすことではないし、そもそもそれは不可能だ。そこには、様々な形に「抑えきれなさ」がある。

この映画の諸々(例えば、ヨンドゥの行動)は全て、(抑制不可能なものとしての)"意志"と"偶然"によって引き起こされてる、と理解する必要がある(というかそうすれば全てわかる)。
せずにいられない/言わずにいられない/殺さずにいられない/許さずにいられない、そして何より「愛さずにいられない」(偶然であるがゆえに、むしろ、偶然であるからこそ)。そして、その結果、どうなろうと、「知ったこっちゃない」のだ(破天荒さ)。

ところで、劇中で使われるポップソングがまとめられたAwesome mixとは、その脈略のなさがゆえに、要するにラジオでエアチェックした好きな曲だけを入れたテープ、であると言える。その音楽との出会いもまた偶然でしかない。その意味で、スターロードは、レコードと映画、ではなくて、ラジオとテレビ(『ナイトライダー』に『チアーズ』)の子なのだなと…まぁでもケビン・ベーコンは知ってるのだけれど(しかしカート・ラッセルは知らない!)。

以下は補足として。

クリス・プラット、今回のスターロードのキャラクター造形のせいもあるのだけれど、いつにもまして繊細であったり弱々しさを露わにする表情で…前より髪もクルクルになってる気も…。

あと、劇中のある葬儀が、フューリーとペギーのそれと違い、例えば戦いの契機として「機能」するのではなく、あくまで本来の死者への追悼の儀式として描写されていることに衝撃を受けてしまった。