ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』


ヨハン・ヨハンソンのスコア、めっちゃ良い!ヘプタポッドのテーマみたいなんが流れた瞬間良くてアガった。

大好きなヨンシーっぽいです。あと、作中、別の場所で起こることをテレビ放送で処理する感じ、「ド」のつくSF感あってニヤついてしまった。ドSF映画

"挿入"というモチーフについて考えたい。

まず、宇宙船(かもよくわからない物体)へ繰り返し入っていく人々の姿が思い浮かぶ。

そして、気づかぬうちに、言葉が、聴覚や視覚を通して人間の中に入っていくというイメージ。さらに学んだ言葉を使うことによって、使い手は、知らぬうちに自身の思考を、その言葉が構築する枠組みによって支配されることになる。

劇中ある人物によって為される"嘔吐"は、言葉の形で提示されたその枠組みへの拒否反応と言える。では、そこで"吐かない"ということが何を意味するのか。この嘔吐をしない人物は、拒否せずに受け容れている、ということになる。

そして、おそらくそれだけではなくて、実はすでにこの人物には、「ファーストコンタクト」よりも前の段階で、その枠組みが挿入されてしまっている。

それが、この作品のある仕掛けだ(原作未読なので、文章ではどのように処理しているかを実際に読みたくはなる)。

ともかく最初10分の展開がスピーディーで良い編集なのだけれど、見終わりよく考えてみれば、その冒頭に含まれるあるシーンが実は、その仕掛けに基づいたものだったということを考えると、ではなぜそのシーンが、言ってしまえば、まだ何も起こっていない段階にあるのか、と疑問に思い、いやむしろそうではなくて、この時すでに、先述の"挿入"は為されていた、と考えればしっくりくる(無論、「いつからか?」という疑問は、それを作品中で為すキャラクターたちの性質や能力を加味するならば、愚問でしかない)。ある人物は、その外部からの"到来者"に従って(促されて)、徹頭徹尾行動しているのだ(フォレスト・ウィテカー演じる軍人の、ある種の従順さ・丸めこまれ具合すらそれに属しているのでは、というのは無理矢理すぎるが)。

それに加えて、冒頭から続くヘリの中での会話のシーンで語られる内容も、そのこと(すでに受け容れてしまっているということ)に、作中人物として「自覚的」である、と考えれば、その裏付けを提示している、と理解することもできると思う(ちなみに、本当に、この段階で、そこで真実が語られてしまっていることに驚いてしまったので、かなり強引にひきつけました…)。

そして、翻って考えると、この仕掛けは、もっと見えにくい形で、現実世界にもあって、我々もそれに従わざるを得ない(そして、それが「人生」なのだ)、と言えるかもしれない。

つまり、作中の人間たちと、我々観客も同じ状況に置かれている、と考えてみることができる。

さらに、エイリアンたちを、"映画"である、と置きかえてみる。かつ、コミュニケーションというものを、双方向のやりとり、ということだけで理解するのではなくて、(無数の回答を持つことが可能な)解釈という行為であるとも捉えるならば、スクリーンに映写されたあらゆる物体や言語と観客の間で起こっていることが何か、の定義も変わる。そして、彼らがそこで、示すものは結局のところ何か、この作品ではある答えを提示している(それは"恐ろしい"ほどに"正しい"ものだ)。

ちなみに、そのある仕掛けには、映像によって描くにあたって、少し引っかかるところがある。簡単に言ってしまえば、時間が流れていること、を本来ならばある程度はっきりとした視覚的な形で、人間の姿によって示す必要があるのに、そうはなっていないように見えてしまう。しかしそれこそが、映画(この2文字に"ハリウッド"とルビをふっても良い)的虚構である、と自分で思えてしまえばこれ以上は何も言いません…(…ただ、その虚構に浸かりきってない人にとってはどう思うのか…) 。