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スローボートからのつぶやき

2017-07-25

「ヒトラーへの285枚の葉書」

一九四0年六月、ベルリンフランスへの勝利に沸き返っていた。とはいえ戦争だから勝者にも犠牲者は出る。陶酔と喧噪のなか職工のオットー(ブレンダン・グリーン)と妻アンナ(エマ・トンプソン)のもとに最愛の息子ハンスが戦死したとの報せが届く。

訃報を胸に悲しみにくれていたある日、オットーはやむにやまれずヒトラー批判する言葉を葉書に綴り、ひそかに街中に置いた。見つかれば死刑確実の、ささやかながら絶望的な抵抗はまもなくアンナの知るところとなり、彼女も協力して葉書はおよそ二年間で二百八十五枚に達した。一人息子を戦争で亡くした辛さと絶望を二人はこういう形でしか表出するほかなかった。論理や説得よりも反戦と嘆きの感情で綴られた短い文章だった。

市民の通報で回収された葉書を手がかりにゲシュタポのエッシャリヒ警部(ダニエル・ブリュール)が捜査にあたるが、葉書と捜査を往還するうちに警部は上層部の理不尽と無慈悲に疑問を覚えるようになる。そして捜査が終了したとき彼は回収された二百六十七枚を前に「(回収された)全部の葉書を読んだのはおれだけだ」とつぶやく。ナチス体制への不信が込められた言葉であり、葉書は少なくともゲシュタポの警部の心を動かしていたのである。

ナチスの支配のもと、たった二人で覚悟を決めて繰り返す反抗とかれらに忍び寄るゲシュタポの捜査。セピア色を基調とするかつてのベルリンを舞台とする実話に基づく物語はサスペンス作品としても迫力がある。

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原題Alone in Berlin。同名の原作はドイツ人作家ハンス・ファラダがゲシュタポの文書記録を基に終戦直後に書き上げた作品で、これが作家の遺作となった。對馬達夫『ヒトラーに抵抗した人々』(中公新書)によると、ナチス支配下での抵抗について、ソ連は広範な人民に依拠していないと否定的評価を下し、西側諸国はドイツの悪辣をアピールするのに邪魔になると無視した。いかなる組織にも所属していない労働者階級の夫婦がペンと葉書だけを用いて繰り返した行動がどのような扱いを受けたかはおのずと明らかだろう。

また戦後のドイツにおいてもヒトラーへの抵抗者及びその家族、関係者は、総統への宣誓を破り、戦時下に利敵行為をした者として批判を受けやすかった。對馬前掲書には、父親がナチスにより処刑された娘が、戦後になって、通学途中に電車の運転士から「父さんは戦死したのかい?」と問われ「いいえ、ヒトラーに反対して殺されました」と答えたところ「薄汚い裏切り者の子供め!」と罵倒されたという話が見えている。

オットーとアンナの物語を採りあげ映画化したのは人気俳優でもあるバンサン・ベレーズ、自身の親族の対ナチス体験と大叔父が犠牲になったことがペレーズ監督を強く揺り動かした。映画化は順風満帆とはほど遠く、一時は暗礁に乗り上げたが二0一0年に原作の英語版が出版されベストセラーとなったことが追い風になりようやく製作費のめどが立った。東西両陣営から批判もしくは無視され、ドイツ国内でも一部に否定的にとらえられた夫婦の抵抗が甦ったのにはこうした事情があった。

(七月十二日ヒューマントラストシネマ有楽町

2017-07-23

ワット・プラシーサンペット(2017夏タイ 其ノ四)

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ワット・プラシーサンペットはアユタヤの王の遺骨を納めた三本の塔を含む仏教施設を指す。

アユタヤ王朝の創設は十四世紀半ばだから、歴史公園にある建造物の多くは比較的新しいものだが、十八世紀に滅亡した際の攻撃でいまは煉瓦のみを残すものが多い。そのなかにあってワット・プラシーサンペットは当時の状態がよく保存され、アユタヤ時代の建築がそのまま見られる貴重な遺跡となっている。この遺跡はタイについての知識の乏しいわたしがイメージするタイの建築そのものである。

よく知られているようにアユタヤには十四世紀半ばから十八世紀にかけて日本人街があり、千人を超える日本の商人に、日本人とタイ族傭兵、タイ族やその家族を加えると江戸時代のはじめ寛永期の街の人口は八千人にのぼったとの考証がある。旧日本人街は記念公園となっており碑が建っているとガイドブックにあるが、残念ながら公園を訪れる時間はなかった。

2017-07-20

「ボンジュール、アン」

映画プロデューサーのマイケル(アレック・ボールドウィン)は仕事ばかりで家庭には無頓着、妻アン(ダイアン・レイン)は娘の大学進学を機に子育て後の新しいライフステージのありかたを模索している。そうした折り、彼女はひょんなことからマイケルの仕事仲間でフランス人のジャック(アルノー・ビアール)の車でカンヌからパリへ向かうこととなる。

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カンヌからパリへの所要時間は車で普通に走ると七時間ほど。アンにとってジャックの車は相応の時間を要する移動手段に過ぎない。ところが博識またレストランやホテルの事情に詳しいジャックはさっそく彼女を自慢のレストランに誘い、食事と会話のひとときを楽しみ、そのあと瀟洒なホテルへと案内する。もちろん別室だけれど、女は男の下心を意識せざるをえない。

「フランス人はたいへん家庭を重んじるのですが、自然にほとばしる情熱もだいじにします」とジャック。

マイケルは、車に乗せてもらったらいいじゃないかと言ったものの心配になって「フランスの男は夫のいる女性に平気で言い寄ったりするから気をつけろよ」と電話をかけてくる。

こうしてジャックとのドライブはアンの思惑とは異なり、パリへの移動は泊をともなう旅となり、このかん中年の男と女はおいしい料理とワインを味わい、名所旧跡を訪れ、美しい田園風景にうっとりするなど、少しばかり不安の潜む充実の時間をともにする。

機知とユーモアに富む二人の会話はときに節度ある駆け引きとなり、静かなサスペンスが生じる。

そして観客はモーツァルトサティや懐かしいシャンソンが流れ、セザンヌルノワール絵画にあるような光景が映し出されるなか、分別も知性も具えた二人だからまさかとんでもない事態になるはずはないと思いながら、でもちょっぴり心配と、その行方に目を凝らしている。

「ボンジュール、アン」(原題PARIS CAN WAIT)は短篇小説の名手がひそかに腕を振るって描いた人生のスケッチを思わせる。瑞々しく、ほどよい陰翳に富んだロードムービーだ。監督はフランシス・フォード・コッポラの妻エレノア・コッポラ、八十歳にして初めて監督、脚本を手がけた劇映画は自身の体験を基にしているそうだ。とすれば体験という原石に絶妙の加工を施して愛らしく輝く宝石に仕上げた作品と言わなければならない。

ダイアン・レインの艶やかな美しさに惹かれた。実年齢に応じた、しっとりとした華やぎはアンチエイジングではないグッドエイジングの魅力だ。わたしより一回り以上下だが、おなじ世代だったら、いっしょに歳を重ねてゆきたい女優さんだな。

(七月十八日TOHOシネマズシャンテ)

2017-07-18

アユタヤ歴史公園(2017夏タイ 其ノ三)

f:id:nmh470530:20170625124953j:image:w360:leftアユタヤ王朝はいまのタイの中部アユタヤを中心に展開したタイ族による王朝で、一三五一年にラーマーティボーディー一世が創設した。

アユタヤは流れの穏やかなチャオプラヤー川に沿っていて、貿易には格好の立地条件を有していた。じじつ、中国、日本、琉球アラブペルシア方面、西洋と活発に交易を行い、国富を蓄え、最盛期には現在のラオスカンボジアミャンマーの一部を領有するほどの勢力を誇った。

王朝が信仰していたのは上座部仏教で、貿易を通じて得た利益で数々の寺院(ワット)が建設されたが一七六七年ビルマ(ミャンマー)の攻撃を受けて滅んだ。このとき建造物石像が破壊されたために、現在アユタヤ歴史公園に残る寺院は廃寺となり、写真にあるように仏像も首が切られるなどの被害に遭った。王宮も台座を残すのみとなっている。

2017-07-15

「こんな人たち」

七月二日に行われた都議会議員選挙の前日、秋葉原駅前で行われた自民党の街頭演説会で、演説している安倍首相に聴衆のなかから「辞めろ」「帰れ」のヤジと罵声がわき上がったとの報道があった。

それにたいし首相は「人の演説を邪魔するような行為を自民党は絶対にしない」「こんな人たちに、皆さん、私たちは負けるわけにはいかない」と反論し、ジャーナリズムの一部からは首相が「こんな人たち」という言葉を国民に向けるのはいかがなものかと指摘があった。

気の利いたヤジを飛ばすのを否定するほどわたしは厳格主義者ではないが、選挙演説をヤジや罵声で妨害したり封じ込めたりするのは論外だ。「こんな人たち」という表現が首相の言葉として適切だったかどうかはともかくとして言論活動への妨害は議会制民主主義の根幹にかかわる行為であり、「こんなこと」はしてはいけない。

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そのうえで思う。安倍内閣に対決姿勢をとる政党が選挙演説で組織的なヤジや罵声を浴び、その訴え、主張が封じられようとしている事態を仮定してみよう。はたして首相は右であれ左であれ内容のいかんにかかわらず言論活動の自由は断固擁護する、「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない」という信念と気概で以て対応してくださるのだろうか。

政治は人間のいとなみであり、人間が有限であるかぎり過ちの可能性は排除できない。とりわけ最高権力者には強い信念とともに、過ちの可能性を最小に抑える努力が求められる。そのために自身の意見と行動にたいする批判に心を開いておかなければならず、少数意見にたいする誹謗中傷は権力者が自制抑制すべきことがらである。ところが国会審議の場で首相みずから野党の質問者にヤジを飛ばす姿を何回か見た。議論を通して多数意見の形成をめざす姿勢よりも異論にたいする不寛容の感情の露出が目につくところはかねてより気になるところであり、こうしたことからわたしは前段の問いに確たる答が出せないでいる。

都議選での自民党の歴史的惨敗をうけ安倍首相は近く局面打開のために内閣改造を行うらしく、「週刊文春」(七月十三日号)の関連記事に、首相周辺から出た言葉として、目玉となる閣僚候補三原じゅん子議員がいて、ふさわしい根拠として「野党へのヤジも有名で、首相も『根性がすわっている』と評している」とあった。「人の演説を邪魔するような行為を自民党は絶対にしない」と言いながら閣僚の適格性をヤジで判断するとはおどろきで、ここにも「こんな人たち」がいるのだった。