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スローボートからのつぶやき

2017-10-15

「September In The Rain」

「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮)

「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家

新古今和歌集』にある三夕の歌はいずれも晩秋の状景を詠んでいる。日本人が「もののあはれ」を知る、「すずろに涙のこぼるるがごとし」(鴨長明『無名抄』)の気分になるのはなんといってもこの季節であろう。

アメリカのばあいはどうか。

「五月から十二月まではたっぷり時間はあると思っていた/でも九月になると一日、一日が短くなっていく」と歌われる「セプテンバー・ソング」からうかがうに米国人の感傷がもっとも刺激されるのは初秋で、真夏の狂騒が終わったときふとわれに返り「すずろに涙のこぼるるがごとし」といった心持になるのではないか、というのがわたしの独断である。

いっぽう日本の九月は残暑であり「小さい秋」を見つけるのはもうすこしあとのことになるし、真木立つ山、鴫立つ沢、浦の苫屋のさびしさとあはれはさらに秋の深まりを待たなければならない。

ついでながら「夏服を着た女たち」をはじめとする短篇小説の名手で、一九一三年にブルックリンに生まれたアーウィン・ショーは第二次大戦後およそ四半世紀にわたりパリで暮らしていて『パリ・スケッチブック』に「冬は不幸と同じようにパリにいるとき一ばん深く身にしみる。パリはもっとも陽気なところだけに、いざ悲しみに沈むとなるともっとも深く悲しみに沈む」(中西秀男訳)と書いている。パリの「もののあはれ」は日本よりすこしあとにおとずれるようだ。

話を米国にもどすと、初秋の感傷に雨をあしらった素敵な曲がある。

「あなたがわたしにささやいた愛の言葉を、雨のしずくがいま甘く奏でている。春が訪れてもわたしの心はいまも九月、あの雨の九月」。

「セプテンバー・ソング」とともに九月を歌った名曲「セプテンバー・イン・ザ・レイン」の一節で、愛の思い出を歌うバラードに雨の九月はとても似合いの時期とされている。

雨にちなんだ曲ばかりを集めたお気に入りのアルバムSue Raney「Songs For A Raney Day」(彼女の名前とrainyとが掛け言葉となっている)で掉尾を飾る「九月の雨」が好き。もうひとつ、ピアノ、ベース、ドラムのピアノトリオにヴァイブラフォン、ギターを加えたジョージ・シアリングクインテットがこの曲で注目を浴びたのは一九四九年のことだったが、そのサウンドはいま聴いてもおしゃれだなとおもう。

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*「セプテンバー・イン・ザ・レイン」

作詞:アル・デュビン

作曲:ハリー・ウォーレン

2017-10-12

ささやかな贅沢(2015初夏台湾 其ノ四)

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写真のコースターは「青花蓮花皿」を模したものと説明がある。かばんかけには七宝の絵柄が焼き付けられている。どちらも故宮博物院の売店にあった。

むかしよく植草甚一さんの本を読んでいると散歩のとちゅうで本やレコードとともに雑貨を買う場面があった。自分の経済力では本とレコード止まりで雑貨には手を出さなかったが、それだけ欲望の度合も低かったわけだ。ところが退職してときどき海外旅行に出るようになると雑貨を買うのがたのしくなった。喫茶店でプラハのカレル橋をあしらったトートバッグからお気に入りのミステリーを取り出して読む。晩酌にヴェネツィアで買ったグラスを台湾製のコースターに置き、東西融合させてウィスキーを注ぐ・・・・・・。

外国の街をブラブラ歩きしながらのショッピングでは迷っても買っておかなければ未練が残る。東京へ帰ると旅の思い出の雑貨がすこし華やいだ気分にしてくれる。老骨のちょっとした贅沢である。

2017-10-10

「ドリーム」

アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行計画マーキュリー計画ジョン・グレン飛行士地球を三周したのは一九六二年二月のことだった。「ドリーム」はこの事業の成功に貢献した三人の黒人女性〜キャサリンジョンソン、ドロシー・ボーン、メアリー・ジャクソン〜の物語。

マーキュリー計画に従事した宇宙飛行士たちを描いた映画「ライトスタッフ」(真にふさわしい資質)を引き合いに出せば「もうひとつのライトスタッフ」である。

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ずば抜けた数学的才能をもつキャサリン(タラジ・P・ヘンソン)、計算係(いまならコンピューターが行う計算を人力でやっていた)のまとめ役ドロシー(オクタビア・スペンサー)、エンジニア志望のメアリー(ジャネール・モネイ)、三人はバージニア州ハンプトンにあるNASAラングレー研究所に勤める身だが、有色人種と女性にたいする二重の差別と偏見の強い職場にあって能力を発揮しにくい環境に置かれている。

キャサリンは優秀と認められ特別研究本部に配属されたが、周囲は小馬鹿にして必要な情報を提供しないばかりか協働業務から爪はじきにしようとする。それまでなかった黒人用コーヒーポットが現れる。黒人用トイレは職場から八百メートル彼方だ。

ドロシーはロケット打ち上げのための数値を出すグループのまとめ役でありながら管理職登用の具申は店ざらしにされたまま。

メアリーにいたっては志望するエンジニアに向けた研修を実施する機関はなく、道は閉ざされているとまでいわれる。ほんとうは研修は実施されている。しかし黒人の受け入れは認めていない。

このなかにあって三人は屈することなく風穴を開け、理不尽な状況を改善してゆく。

黒人女性への差別と偏見をテーマとした作品ながらわたしは劇場をあとにするときハッピーなミュージカルをみた気分になっていた。重い社会問題を扱いながらエンターテイメントとしても優れた作品を演出したセオドア・メルフィ監督の腕前には感心するばかりだった。

その要因を二点挙げると、第一に、天才肌、管理実務型、スペシャリストタイプといった三人の人物造型がある。目前の壁を崩し、問題の解決を図ってゆくのは三人三様、それぞれの個性、性格に応じたやり方で課題が克服されると、こちらもうれしくなる。

第二は随所に散りばめられた小気味いいやりとりとテンポのよいストーリー展開。たとえば「偏見は持ってないのよ」「わかります、あなたに自覚がないことは」といったやりとり。管理職への具申を止め置いている人事担当の白人女性とドロシーとの応酬で、わたしはここから、昔ある本で読んだ「アメリカの黒人問題は重大です」「アメリカに黒人問題はありません。あるのは白人問題です」といったくだりを思い出した。

そうそう、宇宙開発の遂行に差別と偏見は関係ないと人道的、合理的判断を下すラングレー研究所本部長アル・ハリソンケビン・コスナーがシブく演じているのも言い添えておかなければならない。

というふうに宇宙開発の推進に尽力した黒人女性の生き方をたのしく、あたたかく見守りながら、気がつくと社会的正義感は高揚していて、面白くてためになるは過言ではない。超インテリ黒人女性だから調子よく運んだとの見方もあるだろう。しかしここは素直に受け止め、賛意を贈りたい。

いま政府与党を中心に道徳教育推進の掛け声が高い。そうした声の主にはこの作品を教材としてお薦めしておこう。

なお原題は「Hidden Figures」。figureは人の姿、ときに重要な人物の意味合いを帯び、また数字、計算という意味もある。ここには邦題からは窺えない隠れた多義性がある。

(九月二十九日TOHOシネマズシャンテ)

2017-10-08

四大美術館(2015初夏台湾 其ノ三)

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故宮博物院は、フランスルーブルアメリカメトロポリタンロシアのエルミタージュと並んで世界四大博物館の一つに数えられている。ただし大英博物館プラド美術館が入るという異説があり、だったらこの二つは先の四つのいずれと入れ替わるかなんてむつかしい話になるとわからない。いっそのこと六大美術館とすればよいのに。とはいっても世界の四大文明とかテニス四大トーナメントが示すように代表的なものを四つ挙げるのが座りがよいみたいだ。

それはともかく故宮博物院にはおよそ七十万点近くの収蔵品がある。なかで常時展示している文物は六千点から八千点、特に有名な宝物数百点を除いては三か月から半年おきに入れ替えているため、すべてを見るには十年以上かかるのだとか。わが大和撫子の情報によれば、建物の後ろの山に倉庫があり、展示されていない美術品が収蔵されているそうだ。

2017-10-05

「セールスマン」

この映画を撮ったアスガー・ファルハディ監督はトランプ大統領の発した母国イランを含む特定七カ国からの入国制限の大統領令に抗議して、本年度アカデミー賞授賞式をボイコットした。その授賞式で本作品はアカデミー外国語映画賞に輝いた。前作「別離」に続く受賞である。

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ある日、夫の不在中、妻は引っ越したばかりのアパートで何者かに襲われ、性暴力に遭う。

夫(シャハブ・ホセイニ)は高校の先生をしながら、役者として小さな劇団に所属していて、妻(タラネ・アリシュスティ)もおなじ劇団で舞台に立っている。

事件のあとでわかったことだが、夫婦の引っ越し先は直前まで娼婦が住んでいて、彼女がいると思い込んでいた客がここを訪れ、暴行に及んだらしい。

復讐への思いにとり憑かれた夫に対し、妻は事件が表ざたになるのを嫌がり警察へ通報しようとしない。苛立つ夫は独自に犯人を探しはじめ、これを機に事態は思いがけない方向へと転がってゆく。

事件の発生―犯人の捜索―結末という流れは序破急典型といってよいしっかりした構成、作劇術であり、状況の変化とともに複雑なサスペンスがみる者を刺激する。具体には夫婦の感情の齟齬、性的被害と復讐をめぐる法律と感情、夫婦と隣人、劇団員との人間関係、レイプ被害者への抑圧、捜査や司法に対する視線など、いずれも普遍的な問題ではあるが根っこにはイランの文化風土がある。

夫婦が演じているのは「あるセールスマンの死」。アメリカンドリームの影の部分を鋭くえぐった老セールスマンとその家族の悲劇で、アーサー・ミラー戯曲通奏低音として微妙な響きをもたらすうちに舞台と実生活の悲劇が交錯する。

前作「別離」は自由を求めて出国を望む妻と要介護の父を置いては出国できない夫、父母のいずれと生活するかの選択を迫られる中学生の娘の一家の物語で、離婚は決定的となったが娘の葛藤はそのままにドラマは終わった。同様に本作も、被害者、加害者とそれぞれの家族のその後の物語は観客にゆだねられるかたちで終わる。その意図は十分承知しながら、できれば監督の描くその後をみたかった。結末の付け方はむつかしい。

(六月十二日Bunkamuraル・シネマ)