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スローボートからのつぶやき

2017-12-15

「プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード」

プラハ市立フィルハーモニー管弦楽団の演奏する「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」が流れるなか、先日ハリウッドを追放されたセクハラ大物プロデューサーを思わせる悪辣富豪のサロカ男爵(ジェームズ・ピュアホイ)と、美貌と才能を具えた歌手スザンナ(モーフィッド・クラーク)と、モーツァルト(アナイリン・バーナード)による恋愛模様が繰り広げられる。

舞台はプラハ。カレル橋の下をブルダヴァ川が流れ、橋の彼方にはプラハ城がそびえる。大通りには馬車の蹄の音が響き、そこから一歩はいった路地裏の敷石道はしっとりとして、ほのぼのとした雰囲気をただよわせている。その映像は十八世紀後半の衣装や調度品を含めとても魅力的で、美しい絵巻物をみているような気分になる。

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一七八七年プラハでは「フィガロの結婚」が大きな話題となっていて、上流階級の名士たちはモーツァルトを招き、かれ自身による「フィガロ」の上演と新作オペラの発表を企てる。主たる出資者となったのがサロカ男爵である。

このときモーツァルトは三男が病死した直後で失意のなかにあり、一時ウィーンを離れたい気持になっていて、プラハからの話は渡りに船の申し出だった。

まもなくプラハにやってきたモーツァルトは「フィガロの結婚」のリハーサルと新作オペラに取り組む。そこへ現れたのが「フィガロ」でケルビーノ役を務めるスザンナで、彼女は両親からサロカ男爵と結婚するよう言い渡されていたが自身は気が進んでいない。

惹かれあうモーツァルトとスザンナ、彼女に結婚を迫るサロカ男爵。多くの女性を犠牲にしてきた男爵の実像を知らないまま結婚話を進めるスザンナの両親。そんななかでモーツァルトは新作「ドン・ジョヴァンニ」の着想を得る。こうして愛と嫉妬と陰謀の恋愛劇と新作オペラとは互いに関係しあいながら結末へと進む。

監督と脚本を担当したジョン・スティーブンソンは、ウィーンではさほどの人気とはならなかった「フィガロの結婚」がプラハでの公演をきっかけに高く評価され、それをうけ同地で「ドン・ジョヴァンニ」がモーツァルトの指揮で初演されたという史実のなかに、恋愛劇を想像し、名作オペラ誕生の秘話を創造した。

原題は「Interlude in Prague」(プラハの幕間)。ウィーンでの生活の幕間としてプラハにやって来たモーツァルトの体験は、史実の幕間に挿し込まれた物語でもある。着想と想像と創造、いずれも秀逸というほかない。ミロス・フオァマン監督「アマデウス」に比肩される新たなモーツァルト映画を讃えたい。

なおモーツァルトは一七五六年一月二十七日生まれだからこの作品が製作された昨年二0一六年はかれの生誕二百六十年にあたる。

(十二月七日ヒューマントラストシネマ有楽町

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ことしは「ハイドリヒを撃て」ならびに「プラハのモーツァルト」とプラハを舞台とする秀作に接することができた。いずれも、一食ぬいてもぜひご鑑賞をおすすめしたい作品だ。わたしはプラハもモーツァルトも大好きだが、そのことで映画を評価する目が曇ったとは思っていないから、念のためいっておきます。

2017-12-13

国民革命忠烈祠(2015初夏台湾 其ノ十)

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台北市中山区剣潭山にある国民革命忠烈祠。一九六九年、日本統治時代に台湾護国神社があった場所に創建された。辛亥革命中華民国の建国発展に尽くして犠牲となった烈士や日中戦争などにおいて戦没した英霊を祀る祠で、一般には忠烈祠として知られている。一九九0年代以降は殉職した警察官や消防士たちも祀られるようになった。

陸海空軍より選抜された兵士が儀仗兵として詰めており、一時間ごとに行われる衛兵交代のセレモニーが訪れた人たちの目を引く。その資格だが175-95cm、体重65kg+−1kgが条件で、さらに厳しい訓練に合格してはじめて就くことができる。

ステータスは相当に高く、現地の女性ガイドさんは「忠烈祠の儀仗兵もしくはその経験者とのお見合い話があれば、相手の女性は無条件で承諾すると思いますね」と語っていた。

2017-12-10

小津とチェーホフ

海外に出たときは気分を変えてこれまでご縁のなかった人の著作に接してみようと、十月にトルコを旅しているあいだチェーホフを読んだ。名前だけ知る人だが、開高健がえらく推奨していて気にはなっていた。

まずは中原俊監督「櫻の園」からの連想で『桜の園・プロポーズ・熊』次いで『ワーニャ伯父さん・三人姉妹』(ともに浦雅春訳、光文社古典新訳文庫)を読んでみたが『桜の園』から太宰治斜陽』を連想し、短篇のユーモアに微苦笑したりはしたものの諸家が礼讃し称揚するほどにはいまひとつピンとこなかった。

さてこれからさきチェーホフとのおつきあいをどうするか?

ゲイジュツに弱いわたしにチェーホフはご縁のない人だったと断念する、いますこしねばって再読また未読の作品にチャレンジする、あるいは読書の指針として作家論、作品論にあたるという三択である。

さあどうしようと考えながら『ワーニャ伯父さん・三人姉妹』の訳者あとがきを読んでいるとそこに小津安二郎とチェーホフに関して思いもよらない指摘があった。すなわち、「秋刀魚の味」で佐田啓二がふてくされて寝転がって煙草をふかしている背後の本棚にそのころ出版された中央公論社版『チェーホフ全集』が収まっている、また『秋日和』では、嫁いでいく娘(司葉子)と母親(原節子)が旅の宿で、そっと『チェーホフ全集』の一冊を開いている。(文字では確認できないが下の写真の一連の赤い背表紙の本がチェーホフ全集)

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小津と西洋文学との関係については「麦秋」で『チボー家の人々』が話題になっていたのを知るくらいなので小津とチェーホフとの接点は寝耳に水の話題だった。

さらに浦氏のあとがきには、「東京物語」で妻をなくした笠智衆がぽつりと語る「ああ、きれいな夜明けじゃった」「きょうも暑うなるぞ……」といったせりふなど、まったくチェーホフ的で、言いしれぬ不安をこころにかかえた人間は天候のことや、日常の瑣末なことがらしか口にできない、小津映画にはチェーホフ的な台詞が多いとある。

じつはチェーホフ断念のほうへ傾きかけていたけれど、こうなると小津ファンを自認する者としてその選択はできない。するとおかしなもので「年をとる、肥る、焼きがまわる。昼、そしてよる、ーあっという間に一昼夜、人生はただもやもやと、なんの感銘もなく過ぎていく」といった「イオーヌイチ」(神西清訳)の一節が小津に通じる水流とみえてくる。

おなじく「イオーヌイチ」で、自分が書いた小説を朗読している地方の名望家の夫人についてスアールツェフ医師が「無能だというのは、小説の書けない人のことではない、書き手もそのことが隠せない人のことなのだ」と口にする。即座にわたしは自分のブログをいわれている気がしてドキッとした。

いっぽう小津は、高橋貞二が外車で撮影所入りするのをみて、「松竹はいつから八百屋になったんだい。ダイコンが車で来たじゃないか」と言ったとか。

こころに食い入る寸鉄とユーモアを具えた点でも小津とチェーホフは通じているようだ。

2017-12-08

ブルガリアの喫茶店の片隅で

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十一月二十九日から十二月六日にかけてルーマニアとブルガリアを旅した。ともにはじめての地だ。

成田空港からイスタンブール経由でルーマニアの首都ブカレストへ。この国ではブカレスト、ブラショフ、プレジュメール、シギショアラ、ブランを訪れ、ついでバスでブルガリアへ入り、ルセ、イワノヴォ、ベリコタルノボ、ソフィア、リラ、ボヤナを廻り、ソフィアからイスタンブール経由で成田空港へ戻った。

このかん青空はほとんどなく曇天と細雨の日がつづいた。さいわいコートのフードをかぶるだけで傘を広げることはなかったけれど、両国ともこの季節はこうした天候がふつうとのことだった。そのため旅行者はすくなく余裕の見学だった。催行した旅行社の担当者はわたしたちの団がことしこの地域への最後のツアーと話していた。

自身の足跡として旅の記録をまとめておかなければならないが、足の運びに原稿を書く手が追いつかない。ぼちぼち勉強しながら書いていきます。

写真はブルガリアの古都琴欧州の出身地としても知られるベリコタルノボの喫茶店で撮ったもので、今回の旅のお気に入りの一枚。椅子に座ると松島詩子が歌った名曲「喫茶店の片隅で」(作詞:矢野亮、作曲:中野忠晴)が浮かび、いつもあなたと逢ったのはアカシア並木の黄昏に淡い灯がつく喫茶店、あの歌詞にある喫茶店はこんな感じじゃなかったかしらと想像しながら珈琲を飲んでいた。

2017-11-28

中正記念堂の庭園で(2015初夏台湾 其ノ九)

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一九七六年の中国の旅で、上海に泊まったのが錦江飯店というホテルだった。准海路から入った市内の中心地にある当地随一のクラシックホテルで、現地の通訳の方から「日中国交正常化のために訪中された田中角栄先生もここに滞在されました」と説明を受けたときはすこしばかりおどろいた。いま中国を旅しても北京飯店や錦江飯店はわたしには高嶺の花以上の存在だろう。

一九七二年九月二十九日田中角栄、周恩来首相が「日中共同声明」に署名、調印した。その前年の十月には中華人民共和国政府国連に加盟し、台湾は残留する道もあったがみずから去った。わたしは主に中国政治とその関連で中国語を学習する大学生だった。その頃、中国文学者の竹内好が、自分が野党議員なら、中華民国政権を中国唯一の正統政府としてきた日本はどうして台湾政府とともに国連総会場を退場しなかったのか、わが日本には国際連盟を脱退した輝かしい歴史があるではないかと質問する、と言っていたのを思い出す。